加藤文元先生の「数学の想像力~正しさの深層に何があるのか~」<神なき>時代における内的確信を掴むヒントとは??

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「数学の想像力~正しさの深層に何があるのか~」

数学者の加藤文元先生が、<神なき>時代における

真理の正しさの根拠について、数学史探究とともに

分析考察されています。

21世紀現在には、いわゆる<絶対的>真理など

ほぼ崩れ去ったと、学問的には解されています。

一方で、世俗的世界では、

その不安定感に耐えられず、わかりやすさの前に

立ち往生するかの現状にあります。

今回は、この本をご紹介します。

「数学の想像力~正しさの深層に何があるのか~」     (加藤文元著、筑摩選書、2013年)

加藤文元先生(以下、著者)は、

代数幾何学数論幾何学などをご専門分野とされながら、

「数学における<正しさ>とは何か??」について、

美的観点からも探究されてこられた数学者です。

いわば、「人間と数学」をテーマに、

「数学的世界観」を構築しようと奮闘されてこられたと

いいます。

著書には、『数学する精神~正しさの創造、美しさの発見~』

(中公新書、2007年)

『物語 数学の歴史~正しさへの挑戦』(同上、2009年)などが

あります。

本書では、「数学は音楽と似ている」という感覚から、

著者の「正しさ」の深層へと向けられた数学的発見が、

次々と、展開されていきます。

数学も音楽も一定のリズムと変化を併せ持った人間的営みであり、

各人各様の美的意識(世界観)が色濃く反映された知的営みであります。

さて、数学という学問に対する一般的イメージには、

「厳密さ」といった堅固な揺るぎなき力強さがあり、

簡単には、崩れ去らないかのような強固な世界像があるようですが、

意外にも、その「正しさ」の根拠という観点からは、

一見して明確ではないところもあるようです。

数学は、大きくは、<自然科学>の一部門に属している学問ですが、

他の科学的自然観や学問的方法論とも大きく異なる接近法が、

この学問には、採用されてきたといいます。

数学には、人間が、次々に生み出す矛盾対立点からの

衝突回避を経て、調和の美しさという均衡へと向けられた「深淵」が、

横たわっている事象を厳しく見据える独特の美学があります。

しかし、その「深淵」こそが、自由への道の端緒だともいいます。

「今、数学は、何に役立つのか??」に、

幅広い注目が集まっているようです。

なぜなら、数学ほど、人間の知的限界に挑戦しながらも、

互いに矛盾衝突する世界観の<衝撃波>を回避しようと、

人類が、懸命に取り組んできた知的営みもないものと

思われるからです。

数学にも、各人各様の<世界観=価値観>が反映されていると

考えられてはいますが、<社会科学>とは異なり、

厳格なルールでもって、<この世>の奥深い部分に

隠された「共通項」を求め合おうとする志向性が強い学問であります。

21世紀現在、世界では、20世紀において、

人類が経験した未曾有の歴史的教訓が、

軽視されてきているように憂慮される今だからこそ、

各人各様の世界観の奥底に潜む「正しさ」の根拠を問い直す方法論が強く待望されています。

とはいえ、その「正しさ」には、「偏見」や「高慢」といった

不純物が含まれない知恵と工夫が厳しく要求されます。

ということで、本書から、数学史を通じた人類の世界観構築の軌跡を

皆さんとともに再確認していくことで、世俗的世界観の<低>次元にとどまらない

<高次>意識を育みながら、万類協和の道を実現させていくヒントを探ろうと、

この本を取り上げさせて頂きました。

「数学は、独立精神を養うのに最適な学問!!」

その<独立精神>にも、互いに矛盾衝突しない「公理」体系という

「制約」が付きまといます。

「矛盾は、矛盾としても、互いの重なり合う<共通項=接点>での

邂逅こそ、大切にしたいものです・・・」

その意味では、数学が示唆する「集合論」の考え方も有益な視点を

与えてくれることでしょう。

「目に見えない」無限に対する恐怖感を回避するべく展開してきた「西洋」数学史

ところで、本書もまた、前回ご紹介させて頂いた

『数学は世界を変える』におけると同様の問題意識が

底流にありますが、上記著書をさらに深く掘り下げた

数学「史」から見た人類の世界観の創造過程が、

詳細に解説されています。

とはいえ、本書もまた、前回同様、

難解な数式は、極力抑えられているため、

「文系」の方にも安心して、お読み頂ける内容になっています。

本書には、途中、説明の便宜上から、

面倒で取っ付きにくい「証明」過程が、

詳細に展開される章もありますが、

まずは、おおざっぱにでも、

内容を理解されることに集中されることをお勧めさせて頂きます。

とりわけ、哲学的な観点から、「正しさ」の根拠を確認していく旅に

ご興味関心ある「文系」の方にとっては、

「数学」的観点からは、どのようにして、より正しい(美しい)世界観へと

辿り着こうとしていったのかに注意されながら、

ご一読されると、

また、文系的視点とは違った面白い視点も

得られるのではないかと思われます。

本書の主旋律は、『論理=流れ』であり、

「流れ」とは、『<始まり>と<中間>と<終わり>を持った一つのユニット』

(本書21頁ご参照)にあります。

それでは、本書の内容構成の要約です。

①「第1章 背理法の音楽」

※本章では、数学と音楽の「流れ=証明過程」における類似性を

観察する視点から、<真理>に接近していく「証明法」が紹介されています。

とはいえ、<真理>そのものを直接的に証明することは困難であります。

そこで、数学的証明法の一つとして、間接的に「裏」から迫ろうとする

背理法の特徴について解説されています。

この背理法は、皆さんも、初等中等義務教育段階での

数学学習課程で学ばれたことと思いますが、

「否定」から入っていく証明法であるため、

わかりづらい性格があります。

背理法の特徴を、著者の表現をお借りして要約させて頂くと、

・時系列が逆転していること

・ノープランで出発できること

・推論過程が完全なる虚構であること

・仮定を後出しできること

(本書35頁)

にあるとされています。

つまり、前提(自明)を用いずに、

いきなり、証明過程に立ち入ることが叶うため、

最初の<つまずき=誤解の上に誤解を重ねてしまう誤謬性>を

未然に回避し得るメリットがあります。

この意味で、背理法とは、『虚構を介した正しさ』であり、

『様式化された正しさ』(本書35頁)だといいます。

ここから、人類の「未知」の世界へ向けられた探究法が開けていきます。

「<真理>とは、何か??」という問いには、

各人各様の世界観(価値観)が含まれているために、

「これだ!!」と絶対的に断定することなど不可能ですが、

人間なら誰しも、自ら生きる世界に「正解」を見出したいと

願うのではないでしょうか?

学問とは、永遠に解けぬ、そんな「未知」に潜む謎を解く

知的営みですが、生きている間に解けぬ謎だからこそ、

「運命」にも似た性格があります。

著者は、ここから、「人間と数学」(本書38~40頁)を

主要テーマに据えながら、数学に対する一般的イメージを

覆す斬新な思索を展開していくことになります。

ある意味では、数学とは、もっとも人間らしい学問なのかもしれませんね。

②「第2章 見よ!」

※古代ギリシャ的世界観では、直接「見る」ことから、

幾何学を主軸とした数学的思考法が展開されていったようです。

プラトンの「イデア論」なども、そうしたある種の素朴実在観

基づく見方が大前提になっていたようです。

しかし、こうした見方には、常に、「限界」も付きまといます。

なぜなら、同じ世界観を共有していないと、

<信じる>ことも出来ないからです。

今、<信じる>と表現しましたが、

意外にも、普遍的とされる数学的世界にも、

信仰的要素が介在しているようです。

こうなってくると、同じ世界観を共有しない人間にとっては、

<真理>など存在するのか否かすら懐疑的になっていきます。

そこで、以後の数学者は、さらなる普遍的イメージ像造りを巡って、

「正しさ」を確信させる方法について、工夫考案していくことになります。

本章では、この『正しさの認識における三要素』が提出されています。

・「基盤」-共通の世界に住み、共通の言語を話すという前提

・「流れ」-修辞的論証・対話や、計算・計算手順などの論理過程

・「決済」-議論の落としどころ、往々にして直感的

(本書63頁)だと。

ここまでは、直接「見る・見せる」という観点からの

<真理>へと近づく「証明」技法でしたが、

数学が構築していった「正しさを確信させるための方法」は、

何も「証明」だけには限りません。

本書では、以下の各章にて、古今東西の文化的視点からの

数学観の比較考察が詳細に紹介されていくのですが、

「西洋(ギリシャ的古典数学観)」では、

このような直観把握型「幾何学的証明法」の伝統が

長く続いてきたようです。

「数」との直接接点は、

意外にも、新しかった背景事情も描かれています。

③「第3章 数を観る」

※本章では、「西洋」から離れつつ、

インドやイスラム数学の世界観から、

「代数学」(つまり、『数を観る(観察する)』視点)による

「正しさを確信させるための方法」が紹介されています。

その一つとして、日本の江戸期に盛んだったとされる

いわゆる「和算」も紹介されています。

著名な「和算」学者に、関孝和やその弟子建部賢弘(ちなみに、

江戸期における「和算」興隆の気風は、絵馬などにその解法や問題を書いた

算額>を奉納するなどの習慣に見られます。

関西の方であれば、奈良の「<北>山辺の道」沿いにある弘仁寺にて

奉納された算額を拝見させて頂くことが出来ますので、

是非、この秋のハイキングのついでにでも、立ち寄って、

江戸期の人びとが、数学に想いを寄せた心意気を感じ取って

頂ければ・・・と思います。)

④「第4章 儀式としての証明」

※本章では、前にもご紹介させて頂いた

ピタゴラス(や、その学派)についての紹介記事を中心に、

その後の「西洋」数学が、「見る」を排除していった過程が

詳細に解説されています。

「幾何学(見る・見せる)」に「代数学(観る)」へと接近していくも、

先にも触れましたように、「代数学」的視点は、

あくまで、「西洋」数学の世界では、

長らく、「幾何学的証明」の補助手段でありました。

ここには、どのようにすれば、人びとの間で共有し得る

共通の世界基盤を構築出来るかが問題意識として設定されています。

詳細は、本章の『議論の形式化』(本書94~99頁)や

『ギリシャ的明証性の根底にあるもの』(本書115~118頁)のテーマにて、

ご確認頂けますが、可能な限りでの独断と偏見を生み出す「見る」ことによる

強烈な思い込み(誤謬)を回避するための方法論が模索されていく様子が

読み取れます。

とはいえ、その普遍志向の根底にも、「信仰への導き」も存在していたようで、

この「信仰」を巡る世界観(数学的モデル像=「公理」体系)の「差異」が、

現代に至るまで、数学的世界観の形成に多大な影響を及ぼしてきたと

いいます。

つまり、もはや、『「暗黙」の前提や「自明」など存在しない!!』とする

共通ルールの設定へ向けた取り組みが、非ユークリッド幾何学的世界観を

始めとする「数学革命」を経た後の現代数学のお約束事のようですね。

⑤「第5章 見えない正しさ」

⑥「第6章 無限に対する恐怖」

⑦「第7章 無限の回避」

※第5章から第7章では、古代ギリシャにおいて、

すでに、ピタゴラスも発見していた「無理数(ルート数)」に対する

畏怖感から、直接「見て」、その「正しさ」の深層を確認し得ないことから、

幾何学(図形)を用いた明示的証明法を回避する手段として、

先にも触れさせて頂きました間接的証明法(著者の表現では、<非図解的明証性>)

の代表例である「背理法」が、大きな役割を果たしてきたことが

解説されています。

ここから、ある意味での「限定(制約)」された枠組み内における

「様式化された正しさ」成立の過程が解き明かされていきます。

以後、現代に至るまで、「西洋」では、この「無限」に対する恐怖感との

闘いの連続だったようですが、この「無限」に対する直接的「計算不可能性」から

『計算を証明で置き換えた』(本書214頁)道を辿ることになったようです。

このあたりの心理的背景事情が、古代ギリシャにおいて、

微積分学が発見されなかった要因だったのではないかとも、

著者は考えられています。

⑧「第8章 伝統のブレンド」

⑨「第9章 無限小算術」

第8章から第9章こそ、本書の優れた考察点だと、

管理人は感じていますが、

この数学「史」を比較考察する地点から、

東西交流の再開が始まるのではないかと思われます。

ことに、「イスラム(アラビア)数学」を仲介者とした

古代インドの「ゼロと∞」などを始めとする「東洋」数学と

古代ギリシャ以来の「西洋」数学の「邂逅」の意義を

詳細に捉え直す視点を獲得することで、

数学「史」における一大「跳躍」点となるばかりではなく、

世俗的世界観における根本的見方も「改善」していくのではないかと

期待しています。

「世界平和」へ向けた叙事詩としても、

数学「史」を通じた人類の精神史の軌跡を再発見していくことは、

大いに有意義なことだと確信しています。

また、第9章では、主に、「無限小算術」法としての微積分法に

焦点が当てられていますが、その「形式」的な「正しさ」の点では、

一定レベルでの知的クリアが叶ったとしても、

なお残る、極めて「人間らしい」疑問も残されているようです。

それが、前にもご紹介させて頂いたバークリー司教による

<信仰的懐疑>の問題意識でした。

どうやら、人間は、「形式」だけでは、満足出来ないようです。

実質的な「内面」の価値観(つまり、「信仰!!」です。)にまで

至る共通項を目指そうとするなら、どこかで矛盾衝突も起きてくることでしょう。

管理人が、数学のみならず、様々な学問を学んできた過程や、

世俗的世界との日々の触れ合いの過程でも憂慮する点が、

ここにあります。

『<内的価値観>を胸の内に秘めつつ、<外的価値観>との対立衝突を

未然に回避するための知恵と工夫とは・・・』

管理人も、日々、人間世界を取り巻く、種種雑多な人間的価値観の

狭間で苦心していますが、「正解」が何一つ見つかっていない点では、

悩める「人間」の一人であります。

哲学者カントも、このような問題意識でもって、

生涯を求道的な生き方で貫かれたそうで、

また、数学における「微積分学」に対する人類史における功績も

大きいとも言われていますが、「無限に連なる<夜空の星々>」を

「内なる」世界へと納める精神志向を持っていたといいます。

そうしたカント的視点が、後の「微積分学」の萌芽ともなり、

ニュートンやライプニッツにも受け継がれていったともいいます。

バークリー司教は、もちろん、その「司教」的立場から、

宗教者ではありますが、

こと、哲学的厳密さを追究する点では、

「信仰」に曖昧さを持ち込むことに慎重だったようです。

つまり、「信仰」についても、単なる「盲目的崇拝」だけで

納得というわけにはいかなかったようです。

むしろ、「宗教」と「哲学」の接点を絶えず意識してきたからこそ、

当時の数学的論証過程の明確性に不透明さを嗅ぎ付けたのかもしれません。

この視点は、ヒルベルト以来の徹底した「公理主義」といった

「形式的数学観」に対する警告としても、

謙虚に受け止めていく必要があるでしょう。

⑩「第10章 西洋科学的精神」

著者も、そんな問題意識から、

数学的視点を介した「正しさ」に対する慎重さと謙虚さを

抱きつつ、学び続ける姿勢を提唱されています。

現代数学は、それ自体、その土台が、「無根拠」かもしれないことを

自覚しながらも、一貫して「矛盾」なき世界観(モデル)を構築しようと

してきたようです。

その点では、「数学は、まさしく、自由だ!!」とも言えましょう。

つまり、自然界に「隠れた変数」を見出すことから、

新たに創り出す数学観へと変化してきたようです。

「対象を<作る>」(本書291~293頁)のだと・・・

その数学的発見法の精神過程は、「理性と信仰」(本書293~296頁)の

緊張関係の狭間にあります。

ここに、誇張ではなく、

「数学とは、人間だけにとどまらない、神々と接する学問でもある!!」という

視界が開けてくるようです。

あの難しい数式の羅列の背景には、

こんな崇高かつ神秘的な世界観が秘められていたのだと知れば、

一見、形式的で無味乾燥に思われる数学にも興味関心が湧いてこようと

思われませんか?

読者の方々にも、是非、「あの世」へと飛翔される前に、

「この世」にて、数学の魅力を「再発見」して頂けると、

本書ご紹介の趣旨も叶うというものです。

ゼロと∞をも包含する「空」集合理論へと飛翔していこうとする「東洋」数学史

さて、今回も、数学的世界の魅力をご紹介させて頂きましたが、

最後に、「東洋」数学史から得られる

今後の人類精神に与えるであろう影響力について、

少しだけ触れておくことにしましょう。

それは、「西洋」数学が忌避し続けてきた

「無限(無限小ないし無限大=∞)」や

「虚無(0)」に対する「肯定的」再評価の視点であります。

言うまでもなく、人間は、「有限」な存在であるため、

「無限」な存在に対する「想像力」を働かせるには、

常に「<知的>限界」が伴います。

それが、「理性」や「信仰」といった「知的営み」に

比重を置いてきた「西洋」的身体感覚の「極北=限界点」にも

当たってきたのでしょう。

とはいえ、「西洋」と一口に語っても、多種多様で多元的世界観に

満ち溢れているため、

このように、安易な「極北=限界点」と表現すること自体、

「知的傲慢さ(誤謬と偏見)」に他なりません。

こうした「<知的>限界」から抜け出し、

人類を含めた万類共尊の明るい未来を引き寄せるためには、

「どうすれば、その目標に達することが叶うのでしょうか??」

この「問い」は、管理人を含め、

すべての人類に課せられた「宿題」であります。

もはや、人類同士が、小さな次元で争っている暇などありません。

それぞれの文化的差異の長所を相互補完し合うところから、

「再起動」を始めるしかありません。

そうです。

「相補性の原理」の活用です。

そのことが、本書において紹介されています東西数学交流史を

読み進められていきますと、自ずと得心されることと思われます。

数学を学ぶメリットは、「次元」を高めることが叶う点にあります。

「世俗的世界観」から「超俗的世界観」へと飛翔するきっかけが、

数学的思考法には、秘められています。

それは、「矛盾」なき「美的探究」でもあります。

とはいえ、その「矛盾」なき「美的探究」は、

「唯一」でなくても構いませんし、

無理に、「唯一性」を持ち込もうとすると、

現代数学の「形式性」自体が、「イデオロギー化」してしまいかねません。

数学は、他の学問とは異なり、価値観からは離れた自由な世界像の中にあると

一般にはイメージされていますが、著者が、本書で、解析されてこられたように、

数学にも、「価値観」が含まれていることは、

決して、忘れてはならない大前提条件であります。

そこで、管理人が、先に語らせて頂きました「問い」にあった

『<内的価値観>を胸の内に秘めつつ、<外的価値観>との対立衝突を

回避するための知恵と工夫とは・・・』に再度立ち戻りますが、

著者も、本書にて、この問題意識を最後に強調されておられます。

それが、『「内的整合性という客観的な規準への信仰」が、

現代的な<信仰>の姿なのである。』(本書295頁)だとのことですが、

言うまでもなく、この『「内的整合性」という規準は原理的に立証不可能なもの』

(本書296頁)であります。

未だ、人類は、この地点を乗り越えられずにいます。

ですから、本書の結論は、著者の問題意識でもあった

『第1章最後の問い「数学が正しい根拠は何か?」に、

まだ我々は答えられていない。まだまだ我々は数学の<正しさ>における

「理性と信仰」という両義性を乗り越えられてはいないのである。』

(本書296頁)という知的教訓に「自覚的」かつ「謙虚」で

なくてはならないということにあります。

この知的感覚に十二分に注意を払いながら、

日々の人生も過ごしていくことが、少しでも、「調和点」へと辿り着く

一歩となっていくことでしょう。

かく言う管理人自身も、「未熟者」ですが、

「美しさ」に惹かれる身としては、

今後とも、少しでも、この「極北」へと近づくべく、

皆さんとともに、精進して参りたいと心より願っています。

ということで、皆さんにも、本書から、数学を通じた美的探究の旅、

なかんずく、「愛」を実感すべく、数学的世界観への招待状として

お届けさせて頂きますとともに、

是非、今一度、人類の築き上げてきた「数学的」精神史を

紐解いて頂きたく、ご一読されることをお薦めさせて頂きます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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One Response to “加藤文元先生の「数学の想像力~正しさの深層に何があるのか~」<神なき>時代における内的確信を掴むヒントとは??”

  1. 1729 akayama より:

     「意識をめぐる冒険」クリストフ・コッホ著土谷尚嗣・小畑文哉訳の
      ≪宗教のなかで、学術的にも倫理的にも私が最も惹かれるのは、仏教のある宗派の考え方だ。≫
           とある。
     因陀羅の網の【ポエジイ】を「宇宙が教える人生の方程式」佐治晴夫著の
      ≪平面に格子を描きその結節点を消去してもそのモノを認知できる。[ある][ない]を同時に含む視点が空(シュニャータ) です。≫
           とある。
    フッサールの現象学からとる「事象そのものへ」池田晶子著の
    ≪・・・「在る」と「ない」との両極を一挙に見据える意識の力・・・それを語ることができないのは、「在る」と「ない」とを、「わかる」と「わからない」とを、同時に語ることばがないからだ。≫
         との二つの言説([ある][ない])を数学の観念で捉える。

    すると、「絶対数学の世界 リーマン予想・ラングランズ予想・佐藤予想」黒川信重著の
      ≪[零点原理]・・・すべてのものは零点に吸い込まれて再生する。≫
          ということは、『自然比矩形』で観得てくる。
     数理哲学としての作用素(0 1 ∞)が、『自然比矩形』に内蔵され[点][線][面]が渾然一体と認知できる。面は見えるがその境界は、釈然としない。これが連続性の数学的な観念の数学的弁証法と捉えるアウフヘーベンと見る。
     【数そのもの】を「「福岡伸一、西田哲学をよむ 生命をめぐる思索の旅 動的平衡と絶対矛盾的自己同一」池田善昭・福岡伸一著を上梓した福岡伸一先生の
      ≪現在を点でなく、未来と過去を同時に含んだ空間として考えることができる。≫
      の言説は、【数そのもの】を生命≪カシミールエネルギー≫を有つとも見える。

     方程式から出た虚数(動的作用素)は、【空間構造i】
    [点][線][面]から捨象されたのは、【計量構造e】
     西洋数学の成果の平面座標から極座標へは、【循環構造π】
            と掴むことができ【数そのもの】が、これらを内包し        ているように見える。

     人類が宇宙に【生かされている】というのは、【環世界】的に【時空を統一する四次元の世界】を『数学の風景』として【閉じた体系】で見ることが出来る様に生って来ているということか・・・。
     言語の世界での数学的弁証法と捉えるアウフヘーベンの【量化】される言葉の対句は、

     秩序(コスモス)     混沌(カオス)
      概念(イデア)        言葉(ロゴス)       【二階述語論理】     【数学的弁証法】(自己組織化)
      『数の命』        【離散】と【連続】の【双対】
       【算術】          【有限】
       【数学】          【無限】 
       【次元】          【濃度】

              などを列挙する。

     「社会を変える驚きの数学」合原一幸編で広中平祐先生は、
        ≪数学という学問の大黒柱は、[数]「形」「動き」・・・数学の使命が「無限大(心象風景)」と「有限(機械世界)」の橋渡し・・・人間の頭で考えられることは無限・・・「無限大の有限化」が数学の社会的ミッション・・・すべての科学にとっての「安心感の原点」「精神的な支え」が数学にある。≫
                      と記している。
     自然科学に数学を使うときはこの状況でよいが、社会科学での適用では注意しなければならない。
     なぜなら、SNSに
      ≪『数学人』と自然科学や社会科学に携わる『科学人』が現象を等式で考察する時、『数学人』のは、理性であり、『科学人』のは、量化であると思惟する。≫
                     と漂流しているのがある。
     「人間の建設」小林秀雄・岡潔著に岡潔の
           ≪理性はまったく純粋な意味で知らないものを知ることはできない。理性のなかを泳いでいる魚は、自分が泳いでいるということがわからない。≫
                       とある。
     【数そのもの】は、この魚とも見える。 社会科学でのこの魚の泳ぎが理性になるのかな?

     「なめらかな社会とその敵 PICSY・分人民主主義・構成的社会契約論」鈴木健著の
          ≪互酬性原理≫    ≪シグモイド関数≫
                         の記述がある。
     ≪互酬性原理≫は、【計量構造e】と【空間構造i】を揺籃したと見る。
    ≪シグモイド関数≫は、オイラー等式( exp[iπ] )と『自然比矩形』とから反比例曲線の平面座標(1,1)で折り返す『数のロジスティクス曲線』と見る。
     そうすると数直線は、この『数のロジスティクス曲線』を内包していると見える。
     先の一・二・三・四次元のコスモス表示の【1】は、カオス表示の言葉では、
     【一次元】    『創発エネルギー』
     【二次元】    【積分表示の1(カオスを抱え込む)】 
     【三次元】    『創発立方体数(アーベル数)(数の核)   (ジャーゴン)(形態空間)』
    【四次元】    【形態空間】の【容量】と【ホログラフィック係数】の保存則・系に
    連続的な対称性(双対性)のエミー・ネーターの数学版と見る。
               特に、 (e-2)を『創発係数』 
                   (e-1)/(e-2)を【ホログラフィック係数】
                と呼ぼう。

    数学共同体の呈示する自然数【0 1 2 3 ・・・】は、数学の現象学の俯瞰的な高次元からの落とし込みの縮約(縮退)自然数(カオスを抱え込む)と見てとれる。

     
    「空海の風景」司馬遼太郎著の
      ≪一はすなわち一切であり、一切はすなわち一である≫
      ≪一切は零であり零は一切である≫ 
             とある。
     この風景は、【数そのもの】を動的にとらえている。
    文学の世界の「平家物語」「方丈記」など冒頭の言葉にも繋がる。

     「美しすぎる「数」の世界 「金子みすゞの詩」で語る数論」清水健一著なども・・・
       
    【意識】【理性】・・・【心】【魂】などなどを俯瞰的みる素朴な契機になろう。

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