マーク・トウェインの『人間とは何か』人工知能時代における人間<機械論>を見越した対話型人間批評論集!?
『人間とは何か』
『トム・ソーヤの冒険』などでお馴染みの
アメリカの作家マーク・トウェイン氏による
比較的珍しい部類に属する批評論考集。
マーク・トウェイン氏は、20世紀初頭に
すでに来るべきAI時代における人間像も予言していたようです。
本書では、AI(人工知能)という表現こそないものの
ある種の人間<機械論>が提出され、
人類の未来に一石を投じています。
今回は、この本をご紹介します。
『人間とは何か』(マーク・トウェイン著、大久保博訳、金原瑞人解説、角川文庫、2017年初版)
マーク・トウェイン(以下、著者)は、言わずと知れた
20世紀のアメリカを代表する文学作家であります。
日本においては、
『トム・ソーヤーの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』などの
児童文学を中心に広く普及しており、
皆さんも一度は著者の名前を耳にされたことがおありだと思います。
それぐらい日本でもお馴染みの作家なのですが、
その作品の背景となった著者自身の思想的価値観や批評眼、
また人生観・世界観などについては、
数ある英米文学の中でも著者のことを詳細に研究されたことが
ある方でない限り、あまり知られていないようですね。
管理人自身も本作品をきっかけに著者の人となりを
あらためて再確認するまではまったくといってよいほど、
幼少期の頃に読んだ上掲書に対する漠然とした印象記憶だけで
今回初めて著者の意外な「素顔」を知ることになりました。
また、特に管理人自身が著者に深い思い入れがあるのも
幼少期の上記作品に関する読書体験もさることながら
個人的にお世話になったことのある中学時代の塾の先生
(高校・大学も共通する先輩でもある)や
文学部の英米文学専攻だった友人知人などに
マーク・トウェインを研究テーマとしていた人が数多くいたことから
その知的談義を交わしたことのある思い出もあったからです。
今回の書評記事創作にあたってご参考にさせて頂いた
マーク・トウェインに関する最新研究成果についての
一般向け書籍もついでにここでご紹介しておくことにしますね。
・『マーク・トウェインはこう読め』
(和栗了著、柏書房、2016年第1刷)であります。
ちなみに、マーク・トウェインに関する研究会もいくつかありますが、
関西在住の方であれば、
『関西Mark Twainの会』という学術団体もあるようですよ。
そして、最新研究ではありませんが、
名著『ハックルベリー・フィンの冒険』を題材としながら
アメリカ社会において絶えず揺れ動いてきた文化的価値観の変遷などについて
分析考察されている優れたお手軽な「新書」としては、
・『ハックルベリー・フィンのアメリカ~「自由」はどこにあるか~』
(亀井俊介著、中公新書、2009年)も併せてご紹介しておきましょう。
ちなみに、管理人が学生時代から私淑させて頂いてきた
優れた英語教育者として敬愛させて頂いている先生の1人でもあります。
前にもご紹介させて頂いたこともある<知る人ぞ知る>
隠れた人気のある英語教育教材である
EA(イングリッシュ・アドベンチャー)社さんから出版されている
英語教材の解説者としても定評ある先生であります。
管理人も、このEA社さんのおかげで簡単なペーパーバックなら
何とか読みこなせる程度の英語読解能力を身につけさせて頂きましたので、
これから「簡単なペーパーバックくらいなら読みこなせる程度の
基礎英語力を身につけたいのだけれど、今ひとつ自分に合った
<程よく面白い>教材がなくて困ってるんだけど・・・」と
悩まれておられる読者さんの方がいらっしゃれば、
是非お薦めさせて頂きます。
教材も、小学校・中学校程度のレベルから本格レベルまで
段階別に無理なく学び進められる工夫がなされていますし、
内容も面白くて、有名女優さんなどがナレーションをしてくれますので
まるで映画やドラマを見ているかのように自然に集中していけるように
なっていますよ。
そうした宣伝はともかくとしまして、
今回なぜ管理人が本書と著者をご紹介させて頂いたかというところから
語り始めさせて頂くことにしますね。
まず、ここ数年で急激な勢いで議論されることの多くなった
人工知能(AI)時代における人間のあり方や人間像の転換などについて
「哲学的観点」からあらためて考えさせてくれる視点が
提供されていたことにあります。
本書では、人工知能(AI)という表現こそ出てこないものの
<人間機械論>を採用する著者自身の立場と思われる老人と
それに反論する若者の立場(ある種の<人間中心主義>を採用)から見た
人間観の相違点などが「対話」を通じて明らかにされていきます。
ことに老人による人間の機械的=機能的??側面
(ある種の現代版<人間機械論>)が提出されることで、
逆説的に「人間らしさとはどのような性格を指すものなのか」というような
人間存在における本質論へと読者自身を思考誘導させるような
良質な批評作品に仕立てられていると感じられたからです。
その対話から生み出されていくことになる幾つかの争点から
管理人自身が感じたこと・考えたことなどを後ほど項目を変えて
語らせて頂くことにします。
また、本書で展開される議論内容とは直接には関係しませんが、
著者自身が現代アメリカ文化・文明のあり方から進展して
ひいては現代文明全般の先行き像に至るまで
鋭く批評・予言された<批評家・予言者>でもあったということも
もっと多くの方々に知って頂きたいという願いからであります。
そうした問題意識を有していたことから現代作家にも
多大な影響力を及ぼしてきたといいます。
例えば、最近再び<没後10年>ということで脚光を浴びつつある
カート・ヴォネガット氏などです。
本書で採用されたような文体・表現形式などは
ある種の「思考実験」的小説の先駆的事例でもあることから
数多くのSF(サイエンス・フィクション)作家からも
絶大な評価がされているともいいます。
さらに、誠に興味深いことですが、
著者によって創作された作品には
現時点においても未公刊のものが多いようですし、
全作品が解読されたわけでもないというところにもあります。
というのも、著者自身が、何らかの意図で長らく(それも100年後の
未来を想定して)「封印」していたからだそうです。
上記『マーク・トウェインはこう読め』
(385~388頁:<100年後も生きている作家マーク・トウェイン>を
ご参照のこと。)によれば、
著作権問題に関連する話題など
今日でも通用する問題提起も残されていたといいます。
その他にも上記書籍からは教えられることが多々ありました。
特に、著者自身が、管理人とも共感し得るベンジャミン・フランクリンに
代表されるような<通俗的>『時は金なり』論に対する嫌悪感を
抱いていたらしいこと(上記書225~226頁)や
『「人間イコール金」の思想を超えて』(同上215~218頁)と
評価し得るような価値観を有していたことも興味深く思われたことでした。
著者自身は、ビジネス的には成功も失敗も積み重ねてきた作家だったようですが、
そのビジネスの厳しさにおける表裏一体面を自ら体験してきたからこそ、
そう簡単にはフランクリンのような価値観に馴染めなかったのかもしれませんね。
つまりは、「コツコツと努力を積み重ねていけば、自然に経済上も
有利かつ安定した生活が叶えられるとは必ずしも限らない!!」と強調することで
一般的に刷り込まれてきた楽観的な勤勉・勤労観に付着した
通俗的欺瞞像に対する物言えぬ者たちが抱いてきた憤怒の声を
各種作品を通じて、そっと代弁してくれていたようなのです。
そんなこともあってか、大変謎に満ちた魅力ある著者からは
今後もますます目が離せなさそうです。
ということで、今回は人工知能(AI)を横軸、人間を縦軸として
皆さんとともに『人間とは何か』を探究していこうという趣旨で
この本を取り上げさせて頂くことにしました。
とともに、久方ぶりの更新でもあり、お盆休みを利用しながら
旅の途上で考えていたことなどをテーマに
始めての本格的「紀行文」の試みもサービス企画しましたので
お気軽にお楽しみ頂ければ幸いであります。
人間は単なる外部作用によってのみ働かせられる機械なのだ (人間それ自身によって生み出されるものなど何一つない!?)
まずは、本書の章立てと簡単な要約をしておきますね。
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①「第1章 a.人間、それは単なる機械である
b.そのもの本体の利点」
②「第2章 人間のもつただ1つの衝動-
自分自身の賛成を得ること」
※本章で老人(著者であるマーク・トウェイン自身)によって
「人間は単なる機械である!?」との仮説命題が提示されます。
老人:『人間すなわち機械-人間とは、そのもの本体ではないエンジンなのだ。
たとえ人間がなんであろうと、それは、その人間の作りによるものだし、
さまざまな外的要素によるものなのだ。そしてその外的要素は、その
人間の遺伝物質、その人間の生育環境、その人間の交友関係などによって、
その作りにもたらされるものだ。人間を動かし、監督し、命令するのは、
外部からの影響力だ-ただそれだけ、なのだ。人間が自分で生み出すものは、
何ひとつない-ひとつの意見でさえも、ひとつの考えでさえも、
生み出すことはできないのだ。』(本書16~17頁)
誤解を恐れずに言い換えますと、
人間そのもの自身の内部から湧き出てくる「<独創的>創造物」によって
動き出すのではなく、外部からもたらされた様々な影響力(教育など)を
作用として受け、その受容を認知する「情動(衝動)」を触媒に
操作された「操り人形」のようなものだというわけです。
その「衝動」のみがエンジンとなるのであって、
その人自身によって独創的に<生み出された>思想=創造物が
その人自身を動かす原動力ではないとの見立てが示されていきます。
「精神」作用としては、第2章でもさらに繰り返し詳細に探究されるように
『自分自身の精神を満足させたい、という衝動さ-どうしても
自分自身の精神を満足させて、精神からその賛成を得なければならぬ、
という気持ちだな。』(本書30頁)
ということで、「心」ことに「良心」というものも
外部作用によって後天的に形成されるものらしく、
ただただ第4章で強調されるように『<自分自身の精神を満足させたい>から
そうするだけなのだ!!』とするきわめて「自己欲求」を主軸に据えた
<利己主義>的な観点から捉えられています。
その「良心」が正しい方向へ発達するか否かも
『ただ日々の「鍛錬」の力にあり!!』といったところのようですね。
まとめますと、人間も機械と同じく<被造物=必ずしも「神」概念を
持ち出す必要もないようですが・・・>であって、
「原理的」には後天的に「再」創造されていくものだとする考えのようです。
そうだとするならば、「先天的」な「内部」要素とは
一体全体いかなるものとして扱っているのかが不明になりますが、
著者自身によって老人に仮託させた仮説命題としては
そうした気質や遺伝的要素も「外部」から与えられた「外的要素」の中に
含まれるということになるようです。
このあたりが、一般的な人間理解と大きく隔たる見解のようです。
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③「第3章 適切な例証」
④「第4章 鍛錬」
⑤「第5章 機械について更にくわしく」
⑥「第6章 本能と思考」
⑦「結論」
※こうした一般的な疑問点(若者に代表させた見解)への
反論意見が第3章以下で補強説明されていくことになります。
このような人間的理解に対する老人と若者の相違点を踏まえると、
当然ながら本書における最大の争点は、第6章にあることになります。
つまりは、『「自由意志」が果たして人間には認められる余地が
あるのか否か?』という問題であります。
そのことが、
「第6章 本能と思考」の一節<自由意志>(本書168~175頁)で
示されています。
老人によると、「自由意志」など存在しない・・・
「意志」ではなく「(自由)選択」の問題だということになります。
その「選択」決定の動機も<自分自身の精神を満足させたい>とする
自己欲求に由来するものであり、
「心」が一般的に望ましく正しいものと評価される方向へと作動するにも、
日頃からどのような志向性でもって「鍛錬」してきたかが
唯一の分岐点だとのことです。
その「鍛錬」が効果的に働くか否かも、
当人の「気質」次第だといいます。
そして、<自分自身の精神を満足させたい>とする自己欲求=「欲望」も
物質的なものではなくて、精神的なものだけだとする点が強調されます。
ということは、著者(老人)自身は、デカルト流の身心「二元」論でもなく、
人間<機械>論から連想されるような「唯」物主義者でもなさそうです。
かといって、「心」は外部からの様々な影響力によって形成されていくものなので
単なる「唯」心論でもなさそうですね。
そうだとすれば、「心=脳=プログラミング」によって統合された
「人造??」人間・・・
「心=脳??」論と
人間と人工知能(AI)における決定的相違点を考えるうえでも
生き方のうえでも外せないと思われる「心脳」論などについては、
後ほどエッセー項目でも考えてみることにします。
とりあえずは先に進ませて頂きますね。
何やら訳の分からない結論へと至るようですが、
著者(老人)自身が提出した見解では、
『「気質」が好みを決定する-そして「気質」は生まれながらのものであって、
作られるものではないのだからな。』(本書189頁)ということで
ここに先程に語らせて頂いた要約とは異なる結論へと導かれたようです。
やはり、「先天的」な要素も人間を形成させるうえで重要な役割を
果たしているものだと。
とはいえ、疑問点も思い浮かんでくるのですが・・・
その「先天的」な気質と、外部要素の一部である「遺伝」や「環境」によって
「後天的」に『その<作り=気質もその一部か??>にもたらせるものだ』
(本書16~17頁)との先に引用させて頂いた文章内容との整合性ですが、
もともと「先天的」に有していた気質も「後天的」に
可変していくことは絶対的にあり得ないことなのでしょうか?
著者(老人)自身は、
『わしは自信をもって言うが、それは純然たる気質の問題なのだ。
信条は習得したものであって、気質は生まれたときから
もっているものなのだ。信条は変わることがあるが、気質は、
何をもってしても、それを変えることはできないのだ。』(本書202頁)
というように断固とした口調で言い張っているのですが・・・
このように本書を一読する限りでは、ところどころで
老人へ質問を投げかけた若者同様、
混乱させられる要素が多々ありますが、
人間が「後天的」に教育などによる外部要素から影響を受け、
ただ、その受けた要素によって現実に人間が「正しく」機能するか否かは
その人自身が有する「気質」次第だ・・・というところに
落ち着くようです。
結論的に言えば、「<信念>よりも<気質>が勝る!!」とのことで
そうとするならば、
人間にも教育によって更生し得る種族と更生し得ない種族が
存在するということにもなるようですが・・・
こうして読み進めてくると、
著者は、かなり「保守的」な見方に傾いてもいるようで、
ある種の人間には絶望感も抱いていたように感じられるのですが・・・
実際にはどうだったのでしょうか?
ともあれ、著者自身は解説者の視点(『人間と国と国民への批判と絶望で、
この書は幕を閉じる。』本書解説部215頁)との印象とは異なって、
必ずしも「絶望一辺倒」の見方を有していたわけでもなかったのでは
ないかとも思われてきます。
その片鱗は最末尾の文章に表れています。
『人類は陽気かね?
陽気だということは、きみにも分かっているはずだ。
人類が何に耐えられ、しかも幸福でいられるかということを考えれば、
きみはわしに過分の敬意をはらっているのだ、わしが人類の目の前に
明白な冷たい事実のシステムを置くことができると、
きみが考えるときにな。なぜならその事実は人類の陽気さを人類から
奪い去ることができるからだ。そんなことをすることのできるものは、
何ひとつない。あらゆるものがこれまで試されてきた。
だが、成功したことは一度もないのだ、だから、
どうか心配なぞしないでくれたまえ。』(本書204頁:
<注>赤字強調部分は管理人によるものです。)
このように本書の結論が指し示されると、
管理人の読後感では、
前にもご紹介させて頂きました三島由紀夫氏の小説『美しい星』でも
提示された問題意識とも共通するものが感じられました。
「絶望と希望は表裏一体!!」だと・・・
ですから、人類は、「絶望(悲観論)一辺倒」だけでも
「希望(楽観論)一辺倒」だけでも心地よく生き抜いてはいけない
そんな性質を有した生物のようだということを再確認しながら
また明日からの一歩をともに歩んでいこうではありませんか?
そんな力強いメッセージが、本書の裏側には秘められていたのだと
管理人などは感じています。
「何だか分かったようで分からないような・・・」
「腑に落ちませんなぁ~」
「まぁ、よいではありませんか・・・」
「無理に理屈づけて人間理解なぞせずとも・・・」
ということで、誤読の可能性もなきにしもあらずですが、
本書をご一読されることをお薦めさせて頂きながら、
皆さんによる多種多様なご意見・ご感想なども
お聞かせ願えれば喜ばしいかぎりであります。
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真夏の近江琵琶湖旅情編~テーマは「洗心」と「洗脳」の分岐点を考えよう!!~
それでは、長らくとお待たせしました。
お盆休みを利用しての旅行紀行文とその道中で
考えたこと・感じたことなどを徒然と語っていこうと思います。
皆さんの今後のご旅行予定やビジネス時におけるホテル探しなどにも
お役に立てれば幸いです。
旅行日程は、8月10日(木曜日=この日は仕事だったので夜遅く
京都入りして早めに就寝といってもすでに午前0時過ぎでしたが・・・)から
8月13日(日曜日=この日も午後17時から中坊(中学生)時代に通塾していた
友人知人・恩師らとの同窓会でしたので、早めに切り上げての出発でしたが、
彦根から大阪までは時間がかかりすぎて遅れて参加)の「3泊4日」の強行プランでした。
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<8月10日(1日目)>
京都滞在の折、経済的余力がある時には度々お世話になっている
京都祇園四条通りに面したサウナ&カプセルホテル『ルーマプラザ』さんに投宿。
京都はホテル稼働率も高く、せっかくのアパホテルカードも台無し(何せ首都圏とは
異なり、あまりにも強気の価格設定なので・・・)だし、贔屓にしている老舗旅館や
宿坊、スーパーホテルなども値段が高すぎたり、人気がありすぎて
予約が取りにくいのです・・・。
また最近は安全配慮上の理由から安価なネットカフェやゲストハウスも敬遠気味です。
そんな理由から程よいバランスが取れて清潔感溢れる(ここ数年間は、
京都宿泊予定もなく利用する機会もなかったのですが、
前職時代に利用させて頂いた頃よりもリニューアルオープンしたようで、
より静かな就寝環境になっていたので安心も出来ました。
まぁ、この感想は利用者にもよりますが・・・)『ルーマプラザ』さんには
度々お世話になっているのです。
ネット予約だと若干割引??で宿泊でき、朝食サービスも付いています。
特に、朝食メニューも充実しており、ちょっとしたビジネスホテル型の
バイキング形式でもあったことから、さらなる好感度アップでした。
ただ、ここは非常に残念なことですが、
現在のところ「完全男性限定」ですので、女性の方は宿泊することが出来ません。
ですので、女性の方向けのご参考サイトとして、
下記のサイトをご紹介しておきますね。
マッキーさんという方が運営されている『知って得する!お役立ちCLIP』と
いうサイトです。
とはいえ、『ルーマプラザ』さんは風呂も充実。
風呂好きの管理人にとっては有り難いです。
ちなみに、真の京都・奈良探索マニア??の方なら、
「銭湯(大衆浴場)」利用は旅行プランからは是非とも外せないところですね。
また京都には、最近では本好きにはたまらない<泊まれる本屋>がコンセプトの
『BOOK AND BED TOKYO』さんが運営する宿泊施設もあるようですよ。
現在はメディアなどでも取り上げられて、人気上昇中とも聞き及びます。
なので、なかなか予約も取れなさそうですが、
管理人も体験宿泊が叶い次第、読書好きの皆さんには
いずれの機会にかご報告・ご紹介できればと思っています。
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<8月11日(2日目)>
翌日は、5時半に起床。しばし風呂に浸り、早めの朝食。
朝食を取りながらも「世界陸上」をじっくりと観る暇もなく、
7時半過ぎには出発。
いつも祈願する「眼病に効く」という霊験あらたかな仲源寺さんと
これまた病気予防の神様で何でも屋??の素戔嗚尊様がご祭神の
祇園八坂社にお詣り(特に、管理人の崇敬する宗像三女神=弁天様を祀る
境内摂社の厳島社は工事中でお詣りできなかったので、女性の美肌効果に
霊験あらたかな美御前社に代参。)、道中無事祈願を済ませました。
その後、円山公園(その奥に秘かに鎮座まします円山弁財天さんも
管理人の敬愛する一遍上人や頼山陽先生、水戸烈士や平家一門、京仏師などが眠る
長楽寺さん同様、皆さんにもお薦めの穴場スポット<特にカップルやご夫婦、
歴女の皆さんなどにもお勧めです。特に、これから始まる秋の紅葉シーズンが
ベスト!!です。以前、関西の某テレビ局の番組内でお笑い芸人の「ますだおかだ」の
増田さんらがこの近辺を散策ロケされていたこともありましたが・・・>なのですが、
時間の都合上、心中で懺悔しつつ駆け抜ける。)から
知恩院・青蓮院をあわただしく駆け抜け、
粟田神社で再度祈願(彫刻刀を使うようになったので、
料理人同様に怪我予防祈願。また江戸時代にはここから東海道が始まりますので、
数多くの旅人が参拝したようですね。ちなみに、廃仏毀釈前の江戸期には
粟田社と青蓮院は一体化、かなりの広大な寺社域を有していたようです。
いつもお世話になっている生駒聖天こと宝山寺の中興の祖である
湛海和尚も若き日ここの聖天社で修行していたとか・・・
現在、アベノハルカス美術館で開催中の大和西大寺系の真言律宗にも
連なる優れた僧侶です。)させて頂きました。
ここから近道ルートを使って(隠れた穴場である京都の「お伊勢さん」こと
日向大神宮をはるかに遙拝しつつ・・・)、地下鉄東西線「蹴上」駅まで歩く。
祇園八坂社から参拝も兼ねて駆け足で30分~40分ほど。
ちょうど8時半前頃でした。
日頃の信心の成果??か、程よく電車が滑り込んできまして、
「山科」駅到着。
この「山科」駅でこの日のお目当てで初乗車のJR湖西線に乗り換えです。
ここから比叡坂本・雄琴など(ここらあたりも景色が素晴らしい。
近辺には、日吉大社や<天台真盛宗総本山>西教寺など多数の名所があります。
ちなみに、西教寺さんは、管理人の敬愛する聖徳太子さんや
明智光秀公ゆかりの寺でもあります。
特に<歴女さん>は必見!?です。
『順逆二門無く、大道心源に徹す・・・』
本能寺で対する織田信長公の『是非に及ばず・・・』と並んで
心に響く辞世の調べであります。
管理人もこのような死生観を確立できるよう真剣な修行を積まねば・・・
「求道成就も1日にしてならず・・・」
現代人がすっかり忘れてしまっている
いわゆる「生死一如」観ですね。
最近、仏像彫刻の本格的修業(行)を始めたこともあって、
前にもご紹介させて頂いた宮本武蔵の『五輪書』の読み方も
変わりつつあるようです。
それはともかく、光秀公の話ですが、
これも何かのご縁でしたが、
先月の連休に泊まらせて頂いた奈良のゲストハウスの
ご主人にご演奏願った薩摩琵琶による
『本能寺』も良き調べでしたね。
イタリアから来られた女性の方とご一緒に
俗世の時空を超えて、しばし聴き惚れていました。
詩吟的情緒観に浸るにも、文化的・歴史的教養がなくては
楽しめません。
今日日の文化的継承のあり方を再考するうえでも
もう少し学校教育の場でも何とかならないものか・・・とも
思われた時間でもありました。
かえって、外国人のかたの方が日本文化の核心部を
よくご存じのようでしたね。
ここで、時空は現代の西教寺に戻ります。
いつも思うのですが、光秀・煕子ご夫妻のお姿には
文字通りの「夫婦相和」<教育勅語。最近のバカ騒ぎで
すっかりその本質像もぼやかされてしまい悲しくもあり、
本来は一般的に強く思い込まされてきた「観念論」で
強制されたようなイメージではないのですが、
あのような醜態を見せつけられると、誠にもって残念であります。
あの方、教育者として不適格だったようです。嗚呼・・・
反面教師として管理人も教えられ、考えさせられること多々あり
反省させられることしきりです。
こうした問題点を踏まえたうえでのあるべき教育者像や
教育問題も後ほど中江藤樹先生を語ることを通じて
考えてみることにしましょう。>を実感させられます。
この寺の「心」に触れれば、夫婦げんかや倦怠期に入ったカップルも
縒(よ)りを取り戻せるかもしれません・・・
また、西教寺さんにはユースホステルもあるそうですよ。
大切な心は、<和敬静寂>ですね。)を通り過ぎて、
まずは「近江高島」駅へ。
新快速でおよそ30分程度。
予想外に早く目的地に到着しました。
この「近江高島」駅で下車してからは、すでに滋賀県在住の同級生などに
かねてより聞いていた琵琶湖一周用のレンタサイクルを利用。
(やはり、旅慣れた人間にとっても、まずは現地在住者からの情報収集は
きわめて重要です。)
まずは、白鬚神社へGO!!
「長寿祈願」を。
謡曲『白鬚』でも有名なかねてより訪れたかった近江最古の神社であります。
後に触れさせて頂きますが、管理人はてっきり近江最古の神社としては
かの有名な「お多賀さん」こと多賀大社だと思い込んでいました。
まぁ、竹生島にも某宗教家が唱えたような「人類発祥の地」伝説もあるようですし、
近江こそが、日本古代史のうえでも最重要拠点だったと唱えられる
歴史学者もおられるくらいですから、
「最古感」が特に強力なパワースポットなのでしょうよ。
それはともかくとしまして、管理人自身は、
それぞれの地域に住まう方々のお国自慢には敬意を払うことにいたします。
駅を降りた時点では、雨がポツリポツリと・・・
今後の旅模様を心配していたのですが、
参拝後には、「天照さん」がお出ましになられ、ホットしました。
参拝客も多くて、さすがに人気のパワースポットかして、
湖上からも数多くのサーファー??がこちら側に目を向けていたようです。
(管理人撮影:社殿を背後に前方湖面上に浮かぶ鳥居を。
この日の撮影時は、若干の雨模様で曇り。
前面道路も車の往来が頻繁でシャッターを押すチャンスに苦労しました。)
また、ここ「近江高島」駅は、
わが国を代表するロングトレイル「高島トレイル」の拠点でもあります。
ハイカー・登山客が続々と集結してもいましたね。
ロングトレイラー(長距離歩行愛好者)の管理人も
いずれ挑戦したいと願うのでした。
まずは地元の「ダイヤモンドトレイル」で
事前訓練を積み重ねなあかんやろうけど・・・
金剛・葛城、生駒山系とは比較にならないほど
険しい比良山系とも言われますから、
よく事前研究をしたうえで、
まずは体験者とともに登り始めるのが安全上もベストなのでしょう。
「山(自然)は絶対に舐めてはいけません!!」
「特に、山の天候は激変しやすいですし、詳細地図も
所によってはまったく当てになりませんしね・・・」
さて、この湖面の景色と背後の比良山系の神々との霊界??対話を
じっくりと堪能させて頂いた後は、すぐにも出立!!
この日のメインである竹生島クルーズに間に合わせるためにも、
さらに是非ともかねてより訪れたかった場所がありましたので
まずはそちらへ自転車を走らせることに・・・
とはいえ、この頃にはすでに10時過ぎ。
急がなくちゃ・・・
目指すは、「近江聖人」である陽明学者:中江藤樹先生ゆかりの地です。
陽明学とは、中国明朝期に活躍した王陽明に始まる学派です。
日光東照宮の『陽明』門などに名残があります。
また、幕末の志士に「佐幕」か「勤王」かの立場を問わずに
多大な影響を与えた思想哲学です。
その「抜本塞源論」などは現代政治思想としても注目される理論であります。
とはいえ、必ずしも「血なまぐさい」革命理論とは無関係で、
もともとは、陽明学も「心学」と評されているように
個人の「人格陶冶」に資する教えであったのです。
また、その政治哲学は、ともすれば現代民主主義理論をも
危殆に瀕させかねない近代政治哲学思想に潜在的に胚胎する
「革命権」だとか過激な「抵抗権」をも解毒させ得る効能があります。
あくまで、その本質を「正しく」汲み取ったうえでという
大前提が条件となりますが・・・。
時代劇などの「映像」文化では、こうした危険性にばかり注目が集まり、
今も昔も多くの人間を誤解させ、狂気に走らせる端緒を生み出す
きっかけになるとすれば、
それは教え方や描かれ方に問題があると思って下さい。
現代の経済政策に潜む志向性(単純な<緊縮>路線)を
「抜本塞源」するうえでも注目される優れた処方箋を示した
備中松山藩の山田方谷も河井継之助などに
陽明学が誤読理解されることを戒め、
軽挙妄動を慎むようにも注意を促しています。
その経済面における効用として現代的に再評価し直すとすれば、
本来の「経世済民」とは、各人の「心」を正すことでもあるという
重要な視点を示唆してくれることが挙げられます。
財政改革のあり方や教育手法としても、
現代日本社会に蔓延する思潮を正す視点を提供してくれましょう。
さてこの間、酒蔵を横目にするも
誘惑に負けずに自転車を走らせること30分ほどで、
『藤樹書院』に到着。
(管理人撮影:『孝経』の一節が刻印された石碑です。
藤樹学派における学問の核心部『愛敬』の大切さが説かれています。
明治以後における『教育勅語』で強調されたような
いわゆる『忠孝一本の道』で説かれたニュアンスとは
大きく異なる点も是非多くの方々に知っておいて頂きたいところです。
最近、騒動の渦中にあった某似非教育者は果たしてご存じであったろうか?
とはいえ、この問題はきわめて重要で、私たちの社会が危機に瀕した際の
出処進退面における公私のいずれを優先すべきかといったような倫理学上の
難問は只今現在も簡単には解決不可能でありましょう。
まさしく、各自の日頃からの死生観が決定的分岐点だから・・・
こうした点をこそ、各自で考えさせる教育ならば有益であるかと
管理人には思われますが。)
途中の田園風景も素晴らしく、
白鷺??が豊かに川面で遊んでいました。
(管理人撮影:地元銘柄の『近江米』がうまそうだなぁ~。
今年は全体的に作付けが悪いと聞くところ、
滋賀県は比較的に実り具合がよさそうですね。
『近江米』は本当においしくてホテル朝食サービスでも
何度もおかわりをしましたよ。
この風景を眺めれば、『農は国の基』であることを実感。
昨今の経済学者よ、覚醒せよ!!
こと食糧自給率やエネルギー自給率の上昇、安定的確保は
国民の生命を守るためにも、<比較優位論>などで
決してごまかしてはならないのですよ。
学問とは、机上の知識学では
まったく<体認・体得>したことにはならないのです。
<象牙の塔>に潜む学者さんや政策担当者こそ、
積極的に旅に出て、下情に親しむべし!!
陽明学こそ、このことを厳しく教えてくれています。
王陽明思想は、「逆境にこそ明るく、強い」ことも実感。
富田和子先生が渾身の力を振り絞って上梓された
『日本の米~環境と文化はかく作られた~』
(中公新書、1993年)と
『水と緑と土~伝統を捨てた社会の行方~』
(同上、2010年)は是非ご一読をとお薦めさせて頂きます。)
藤樹書院で藤樹先生始めの御霊にご挨拶。
しばし、庭を眺めながら縁側でうだるような暑さをしのぎ
疲れを癒すことに。
そして、庭内から湧き出ている清水『三尺の泉』を数滴口に含み、
水筒に予備用の水分補給もさせて頂くことに。
本当にこの日も蒸し暑く、すぐにも水分切れ、
経済的にも節約せなあかん旅でしたので、
常識的に許される程度で譲り受けさせて頂きました。
藤樹先生、施設管理人の方へこの場をお借りして
お詫び申し上げます。
藤樹書院の外は、水路があって、
そこには鯉たちの憩いの場となっていました。
この風景は、「デジャブ(既視感=どこかで見たことがある!!)」。
そうです。
島根県の津和野で見た風景によく似ていたのでした。
(管理人撮影)
その後は、すぐ近くにある藤樹先生のお墓詣でに。
ここのお寺さん(玉林寺)も「天台真盛宗」。
奇遇です。
そして、『中江藤樹記念館』に立ち寄り、
館長の簡にして要を得た解説を賜り、
<致良知>の本質に思いを馳せるのでした。
<致良知>の本質とは、己の「良心(純心、童心、仏性心など)」に
目覚めるというよりも、もう一度立ち戻ることにあります。
言い換えますと、
「人としてこの世に生まれ来たった原点に立ち戻る過程で、
本来なら誰しもが共通して有していたはずであろうところの
慈愛心を呼び覚ますこと=<おなじき者>としての自覚とでも
言うのでしょうか・・・」といった集合的共感覚のようなイメージでしょうか?
陽明学における難しい解釈はとりあえず横に置いておきましょう。
大切なのは、
陽明学の「心」自身が、朱子学論理である「性即理」と異なって、
「心即理」にあると言われているのですから、
もともとは、「性=心」。
つまりは、もともとが一体のものだということであります。
さらに管理人が理解したところによれば、
「三位一体(身・口・意または、頭=脳・体・心)観」の
回復に本質があるということに尽きます。
また、上記記念館のすぐ隣には藤樹神社や陽明園もあり、
後ほどご紹介させて頂く雨森芳洲さんの功績なども想像しながら
現代における真の日中・朝鮮半島との友好親善の方向性に
思いを馳せるのでした。
ここで気付いたのですが、
近江国は、古来から大陸や半島からの渡来文化との接点が
とりわけ強い地域だっただけに、
極端な摩擦を避ける知恵が発達してきたとも言えるのかもしれませんね。
それは、『近江聖人』だけではなく、
これまた前にご紹介させて頂きました『近江商人』の<三方よし>の
教えにも通底するものがあります。
陽明学の話題に戻りましょう。
陽明学に関しては、管理人も仏教の奥深い本質とともに
長い学習途上にありますが、
やはり、陽明学と朱子学の決定的相違点から学ぶべき点があるとすれば、
管理人の考えるところ、
それはまさしく、「大義名分論」からの脱却でありましょう。
また、華厳経の教えも学んでいることもありますが、
「華」という考え方1つを取り上げましても、
自身を世界の中心と考えるか、1つ1つが雑多な異なる結節点の一部として
かけがえのない「ご縁」として
相互に<生かし生かされる>関係性にあるとする見方を採るかで
まったく世界の様相が異なってくることも大切な分岐点だと思われます。
お釈迦様の『天上天下 唯我独尊』という言葉もしばしば誤解されています。
それは、数多くの因縁生起現象の過程のうちに創造されてくる
かけがえのない我が身という意味であって、
常に固定され、他との関係から切断された独り身だという意味ではないという
ことであります。
そんな多種多様な<関係性>の中から生まれ来る1人1人の<いのち>・・・
これが、『天上天下 唯我独尊』という言葉の奥底に
秘められているのだと考えています。
いずこの国であれ、個人であれ、
我こそ世界の「中華」と叫ぶ時、あるいは叫び続ける限り、
人類における「和解」のきっかけすら掴めません。
陽明学の中でもとりわけ藤樹学は、「愛敬」や「天寿」を大切にした
教えだと申します。
そうした円熟性を養う学問志向があります。
管理人も<仙人>や<達人>(双方とも某有名若手俳優の格言であり、
個人的に応援していますが・・・)になりたい願望が強くあります。
それはともかく、藤樹先生も「和歌」を愛された方でありました。
例えば、こんな和歌があります。
『暗くとも ただひたすらに すすみ行け
心の月の はれやせんもし』(『藤樹先生の和歌私新抄』木南卓一著から。
※この冊子は『藤樹書院』隣接の休憩所でお求めになることができます。)
こうした<道歌>に見られるように
藤樹先生の和歌からは、陰陽の理に即した人生における逆境面をも
転じさせ得る知恵を学び取ることもできます。
「物事や人間性は一面だけですべてを判断してはいけない!!」
そんな重要な知恵が汲み取れます。
ここから、本書との問題意識とも絡んでさらに考えてみましょう。
今回の旅路では、本書とともに以下の書物を友に連れて行きました。
①『「人工超知能」~生命と機械の間にあるもの~』
(井上智洋著、秀和システム、2017年第1版第1刷)
②『法華経と原子物理学~いのちの力よ、湧きあがれ~』
(松下真一著、光文社カッパブックス、1979年初版第1刷)
③『華厳経入門~ここに、生きる力と歓びがある~』
(清水公照著、光文社カッパブックス、1978年初版第1刷)
④『山田方谷の思想を巡って~陽明学左派入門~』
(林田明大著、明徳出版社、2010年初版)
の4冊であります。
「3泊4日」の強行軍の中では少し多めの冊数ですが、
②~④は折に触れて何度も読み返している本で、
①だけが今回の道中で新規に読み進めていた本でありました。
特に、①は今もっともホットな人工知能面から逆照射させた
「人間論」ないしは「生命哲学論」でありましたので、
これまでの人工知能の技術論の復習とともに
哲学的問題提起箇所を中心に読み進めていたのです。
文字数も文字の大きさもほどよい塩梅だったので
軽く読み進めることができる良書です。
未読・既読の方を問わずに、今後も続けて、
人工知能から人間論を再考する視点を提供し続ける重要書籍と
なることでしょう。
皆さんにもご一読をお薦めさせて頂くことにします。
ここでは紀行文がメインですので、さらなる深い考察は追々ということで
軽く流させて頂くことをお許し願いますが、
本質的には、まず誰もが不安に思っておられるであろう
「汎用型」人工知能ではありますが、
その頭脳をプログラミング化するのは、
あくまでも人間(それも現段階におけるすべての人類の知力レベル如何に
かかっている!!)だということに尽きるようです。
なるほど、情報処理能力としては、
人工知能が人間の知力を遙かに超え出ることは論を待たないところであります。
問題は、著者も強調されるように、その「知力」の定義を
どのレベルに据えるかにあります。
ある一定の情報処理能力において、人間がおよそ処理可能な臨界点を
超え出た時に、危機(暴走状態)が訪れるとは言いますものの
そのことは、現段階の人類の一部にも見受けられることです。
それは、人種差別問題しかり、
絶えず「緊張感」を仕掛けてくる独裁的志向者の存在しかりであります。
そうした人間が有する「欲動」をまず解明し、
その根本的「迷い(その中心には生存危機に由来する不安感情)」があると
いうことを的確に見据えておくことがまずもって大切な視点でありましょう。
つまりは、人工知能における暴走不安感の大前提として
そこにプログラミングする人間の「知力」であり、
なかんずく、その「知力」を支える基盤となる「メタ認知能力
(注:井上智洋先生は本書脚注にて心理学用語としての<メタ認知>と
相違させて<メタ思考力>という表現をされておられます。)」や
「体感(質感)情」であります。
ここでは、その「メタ認知能力」の話題には深く触れることができませんが、
その1つに「質感(クオリア)」問題が横たわっています。
この論点につきましては、上記①書の「第7章 AIに意識は宿るか?」内の
「3 クオリア・脳・自由意志」で問題提起されていますので、
その箇所(本書の核心部でもある)を中心にご一読頂きながら、
皆さんにも考察を深めて頂ければと思います。
「自由意志」問題や「心=脳」論などは、
今回取り上げさせて頂いた<人間機械論>の問題意識とも重なりますが、
本書(『人間とは何か』)では人間があくまで考察対象ではありましたが、
その「気質(性格・その人間を形成させ得た精神的骨格)」が
どのように創造されてきたものなのかが最大の「謎」であります。
いずれにしましても、本書にせよ上記①書の結論にせよ、
人間そのものに宿るこうした「謎」が解明されないことには
人工知能論も中途半端なものになるということ。
そして、その中途半端さこそが、
さらに人工知能への不安感を掻き立てる根本的要因だとするならば、
大前提として、まずもって、人間に潜む謎解きから始めなくては
なりません。
まとめますと、「人工超知能」ならぬ「超人工知能」論は、
人間の本質や意識の立ち上り方、そして、その意識を形成する
本書『人間とは何か』が繰り返し提示してきた
外部からの雑多な<情報システム>をどう取捨選別し、
人間にとってもその存在そのものを脅かさないための
回避装置をいかに組み込むかに尽きます。
つまりは、「人間存続の原則」であります。
「存続」が大切な視点だとは申しますものの
現実には、その「存続」に対する信頼性が揺らいでいるからこそ、
現人類は未来に対してきわめて悲観的な見方を好むようになっているようです。
特に、目下の日本では、この種の悲観論が多すぎます。
当ブログでは、「明日へはばたく君に送る~」とありますように
当然ながら「人類存続」への信頼を大前提に語らせて頂いています。
「自滅」ではありません。
「自滅」を回避する知恵をあらゆる角度から汲み出していこうというのが
趣旨であります。
それは、確かに本書が強調しているように
各人の「気質」に尽きると言ってしまえばそうなのかもしれませんが、
「生まれつき」この人の「気質」がこうなっているから
生涯ダメ人間のままで、後天的に克服不可能とまでは言い切れないのではないかとも
信じたいところです。
「信じたい」と表現しましたが、
管理人もこの問題については、難問でそう簡単には「確信」するまでには
至っていません。
その点では、著者同様に一抹の不安もあるのです。
前にもどこかで語りましたが、
今回の旅路がたまたま近江でしたので、
比叡山を遙かに眺めながら、相変わらず「最澄・徳一論争(三一権実諍論)」も
この問題とともに考えていました。
「すべての森羅万象(ここでは、人間に対象を限定しますが・・・)に
仏性は宿る」(最澄)
「いやいや、仏性そのものが欠けたような人間がいる以上、
そう簡単には断言できないのではないか」(徳一)
徳一の立場からすれば、法相「唯識」ですから、
すべては、「識」次第ということになりますが、
この「識」に地獄的要素(それは、生育環境であったりするわけですが・・・)が
色濃く反映され過ぎていたならば、
どうしてそこから「仏性(天国というよりも仏教的には<極楽浄土>という
表現が適切かもしれませんね。)」を再び甦らせることが出来るのかは
難題ということになります。
「う~ん、何を<外部情報>とするかは難しい・・・」
「<情報システム>と<関係性>の組み合わせの偶然如何か??」
いずれにしましても、「心=脳」だと管理人自身は、
断言することを憚りますが、人間の骨格(気質)は、
「頭(知性=メタレベルの直観や身体で捉え直した<質感>を
言語などで置換する能力。)」
「心(霊性=無意識などを含めた直観や第六感。つまりは、メタ認知性)」
「身体(感<受>=知<覚>機能性)」の
三体が複雑に絡み合いながら構成されていると言えましょう。
そうだとするならば、その<外部情報>の雑多な要素を
人間「存続」の原則に従って、自らに有利なものだけを
「取捨選別するのみ」という「自己満足」度合によるといった
著者との問題意識とも再び重なることになります。
ただ、問題は「自らに有利なものだけを取捨選別するのみ」といった
フィルターに通す段階で認知的「偏り」がどの程度あるかが
その人間の性格を形成してしまうという恐ろしい結末であります。
何だか話題が変な方向へと逸れてきたようですが、
要点は、人間性善説に基づいた「致良知」説や
最澄的な「森羅万象<仏性・神性>」説や
後天的な教育による性格(気質)改善可能性=可塑性説だけでも
簡単には解決し得ない難題が、
ここには潜んでいるということを再確認しておく
意義があることだけは確かだということであります。
「外部情報の取捨選択における<志向性>」
「その<志向性>の土台となる好悪(選別)感情を
いかにしてコントロールする(し得る)か?」
現代社会は(というよりも、有史以来ですが・・・)
人類はこの難問を克服し得ずにいる段階であります。
そんなことから人工知能君のことを心配するよりも
まずは人間自身(それは、まさしく己自身を厳しく問う姿勢)の方にこそ、
余程、注意深く、思慮を働かせ続ける工夫が必要不可欠だということに
なります。
「汝自身を知れ!!」(ソクラテス)だす・・・
(勉三さん:※アニメ『キテレツ大百科』に出てくる管理人が
秘かに敬愛する人物キャラクター)
まぁ、それはともかく、『キテレツ大百科』が出てきたついでに
コロ助君のような人工知能なら、
仲の良い相棒になれそうな気もしますが(蛇足)
もうそろそろ、今回の書籍に触発された論考はここらあたりで
打ち止めにしておかなくてはなりませんが、
まとめますと、「良知(良心)」を引き出す工夫と知恵が
とりわけ人間にとっては大切な学習課題だということを
この問題に引き寄せながら強調させて頂きたかったということです。
いつもながら、長々と御免なさい(冷や汗)
それでは、『藤樹の里 安曇川』を出発。
さらに琵琶湖沿岸部に沿った国道を北上。
ついに、この日の一番の目的地である
近江今津港に到着。
港を横目にしながら、そのまま左折して
近江今津駅に乗り捨て返却。
歩いて3分くらい。
すぐに便船の予約をし、ほぼ待つこともなく、
すぐに乗船。
遅くなったので(この時点で午後14時20分)、
売店で地元のトマトとパンをすぐさま購入して
船内昼食。
食べているうちに30分もかからないうちに
竹生島へ上陸。
ほぼ4年ぶりの竹生島です。
相変わらず、水の汚染度も鳥による糞害も酷すぎるのですが、
まぁ、それはともかく水の神様にご挨拶です。
日頃の報恩謝徳のために唱え奉るご真言には・・・
『オン ソラソバ テイエイ ソワカ』と。
時間はいつもながらあまりなく長居も出来ないのですが、
この日の朝方に雨が少しぱらついたのも夢の跡で、
猛烈な今夏の蒸し暑さから来る湿気こそありましたが、
何とか天気が良くて有り難い1日でした。
参拝後は、竹生島を名残惜しく眺めながらも
またしばし湖面の景色を楽しみながら30分ほどで長浜港へ着。
時間があればと予定していた長浜城歴史博物館も最終受付時間まで
あと10分程度。
明日に回すか否か、一瞬迷いましたが、
「人生、明日はどうなるか分かりません!!」ということで
すぐに長浜城天守閣屋上へ(お盆ということもあってか、
また映画『関ヶ原』や大河ドラマの影響なのか家族連れや
カップルも多くて、なかなか賑やかなる城内風景ではありました。)。
「やはり、高いところからの琵琶湖眺望はええの~」なんて
心の中で叫びながら、しばし「天下人」の気分を味わう管理人。
戦国の世であれば、俺ならあそこに砦を築くなどと
小学生の頃に戻ったような空想物語に浸るのでありました。
確かに、ここは北国街道の重要な分岐点でもあり、
関ヶ原から美濃大垣方面への睨みもきく。
歴史的感覚(ことに物理的時空観)は、
やはり体感してみないことには分かりません。
すでに午後17時過ぎ。
今宵の宿泊地は、「南彦根」。
ですので、食事の時間(外食ですが・・・)も加味して
すぐに電車をと言いたいところですが、
結構と言っても20分程度ですが、「長浜」駅で待たされました。
そして、午後18時半過ぎには、無事チェックイン。
本日の宿泊ホテルである『スーパーホテル 南彦根駅前』に着。
宿をコロコロ変えるのも面倒くさいですし、節約上、
<連泊コース>に事前予約しておきました。
このホテルの売りは、「Lohas(ロハス)」。
「環境に負荷のかからない生活志向スタイル??」
連泊のうち、掃除無し日を選択しておけば、
嬉しい「特典」があるとのことでご協力させて頂きました。
ここは、滋賀県。
環境志向の知事さんもおられる地でもあるしね・・・
そんなこんなで明日も早出したいので、
早めに就寝。
寝具もぐっすり眠れる素材で有り難かったです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<8月12日(3日目)>
この日も「快晴」。
朝食後(スーパーホテルさんには『健康朝食無料サービス』があります。
無料とはいえ、宿泊代に加味されているのでしょうが、食事のメニューも
バイキング形式ながら充実しており、おいしさ抜群!!)、
「南彦根」駅から北上。
「高月」駅で降りる。
まずは、知らない土地なので、
駅前の観光案内所で「一杯のコーヒーから♪♪~」との気分で
ご一緒に同席させて頂いた方とともに
詳細な情報を教えてもらうことに。
この日は、<湖北の観音様を愛でる>が最大テーマ。
姉川合戦と小谷城の悲劇。
「賤ヶ岳の七本槍」で有名な古戦場もすぐ近く。
戦国乱世下、地獄の硝煙の中にあっても、
村人たちによって守られてきた数多くの仏像たち。
このあたりの信仰心の強さには驚かされます。
わけても、このあたりは「白山信仰」が盛んだったようで、
水にちなんだ仏様である「十一面観音信仰」が盛んだったようですね。
また、「地蔵信仰」も。
皇族の方々も行啓幸されたことのあるという
(湖北の観音様巡りをするならまずこの寺からとも言われている)
「渡岸寺観音堂(向源寺)」へ。
ここでも駅前にレンタサイクルがあり、
先程も語りましたように雨森芳洲庵なども訪れようと思っていたのですが、
あまり予備知識もなく、すでに時間は昼前でしたので、
今回は断念することに。
今度はいつになるやら分かりませんが、
再訪出来る時までに雨森芳洲さんのことや
朝鮮通信使節団のことなども勉強して出直すことにしましょう。
さて、この日も朝早くに出たものの
このお寺の魅力にすっかり取り憑かれた故なのか長居してしまいましたので、
すぐそばのお食事どころで「鮎寿司」を頂くことに。
地元の方々との談笑に話が弾みながらもまたもや長居ムードに
なりかけていたのですが、「高月」駅に停車する本数が
1時間に1本程度なので急ぎ足で観光案内所に戻るも
ゆっくりとする間もなく、たまたますぐに来た電車に飛び乗ることに。
ここまでスムーズに電車の乗り継ぎが出来ていることに感謝。
もっと時間に余裕があれば、再度、昨日は叶わなかった
長浜市内の散策などもしてみたかったのですが、断念。
すぐさま「南進」。
午後15時半~16時頃に「彦根」駅到着。
NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』や
映画『関ヶ原』ブームでここも観光客で賑わっていました。
時間の都合上、彦根城内の庭園『名勝 玄宮楽々園』は
翌日に回すことに。
彦根城は子供の頃にすでに2回ほど登城しているので
今回はパス。
玄宮園の方は、子供の頃に行った家族旅行での思い出が
強く焼き付いていたので再訪したく、
茶室でじっくりと堪能したかったので、
とりあえず、この日は、
滋賀県護国神社にて今日我が身が安泰であることを
ご英霊の方々に感謝の誠を捧げるとともに
世界平和の祈りを込めて参拝。
何と言っても、恐ろしい事態が近隣に生起しつつありますので・・・
「とにかく、絶対に戦争は起こすなよ!!」との想いが
日に日に強まっていたからです。
その後は、土産物屋を見て回るも荷物になるのを避けるため
参考程度に切り上げ、駅前の「弘法さん」(大師寺)へお詣り。
ここの「御大師さん」はちょっと変わっていて
寝てはりますのや。
お釈迦様の「涅槃像」ならぬ弘法大師さんの「寝弘法像」です。
七福神さんも笑顔で迎えてくれはりました。
駅前の観光案内所はもう閉まりかけていましたが、
明日のため地図や若干の情報集めをすることにします。
そして、電車でこの日も「南彦根」駅へ。
夕食も早めに切り上げて、明日は最終日。
もうかなりの遠距離で体もくたくた。
この日もぐっすりと眠れました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<8月13日(4日目)>
最終日も強行軍でした。
明け方、雨がぱらつき始めていたので心配でしたが、
朝食後、すっかり雨が止んでおり、感謝。
チェックアウトも済ませ、「特典」をもらって出発。
一路、昨日、取り残しておいた「彦根」の名所へ。
とはいうものの時間の関係上、
なるべく早い時間帯に「お多賀さん」へ回る予定を計画。
多賀大社も白髭神社同様、「延命長寿」の神様です。
また、「円満和楽」の神様でもあります。
ここも前回4年前に竹生島同様に来たことがあったので
スムーズに電車にも乗れ、午前8時頃までには参拝も済ませ、
前回大絶賛だった「糸切餅」を土産物として購入。
多賀大社は奈良東大寺ともゆかりがあります。
平重衡らによる「南都焼き討ち」によって
東大寺大仏殿は焼失。
時は鎌倉時代前半から中期。
東大寺再建のためにお金集めにと、
諸国へ勧進して歩く僧が陸続と現れ出ます。
その中に西行法師もいますが、
あの『勧進帳』(歌舞伎)や『安宅』(能楽)の物語があります。
弁慶一行が、「黄金咲く」奥州平泉を指して落ち延びていく物語は、
特に歌舞伎や能楽に親しまれたことがない方でも
たびたび時代劇などの人気テーマとなってきましたのでご存じかと思います。
弁慶は、この時の東大寺再建のための勧進僧に偽装して
関所を通り抜く知恵を働かせたというわけです。
また、多賀大社に直接ゆかりのある僧侶と言えば、
東大寺中興の祖である重源さんですね。
この方も多賀大社を訪れておられます。
さらに時代は下り、鎌倉時代後期から末期。
日本史上、最大の試練が・・・
これも東大寺を始めとした「八幡信仰」とともに
やがて特異な「神国思想」へと発展していくことになります。
先程も語りましたが、いずこの国もある種の「中華」思想が
出始めてきた時には、要注意です。
とはいえ、日本及び日本人は
本来、「平和愛好国民」だと
管理人も信じていますが、こればかりは相手国次第でもあって
こうした時代思潮の動向を軽視または無視して
傍観を決め込むわけにもいかないところが、
悲しいところです。
本当に歴史とは、過酷であり、
「逆説」的現象が目の前に突き付けられることで
私たちに平和の尊さを気付かせようとする見えない力(意志)が
働くようです。
多賀大社はまた、大和西大寺同様に
国難時には大きな役割を果たしてきたとも言います。
「元寇」のようなことが
二度と起こらないことを祈るのみです。
そうした物騒な話題はともかくとしまして、
このお社にはもう1つの悲劇的物語があったことも
是非皆さんにも知っておいて頂きたいのです。
それが、今旅の陰の主人公「弁天さん」にちなむ悲恋を挟んだ
ある女性の物語です。
この後に訪れることになる「大洞弁天」ともゆかりがあります。
その詳細は是非優れた女性作家である諸田玲子さんが
お書きになった『奸婦にあらず』(文春文庫、2009年)を
ご一読願います。
村山たか女さんという方が時代の波間に巻き込まれた悲恋物語であります。
この方は、いわゆる「女性間諜(スパイ)」役を引き受けざるを
得なくなった元芸妓さんでありまして、多賀大社とも
多大な縁があったのです。
というのは、多賀大社の裏街道からは「甲賀」へと続く道が・・・
甲賀忍者が修業してきたとされる修験道の山「飯道山」にも
つながっていることから、
幕末下の「佐幕か勤王」を巡る激しい情報合戦が
繰り広げられる時期における彦根藩にとっては
願ってもない立地条件に多賀大社が存在していたからでもあります。
そこに表れたのが井伊直弼であり長野主膳こと義言でありました。
「人間におけるご縁が吉と出るか凶と出るかは
後になって見なければ分からないのも苦しみを生み出す原因か・・・」
諸田先生は、あくまでそのような過酷な状況でも
「巳年生まれ」の村山たか女の胸の内の苦しさを救い出すべく
「弁天信仰」とともに活写していかれるわけですが・・・
あくまでも「過酷な中でも幸せな人生を送っていたのだと・・・」
俗世におけるあれやこれやの思惑とは異なり、
男女の関係とは霊妙不可思議な力が働いているようです。
そんなこともあって、絶対的平和を望み、
差別を憎み、人間の煩悩を焼き尽くし、「浄化」せんとする
「弁天さん」にたか女さん同様に管理人も心惹かれる1人なのです。
実際に、「弁天さん」が軍神であることも
あまり知られていない「裏事情」ですが・・・
浅井氏や豊太閤だけでなく、一説によれば
織田信長公や伊達政宗公、明智光秀公など
錚々たる戦国武将が崇敬していたとも言われています。
これはあくまで管理人自身の仮説にしか過ぎませんが、
明智公の「水色桔梗紋」は、陰陽道にも通じるとされる説を立てる方も
いらっしゃいますし、「天海僧正説」の裏にも謎がありそうです。
(①『第六天魔王信長~織田信長と異形の守護神~』
藤巻一保著、学研M文庫、2001年
②『信長殺し、光秀ではない~八切意外史~』
八切止夫著、作品社、2002年
③『天眼~光秀風水綺譚~』
戸矢学著、河出書房新社、2007年
などを参考資料にしながら、現在も旅などを続けながら
「(北辰)妙見菩薩信仰」との関連性なども絡めて独自探究中!!による
暫定的仮説にしか過ぎませんが・・・
「妙見信仰」も「巳さん(龍蛇神)」との関係が実際に深そうですね。
日蓮宗系のお寺で注意深く観察していると、よく見られますよ。)
天海僧正は、天台宗系ですし、上野の不忍池上「弁天堂」にも
関係がありそうです。
この「弁天堂」も不忍池を琵琶湖に見立てると同時に
上野寛永寺も「東の叡山」と名乗ることに示されているように
比叡山に見立てており、池内の島を竹生島に見立てながら、
築かれたとも言われています。
徳川家康公も風水思想や陰陽道に精通していたらしく、
徳川氏の精神的支柱とされていたことも考えられます。
「徳川氏、恐るべし!!」です。
さらに、彦根藩主の井伊家も本場は浜松の「井伊谷」。
「水神」を崇敬してきたと言われますし、
天川弁財天社に行宮を置いていたこともあり、
真言密教・天台密教系ともつながる南朝系ともゆかりがあるようにも
思われます。
(ちなみに、これまた余談ですいません。
前日見た笑福亭鶴瓶さんの番組『Aスタジオ』に出演していらした
六角精児さん。
これまた敬愛している俳優さんですが、
お父上が、あの南朝研究者の山地悠一郎先生だったとは・・・
まったく知りませんでした。
河内に住み郷土史研究にも研鑽を積みつつある管理人にとって、
南朝や後南朝、天忠組遺跡巡りを登山やハイキングなどを兼ねて
たびたび挙行するに当たり、持参するバイブル書も数多く上梓されている
研究者でもあります。
超マニアックな歴史愛好者にしか知られていないところが残念・・・
さらにちなみにですが、天「忠」組であり、
おどろおどろしい「誅殺」の「誅」ではありません。
村山たか女さんを被害に遭わせた当時京の都を闊歩しておった
テロリスト集団とは何の関係もありません。
彼ら(天忠組)の名誉のためにも強調させて頂きたく思います。
参加者の中には山田方谷先生ゆかりの岡山県出身の隊士もいたこともあってか、
旗印である<一心公平無私>を理念として掲げていました。
安政の大獄など過酷な状況があったために、
当時の結果としては残虐・残酷な事態を招いてしまったことは
歴史的事実として本当に悔やまれるところです。
二度とこのような<皇軍(皇民)同士相撃つ>ことがあっては絶対になりません。
『うつ人もうたるる人も心せよ 同じ御国の御民ならずや
あだみかた勝つも負くるも哀なり 同じ御国の人と思えば』
<太田垣蓮月>)
それはともかくとしまして、
このあたりは、管理人も
本場浜松の「龍潭寺」にも詣ってきたことがあるので、
相当な興味関心があったところなのでした。
「桔梗紋」は、京都の六波羅蜜寺他、
奈良の安倍文殊院など「弁天信仰」ゆかりの寺社では
しばしば見かけることがあります。
いずれにせよ、人の「心」とは底知れぬ恐ろしさを秘めていると同時に
透き通った美しさや清らかさ、明るさも兼ね備えた鏡でもあります。
それでは、多賀大社を出発しましょう。
近江鉄道「多賀大社前」駅の門前休憩所『もんぜん亭』の方に
教えて頂いた前回(前回訪れた際も、親切な対応をして頂き
心地よい「場」だったので、また訪れさせて頂きました。
<接待(おもてなし>文化>が息づく近江商人文化の一端を
感受させて頂きました。)は知らなかった多賀サービスエリアと
その背後に控える胡宮神社のご存在であります。
多賀サービスエリアは、歩いても入っていけるのですね。
特に、別段の費用は入らない点も有り難かったところです。
胡宮神社も一部のマニアに今注目されている「磐座」がご神体であり、
多賀大社の「奥宮」とも言われているようですね。
明治維新時に荒れ狂った廃仏毀釈からも免れたらしい
江戸期までの「神仏習合」文化の面影をひっそりととどめていたところも
どこか懐かしさを覚え、ホットした安堵感を与えてくれました。
泉下の南方熊楠さんもきっと喜ばれることでしょう。
そんなことをつらつらと思いながら、近江鉄道「多賀大社前」駅に戻ります。
胡宮神社(多賀サービスエリア)からは徒歩で15分程度の距離で
戻れることも疲れた我が身にとっては有り難い。
彦根駅でもレンタサイクル『めぐりんこ』さんで自転車を借りて
「大洞弁天」さんなど彦根城周辺を大急ぎで駆けめぐった旅でした。
諸田先生のご紹介されていた五百羅漢さんで有名な「天寧寺」さんも
訪れたかったのですが、時間もなく断念。
最後は、『名勝 玄宮楽々園』でお抹茶を一服頂きながら、
殿様が座られたという特等席で
世の指導者の孤独さをあらためて噛み締めていました。
今年は、神戸港や大阪港を始め、開国150周年のイベントも
各地で開かれています。
世の指導者が指し示す政策の方向性を
私たち国民が批判することは簡単ですが、
仮に自分が指導者の立場であればと想像してみると、
その決断のあり方や並大抵ではない緊張感にも
少しは推し量る(今年のキーワード<忖度>)ことも叶うのかも
しれませんね・・・
「こればかりは、その立場になってみないと分かりかねる質感ですが・・・」
イデオロギーに堕してしまった現代の歴史教育のあり方から
脱却する視点として、
人物モデルを想定・設定させた「シミュレーション学習」を導入することも
人の「心」を互いに推し量る訓練をするうえで役立つ効果があるのでは
ないかと提案させて頂くことにしましょう。
こうしたゲーム感覚を取り入れた歴史教育なら、
多くの子供たちもワクワクしながら授業に取り組めるのではないでしょうか?
歴史教育とは、単なる「記憶力」を競い合うゲームではないからです。
また、賛成派・反対派に交互に入れ替わる「ディベート形式学習」も
思考の柔軟性を高めるうえでも効果的かもしれませんね。
<狭義の>ゲームも映画も単なる「映像」画像だけを脳裏に焼き付けられるだけで、
「脳」も「心」も鍛えることにはつながりません。
「洗脳」ではなく、心を磨き上げ、
人類の霊性向上につながる「洗心」教育でありたいものです。
先程も注意を促させ頂きましたが、「映像」文化だけに極度に依存すれば
洗「心」ではなく、洗「脳」に誘導されてしまいます。
(管理人注:この場では、洗「心」をプラスイメージ=
神社仏閣の手水鉢に<洗心>と刻印されているようなイメージに、
洗「脳」をマイナスイメージ=マインドコントロールのようなイメージで
使用させて頂いております。)
そうした観点から、映画『桜田門外の変』での描写も
注意深く見ていかないと、
容易に危険思想へと導かれてしまいかねません。
このことは、日本だけではなく、世界情勢の今後の動向を占い、
未来を正しく明るい方向へと導く点でもきわめて大切な視点であることを
何度でも強調しておくことにします。
そんな陽明学にまつわる一般的な誤解もあって、
上記④の著者も「右派」ではなく「左派」入門と強調されたのかもしれません。
つまり、朱子学的な「大義名分論」寄りを「右派」とする
コチコチの「原理」主義思想を超克するための視点が
今日でも必要不可欠だということであります。
ということで、長々と紀行文の中にも書評から得た着想などを取り入れながら
語ってまいりましたが、
今回の旅におけるテーマが、「洗心」ということで
一応の「オチ」がつきました。
洗「脳」される(する)ことによって狂気に落ち入る(入らせる)ことなく、
洗「心」(心を磨いて)、<おなじきもの>として
互いに「愛敬」、「慈愛」をもって生き生かそう。
人類の今後の課題もここにあります。
つまり、「支配欲」(互いを道具=手段扱いする欲念・欲望。
哲学者カントも強調する視点。)からの脱却であります。
「支配・被支配」こそ、人類史における数多くの悲劇をもたらしてきたからです。
その意味でも、単に「役立つか役立たないか」だとか、
「儲かるか儲からないか」などといった
悪い意味での<功利>思想に執着せずに済むように
各自「鍛錬」していかなくてはならないでしょう。
そんなことを上記書籍たちや様々な人々との霊界レベル、
現世界レベルにおける交流と思索を続けながら、
旅をしてきました。
「旅とは、各自の<心の奥底に潜む故郷>へと帰る道行き」(管理人)
「旅に病んで 夢は枯野をかけ廻る」(松尾芭蕉)
ここに筆を擱かせて頂くことにします。
最後にあらためて強調させて頂きますが、
人間性が<外部情報>によって形成されていく以上、
その情報には常に敏感でなくてはならないということ。
「良知(良心)」もそうした日頃からの
心の奥深くに積み重ねられてきた善情報の強弱度合によって
幸不幸が決まっていくのだとすれば、
人生も必然的に、自ずから厳粛な営みとならざるを得ないだろうと
いうことであります。
「いま・ここに・(<あるがままに>は難しくとも)ここから」を
合い言葉に、今一度ともに「心」の奥底にある想い(ことにドロドロとした情念)を
見つめなおして頂ければ幸いです。
「清濁併せ呑む」とは簡単に言いますけれど、
常人には厳しい道であります。
どうしても、「悪貨が良貨を駆逐する」勢いに呑みこまれ、
悪の道(修羅道・餓鬼道)へと引きずり込まれてしまう誘惑には
勝てないからです。
本当に「人間道」とは苦難の連続でありますね。
皆さん1人1人の厳粛な人生への取り組みが、
「心」の平和の糧となり、
そこから日頃のお金の使い方や人との接し方、
あるいは仕事への取り組み方などの見直しにもつながり、
経済観が大きく激変していくことも間違いないと思われるだけに
「洗心」する機会はきわめて大切な「いのちを養う静寂なる神聖な時間」なのです。
その意味でも、「仕事」を「ビジネス(忙しさ=心を亡くすが原義)」へと
引き下げることなきよう
ご自身の「働き方改革」も各自で再考して頂くきっかけに
本記事がお役に立つことが叶えば幸いであります。
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ということで、本書の書評よりも、
この度は紀行文に比重を置かせて語らせて頂きましたが、
皆さんも本書をご一読されながら、
「人間形成の大本には何が潜んでいるのか?」という
誰もが一度は通過しなけれならない哲学的課題に
取り組んで頂けることを祈りつつ、筆を擱かせて頂くことにします。
今回は約1ヶ月ぶりの更新と相成り、
熱心にご愛顧下さっておられる読者の皆さんには
ご心配と待ち食らわせさせてしまい本当に申し訳ございませんでした。
今後ともより良き記事創作へと精進を積み重ねて参りますので、
宜しくお願い申し上げます。
皆さん、本当に管理人の創作意欲を支えて下さり有難うございます。
最後に今回の旅を締めくくる和歌を一献。
『近江路を 今を盛りと 咲く花は
我を導く 夢のまた夢』(管理人)
※今回の記事創作に当たって、小学生の頃に始めて彦根城へ
祖母と訪れた際に作歌した和歌を探していたら出てきました。
まぁ、和歌の技巧は、昔からあまり進歩してないかなぁ~
まだまだ「作為(自我)」が強すぎる嫌いがありますから・・・
和歌こそ、人の「心」がそのまま出てきますので、
表現技法としてはシビアなのです。
~天下泰平を願いつつ 真夏の近江路から~
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最後までお読み頂きありがとうございました。
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[…] 前にも語らせて頂いたところですが、 […]