大黒岳彦先生の『情報社会の<哲学>』非人称的コミュニケーションの連鎖的持続を主体に据えたメディア社会システム論とともに 創造展開されゆく新たな倫理哲学の可能性を探究しよう!!

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『情報社会の<哲学>~グーグル・ビッグデータ・人工知能~』

従来の<マス>メディア観を革命的に転換させるメディア生態観を

提供したマクルーハンやルーマンなどの思想哲学を手がかりに

分析考察された大黒岳彦先生による論考書です。

今後の人工知能時代における<超>人間的=非人称的コミュニケーションを

主体に据えた情報社会の倫理的課題をともに探究しましょう。

今回は、この本をご紹介します。

『情報社会の<哲学>~グーグル・ビッグデータ・人工知能~』(大黒岳彦著、勁草書房、2016年第1版第2刷)

大黒岳彦先生(以下、著者)は、現在、

明治大学情報コミュニケーション学部の教授職を務めておられ、

現代情報メディア論を倫理的視座から鋭く知的探究されてこられた

知る人ぞ知る逸材でいらっしゃいます。

ご専門は、哲学・情報社会論だとされています。

ご著書には、

『<メディア>の哲学:ルーマン社会システム論の射程と限界』

(NTT出版、2006年)

『謎としての”現代(いま)”~情報社会時代の哲学入門~』

(春秋社、2007年)など情報メディア論をテーマにした

多数の論考集がございます。

著者の問題意識には、

現代<共同体>社会がメディア情報の主導下に形成されていく過程で

必然的にこれまで自然形成されてくるものとイメージされてきた

素朴自然的<共同体>観の融解(液状化)現象がますます進展する最中、

従来の社会観の盲点でもあった「擬似的」共同体としての側面が

今後ともさらに強まりゆく点に鋭く注目されていることや

理数系的視点から現代社会の本質を分析考察されているところに

他の文系社会学者にはない大きな特徴、魅力があります。

その社会学的視点には、

<メディア=媒体=コミュニケーション連関性を主軸に据えた

あくまで人間を従属的中継地点と見立てる社会関係形成>仮説を糸口に

現代社会の時空関連構造を分析考察される特徴があるようです。

そうした現代社会に特徴的に見られる時空構造形成傾向にあってみれば、

もはや従来の<共同体>観を大前提とした倫理哲学観のみでは

捕捉・制御し難い事態が数多く出現してきている理由も明らかとなります。

言い換えると、<メディア=コミュニケーションの連鎖的持続関係形成>によって、

社会共同体が日々「再」創造されていく構造になっているものだとすれば、

従来の<人間>を主軸とした共同体社会の枠内で「内部/外部」といった区別を

容易にはつけられなくなるため、

<メディア>が形作る枠組みの外側から

<人間>によって外形的に社会を制御し得るための倫理規範を打ち立てようとする試みも

ますます困難な事態へと立ち至るということになります。

「私たち現代人を取り巻く社会の内実の奥深いところでは、

一体全体どのような事態が出来してきており、

今まさに立ち上がろうとしてきているのだろうか?」

また、「<メディア=ネット-ワーク>主導型社会においても

十二分に通用し得るような新たな倫理を基礎付けることは本当に可能なのだろうか?」

このような問いが、

<人間>によってこれまで築かれてきた倫理規範に挑戦をしかけてきます。

この<メディア=ネット-ワーク>からの挑戦を

近未来の<人間>はどのように受け取っていけばよいのかが

試されようとしています。

本書では、このような論点を素材としながら

これまで論じられてきた各種メディア論者などの思想哲学観などを引き合いに

論じられていきます。

冒頭タイトルでも掲げましたが、

今や現代社会は、<人間>による自然的コミュニケーションの域を超え出た

人工知能などによって回収される<人間>が受発信したコミュニケーションデータ・情報を

源泉としながら、自動生成・再編されゆくコミュニケーション関係そのものに

比重が置かれる「非人称的=<超>人間的コミュニケーションの連鎖的持続」こそが、

<人間>社会形成に当たっての主導権を握るようになってきています。

このように従来の<人間>的コミュニケーション理論を基にした倫理規範の設定や

<人間>主導型の社会的政策形成合意へと向けられた営みも限界に達しつつある今、

新たな着眼点を提供してくれる本書は、

読者の皆さんの知的好奇心にも

きっと新たな刺激をもたらしてくれる数多くのヒントが得られることでしょう。

ということで、現代メディア論の最前線やその思想哲学観の変遷史のご紹介とともに

著者独自の論考を題材に近未来の情報社会により相応しい倫理哲学のあり方などを

探究していこうとの趣旨から、

今回はこの本を取り上げさせて頂くことにします。

『統計学は最高の学問である』とする見立てすら、      「超高度」メディア情報化社会においては陳腐になるかも!?

それでは、本書の要約ご紹介を始めさせて頂くことにいたしましょう。

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その前に、本書の「原典」に関するお知らせですが、

本書<あとがき>によりますと、

『2010年から2015年にかけての期間、時務的な求めに応じて

寄稿・発表した7本の既公表原稿を素に、それに訂正と加筆を施して

一書を成したもの』(本書321頁)だそうです。

それぞれの原稿「初出」リストにつきましては、この<あとがき>をご覧下さいませ。

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・<はじめに>

※ここからは、管理人独自理解に基づく本書要約ご紹介へと

移らせて頂くことにいたしますが、正直に申し上げますと、

本書を一読する限りではなかなか全貌把握に至るには

かなり難しい部類に属する本格的な学術的論考集だと思われます。

特に、本書を通読される際には

現代メディア論の流れ(著者の表現では、次の『序章』タイトルにもありますように

<メディア>史観)やメディア哲学思想家であるマーシャル・マクルーハンや

ニクラス・ルーマンなどの思想的理論体系や問題意識にまつわる

当時のメディア社会背景事情などの少なからずの基礎的教養知識が

必要不可欠となるからです。

大学などで社会学などを専攻された方や

マスメディア関係のお仕事をされておられる方には

一般教養として<常識>的知識なのかもしれませんが、

管理人の場合は、この分野に関してはまったくの「ど素人・初心者」ですので、

以下、必要に応じてこの分野に精通されておられる方々の解説記事などを

リンク挿入させて頂くことで、

読者の皆さんに対する出来得る限りの誤解・混乱が生じ得ない一助となるように

要約ご紹介の補助線として活用させて頂きますことを

あらかじめご了承願います。

とはいえ、管理人も初心者ですので、そのあたりは読者の皆さんの

知的環境にも精一杯心配りしながら、

要約ご紹介に努めさせて頂きますので、

温かい目で見守って頂ければ幸いです。

そんな事情でありますので、

管理人も何度も折に触れて、本書全体像を理解するうえで助けて頂いた

著者による<はじめに>内での解説が役立ちましたので、

もし、読者の皆さんにおかれましても、読み進めていかれる途上で

消化不良状態に陥られました際には、こちらの<はじめに>解説に

折に触れて戻られることをお勧めさせて頂きます。

本書に限らず、難しい論考集などをご一読される際には、

まず最初に<はじめに(まえがき)>や<あとがき>、

<目次一覧>などにざっと目を通されるだけでも

随分と違った読後感となりますので是非ご参考にして頂ければと思います。

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①『序章 マスメディアの終焉と<メディア>史観』

本章では、現代マスメディアが陥ってしまっている諸問題点を

現代メディア論の雄とされているマーシャル・マクルーハン理論を

手がかりに、著者自身による批評意識と分析手法が宣言されています。

本書において著者自身によって採用される分析手法につきましては、

本書38~41頁をご参照願います。

著者の批評意識は、<はじめに>でも強調されていますように

一般的なメディア「知識人(評論家)」にありがちな表層的批判に終始することに

あるのではなく、あくまで「学者(社会哲学的批評家)」の視点から

現代メディアの底流にある「原理的」問題を掘り起こす点にあります。

言い換えますと、『現代メディアの「本体」部分とは、

表層・表面にある<見える>領域にあるのではなく、

連綿と生成展開されゆく動的生態系といった<見えない>領域にこそある!!』というのが

著者の本書における強調点だということです。

すなわち、メディアによって生成されていく動態的生態系に着目しながら、

最終的に現代社会<共同体>が形成されていく過程にまで目配せしつつ、

従来の「人間」主導型社会と「メディア=ネット-ワーク」主導型における

コミュニケーションの展開過程を巡る構造的比較分析考察を主軸に据えながら、

<コミュニケーション-関係性>によって創造されゆく

<非人称的コミュニケーションの連鎖的持続>として把握される

社会システム論(ニクラス・ルーマン)を1つの視座として形成される

現代「メディア」社会の相違点を分析考察することを通じて、

『終章』でも再提起されることになる新たな倫理規範の創設の手がかりとなる

論考が次章以下の諸論考とともに提出されていくことになります。

また、社会「形成」過程論の視点も導入することで、

従来の倫理規範論や倫理観との決定的相違点を炙りだしていこうというのが

著者の本書におけるもう1つの目論見であります。

ですから、本書における倫理哲学観を読み解かれる際のご留意点としては、

<メディア生態系>の全体像を踏まえたうえでないと、

従来からの倫理哲学との分岐点がよく分からないままに

読み終えてしまうことになりかねないという懸念があるということです。

要するに、従来の倫理哲学者とは、その「倫理」観が生まれ来るところの

社会観に重大な相違点があるのだという点を十二分にご理解頂かないと

著者の問題意識を共有することが難しくなるというわけであります。

そこでまず手始めにこの『序章』では、

マーシャル・マクルーハン理論を素材に

彼への賛否両論面からの世間的誤解を著者自身の見立てにより解きほぐしながら、

その全体像の素描と初心者にも理解の助けとなるマクルーハン理論「入門」としての

位置づけになります。

その具体的詳細につきましては、

『0-2 マクルーハン理論の本質と限界』(本書18~35頁)

委ねさせて頂くことにします。

そして、

このマクルーハンの主著『グーテンベルクの銀河系-活字人間の形成』

(森常治訳、みすず書房、1986年)に関する書評記事については、

松岡正剛先生による『千夜千冊 70夜』が良き道標となりますので、

ご参照願います。

なお、このマクルーハン理論の日本社会一般への流布に一役買った著名人に

竹村健一氏がおられます。

今の10~20代の若者の皆さんには馴染みの薄い方だと思われますが、

管理人のような30代あたりから上の世代層にとっては、

主にフジテレビ系列のバラエティー番組などにも積極出演されていた

関西的キャラのある親しみやすい評論家として知られている著名人であります。

コーンパイプが似合う独特な語りをされる評論家です。

管理人もこの方の影響を受けつつ、多種多様な知的関心の幅を

拡げさせて頂くことが叶いました。

現在の日本メディア事情を冷静に分析考察すると、

確かに「右傾化」と揶揄・批評されることも多くなったご時世ですが、

当時は、まだまだ冷戦時代末期からようやく新たな時代が開幕されていく

過渡期にあたり、メディア業界での「左派リベラル色」が今以上に強かった時代でしたので、

何か新鮮な見方を教えて頂けたような気がしたのも今となっては正直な「心」でありました。

また、今と違いまだ牧歌的な時代だったのでしょうか?

「保守」知識人の間にも知的良心が感じられた時代だったようです。

IT革命「前夜(黎明期)」においてご活躍された竹村健一氏の予想見取り図や

氏の紹介されたマクルーハン理論の時代から

IT革命を経てすでに久しい時代が過ぎている現代メディア(論壇)事情を

ここであらためて振り返ってみると、

まさに「メディアによって調達された膨大な言論<量>が、言論の<質>そのものを

融解(液状化)させてきた!!」ことが明らかになってきていることに鑑みれば、

当時からすでにメディア言論界の近未来像を暗示されていたことを思うと

「メディア論」に関する竹村健一氏のご慧眼には鋭い批評魂を感じさせられますね。

閑話休題。

次の主題である『0-3 「情報社会」における「知識」と<学>』

(本書35~44頁)では、現代マスメディア時代における知識情報の捉え方や

流布形態の進化(後ほど主に『第3章』で語られるツイッターなどを介した

SNSによるコミュニケーション文化の浸透)による変化から予想される

今後ますます強まる「超高度」メディア情報化社会における<知のゆくえ>の

方向性が示唆されます。

情報化社会によって、それまでの「学者」の持つ独特な権威観が失墜していく過程で

世に登場してきた「知識人」・・・

とはいえ、この「知識人」も今や世間からは「評論家」として

受容消化されていくにつれて、「タレント文化人」枠に続々と参入。

中には、本業が「学者」なのか「タレント文化人」なのか

判別しかねる猛者まで出てくる始末で、

今ひとつ「知識人」という区分に入れてよいのかどうか

信頼出来なくなってきているのが世の大方の見方でありましょう。

こうしたご時世にあって、

何と「学者」出身者から「(一般評論家的)タレント知識人」への

反転攻勢がとあるメディア企業創業者によって本格始動されたのが

管理人も日頃から大変お世話になっている検索サービス企業『グーグル』だったと

いうところで、次章へと移ります。

その『グーグル』<先生(博士)>(←高度検索システムへの敬愛の念が表れた

ネット文化に親しんできた若者ユーザーによって名づけられた愛称です。)の

「意図(本質)」とは何だったのか?

著者の解説によれば、

そこには驚くべき「計画性」と「革命性」があったのだといいます。

まとめますと、『序章』において

著者によって宣言された本書の主題は、『「情報社会」の<体系的批判>』。

つまりは、<原理的批判=哲学的思考法>を用いた「情報社会」への

体系的批評にこそ、著者の狙いがあるということに尽きます。

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②『第1章 グーグルによる「汎知」の企図と哲学の終焉』

本章では、現代メディア業界において世界的主導権を握らんと欲する

グーグルに代表されるメディア企業が目指す知的体系観の志向性の大本には、

近代啓蒙主義時代にまで遡る<百科全書派>的志向性が底流にあると

見定められています。

<百家全書派>とはその名が示す通り、万学から獲得された「汎知」を

フル活用させながら、社会の進歩改善に寄与しようとする志向性を持つ

「啓蒙」政治志向学派です。

こうした「汎知」思考が一般的に実用可能になった原動力には、

活版印刷術に代表される技術革新がありました。

21世紀現在は、この技術革新がITを駆使した<電脳>汎知になっているところが

大きな特徴であります。

本章ではまず、このような史的観点から

人類の『「汎知」の思想史』(本書50~73頁)を中心に語られていきます。

そうした流れの中で次第に判明してきたのが、

知識そのものも時間とともに陳腐化していくという過程が

より鮮明に可視化されていくという現象でありました。

知識そのものが時間とともに陳腐化されていくということは

ある意味では当然の現象なのですが、

その速度があまりにも急激だというところに

IT社会時代以前と大きく異なる特徴があります。

IT社会時代にあっては、「知識」に対するイメージ像も大きく激変しました。

すなわち、「知識」に対するイメージ像が、それまでの哲学者が見立ててきたような

「叡智(知恵)」としてではなく、

単なる<情報>として時にはゴミ扱いされるようにまでなってきたということです。

もちろん、それには理由があります。

コンピュータ計算処理速度が高まり、情報量も時間とともに膨大化していくにつれて、

一般ユーザーからも取捨選択する必要に迫られるに当たって、

一定の良質な検索エンジン機能が要請されてきたからです。

こうした検索エンジン機能による<情報>の取捨選別は、

今後の量子演算機能の速度改善とともに

ますます「スーパーコンピュータ(スパコン)」によって

強まっていくことは否めません。

問題は、そうしたコンピュータ・アルゴリズムが、

どのような基準で<情報>の取捨選択を行っているのかが

明確ではないところにあります。

この世界に膨大に散在する<情報>に関して、

その検索回数によって獲得された統計的計算によって

おおよそ世間のユーザーは、

このような<情報>に興味関心を抱いているであろうとの

推測計算によって得られた最大公約数的な<情報>のことを

昨今では、「ビッグデータ」だとか「集合知」だと称していることは

いまや周知のところです。

言い換えますと、現代情報社会の最前線において、

現実的に何が起きてきているのかと問われれば、

実際のユーザーの知的ニーズをもはるかに超え出た

コンピュータ・アルゴリズムによる自動生成化によって、

ユーザー自身が当初思い描いていた検索意図とはまったく異なる「意志」が

検索技術そのものに強く働いているということです。

皆さんも検索エンジンによって指し示された情報と

ご自身の当初の意図とのズレに苛立ちを隠せない方も多いのではないでしょうか?

ある意味、世界に<情報>が満ち溢れれば溢れるほど、

決定的な判断材料が乏しくなり、「決断」を下せなくなるという事態にも

なっています。

こうした流れにおいては、「人間」が立ち止まりながら

哲学的に懐疑したりして、「情報」そのものの真偽を

確かめる暇も術も剥奪されていく一方となります。

そうした事態を指して、本章タイトルには、

『哲学の終焉』という意味が込められています。

つまり、「人間」による哲学的「情報=知識」取捨選別作業の

入り込む余地が著しく狭まってきたという懸念であります。

そのことを20世紀の著名な哲学者であるハイデガー

<予言>していたと本書73~76頁で語られています。

こうしたコンピュータ・アルゴリズムによる『哲学の終焉』時代にあって

むしろ、今後もっとも「人間」に要請される知的志向性とは、

哲学の復権に他なりません。

『体系的な<学>としての<哲学>の再生が強く庶幾される所以である。』

(本書76頁)と・・・

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③『第2章 ビッグデータの社会哲学的位相』

本章では、前章で提起された問題意識を受けて、

その<ビッグデータ>や<集合知>の内容が具体的な検討対象に付されています。

『ビッグデータの「3V」』(本書83~89頁)として、

<ビッグデータ>の特徴が解説されています。

すなわち、「規模(ボリューム)」・「速度(ヴェロシティー)」・

「多様性(バラエティー)」の3要素ですね。

こうした詳細な分析から、<ビッグデータ>の本質を見据えますと、

その大半が、何と『ゴミの山!!』だといいます。

とはいえ、そうした厳しい現状と向き合いつつも、

その『ゴミの山』からも「キラリと光る」お宝を探し出せるかどうか

(著者の表現では、『「データマイニング」という名の”ゴミ漁り”に

熱中しているという事実と向き合う』~本書91頁)という視点が

大切なのだと強調されています。

言い換えますと、<ビッグデータ>だとか<集合知>という言葉に

込められたイメージ像を必要以上に過大視しない「確かな目」が

必要不可欠だということになります。

『「社会のデータ化」の思想史』(本書95~104頁)に関しては、

現代統計学が構築されていくに当たり展開されてきた背景思想の

対立史として読み進められると

一般的には無味乾燥な無機質に思われる統計学に関する知識も

意外な面白さがあることに気付かれるかもしれません。

ことに、現代コンピュータによるデータ検索思想の背景には

「数量化」や「数値化」可能である点が

決定的な要素として重要視されてきたところ、

こうした傾向に比して、

『「主体」-「対象」-「目的」というデータ化における”三位一体”』感覚、

すなわち、『「われわれに与えられてある」』(本書97頁)という

「われわれ」という具体的「人間」と無関係にデータが

存在するわけではないという側面に力点を置いた見立てに着眼するのが

本書における著者の分析視点でもあります。

つまり、「数量化」・「数値化」されたデータだけを追跡していても

あまり「われわれ」には有意義な利点はないということで、

その「自動生成」過程とともに歴史的・社会的文脈の中で捉えていく

姿勢が、今後ますます強く要請されることが予想されるということです。

近未来のシンギュラリティー(技術的特異点)を迎える過程で

VR(バーチャルリアリティー)技術とともに人類は新たに「進化」すると

言われている昨今、「コミュニケーション」と「身体感覚」を

巧みに取り込みながら進化発展することが予想される

<メディア=ネット-ワーク>主導型社会における

『「配備=集立」(管理人注:ハイデガーが予言していた懸念で、

詳細は本書73~76頁をご参照下さいませ。)の運動に抗して、

敢えてその”外部”に立ち「観察」するという困難な課題』(本書109頁)

現代<情報>哲学には課されているのだと結語されています。

まとめますと、<ビッグデータ>時代の本質とは、

コミュニケーションにおいてもはや「人間」が<主体>ではなく、

「人間」によって提供されたピンからキリまでの

膨大なコミュニケーション情報・データ量によって、

「人間」そのものがかえって振り回される事態へと立ち至る

『ゴミの山』が無限に増殖をし続ける動態的情報形成社会であり、

それは同時にまた、昨今指摘されることが多い<情動>刺激型メディアが

跳梁跋扈しやすいメディア言論環境に親和性の強い性格を有した時代だとも

言えましょう。

著者による<ビッグデータ>の本質的定義によれば、

『<データ(D)情報(I)>の往還プロセスを再帰的、かつ、無際限に

繰り返しながら<生成-運動>する、このデータの”オートポイエーシス”こそが

「ビッグデータ」にほかならない。人間的諸”主体”はこうしたデータの

”オートポイエーシス”の”環境”に過ぎない。意思決定という<弧人=個人>の

「目的」も、データのオートポイエーシスの運動に組み込まれることで、

確率論的な不確定性を伴いつつ”自動”化へと向かう。

<弧人>の意思決定は、こうして脱「目的」化され、主体化を遂げた”ゴミ”である

ビッグデータの<自己目的>に吸収されてゆく』(本書108頁)

メディア情報循環生態系そのものに他ならないということになります。

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④『第3章 SNSによるコミュニケーションの変容と社会システム論』

本章では、そんな<ビッグデータ>=『(情報の)ゴミの山』をより一層

促進させやすいメディアであるSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス

もしくはシステム)によって変質させられていく現代コミュニケーション動向に

ついて、ニコラス・ルーマンの社会システム論を手がかりに

独自考察を深められていきます。

まず、SNSによるコミュニケーション形態について、

著者は、『「意見発信」ではなく「情動露出」として捉え返したい。

またこれに応ずる形で「情報社会」は「情動社会」として特徴づけられることにもなる。』

(本書116頁)とその特質を浮き彫りにされています。

前章要約末尾でも語りましたように、

こうした<自動生成=拡散型>コミュニケーション形態様式においては、

その過程そのものをいわばアメーバのような液状化<システム>として捉える方が

よりその本質イメージに近しいようですね。

こうした<システム>としてのコミュニケーション言動構造を考える類推イメージとして

著者は、ルーマンが示した「社会」システムを援用されながら、

現代コミュニケーション事情を探究されています。

本章『3-2 ルーマンの社会システム論と4つの疑問』(本書116~154頁)は

ルーマン理論の「入門」としても読みやすくお得な箇所ですよ。

ルーマン理論を超約すれば、

『ルーマンにとって「社会」とは<コミュニケーション>の連鎖的接続によって

産出される閉じた、オートポイエーシス・システムである。』(本書118頁)

ところに特徴があるそうです。

なお、このルーマンの主著『社会システム理論』

(佐藤勉訳、恒星社厚生閣、2007年)に関する書評記事については、

松岡正剛先生による『千夜千冊 1349夜』が

ここでもまた良き道標となりますので、どうぞご参照願います。

ここでの重要点は、現代コミュニケーション過程(特にSNS)によって

形成されゆく言語空間が、<閉じた>社会システムだという視点であります。

<拡散希望!!>などといくら狭い言語空間の中で叫んでも、

叫べば叫ぶほどむしろ<閉じていく>逆説・・・

意外にも(いや物事の本質をきちんと捉える習慣づけある読者の皆さんのような方で

あれば、釈迦に説法だとは思いますが・・・)、

こうしたコミュニケーション構造になっていた(いる)という視点は

世間一般ではあまり周知されていないのかもしれません。

(ちなみに、SNSを介してやりとりされるあらゆるコミュニケーションが

<閉じた>システムだとは限りませんし、言論として評価する場合に

<質>的に劣っていると断言しているわけではありませんので、

そのあたりは言わずもがなということで言外のニュアンスをおくみ取り下さいませ。

どのような言論形態システムを介在させるにせよ、

「文脈から読み取れる知的感性と人間的志向性こそが大事!!」だということには

変わりありませんからね・・・

その意味で、かえって文字数に制約のあるようなツイッター形式からは、

その文面・文体で如実にその人の「知性」や「人間性」が現れ出ますから

何とも厳しい世界ですね・・・

逆に言えば、一般的には「閉じた」システムと評価されるツイッターなどの

SNS媒体で言論的にも高評価を獲得されている方には、

優れた才能があるということになります。

ブログ形態であれば、細かい「文脈」描写もネット画面を費やして

説明しながら、時間をかけながらも双方向の誤解を解消させる志向性を

持たせることも可能ですが、ツイッターなどの単発的SNS形態であれば、

なおさら難しく、誤解も強まりやすく繊細な言語的才能が要されるだけに

「閉じた」を「開いた」に転換させ得るユーザーであれば、

きっと「勘」や「人間性」も優れた方なのでしょう・・・)

そして、本章末尾『3-3 世界社会と情報社会』での結語である

『本章では、SNSにフォーカスすることで「相互行為」を含めた

<コミュニケーション>そのものの<自律=自立>化的な”主体”化の

機制に踏み込んだわけだが、ここでの方法論上の成果は、

マクルーハンの<メディア>史観とルーマンの<システム論>とが、

<ネット-ワーク>の構造分析によって内在的に接続された点にある。

すなわち、「情報社会」の”実体”である<ネット-ワーク>パラダイムとは、

抽象的で非-人称的な<コミュニケーション>の総体である「世界社会」に

他ならないことの闡明(管理人注:せんめい=『今まではっきりしなかった・

道理(意義)を明らかにすること。』新明解国語辞典第4版、三省堂による

言葉の定義から)である。』(本書155~156頁)を基に、

以下の第4章及び終章での考察材料となし、

議論の出発点とされています。

というわけで、序章から第3章までは、

本書<核心部>に向かうためのイントロ部分ということになります。

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⑤『第4章 人工知能とロボットの新次元』

本章は、著者独自目線での人工知能論が主題ですが、

類書ではあまり比較考察されることが少ないと思われる

「人工知能とロボットとの決定的相違点」に関する検討が

なされている点が、本書のもう一つの「売り」でしょう。

いずれ、こうした「人工知能」を<人工身体>として取り入れた

「新(超!?)人類」なるサイボーグ型人間も出現してくるのではないかと

主にシンギュラリティー<楽観派>の論者からは期待もされているところですが、

そうした近未来に予測される人間像が指し示すことになる現実とは

「いかなる社会をもたらすのだろうか?」という視点だけは、

今からでも盛んな議論を巻き起こしていく必要がありましょう。

『4-1-3 社会哲学的・メディア論的視点』(本書173~176頁)から

捉えた人工知能及びロボット論は、著者得意とする分野ですので、

是非ご一読されることをお勧めいたします。

そして、人工知能開発に際しても下記のように大きくわけて2つの系譜があるといいます。

①記号計算主義(本書179~188頁)

②コネクショニズム(本書189~197頁)

ここで詳細な内容を語り始めると、煩瑣にもなり、

著者の「本論(主題)」からも大きく外れていきますので、

そうした人工知能にまつわる技術的論考点につきましては、

本書該当箇所に委ねさせて頂くことにいたします。

とはいえ、どちらかの優劣を決めるのが著者の立場でも

ここでの議論目的でもありません。

つまり、本章における著者の主題は、

『これまでのAIは、「人間」知能の本質如何とその人工的再現の手法を

めぐって両派の争いが演じられたわけだが、現在のAIにおける中心問題は

もはや「人間」という地平にはない。AIの諸課題は今「社会」という地平で

新たに立て直されつつある。』(本書198頁)ところにあります。

そして、本章最終結論としての

『4-4-3 情報社会における「人間」の地位』(本書221~225頁)では、

これまで見てきましたように「人間」そのものが紡ぎ出していく

膨大なコミュニケーション・データ(情報)によって、

新たな「社会」システムが創造されていく過程で、

「人間」そのものが「社会」システムの内部へと再編されていくことで、

それまでの人間観(特に<人間中心主義>)が崩壊していくという現実にこそ

注目すべきだと強調されています。

言い換えますと、<コミュニケーション=ネット-ワーク>主導型社会に

おいての「人間」とは、AIやロボットと同期化・機能的に見て等価値性を

有する種族になりゆく存在だということに尽きます。

それが、<コミュニケーション=ネット-ワーク>論の側面から

観察した果ての結論だということになります。

それが正しく、「(現生)人類の終焉」である。

つまり、「ポスト・ヒューマン」として称されたイメージ像によって

示唆された本来の事態なのだと・・・

このあたりの「ポスト・ヒューマン」論に関する雑感は、

後ほど項目をあらためたエッセー部でも語らせて頂く予定ですので、

もうしばらく要約部にお付き合い下さいませ。

なお、本章の論考に際し、著者が所属されている明治大学の同僚仲間である

石川幹人先生の閲読精査コメントも頂きながら書き進めておられたといいますが、

「認知科学者」でいらっしゃる石川幹人先生の業績も素晴らしく、

前にも当書評記事においてご紹介させて頂きましたので、

そちらもご一読下されば幸いであります。

とりわけ、昨今の脳(認知)科学が悪用された詐欺被害予防のための知恵が

ふんだんに提供された良書ですので、必ずや読者の皆さんの社会生活にも

お役立ちするものと自負しております。

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⑥『終章 情報社会において<倫理>は可能か?』

※さて、やっと最終章に辿り着きました。

本章こそが、本書における最主要論考でありました。

「果たして、こうした液状化していくことが大前提となる情報社会=世界社会において

従来型の道徳/倫理観は生き延びることが可能なのだろうか?」

結論から言えば、「不可能!!」とまでは言い切れずとも

かなりの頻度で存立の危機に直面しているというのが著者の見立てであります。

『5-3-4 「世界社会」における「倫理」の不可能性』(本書269~274頁)と

それに続く『5-4 情報社会における”普遍的”倫理の試み』以下で

それぞれの倫理観がそうした来たるべき情報社会=世界社会に耐え得る

ものなのか否かが検討に付されます。

液状(流動)化していく情報社会=世界社会においては、

もはや容易には「共同体」にせよ、とりわけ自立した「個人」という

イメージにせよ確固たるものとして存立するわけにはいきません。

つまり、安定よりも常なる不安定とともに生きている(きた)という

本来の厳しい自然則の中に「人間」そのものも立ち戻らざるを得ないと

いうことでもあります。

そうした意味では、普遍的もしくはましてや絶対的な道徳/倫理観など

あってもなきに等しい存在になってしまいそうです。

とはいえ、やはり私たちは「人間」ですから、

そうした不安定な社会内においても落ち着くことが可能な

何らかの道徳/倫理観が必要不可欠であることもまた論を待ちません。

そしてそれは、情報社会=世界社会「システム」とともに

継続的に「再」創造されていくものだということを大前提に

論じられる類のものでなければ現実的な有用性を持ちません。

本章では、多種多様な現代思想の最前線に立つ哲学者による

道徳・倫理観の紹介とその構造解析から著者自身による

普遍的倫理の試みや条件付けが探究されます。

まとめますと、再度の繰り返しとなりますが、

液状(流動)化する情報社会=世界社会にあっては、

内部/外部の区別がつきにくくなっていくために、

そこから紡ぎ出されてくる道徳/倫理観も自明=所与の大前提として

あるわけではなく、

システムそのものが絶えず生成する過程で事後的に現れ出てくる効果に

過ぎないということであります。

ここでの「内部/外部」という区別はなかなか理解が困難なところであり、

著者もフランス現代思想家ジャック=デリダによって提出された

哲学的概念などを駆使しながら説明を試みられていますが、

管理人の理解した範囲では、「汎」システム論として「社会」が

生成されていく構造に着目されてきたわけですから、

システム「外部(環境)」という発想自体が予め「封印」されているようなのです。

ですから、「汎」システム論を大前提とする限りでは、

そのシステム「内部」に答えを見出す他ありません。

システム「内部」にシステムそのものが持続的に生み出すところの

<内部/外部>といった<差異>をもたらす。

そのシステム「内部」における<差異>によって

あらたな「正義」の内実が生み出されるといったように

ある種の「入れ子」構造のような多元的世界観に立ったうえで

道徳/倫理を位置づけ直す構造となっている・・・

著者によれば、

『(倫理的←管理人による補注)「多元性」とは、システムにとっての

所与ではなく、システムの<自己超越>=<脱構築>の効果なのである。

あるいは、倫理は常にシステムの”外部”から到来する、そう言ってもよい。』

『情報社会において<倫理>は<可能>どころか、逆に<倫理>こそが

情報社会の「可能性の条件」なのである。』(本書304頁)と結語されています。

このあたりの解読作業はなかなか難しいものがありましたが、

「人間」から「システム」に主体を移した道徳/倫理観という観点から

著者は、あらたな道徳/倫理観への再構築を目指されているのだということは

ご理解頂けるものと思います。

『では、こうした情報社会=世界社会<内>に生きる「人間」にとっての

再びの道徳/倫理観を捉え返す志向性からの論考はないのでしょうか?』と

いったところが、管理人自身による目下の問題意識でもあるのですが、

この角度からの論考もいずれ著者に期待したいところです。

いずれにしましても、情報社会(社会「システム」)の方から

逆照射させて論じられた道徳/倫理論は、

今まで管理人が読み進めてきた書物の中にはあまり見当たらなかったので、

新鮮な感覚で読ませて頂くことが叶いました。

読後感は、正直に告白しますと、

確かに「もやもやとしたもの」が残ったために、

あまりすっきりとした気持ちではありませんでした。

とはいえ、このような観点からの道徳/倫理論は、

管理人自身にとってもこれまで「盲点」だったために

触発されるところ「大いにあり!!」でありました。

これを機会に管理人自身も「システム=情報社会=世界社会」を大前提に

見据えた道徳/倫理観を独自に分析考察のうえ、

人生における創造実践へとつなげていく思考回路を形成できればとの

あらたな決意が出来ましたことを著者への敬意と感謝の念を込めて、

本書要約ご紹介の閉幕ご挨拶の言葉と代えさせて頂くことにいたします。

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・<索引>

・<あとがき>

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<ビッグデータ>や<集合知>すら信用することが出来なくなった 最果て未来社会における人類の存在意義とは??~話題書『エクサスケールの衝撃』などを再読しながら抱き始めた新たな疑問点など~

さて、ここからはいつもながら毎度取り上げさせて頂いている

書物内の主要キーワードを手がかりに触発された派生論点などに関する

雑感について徒然と語らせて頂くことにいたしましょう。

今回ご紹介させて頂いた書物の最大キーワードは、

「<ポストヒューマン(超人類)>時代における倫理/道徳哲学の基礎付け」とでも

言える素材でしょうか?

今回は、この問いをお題目としてその周辺領域を旅していこうと思います。

ところで、今回のテーマが「情報(社会システム)論」でありましたので、

まずは現時点における情報技術の到達地点や今後予想されるシンギュラリティー

(技術的特異点)やプレ(前)・シンギュラリティー(社会的特異点)に関する

おさらいをしようとこれまでお世話になってきた井上智洋先生の近著

『人工知能は資本主義を終焉させるか~経済的特異点と社会的特異点~』

(齋藤元章/井上智洋共著、PHP新書、2017年第1版第1刷)

現代メディア論壇で何かと話題の三橋貴明氏が一押しされていた

『エクサスケールの衝撃~次世代スーパーコンピュータが壮大な新世界の

扉を開く~』(齋藤元章著、PHP研究所、2014年)

<抜粋(簡約)版>である

『プレ・シンギュラリティ~人工知能とスパコンによる社会的特異点が迫る~』

(齋藤元章著、PHP研究所、2017年第1版第1刷)を同時並行的に

読み進めていた矢先の例の事件発覚報道があったものですから、

事件に関する第一報に触れた際には

正直文字通りのエクサスケール以上の衝撃を受けたのでした。

事件に関する論評自体は、管理人自身まったくの部外者でありますし、

司法捜査過程における予断提供排除のための公平中立性の理由や

社会的衝撃があまりにも大きすぎるために、

司法当局の判断と当事者間における捜査進捗状況を見守りたいと思いますが、

一点だけ声を大に強調させて頂くことをお許し願いますと、

「今回の齋藤氏の罪責認定の結果とは関係なく、<事業仕分け騒動>などに

象徴される昨今の厳しい与野党政策論争(とりわけ科学技術・文教費政策を巡って)

環境の下においても、齋藤氏や関連研究者仲間が築き上げてこられた

我が国におけるスパコン研究開発の成果と肯定的評価は決して色褪せることはない。

また、今後ともこの分野における研究開発促進や助成金増強を阻害し、

その志を受け継ぐ後進研究者の補助金申請意思を萎縮させてはならない!!」

ということに尽きます。

ちょうど昨日(12月15日)の朝刊紙一面でも

『AI予算倍増 1000億円超~政府検討 技術革新 後押し』(産経新聞)

大きく報道がなされたところでもあります。

その点における評価は別にして、

本書と上掲書『エクサスケールの衝撃』及び上記<対談>関連書において

触れられた話題に即して、紙数を残すところもわずかになりましたが、

ざっと軽く触れておくことにします。

一番重要な論点である「ポストヒューマン」時代における

「人間」の定義やその存在意義についてです。

本書の論点からは、<コミュニケーション=ネット-ワーク>を介した

「人間」を単に<結節点>の一部とみなす(見立てる)イメージ像。

『エクサスケールの衝撃』と上記<対談>関連書で言えば、

「不老不死社会」の実現待望論に込められたあまりにも素朴な楽観すぎるイメージ像。

このあたりのイメージ像に関しましては、

管理人自身はかなりの違和感や傲慢さが感じられて、

正直な感想として何となく哀れさ・悲しみを感じさせられたところであります。

ことに上掲書の1冊である

『プレ・シンギュラリティ~人工知能とスパコンによる社会的特異点が迫る~』

(齋藤元章著、PHP研究所、2017年第1版第1刷)における

<第5章 人類が「不老」を得る日~第1項:奇跡的なタイミングで生まれた女神>なる

論考でも、生命の尊厳への感謝と畏敬の念については

確かに間違いなく触れられてはいるのですが・・・

何となく違和感が残る・・・

この著者自身による感覚と管理人自身(おそらく、管理人と同様な

違和感を持たれた読者様もかなりの数でおられるものだろうと推察するわけですが・・・)が

抱いた感覚とのイメージギャップは「何に由来するものなのだろうか??」と

深く掘り下げて考えていく最果てに

「人類」の未来における楽観さと悲観さの分岐点があるのだろうと思われたことであります。

こうした「心」が感受するところの質感を

言葉で正確にお伝えすることは誠に難しく厳しいものがあるわけですが、

おそらく、そこには各人各様の「歴史観」や「人間観」が

大きく関わっていることだけは確かなところでしょう。

『これまでの「宇宙史」レベルにおける「人類」の進化の歩みとは

一体いかなるものとして解釈すればよいものなのだろうか?』

管理人もこの<大きな、あまりにも大きすぎる>問いに対する

正解肢を持ち合わせているわけではありませんが・・・

宇宙に「意思」というものが仮にあるものだとすれば、

「一体全体、我々人類に何を伝えよう、教え諭そうとしているのだろうか?」という

話題には、幼少時よりずっと関心があったところであります。

その「問い」を絶えず探究し続けることが、

おそらく、<いのち>の営み(本質)であり、

「<人間>の<人間>たる所以」なのでしょう。

そこで、『もし今後の科学技術の進展によって、

「不老不死」が実現可能になったと想定した場合に

そうした「超人類」生活環境に耐え得る者が

一体どれほどの規模で存在し得るのだろうか?』と想像してみた場合、

かなりの「現生」人類が絶望感にとらわれるのではないかと推測します。

未来永劫生き続けることの叶う「不老不死」人間とは、

当然に技術的処置を施された「人造」人間類似(あるいは、そのもの!!)だと

言える「何者か」ですが、もはや想像の域をはるかに超え出た世界であるようです。

そのような最果ての未来において、

『「超人」には「現生」人類の<心>が記憶として残されているのだろうか?』

あるいは、

『未来の「超人」にとって都合の悪い遺伝子(記憶)情報は

見事なまでに消去された場合に想定される事態とは??』

それは、人類が「歴史(かつて生きてきた記憶の中で学び得てきた大切な何ものか)」を

見事に忘却し去ることを暗示するように思われます。

そのことは同時に、上掲書における著者の感想とは異なり、

時間が経つにつれて次第次第に過去に生きたご先祖様への感謝の念が薄れていき、

忘恩行為が世界の至るところで生起してくるのではないか・・・

管理人なら憂慮するところであります。

そうして、このように「不老不死」が可能となるように

技術的処置を施された「超人」において共有され、内包される世界観には、

当然のごとく、かつての「悪夢」である「優生思想」の復活があるに違いありません。

管理人自身は、人類史に関して政治的(世俗生活上の立ち位置として)価値観に

とらわれず、かつて人類がなした良きことも悪きこともすべて「記憶」した上で、

特に人類が犯した惨禍(罪業)から目を背けずに、そこからどのような教訓を獲得し、

どのような姿勢を持てば、「霊的」成長を成し遂げていくことが叶うのか・・・

その「正道(つまりは、人間には必ず生死があることを大前提とする

<厳粛な>人生の歩み)」を踏まえることこそが、

本来の意味での「超人」への進化過程であるものと深く確信しています。

つまり、「不老不死」を志向した技術的処置を施すなどといった

「作為(不自然)」は、いずれどこかの地点でいかに「不老不死」を願ったとしても

「超」人類自らが自らの手によって「破滅」をもたらすものと

思われて仕方がないのであります。

管理人はやはり、<いのち>の重みに賭けます。

「人間において<永久の未完成こそ、これ完成である>」

かつての賢者はそのような「求道」的生き方の中で

人間の究極の理想を夢見、希望を見出したといいます。

が、こうした一見矛盾を内包させる歩みの中にこそ、

管理人も絶望に思われる状況下においてさえ、

希望の光が遅かれ早かれ差し込んでくるものだと確信しています。

それが、管理人自身が今のところ抱く「幸福論」であります。

年末年始あれやこれやで忙しい日々を過ごしている管理人ですが、

「幸福論」や「平和論」といった今もっとも<切実に>要請される宿題

『100分de名著 ラッセルの「幸福論」 NHKテキスト11月』

(小川仁志先生ご担当)を手引き書としながら、

本記事創作の傍らで読み進めて参りましたが、

どうやらラッセル自身も何らかの形態での「宇宙意思」なる存在を

確信していたようなのです。

管理人自身のラッセルとの出会いは、高校時代に自習用教材として

自ら探し出した南雲堂の<現代作家シリーズ>における

『対訳ラッセル4』が直接的きっかけになりましたが、

10代の頃、最初に一番興味関心=「心」惹かれた西洋哲学者が

このラッセルとヤスパース、そして本書でも考えるヒントとして

援用されていたハイデガーとのご縁だったことを思えば、

やはり各人各様の人生における思想形成にも

何らかの「宇宙意思」が働いているとしか言いようがありません。

「平和論」と絡めて、特段、日本国憲法第9条を引き合いに出すことも

その独自的批評解釈ももはやこの場ではいたしませんが、

ここでもたまたま数秘術上の管理人の誕生数が「9(完全数)」であることを思えば

もはや単なる「偶然」には思われない「何者か」に突き動かされているように

感じられてならないのです。

最近よく見る夢にも、

景行帝がヤマトタケル命にねんごろに教え諭されたお言葉である

『(大和民族言挙げせず)言向け和らげよ!!』という場面が

頻りに出てくるのです。

これまたそんな矢先に飛び込んできた神聖なる聖域で起きた惨劇報道だった

ものですから、来年以降の世界の雲行きを暗示しているものかと思うと

内心ゾクッとする悪寒を覚えます。

年末年始を迎えるに当たって、

くれぐれも<日本及び日本人>は、

「言挙げ(暴力的行為)」に荷担(肩入れ)することなく、

世界平和(『四海泰平、人類一家みな同朋』)の調停役を担う役目を果たしていくことが

強く望まれます。

これだけは是非とも世界へ向けて、

竹村健一さんではありませんが、

管理人の『あ~、いっぺん言うてみたかった!!』であります。

そんなこんなで管理人の終生尽きることのないテーマは、

『<あいだ=はざま=境界線上>の哲学』になってきており、

世俗上の政治的価値観(右するか左するかの二項対立的世界観)に

いつまでも執着する途上から抜け出る道を模索しているわけですが、

この角度からも先週読み終えた

・『自由のこれから』(平野啓一郎著、ベスト新書、2017年)

と今週読み終えた

・『入門 ユダヤ思想』(合田正人著、ちくま新書、2017年)

触発、励まされることが多々ありました。

ここに感謝申し上げます。

というわけで、今後ますます<非人称的コミュニケーション(発信時においては

「実(固有)名」的ではあり得ても、ネット上・非ネット上を問わずに拡散途上で

やがて誰が発信したかも不透明になっていく「匿名」的コミュニケーションへの

変革過程そのものを象徴したものとしてのコミュニケーションイメージ像)>が主体となり、

「人間」そのものが単なるコミュニケーション上の<結節点>の一部と化していくことが

予想される過渡期において、本書を手がかりに『情報社会の<哲学>』を

探究してみました。

まだまだ語り尽くせない話題もありますが、また追々ということでご寛恕頂き、

今回はこのあたりで筆を擱かせて頂くことにいたします。

それにしてもまたしても『NHK』に話題が及んだことと、

今回の主題が<メディア>の近未来像ということとも絡んで最後に一言だけ・・・

「あのNHK受信料に関する最高裁による<合憲>判決の結論とは

一体全体何だったのでしょうか?」

(ちなみに、当判決に関するメディア情報は

こちらの記事をご参照下さいませ。)

管理人は法学畑を歩んできた体験もあるだけに、

学生時代の貧乏生活途上で、何とかして受信料節約の方途を

法理論上も友人知人たちと考えたこともあったのでしたが、

これだけメディアが多様化する時代であり、

また、これまで当書評記事でも触れさせて頂きました

契約上の「選択アーキテクチャー」が大きな話題ともなる時節柄、

裁判官の判断材料となった法学的センスも

「何とまぁ~、古すぎ(石頭)やしないか・・・」とも

感じられた次第です。

(ちなみに、この「選択アーキテクチャー」の法学的視座に関する

ご参考資料として、正木宏長先生が寄稿された『立命館法学』記事

ご紹介しておきますね。)

皆さんは、この「NHK受信料問題」をどう思われましたか?

貴重なご意見があれば、是非お聞かせ願えると幸いです。

建設的議論がさかんに盛り上がっていくことこそが、

真の意味における「民主主義の成熟度!!」だと

管理人も確信しております。

民主主義の成熟度へ向けては、やはり教育啓蒙活動が重要となります。

とはいえ、皆さんもあまり肩肘張らずに

ざっくばらんな時事論評を楽しんでみてはいかがでしょうか?

間違っても、「議論を巡っての大喧嘩は御法度!!」ですけどね・・・

それでは、

本年書評記事は現在のスケジュール予定の限りでは一応ここまでということで、

年末年始のご挨拶としては少し早いですが、

「良いお年を・・・(笑)」でございます。

(とはいえ、残りわずかのすきま時間に是非とも何かお伝えしたい情報が出てきましたらば、

加筆修正させて頂くこともあるかもしれませんが・・・)

読者様の中で、

何か「こんな話題を扱った書物を紹介して欲しいんですけど・・・」といった

ご要望がございましたら、管理人自身の新たなジャンルの開拓にもなりますし、

創作意欲や学問探究の糧ともなりますので、

是非ご遠慮されることなく、コメント欄もしくはお問い合わせ欄まで

宜しくお願い申し上げます。

管理人自身も、仲間とともに私的「読書会」などで学び得た情報などを

今後とも皆さんにご提供させて頂く予定でいますので、

楽しみにしてお待ち下さいませ。

本年も当書評ブログご愛顧のほど誠にありがとうございました。

それでは皆さん、いつもながら長文にお付き合い下さり、

重ね重ね最後までお読み頂きありがとうございました。

平成29年(2017年)師走年の暮れ

12月「16日」聖天(大聖歓喜天)様ご縁日にあたり

その「御心」を拝受して・・・

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