キャス・サンスティーン教授とともに学ぶ『選択しないという選択』<勝手に選別評価されゆく>時代に抵抗する手段とは!?

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『選択しないという選択~ビッグデータで変わる「自由」のかたち~』

アメリカの法哲学者キャス・サンスティーン教授による最新邦訳書。

最近、何かと話題になるビッグデータとプライバシー問題を

主題に法哲学者の立場から問題提起された論考です。

「<勝手に選別評価される社会>に異議あり!!」

「人間の行動基準の自由度はどこまで可能か?」

そんなことも示唆してくれる1冊。

今回は、この本をご紹介します。

『選択しないという選択~ビッグデータで変わる「自由」のかたち~』(キャス・サンスティーン著、伊達尚美訳、勁草書房、2017年第1版第2刷)

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・『<序曲>ならぬ<序章>』

皆さん、連日のうだるような暑さの中、いかがお過ごしでしょうか?

久方ぶりの記事更新で少し緊張気味の管理人ですが、

今回も皆さんとともに書籍のご紹介とともに遊んでまいりましょう。

いつものように硬軟織り交ぜて・・・

さて、管理人も日々、自身の<働き方改革>を実践しつつ、

己の人生哲学とともに身心を磨きつつある途上にありますが、

なかなかワーク&ライフバランスとは困難な道のりですね。

やはり、<経済的独立>とはほど遠い身の上で、

雇用されている身でもありますから、

単独での雇用時間の調整がうまくいきません。

組織単位での仕事ともなれば、チームワークが何よりも重要視されますので、

同僚の休業などにも当方とて柔軟に対処しなくてはなりません。

そんなわけで、最近は、当初想定していたような時短労働計画も

修正を余儀なくされている我が身かなであります。

フルタイム勤務・・・

それも、仕事内容にメリハリもなく、

あまり頭脳も使わなくて済む単調な

ちょっとした軽い肉体労働ともなると過酷とまではいかずとも、

仕事リズムにおける変化も乏しくなるために、

職場での人間関係などによる

ストレスとはまた違う意味での疲労感も溜まります。

そんな個人的な愚痴をここで語っても仕方なく、

読者の皆さんをご不快な気分へと誘うことは本意ではありませんので、

この程度に止めておきますが、こんな嘆息が連日続く管理人です。

とはいえ、職場での人間関係は、一部の例外を除き、

そこそこ良好な関係を保ててもいますし、

課外での人生計画も少しずつですが、進捗してきており、

新たな同好の士との交流も開けてきていますので、

誠に有り難いことではあります。

そんなこんなで好きな読書や書評記事創作の時間も

なかなか予定通りにうまく捻出出来ずに、

管理人自身も大変もどかしく、

楽しみにお待ち頂いている読者様の

ご期待に添えずにご迷惑をおかけしています。

とはいえ、そんな厳しい更新環境の中でも、

近日には一部の読者の方にも当ブログ記事を

ご紹介して頂いているようで、ここに篤く御礼申し上げます。

特に、女性の方の視点を学ぶことが出来て、

貴重な学習機会を頂けたことは有り難いことです。

あらためて感謝申し上げます。

このような現状で、

皆さんと語り合いたいテーマも積もり積もっている管理人ですが、

ここは冒頭での序説ですので、後ほど、

本書のご紹介が終わり次第、いつもながらの自由エッセー項目部にて

続編を語らせて頂くことにいたします。

そのオチはどうなることやら・・・

最後まで分からないところも、文章創作の面白さであります。

ということで、大阪では、<大阪3大祭り>の1つとも言われている

愛染娘が、宝恵かごに担がれて練り歩く愛染祭りも終幕した7月初頭。

ここからが夏本番になります。

皆さんもこの梅雨に特有な蒸し暑さの中、

ご自身の体調管理にお気をつけて頂くとともに

是非とも熱中症対策には念入りのご配慮をお願い申し上げます。

管理人も毎日、多めの水分補給と塩飴(それも、伯方の塩入り飴!!)を

休憩中などに頂きながら、外での作業に従事しています。

それでは、長い前置きはここまでとしまして、

本書ご紹介へと移らせて頂くことにいたしましょう。

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まず最初にいつもながら著者のご紹介から開幕させて頂くことにしましょう。

キャス・サンスティーン教授(以下、著者)は、

米国はハーバード大学ロースクール教授で、

ご専門は憲法学、法哲学、行動経済学など多岐にわたる領域で

活発な研究活動やその他一般向け啓蒙活動もされているとのことであります。

前にもご紹介させて頂いた『行動経済学の逆襲』の著者である

リチャード・セイラー教授との共著もあります。

邦訳書では、『実践 行動経済学~健康、富、幸福への聡明な選択~』

(キャス・サンスティーン氏との共著、日経BP社、遠藤真美訳、2009年)

公刊されています。

著者は、米国最高裁判所や司法省においても勤務経験がおありで、

前オバマ政権では、行政管理予算局の情報政策や規制政策担当官に就任されるなど

数々の「公職」経験豊富な学識者でもあります。

著者は、リチャード・セイラー教授の著書ご紹介記事でも

軽く触れさせて頂きましたように『ナッジ』理論(緩やかな公共選択誘導手法の探究)や

今、米国でも話題の公共政策思想(哲学)である『リバタリアン・パターナリズム』の

積極的主唱者の1人に数えられています。

その他の詳細なプロフィールなどは、

本書<解説>部(本書227~237頁)における

慶應義塾大学教授でいらっしゃる大屋雄裕先生による

ご紹介文に委ねさせて頂くことにいたします。

これまでに公刊された邦訳書には、

『インターネットは民主主義の敵か』(石川幸憲訳、毎日新聞社、2003年)

『熟議が壊れるとき~民主政と憲法解釈の統治理論~』

(那須耕介編・監訳、勁草書房、2012年)

『恐怖の法則~予防原則を超えて~』

(角松生史・内野美穂監訳、勁草書房、2015年)などがあります。

今回ご紹介させて頂く著書は、このように「法哲学」という

一般の方にはあまり馴染みがないであろう難解な学問からの知見が

散りばめられた「専門書」部類に属する書籍となります。

ですので、法学を学ばれたご経験のない一般読者様におかれましては、

一読した限りでは理解しづらい箇所も多々あろうかと思われますが、

論旨は、本書『結論』部<デフォルトによる自由>(本書217~221頁)にて

明快かつ簡潔にまとめられていますので、

本書を読み進められていくうちに、

著者が語る内容がイマイチよく掴めないなぁ~と思われた時には、

いったん本書の該当頁に栞かポストイットなどを挟んでおいて、

この『結論』部を先読みされることをお薦めさせて頂きます。

この手法は、難解な分野における勉強が行き詰まった際などにも

皆さんにご使用頂ける優れた方策であります。

本書要約ご紹介記事に移らせて頂く前に、

ざっと本書における主題をまとめさせて頂きますと、

『インターネット時代(以前からもすでに存在する重要問題ですが・・・)に

おける「選択の自由」はどこまで可能か?』という問いに対する

著者による1つの試案論考ということになります。

とりわけ、個々人における「意思決定」の自由度はどこまで許容され、

個々の利用者に配慮された「選択肢(本書では、<デフォルト・ルール(初期設定)>」が

どこまで官民側から用意されているかという話題が

事例紹介とともに検討されていく内容となっています。

(ちなみに、本書における頻出・主題キーワードである

<デフォルト・ルール>につきましては、

再度、要約記事本文内でも丁寧に語らせて頂きますので、

とりあえずは、<序章>ということで省略、先へと進ませて頂くこととしますね。)

また、この<デフォルト・ルール>というある種の予め準備された「選択肢」を

分析考察することで、人間がまったく「白紙」の状態から「意思決定」の

判断を下すことがいかに難しいことであるかも

再認識させられていくことになります。

そのことは同時に私たち現代人が、当たり前のように自明視してきた

見方をも一変させていくことになります。

とりわけ、義務教育における「公民」教育以来、

私たちが馴染んできた(馴染まされてきたと表現した方が適切かもしれませんが・・・)

近現代的自由「観」に対する大変厳しい再検討を促されることになります。

それは、卑近な例をとっても、

「なぜ、私たちはなかなか物事を決められないのか??」や

「なぜ、国会論議などでは議論が噛み合わずに

いつも真の争点からずれていく傾向が多く見受けられるのか??」など

議論の焦点を1つに収斂させながら、「成熟」した共通<対話>が成立するための

基準点をどこに設定させていけば、

より深く優れた議論を展開することが出来、

より望ましく練り上げられた結論へと至ることが叶うことになるのかを

探る論考をも兼ね備えています。

本書は、その「練習帳」の役割を果たしてくれているようです。

そうして導き出された社会的合意ルール=デフォルト・ルールも決して不変ではなく、

常により優れたものへと進化発展させ得る可能性を内在させたものとして

位置づけ直そうというのが、著者からの提案でもあります。

それが、本書における単なる消極的受け身に止まらない

『選択しないという選択』の骨子でもあります。

その詳細内容は後ほど要約記事本文内でも繰り返し言及させて頂くことにしますが、

<選択アーキテクト(選択肢=ルール設計者)>によって事前に与えられた

<デフォルト・ルール(初期設定モデル)>をそのまま受容するか否かを巡る

実際の選択決定場面において、選択者の立場からも

「能動的」判断を加えたうえで

いかに「再」設定修正選択することが可能になるか、

その条件を探るところに著者の議論の主要点があるとも言えましょう。

ところで、「法哲学」の本来の趣旨も、社会に散在する多種多様な価値観を

いかに調整していけば、皆にとって生きやすい世の中へと進化させていくことが

可能になるか、その条件を「法」という名の<デフォルト・ルール>の

創造とその創造基盤となる根拠哲学(思想)を様々な観点から

探究していくことにあります。

さらに、今後急速に私たち人類に差し迫ってくる人工知能からの問題提起である

「ビッグデータ」解析から見えてくる「最大公約数」的な情報が

真に信頼し得るものなのか否かを考えていくことも

本書のもう1つの隠された主張であります。

それは、貴重な「少数派」の意見をいかに守り育てながら、

必ずしも世間の常識とされる「集合知」と称される主流見解を絶対視せずに

流されない勇気と知恵を探究する知的試みとしても読み解くことが出来ます。

そうした考え方や行動するための叡智を皆さんとともに

本書を通じて学んでいきたいと思います。

このように価値観がますます多様化し、

社会における共通合意形成が難しくなりゆくことが避けられない中、

今後どのような方向で良質な社会(公共)的コミュニケーションを図っていけばよいか

悩まれているすべての方へお届けさせて頂く1冊として、

今回はこの本を取り上げさせて頂くことにしました。

事前準備されたデフォルト・ルール(初期設定)によって、ますます私たちの「選択の自由」は狭められていくのでしょうか??

それでは、本書の内容構成に関する要約ご紹介へと移らせて頂きましょう。

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・「はじめに」

・「序章 選択」

※「はじめに」では、

これから本書において展開される議論の概要と問題意識が示されます。

「選択の自由」と言えば聞こえはいいですが、

実際に選択肢が多すぎるのもかえって自由な選択を妨げるという逆説に

突き当たるというのが、一般人の通常の姿でもあります。

こんな場面に遭遇した場合、誰しも何らかの「標準仕様モデル」のような

選択判断メニューが予め用意されていれば、

「選択しやすいのになぁ~」と実感するのが、実際の心理だと思われます。

その予め用意された「標準仕様モデル」のような選択メニューのことを

本書では、<デフォルト・ルール(初期設定)>として表現されています。

そのことで、人々は、無用な悩みに時間と労力、はたまた経済的コストを

費やすことなく、本来の関心目的に注意を振り向けることが可能となります。

言い換えると、「思考の節約」が可能となるというわけです。

本書では、この考えがある程度までは妥当であることを証明しつつ、

そうした考えの限界をも明示するところに議論の力点があります。

一方で、人々の選択判断材料として<最適化された>と強く推定された情報資料として、

今後ますます進展・集約されていく<ビッグデータ>の活用などによって、

きわめて局所的に偏った価値観へと知らず知らずのうちに誘導されてゆくのではないかとの

懸念もされているところです。

すなわち、自由な情報選択というには、現実問題として、

圧倒的な情報の「非対称性(個々の選択者における持ち得る情報判断材料の格差)」も

存在していることから、

ここでも情報分野における機会の均等が必ずしも保証されているわけではないとの

難問に突き当たることになります。

そのうえ、大手オンラインショッピング情報サイトなどに見られるような

「あなたへのお薦めです!!」なる個別的推奨メニューが

「個別的」デフォルト・ルールとして指し示されることも

今後ますます増加する傾向にありますが、

そのことが果たして選択者の本当の嗜好に適ったものであるのかと

疑問視されている方も多いのではないでしょうか?

ことに、書物「偏愛」者を自認される読者さんであれば、

いつもこうした疑問点が思い浮かぶのではないでしょうか?

つまり、「似たり寄ったりの同じような内容の本には

つくづく飽きてきたんだけど・・・、もっと別の観点からの

知的刺激を与えてくれるような本こそ読みたいんだけどね・・・」といった

ような溜息も聞こえてきそうですね。

まぁ、書評ブログまで熱心に読まれているような読者さんであれば、

オンラインショッピングよりも

直接の店頭での「立ち読み」ショッピングの方をこそ、

大切にし親しみを感じられている方が大半だと思われますが・・・

なぜなら、本当に自分自身に適した出会いは、

人間同様に直接「対面」でしか心が通じ合えないものですからね。

それはともかくとしまして、

著者は、最初に示された<デフォルト・ルール(初期設定)>に

選択者側によって過去に選択決定された情報を付加していくことで、

個別的に修正変更されていく「個別化」したデフォルト・ルールが

選択者にとって「恩恵」となる反面、その限界ともなり得る問題点も

提示しながら、読者とともに考えていく議論材料を提供されています。

選択者によって<デフォルト・ルール>に手が加えられた「能動的」選択と

時には、意図的(積極的)に『選択しないという選択』によって

<デフォルト・ルール>を採用するという「簡略な能動的選択」の

双方の利点などを様々な事例問題を思考実験材料として

比較考察しながら検討を加えていくのが、

本書の大まかな議論の流れとなっています。

次の「序章 選択」では、『自由論』の著者であり、

現代「功利主義」哲学者の元祖と評価されることの多い

ジョン・スチュアート・ミルが提起した議論内容を引用しつつ、

現在最先端の「行動経済学」によって導き出されてきた知見との

比較考察から、ミルの主張の根拠にも今日的には様々な疑問点が

孕まれていることなども浮き彫りにされていきます。

(本書14~19頁<自由について>ご参照のこと。)

そして、この「序章」にて、

本書が目指す<4つの目標>(本書19~22頁)、

<主な結論-予告>(本書23~26頁)、

そして、<本書の構成>(本書26~27頁)として

それぞれ本書で展開される議論内容の概要が簡潔にまとめられています。

それぞれの解説をここでご紹介すると煩瑣ともなり、

以下での各部における要約とも重なりますので、

ここではこの程度に簡略化させて頂きますが、

本書を読み進めていかれるうちに「迷子」になってしまわれた方には、

折に触れて、冒頭で語らせて頂きましたように、

本書『結論』部<デフォルトによる自由>(本書217~221頁)及び

本書<解説>部(本書227~237頁)とともに

上記3項目の該当箇所を読み合わせられることで

各部における「本道」へと戻ることが可能となりますので、

1つの読み解き方としてご推奨させて頂くことにします。

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<第Ⅰ部 人間の行動>

①「第1章 デフォルトで決定する」

②「第2章 とりあえず選択する」

※さて、先程から<デフォルト・ルール>という専門用語を使用してきましたが、

この言葉は、人々に選択判断をしてもらう主体(本書では、<選択アーキテクト>

もしくは、<選択アーキテクチャー>という表現がなされています。)から

選択者側に選択意志決定してもらいやすいように

予め何らかの「基準」となるような

選択メニューリスト(=初期設定あるいは標準メニュー表)を

「設定」しておくことを意味する用語表現であります。

ちなみに、この<デフォルト・ルール>とよく似た紛らわしい言葉として、

デファクト・スタンダード>という言葉もしばしば目にする機会があるかと

思われますが、厳密には少し異なるようですね。

<デファクト・スタンダード>という言葉は、どちらかというと、

「結果から見た<事実上>の標準仕様として浸透したモデル」という

意味合いが強いようですね。

この<デフォルト・ルール>に対して、人々が実際に選択意思決定する際に

具体的にどのような行動に出ることが多いのか、

また、心理について「行動経済学」的に分析して得られた知見が

「第1章」と「第2章」において解説されています。

簡潔にまとめますと、<デフォルト・ルール>は、あくまで「初期設定」であり、

ルール「設計者(選択アーキテクト=アーキテクチャー)」からの

推奨モデルにしか過ぎませんので(もちろん、経済上のルールとしての

契約約款事例が具体例として挙げられることが多く、

一般私法上の<契約自由の原則>に基づいて取引されることが、

理想モデルですが、その取引上の拘束力関係についての

強弱問題は常につきまといます。特にそうした力関係において

「選択者」側が不利な状況におかれることが多いために、

現在では「消費者」契約上の大原則として、

説明責任などが厳しく課されるようになっています。

各種「消費者」関連法令(消費者契約法、特定商取引法、

金融商品取引法など多数)の存在意義も

この「格差」を少しでも是正・解消しながら、

対等な取引当事者として一般「消費者」が扱われるように

保護する趣旨としてあります。)

<デフォルト・ルール>から「オプト・イン(参加・加入選択すること)」も

「オプト・アウト(反対・拒絶して退出選択すること)」も可能ではあります。

とはいえ、現実の経済社会では、

企業や公共機関など「ルール設定者」側の力が

圧倒的に優位に立つために、事実上の強制力が働きすぎる結果となります。

そんなこともあって、日々の生活に忙しく、

不便を強いられることも出来れば避けたいのが、

一般消費者の心理現状ですから、あまり具体的な検討もすることなく、

<デフォルト・ルール>にそのまま従う(本書では、<固着する>という表現が

使われています。)ことが「通常」の取引実状だと思われます。

「では、なぜ人々は、<デフォルト・ルール>に従うことが多くなるのか?」

その理由を分析考察したのが「第1章」の解説内容となります。

それでもやはり問題ある<デフォルト・ルール>が世の中に多いのも困りもの。

そんなわけで、<デフォルト・ルール>にあえて従わない

本書の主題『選択しないという選択』という名の「能動的」選択を

積極的に採用する根拠も生まれます。

そうした場面での<デフォルト・ルール>に従わない(つまり、

<固着しない>こともあるということ。)理由や

それでもなお、「とりあえず選択する」理由に関する

さらなる詳細な分析考察が「第2章」の主要論点となります。

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<第Ⅱ部 道徳と政策>

③「第3章 情報を与えられた選択者と悪いデフォルト」

④「第4章 選択を受け容れる」

⑤「第5章 選択を要求するパターナリズム」

<第Ⅱ部>では、「道徳と政策」に関する<デフォルト・ルール>の

分析考察が主題となりますので、

政府などの公的部門に属する選択アーキテクトに関する各種話題を

中心に民間部門にも共通する論考が進められていきます。

ここで重要な視点は、「自由」社会において

理想とされる<デフォルト・ルール>のあり方を

いかに捉えていくかということであります。

「第3章」における著者の議論骨子は、

『デフォルト・ルールを設定するとき、選択アーキテクトは

情報を与えられた選択者が何を選ぶかを尋ねるべきである』(本書93頁)という

ところにあり、その際における

『情報を与えられた選択者という概念にどの程度中身を与えるか』(同上)に

より注意を払う必要があるとのことです。

こうした議論を展開するうえで、是非とも忘れてはならない視点は、

選択アーキテクトが、選択者の選択意志決定の判断内容に

どこまで「介入」することが許されるかという難問が

ここには含まれているということであります。

著者は、『自由論』の著者ジョン・スチュアート・ミルが

提起した問題意識とともに現代要素も加味して

独自論考を進めておられるのですが、

この「他者危害の原則」がどこまで及ぶのかという領域設定は、

現代でも解決しているとは言い難く、

そう簡単に片づくような生やさしい問題ではないことは

踏まえておかなくてはなりません。

前回記事でも、国家が用意した法案に関して、

<必要性>と<許容性>の配分をどう設定すれば、

自由民主主義を大前提としてきた現代社会により望ましい内容となるかを

恐れながら少し私見も披露させて頂きましたが、

今回の著書とともにあらためて

ミルの『自由論』(斎藤悦則訳、仲正昌樹解説、光文社古典新訳文庫、

2012年初版第1刷)も併せて読み進めながら、

考え直していると、そう簡単に結論を導き出せるような易問ではないことも

判明してきました。

(ちなみに、上記『自由論』の解説者である仲正教授も著者が提起されている

問題点について少しだけ触れられています。上掲書292~293頁ご参照のこと。)

ミルの問題提起は今後とも重要な論点であることには変わりありませんので、

著者も別著で論じられているように

自由民主主義社会における「熟議」が成立するための条件について、

ともに考えてみようと思われる方には

是非ご一読されることをお薦めさせて頂きます。

その第一条件とは、

何よりも個々人が良質な学習習慣を持つことで、

社会に積極的に関与しようという「関心」を持つことにあります。

『「勉強」は、学生時代で終わり!!ではなく、<社会人>になってからこそ、

いよいよ実地本番が始まるのです。』

『人間であることを諦めない限り、生涯学習は必須課題であります。』

『でないと、人工知能などによって、<勝手に選別評価される>ことになり、

ますます社会の片隅へと追いやられ、肩身の狭い思いをしなくてはならないことにも

なりかねませんからね・・・』

閑話休題。

「第4章」では、「能動的」選択の各種具体例の分析考察から

得られた知見が、「第5章」では一見すると押しつけがましいと

思われるパターナリズム(国家温情主義あるいは家父長的姿勢)も

必ずしも、「能動的」選択と矛盾するわけではないことも示されていきます。

とはいえ、著者は、リバタリアン(可能な限り、個人の意志決定の自由を

確保すべきだという思想的立場)でもありますので、

過度なパターナリズムにはやはり警戒感も必要だとの認識をお持ちであります。

結論として、著者は、「リバタリアンパターナリズム」の立場から

論考を進められていますので、そのバランス配分が

本書での主要論点だということに尽きます。

あくまで、パターナリズムにせよ、デフォルト・ルールにせよ、

それへの対峙の姿勢は、自ら「能動的」に考えながら、

取捨選択していく姿勢を最後まで放棄しないというところにあります。

ミルの『自由論』のテーマとも共通しますが、

『自由の原理は、自由を放棄する自由は認めない。自由の譲渡まで

認めるのは、断じて自由ではない。』(上掲書248頁)ということが、

大方の良心的「自由主義者」の見方でもあるようです。

このミル自身の考えに対する一応の著者自身からの回答は、

本書144~146頁<自由と自由の譲渡>と題する一節にて

されていますが、

近代リベラリズムにおけるいわゆる「功利主義者」とされる

(この表現自体、今日ではマイナスイメージが付着しているために

精確に理解されているとは言い難いですが、ミル自身の思想を上記『自由論』などを

あらためて精読してみた読後感では、ベンサムとはかなり異なった

道徳・倫理意識の高い思想家のように実感したのが、

管理人自身の率直な感想です。)ミルと

著者自身の現代「リバタリアン」的立場との相違点も

垣間見られる興味深い論考でもあります。

また、「第5章」で問題提起された著者の議論における帰結は、

<簡単なまとめ>(本書158~159頁)に集約されています。

いついかなる時も、積極的な『選択しないという選択』を介した

<デフォルト・ルール>(=著者は<簡略な能動的選択>と表現)が

すべてでもないし、その選択が適している時も

場合によってはありだが、

『多くの状況では、簡略な能動的選択は最善の方式』(本書159頁)だと

されています。

まとめますと、<デフォルト・ルール>を前にして、

選択者自身が、積極的に学習する機会がきちんと確保されているか否かが

「自由」を担保するために欠かせない要点だということです。

著者は、その重要性について、「第4章」の一節である

<学習、行為主体性、尊厳>(本書111~121頁)でも

「能動的選択」の優位性について強調されています。

また、「自由」には当然ながら「責任」も伴います。

この「責任」を問えるためにも、

選択判断及び決定の「自由」が保証されていることも重要なところで

あります。

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<第Ⅲ部 未来>

⑥「第6章 個別化」

⑦「第7章 デフォルトであなたのもの?-予測可能な買い物」

⑧「第8章 強制」

⑨「結論 デフォルトによる自由」

※<第Ⅲ部>では、<第Ⅰ部>と<第Ⅱ部>での議論を踏まえたうえで、

今後の未来において予想される諸論点について考察が深められていきます。

この<第Ⅲ部>では、いよいよ、「ビッグデータ」時代における

「選択の自由」問題について検討が加えられていきます。

その論考内容こそ、本書での「売り」ですので、

ここでは控えめに省略させて頂きますが、

一点だけ注意を喚起しておきますと、

<第Ⅱ部>「第5章」でも取り上げられた問題事例である

いわゆる「市場の失敗」が絡んだ「外部性」や「集合行為問題」が

発生してきた時において、

具体的にどのように問題解決を図っていくかというところに、

著者独自の「リバタリアン・パターナリズム」としての発想が

現れ出ています。

その著者からの一応の回答が、「第8章」で提出されることになります。

著者の魅力でもあり、面目躍如たる姿勢は、

かつてシカゴ大学ロースクールでも教鞭を執られたこともありながら、

必ずしも、「シカゴ学派」特有の思考癖に囚われていないことや、

「リバタリアン」に特有な「原理主義」に過度に与されていないところにも

見られるようです。

また、ことに日本の「新自由主義」に親しみを感じる論者に

見られるような硬直した姿勢も見られないところが、

著者から学んで良かったと感じられたところでした。

やはり、「プラグマティズム」の国アメリカならではの

文脈と現実的解決を目指した知的姿勢からは

学ぶべき点が多々あるように思われます。

日本の法学部などでは、「法哲学」が講義される時に、

よく「リバタリアンVSコミュニタリアン」論争に終始したり、

「自由主義VS保守主義VS社会主義・・・」などと

杓子定規なイデオロギー的「セクト(党派・派閥)」主義に

すぐにも陥ってしまうことが多々ありますが、

著者の論考を読み進めながら、真摯に検討を重ねていけば、

「世の中、そんなに単純に思想的区分けで割り切ることなど出来ないよなぁ~」といった

当然の帰結へと至ることになります。

つまり、実際の社会で生起してくる諸現象の「文脈」から

離れたイデオロギー的解決を無理に推し進めようとしても、

かえって問題解決から遠ざかってしまうということも

本書を通じてあらためて学ばせて頂いた教訓でありました。

本書を読み進めながら、現代日本に山積みとなっている諸課題への

解決方法に対する諸議論を思い浮かべてみても、

まだまだ「バカの壁」(養老孟司先生の造語)が

日本社会には多すぎるように思われます。

この「バカの壁」をいかに乗り越えていくかが、

管理人も含めた現役世代からの次世代への責務だと

痛切に感じているところです。

著者自身は、一定の「限定された」パターナリズムをも容認されていることは、

ここまで語らせて頂いたとおりですが、

本書における重要論点の1つですので、

再度繰り返し強調させて頂きますが、「市場の失敗」などにより

社会に多大な損害が生じ得る場合には、

『社会福祉の観点から、デフォルトも含めた代案よりも好ましいという

理由で、命令もしくは禁止令が最良である事例を特定することは可能である。』

(本書202頁)

また、『最終的に、社会福祉を根拠に命令が正当化されるかもしれないことを

誰も否定するべきではない。しかし自由な社会では、少なくとも一般的な

市場の失敗がかかわらない場合、選択の自由を保持する、

それほど押しつけがましくない代案で始めて、普通はそれで締めくくるのが

理にかなっている。』(本書215頁)

というところに

パターナリズムへの一定の限界点を設定されているところに

著者の特徴が見られます。

つまるところ、その境界線(つまり、いかなる場合に国家による「介入」が

許容されるか)をどこに設定していくべきかは、

まさしく「自由民主主義」の成熟度次第ということになるようです。

今日、国家の選良(ベスト&ブライテスト)と評されてきた

エリート指導層への不信感がきわめて強く芽生えてきている現状を鑑みると、

私たち1人1人の絶えざる社会への高い関心度合や

学習意欲、知的好奇心の重要性への期待が高まるばかりです。

厳しい20世紀の思想対立の中で、

現代福祉国家における理想像の方向性を指し示したイギリスのケインズ卿も

この「選良」の条件(<ハーベイ・ロードの定理>と言います。)こそに

厳しい眼差しを据えていたことも忘れてはなりません。

この定理が崩れる時、民主主義を大原則とする以上は、

私たち一般民衆における常日頃からの成熟度も厳しい審判に晒されることになります。

なぜならば、一般民衆の知的水準以上の「選良」を選択することも

審査することも、きわめて困難だからです。

そうした意味で、民主主義制度を大前提とする限り、

教育水準の高低と知的関心度合の強弱が一国の独立をも

左右することになります。

一時的な○○旋風が、今日日の日本社会での大流行ですが、

こうした社会風潮から一定の距離がとれ、

良識ある判断と選択を下せるかが、

明日の私たちの運命をも決定づけるということです。

なお、最後にその他の課題として、

「プライバシー問題」にも言及させて頂こうと

当初は予定しておりましたが、紙数の関係と

本書の主題「選択の自由」からは離れてしまうことにもなり、

ただでさえ、難しいテーマであるところ、

読者様の混乱に一層拍車をかけてしまうことにもなりかねませんので、

また別の機会にでも論じさせて頂こうかと思います。

著者自身による「プライバシー問題」に対する回答は、

「第6章」<情報の入手とプライバシー>(本書180~182頁)にて

なされています。

今後の動向予想として、著者は、

「個別化した」デフォルト・ルールが優勢になっていくだろうと

一応の推測は立てられておられますが、

それも「文脈次第」であり、学習と行為主体性を促す「能動的選択」にも

より一層の注目が集められ、両者のせめぎ合いが強まるだろうことも

示唆されています。

ということで、本書は専門書でもあり、

なかなか簡潔に要約することも難しい部類の書物ではありましたが、

著者の最終結論は、

冒頭でもすでに触れさせて頂きましたように

「結論」に集約されておりますので、

詳しくはそちらをご一読して頂くことで、

読者様の「お楽しみ」とさせて頂くということでお許し願います。

ともあれ、「良書」ではありますので、

大学でのゼミナール授業教材や

民間企業や官公庁での契約書作成や政策案作りのご参考文献として

ご活用下さることをお薦めさせて頂きます。

いずれにしましても、「個別化していない」デフォルト・ルール、

積極的な能動的選択、簡略な能動的選択、

「個別化した」デフォルト・ルールのどれが最適かは

選択者が置かれた「文脈」によって異なってきますので、

一律に「これだ!!」と決定出来るものではないということを確認しつつ、

それぞれの長所・短所を本書から学んで頂いたうえで、

より優れた選択判断材料として本書をご活用頂ければ

紹介者としてこれに勝る幸いもございません。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・「謝辞」

・「解説」(慶應義塾大学教授:大屋雄裕)

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<勝手に選別評価されゆく>評価型政治経済社会に「異議申し立て」する方法論をともに探究していきましょう!!~民主主義「原論」再考のススメ~

さて、硬派な議論が続きましたので、

ここからは少し頭を柔らかくしつつ、

エッセー記事へと移らせて頂くことにしますね。

あらためて、おさらいになりますが、

本書では、選択アーキテクト(<デフォルト・ルール設計者>)によって

予め指し示された判断メニューを選択者がいかに取捨選択していけば、

本来の「選択の自由」が、選択者に確保され得るのかという

そのための条件が論旨展開されてきました。

言い換えるならば、<自由な環境を維持するための条件>であります。

本書では、それぞれの<デフォルト・ルール>を「文脈」によって

検討・吟味したうえで、選択者にとって「最適化」された最終決定選択メニューを

使い分けすることで、自由度を高め、堅実なライフスタイルを構築するために

必要な考えるためのヒントが提案されてきました。

そこから見出されてきた教訓は、

究極のところ、「便利さ・快適さに負けて、考えること(自由)を放棄しては

後々、後悔(不自由な環境)へと押しやられるよ・・・」ということでした。

つまり、「分かりやすさ」の罠に嵌り込んで、

単純な好悪感情のみを基準に、重要な選択判断をする際における

意思決定過程を軽視していると、

ますます「見えない」壁にいずれぶち当たることになるよ・・・ということです。

こうした「分かりやすい」選択肢と「○×式」選択判断が組み合わさった時に

社会に徐々に「毒」が回り始めます。

事後的な批判は誰でもしやすいものですが、

事前の高度な想像力を働かせたうえでの厳しい審査は

なかなか難しいものです。

なぜなら、通常は、そんな選択判断など面倒臭くて惰性に陥りやすいからですね。

そんな時に頼りになるのが、

歴史的教訓から得られた叡智を汲み取ったより確かな「審美眼」であります。

確かに、社会に散在する難しい論争点に巡り会った時に、

「分かりやすい」選択肢がなければ、選択判断に困るということは日常茶飯事です。

とはいえ、現実社会は、「右か左か(言い換えると、○×式)」クイズ形式で

成り立つような時空間ではありません。

大抵は、「グレーゾーン」の領域に問題解決のための糸口があるのが

通常であります。

人間の選好(趣味・嗜好性)とて同様です。

人間とは、一見すると単純なように見えて、複雑な生物だからです。

ここが、デジタル処理に長けた人工知能ロボットなどとの大きな相違点であります。

人工知能研究の領域でも、

かつて「ファジー理論(あいまい知を重視するアルゴリズム理論)」が流行した時期も

あったようですが(管理人が高校生だった頃に使用されていた英語教科書の素材でも

ありましたが・・・)、

現在では、「複雑系」というわりには、

再び、「○×式」デジタル処理法(単純な二進法的解決法)へと逆戻りしているようにも

見受けられます。

もちろん、専門家の目から見れば、「いやいや、人工知能やアルゴリズムの世界も

日進月歩だよ。君は、深層学習(ディープ・ラーニング方式)すら知らないの??」などと

揶揄されそうですが、素人目線で観察した現状では、

とてもそのようには納得することが出来ないのです。

そうした懸念が生まれる理由も、

「ビッグデータ」に過大な期待感が寄せられ、

まるですべての問題が片づくかのような「バラ色」の未来図を想定した

議論が横行している現状が多々見受けられるからですね。

本書でも、「果たして、来るべきビッグデータ時代において、

<選択する自由>が狭まるのではないか?」との重要論点が

議論されてきましたが、

このような「最大公約数」的な「集合知」ばかりが、

「正しい」情報だと人々の前に指し示される状況が

常態となれば、もはや、価値意識といった人間にとって

きわめて大切な感覚も喪失していくのではないかと思われてなりません。

つまり、「意外性」に出会えなくなった人間は、

進歩ではなく、「退歩」する一方でありましょう。

こうした「○×式」とあえて誤解を恐れず表現させて頂きますが、

「ビッグデータ」ばかりが偏重されると、

世の中から面白みも消えていくのではないかと想像するのです。

その時になって、始めて、人類は、

ニヒリズム(虚無感情=何をしても、何を言っても無駄だよ!!)と

シニシズム(どうせ、世の中こんなもんだよ!!)の洪水の前で

絶滅の一歩を踏み出すことになるのかもしれません。

もちろん、管理人は、こんな悲観的な結末予想など縁起でもないし、

悪趣味だと思いますし、好みでもなく、

決して到来して欲しくない実現予想図ですが、

皆さんにも「ビッグデータ、ビッグデータ・・・」と言って、

浮かれ騒いでいるうちに、どのような事態に立ち至るかに関する

思考実験くらいはしておいて頂きたいのです。

管理人の「ビッグデータ」時代における対処法は、

「ロングテール戦略(マニアックなニッチ=すき間を狙うマーケティング戦略)」や

「ブルーオーシャン戦略(他者の趣味嗜好となるたけ重ならず、重なっても

そこに独自視点を付加したマーケティング戦略)」などが

思い浮かぶのが関の山ですが、

これとて、「ビッグデータ」の1種だよと問いつめられれば、

他にどんな選択肢が残されているのでしょうか?

読者の皆さんで何か興味深い考えなどありましたら、

是非ご教示願いたいところでもあります。

また、この「ビッグデータ」には、

その名のとおり、「データ=情報」ですから、

その時その時の感覚で愛着が薄れていく(情報の重要性が自然消滅していく)ような

きわめて軽いイメージが付きまとうことも避けられません。

圧倒的な「ビッグデータ」の前で、

個人的な人生履歴まで選別され、<勝手に選別評価されていく>のか

そうではなく、そのような傾向に陥りやすい環境に今後なっていくからこそ、

かえって、人類の存続と尊厳をかけてユニークさ(各々のかけがえなさ)に

再び注目が集まることになるのか、

その岐路の中で、人類が、

再びその「人間らしさ」に気付き出すことを願ってやみません。

今後の「ビッグデータ」時代を前に、

民主主義もどのように進化を遂げていくのか

予想困難ですが、

安易な「分かりやすさ」や「○×式」情報選択から

離れていくことや、

「意外性」「あいまいさ」などを尊重しながら、

「人間的」経験を積み重ねていくことなどで、

突破口が開けるかもしれません。

いずれにしましても、人間には「盲点」が多々あり、

「無知」な領域が目の前に大きく広がっていることに

もっと敏感になることを通じて、

<心理的>感性を高めていくことでしか

あらたな突破口を開けないのではないでしょうか?

その訓練方法の1つとして、

芸術に日頃から親しみ、

ご自身でも何か創作してみることをお薦めいたします。

ことに、現代人は(管理人もですが・・・)、

極端に知性優位脳となってしまっているからです。

また、何事も決められない優柔不断さを

一概に悪い性格だと決めつけてしまってよいのでしょうか?

管理人は、優柔不断さも「大いに結構!!」ではないかと

30代後半の今となっては遅まきながら気づき始めたところです。

10代後半~30代前半まで、法学を専門としながら

勉強や仕事を積み重ねていた時期もありましたが、

結局は、知性優位脳が壊れる時期に至りました。

そんな時に、「うつ」を経験しましたが、

今となっては、人生において、人間において、

何がもっとも大切なことなのかに気づかせて頂く機会を

「天」から授かったことには、

感謝してもし足りないほど幸福感に包まれています。

ここで是非とも皆さんにも気づいて頂きたいことは、

「幸せに<なる>ではなく、幸せ<である>」ということに

もっと敏感になって、充実した日々を過ごすことが大切だということです。

「人生において、<お金>は努力次第でいつでも取り返せるかもしれませんが、

貴重な生きた時間は絶対に取り戻すことは出来ません!!」ということもです。

偶然ですが、「うつ」に嵌ったのもお釈迦様と同じく35歳の頃でした。

もっとも、管理人などは、まったく悟ってもいませんし、

俗界での煩悩まみれですが、それはそれで楽しませて頂いております。

とはいえ、いつも「人間」と「超人(神・仏??)」の「はざま」で

日々もがいていますが、精神的に追いつめられない程度に

無理はしないでおこうと思います。

そう、「無理をし過ぎないこと」。

これに尽きます。

そんな時こそ、「ユーモアの効用」ですね。

ブラックユーモアはお薦めしませんが、

人をホッとさせるようなホワイトユーモアは

大いに使っていきましょう。

そんなことを、先日、あべのハルカス美術館で開催中

(今月17日まで)の

『没後70年 北野恒富展~なにわの美人図鑑~』

愛染祭りのついでに拝見させて頂いた際にも

再認識させられました。

『図録』も購入しましたが、

森村泰昌氏の解説に特に心が惹かれました。

管理人もこの頃感じ、考えている問題意識とも

奇遇にも共鳴したためと、北野恒富氏が散策し、

親しんでいた大阪市内の路地が、

管理人も幼少期から高校生時分に

愛着をもって親しんでいたコースと偶然にも一致していたために

不思議なご縁があるものだなぁ~とも恐れ入った次第だと

いうわけであります。

また、文豪谷崎潤一郎氏の世界観とも重なるらしいところも

気に入りました。

その解説は、是非あべのハルカス美術館で実物をご覧になられたうえで、

この『図録』もお手にとってご一読頂きたいと思い、

ここでは引用は控えさせて頂きますが、

厳しい戦時色が日に日に濃く強まる中でも、

硬派にも軟派にも傾きすぎない、

程よい中途半端というのか優柔不断というのか、

その淡い「ゆらぎ」の中をたゆたう心の変遷を

じっくりと味わいながら世界を愛でる美的感覚が

谷崎潤一郎氏にも北野恒富氏にも備わっていたようですね。

まさに、「はざま」を愛する文豪作家であり、絵師であります。

管理人も今後ますます「はざま」を様々な角度から愛でていくことに

なりましょう。

ところで、俗界へと振り返りますと、

政治経済の現場では、勇ましい「決断主義」ばかりが叫ばれており、

始めから出来もしない「わかりやすい」政策が失敗しては、

絶望・狂乱の声が鳴り響くばかりの浅ましさが続いております。

そんな「罠」へとひっかかりやすいと自認される方(管理人も

よくその「罠」に誘い込まれてしまいますが・・・)にこそ、

「時間をかけることの大切さ」や「優柔不断にも美があること」を

じっくりと感じて頂きたいと願います。

今、人々にもっとも必要なのは、

「雄大さ(どっしりと構えながら、美的感覚を養う時空感覚)」では

ないかと秘かに考えていたりもします。

ということで、エッセー記事にも今後より一層腕に磨きをかけながら、

良書のご紹介とともに手がけていく所存でございますので、

今後とも末永くご愛顧下さりますようお頼み申し上げます。

また、紀行文なども折に触れて取り入れていこうと思いますので、

是非楽しみにしてお待ち下さると、

管理人もより一層の創作意欲が湧くというものです。

今回は、少し一般読者の方におかれましては、

難解過ぎる部類のちょっとした「専門書」をご紹介させて頂きましたが、

これまでの日本社会での議論に著しく欠けているように思われた

視点が満載でしたので、取り上げさせて頂きました。

ところで、アメリカ「保守」思想の中には、一時期、防犯理論や教育理論として

著名になった「ゼロトレランス(不寛容なスパルタ主義??)方式」という

考え方があります。

この政策もそれなりに効果があったことは否めませんが、

極端な政策採用のされ方もあったようで、

今も賛否両論渦巻く政策理論であります。

そんなアメリカの現状を踏まえずに、

新しい思想が右であれ左であれ、「直輸入」されやすい日本ですが、

もう少し穏やかな政策理論がないものかと思案されている政策当局者の方にも

是非1つの議論試案(叩き台)として、本書で提案された考え方を

ご活用下されば、少しは「生産的」な議論の流れも生まれ、

政情安定にもつながるのではありますまいか・・・

但し、この『ナッジ』理論や『リバタリアン・パターナリズム』思想も

(どんな理論や思想もですが)、

使われ方によっては悪用されることも十二分にあり得ますので、

そのあたりは慎重な配慮が必要となりましょう。

著者の本書全編を通じて、

「自由の条件」をどこに設定すべきか悩みながら、

論考を深められていく様子が管理人にも

ひしひしと伝わってきました。

ということで、皆さんにも本書をご一読されることをお薦めさせて頂きます。

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なお、「ビッグデータ」関連書としては、

①『ビッグデータの正体~情報の産業革命が世界の

すべてを変える~』

(ケネス・クキエ著、斎藤栄一郎訳、講談社、2013年)

②『勝手に選別される世界~ネットの「評判」がリアルを

支配するとき、あなたの人生はどう変わるのか~』

(マイケル・ファーティック/デビッド・トンプソン共著、

中里京子訳、ダイヤモンド社、2015年)

また、「功利主義」哲学一般については、

③『功利主義入門~はじめての倫理学~』

(児玉聡著、ちくま新書、2016年第2刷)

※121~130頁あたりに著者の「リバタリアン・パターナリズム」思想が

詳細に解説された論考が掲載されています。

を併せてご紹介しておきます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

最後までお読み頂きありがとうございました。

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