竹井隆人さんの「社会をつくる自由~反コミュニティのデモクラシー」仲良し民主主義よさらば!!良質な自治を考えよう!!

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「社会をつくる自由~反コミュニティのデモクラシー~」

<まちづくり>の現場にも積極的に参与されてこられた

ユニークな政治学者である竹井隆人さんが、問いかけます。

「責任負担を忘れた自治は、もはや民主主義ではない!?」

私たちは、なぜ政治に不信感を抱くのか?

あるいは、社会に対して不満を感じたり無関心なのか?

竹井隆人さんは、『集合住宅デモクラシー』という独自の視点から、

通俗的見解に挑戦されています。

今回は、この本をご紹介します。

「社会をつくる自由~反コミュニティのデモクラシー~」   (竹井隆人著、ちくま新書、2009年)

竹井隆人さん(以下、著者)は、<まちづくり>という

建築工学の現場に身を置きながら、独特な「自治とは何か?」、

「民主主義の原点とは何か?」について探究してこられた

大変ユニークな政治哲学者です。

長らく、政府系金融機関に勤務されながら、実務的な観点からも

「まちづくりとコミュニティ(自治問題)」をテーマに

研究されてこられました。

現在も、株式会社都市ガバナンス研究所の代表者を始め、

数々の官民事業体に参与されながら、<まちづくり>に

積極的な貢献をされておられます。

著者の独自な視点に、『集合住宅デモクラシー』があります。

また、「千年の古都」京都で生まれ育たれたことから、

街の景観などに対する独特な「美意識」もお持ちであるようです。

これまでも、<まちづくり>をテーマにした「コミュニティ論」は

ありましたが、著者によると、ほとんどが「仲良し民主主義論」の

範疇を超えていないようです。

「なぜに、日本では良質な民主主義(私的自治)という考えが根付かないのか?」

かねがね、皆さんも同じような疑問をお持ちではなかったでしょうか?

現在、日米ともに「民主主義の原点」が、厳しく問い直される機会が

増えています。

「仲良し民主主義」は、扇情的な衆愚社会(ポピュリズム=人気取り政策)に

結びつきやすいだけに、私たち一人一人にとっても、社会での「選択責任」が

厳しく問いかけられます。

「外に対する排除だけでなく、内に対する排除にまで発展しかねない!!」

大変「未熟な民主主義観」を招来するからです。

奇しくも、今朝のNHK朝の連続テレビ小説『あさが来た』直後の

あさイチ」という番組のメインテーマも「町内会」でした。

最高裁の判決でも、現在は「町内会」の扱いが「任意加入結社」とされ

加入脱退の自由が大幅に認められており、会費支払い義務も緩く

判断されていく傾向にあるようです。

それでも、社会人として地域共同体で共生していくためには、

一定の社会参加コストが必要であることには変わりありません。

そのため、最高裁でも一定の「共益費負担」は必要だと言うのですが・・・

そもそも、私たちの「自治」について「お上」に最終判断してもらおうとの

発想に大きな問題があるのではないか・・・

ということもあり、社会責任を回避しようとする「仲良し民主主義観」に対して、

著者も、こうした憂うべき現状に対して疑義を提出されています。

著者は、ご自身の<まちづくり>のご経験を通じて、独自の視点から

『集合住宅デモクラシー』と称した「代替案」を提示されておられます。

その中で、「仲良し民主主義観」に対する反証例として、

「ゲーテッドコミュニティ(閉鎖共同体集団??)」の詳細な解説を通じて、

世間一般が持つ通俗的なイメージ像を覆すことで、「仲良し民主主義観」のみならず、

私たちの普段の「知的弱点」にまで揺さぶりをかけておられます。

本書を最後まで読み進められると、精神的平衡が取れた「良質な知的思考法」の

一端にも触れられることになるでしょう。

世の中が殺伐となり、社会に「溜め」もなくなってくると、下品で無責任な言論が

満ち溢れてくると時を同じくして、後戻りできない歴史的状況に直面してきたのも、

世界史の教訓であります。

著者の美意識に管理人も共感共鳴したことから、皆さんにも

「良質な私的自治」について考察して頂くたく、

また本書を読み進められながら、危機に瀕する「民主主義の原点」を

振り返って頂くことで、「明日へのよりよい選択」の判断材料として

活用して頂こうと思い、この本を取り上げさせて頂きました。

「私的政府」としての「集合住宅デモクラシー」

著者は、本書を通じて、これまで日本社会に通俗的に幅をきかせてきた

「コミュニティ論」に対する問題提起をされています。

冒頭でも触れましたが、

「なぜ、日本社会では良質な私的自治という考えが薄いのか?」

「もともと、お上依存と同質(均質)性を求めながらも、他者には

お仕着せの姿勢で臨む処世観に問題があったのではないか・・・」

これまでも数々の論者が、多様な角度から分析されてこられましたが、

おおよその決着点は、ここに集約されるのではないかと見られているようです。

著者も、日本社会における「同調圧力=外に対する排除、内に対する排除」の視点も

含めた考察もされていますが、上記のような「通俗的見解」にも挑戦されています。

戦前から、「町内会(隣組)・自治会」などの「準公的団体」は存在していましたが、

日本では「上からの制度改革」に力点があったのか、あまり「私的自治」という考えは

根付くことなく、「ムラの名士的存在」が主導権を持つ「寄合的自治」の伝統に

あったようです。

もっとも、公平を期して、日本史上にも多様な「私的自治」はありましたが、

そうした「私的自治」が成功した陰にも、著者が本書でも考察されているような

ある「共通点」が揃って始めて実現していたようです。

卑近な例で言えば、現代NHK大河ドラマ『真田丸』における

信濃国の「国人衆」による決定方式でしょうか?

むしろ、戦国の「乱世」だからこそ、「異質な他者意識」に敏感だったのかも

しれません。

この時代には、絶えざる不安な動きがあったからこそ、「同質性(均質性)」

よりも「異質性」が重んじられたのでしょう。

しかも、こうした生き残りをかけた時代には、国を維持していくためには、

「過去から未来への連続的架け橋」という視点も欠かせません。

それはともかく、「他者を異質な存在と認めながら、他者の視点をも含めた俯瞰的な

自己決定を下すところに拘束力が発生する」という条件が重なった時に、

「私的自治」が有機的に動き出すということです。

そして、その自己決定に各人が責任をもって従うためには、一定の「質量」が

うまく適合しなければならないようです。

現代民主主義が、機能不全に陥ってしまっている原因も、あまりにも

「母集団の範囲」が大きすぎるために、衆議の一致に至るまでに、

莫大な時間的・社会的コストがかかる点にもあります。

著者は、こうした現代主流の「仲良し同調的民主主義観」を

根底から問い直すことで、あらたな「私的自治」が創生されると強調されています。

民主主義にも、それが良質であればあるほど、適正な規模という視点も

大切になるとの視点です。

その一つの事例として、著者の長年の<まちづくり>の実践的研究活動から

見出された『集合住宅デモクラシー』があります。

『集合住宅』には、「分譲マンション」のような事例があります。

分譲マンションなどにおける「管理組合」は、「私的政府」だといいます。

「私的政府」とは、直接的民主主義を原則とします。

著者によると、「集合住宅デモクラシー」は下記のような民主的決定構造

なっているといいます。

①代議員によらない「住民全員参加型」の総会と、

②管理組合にも理事会は設置されるものの、「管理組合規約」に従いつつも、

理事会の決定事項は著しく制限され、総会での意思決定事項の執行権限のみに

限定されており、最終的には「住民総会」による意思決定を尊重する構造だと

されています。

このような「適正規模」に基づく「私的自治」が相互尊重されるところに、

「私的政府」は存在しうるのだと強調されています。

ところで、現状の「一般的な」民主主義的意思決定のプロセスには、難点があります。

規模が大きすぎると、良質な私的自治判断は不可能となるからです。

ことに、国政選挙のような「間接的民主主義」形態では、

著しく困難な点を強調されています。

しかも、日本の「間接的民主主義」も多くの政治学者の指摘があるように、

変則的形態であることも、あまり一般には知られていないところです。

一方で、地方自治体などの地方議員選挙は、「直接的民主主義」であり、

こちらは、比較的わかりやすい本則的形態であることも知られています。

「地方自治は民主主義の学校」(ジェームズ・ブライス)というように

「民主主義の学校」

つまり、私たちが良質な「私的自治」を学ぶには相応しい「私的政体」

なのですが、言うまでもなく、ここでも不信感が根強く存在しています。

まとめますと、逆説的ですが、平和な時代には「無責任・無関心」に

なりがちだからこそ、「衆愚政治」をより招きやすいとも言えます。

いやむしろ、平和が危機に瀕しているからこそ、「衆愚政治」に

誘導されやすいのだとの見方もあるかと思われますが、

著者も強調されてきたことに鑑みれば、それこそ「無責任!!」だと

いうことです。

いずれにせよ、私たちは「私的自治の学び」が足りないことを

深く自覚するところから「社会をつくる自由」に向けて再出発せざるを得ません。

ゲーテッドコミュニティ(保安意識)からの視点も重要!!

さて、ここからが著者の面目躍如というところですが、

上記のような、現代民主主義の問題点や改善点については、

これまでも多くの論者が指摘されてこられたので、

さらなる著者の独自視点に移りましょう。

それが、こうした「特殊戦後民主主義」的「閉ざされた言語空間」を

突き破る「知的思考法」として、著者が(政治)哲学されてこられたのが、

ゲーテッドコミュニティ(保安意識)論」です。

ここが、他の論者にない著者の渾身の一打でもあります。

管理人が著者と共感共鳴した点もここにあります。

著者も本書で触れられていますように、

最近の日本の論壇(アカデミズム・民間メディアなどを問わず)では

精神的平衡という視点が、見事に欠け落ちている点に、

常々「重大な危惧」の憂慮の念を抱いてきたからです。

著者も現状分析されていますが、「自由至上主義(リバタリアン)」と

「共同体主義(コミュニタリアン)」に至るまで、政治的な左右を問わずに

「極端から極端」へ揺れ動いてきたように感じられるからです。

著者も本書を通じて「中庸の道」を探究しておられるように、

管理人も、あくまで精神的平衡点を探りながら、「中庸の道」を

模索していきたいと願っています。

「いつものことと言えば、それまで!!」であり、まったく白々しい感じが

するのも、世の賢者である知的な皆さんには共感して頂けるかと思いますが、

著者もこの点を鋭く突く意味も込めて、

「ゲーテッドコミュニティ(保安意識)論」を論じられています。

一般的な「ゲーテッドコミュニティ」に対するイメージといえば、

アメリカのビバリーヒルズのような「富裕層の居住区域」が思い描かれますが、

もともと、歴史的には「中世ドイツの都市(当ブログ記事ご参照)」のように

日本ではあまり見かけられませんが、ある種の「保安機能都市」が原点です。

そうした歴史的経緯から考察しても、特に「閉鎖都市」という訳ではないようです。

先程も語りましたように、このような視点にも政治的立場を問わず、

戦後の「思考的盲点」もあるようです。

つまり、「安易で愚にもつかない友愛論」で何事も解決しようとしてきた姿勢こそが、

かえって、世の中に混乱の種を蒔き、「平和を乱してきた!!」からに他なりません。

まさに、この厳しい視線を避けようと、重大な争点を回避してきたところに、

すべての「衆愚(集合痴)の源」があったのではないでしょうか?

おそらく、「サイレントマジョリティー(もの言わぬ大多数の知的賢者)」の

皆さんなら強く同意して頂けるのではないでしょうか?

この知的怠慢のツケが、ここにきて一挙に吹き出してきたところに、

様々な狂騒劇もあったのだと思われます。

この「ゲーテッドコミュニティ(保安意識)論」は、是非ご一読願いたいのですが、

要点をかいつまんで説明しておきますと、

著者も考察されているように、「格差問題」なども含めて、安易な「善悪二元論」で

あらゆる重大問題を簡単に切り捨ててきた点に、危険性を感じることから、

もう少し別の多様な角度からも「常識」を見直してみようとの論考です。

この問題は、日米両国ならずとも、今現在、世界中で大きな問題意識となって

現れています。

現在まで、(つまり、比較的穏やかな平和時分)に、柔軟な視点も含めた

多角的な検証を怠ってきたがために、その「反動(揺り返し)」が

世界中で極端な形で生起しているということでもあります。

著者のお言葉をお借りすれば、「みんな仲良し社会」とは、かくまでも

「無責任・無慈悲な社会」であることが、精神的危機だからこそ、

明確に見えてくる訳です。

こうしたこともあり、再度「民主主義の原点」に立ち返るべく、

著者も『アメリカの民主主義』で有名なアレクシス・ド・トクヴィル

『全体主義の起源』で有名なハンナ・アレントの考察なども尊重しながら、

「民主主義社会における責任問題」について論じられています。

「責任の範囲や軽重」については、一般的に考えられているほど、

簡単に割り切れるものではないということも知っておきたいことです。

「民主主義の原点」に立ち返るとは、良質な「私的自治」の視点を持つと

いうことでもあります。

現代のような「機械的な都市社会構造」の中に置ける

「人工的にバラバラにされた抽象的人間像」では、

相互責任感覚も薄くなってしまうようです。

「他者も自分自身もつくづく分かり合えない存在」だということを

大前提に考えることの方が、厳しい道のりではありますが、

「社会をつくる自由」に一歩一歩近づくことが出来るのではないかと

本書を読み進めながら、深く感じ入りました。

その点で、日頃の自らの「言責」なども含めて、

深く省みる視点を与えて下さったことに、感謝申し上げる次第です。

その他にも、福澤諭吉小林秀雄の視点も取り入れた

「私的自治の多義性」を教えて頂いたり、

昨今の「コンプライアンス(法令遵守)依存症(断っておきますが、

法を軽視するものではないですよ、念のため。)」をあまり深く考えもせず

安易に受け入れる姿勢は、「私的自治」を深く追求するうえでも

好ましくない点は理解しておく必要があるようです。

特に、上記のように「私的自治の多義性」という視点も重要になります。

「私的領域」と「公的領域」は、それほど明確に線引きできるものでも

ないからです。

その間の「中間領域(グレーゾーン)」における人間的駆け引き、

著者の表現では、

「政治とは他者のあしらい方にほかならない。」(本書118頁)

だということです。

ですから、「政治経済学(家政術)」とは、こうした「自己統治法」であり、

「人格陶冶の術」を学ぶ視点も与えてくれると同時に、何も特定の政治的価値観に

偏した「政治的人間」を養成する学問でもないことは、

知っておいても損はないのではないでしょうか?

著者によると、「自由」も「社会」も「個人」も「他者」も・・・、

他にどのような理念でも当てはまりますが、それ自体として単体で存在し得る

「イメージ像」はないといいます。

どれもこれも、相互に関連づけられているのです。

著者における「社会をつくる自由」を要約すると、

『「<自由の総体>=<通俗なる自由>+<社会をつくる自由>」なのである。

よって、たとえ公権力等により「通俗なる自由」が大幅に制限されることが

あっても、その公権力を自らがつくる「社会をつくる自由」を発揮さえして

いれば、総和としての人びとのもつ「自由」は減じていないこととなる。

逆にいえば、大勢順応的に人びとがその「社会をつくる自由」を公権力にすすんで

譲り渡してしまっていては、総体としての「自由」は相当に制約されたものと

なろう。』(本書142~143頁)だとのことです。

2月から3月にかけては、「確定申告シーズン」でありますが、皆さんにも

本書を読みながら、あらためて「代表なければ課税なし」の原点にある

「社会をつくる自由」としての「民主主義論と地域再生論=個人再生論」を

ともに考察して頂ければ幸いです。

本書には、他にもご紹介したいテーマが数々論じられていますが、

紙数も尽きましたので、このあたりで筆を擱かせて頂きます。

最後に一言。

「社会をつくる自由とは、美を求める精神」でもあるとのことです。

本書は、昨今の極端(自由至上主義=アナーキスト的リバタリアン)から

極端(リベラル左派=社会隷属的コミュニタリアン)とも異なる、

良質な保守的な「反コミュニティのデモクラシー」であります。

いわば、精神的平衡感覚(中庸精神)を大切にする姿勢です。

そのことは、夏目漱石の『私の個人主義(当ブログ記事ご参照)』や

管理人も敬愛していた今は亡き坂本多加雄先生の政治批評も尊重された

独自の「民主主義批評」などにも窺えるようです。

特に、本書最終章の著者の言葉である

『(他者依存に満ちたコミュニティと呼び名される)世の趨勢にいたずらに

順応しようとせず、自らが正しいと思う信念をもって社会に貢献しようとする者。

私はそういう人物像を理想としたいし、また、自身がそうありたいとも希っている。』

(本書202頁)とされておられる

現代の「サムライ精神(やせ我慢美学)」にも、熱く共感を覚えました。

何はともあれ、「民主主義とは、高度な精神的自治の営み!!」だということです。

つまり、「面倒でも、一歩一歩熟慮と衆議を尽くすことを厭うてはならない!!」のです。

なぜなら、本文でも何度も繰り返してきましたように、それを厭うことによって、

まさしく「独裁的衆愚政治」をたぐり寄せるからであります。

それにしても、続々と日本に伝わってくるアメリカ大統領選挙の中間結果には、

目が離せないようです。

なんと、ほとんどの候補者が、「反TPP論者」とは・・・(いやはや)

確かに、日本でもTPPには「賛否両論」幅広い視点での論争は十二分に

尊重されるべき争点ですが、こうまで「日米合意後」における「逆転劇」が

早々と展開されるとなれば、

賛成派・反対派問わずに、日本にとっても心配の種になります。

いよいよ、本気で「自立路線」を考えるべき時期なのかもしれませんね。

そうした厳しい方向性も見えてきた現在だからこそ、冷静に読み進めながら

「明日の社会」をともに考察して頂く素材としてお薦め出来るのも、

本書であります。

そうした事情もあり、ありきたりの「リベラル民主的共同体論」に物足りないものを

感じられた方には、是非とも強くお薦めさせて頂きたいと思います。

なお、本文でも取り上げさせて頂いた「民主主義の原点」としての

良質的古典として、

「アメリカの民主政治(上・中・下)」

(アレクシス・ド・トクヴィル著、井伊玄太郎訳、講談社学術文庫、1987年)

「アンシャンレジーム(旧体制)と革命」

(同上、1997年)

また、「景観論」と「都市計画」について、

「失われた景観」(松原隆一郎著、PHP新書、2002年)

「無電柱革命~街の景観が一新し、安全性が高まる~」

(小池百合子・松原隆一郎共著、PHP新書、2015年)

「経済再生論」について、

「分断される経済~バブルと不況が共存する時代~」

(松原隆一郎著、NHKブックス、2005年)

本書でも触れられていた「コンプライアンス論」につき、

「コンプライアンスが日本を潰す~新自由主義との攻防~」

(藤井聡著、扶桑社新書、2012年)

管理人と同世代の若手のユニークな「私的自治論」には、

「独立国家のつくりかた」

(坂口恭平著、講談社現代新書、2012年)

もご紹介しておきます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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