G.K.チェスタトンの「求む、有能でないひと」価値観の揺らぐ時代に<精神的平衡>を保持する叡智<ユーモア感覚>を磨こう!!

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「求む、有能でないひと」

19世紀末期から20世紀初頭に活躍した

イギリスの推理作家として著名なG.K.チェスタトン。

「推理作家の顔」よりも、優れた「批評家の顔」が素顔!?

一読しただけでは難解とされる批評的エッセーであり、

時代背景などを十二分に理解しないことには、

誤解や偏見を招いてしまいそうな作家でもあります。

とはいえ、そこには「隠された叡智」が・・・

今回は、この本をご紹介します。

「求む、有能でないひと」(G.K.チェスタトン著、阿部薫訳、国書刊行会、2004年)

G.K.チェスタトン(以下、著者)は、19世紀末期から20世紀初頭に

活躍したイギリスの作家であります。

本書<訳者あとがき>にもありますように、日本では一部の推理小説「通」の間で

人気がある人物のようです。

推理小説作家としては、同時期に活躍したイギリスの作家コナン・ドイル氏の

『シャーロックホームズ』シリーズとも肩を並べる著名人物であるようです。

その推理小説が、『ブラウン神父』シリーズという探偵モノです。

管理人は、この書評ブログで普段、「ノンフィクション」を中心に

ご紹介させて頂いていることや、時間の関係上、

今は、ほとんどじっくりと腰を据えた小説読みも

出来ていない状況にあります。

そこで、お休みを頂く時などは、疲れた頭を柔軟に解きほぐすために、

小説を読むことになるのですが、大体の好みが「歴史・時代小説」か

「SF」、「知的エッセー・日記的小説」が多いために、

「推理小説」を読む機会があまりないのです。

それでは、なぜ、著者の名前を知ったかというと、

思想批評家などの著作品の中で、ご紹介されていたことから、

著者との「縁」が出来たという訳であります。

個人的な好みの関係で「保守」言論人として著名な西部邁氏や渡部昇一氏などの

ご著書に触れさせて頂く機会が多かったことや、前にもご紹介させて頂いた

「大の推理小説通」で知られる俳優の故児玉清さんの推薦書籍として

記憶はあやふやですが、どこかで、その名前を知ったことなどが、

きっかけとなりました。

(また、前にもご紹介させて頂きました瀬名秀明さんの『おとぎの国の科学』にも

『G.K.チェスタトン論』に関する軽妙洒脱なエッセー記事がありますので、

ご一読下さると幸いであります。)

最初にお断りしておかなければなりませんが、

本書『求む、有能でないひと』は「推理小説」ではなく、

「批評的エッセー集」だということです。

著者の作品で日本でも、とりわけ著名な「思想哲学書」に、

『正統とは何か』があります。

管理人は、この書物を丁寧に読んだ機会もなく、適切なコメントなど

本記事内でさせて頂くことは出来ませんが、

著者が「(カトリック系)キリスト教徒」ということもあって、

そうした「宗教的立場」から見えてきた「正統」もしくは「異端」に関する

分析考察を中心に、様々な世相や思想価値を斬り取った「思想哲学書」だといいます。

とはいえ、本書は、まだこのように『正統とは何か』といった

「硬い」思想哲学書をお読みになられたことのない方でも、

読み進めやすい??「エッセー調」の「批評作品集」であります。

本作品に収められたエッセーにも、その『正統とは何か』につながる視点を

持ったテーマがありますので、まずは「硬い」思想哲学書に

本格的に入っていく前の「地ならしの書」としては、最適かと思われます。

ただ、問題は、ご一読されただけでは「消化不良」になってしまいそうな点や、

その「諧謔・風刺・逆説・皮肉・・・」といった独特の文体が、

明確な読みを妨げかねない点、一般的には「保守」的とされる著者も、

「保守」的視点をも乗り越える「高次意識」であらゆる思想哲学を批評しているなど、

最後まで読み進めることが出来たとしても、結局は「何が言いたかったのだろうか?」と

人によっては、「懐疑的不満・不信感」を抱かれるような「読後感」へと

誘われてしまう方もいるかもしれません。

まさに、本書の「理解度」には、各人各様の「人生体験」の「差異」も反映するようです。

そのことが、本書に、「知恵の書」といった評価が与えられる所以であります。

そのことも踏まえて、管理人が、著者を評価させて頂くならば、

前にも当ブログにて、ご紹介させて頂きました「イギリスの福田恆存」であります。

21世紀現在、世界は、再び、「思想的混乱期」を迎えています。

それは、言い換えますと、「人間」の「知的混乱」でもあります。

このような「価値観」が揺らぎ続けている時代において、

いかに「精神的平衡(バランス・調和)」を保持し得るかが、

「人間」の柔軟な思考の「幅」を決定します。

どこに「(価値)基準」を据えながら、自分自身の「立ち位置」を

「この世界」に定めるかによって、人生に対する「面白さ」「豊かさ」も

変わっていくことでしょう。

その「(価値)基準」を持つ知恵こそ、「ユーモア精神」であります。

ということで、「思想的立場(価値観の違い)」に囚われずに、

人生を「自由自在」に楽しんで頂くための「一つの知恵」として、

本書を皆さんにもお薦めさせて頂こうと、この本を取り上げさせて頂きました。

「近現代社会」の土台に強固に据えられた「啓蒙思想」の「盲点」を突く批評

さて、以下では、著者の批評エッセーのうち、特に触発され、

現在、もっとも考えておきたいテーマを中心に分析考察して

いきます。

その前に、本書の内容構成のあらすじとして、

各テーマ別エッセーの「項目」をまとめておきます。

①「よるべなき人」

②「隷属」

③「フェミニズム

④「ジャーナリズムと科学」

⑤「精神の衰弱」

⑥「法律と科学」

⑦「戦い」

⑧「教育」

⑨「自由」

の「9項目」をテーマに、

「近現代人」の「盲点」を鋭く突いた批評エッセーが

集められた作品集です。

全編に流れる思想を一言で要約(かなりな無理を承知にですが・・・)、

「いかに精神的平衡を保持していく強靱な知恵を身につけるか」に集約されそうです。

ところで、著者の<批評的立ち位置>の確認として、<訳者あとがき>によると、

『時事を批評して普遍的真実を語る警句と意表をつく逆説、「近代」の

矛盾をついた逆説にみちています。』(本書235頁)とのことです。

本書もまた、その「評価」に沿うエッセー論考のようです。

「思考に行き詰まった時に、視点をずらして眺めてみる」・・・

そんな視点を与えてくれるのが、著者の「ユーモア逆理的発想法」です。

本書に集められた批評的エッセーは、

主として『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』のコラムと

著者の多作品の中から適宜、現下の日本人と日本社会にとって有益な

視点を提供してくれる部分を抜粋・再編集された作品集だといいます。

著者によると、本書は「チェスタトン入門書」としても最適だとのこと。

ところが、ここからが難題なのです。

訳者も言及されていますように、著者の文体は、「逆説」や「諧謔」といった

「ひねり」が、相当程度加わったものですので、ある程度の「思想哲学的素養」を

持ち合わせた読者でないと、大きく「誤解」もしてしまうようです。

訳者も、その点を鑑みて、著者なりに「わかりやすく」伝わるべく

「意訳」されているといいます。

そこで、ここから、いよいよ本文考察へと移らせて頂くのですが、

まずは、本書のタイトル『求む、有能でないひと』から入りましょう。

ここからして、皆さんも「おもろそうやなぁ~(関西弁=面白そう)」と

感じられるかもしれません。

そうなんです。

このように、著者は世の中の「定説(イデオロギー的硬直思考や常識)」に

ついて、一度は疑う視点をどのように持つべきか、また、「疑う(懐疑する)」と

いっても、「何でも疑えばええってもんじゃないよ・・・」という知恵を

提出していきます。

実は、これが、すべての「現代社会の複雑・混迷・混乱・・・」の元凶であるようです。

それが、本タイトルにも掲げさせて頂いた「(近現代)啓蒙思想の<盲点>」です。

いずれまた、あらためて「近代啓蒙主義」については、別立てでご紹介させて頂く

予定でいますが、本日は、とりあえず、この「近代啓蒙主義」には<盲点>が

あるらしい・・・との視点だけを提示しておきます。

その<盲点>とは、「知的エリート的<上から目線>型<知育>偏重思考」の

ことを意味するようで、ここに何か「欺瞞のようなものがある!!」と、

著者も独特の嗅覚で嗅ぎ付けたようです。

とはいえ、著者は、「知識を疎んじる<反知性人>」ではありません。

ここで、注意深く勉強熱心な読者であればお気づきかもしれませんが、

いわゆる、昨今大流行??とされ、読書人の間でも話題にされてきた

「反知性<主義>」という言葉をあえて避け、<反知性人>と

管理人が表記させて頂いた理由があります。

それが、著者がもっとも強調されたかった視点の一つであるからです。

思想そのものが、硬直化したイデオロギーと転化していくような<主義>は

「人間」そのものを「生きづらく」させます。

これまでの人類史を総括してみても、この<主義>が無意味に深刻な相互対立を

招き、大惨害を「この世」にまき散らしてきたからです。

そのような「思想難」から「人間」を「救済」するためには、

どのような視点・感覚などを持てば、精神衛生上も好ましいのだろうか?

そこに、著者の「目の付け所」があります。

先程、管理人が、著者について、「知識を疎んじる<反知性人>ではありません!!」と

強調させて頂いたのも、意外にも著者のことを「保守<主義>者」と一面的な見方を

される論者が後を絶たないように見受けられるからです。

なるほど、著者も本書などで、「啓蒙主義の<盲点>」とは、

あらゆる思想を一旦括弧に入れたうえで、もう一度、その「自明」とされてきた

「定理・定説・常識・・・」などを、懐疑的に批評し直したうえで、

ある意味で、「仮説化」していこうとの見方が提示されているところに、

「精神的不安定さ」が危うく隠されているのではないかと、

「高次意識(霊性的視点)」から、「権威」も必要ではないかとの視点を

提示されているところから、「保守<主義>者」ではないかとみなされてきたようです。

(『自由思想の自縛』本書24~27頁、『教育と権威』本書175~177頁など

ご参照のこと。)

しかし、この一読しただけでは、「消化不良」になりそうな論考も、

何度も繰り返し読み返しながら、「反芻」していくうちに、

著者が、あらゆる角度から、ある現象をある一定方向からの視点でしか

事象を分析・観察・認識することが出来なくなった「近現代人」の

硬直した思考の<盲点>を鋭く突いた批評を展開されていることに

気付かされます。

つまり、「単眼的思考」で自足することを良しとした「わかりやすい」思考法に

ある種の「ブラックユーモア??」でもって、「王様は裸だ」的視点を

提供しているということです。

このことが読み取れませんと、著者も数ある<主義者>の仲間だと

誤認してしまうようです。

詳細は、本書をご一読して頂くとして、「近代保守主義思想の元祖」と

されるエドマンド・バークをも「無神論者」として厳しく批判されています。

このあたりは、「フランス革命」の評価を巡って、依然として、

対立混乱した解釈も多々あるようですが、そもそも「フランス革命」自体が、

近代「啓蒙主義=<理性神>崇拝」によって、その後の世の中を対立混乱の中へと

叩き落としたこともあり、19世紀末以後、さらに激しく動揺していく

「神なき時代」に対する痛烈な「予言」としても耳を貸さない訳には参りません。

(『ムシの帝国』本書116~120頁ご参照のこと。)

(なお、エドマンド・バーク批判は、トマス・ペインを扱った

こちらの記事もご一読下さると幸いです。)

ですから、現代までなお、しぶとく残り続ける「保(右)革(左)闘争」は、

そもそもの「原点(元凶)」が、

近代「無神論」の「申し子」だったのだとする視点は、著者のような「有神論」を

大前提に生きる「キリスト者」ではなくても、真摯に受け止めるべき「歴史的教訓」

ありましょう。

そのこともあって、「精神的平衡(バランス・調和)」の土台を掘り崩す「懐疑主義」や

「(表層的な)価値相対主義」、「虚無主義(ニヒリズム)」、

「冷笑主義(シニシズム)」には、警戒の「眼力」をもって対峙すべき視点を

持つように警告されています。

それが、著者の「教育論」や「科学を装った<進化論的宗教>批判論」、

「法制度論(政治・経済論含む)」や「平和論」といった諸論考にも

色濃く滲み出ています。

まとめますと、「近現代人」が暗黙の前提にしてきた「近代啓蒙主義的価値観」は

案外にもろいものだとする、著者の批評認識には瞠目するものがあります。

まさに、「達観的洞察力」であり、「炯眼」であります。

くれぐれも、読者の皆さんには誤解なきように「再確認」させて頂きますが、

著者は、いわゆる<主義者>ではありません。

「精神的平衡」感覚を取り戻すユーモアの効用と「慈愛」感覚が健全な「生きやすい」社会を創出する!!

このように、「一癖も二癖もある」のが、著者の思考法の特徴ですが、

「毒舌家」や、単純な「偏見・差別擁護者」ではありません。

ラ・ロシュフコーのような「警句的風刺」を効かせた、

ある種の「モラリスト(<道徳家??>ではないらしい)」でもあると感じさせるからです。

ただ、私たち日本人のような「東洋人」にとっては、

イマイチ承服・承知しかねる視点も確かにあります。

(『ムシの帝国』本書119~120頁の一節など。※但し、訳者の<意訳>が

このように誤解させ、著者の<本意>とは異なるのかもしれませんが・・・

そこは、「原書」での「原文確認」をしていませんので、ご了承願います。)

とはいえ、ネット辞典である「ウィキペディア」(この辞典も、もう一つ信憑性に欠ける

ところもありますが・・・、ですので、精確に学習される際には、ネット情報だけではなく、

やはり、信頼のおける書物をご確認下さいませ。

老婆心ながら、今後の「人工知能(ビッグデータ)時代」を生き抜かざるを得ない

若い皆さんにはお伝えしておきます。

追伸:これが管理人が考える『紙の本は無くならない、いや、決して無くしてはならない』と

いう私見です。「データ情報」は「紙」媒体以上に、コピー改竄もされやすいと思われるから

です。)に掲示された著者に対する「評価」では、「東洋人」などに手厳しい見解を

保持していたとのことですので、「大意」は間違っていないのでしょう。

但し、「東洋人」の寛恕の心から、著者を公平な視点で擁護するならば、

当時の「大英帝国」は、「ヴィクトリア朝」で「世界の7つの海を支配する」、

「沈まぬ太陽の<帝国>」といった、かなり「自信過剰な時代」だったようですから、

往時の『黄禍論』の影響もあって、このような根強い「偏見」になったのでしょう。

あるいは、「宣教師」的な「余計なお節介」とも受け取れる「使命」があったからなの

でしょうか?

そんなこともあり、著者の文体には、相当な「誤解」も招きかねない表現が

潜んでいるように感じられるようです。

訳者自身も、翻訳されるのに、大層「苦心惨憺」されたそうです。

また、著者の批評エッセーを観察していて気付いた面白い点??に、

「大のエリート嫌い、お金持ち嫌い、知的冷笑多重人格者

(要するに、<器用な人!?>)嫌い」があるようです。

このあたりは、極端な見方もあるようですが、

もちろん、単純な「人間観」「世界観」など、著者のこれまでの姿勢を

加味すると、こうした見方は「論外」ではありますが、

こうした「(一見、紳士ぶった??)人士」には、相当苦労させられたようで、

「鬱憤」も溜まっていたのでしょうか?

どこか、「清貧で正義感の強い」人物でもあったようです。

管理人も、その気持ち、わからない訳ではありません。

とはいえ、そこはさすが、著者の思想は一貫しているようです。

「鬱憤(マイナスエネルギー)」を、直情径行的に晴らさない知恵があります。

それが、「ユーモアの効用」であります。

「諧謔・風刺・皮肉・逆説・・・」など、こうした「婉曲的表現」の知恵が、

著者の「精神的平衡」にも役立ったようですね。

日本の江戸時代にも、このような「ユーモア精神」が

一般庶民の「生活の知恵」である共通の「教養言語」として、

積極活用されていたようですが、

さてはて、21世紀現在の日本の「社会風潮」を観察すると・・・

「極端から極端へ」揺れ動いてきたようです。

つまり、「精神的平衡がない!!」という「不安定社会」であります。

今回は、「ユーモア論」について、これ以上、深く追究はしませんが、

ある論者によると、「ユーモアとは、元来は、<憂鬱病対策>から<生き残り戦略>にまで

発展し自然に湧き出てきた知恵」だったとも考えられているようです。

確かに、絶望的な「逆境」に直面した時には、「ユーモア感覚」なくしては、

遣り切れませんものね。

そういう「処世上の知恵」が「ユーモア感覚」でもありますので、

皆さんにも、穏やかな日々を過ごして生き抜いていくための知恵として、

本書における諸発想などをヒントにされながら、

「柔軟な発想法」を磨いてみてはいかがでしょうか?

また、著者は、キリスト者ではありますが、

今の世の中に一番欠けていると思われる視点が、「慈愛」と「宥恕」といった

「寛大な精神的安定感」であります。

本書の諸論考(例えば、「フェミニズム批判論」など)で展開されるのも、

通俗的な「職業的自立(社会進出)」を強調する

従来の「フェミニズム論」の「極端」なイデオロギー的視点が、

女性に対する「人間」としての「優しさ」を剥奪しているのではないかといった

素朴な疑問であります。

すなわち、著者によると、「圧政」をこわしたいのだと。

「権利」ではなく、「特権」を差し上げるべきではないかと・・・

(『現代の奴隷』本書78~81頁ご参照のこと。)

「女性」にも、様々な「趣味嗜好」があります。

ただ、今まで「専業主婦」の方の「家事労働」などが、

「経済的」に報われてこなかった点は、「配偶者控除制度」などが

あったとはいえ、「はなはだ不十分!!」だったことが、

世の多くの「女性陣」の不満や不信、不安を抱かせてきた原因であったことは、

いくら強調しても、し足りない「社会問題」でありました。

この点は、「男性陣」も反省しなければなりません。

このような観点を考慮すると、多種多様な選択肢を剥奪するような

「画一的な制度設計」があってはならないと思われるのですが、

皆さんは、どのように思われますか?

どうも、このところの「制度改革論」に関する議論を詳細に分析観察していると、

ここでも、「極端から極端へと」一方通行の「安直な思考法」で、

絶えず揺れ動いてきたように見受けられます。

著者も、本書で厳しい批判を「エリート層(とりわけ、極端な一部のインテリ層)」へ

向けられていますが、むべなるかな(まったく、その通り!!)であります。

(『謙虚なやかまし屋』、『「エリート校」について』、『偽善者の学校』など

本書178~186頁ご参照のこと。)

つまり、「自然」と表現すればよいのか、「真実」の姿からは、

ますます遊離していっているようです。

著者のこの批評も表層面だけで読めば、「マッチョイズム(男性優位主義)」のような

偏った視点なのではないかと「誤解」も招くようですが、

注意深く、思慮深く読み込むと、理にかなった批判論であることも見えてきます。

ある種の「極端」な「力への意志論」こそ問題だと・・・

このように、「男性優位的世界観」の一面性にも、健全な批評をされています。

とはいえ、口先で、「平和」や「人道」を唱えるような「偽善的な姿勢」にも

警鐘を鳴らしておられます。

このような「無責任」な「人道的優しさ」が、かえって、

世界を「無秩序(アナーキー)」にもし、「自由」を侵害していったのではないかと、

「平和主義者」の「優柔不断さ」にも厳しく対峙されています。

要するに、何事も現象には「多義性」がついて回ることを忘れてはならないという

視点を持つことが重要だということです。

(「平和的侵略」本書154~157頁などご参照のこと。)

このように、世間一般の「わかりやすい」風潮とは距離を置いた

「冷静」なものの見方を知恵として提示されるのが、著者の優れた点であります。

だからこそ、常に「わかりやすさ」や「即効性」など、

「有能性」、「効率性」、「生産性」など「<無神論>型唯物人工機械的世界観」を

「無意識」にも「社会化教育」によって「刷り込まれていった」「近現代人」に

とっては、思考の<盲点>になるのでしょう。

そういった、私たちが普段あまり感じることもなく、麻痺した皮膚感覚を

もう一度甦らせて、本来の「人間らしさ」を取り戻すための「自覚」をもって、

生き直そうと呼びかけるのが、著者であります。

まとめますと、前にもご紹介させて頂いた記事では、

「思考実験は、<自明>を揺さぶる有益な視点をもたらしてくれる」と、

多大な誤解も招くような「断言的肯定評価」でもって記述してしまいましたが、

それは、あくまで、「現象面における分析的認識方法論」としての見方で、

もちろん、「生きた人間」における「人間観」や「世界観」など、

「安定的存在論」に関しては、当てはまりません。

言うまでもなく、「何事もほどほど」の「バランス感覚」が

「生身の精神的人間」には不可欠であります。

なぜなら、「自明的土台」といった「安定基盤」がないと、「底が抜け落ち」

「地獄へと真っ逆さま」に振り落とされていくからであります。

その意味で、「近代啓蒙主義」には、もちろん、長所もありますが、

意外に「底が浅い<盲点>」も潜在的に抱え込んでいるようです。

ですから、「懐疑的思考法」も「虚無的相対思考法」も、

あくまで「明るく」生き抜いていくためには、「認識的知的方法論」としてのみに

止めておくべきだとする知恵が必要になると言えましょう。

そうした視点から、「近代啓蒙主義の元祖」ヴォルテールなどを

明解に批評されています。(『「近代」の発端』本書19~23頁)

近現代とは、「神なき時代」と一般的に<肯定的??>評価もされているようで、

「真理など、もはやどこにもないのだ!!」などとされてきましたが、

どこかに「置き忘れてきた大切な視点」も再度、思い出す必要があるようです。

「外形的な<神>」はいなくなったかもしれませんが、「内在的な<神>」は

必ず「正気」をもった「真人間」には存在するはず・・・

この「正気の<神>」、つまり、「精神的平衡感覚」を喪失させると、

「狂人」へと、いとも容易く「変身」してしまいます。

その意味で、こうした「怖さ」の感覚を取り戻すことは、

再び、「正気」を失おうとしている現代世界に生きる「人間」にとっては、

喫緊の課題であります。

こうして、本書を読み進めてみると、著者が安易な<主義者>などではなく、

時代の制約はあったにせよ、その「炯眼」は、今なお「爛々と」煌めいているようです。

本書は、人生の機微に触れて、「熟読玩味」しながらでしか、

体認・体得をなし得ない「含蓄に富んだ本」あります。

そんな「含蓄に富んだ本」ですから、

生半可な読解力では、「わかりにくい」のも仕方がありません。

著者の本を読んでいると、あらためて「表現の難しさ」を

考えさせられました。

ということで、皆さんにも、日々穏やかな人生と世界を取り戻して頂く

「知恵の書」として、本書をご一読されることをお薦めさせて頂きます。

混迷を窮める今だからこそ、『求む、<有能でない>ひと!!』であります。

その奥深い「謎解き」には、本書をご一読の下、

各自で「解読挑戦」されながら、

そのイギリス製の「蒸留酒」を味わって頂くことにしましょう。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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2 Responses to “G.K.チェスタトンの「求む、有能でないひと」価値観の揺らぐ時代に<精神的平衡>を保持する叡智<ユーモア感覚>を磨こう!!”

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