中山元さんの「<ぼく>と世界をつなぐ哲学」不透明な時代を生き抜くための知恵を根源から汲み上げる哲学!?

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「<ぼく>と世界をつなぐ哲学」

哲学者の中山元さんが、

素朴で根源から考えながら生き抜くために

哲学的思考法の魅力をわかりやすく

紹介されている入門書です。

「哲学なんて面倒くさい知的営み」

と思われている方にこそ、ご一読願いたい

1冊です。

確かに、常に考え続けることはしんどいもの・・・

ですが、考え続けずにはいられないのも

人間の悲しい性・・・

今回は、この本をご紹介します。

「<ぼく>と世界をつなぐ哲学」              (中山元著、ちくま新書、2004年)

まずは、誠に勝手ながら

当ブログを1週間ほども長くお休みさせて

頂きましたこと、お詫び申し上げます。

当ブログも、本日から再開させて頂くことになりますが、

前回の本文中で、個人的な「抑鬱記」を書かせて頂きました。

そして、今回の「抑鬱期」は思った以上に長く1週間も続く中、

2・3日の転地療法を兼ねた旅先で、熊本を震源地とする大地震の

報道に接することに相成りました。

ちょうど、日本の中央構造線地帯の「龍脈」を静岡県浜松市から

愛知県の渥美半島(伊良湖岬)を経て、海沿いに神島などを眺めつつ、

鳥羽方面へと渡り、「お伊勢詣り」をさせて頂きながら帰路につく途上の

出来事でしたので、心も穏やかならざるものがありました。

また、管理人個人にとっても、九州には縁戚関係も多く、

本年には身内の結婚式で、これまた九州から、

新たに縁者を迎え入れる矢先での出来事であっただけに、

心配も人一倍強いものがあります。

ここに、この度の被災者様のご心中を

お察し申し上げますとともに、

一日でも早く平穏無事な暮らしに復帰されることが

叶いますように、心よりお祈り申し上げます。

また、震災事変時には、悪質で信憑性の低いデマも流れますので、

被災者の方々には、状況判断をご確認されるに際しては、

政府や各自治体などの「公式」情報を頼りに、

是非とも慎重に行動されることをお願い申し上げます。

管理人も微力ながら、心からの「平安の祈り」を

念じて参ります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

中山元さん(以下、著者)は、

「独立系」の哲学者・翻訳家です。

いわゆる大学などの教育アカデミズム業界に

身を置かれずに、翻訳家として哲学的思考法の

魅力を一般向けに伝えてこられました。

前にもご紹介させて頂いたトマス・ペインの

『人間の権利』の翻訳者でもあります。

本書は、「アイデンティティ」「記憶」

「言語」「他者」「共同体」など身近なキーワードを

手がかりに、西洋と日本の哲学者の思考の軌跡を

丹念に辿りながら、ともに哲学しながら生き抜く知恵を

学ぼうと呼びかける「哲学入門書」であります。

さて、21世紀現在の今も、人類は、冒頭でも触れさせて

頂きましたような、深い悲しみが続く絶望的状況の中で

祈りながら生き抜く日々を過ごしています。

特に、上記のような近年立て続けに襲いかかる天災事変には、

人間の無力を感じさせるものがあります。

こんな時こそ、逆説的ですが、絶望感から抜け出すための

きっかけとして、哲学的思考法をご活用されることを

お薦めさせて頂きたく、この本を取り上げさせて頂きました。

絶望の中に佇む人間にこそ、深く生き抜く知恵が舞い降りる!?

本書でもまた、そんな人間の有史以来の「不条理感」について、

古典的な人間と世界の関係性を巡る考察が展開されていきます。

残念ながら、深い喜びのある人生だけで、生涯を終えることは

出来ないようになっているようです。

しかし、逆説的ですが、深い喜びだけで生涯を終えることが

許されないことと引き換えに、人間には「考える葦」としての

知恵も授けられているようです。

「人は、何のために悩み悶え苦しみを味わわざるを得ないのか?」

『なぜ、<考える葦>として人間には「頭脳(知性)」が与えられたのか?』

そこにこそ、人工知能などの機械にはない「秘密の鍵」があります。

機械の場合には、故障しても修理やスペア(予備=代用品)もあるでしょう。

もっとも、管理人個人としては、機械や人形にも「霊魂が宿る!!」との

ある種の「アニミズム観(親しみ感覚)」がありますので、

そのような機械への無機質な理解はありませんが、人間の場合には、

「意識(心・魂)」といった「いのちの流れ」を、より一層強く

感じさせられるがために、「かけがえのなさ」という点では、

愛着感もより一層増します。

一方で、この愛着感が仇になることもあります。

「愛憎半ばする!!」のが、人間の悲しいところでもあります。

そのことは、他者だけに向けられたものではなく、自分自身に

向けられた「実感」でもあります。

憂鬱感情は、そんな時期に訪れるようです。

躁鬱間隔は、人によって違いもありますが、管理人にとっても

いつやってくるか前もって心の準備をしておくだけの「余力」が

年を積み重ねるにつれ、少なくなってきているように

感じられてきただけに、予断も許さない状況にあるようです。

また、心のゆとりがなくなってくると、考える余力すら失われていく

ような深い悲しみに襲われるようになります。

管理人も、元気がある時には、「考える力」も漲ってくるようで、

皆さんに、サービス精神を発揮させるべく勇気も湧き出てきますが、

元気が湧き出てこない時には、「考える力」も枯渇してくるため、

皆さんにエネルギーをお裾分け出来ないことが、誠に残念です。

本書の主題である「哲学的思考」は、まさに「考える力」と相性があるだけに

本書の各テーマに関するご紹介からは離れていってしまいますが、

お許し下さいませ。

そこで、本書の各テーマについて、今回は詳細な解説を兼ねた

いつもながらの考察は出来かねますが、それだけでは、いかにも不親切なことに

なってしまいますので、少しだけ触れておきましょう。

人間の歴史は、「知性進化の歴史」だと、

長らく「哲学界」では考えられてきたようです。

それが、「言葉」をもった人間の宿命だとも・・・

そこから「心身二元論」が早くから生み出されてきたようです。

この「心身二元論」は、近代以降に特有の「哲学的思考癖」と

思われているようですが、さにあらず・・・

実際には、人間が「言葉」を持つようになってからの伴侶であります。

今回は、「言葉以前」と「言葉以後」をつなぐ架け橋についての考察は

省かせて頂きますが、この「架け橋」についても諸説あって、

なかなか面白いものがあります。

本書でも触れられていますが、「言葉以前」には、「身体感覚」に由来する

「記憶の力」が「考える(言葉=理性)力」の代用品でもあったそうです。

著者は、哲学界の盲点だった「身体論」の復権についても問題提起されています。

そのような思索を通じて、<ぼく>と世界をつなぐ「架け橋」が、

著者の独自の視点で、架けられていきます。

その意味でも、著者は狭義の「言葉だけに頼り切った」哲学「学者」でもないようです。

大体のところ、大学アカデミズムに属する「哲学科」の先生方には、本物の「哲学者」が

少ないようです。

もっとも、優れた「哲学者」の先生もおられますが・・・

ですので、大学アカデミズム系の先生方には、「哲学学者」の称号が奉られるようですね。

そんな皮肉な「揶揄表現」も陰ではなされているようです。

本書でも、古今東西の哲学者(こちらは、<本物>が多い!?)の

論考の紹介を踏まえながら、

著者独自の「哲学的思索」の軌跡が見え隠れしていますが、

<本物>の「哲学者」(自前で思索しながら哲学的生き方を実践する求道者のこと)が、

19世紀末期以降少なくなっていったのも、「学位制度」にも原因があると言われています。

ニーチェなども、そんな近代的「哲学学者」になるといった「学位制度」の犠牲者で

あったようです。

もっとも、ニーチェの場合には、そんな「学位制度」に背を向けながら、

「詩人」としての感性・霊性もフルに活かしながら、あれだけの命がけの

「思索の形跡」を今に残してくれているだけに、その全身全霊感覚を

こちらの方でも真剣に受け止めながら共有思索しないことには、

向こうからも語りかけてきてくれないようです。

ニーチェには、様々な誤解もあるようですが、管理人自身は、

むしろそのノイローゼに襲われた晩年の深い悲しみ(絶望感)に

なぜか心が引き寄せられています。

おそらく、その共通感覚が似ているからかもしれませんが・・・

多分、根を詰めて頑張りすぎたのですよ、きっと・・・

そんなニーチェが、ロバか馬かは忘れましたが、

発狂時に思わず抱きついた感覚も何となく分かるような気もします。

動物は、「言葉」を持っていないだけに、純粋な「喜怒哀楽」を表現することが

出来ます。

そのため、「言葉」で表現出来ない「限界」を、全身全霊で

私たち人間に語りかけます。

そこに、ニーチェは、共感を覚えたのだと思います。

「哲学者」は、「哲学学者」とは違って、「解釈や評価」などの

二番煎じに拘泥しません。

純粋に考えずにはいられないからです。

つまり、「考えること=生きること」が、完全一致しているということです。

「考えること=生き方そのもの」なものですから、

まさしく「知行合一」(王陽明)であります。

「言行一致」などではないのです。

そもそも、「言行一致」と解釈することからして、

真剣に考え抜いているとも思えません。

考え抜いていないとは、生ききっていないということです。

厳しい表現になりますが・・・

なぜなら、「思った時が吉日」とも表現されるように、

「有言実行」などにこだわらずとも、真剣な求道者(哲学者・詩人など芸術家)

ならば、言わずとも「不言実行」のまま、跳躍しきっているからです。

そして、「自分の人生に全責任を負う!!」

これが、少なくとも真摯な哲学的思索家の一生だと、個人的には信じています。

それは、ウィトゲンシュタインの生涯にも共通しているようです。

だからこそ、変な解釈に巻き込まれなくて済んだのかもしれません。

「近現代」哲学者にしては、珍しく生きたタイプでした。

やはり、「哲学者」は、「学位取得者」の中には少ないようです。

その意味では、真剣に誠実に生きる者なら、誰でも「哲学者」の資格があります。

本書は、そんな「哲学入門書」ですが、皆さんもともに「考えるヒント」を

学びながら、これからの人生を生き抜く「精神的糧」を得て頂くきっかけとして、

ご活用下さることをお薦めさせて頂きます。

躁鬱状態の中でこそ磨かれる「哲学的思考法」

こういう視点もあることを皆さんにも知って頂きたいのです。

「躁鬱病」だけでなく、現代社会では「心の病」が増加する

一方だと聞きます。

管理人個人としては、いつも強調させて頂いていますが、

こうした気質は、断じて「病気」などではありません。

それは、世間からのレッテルを容認することになります。

もっとも、「精神安定法」としては、こうした処世術も必要です。

特に、社会生活に重大な支障をきたしているにも関わらず、

無理に「社会復帰」を目指すこともありますまい。

何よりも、ご自身の「いのち」をいたわってやって下さい。

「自分のいのちを守りきることが出来るのは、

あなたご自身だけなのですから・・・」

管理人も、この1週間「お休み」を頂きましたが、

色々と考えさせて頂きました。

「考えることよりも、無心になる大切さ」を、

あらためて確認させて頂きました。

伊良湖岬から夜に見た神島から点滅する灯台と、

それに導かれるように外洋へと出航していく無数の漁船群・・・

夜空には無数の星空・・・

久方ぶりの家族旅行でもありましたが、

ここは、やはり「恋人」と訪れる場所ですよ(笑)

ですが、誰しも、童心のような「初心」に返らせてくれる

夢を想い続けることが叶う「恋路が浜」です。

ですので、「思い人」がおられる方には、是非とも

訪れて頂きたい「パワースポット」であります。

ちなみに、ここは「龍脈」にも当たりますので、

これ以上「震災」が大きくなりませんように祈らせても頂きました。

2年ぶりの「お伊勢詣り」でも。

「何事の おはしますをば 知らねども

かたじけなさの 涙こぼるる」(西行

西行さんも、「恋多き人」だったようです。

一休さんも。

「恋」は、「聖俗」に関係なく存在する

「あわい(境界線上)に、そこはかとなく漂う色香」のようです。

今回は、本書のテーマ「考える力」である「哲学的思考法」からは

一見外れてしまっているようですが、何も「考える力」は、

しかめっ面しながら、辛気くさく「陰気」に物思いにふけりながら

思索することだけが、「哲学的思考法」ではありません。

むしろ、気軽に心安らかに、「詩心」や「恋心」などの

「芸術的魂」とのセッションを楽しむのも、「哲学的思考法」であります。

そんな気軽な感じで、筆を進めてきましたが、

読者の皆さんにおかれましても、

「心が痛む(<病む>とは、言わないでおきましょう。つらくなりますので・・・)」

時には、こうした「原始感覚」としての「根源へ」と向かう思索を

楽しんでみてはいかがでしょうか?

いずれにせよ、何事もほどほどに、ということを「合い言葉」にして、

今後の世の流れが「より良き方向」へと導かれますように、皆さんとともに

協働していきましょうね。

そのヒントとして、本書でも前にも当ブログでご紹介させて頂きました

ベンヤミンレヴィナス的な「まなざし」も参考になるかと思われます。

「遊歩者」や「異邦人」としての視点です。

こうした、ちょっとした日常感覚から離れてみる「離見の見」(世阿弥

も、大切な「哲学的思考法」です。

今後の「哲学史」では、「身体論」から「心身(生死)一如論」まで、

生々流転を繰り返しながら、「生きた」弁証法も進展していくことでしょう。

これまでの人類における「哲学前史」は、

「頭脳(知性)」か「直感(霊性)」に偏りすぎた嫌いもあったようです。

このバランスを取る役割が「身体感覚(感性=皮膚感覚)」にあるようです。

ということで、ようやく人類は、大きな「転換期」を迎えつつあるようです。

偏った宗教色のない本来の「三位一体論」です。

面白いことに、キリスト様もお釈迦様もソクラテスさんも、

こうした共通感覚をお持ちであったようです。

「人類は、どこで<道>を間違えたのか?」

管理人も、個人的なライフワークとして様々な角度から研究考察していますが、

おそらく「中道感覚の喪失」こそ、その「答え」ではないかと感じています。

「極端から極端へ」

このことは、「躁鬱間隔」の過程でも否応なしに経験させられますが、

こうした「苦しみ」が「小康状態」に戻る時にも、

この「中道感覚の回復」をイメージしながら体感する知恵と工夫が

助けになってくれるようです。

こうした「体感」も、「言葉」だけでは、皆さんにうまくお伝えすることが

叶わないことがもどかしいところですが、「なんとなくの幸せ感??」が

そんな「体感イメージ」を体現してくれているようです。

ということで、今回は、「病み上がり」ですので、

少しずつの再開から始めさせて頂きましたが、

今後ともご愛顧のほど宜しくお願い致します。

皆さんにも、「哲学的思索の歓び」を深く体感して頂くきっかけの書として

ご紹介させて頂きました。

そういう訳で、本書『<ぼく>と世界をつなぐ哲学』をお薦めさせて頂きます。

なお、

「物語ること、生きること」

(上橋菜穂子著、瀧晴巳構成・文、講談社、2013年)

※『獣の奏者』や『精霊の守り人』で話題の人気作家が描く

「自伝的哲学エッセー」です。

上橋ファンの方は、必読です。

これから、このシリーズに取り組まれる方にも、

上橋さんの原点を知るうえで参考になる本です。

巻末には、上橋ワールドを形作っていった「読書案内」も

充実していますので、ご一読されることをお薦めします。

「世界を肯定する哲学」

(保坂和志著、ちくま新書、2001年)

をご紹介しておきます。

※保坂さんも、哲学する独特のスタイルを持つ「小説家」です。

その粘り強い「哲学的小説」には魅力もあり、

ぐいぐいと<保坂ワールド>に、

引き寄せられていくことでしょう。

また、「王陽明」については、

『イヤな「仕事」もニッコリやれる陽明学

~眠っている能力を引き出す極意~』

(林田明大著、三五館、2008年)

※林田明大先生のご著書には、学生時代から

相当なお世話になっています。

まさしく、タイトルのとおりで、

「憂鬱」な感覚で悩まされる時には、

優しく、時に強く励ましてくれる好著です。

こちらの本も、強くお薦めさせて頂きます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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