「縛られた巨人」南方熊楠先生に勇気を貫くエネルギーをもらう!!
伝説の「縛られた巨人」南方熊楠。
生涯、定職につくことはなく
お金に不自由しながらも
志を貫いた「在野の学者」です。
世間の荒波に翻弄されつつも、自分の志を果たしていくのは
今も昔も並大抵のことではありませんね。
皆さんの中にも、「好きを仕事に」を人生の柱にしたくとも
「生計をたてること」などで難儀している方もいることでしょう。
そんな方へ応援のメッセージをこめて、この本をご紹介します。
「縛られた巨人~南方熊楠の生涯~」 (神坂次郎著、新潮文庫、1991年)
著者は、南方熊楠と同郷の「和歌山県人」です。
数ある南方熊楠の評伝は、机上の文献資料の焼き写しが
多く「孫引き」など実際の熊楠像から相当な距離があるそうです。
そのため、信憑性の低い「武勇伝」など熊楠の繊細な性格などが
深く描き切れていない作品が世に多く出回っています。
そんな作品群の中でも、著者は熊楠ゆかりの地を海外にまで
実際に足を運んで、熊楠独特の膨大な「手紙や日記」の類まで
丹念に調べ上げて書かれた作品だったので、お薦めさせて頂きました。
いつの時代も「好きを仕事」にすることは、困難を極めます。
普通の人間なら、どうしても「生計をたてる」ための「仕事」を
しながら「資金」を準備しなければなりません。
ここで、時間が取られてしまい人生は「あっという間に」日が暮れて
しまいます。
南方熊楠の場合は、実家が裕福だといっても兄弟間で
「金銭トラブル」があったために「金銭感覚に疎い」熊楠は、
いつも「資金繰り」に困っており「貧乏暮らし」でした。
そのように「生計」のやりくりにも四苦八苦の中、
熊楠は「在野の学者」としての道を貫きます。
ついには、余人をもって代え難い「南方曼陀羅学」といわれる
「学問体系」を築き上げます。
人生はご縁によって成り立つ!!
南方熊楠が築いた「南方曼陀羅学」とは、
「人間曼陀羅学」です。
粘菌類などの「生物学研究」や、人間の森羅万象を研究する
「民俗学研究」など・・・
研究テーマに共通するのも、「いのちの神秘」でした。
世の中は、「原因と結果だけで成り立つものではない!!」
様々な因果が絡み合って織りなす「交響楽」
すなわち、「縁」の謎を解き明かすのが熊楠でした。
21世紀に入っても、いまだ「いのちの神秘」は完全には
解明されていません。
そればかりか、「学閥争い」や学問の「専門化・分業化」が増殖し
かえって世の中に「争いの種」を蒔いているような状況です。
「科学と精神の融合」
これが、21世紀の学問の進むべき道です。
「学問の進歩水準は、世の中の現状の写し絵」ともいいます。
「物と心」が融合したところに「コト=現象」が起こります。
心と意識の関係もまだまだ解明されていません。
この「いのちの神秘さ」を解明する作業を省いて、「機械化」
を推し進めようとしているのが現代人です。
因果関係を超えた「ご縁」という関係に思いを至らすこと。
これが、「生きやすい」世の中にするためにも
避けては通れない道なのです。
そのように、南方熊楠は現代・未来に向けてメッセージを
発しているようです。
人間万事塞翁が馬(にんげんばんじさいおうがうま)
人生とは、誠に「不可思議」なことに満ちあふれています。
「一寸先は闇」だと思えば、
「一寸先は光」だったり・・・
「吉」と思ったことが、実は「凶」
「凶」だと思ったことが、「吉」だったり・・・
人生は、何が起こるか分かりません。
だからこそ、皆さんにも「人生をあきらめない」で
頂きたいのです。
ちょっとした「出会い」の時間を無駄にするのか、
貴重なものにするのかは、「心しだい」です。
南方熊楠の人生も、世間に振り回された一生だったのかも
しれません。
それでも、熊楠が恵まれていたのは「理解してくれる友」が
応援してくれたからです。
熊楠は、人間の「好き嫌い」が激しかった一方で
「繊細で優しい」一面もありました。
ことに、「猫に優しかった!!」
おそらく「不遇続き」の熊楠が、己の人生を「猫」に重ね合わせて
いたのかもしれませんね。
猫は、自由人にとって相性がいいのかもしれません。
金銭には、常に悩まされた熊楠。
普通の人間なら、「生計をたてる」ことを前にして
「自分の本来なすべき仕事」を断念してしまいます。
そんな過酷な「経済状況」の中でも、「志」を実現させていったのは
なぜだろうか?
「志に対する欲が人一倍強かったこと」
つまり、「小欲よりも大欲を優先させたこと」
様々な妨害があっても、乗り越えて行けたのはなぜだろうか?
「世間体よりも志を優先させたこと」
「自分を理解してくれる人には、格別な情をもって感謝したこと」
「神仏を始め、宇宙の森羅万象を愛したこと」
などが、挙げられると思います。
皆さんの中にも、熊楠を尊敬されている方も多いでしょう。
お金に悩まされても「志」を実現する道は必ずあります。
ただし、時間はかかりますが・・・
本を買うお金がなくとも「筆写」という手段があります。
熊楠のすごさは、「コピーではなく手書き筆写」を大量に
したことです。
「お金はあるけど、時間は不自由」
「時間は自由だけど、お金はない」
どうも、「天は二物をなかなか与えない」ようですね。
これも、「いのちの神秘」かもしれません。
皆さんも、それぞれの分野でご活躍されますことを
お祈りしつつ筆を擱かせて頂きます。
なお、南方熊楠について知りたい方へ、
「巨人伝(上)(下)」(津本陽著、文春文庫、1992年)
「猫楠~南方熊楠の生涯~」(水木しげる著、角川ソフィア文庫、1996年)
を、ご紹介しておきます。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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[…] 「学問の神様」南方熊楠さん(記事①などご参照のこと)などが、 […]
[…] こちらの記事もご一読下さると幸いです。) […]
[…] 奇しくも、本年は前にもご紹介させて頂きました […]
≪「物と心」が融合したところに「コト=現象」が起こります。≫
【数そのモノ】が、≪「コト=現象」≫をとらえる道具と観るなら、逆に【数そのモノ】が、≪「物と心」が融合した≫モノと捉えて観よう。
【[数]とは、何か】 【なぜ計算できるのか】 を≪南方曼荼羅≫の鶴見和子先生の≪悴点≫の思想(思考)で探ってみる。
「南方熊楠」生誕150年開かれた巨人の「粘菌・曼荼羅・潜在意識」安藤礼二著に、
≪へッケルの「プラスティドゥール」(波動=プラズマ)を[モネラ]…ライプニッツに由来する[モナド](monado)と同様なもの…に非生命から生命(モネラ=モナド)の[自己発生]を推定している。≫
≪無限に無限が重なり合うモナドロジーを[華厳]の世界として捉え直していく、そこに南方熊楠の曼荼羅論の頂点が訪れる―≫
≪…内的な霊界では、森羅万象あらゆるものは、それぞれ異なっていながらも、霊的な光という性質を共有しているという点で、同じものである。一なるものから多なるものが生まれ、多なるものは一なるものへ帰還する。…≫
≪…有限の私がもつ[魂]と、無限の大日がもつ[魂]とは一つのもの
一如なのだ(同)≫
≪即身成仏の条件として梵我一如があらためて定義づけられている。…≫
これらの ≪ ≫ 基に、【数そのモノ】を≪悴点≫の思考で探り得るのは、『自然比矩形』である。
この≪悴点≫の思考から、『離散的有理数の組み合わせによる多変数創発関数論 命題Ⅱ』の『自己無撞着の非摂動方程式の解(パラメータ)』が、【数そのモノ】を言語より[上空移行]させたモノと生っている。
また、[離散対数問題]として[素数(RSA)暗号]や[量子暗号]と異にする『離散対数暗号』として使えるかっも知れない。
【数そのモノ】は、人間共同体として観れば、山極 壽一 先生の言説の
≪共同体というのは、何かしてあげれば、お返しが くる、また、何かしてもらえば、お返しをしたく なるという、互酬性の原理で成り立っています。≫
と観得る。
表象できている【1】は、多彩な(無限の)≪『愛(曼荼羅)・・・・』≫をもつ≪永遠の真理≫と観ることになる。
【1】に真理と≪『愛(曼荼羅)・・・・』≫を込めて、
「愛の水中花」 歌:松坂慶子、作詞:五木寛之、作曲: 小松原まさし の
替え歌として、 『一の水中花(カオス)』 を世に送る。
いち カオス
一 の 水中花
いち いち いち いち
これも 一 あれも 一 たぶん 一 きっと 一
いち
だって 一 なるものよ ふえないなんて
あわい いち
そっと カオス で 一 を とかしてみたいわ
いち いち
ひとりぼっちの カオス の カオス のなかで
いち ゆめ
もっとたくさん 一 を 数 みている
いち みず
かわいたこの 一 に カオス をあたえてください
あわい ちから
入れ子 の こころ をひとつ
いち
一 にしぼってください
ゆめ いち カオス
数 は 一 の 水中花
いち いち いち いち
これも(e-1) あれも( ) たぶん ( ) きっと( )
たね
だって カオス なるものよ はぐくめないって
このほし たね
そっと 地球 の カオス をそだててみたいわ
たね もの
そうよ カオス なんて 物質 じゃないわ
ゆめ
だからいまのいまは せめて カオス をみている
たね みず
かわいた この 種子 に カオス をあたえてください
あわい ちから たね
カオス の こころ を 種子 に
たね
種子 にそそいでください
たね いち カオス
種子 は 一 の 水中花
カオス カオス カオス カオス
これも 一 あれも 一 たぶん 一 きっと 一
できれば、市川由紀乃さんに歌って頂けたら・・・