木下清一郎先生の「心の起源~生物学からの挑戦」を読む!!心は遺伝子を超えることができるのか??

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「心とは何か?」

この問いは、絶望的に困難です。

「心が心を把握する」という自己矛盾

(同義反復=トートロジー)を繰り返さざるを

得ないからです。

そこで、今回ご紹介する木下清一郎先生は

「心の起源」を探ることから「仮説」を再設定して

「心の謎」に迫っていきます。

昨日のブログでは、物理学の角度から迫りましたが

今回は「生物学」の角度から問うていきたいと思います。

それでは、今回はこの本をご紹介します。

「心の起源~生物学からの挑戦」             (木下清一郎著、中公新書、2002年)

著者は、大阪府出身で発生生物学を専攻されています。

発生生物学は、分子生物学と違って多細胞生物の個体発生の

過程を解析することにより「生物(いのち)の起源」を

探っていく学問です。

一方、分子生物学は物理学における量子力学での知見を

借りながら「生命体の中身」を解明していくものだと

イメージして下さい。

さて、最新の生物学研究では「遺伝子中心主義」が

主流のようで、生命の探求としてはあまりにも「人工的」で

遺伝子工学のイメージもよくありません。

「クローン人間」など・・・

人類は、ついに禁断の果実を手にしてしまったようで

大きな人類史における転換期を迎えようとしているようです。

この「遺伝子=情報」をメインに据えた分子生物学は、

現代社会を反映しているようです。

この生物学は、物質中心主義に偏りすぎで「優生学の復活」にも

つながりかねませんので、余程の高度な倫理観がない限り

立ち入れない領域でもあります。

しかも、この研究の方向性からは一向に「生命(いのち)の神秘」

に迫ることも出来なさそうです。

著者は、そうした「遺伝子中心生物学」から離れて発生生物学の視点で

「心とは何か?」を探っていきます。

ところで、ここに難問が待ち受けているようです。

「心とは何か?」を問うた瞬間に「自分で自分の心」を探るわけですので、

一種の循環論法(トートロジー=同義反復)となってしまい、

収まりが悪いことになります。

そこで、著者は発想を変えます。

「何か?」から「いかに、なぜ?」へと・・・

心の発生は、記憶の誕生からという視点を仮説に、論証していこうと

されています。

管理人は、高校時代「生物学」に嫌気が差してしまったのも

「細胞」がどうしたこうしたといったところに、当時は

興味関心も持てなかったからです。

今回、「心の不思議」を学んでいくうえで、この本をご紹介させて頂く

ことにしたのも、そんな「生物学」に苦手意識のあった管理人でも

何とか話についていけたからです。

心はどのように生まれるか?

著者は、従来の遺伝子中心論では「心の発生過程」について、

自然科学の「要素還元主義=客観的分析思考」からは

うまく説明出来ないことから、発想を変えます。

要するに、物質世界(遺伝子)の世界から直接「生物世界」及び

「心の世界」を解明することは困難なので、それぞれの世界を切断して

「次元が異なる世界」の問題として扱おうということです。

物質世界の中に生物世界という「別の世界」があるのと同じく、

生物世界の中にも心の世界という「別の世界」があると仮定して

遺伝子中心(支配)の発想から抜け出そうということです。

『一つの世界体系の中で、延々とぐるぐる回る無意味を回避するため、

世界を「入れ子(多次元構造)」として分析する』ということです。

そこで、まず出発点として次のように考えてみます。

「心とはある種の働きである=神経系を十分に発達させた生物体のみに

みられるはたらきである」と・・・

このことを大前提にして、著者は次々に仮定命題を立てていきます。

①生物体はある領域を自己の領域として限定し、その他の領域を外界として

区別する。

②生物体はみずからの必然的要請として、外界の情報を受容し、これを

処理するための系(システム)をもつことになった。多細胞の生物体が

つくられると、そこにはこういう系の一つとしての神経系があらわれる。

③神経系が情報として処理できるのは、外界に生起している事象のうちの

ごく一部分にすぎない。したがって、神経系内での情報処理に、外界の

事象のすべてを反映させることはできない。

④神経系が発達するにつれて、神経回路での情報処理の過程は変化していく。

まず生得的な本能情報が刻印されるが、やがてこの回路を修正して、後天的な

知覚情報を可塑的(一度変化すれば元に戻らないこと)に刻印することを

可能にする。

⑤心のはたらきの最初の徴候を、行動の能動性の発揮という点に認めるとする

ならば、それは記憶の成立からはじまる。

⑥世界を新たに開く条件として、特異点、基本要素、基本原理、自己展開の

四つが挙げられる。

⑦一つの世界とは一つの公理系であって、新しい世界が開くとは新しい公理系を

立てることにほかならない。

⑧ある系が自己矛盾をかかえたとき、そこを基点として新しい公理系が生まれ、

その公理系は独自の展開を遂げる。

⑨記憶と照合の相互作用によって情報の自己回帰がはじまり、そこから時空・

論理・感情の特性が生み出される。これらは心のはたらく「場」を規定する

枠組みとなる。

⑩心の体系の根底をなす枠組みは、「統覚」と仮に名づけた統合能力によって

つくられる。統覚の潜在的能力は生得的にあたえられているが、その顕在化には

経験が必要であって、その意味では獲得的である。つまり、統覚は生得的と

獲得的のちょうど中間にあるといえる。

⑪心の世界を開く特異点は、「統覚」の出現というできごとに見いだせる。

⑫心の世界の基本要素は「表象」である。それぞれの表象は「表象の場」の

なかで固有の値をもった位置を占める。

⑬心の世界の基本原理は「自己回帰」とそれに由来する「抽象作用」である。

⑭心の世界における自己展開の支配則は「意志の自由」である。

まとめると、こうした「心の展開作用」こそ「意志の自由」にほかならない

わけであるが、そこにはおのずと節度が必要とされる。

つまり、「意志の自由」こそ、その働かせ次第でいかようにも

「世界を変容させることができる」から責任は重いのであると・・・

心の未来に責任を持つことが「生きる者」の務め!!

こうして見てくると、今を生きる者は

物質世界・生物世界(人間社会も含む)・心の世界というように相互の世界に

影響を与え続けるため責任を自覚しなくてはなりません。

著者の知見から判明してきたことは、「遺伝子情報」と「心」の次世代への

継承はそれぞれ別問題だということです。

優生学に偏りかねない「遺伝子情報の保存継承」だけでは、世界は完全とは

言い切れないのではないか?

「心の継承」これを「文化的遺伝子(ミーム)」(リチャード・ドーキンス)

といいかえることが許されるならば、「別の道」も開けてくるようです。

私たちの「個体」が滅んだ(死んだ)後も、生前の思いは後世に語り継がれていく。

もちろん、その思いは「高次元の志向性を持った高い意識」でなくてはなりません。

そのような、「高意識体」である自分の思い(魂とも霊体とも高エネルギーとも

呼び名は様々ありますが・・・)を残すことが「人生の究極目的」なのかも

しれませんね。

ここには、「希望と愛」があります。

遺伝子に執着する生物学の見方は、「無明(絶望)」につながります。

物質偏重主義(この世だけ良ければいいという発想)は、本当に

つまらないことだと思います。

管理人が、「未来志向」をテーマに当ブログを通じて、

皆さんにお伝えしようとすることも、文化的遺伝子を次世代へとつなげるためです。

どうか皆さんも、この「新しい生物学」を学んで積極的に生きてみませんか?

「人生は、思い立ったが吉日」

「何度でも再出発できる」のです。

そのために、お互いに学び続けようではありませんか?

最後までお読み頂きありがとうございました。

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