伊藤邦武先生の「宇宙を哲学する」を素材に、あたらしい宇宙共有生命哲学を考えよう!!
伊藤邦武先生の「宇宙を哲学する」
前回予告させて頂いた「宇宙哲学」を、
今回はこの本をご紹介しながら、
前回の続編として考察していきたいと思います。
21世紀、日々「宇宙研究」は進化しています。
世界の実業家も、相次いで新しい宇宙時代に
相応しい研究開発に投資していると聞きます。
さて、物理的な宇宙研究もさることながら、
私たちは、「何のために宇宙へ向かおうとするのでしょうか?」
それは、古来より「夜空の星々」の姿に人類が素直に憧れてきたから??
その謎を探究していく学問が、「宇宙哲学」です。
「双書 哲学塾~宇宙を哲学する~」 (伊藤邦武著、岩波書店、2007年)
伊藤邦武先生(以下、著者)については、すでに当ブログでも
パースのプラグマティズム哲学を中心に、「実践的経験論哲学」を
倫理的な角度から、これまでの単なる「功利主義」的なイメージからの
転換を図ろうとする「あらたな哲学」を素描する研究をされてこられました。
21世紀以降の宇宙時代に相応しい「あらたな人類の宇宙哲学」を創出して
いくための「哲学前史」を、前回の「物語 哲学の歴史」では、
学ばせて頂いたところです。
「人はなぜ宇宙に憧れ、謎解きに挑戦してきたのでしょうか?」
この問いは、「古くて新しい」テーマです。
宇宙や自然をテーマとする「自然哲学」の一分野として扱われています。
17世紀以来の「近代哲学」は、「近代科学」の発展とともに、
人間の「認識能力の限界」との闘いの「哲学史」だったとも言われています。
21世紀に入り、ますます科学技術の発展が飛躍的に高まる一方で、
人間の「生存目的」に対する深い懐疑も噴出しているところであります。
その原因は、「人間と世界(宇宙)との関係に不協和を生じさせてきたから」です。
つまり、人間が「自らなした仕事」に対して、十二分に理解してこなかった
ことにも由来すると言い換えることができるでしょう。
そこで、もう一度「原点に立ち返ろう!!」ということで、
再び「生の哲学」を復権させようとの動きも出てきているようです。
「宇宙の哲学は、人類の生存哲学を探究していくための最大の源泉」を
提供してくれます。
「生きることに迷った時には、宇宙を眺めよう!!」
ということで、皆さんの「生きる勇気」を少しでも高めて頂き、
「生きるということの実感」を取り戻して頂くためのヒントとして、
ともに考えて頂きたく、この本を取り上げさせて頂きました。
それでは、さっそく「宇宙を哲学する」にご招待しましょう。
「コスモロジーの自立」の努力と帰結への軌跡
この本では、西洋「近代」哲学の黎明期のある天文科学者の夢から
講義が始まります。
「ケプラーの夢」
天文学者のヨハネス・ケプラーと言えば、400年間
数学上の最難問とされてきた「ケプラー予想」を立てた科学者
としても有名な人物です。
管理人は、数学上の難しい「証明問題」については、もとより
簡潔に説明する能力を持ち合わせていませんが、
イメージとしてなら、次のような事例を思い浮かべます。
例えば、「ボールに入った不規則な(バラバラの)みかんを
規則的に整然と(うまく)敷き詰める方法として、
どのような詰め合わせ方をすれば、最適なのか?」という
「数学的方法論」のようです。
それはともかく、「ケプラーの夢」
こちらが、今回の「宇宙の哲学」のテーマでした。
さらに、実際の天体観察によって詳細にその「天体の運動法則」を
記述完成させていきました。
これが、後にニュートンの「万有引力の力学」へと導いていったそうです。
ケプラーは、豊かな発想力でもって表現することでも人気がありました。
最初の「空想科学小説(SF作品)」ともされています。
この「ケプラーの夢」が、なぜ今回の「宇宙哲学の出発点」になるのかというと、
この本が、近代科学とその後の人間の認識法を探究していくうえで、
画期的な「思考実験材料」を提供してくれているからです。
①科学とは、人間の認識に大きくゆさぶりをかける手段であること。
つまり、科学には本来「不安定さ」が付きまとい混乱も生じさせること。
②人間の認識能力には、絶えず「誤謬」がつきまとうために、
自らの「判断能力」を「唯一絶対」のものとせずに、自らをも突き放して
考察する必要があること。
③そのことは、同時に世界を「あるがままに」観察することに限界があることを
自覚させ、「現象面(表象の世界のみ)」にとらわれずに、その背後に奥深く
隠された法則(因果関係)を絶えず精密に突き詰めていこうとするねばり強さが
必要であること。つまり、経験則にも限界があるということ。
などを、気付かせていく「きっかけ」を与えているからです。
この「ケプラーの夢」から、近代科学の「方法論」がさらに模索されていきます。
そのあたりの、個別考察が以下なされていきます。
この本では、前回の「物語 哲学の歴史」のうち、「宇宙の哲学」に的を絞って
考察されています。
さて、太古から現代に至るまでの「宇宙の哲学史」をざっとまとめてみますと、
「人間と世界の一致(1対1対応=有限連続的な視点)」から
「人間と世界の不一致(1対1対応ではない=無限非連続(離散)的な視点)」へと
発展してきたようです。
その間の「移り変わり」の様子が、各哲学者(科学者)の個性によって
切り開かれていきました。
19世紀末から20世紀初頭までの「哲学史(科学史)」には、
まだ「神々の残滓」が残っていました。
それは、人間の「認識の限界」を埋めるための「究極の秘術」でした。
中世のキリスト教神学(スコラ哲学)では、「哲学は神学の下僕」ともされ、
なかなか「人間固有の理性」は、認められてきませんでした。
啓蒙主義時代に生まれたカントも、ニュートンとライプニッツに共通する
認識論の根底に据えられた「神」という介在者を超克しようと努力するのですが、
カントもまた、時代の限界や「人間原理(主観的独断の罠)」、
「絶対的・固定的・静的秩序観」の前に屈せざるを得なかった点も、
この本では詳細に解説されています。
このあたりの歴史的事情は、日本人の場合、理解しにくいところですが、
そもそも世界観を「一元化」させようとの視点を「暗黙の前提」にしてきたので、
私たちにとっては、馴染みも薄くつかみ所のない視点でもあります。
そして、「神の理性」から「人間の理性」へと大きく飛翔していくには、
20世紀まで待たなくてはなりませんでした。
ところが、20世紀の「量子革命」から再び世界像が転換させられていきます。
科学の進展は、同時に「認識の限界への挑戦」でした。
そのことは、冒頭でも強調させて頂いた点です。
いくら科学技術(科学的思考法)が、細かく発展していき、西洋世界で
暗黙の前提とされていた「神々の領域」が少なくなっていったとしても、
相変わらず人間の認識に限界があることを容易には克服できません。
このことで、「神々」に救いを求める代わりに「科学」に救いを求めていくことに
前のめりになっていくのですが・・・
それでも、「科学」にも何らかの歯止めが必要だということで、再び「科学」の
根底を支える「科学哲学」が要請されていきました。
こうして、20世紀の「量子革命」に至り、科学が神学に優位する前提条件が
揃っていくのですが、ここにも「一元論」の誘惑が残されているのかと思いきや、
かえって科学の方から、その地位(神々に代わる「一元的世界観」)を
放棄していくような「歩み」が始まっていったようです。
20世紀も中頃になり、科学の世界でも「多元(多層)的世界観」が現れ、
やがて前にもご紹介させて頂いた「複雑系」科学の世界観へと進化していきました。
この「複雑系科学」は、21世紀現在もなお「日々開拓中!!」のようですが、
なかなか効果的な科学的方法論を確立することもままならないようです。
いずれにせよ、「決定的な宇宙(世界)観」は崩壊していきます。
そこで、宇宙科学の発展とともに、哲学の領域でもあらたな宇宙観(世界観)の
見直しが始まります。
それが、著者のご専門でもある「パースの宇宙論」です。
ある種の「進化論的宇宙哲学」です。
現在は、この認識方法論の革新作業が「哲学の主流テーマ」と言っても
過言ではありません。
従来からの人間の「認識の限界」をいかに乗り越えていくのか、
そのための「より洗練された方法論の確立」が模索されています。
人類の歴史は、「具体化から抽象化、抽象化から具体化への繰り返し」でした。
「イメージから言葉、言葉から言葉以外のより簡略された記号(数字など)へ」と
世界像の「記述方法」も進化していきました。
しかし、その進化の過程も「両刃の剣」であったようです。
このような人類の知的操作法の進化は、身体感覚から離れ、
「実感能力」をも喪失させていったからです。
ここにおいて、人類は「大いなる自信喪失の時代」を迎えるようになったことが、
現実世界に様々な「影」も落としていることは、周知のとおりです。
このような「負の世界像」から、いかに決定的な矛盾衝突をせずに
「脱出」していくかが、これからの「生の哲学(宇宙哲学)」でも問われます。
その素描を、本書では「パースの宇宙論」の紹介を通じて解説されています。
パース独自の「宇宙生成論哲学」
ここで、「パースのプラグマティズム」の出番です。
このように、科学的世界観を裏付ける哲学論が、「決定的実在論」から
「偶然的観念論」へと再び回帰していったかに見えるのですが、
このままでは、人間はますます不安感を深めていく一方です。
かといって、昔のように「わかりやすいあらゆる種類の一元論」にも
今更「後戻り出来ない!!」という問題意識も高まっていきました。
そこに現れたのが、パースでした。
パースは、これまでも解説してきましたが、
実践的経験哲学(プラグマティズム)の父でもあります。
もはや、人間の認識を超越していこうとする「形而上学」を
ひとまず横に置いて、「動態力学的な宇宙生成論哲学」を提起します。
近代哲学は、近代科学の完成と相まって一応カントにおいて、
「形而上学哲学」は差し止めになったようです。
そして、理性中心の経験論優位となっていくのです。
数学的・論理的に安定した世界観を再び取り戻していくために・・・
その基礎工事をしたのが、パースでした。
20世紀までの近代科学(哲学)の世界観は、「静的な安定秩序」が中心でした。
それが、20世紀の「相対論」や「量子論」によって根本的にゆらぎ、
再び何らかの「安定的実在感」を回復したいとの願望も現れてきました。
そのような相対立する2つの世界観をどのように調整させるのか?
ここに、「パースの宇宙論」が登場するきっかけがありました。
その詳細は、ここで解説し始めると長くなりますので、
この本にゆずらせて頂きます。
簡潔にまとめると、「複雑系科学」でも考察されたように、
「カオス(無秩序・混沌状態)からコスモス(秩序・安定状態)へ」と
いうことです。
この2つの両極を「行ったり来たり」しながら、循環する「宇宙(世界)像」の
提示が、「パースの宇宙論」の骨子でした。
「世界は、複雑な動きを繰り返しながらも生々流転している!!」
「どうやら、世界は入れ子(格子)状態に低次元から高次元へと自然に体系化
されていっているらしい!!」
細かいところは捨象した管理人の「最単純モデル」で言い換えさせて頂くと、
このようなモデルです。
つまり、「パースの宇宙論」は、これまでの人間の認識能力の限界を転回(革新)
させるような、「世界認識モデル転回」であるところに、「革命的な要素」が
含まれていたということです。
このパースのモデルで考えていくと、人間は「世界の外」に出る必要はなく、
「世界内に自己完結」して生きることが可能となるからです。
それは、まるで「ウロボロスの輪」のように・・・
思えば、人類史も世界を超克しようと悶え苦しんできた歴史でした。
そのことは、今現在もまだまだ進行中です。
それは、「自己の創出した世界(価値)観」を外に流出させようとしてきた歴史でもあり、
そのことが、様々な対立衝突を招いてきました。
その意味で、この「パースの宇宙論」は、私たちにも反省を促してくれる材料です。
「世界は多層・多元的な入れ子構造」ならば、各人の世界もその「各人の輪の内」に
留めながら、互いに協力していくヒントが得られるのではないでしょうか?
著者によると、この見方はカントの「超越論的認識(認識の外から見立てる)論」をも
克服していく「あらたな認識論」のようです。
「外から見立てる」ということは、あくまで俯瞰的に「独断の前に一歩立ち止まる」と
いうことですが、(実際に誰でもいついかなる時でも可能かどうかはともかくとして・・・)
上から見立てることに失敗しやすい人間ならば、「世界内」という
「下から上を仰ぎ見る視点」を提供する「パースの宇宙論」の方が、実践的ではないか・・・
これは、「実践理性批判」の高すぎる倫理観から発展していった
「世界連邦論」(永久平和のために)の構想をも超える視点を
提供してくれるかもしれません。
なぜなら、いかなる意味でも「一元論を克服した世界観の提示」なのですから。
つまり、何か「超越した超人的エリートのような世界機関による統一」を
無理に目指すのではなく、もっと、今すぐに誰しも出来そうな
「身の丈にあった」実践的行動理論を提供してくれるのではないかということです。
このように、カントからパースへの「実践倫理」の転回こそ、
「実践的(プラグマティック)」というように思われるのです。
「あまりにも高すぎる倫理水準が、かえって多くの人を苦しめているのであれば、
他にもっと効率が良く、実践の容易な方法論を考案する方が、
この世を落ち着かせる賢者の手法」のように思われるのです。
このように今回は、本書を読み進め、特に「パースの宇宙論」に
触発されながら考察してきましたが、
皆さんもそれぞれの「生(宇宙)の哲学」を考えて頂ければ幸いです。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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≪…まるで「ウロボロスの輪」のように・・・≫は、『自然比矩形』で、チャールズ・パースの≪進化論的な宇宙論(「数学的形而上」)≫のパースペクティヴを呈示しているようだ。
「宇宙を哲学する」に、
≪…宇宙は、無数の「偶然」の海、カオスから出発しながら、結果と してその大局的構造において秩序だった「法則」の体系、コスモスとなるという考えに、自然に進むことができたのです。≫
≪…三つのカテゴリーの結合体として理解できるということです。≫
≪…カントールがはっきりとさせたことは、自然数の無限性がもつ濃度(アレフ・ゼロ)と実数の無限性がもつ濃度(アレフ、あるいは後の呼び方ではアレフ・ワン)の相違ということです。≫
・・・などから≪…「カオスからコスモスへ」…≫が[スービタイズ]の[1 2 3 4]に繋がっている。
『自然比矩形』が、[アレフ・ゼロ]と[アレフ・ワン]を『(1/e)(e)=1』を示唆している。
『自然比矩形』が、『自己組織化(互酬性原理)からの[e-2]』と『【数そのモノ】の増殖限界(指数関数)からの[e-2]』と『積分からの[1]と増殖限界(指数関数)からの[e-2]との『両刃の剣(3-e)』の ≪三つのカテゴリーの結合体』 として示唆している。
『自然比矩形』が、≪…「カオスからコスモスへ」…≫の局面の≪双龍天翔さん≫の事例に遭遇する。
≪諸富祥彦先生の「知の教科書 フランクル」≫の
≪…まさに「両刃の剣」。「吉」と出るか、「凶」と出るかは、…≫
≪本田有明さんの「ソクラテス・メソッド~説得せずに“YES”がひきだせる!」≫
≪…「言葉」は、便利な反面、「両刃の剣」でもあります。≫
≪あなたもくすぶっていませんか?齋藤孝先生に学ぶ「くすぶる力」を爆発させる方法!!≫
≪…「コンプレックス」も使い方によっては、「両刃の剣」です。≫
≪與那覇潤さんの『中国化する日本~日中「文明の衝突」一千年史』≫
≪…文字通り「両刃の剣」であり「取り扱い注意!!」でもあります。≫
≪伊藤邦武先生の「宇宙を哲学する」≫
≪…その進化の過程も「両刃の剣」であったようです。≫
『自然比矩形』の[3-e]の形状が、「両刃の剣」に観え、[スービタイズ]の[1 2 3 4]を示唆して、しかも[四則演算]の『場』も現出する。
6つのシェーマ(符号)【e ⅰ π ∞ 0 1】による西洋数学の成果を受け入れ、十進法の基での桁表示の[0 1 2 3 4 5 6 7 8 9]】の記号による言葉(言語)を立ち上げている。
『平面の数』として『自然比矩形』にコスモスの[1 2 3 4]を『球の数』として[π]の係数として、同じくコスモスの[1 2 3 4]が出現することは,≪…「パースの宇宙論」…≫に通じていよう。
≪イーヴァル・エクランド氏『予測不可能性、あるいは計算の魔』≫の書評の
≪「静的」な時空間への憧れ=「一所にじっと落ち着きたいねぇ~」。≫
≪「動的」な時空間への憧れ=「自由に世界を飛翔したいねぇ~」。≫
は、【数そのモノ】では『平面の数』と『球の数』とにパースペクティブできよう。
『平面の数』の[カオス表示]の【e】が[計量構造]の[ユークリッド幾何]で、
『球の数』の[カオス表示]の【π】が[循環(時間)構造]の[非ユークリッド幾何]
に対応していよう。
[シュワルツシルト半径]は、この[ユークリッド幾何]と[非ユークリッド幾何]の[地平]をパースペクティブするものだろう。
序に、期する 《令和》において、
【数そのモノ】の言葉(言語)の内包するものが、[令]と[和]の関係に今まで触れてきたことをあらためて認める。
≪―[すべてのものは 零点に吸い込まれて再生する]≫
≪[荒魂を和魂にする]≫
前者は、シェーマ(符号)【∞ 0 1 i】の『自然比矩形』での[振る舞い]である。
後者は、数学的思考による【1】の数理哲学としての【数そのモノ】の『数学の構造定数』と観る。
「両刃の剣」(3-e)は、環境におかれた皆々に委ねられていると・・・。