横田南嶺老師の「祈りの延命十句観音経」「祈りの力」を活用した精神安定法で生き抜く力を養おう!!
「祈りの延命十句観音経」
鎌倉円覚寺派管長の横田南嶺老師が、
一般向けにわかりやすく「延命十句観音経」を
講義して下さいます。
現代社会では、世の中が便利になればなるほど
「心の病」も増加するばかりです。
そうした「精神的弱さ」も「祈りの力」を
軽視してきたからなのでしょうか?
今ほど、「祈りの力」が必要とされる時代もありません。
今回は、この本をご紹介します。
「祈りの延命十句観音経」 (横田南嶺著、春秋社、2015年第4刷)
横田南嶺老師(以下、著者)は、鎌倉の臨済宗円覚寺派管長の
有名な禅僧の方です。
鎌倉の円覚寺と言えば、夏目漱石なども参禅師事されたという
釈宗演老師とも縁深い名刹であります。
さて、現代社会は、文明度が高まり「便利」になればなるほど
「不幸」になるという悲しい精神的風土にあります。
著者も、『便利は人を不幸にする』という本に触発されながら、
「文明と精神的貧しさ」についての考えを講演で披露されていますが
(185頁)、私たちを取り巻く生活環境に「精神的異変」が
いや増していっているように実感されるのも、「祈りの力」が
軽視されている気配がするからでしょうか?
何となく、一抹の寂しさとともに不安も感じさせられます。
これまでも当ブログでたびたび強調させて頂いてきましたが、
「それでも生き抜かねばならぬ!!」であります。
この書評のテーマも、「何としてでも生き抜く!!」が最大テーマであります。
今現在も、震災などで厳しい境遇におられる方が数多くいらっしゃいます。
この日本列島(地球)で住み続ける限りは、誰しも避けては通れない難題が、
天変地異であります。
戦争・革命・犯罪や環境破壊などの「人災」は、人類の叡智で
何とか解決克服することも叶いますが、「天災」に関しては、
まさしく「お天道様の差配」によるものですので、人知をもってしても
はなはだ難しいものがあります。
そこで、人類が太古の昔から自然に編み出してきた「厄よけの術」が
「祈りの力」を活用した精神安定法でありました。
それは、理知に全面的に頼り切ろうとする近現代社会では、
次第に忘れ去られていく「自然の叡智」であります。
そうした理知的生き方の限界を乗り越えようとする「祈りの力」こそ、
「宗教の原点」であります。
本来、「宗教」とは、「幸せと安らぎをたぐり寄せる生活の知恵」で
あったはず・・・
誠に悲しいことですが、現代宗教は「世俗化」が進み過ぎて、
逆に「世俗」の影響を受けすぎたためか
争いの種を蒔くという不幸な事態に陥っています。
願わくば「平穏無事息災が何より」です。
ということで、本書で「延命十句観音経」の知恵に学びながら、
皆さんとともに「祈る力」を回復させて元気出していこうとの思いで、
この本を取り上げさせて頂きました。
白隠禅師も推奨した「延命十句観音経」とは??
ところで、「延命十句観音経」とは何かですが、
日頃「宗教的生活」とは無縁な現代人には、あまり馴染みのない
「お経」であります。
ただ、字句に注目して頂くと、「延命」。
つまり、「命を引き延ばす長寿と平穏無事息災」を願うことを
目的とするお経だということが読み取れます。
次に、「十句観音経」ですが、
これも、イメージして頂けるかと思いますが、
普及版の通称「観音経(妙法蓮華経「法華経」
観世音菩薩普門品第二十五偈)」の内容を
「十句」に簡潔に縮約させたお経です。
通称「観音経」は、長すぎて漢文形式ですので読みにくいうえ、
般若心経ほど短くもなく、記憶もしづらいところがあります。
管理人も般若心経までは、普段から唱えさせて頂いている
こともあり、記憶もしていますが、「観音経」となれば
経本を見ながらでないと、唱えることも出来ませんし、
時間もかかります。
このような不遜な姿勢になってしまいますが、日々忙しすぎる
一般人にとっては、どうしても通称「観音経」は活用しづらい点も
正直なところです。
そこで、一般の方にお勧めなのが、この短い「延命十句観音経」の
活用であります。
それはまた、江戸時代に庶民の間に、この「観音経」の教えを
わかりやすく伝えようと説法された白隠禅師の考案でもあったようです。
白隠禅師については、前にも当ブログでご紹介させて頂きましたが、
若い頃から病弱だったようで、京都白川の白幽子という「仙人」に
「軟蘇の法」を教わるなど、病気から立ち直る術の威力を人一倍
体感されていた禅僧でありました。
管理人も、登山が趣味ですので、学生時代には京都に住んでいたこともあり、
よく時間のある時には、京都東山三十六峰(頼山陽もその絶景に魅せられたという)
から比叡山の無動寺谷まで歩き回ったものです。
双ヶ岡や北山などもお気に入りの遊歩道??でした。
その東山三十六峰の一部に瓜生山という狸谷不動さんで有名な山がありますが、
その中腹に「白幽子寓居跡」があります。
富岡鉄斎画伯が手入れした石碑があるのですが、
そんなに深山幽谷の険しい場所というイメージではなかったようです。
とはいえ、江戸時代の頃と現代ではまったく異なりますが・・・
現在は、「京都一周トレイル」も整備されていますし、人の出入りも頻繁にあるため、
日中は特に薄暗い様子でもありませんが、雨や曇りの日、早朝や夕暮れ時には
さすがに「寂しさ」や「畏怖感」も味わえます。
京都の町並みを眺望するに絶景の場所ですので、体力に自身のある方は、
是非一度体感してみて下さい。
ちなみに、一般の方であれば(修験僧などでないという意味)、
伏見稲荷大社から比叡山までだと「1泊2日」の予定を組まれた方が
よいかもしれません。
自転車ロードレースの予行訓練をされている方や、
健脚の方、野宿予定の方だと分かりませんが・・・
話を白隠禅師に戻しますが、この京都白川山中での「白幽子仙人」との出会いが
きっかけで、ノイローゼ克服の道は開けたとも語り継がれています。
面白いことに、禅の教えは「不立文字」という割には、公案も与えられて
哲学的考察をさせられる修行になっていることです。
座禅三昧だけという訳でもないようです。
日常の作務(さむ=お勤め)から、常住坐臥、起きている時も、
寝ている時でさえ??、「修行の身」だと大変厳しい精神修養が日課となっています。
そうした精神修養を頭脳明晰で生真面目だった若き頃の白隠禅師は、
突き詰めすぎたそうで、ついにノイローゼ状態になってしまいました。
こんな生真面目な白隠禅師に、なぜか管理人も共感を覚えるのですが・・・
世の中が軽佻浮薄に流れていく中で、こうした清涼感がしっくりと来るようですね。
白隠禅師によると、そんな時にこそ有効な「祈りの力」が、
この「延命十句観音経」だといいます。
必ず腰を立てて、丹田に力を集めて姿勢良く、声に出して唱えるのが
その良き活用法だとされているようです。(本書150頁ご参照)
ここで、その「延命十句観音経」を掲げておきます。
この「延命十句観音経」自体も漢文体なのですが、わずか「十句」ですので
皆さんにもご記憶しやすいかと思われます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<延命十句観音経>
観世音(かんぜーおん) 南無仏(なーむーぶつ)
与仏有因(よーぶつうーいん) 与仏有縁(よーぶつうーえん)
仏法僧縁(ぶっぽうそうえん) 常楽我浄 (じょうらくがーじょう)
朝念観世音(ちょうねんかんぜーおん) 暮念観世音(ぼーねんかんぜーおん)
念念従心起(ねんねんじゅうしんきー) 念念不離心(ねんねんふーりーしん)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
この「十句」のみです。
次に、著者による大意訳をご紹介しておきます。
『観音さま どうか人の世の苦しみをお救い下さい
人の苦しみを救おうとなさる その心こそ仏さまのみ心であり
私たちのよりどころです この仏さまの心が
私たちの持って生まれた本心であり さまざまなご縁にめぐまれて
この心に気がつくことができます
仏さまと 仏さまの教えと 教えを共に学ぶ仲間とによって
わたしたちはいつの世にあっても 変わることのない思いやりの心を知り
苦しみ多い中にあって 人の為に尽くす楽しみを知り
この慈悲の心を持って生きることが 本当の自分であり
汚れ多き世の中で 清らかな道であると知りました
朝に観音さまを念じ 夕べに観音さまを念じ
一念一念 何をするにつけても この思いやりの心から行い
一念一念 何をするにつけても 観音さまの心から離れません』(本書巻末ご参照)
皆さんも、「観音さまの心」と一体化するイメージをされながら
お暇な時や、人生における難問に遭遇した時に、
心の内で唱えてみましょう。
本当に効果が実感出来ることでしょう。
ちなみに「念じる力」は侮れません。
管理人自身も、助命されたことが幾たびもありましたので、
実証済みです。
ただし、理屈を捨て、純粋素朴な「童心(道心)」に立ち返るような
感覚を持たなければ、叶わないようです。
そこに「延命」の「祈りの力」が宿るのでしょう。
「念力」は、決して安易な使い方をしてはいけないようですし、
絶対に「悪用」してはいけません。
私淑する今は亡き師匠から教わったことです。
「念力」を科学するは、また別の機会に「超」心理学をテーマに
書物をご紹介させて頂く際に、その分析考察は取っておきましょう。
それまでのお楽しみとしてお待ち頂ければ幸いであります。
著者は、この「漢文調」の「延命十句観音経」に加えて、
「和語」の「延命十句観音経和讃」も用意されていますので、
本書をご一読下さいませ。
「和讃」の面白いところは、フシ(リズム)を付けて、歌いながら
唱えることができるところにあるようです。
管理人も敬愛する遊行僧の空也さんや一遍さんも大変好まれたそうです。
一遍さんと言えば、熊野権現のお告げによる遊行賦算と
同じく愛媛県出身の「仏教詩人」坂村真民先生であります。
このことは、同じ愛媛県出身の水樹奈々さんの書物
『深愛』のご紹介記事でも触れさせて頂きましたが、
実は、本書のもう一つの隠れたテーマが、
「熊野」と「坂村真民先生」にあるようです。
それを次にご紹介していきましょう。
「念ずれば花ひらく」現代の遊行詩人の「祈りの力」に学ぶ
ところで、著者が「仏道」に入られた一因にも
坂村真民先生との文通にあったそうです。
「いのり」とは、「いのちの宣言」(本書183頁)だといいます。
こうした素晴らしい叡智を学ぶことが出来るのも、
「読書の醍醐味」ですね。
管理人と坂村真民先生との仏縁も、高校生時代の恩師からの
「誕生日メッセージ」でした。
男子校でもあり、思春期という「気恥ずかしい」時期でもありましたので、
こうした「誕生日メッセージ」も、どこか素直になれない気分も
当時は持っていました。
年頃の人間であれば、誰しも味わう感覚でありましょう。
ただ、この時に頂いた「坂村真民先生」の詩だけは、
なぜか捨てる気にもならず、今も家のどこかに眠っています。
この「誕生日メッセージ」も生徒一人ひとり違うようで、
気恥ずかしいので友人同士で見せ合ったこともないので、
詳細は不明ですが、たまたま「坂村真民先生」との仏縁を頂けたことは、
管理人の生涯における「心の糧」となっているようです。
キリスト教の進学校における出来事でしたので、
余計に記憶の奥底へと染み込んでいったのかもしれません。
暗記するくらい覚えてしまったので、「原文メッセージ」を
探し出すことはしませんが、ここにその詩をご紹介しておきます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<光と闇>
光だ 光だ という人には いつか光が射してくるし
闇だ 闇だ という人には いつまでも闇が続く
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
この詩に導かれるようにして、管理人は生き抜いてきたようです。
これまでも苦しい時には、坂村真民先生の詩を大学ノートに
書き写してきました。
そうした御利益もあったのでしょうか?
確かに、この「延命十句観音経」と同じように、
「生命力」が補給されてきたようです。
また、旅先でのお宿で、なぜか好感度の高いところでは、
この詩に出会うことも多いようです。
小豆島でのお遍路で宿泊させて頂いた旅館もそうですし、
先週おもむいた伊良湖岬でのお宿もそうでした。
そこの女将さんは、どちらも「坂村真民先生」の心が通った
「おもてなし」をして下さいました。
仏心とは、「慈悲の心」といいます。
難しい仏教哲学から学ぶのも構いませんが、
やはり「仏道」を志し、腹の中に心地よく収めるためには、
「信じる力(信仰心)」が鍵となってきます。
そうすれば、この厳しく安易な「わかりやすさ」といった
「二元論」に満ち溢れた俗世における生き方も、まろやかになるようです。
管理人も学生時代には、法律学を学んできましたし、法律実務といった
貴重な経験も積んでいた時期もありますが、今は「文筆業」を通じて、
「心の糧」を皆さんにお裾分けしたいとの思いで仕事させて頂いています。
「理屈にとらわれると、理屈に振り回される!!」
「策士、策におぼれる!!」といった
大変「危険な精神状態」へと導かれてしまいます。
こうした「法の操作論理」と、「人が人を安易に操作して解決する術」に
嫌気が差し込んできたこともあるようで、それが長期的な抑鬱状態を
生み出したようでもあります。
「昔は、こんなはずじゃなかったのに・・・」
今は、「生まれ落ちた原点」に立ち返りながら、ある種の「記憶療法??」を
頼りに、自力で試みながら「精神安定期」を作り出しています。
管理人が、三島文学に大変な親しみを感じるのも、ここらあたりにあるようです。
「海の記憶 風の記憶 山川の記憶・・・」
こうした「生のイメージ」が、
辛うじて「死の影」から逃れさせてくれているのでしょう。
「延命十句観音経」は、そういう「死の影」が差すような「魔の時空地帯」に
はまり込みつつある時に、助力してくれます。
管理人は、この「延命十句観音経」の「観音さま」を
地獄を救う「み仏」である地蔵さんや弁天さんのイメージに置き換えながら
唱えさせて頂いています。
特に、「海難事故」で一命を取り留めた経験もありますので、
「水の神様」には感謝感激しきりであります。
奇しくも、名前の一部にも「水」と関係する一字を頂いています。
ですから、この世にも「奇跡はある!!」のだということは、
人一倍実感できるようです。
助けて頂いた先生も、岡山赤十字病院の医師でしたし、
始めて「救命用ヘリ」に乗らせて頂きました。
「晴れの国」岡山にも感謝です。
だからこそ、今回の震災のみならず、この厳しい時代を
懸命に生き抜こうとされている方々へ、
どんなにつらいことがあっても
「何としてでも生き抜いてほしい」との祈りを込めて
書評させて頂いています。
「どこまでも、まっすぐ謙虚に生き抜きたい」
そして、本当に「信じ合える人」を結び合わせたい・・・
そんな想いだけで、伝えさせて頂いています。
「この世」には、お金などの「利害関係」よりも、もっと大切な心がある・・・
その「真実」を教えてくれるのが、「仏心」であります。
「仏教」は、どこまでも「中庸の道」を探究していくもの。
と同時に、「理知的」な道から入るも良し、
「信じる想念」の道から入るも良し、そのような「自由自在」な
各人各様の性格に合った「導き」がありますので、安心も出来ます。
プロの僧侶ではありませんが、専門外の「部外者」の生身の体験談が
あるからこそ、お伝えしたい「ほとけの心」であります。
「ほとけ」とは、「頑なになった心を<ほどく>導きの手??」と
いったことを、どこかで教わりましたが、
混迷を窮め、一見「便利」になり、他人依存型社会だからこそ、
もう一度、「ほとけの心」に寄り添った「自力哲学」も養いたいものです。
ということで、本書も主に「東日本大震災」や著者のふるさとである
熊野の「新宮市大水害追悼講演」をテーマに、軽妙洒脱かつ重いテーマで
もって、エッセー調の文章がコンパクトに綴られています。
皆さんも、著者とともに「ほとける心=頑なになった心を解きほぐす知恵」を
日々の生活に取り入れつつ、「延命十句観音経」に親しんでみてはいかがでしょうか?
本書は、そのための優れた「導きの書」としてお薦めさせて頂きます。
最後に、皆さんの心の平安を祈りながら、やはりこの方の詩で
筆を擱かせて頂くことにします。
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<ある人へ>
『光が射しているのに あなたはそれを浴びようとしない
呼んでおられるのに あなたはそれを聞こうとしない
手をさしのべておられるのに あなたはそれを握ろうとしない
お経にもそんな人のことを書いてあります
どうか素直な心になって 二度とない人生を 意義あるよう生きて下さい』
(『花ひらく 心ひらく 道ひらく』
坂村真民著、講談社+α新書、2001年、134頁より引用)
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なお、著者の別著として
「二度とない人生だから、今日一日は笑顔でいよう~
生きるための禅の心~」
(PHP研究所、2016年)
「人生論の名著『菜根譚』」
(釈宗演著、童門冬二解説、三笠書房知的生きかた文庫、1997年)
をご紹介しておきます。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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