小林朋道先生の「ヒトの脳にはクセがある~動物行動学的人間論」狩猟採集時代の名残「原始脳」が、不安と恐怖感情をもたらす!?

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「ヒトの脳にはクセがある~動物行動学的人間論~」

動物行動学の視点から、ヒトを含めた様々な生物の

生態反応を観察されてこられた小林朋道先生が、

ヒトの行動「癖」について、分析考察された科学エッセーです。

人類が、文明を発達させてきた裏面には、

狩猟採集時代の名残である「原始脳」による情動本能が

あるようです。

それが、欠乏感に対する不安や恐怖の根源にあります。

今回は、この本をご紹介します。

「ヒトの脳にはクセがある~動物行動学的人間論~」     (小林朋道著、新潮選書、2015年)

小林朋道先生(以下、著者)は、動物行動学の視点から、

ヒト(以下、<生物学>上の人間を表現する際には、<ヒト>で

統一させて頂きます。)を含めた動物の生態反応について、

研究考察されてこられました。

その研究成果については、著者のブログ『ほっと行動学』

わかりやすく紹介されています。

その名の通り、

<ほのぼの>とさせられる動物生態を紹介するブログエッセーです。

そんな著者が、今回は、ヒトの生態行動について、

様々な観点から分析考察された論考を上梓されています。

人類の生態行動の原点モデルは、未だ、狩猟採集時代の行動基準の範囲を

超え出ていない!?

この「仮説」を基にして、人間の行動「癖」、

とりわけ、「脳(思考)」のクセ(限界)について、

ユニークな視点を提供されています。

この人類の行動規範の志向性レベルが、

狩猟採集時代にとどまっているらしいとの「仮説」は、

前にもご紹介させて頂いた鈴木光太郎先生も独自に提出されていましたが、

人類の「脳」の発達領域(ワーキングメモリー)は、

自己を取り巻く身近な生存本能に直結する自然空間との接触地点から、

長き進化の過程を経て、今日の「高次」脳へと少しずつ拡大していったようです。

「脳は、今後も、まだまだ発達する余地がある・・・」

一見すると、21世紀現在においても、不安や恐怖感に襲われるような

人類を取り巻く厳しい生態環境ではありますが、

その原理原則(生物本能としての始原)にまで遡って、

探究してみると、思わぬ打開点も発見出来るようです。

「どうすれば、不安や恐怖感を、前向きに活かし、克服することが叶うのか??」

それは、すべての「心ある」人間であれば、

誰もが強く願う切なる思いでありましょう。

そんな悩める皆さんとともに、本書からヒントを得ながら、

分析考察していきたいと思います。

本書を読み進めれば、少しずつ、希望と勇気も湧き出てきます。

ということで、著者の研究成果に耳を傾けながら、

皆さんにも「安らかなる」世界へとご招待させて頂こうと、

この本を取り上げさせて頂きました。

ヒトは、自らを取り巻く自然環境からあまりにもかけ離れた世界観を理解できない!?

「学問とは、見果てぬ夢(ちょっとやそっとでは理解困難な世界観)を

果てしなく探究し続ける旅です!!」

「だから、すぐに役に立つとは限らないのです。」

「でも、そのすぐに役に立たないからこそ、

人類の知的推進力(生き延びる源泉力)ともなってきたのだろう・・・」

以上は、管理人による、直近の大隅良典栄誉教授による

ノーベル生理学・医学賞受賞決定会見を拝見しての実感です。

大隅教授の研究成果「オートファジーの仕組みの解明」の詳細内容に

ついては、門外漢なので、コメントは差し控えさせて頂きますが、

人間の生体細胞の自然環境への適応反応の過程を知ることで、

様々な病原菌に対する免疫機能や予防治療に役立つらしいようですね。

当該研究と本書のテーマについても、これまで不明とされてきた

潜在的な生物の行動パターンの解析という

観点から見れば、意外な接点がありそうです。

著者は、有名な動物行動学者コンラート・ローレンツの問題意識に

触発された動物行動学者ですが、

この人間の「生態環境への進化過程における最適化」という問題設定には

重なりを持つようです。

その人間や動物の行動パターンを分析観察しながら、

比較考察の視点で、ヒトの脳の「クセ」について、

著者独自の興味関心あるテーマを中心にまとめられたのが、

本書の内容構成となっています。

そこで、まずは、本書の内容構成の要約に入らせて頂きます。

①「はじめに-死が恐くなくなる」

※著者の本書における全般的問題意識である

第7章とも関連する『「”死にゆく個体から新生の個体へと、不滅の寄生虫の

ように長い長い時間をかけて移動し続けてきた遺伝子たちが一時的につくった

乗り物”としてのヒト」や、「ヒトの本来の生息環境である狩猟採集生活へ

適応した、その乗り物に特有な性質」』(本書4~5頁)というアイディア構想に

対する知人の「何だか、死ぬことが怖くなくなった」という感想から

本書の最深部へと導かれていきます。

このような表現も表面的に眺めるだけでは、いかにも唯物的な見方にも

感じられそうです。

実際に、本書でも触れられていますように、

ある意味では、『利己的な遺伝子』で知られる

リチャード・ドーキンス氏の『文化的遺伝子(ミーム)』とも重なる感覚を

有しておられるようです。

ちなみに、この『文化的遺伝子(ミーム)』を

<魂>や<心>などと表現しないところに、ドーキンス氏らしさもあるようですが、

そうしたある種の<死生観>に対する見方はともかくとして、

いずれにせよ、

「ヒトの思い(想い)は、何らかの形で次世代へと受け継がれていく」のだとする

見方は、私たちを楽観的にさせてくれることは間違いないようです。

ここを一つの視座に据えながら、ヒトの生態学的行動のあれこれの謎に

独自の視点で迫っていくのが、本書の主題であります。

②「第1章 なぜマンガは文字より分かりやすいのか?」

※本章では、最近の進化心理学や脳科学などの知見で提出されてきた

仮説「脳のモジュール構造」を引き合いに出しながら、

「対生物専用モジュール」、「対物理専用モジュール」、

「対人専用モジュール」(それぞれの詳細な定義は本書24頁ご参照のこと)という

3つのモジュール構造パターンの働き方を分析考察されています。

そこから、抽象的な言語表現よりも、

「文字」が発明される以前の具体的・原始的な「野生」の

狩猟採集生活に適した音声情報や視覚情報が優位だった時代の生物的特性から、

古代人の対人関係処理能力が、現代人に比して、

より磨かれていったのであろうと推測を立てられています。

現代人のみならず、「なぜ、ヒトは、学習能力に大きな差異が出てくるのか??」

言い換えれば、「理解力」の個別的差異ということになりますが、

元来が、このような、狩猟採集時代の生活パターンに即した

脳機能として、ヒトの知的能力が形成されてきたため、

読字障害などの「学習障害」が、多々見受けられるのも、

特段、奇異な現象ではないということも提出されています。

それが、次章のテーマとも重なりますが、

本来のヒトは、生活実感からあまりにもかけ離れた抽象的世界観を

容易に理解することが、難しい生物でもあったであろうと

推論されています。

ですから、「理解力」が足りずに、知的能力に欠点があると、

世間から、指弾(否定的評価を下されること)されるようなことがあったとしても、

あまり過敏反応を示さない方が、賢明な処世術もなりましょう。

それでは、抽象的でイメージしにくい世界観を

いかに具体的に掴む(理解する)ことが叶うのでしょうか??

今、故意に「理解する」ことを、「掴む」という言葉に置き換えて

表現しましたが、ここにも、狩猟採集時代に即した思考の痕跡が読み取れます。

そこで、著者は、「文字」という抽象的言語表現では掴みにくい現代の

教育学習内容を素速く的確に掴んでいく方法論として、

進化教育学の成果を踏まえた、「擬人的表現」に置き換えたイメージ像を

脳内に再構築していくことで、理解の手がかり・手助けとなる状況を

創り出す方法を提示されています。

著者のこうした見解の一部は、『人間の自然認知特性とコモンズの悲劇-

動物行動学から見た環境教育』(ふくろう出版)で提出されているとのことですが、

さらに、掘り下げた研究成果を近い将来に発表される予定とのことです。

この「進化教育学」という比較的新しい教育方法論は、

日本では、まだまだ、一般的には、受容されていないそうですが、

この「進化」教育学の発想は、近年の主流の優生遺伝学的「脳科学」教育学の

発想とも異なり、多くの学習困難者の救済改善策に役立つ視点を提供するとも

考えられるだけに、期待も持てそうです。

それだけに、今後の著者の研究にも期待したいところです。

③「第2章 ヒトはなぜ、時間の始まりと宇宙の果てをイメージできないのか?」

※本章では、このように、人間の脳における知覚認識傾向が、

現代でも、狩猟採集時代に最適化されているために、

およそ、人間の日常生活からかけ離れすぎて、

「考えても<意味がない>」と心理的に感受される問題設定には、

ある種の防衛反応が働くようで、

それが、直ちには理解の及ばない領域(世界観)を生み出しているようです。

つまり、ヒトは、『リアリティーをもって想像できる範囲』

(本書41~46頁ご参照のこと)でしか「見る」ことが叶わない訳です。

この認識力の限界地点の前後の境界領域で、実際の触覚体験とともに、

自己を取り巻く周辺環境の質感を少しずつ掴んでいく歩みでしか、

世界に対する「真実(深層領域)」には近づけないようになっているのが、

人間を含めた生物全体の特徴でもあるようです。

ですから、安易に「絶対」などという断定的表現は避けなければなりません。

そこで、科学によって、判断し得る領域も、きわめて限定された範囲であり、

前にもご紹介させて頂いた『数学は世界を変える』の主張とも重なりますが、

『科学的な予測はたとえ絶対的な真理でないとしても明快な思考の手柄なのだ』

(上記著書181頁ご参照)とともに、

著者によって示唆された

『科学にできることは、外界の事物・事象の断片に関する因果関係を、

ヒトに可能な認知様式の範囲内に見出し、よりよい仮説に近づけていくことだけなのだ。

真実そのものには永遠に到達することはできないのだ。』(本書46頁)という

知的教訓に謙虚でなければならないということであります。

このように、

「学問」とは、決して、学校教科書的知識で満足出来るような安易な道ではないのです。

そもそも、<知的好奇心>のない所に、楽しさを見出すことも出来ないでしょう。

その点では、現代学校教育は、

ヒトが、本来、有している知的探求心を阻害する以外の何物でもありません。

そんな現代学校教育から、「疎外」されてしまった

学校教育的な観点では、いわゆる「落ちこぼれ」扱いされてしまった

前途有為な知的好奇心に満ち溢れた青少年(だけではなく、老若男女を問わず)を

応援しようとする趣旨こそ、当書評ブログの趣旨でもあります。

「何も焦る必要などありません!!」

管理人も、人類の知的精神史から、

天才にも、「頭の悪い(つまり、即座には納得・得心の出来ない)」人物が、

数多く存在するとの確信を得てきたことにより、

「頭が悪くても」前進し続ける勇気を得てきた一人です。

ですから、自らの「知的能力」に自信がないと、

これまでの人生で思われてこられた方も、

安心して、前に進んでいって構わないのです。

そのような訳で、ご自身の歩まれてこられた人生に、

大いに自信と誇りを持って頂くと、

自尊心回復の一つのきっかけともなるでしょう。

その際の注意点は、謙虚さと他人との比較競争の愚を出来るだけ回避する

知恵と工夫を、独自に考案していくことです。

他人の「意見」や「仮説」に振り回されることなく、

独自の問題意識や感性から湧き出てくる発想を基点に、

知的人生を展開していくだけでよいのです。

「ともに、<学問>を楽しみましょう!!」

④「第3章 火に惹きつけられる人間の心」

※本章では、著者と友人とのある思い出エピソードを題材に、

「ヒトは、なぜ、火に惹きつけられる(魅せられる)のだろうか??」を

テーマに論考されています。

なるほど、「火遊び(狭義だけでなく、色々な意味で・・・)」は、

確かに、危険ではあります。

殊に、現代教育や家庭でのしつけ教育などでは、

過度に、青少年を危険な世界から遠ざける傾向にあるようです。

もっとも、この見方については、「言わずもがな」のことであり、

賢明な読者の方であれば、ご理解頂けるものと信じていますが、

(当たり前ですが、社会常識として、当ブログでは、

<煽り言論>など論外だという大前提の下に、論旨展開させて頂いています。

ただ、知的に考察していく「学問」とは、常に、「極限・極北」思考を

目指すものでもあるということを強調させて頂きたかっただけで、

他意はありません。)ただただ、危険回避志向を持って、

日々を生きるだけでは、

いざ、本当の危険場面に遭遇した時に、

「思考停止」に陥ってしまい、

最悪の場合には、

生命を危険に晒すことにもつながりかねません。

俗に言う「平和ボケ」が、かえって、「戦争」や「災害」といった

非常事態を招く傾向にあったことは、これまでの人類史の知的教訓でもあります。

そうした管理人も共有する問題意識から、

著者も、

「火遊び」を題材に、危険場面に遭遇した際にも、

慌てず、騒がず、適切に処するための<本能>的体感訓練の一つとして、

『欲求と抑制』(本書56~59頁)を学ぶ「場」を確保することが大切だとも、

著者自身によるお子様との「火遊び」体験談とともに、考えるヒントを提供されています。

ちなみに、管理人は、「火遊び」での大きな怪我は、

これまで、幸いなことにありませんでしたが、

「水遊び」による生死を奪われかねない「危険な目」に遭遇したことは

ありました。

その体験記は、これまでも、触れさせて頂きましたが、

現代人は、とかく、自然と直接、真剣に向き合う機会が少なくなってきただけに、

かえって、自然災害にも脆弱な心理的生活環境にあるようです。

⑤「第4章 ヒトが他の動物と決定的にちがう点」

※本章では、ヒトと他の動物との決定的相違点を考える題材として、

「月に行けるロケットをつくることができる」(本書62頁)が

取り上げられています。

この題材をテーマにしながら、ヒトが持つ『階層の高さ(つまり、階層=

次元=抽象的思考の可能性)』(本書74~79頁)について、

検討されています。

奇しくも、先週金曜日(10月7日)の朝刊紙の記事で、

京都大学などによる「ヒトと類人猿の違い」に関する報道が

紹介されていましたが、なるほど、

「類人猿」も、「心」を読むことが出来るようです。

(この記事については、こちらをご参照下さいませ。)

もっとも、この点は、すでに、一定程度のレベルで

確認されてきたようですが、いわゆる「誤信念(誤った思い込み)」を

理解した上で、予め、その思い込みの行動パターンを見出す反応を

示す可能性があったところに、新奇性があるとのことです。

この話題について、

たまたま、10月7日(金曜日)の夕方、

車の運転中に、

大阪の某ラジオ番組で取り上げられていまして、

「こんな研究、何の役に立つのか??」というテーマにも

触れられていたトークを聴いていたのですが、

こうした見方自体に、

現代日本の学校教育における問題点が噴出しているとの

話題にまで及んでいるとして、

下記のように、強調されていました。

「<実用>教育中心で、<基礎・教養>教育が、まったく疎かにされている!!」と。

現代の大学生は、学外での知的読書に触れる機会も減少の一途を

辿っているようですし、

日本社会の現状では、世間的には、相当な「高学歴」の人間ですら、

学校卒業後は、「学問」を完全に止めてしまうとも言われています。

ここに、<知的好奇心>の旺盛な方には、挽回の余地が十二分にあります。

現代の知的エリートと自称するような鼻持ちならない人間も、

「肩書き」や「名誉心」という名の俗物根性しか持ち合わせていないらしい・・・

だからこそ、一般人の知的欲望が、

今こそ、必要かつ死活的に重要になってくると、

たびたび強調させて頂いてきました。

なぜなら、その一般人の知的欲望こそが、

民主主義の質を担保するとともに、

いわゆる<民度>を引き上げることにより、

<空気の支配>から脱却していく原動力ともなり、

全体主義的傾向を回避する知恵と勇気につながるからです。

その意味では、今、世界中で、

「反知性主義」的傾向にある情勢下、

この2016年末から数年内外が、

歴史的に大きな曲がり角ともなり得ますので、

十分な知的警戒心を養成しておくことが、

世界平和のためにも、きわめて重要になってきます。

「皆さん、<肩書き>などで、自尊心を喪失させられ、

かけがえのない人間性を奪われなきよう、十二分にご注意下さいまし・・・」

「必ず、ヒトには、一人一人、かけがえのない、

それこそ、特有の脳のクセ(つまりは、個性!?)があるのですから・・・」

⑥「第5章 ヒトはなぜ涙を流すのか」

※著者は、学生時代の登山で見た「雲海」の美しさに「涙した」体験記から

独自の「ヒトはなぜ涙を流すのか」の「仮説」を提出されています。

この理由には、「相手の攻撃性を低下させる」(本書94~98頁)や

「涙は庇護をうながす」(本書99~104頁)との諸説もあるようですが、

著者の場合には、「人知の及び難い大いなる存在」に対する敬愛感覚というのか、

「大きな存在」に包まれたような救済される感動体験を味わったことから、

「涙」を流すことで、ある種のストレスを押し流す「浄化作用」が

働くことで、生存・繁殖上の有利さを増すことに、

何らかの形で寄与しているのではないかと主張されています。

そう言えば、長いこと「涙」を流す機会が無かったことの反動から、

鬱を体験した時期に、管理人も、他人の視線のないところで、

溢れんばかりの「涙」が、汲めども汲めども尽きぬ泉のように

湧いてきたことがありましたが、

これも、人間が本来有している「生存本能(生命回復機能)」の現れなのでしょう。

それからというもの、鬱状態にない時も、

恥ずかしがらず、「涙」を流す機会を設けようと、

精神の安らぐ時間を意図的に創り出しています。

その意味では、「映画」や「読書」などの人工的創作物に

力を借りることもお勧めですが、

やはり、大自然の中に、身心を浸すことほど、

勝るものもないようです。

管理人も、登山やハイキングなど、

「歩く」ことを、意図的に自らに課してきましたが、

「歩く」ことほど、シンプルで、身心を健やかならしめる

養生法もないようです。

あるいは、危険なスポーツなので、「万人向け」ではないですが、

「ロッククライミング」や「水流下り」なども

緊張感覚を回復させながら、日頃の、現代文明に骨の髄まで

犯され切った弛緩した身心状況を鍛え直す体験としては、

効果的なようです。

とにかく、感動する体験から遠ざかってしまう傾向にあるのが、

現代人の生活環境の特徴であります。

ですから、著者も、本書で、繰り返し、強調されておられます

狩猟採集時代の本能感覚とのズレが、

あまりにも大きくなってきているために、

様々な「生体感覚」の「歪み」が出てきているということになるのでしょう。

まとめますと、現代人は、あまりにも、「不健康」かつ「不自然」な

生活環境の中で、過ごしてきた結果、<隠れた>病的症状を

潜在的に抱え込んでしまっている状況にあるということであります。

⑦「第6章 ヒトは悲しみを乗り越えて前に進む動物である」

※本章こそ、著者の最大の主眼ですので、

このテーマは、項目をあらためて、

後ほど、触れさせて頂くことにします。

⑧「第7章 遺伝子はヒトを操るパラサイト」

※本章を読み進められると、「人間の<本性>とは、果たして、

いずこにあるのだろうか??」と不思議な感覚に襲われることになるでしょう。

『個体としての「自分」って何?』(本書140~143頁)とも・・・

このテーマを突き進めていくと、果たして、「自」<意識>とは、

「幻想」ではないかとも思われてきます。

とはいえ、そうした感覚を「頭」で理解出来たとしても、

「身心」は、また異なる「生体反応」を示すようですから、

心理的な厄介さが生み出されます。

こういった「自」<意識>への執着が、「なぜ、生み出されてくるのか??」

その答えも、「謎」と言えば、「謎」ですが、

ここにも、「生体反応」の現れがあることだけは間違いないところでしょう。

この「自」<意識>と、いかに賢く付き合うかで、

人生の質感も大きく変化していくことは確かなことですから、

誠にもって、「不思議(思議不可能)」な存在ですね。

昨今は、遺伝子優位型「仮説」が、世の主流を占めており、

人びとを憂鬱にもさせますが、この「遺伝子」の実質的正体、

つまり、コア(核)の本質は、未解明ですから、

いくら、その機能面からあれこれ推測したところで、

完全に、「遺伝子」情報が、生体コントロール機能を果たす上で、

優位に立つものなのか否かは、現時点では不明であり、

また、私見では、将来に渡っても、

「遺伝子が、すべてを決める!!」との断定は出来ないでしょう。

ですから、皆さんも、こうした知見に、

心理的に振り回されず、

冷静に、ご自身の人生を楽しんでいって頂きたいと思います。

「遺伝子」も生態環境に即して、

「切り換え(俗にいう、スイッチオン・オフ仮説)」も可能なようですし、

外部環境だけではなく、自らの「心(意識などの心理的反応)」によっても、

絶えず、変化するようですので、

やはり、「心」こそ、何より大切だということになるのでしょうか?

この点については、管理人なりの暫定的「仮説」にしか過ぎませんが、

読者の皆さんは、どう思われますか?

⑨「第8章 今も残る狩猟採集時代の反応」

結局、本書での最大強調点は、ここに尽きるようですね。

著者は、都会のど真ん中にすら存在する「神社」という

宗教的時空間を題材にしながら、

狩猟採集時代の残滓について、本書の一応の結論部とされていますが、

ヒトは、安心するためには、やはり、

何らかの「宗教感覚」が必要のようです。

「存在するか否かも、わからないけれども、

あってくれたら、安心出来るモノ・コト」

それが、人知を超えた「大いなる存在(全知全能の<神>のような世界観)」

あります。

⑩「おわりに-目隠しをして象に触れる」

※著者は、「おわりに」で、「目隠しをして象に触れた」話を

引き合いにしながら、ヒトが、この世界を眺める視点の多様性について、

考察されています。

昔からの俚諺にも、「同床異夢」という表現がありますが、

まさしく、私たち一人ひとりが見ている世界観とは、

このようなイメージでありましょう。

とはいえ、それだけでは、意思疎通にも大混乱を来し、

人間相互間に、矛盾衝突が絶えず生起してくることになりますから、

共通「言語」という道具の発明によって、

相互の世界観の違いを超えた歩み寄りが模索されるようになったのでしょう。

「言語」の起源論は、諸説あり、一つの「正解」として確答は出来ませんが、

この「言語」を介した時間をかけたコミュニケーションの積み重ねが、

人類の相互共存の可能性を高めてきたことは、

間違いないところでしょう。

ところが、現代文明の効率性や利便性は、

ことごとく、こうした、面倒ではあっても、

生存にとって、必要不可欠なコミュニケーションの積み重ねを

省略させてきたところに深刻な社会問題が生み出されてきました。

このような深刻な事態を管理人も重く実感し、

憂慮してきたからこそ、

人生における「余暇」の過ごし方を、

読書を介して、皆さんとともに、考察させて頂いています。

まとめますと、本書を通じて、あらためて考えさせられたことは、

「ミクロの違いは、多々あれども、マクロでは、全体的に整合的である!!」との

一つの「仮説」的世界観であります。

人によっては、何らかの暗黙の大前提を置いた

ある種の「予定調和」的な世界観にしか過ぎないのではないかと

批判される方もあるかもしれません。

そうした批判があることは、謙虚に受け止めさせて頂きましょう。

いずれにせよ、人間は、どう足掻いてみせても、

物事の「真相」に100%近づくことなど出来ないのですから・・・

とはいえ、それだけでは、

単純な「神秘主義」や「価値相対主義」に嵌り込んでしまうことになります。

大切なことは、たびたび、強調させて頂いてきました

「<理性>と<信仰=神秘ではなく・・・>」の<あいだ>を

いかに、各人各様で、納得し得る次元にまで高めようと努力すべく

<より良く>生き抜こうとする人生に対する覚悟と決心の志向性次第によって、

「人間らしさ」の輝き具合も大きく違ってくるだろうということであります。

「<わたし>は、負ける気がしないのです!!」を確信出来たら、最高に幸せですね・・・

さて、ここからは、本書に触発されながらも、

勇気と自信が湧き出てくる言葉をご紹介しながら、

まとめへと向かっていきましょう。

それが、先程来、積み残しておきました

⑦「第6章 ヒトは悲しみを乗り越えて前に進む動物である」の

テーマとも重なる話題であります。

ところで、このタイトルは、お気づきの方もおられるかもしれませんが、

現在放送中のNHK大河ドラマ『真田丸』における

真田信繁(幸村)の名セリフです。

すでに、真田父子ともども、

関ヶ原の敗戦による戦後処置として、

高野山の麓にある紀州九度山の僻村に

「蟄居(押し込められた)」させられた浪人の身として、

細々と、「真田紐」などの行商での生計費で、

何とかやりくりしている真田信繁一家ですが、

時運は、「風雲急を告げます!!」

つまり、時勢は、いよいよ、

大阪冬の陣、夏の陣へと

ドラマのクライマックスへと向かっていきます。

あと残すところ2ヶ月あまりですが、

脚本家の三谷幸喜さんは、

どのように描かれるのでしょうか・・・

(ちなみに、私事で恐縮ですが、本日、四天王寺境内にて、

毎年春と秋に開催される「古本祭り」に出かけていたのですが、

周辺では、『真田丸』関連のイベントで

盛り上がっていたようです。)

それはともかく、冒頭のタイトルである

「<わたし>は、負ける気がしないのです!!」って、

何て、素晴らしく力強い響きでありましょう。

おそらく、今年の流行語大賞候補ではないかしら・・・

いや、今年だけではなく、昨今の暗い心理的世相から

脱却していくための、

「アファメーション(勇気づけられる力強い自己宣言のこと)」言語としても、

皆さんにご活用頂きたいものです。

管理人から、

皆さんへの勇気が腹の底から湧き上がってくる言葉のプレゼントとして、

この言葉と、

いつも頻繁に使用させて頂いている

「淡々と、黙々と・・・」をお届けさせて頂きます。

この<わたし>には、

もちろん、真田信繁一人だけの「想い」が込められているわけでは

ないでしょう。

今まで、彼の人生の中で出会った多くの人びとや、

家族や人間以外も含めた「森羅万象」の「魂」とでも言うべき

諸想念が、この<わたし>には込められていると感じられるからこそ、

「温かくも、かくも、勇気に満ち溢れた」想いだと思われるのです。

ここに、「恩讐の彼方に」(菊池寛)といった、

世俗的な様々な「しがらみ」を超絶した地点への「飛翔」ポイントが

あるものと思われるのです。

「飛翔」と言えば、真田信繁も信仰したと思われる

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、思い浮かびますが、

かの武勇に秀でたミコトも、悲しさを胸に秘めた「漂泊人」だったようです。

「森羅万象」との試練との闘いの果てに、

伊吹山の「御神気」に触れて、最期の時を迎えられることになります。

この故事自体は、本書の直接的主題とは外れますが、

「神々の世界」に住まう(住まおう)とする志篤い人物でさえ、

「謙虚さ」を忘れると、いとも容易く転落してしまうことにもなりかねません。

ミコトご自身のご心中を軽々しく批評することなど、

畏れ多いことではありますが、

このような独立独歩型の生き方を目指された方でさえ、

自分を支えてくれている周りの人びとの「助力」を忘れて、

個人の力だけに依存し過ぎて、「独断専行」の道を

無理に推し進めていこうとすると、

「厳しい目」に遭遇した際に、

「気落ち」もしてしまうことになりましょう。

この故事は、非常に「人間らしさ」をうまく表現し、

示唆してくれている優れた「物語的教訓」であります。

ちなみに、「史実」か否かは、本記事の主題ではありませんので、

ここでは問わないでおくことにします。

「<わたし>は、負ける気がしないのです!!」

この言葉に戻りましょう。

この言葉にこそ、人間の知力の「限界」を

なおも乗り越えんとする「勢い(生の息吹)」を感じます。

著者も、本書にて、強調されています。

「ヒトは、本来、いかなる喜怒哀楽をも乗り越えられると・・・」

皆さんも、今後の人生において、

たびたび、「心」が萎縮してしまう場面にも遭遇されることでしょう。

その時こそ、この言葉を深く、

「涙」とともに「心」で深く噛み締め、何度もつぶやいてみて下さい。

きっと、腹の底から、「正気(精気・生気)」が漲ってくることでしょう。

それでは、最後に本書から、著者の力強い励ましの言葉

引用させて頂きながら、筆を擱かせて頂くことにします。

『ヒトは苦しみ、悲しみの中を前向きに生き抜く動物である。

どんなにつらく、どんなにみじめで、どんなに苦しくても、

生物としての自分を信じて、しばしの間、耐えていればよいのである。

苦しみ、悲しみにたたかれながらも、前向きな感情がひょこひょこと、

あるいはじわじわと顔を出してくることを信じて待つのである。

深い深い悲しみでさえそうなのだ。まして、日常のさまざまな悲しみや

苦しみにさらされながらも、その中で前向きに生き抜く性質をもった

動物なのだ。

周囲の人にできることは、その本来的な特性が自力で伸び上がってくるのを、

思いやりをもって見守ることなのだと思う。』(本書121頁)

小林先生、貴重な励ましのお言葉を賜り、有難うございます。

ということで、今回も、管理人自身の「脳のクセ」が色濃く反映された

ご紹介記事になりましたが、本書から、文系理系問わずに、

人間なら誰しも思わずにはいられない「脳のクセ」をテーマに、

読者の皆さんにおかれましても、各人各様の生き方のヒントとして、

本書をご一読されたく、お薦めさせて頂きます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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