ゲーザ・サモシ氏の『時間と空間の誕生~蛙からアインシュタインへ~』想像すればするほどぶっ飛んでいく世界観へようこそ!!
ゲーザ・サモシ氏の『時間と空間の誕生~蛙からアインシュタインへ~』
人類は果たして時空を超越した世界観を共有することが叶うのか?
生身の人間にとっては永遠に解けない難問です。
なぜなら、生きているということ自体が
物理的制約条件に絶えず晒され続けるということだから。
ために生存領域を巡る紛争も絶えません。
その苦しみや悲しみを乗り越える知恵を練る公案書として、
今回はこの本をご紹介します。
『時間と空間の誕生~蛙からアインシュタインへ~』 (ゲーザ・サモシ著、松浦俊輔訳、青土社、1997年第1刷)
ゲーザ・サモシ氏(以下、著者)は、本書<訳者あとがき>によれば、
ハンガリー出身の欧米世界で活躍されてきた理論物理学者だといいます。
本書は『The Twin Dimensions: Inventing Time & Space』の邦訳書です。
さて、本年第1回目は理系書による<時空論>から出発させて頂きました。
そこでは、主に<時間の矢>を巡るエントロピー問題を中心に
分析考察が進められていましたね。
その第1回目においてご紹介させて頂いた書物の主題では、
すでに時間と空間が存在することを大前提として
話題が展開されていました。
一方で、今回ご紹介させて頂くことになる本書では
まず「そもそも論」として、
著者による長年の物理学研究の過程で得られてきた問題意識の延長上に
「どのようにして私たち人類は時間と空間を認識するようになったのだろうか?」という
問題提起をしたうえで
主に生物<進化論>からの探究も交えながら論旨が展開されていくことになります。
当然のことながら、
そもそも仮に私たち人類がこの宇宙空間内に存在することがなかったならば、
ここで<時空論>を話題にすることもありません。
言い換えますと、私たち人類が<時空論>を語り合うということは、
そのまま私たち誰しもが共有している(きた=とは近未来に続々と出現してくると
予想される極端に特異な志向性を有した<不老不死>型人造人間を除く
ごくごく一般的に共有されてきたこれまでの生物的人間像を大前提とすればと
いうことです。)生死の一大事という重要問題を
考えることにも直結するテーマとなります。
今回ご紹介させて頂くことになる本書を紐解いていく過程で
管理人自身にあらためて湧き出してきた問題意識においても
私たちがこのようにこの宇宙に存在していることについて
日常的にはあまりにも自明視する思考癖に強く慣れてしまっているがために
その奇跡に着目する姿勢や視点を
もひとつ持つことが難しい原因にもなってきたその根源的理由について
再検討する必要性を痛感するようになったことがあげられます。
こうした問題意識に導かれながら本書で取り上げられた様々な角度からの
<時空論>を考察していくことを通じて、
この宇宙に生物がとりわけ私たち人類が存在する特別な意味などについても
考える手がかりとなることでしょう。
「この宇宙において人類のみが<特別>な存在なのでしょうか?」
その<特別>であるかどうかの意味づけや解釈は
読者の皆さんにもそれぞれおありだろうと思われますが、
本書の面白い点は、まずは純物理的な視点から物質と生物の関係性について
解きほぐすところから最終的には人間特有の時空間<意識>にまで
話題が発展していくところにあると言えましょう。
「それでは、人類が存在するようになってから
どのようにしてこの宇宙空間内での最適化を果たそうと苦闘してきたのでしょうか?」
その根源的な問いに向き合うことで
また新たな<時空論>の魅力に迫ることが出来ます。
先に冒頭で人類がこの宇宙空間内に存在するということは
物理的制約条件に絶えず晒され続けることだと
あえて誤解を招きかねない表現から語り始めさせて頂きましたが、
あくまでもこれまでの人類史における生存競争を巡っての
苦しさや悲しみを乗り越えていくための道を探ろうとする趣旨からでした。
再度の繰り返しとなりますが、
本書読了後に感じた独自の魅力的視点としては、
人間存在「以前」の物理的な<時空論>から話題が始まったかと思いきや
次第に人間存在「以後」の時空<観>に関する進化過程へと論旨展開されていき、
最終的には人間固有の心理的な<時空論>にまで発展していく
その力強い話題の本流へとまるで渦潮に巻かれるかのように
惹きつけられていくところにあります。
結論的には、本書最終末尾でも再び問いかけられるような
『時空が自分を意識するようになったときというのは
確かに宇宙的意識をもったできごとだったということになろう。』
(本書343頁)という根源的な意味をどう解するかという
問題意識にまで誘導されていくことになります。
21世紀現在、この狭い地球上ですら、
未だに至るところで人類同士による物理的時空間における
支配権を巡る紛争が絶えないでいます。
「これほどまでに人類の知性が高度に進化を遂げてきたという割には
支配権を巡る心理的な壁を乗り越え出ようとする知恵が乏しいのは
なぜなのでしょうか?」
この問いを解き続けようとする志向性を持つこともまた
近未来の人工知能と人間の相違点を探るうえで
1つの話題を豊富に提供してくれることでしょう。
そうした問題意識を皆さんにも共有して頂ける題材として
今回はこの本を取り上げさせて頂きました。
人類が<時空を超える>存在に飛躍的進化を遂げるためにも、 まずはこれまでの時空観の変遷史を生物進化論の視点からも捉え直してみましょう!!
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それでは、本書の要約ご紹介を始めさせて頂くことにしますね。
①『第1章 序章』
※序章ではまず著者が本書でこれから論じようとする問題意識が提示されます。
<時空論>に関する長年の物理学的探究の果てに行き着いた結論として、
『物理学にも天文学にも属さない別の側面にぶつかったのである。
それは「そこに」ある空間や時間に関わるというよりもむしろ、
我々の心の空間や時間に関わる問題』(本書8頁)として。
つまり、私たち「人間」がいかにして現在の時空<観>を形成するに至ったかを
生物進化論の観点も取り入れながら、有史以来の時空「発見(創出)」の旅へと
読者を誘導していくことになります。
その意味で、『本書は時間と空間について、そして人間の時間と空間への
関心について』(本書同頁)取り扱われた内容の論考書であります。
ですから、著者はあくまでも物理学者ではありますが、
ご専門の物理学の領域に論考対象を狭く限定されることなく、
文系の読者さんにとっても大いにご興味ご関心があろう「文化」の視点も加味された
他の理系類書ではあまり深く味わえないだろう学際領域にも跨った
一風変わった趣向をもった論考書ということになりましょう。
本書もまたもちろん
理系研究者から見た<時空論>にまつわる論考解説に
多くの紙面が費やされていくことになるために
管理人も含めて特に文系読者の方にとっては途中で容易に読み進めることが
しんどくなる難所もあるかと思われます。
そんな道に迷われた際には、
是非この<序章>へと適宜休憩などを挟みながら戻られたうえで、
ざっと各章で論じられようとする内容のあらすじをご確認されてから
各章へ再度戻って頂ければ少しは読み進めやすくなるかと思われます。
そうした活用の仕方でこの<序章>に向き合って頂くと
少しずつ面白さが増していくのではないでしょうか?
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②『第2章 生命の時空への適応~パターンの発見~』
③『第3章 混沌への適応~哺乳類の脳での空間と時間~』
※第2章では、<いのち>というリズムを持った
有機的生命体が外部環境に馴染んでいく(=適応<同期>化するということ)にあたって
どのように「知覚」を発達させていったのかが解説されています。
そこでは「生体(体内)」時計といった生理機構を持つに至った進化過程が
中心に論じられていきます。
この第2章でとりわけ面白いのは、
人間とそれ以外の多種多様な生物による外部環境への「時計」の合わせ方を
比較考察しながら検証されていくテーマなのですが、
人間以外の生物では、その「時計」にもある一定の「遊び(ゆらぎ)」部分が
あるということです。
結構な「アバウト(およそ・だいたい)さ」であって
『これらの時計は適応に必要な程度には正確だが、
恐ろしく正確だというわけではない。』(本書34頁)とのことです。
「<サーカ>ディアン」リズムという生物特有の日周リズムも
今では一般にもよく知られるようになりましたが、
必ずしも「精密さ」が厳しく要請されるものではないことも
教えられました。
この比較考察から反転して私たち「人間」の時間認識へと
回帰していくと、現代に近づけば近づくほど
「社会」が要請する厳しい「社会的時間」に回収されていく
苦しさにあらためて気付かされることになります。
「人間」だけがこの「社会」という概念を
ある特異な感情に従って発明していった生物だということが
明らかになります。
この章では、こうした各種生物の内部に組み込まれた
時空間「知覚」システムについて、
<パターン化>や<モデル化>されていく複雑な過程について
有名なロジャー・スペリー博士による蛙の視覚系に関する実験などを
紹介しながら、
私たち「人間」が通常「見ている」世界(時空)観とは異なる知見が
提示されます。
私たち「人間」が通常「見ている」日常的風景像では
連続的な視点で事物が捉えられるように思い込んでいますが、
実はこの蛙が「見ていた」世界(時空)観が
現代物理学の最先端が捉えることになった世界(時空)像ともつながってきますので、
意外にもこの蛙の知覚実験が本書では大きなテーマとして生きてくることになるのです。
この実験で判明してきた蛙の知覚イメージ像とは、
世界を不連続なものとして捉える視点だったということです。
『蛙は物体が時間と空間の中で存続するものとは思っていない』、
『蛙の宇宙はストロボのように明滅している。』(本書48頁)と・・・
そのことは、本書第8章『空間、時間、量子』の扉書きにある
<蛙の復活>が暗示するイメージ像とも重なり合ってきますから
常に頭の片隅にこの知覚実験で獲得されたイメージ内容を留め置きされながら
各章を読み進めていかれると最後にその意味するところも次第に明るさを増し、
理解されていくことになりましょう。
その意味で、この第2章は本書全体でもとりわけ大きな意味を持つ章ということになります。
次の第3章では「人間」以外の他の哺乳類における脳の発達過程との比較分析とともに
こうした不連続な知覚像がもたらす一見して「混沌」とした世界に見える
時空イメージ像をいかにして<統合化>させるに至ったのかが
<脳化指数>というアイディアを考案されたことでも著名な
ハリー・ジェリスン博士の作業仮説の紹介とともに検証考察されていくことになります。
とりわけジェリスン博士が重要視された着眼点に
『空間と時間の中にある物体という体内の世界モデルを創造したことこそが、
それ自体で脳と知能の進化を促進』(本書51頁)させたという視点が
あります。
つまり、大雑把にまとめますと、
先の蛙の知覚実験から獲得されてきた知見の延長論点となりますが、
外部環境世界を不連続にバラバラな「混沌」としてしか把握し得ていないと
(あくまで「人間」によって解釈されたイメージ像という留保はつくものの)は
解釈されるものの何らかの<パターン化>や<モデル化>が
脳内や生体組織内部でなされていないと生存の危機にも瀕する
生物にとっては死活問題でもあるために
どのようにそれを知覚的に「統合化」させていったのかという
進化過程を探究することは、
私たち「人間」にとってもきわめて切実な課題だということになります。
脳内イメージ像として、こうした不連続な時空イメージ像を
つながりをもった一連の時空イメージ像へと転換させていく
何らかの「地図化(翻訳)作業」が必要不可欠となる動機が
ここに出現してくることになります。
そうした連続的時空観をさらに高度に抽象化させていった末に
独特な進化を遂げた生物こそが私たち「人間(ヒト族)」ということに
なりますが、その「人間」がこの高度な進化を成し遂げるに当たっての
決定的に重要な分岐点こそが、
シンボル(言語や数字、その他各種記号媒体など)を操作する能力を
獲得し得たことでした。
以下この第3章では、こうした認識・知覚能力を
「ヒト」はいかにして獲得するに至るかについての
各種哲学者などによる有名な「先天派VS後天派」論争についても
軽く触れられています(本書62~65頁あたりご参照)が、
単なる五感による知覚認識を超えた
ある意味では<超>感覚的意識を芽生えさせる原動力となってきたのが
こうした高度に抽象的なシンボル操作を伴った
時空観の拡張認識像だったというところが本章の主論論点に当たります。
とはいえ、本章最末尾でも触れられていますが、
このシンボル操作能力こそが、
本記事冒頭部でも強調させて頂いた問題意識とも重なりますが、
人類自身をも破滅させかねない起爆装置ともなりかねないだけに
「取り扱い要注意!!」な知的能力だということは
何度強調しても強調し足りません。
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④『第4章 初期人類の宇宙像~時間と空間が意味を獲得する~』
※第4章では、古代ギリシャやローマ人などが神話や各種芸術作品で
描写した痕跡を手がかりに初期の人類が果たしてどのような時空観を
形成してきたのかについて論考された箇所となります。
この章では、その後の人類史における時空観に対して
特に多大な影響を与えた幾何学や天文学についても軽く触れられていますが、
その点はこれまでも当ブログ記事内で触れさせて頂いてきた話題ですので
ここでは省略させて頂くことにします。
簡潔にまとめますと、主に「時間」に関する
<無限循環型永劫回帰観VS有限不可逆型一方通行観>ということに
なりましょうか?
そうした時空観のどちらが最終的に「正しい」のかを論証するのが
本章での目的ではなく(なぜなら、現在でも容易には決着がつき難い
難問でもあり、物理と心理が交錯する<はざま>に存在する解釈問題でも
あるからですね。)、時代ごとに周期的に繰り返し「復活」してきた
テーマだったということを想起させるに止まる論点として示唆されています。
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⑤『第5章 時間の流れの法則と秩序~多声音楽と科学革命~』
※第5章は、前章までの生物進化過程論や
生理組織機構解析から見た時空知覚認識論とは様変わりした
「文化」に話題転換させて考察されていく論考となります。
とりわけ「音楽」にご興味ご関心がある読者さんにおかれましては、
これまで人類がその進化とともに獲得してきた時空認識とともに
変化・変容を成し遂げてきたことが「音楽」の世界においても
同時進行してきたことを知る歓びを得られることでしょう。
本章では「音楽」を主旋律として時空にまつわる論考が奏でられていきますが、
ここでは「多声」音楽に焦点が合わせられていきます。
かつての西洋教育の伝統では、
「音楽」も高等教育では必修科目だった理由も
この本章を読み進めていかれるにつれて
自然に「わかる」ようになってくる点も類書にはない
楽しさを味わえる貴重な論考とも成り得ているようです。
すなわち、『多声音楽の歴史と性質をざっと調べておけば、
この音楽形式が西洋文明のもつシンボルによる時間の進化に果たした
きわめて重要な役割を明確にするのに必要なことを与えてくれるだろう。』
(本書141頁)と提起されています。
(ちなみに、現代の西洋「高等」教育機関でも
ハイレベルなエリート教育機関ではこうした「音楽」を始めとする
芸術科目も重要なリベラル・アーツ科目として
最重要教材として活用されているそうですよ。
日本のように単なる「副」教科扱いではないところも見過ごせない
教育的課題のようですね。
「想像力」や「創造力」をいかに鍛えるかが厳しく問われている
今日日。
管理人も含めまして今後ますます目が離せなくなる話題ですね。
ご参考文献として、
『ハーバード大学は「音楽」で人を育てる~
21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育~』
<菅野恵理子著、アルテスパブリッシング、2015年>も
ご紹介しておきますね。)
こうした時空観が「音楽」そのものに与えた影響や
その「理論」化問題にまつわる詳細な解説は
本章をご一読して頂くことにしまして、
この「音楽」、ことに「多声」音楽を解析する過程から
『多声音楽は、近代科学の生みの親の1人であると主張する視覚を
もつといえよう。』(本書156頁)という視点が得られることに
なるそうですね。
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⑥『第6章 古典的な時間と空間~人間の顔をした哺乳類の世界~』
⑦『第7章 哺乳類の基盤の割れ目~相対性理論~』
⑧『第8章 空間、時間、量子~蛙の復活~』
※第6章~第8章にかけては、
近代物理学の黎明期からニュートンなどが描いた<絶対的>時空観から
現代物理学における相対論や量子論によって描かれた<相対的>時空観が
提示してきた時空論について解説されています。
第6章では、ニュートンなどによる「古典」力学による時空観と
そうした見方と連動させた知覚的描写技法である絵画に活用された
直線透視図法(遠近法)の詳細な解説に当てられています。
近代(古典)物理学が提示してきた時空観をまとめますと、
『時間と空間はお互いに全く無関係でもあった。
2つはそれぞれ別々の、独立した実体である。』(本書182頁)という
ことになります。
こうした「古典」物理学によって提示された時空観が
人類に与えた衝撃が大きかった理由なども触れられています。
それは、こうした考え方(見方)が
『直接の感覚による知覚から進化したとはいえ、それは、我々が
自然に知覚していることとしばしば矛盾するほど抽象的な形をして』
(本書182~183頁)いるからでした。
ともあれ、こうした近代黎明期に出現してきた「古典」物理学的世界観が
それまでの主観的な(とは各人の信仰観や文化的価値観などによって
異なったニュアンスを持つという意味です。)時空観を変容させていく
原動力となっていったのでした。
第7章では、アインシュタインによって提示された「相対論」に基づく
物理的時空観について詳細に解説されています。
殊にこの「相対論」の内実は、
決して文字通りの「相対的」という意味ではなく
あくまでも物理学の最終目的地が高度に抽象化可能な普遍的原理を求めるところに
ありますので、本来はこうした誤解を招きやすい「相対論」という表現でもって
一般に浸透していくと、その本質が間違って理解されてしまう問題点なども
簡潔に示されており、初めて「相対論」物理学を学ぼうとされる方にとっては
非常にわかりやすく有益な留意点があげられているところ
(本書203頁以下の該当解説ご参照)も好感が持てる章です。
いずれにしましても、「相対論」によって描かれた時空観が
それまでの「古典」的<絶対>時空観と異なる最大の特徴は
時間と空間がいわば「一体化」した事象としてイメージされるように
なったことです。
これによって、従来の「古典」力学(物理学)が定義してきた
重力概念のイメージも変化を遂げたり、
いわゆる「エーテル」探しの意味もまったく異なったものとして
以後の現代物理学の最前線に至るまで分析考察されるようになるなど
あらたな「モデル」化作業が始まるきっかけとなったことも掴めるでしょう。
現代最前線の物理学が描く時空観に伴う重力イメージも
「重力とは時空のゆがみそのもの」
これだけでは何のことかさっぱりイメージしにくいところですが、
要するに観測者の立場によって<時間経過のズレ>が発生してきますが、
この現象が従来から「重力」と呼ばれてきた正体だったのではないかという仮説も
「重力」概念をも組み込んだ「一般」相対性理論が示す世界観から
現れ出てきたようですね。
こうした見方すらさらなる現在進行形の物理学探究では
大きく変容を成し遂げようとしている最中だそうですが、
面白いのは、「重力」問題をとことんまで深く追究していけば
「質量」の起源問題にまで辿り着き、
本書のタイトル(主題)であるまさに時間と空間の<誕生>にまで
考察が及ぶところです。
難しい課題ではありますが、
これからの若き物理学徒志望の読者さんにおかれましては
ますますやりがいと魅力に富んだ探究課題だと思います。
(なお、最近拝読させて頂いた『時間とはなんだろう~最新物理学で探る
「時」の正体~』(松浦壮著、講談社ブルーバックス、2017年第2刷)も
類書の中では比較的「文系」読者層にはわかりやすい部類に属する
この領域分野に関する「入門書」ではないかと思い
ご参考文献として併せてご紹介しておきますね。
何よりも松浦先生ご自身が日頃「文系」学生に物理学講義をされているとの
ことですので、その文体も洗練されていて読みやすかったです。
有り難いことですね。先生に感謝。)
ですから、第7章から学べる最大の意義を申しますと、
「相対論」的見方の功績とは
私たち人類の時空イメージを拡大させたことにあるということ。
つまり、『相対論的な時間や空間の概念を用いなければ、
すぐに知覚できる領域の外にある領域、つまり極小の世界、極大の世界、
高速の世界で観測されたことを理解することはできないことになる。』
(本書227頁)ということであります。
第8章では、先の第2章要約箇所でも予告しておきましたように
「量子論」によって観測されてきた事実とともに
あらたに示されるようになった世界観が
ある種の「とびとび」の時空イメージをもたらしたこともあって
<蛙の復活>、つまりは、蛙が見ている(と「人間」が解釈した)世界像の
「再現」として記述されています。
「量子論」が提示している時空観に関する詳細な解説は
本書該当箇所へ委ねさせて頂くことにしますが、
本章での最大眼目は、<自然科学の数学的記述化>が
この「量子論」が構築されていく過程で採用されていった
物理学的記述法とともにますます進展していった様子が
うまく語られているところでしょう。
(本書284~287頁ご参照)
いわば、私たちを取り巻く世界に内在している時空間を
数学的に言語化処理して説明しようとする壮大な計画であります。
『「数学」がこの世界のすべてを記述・説明し尽くせるか?』という問いは
同時に『「物理学」によるこの世界の完全記述が可能か?』という問いとも
重なり合う命題ですが、この難問は管理人の独自探究の旅とともに
また追って類書のご紹介をさせて頂く際に語らせて頂くことにしましょう。
とはいえ、管理人が現時点で言えることは
数学言語を使用した<物理的>世界の記述化とは
物理的時空間を情報記号としてモデル化することであり、
細かい領域は「捨象」した大まかな「部分」把握にしか至らないということを
常に頭の片隅に留め置きながらも(あくまで「自然科学」に
数学を役立たせるのですから・・・)現実の実験観測とともに
削ぎ落とされた「捨象」領域をその都度その都度、
あらたなモデル設定を繰り返しながら
より高度に精緻・洗練させていく他ないだろうという理解であります。
またいつもこの場で強調させて頂いている繰り返しにもなりますが、
「学問」はイデオロギーとは異なって、
あくまでも1つの検証材料となる理論(モデル)の再構築を
繰り返し要請するものであり、常に暫定的仮説の要素が強く表れる
あまりにも人間的な営みだということです。
そのことこそ、現代の純粋数学者などがこれまで示唆してきてくれた
学問的教訓だったと管理人などは解釈しています。
つまり、定理・公理といった命題を構築してきた物理学や数学の世界ですら
日進月歩の確認作業が続いているということになります。
言い換えれば、新しいモデル(命題や法則)がより強固に信頼されるものと
して担保されるためには、
前提条件の確からしさが絶えず厳しく問われるということです。
前提条件が崩れれば、<親亀こければ子亀もこける>のたとえのように
ドミノ倒しが起きるからですね。
そういったお約束がとりわけ数学大系にはあるがために、
物理学などの他分野に活用されるにあたっても高度な信頼性があるようなのですね。
「そう、あくまでも1つの公理体系として・・・」
ここの勘所を初等・中等「義務」教育期間中に
一般学習者に注意を促す教育的配慮がなされていませんと
民主主義の「成熟度数」にも大きく響いてくるほど大切な視点ですから、
是非とも現場の先生方には難しい課題だとは
管理人も講師経験がありますから重々承知しておりますが、
重ねてお願いいたしたいところであります。
「なぜ、このことがかくまでも最重要課題となるのか?」
それは昨今の我が国(だけではなく世界のエリート指導層の腐敗堕落、
一般人にも見られる人間性の驚くべき道徳・倫理的退廃状況も含めて)の
世俗的状況を観察していればお察し頂けるとおりです。
論理の扱い方に慣れていなかったり、論理の飛躍を防ぐ手だてを
ついぞ鍛える機会もなく、ただただ受験向け秀才を輩出してきただけに
すぎなかったのではないかという事例が多数出てきているからです。
やはり本当の意味での<目に見える>学力低下の影響や要因は
こんなところにもあるのではないかと推察いたします。
このことは本当に深刻な事態だと管理人も含めて
各自の知的責任として真摯に受け止めていかなければ、
安心した生活すら営めない時代状況にますます接近していくことにも
なりかねません。
というよりも、
「すでにそのような時代状況の悪循環に嵌り込んでいます!!」
かく物申す管理人とて完璧な人間ではありませんし、
ついつい論理の飛躍に気付かずにそのまま突っ走ってしまうことが
多々ありますから決して他人事とは思えず、
自身の知力の衰えを感じ、またもや自信喪失期に陥っている
そんな今日日を過ごしています。
だからこそ、社会人になってからも生涯学習を繰り返しているわけです。
昨今大流行中の
<リカレント教育(社会人以後の生涯にわたっての学び直し)>という意義も
こうした問題意識をもってこそ真の意味での成果が出てくるのではないかと
思う管理人であります。
学力の定義も論者によって多種多様ですし、
大学受験改革などこれからの若者に圧倒的に多大な影響を与え得る
学力測定試験のあり方やより公正かつ客観的な採点方法も現在模索中だと
伝わってきていますが、私たちのような大人(社会人)の意識づけこそ
未熟であり、これまで学んできていかにも自明や常識だと思い込んできた
歪んだ認知をあらためる機会を積極的に持ち、実生活の中で定着化させる
知恵と工夫がなければ、
若者に対するそれこそ<背信的行為>だとも思われるのです。
「1人の大人として本当に10~20代の若者の皆さんには申し訳ありません。」
そんな時代や世間に対する負い目があるからこそ、
管理人のような<失われた20数年>を過ごしてきた
ロスジェネ世代は、他の世代にも増して
次の時代のための<先駆け(前衛)>として踏ん張らなきゃなりません。
「同じ30~40代の皆さん、いわゆるバブル世代の各種ハラスメントに
負けず相互連携いたしましょうよ!!」
「これがほんまのロスジェネの逆襲!?」
それはともかくも戦後もすでに70年以上が経ち、
戦争や真の意味での貧困状態をご経験されてきた
高齢世代の方々も次々と引退なされていっています。
こうした世代交代期において、世間でもようやく<欺瞞の総体系>だった
世界から閉ざされた惰眠時代も終焉を迎えようとしています。
こうした時期だからこそ、「人間」の意義の問い直しや
「人間」が身につけるべき学力(狭義の知力だけに限りません)とは
いったいどのような性格のものなのだろうかと捉え直す視点としても
今回の<時空論>は知覚認識の構造やあり方を見直す
きっかけを与えてくれている好教材になり得ているものと確信しています。
以上は余談でした。
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⑨『第9章 新しい現実の創造~芸術における空間と時間~』
※第9章は、タイトルにありますように
「現代」芸術がもたらした時空観とともに語られていく論考となります。
ここでは、先の第6章でも触れさせて頂きました遠近法などを活用させた
「古典」芸術の見方を一変させていくことになるキュビズム運動などが
提示した問題意識がわかりやすく解説されています。
一言で言えば、「私たちが日頃この世界を知覚して得られてきた
諸事実の真の姿とは一体どういったものなのだろうか?」という疑問点を
問い直す視点が
こうした「現代」芸術の志向背景にはあったのだということになりましょうか?
管理人自身は、あまりこうした「現代」芸術が提示するような
「抽象的」世界像にもひとつ馴染めない保守的性格を有した
芸術的鑑賞眼しかありませんが、
本章を読み進めながらあらためて学び得たことは、
こうした「現代」芸術が志向してきた流れを知ることで
あらたな芸術鑑賞の楽しみがより増す機会が得られたということに
尽きます。
また、「音楽」の話題にも再度触れられている章となりますので、
先の第5章において示された解説とともに読み合わせられると
絵画だけに限らず音楽の世界も含めた「現代」芸術の奥深さにも
触れられることになりましょう。
いずれにしましても、本章を読み進めながら
あらためて実感させられたことは、
私たちはこの世界を本当にほとんど「見ていない」という事実が
如実に眼前へと強く突き付けられたことでした。
その意味で本書を読む効用とは、
こうした日頃の知覚の盲点に気付くきっかけを提供してくれることや
そうした反省材料を豊富に与えてくれるところにあると申せましょう。
そもそも人間が時空を想像し、知的に分析考察を経たうえで、
あらたに世界に対するイメージ像を再創造し直すところに
時空論を語り合う本義もあるからですね。
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⑩『第10章 現在~時空しかないのか~』
※最終章では、現代宇宙論を素材に
<無>や<対称性>などの最先端キーワードも用いながら
現代までに判明してきた知見が少し触れられて
本書の閉幕へと向かっていきます。
とはいえ、本書刊行時から現在に至るまでには
すでにかなりの年数も経てきていることですから、
ここで論じられている宇宙論や現代物理学の知見が
かなり古びたものとして感じられてしまうことも否めません。
それに本当に「さらっと」しか触れられておらず、
最終へ向かって急いで突き進んでいく章となりますので、
この領域分野にご興味ご関心がある読者さんにとりましては、
正直物足りなさを覚えられるかもしれませんね。
そのことは各読者さんの嗜好の問題ですから、
ここでは何とも評価し難いところですが、
一応そのこともご留意願ったうえで、
本書をご一読されることをお薦めさせて頂くことにします。
<訳者あとがき>にも
そういった物足りなさを感じられた読者さん宛に
幾冊かのご参考文献も掲げられておりますので、
各自の問題意識やご興味ご関心度に合わせて
さらに守備範囲を拡張していって頂ければ、
訳者ならびに管理人としても本書ご紹介をさせて頂きました
喜びとなります。
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・謝辞
・訳者あとがき
・文献註
・索引
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春を感じるやすらぎのひとときを皆様へ贈ります!! ~「春爛漫に飛びます、飛びます??(笑)」編~
さて、本書ご紹介の仕事もひととおり済ませましたので、
重苦しい話題はひとまず脇に置き、
せっかくの春爛漫な桜の季節がやってまいりましたので、
ここからはほのぼのとしたエッセー記事へと移らせて頂きますね。
この3月は管理人も前月までと異なって、
決算期棚卸し作業や何やらで週末出勤もあるなど
日々忙しい時期を過ごしていました。
とはいえ、「忙中閑あり!!」を座右の銘としてきた管理人は
その合間も見計らっていろいろな課外取り組みもしていたのでしたが・・・
最近は人と会う時間が多くなってきたことなどから
いわゆる生活費以外の「諸経費」も積み重なり、
ために当初思い描いていた「時短」労働計画もほどほどに微調整させ、
残業代稼ぎに嵌り込んでしまっています。
やはり特別な稼ぎ方をしたくても出来ない状況にある
一般労働者の場合には、<労働>が一番の収益源となるからですね。
会社の方のご厚意で稼ぐ機会を与えて頂いています。
とこんな風にざっくばらんと綴ってきたついでに思いついたのですが、
現在進行中のいわゆる<働き方(かせ方??)改革>の行方を
こうした観点から考え直してみると、
良いことばかりでもない感じもこのところしています。
というのは、今後の方向性では「残業」そのものを
根本的に無くしてしまおうとするものであり、
つまりは、「残業」という概念すら廃する改革志向であるために、
このような「残業代を稼ぎながら生計費を微調整させる」方途を
立てることが出来なくなる方が続出するものと考えられるからですね。
もっとも、人工知能などの導入によって職場環境の改善や
生産性向上につながる(=それはまさしく「時短」労働が叶ったうえでの
時間給(実質賃金=手取額)の上昇につながる方向であれば大歓迎!!なのですが)ならば、
皆さんもおおむね(=勤労観は人それぞれなのでこうした方向性に否定的な方も
もちろんおられましょうが・・・)ご納得して頂けることと思います。
とはいえ、もし、現在の<働き方改革>の方向性が
そのような当初思い描かれたような理想的イメージへと
進展実現していくことがなければ、
一部の方々が憂慮されるような「悪夢(霧)」となって
私たちの前に立ちはだかることにもなりかねません。
管理人の願いは、もちろん「時短労働とともに実現する実質賃金の上昇!!」で
ありますが、皆さんもその点はおおむねご同意・共感して頂けるものと信じます。
こんな思いを抱きながら日々の職務に励んでいる今日この頃です。
さて、そんな3月決算期末棚卸し作業日を終えた
先週末は昼までの仕事でしたので、
お天気日和でもあり、桜もぼつぼつと咲き始めた中、
日々の疲れ果てた身心を休めるため好きなドライブがてら
奈良県桜井市の「三輪明神 大神神社」の今年最初のお礼詣りに
行ってまいりました。
特に池の畔に鎮座まします「弁天様」と狭井神社、
「知恵の神様」久延彦神社、
日頃お世話になっている会社関連の「薬の神様」少彦名命の神様には
懇ろに感謝のお祈りを捧げさせて頂きました。
先週21日は<春分の日=お彼岸>とも重なる時期だったために
もしかしたらと思い、二上山の雄岳・雌岳の<はざま>に落ちる
夕陽をとらえることのできる絶好のシャッターチャンスでもあると思い定めて
落日時間の夕刻間近まで待ちかまえていたのですが・・・
予想外の事態に・・・
その模様は後ほど写真とともにご報告させて頂きます。
まずは、いつもどおり、三輪さん正式参詣道の手前脇から若宮社方面へ向かい
「安産・子守の仏様」がいらっしゃる御寺へご挨拶して、
若宮社から久延彦社方面へ・・・
すでに夕方「落日」も押し迫っていましたので、
先に桧原神社方面へ向かうことにします。
久延彦社参詣後、「国見の丘(恋人の聖地)」へ登り、
大和の国中(くんなか)を古代人になったかのように
<見晴る>かします。
(ちなみに、あべのハルカスの<ハルカス>の名づけ由来は
この言葉にちなむそうです。)
(以下すべて管理人撮影。夕陽で見えづらいですが、
遙かに河内方面に向かって葛城・金剛山系。
手前に薄ぼんやりとしたいわゆる大和三山です。
謡曲『三山』の恋物語でも有名な古代から信仰されてきた
神々が集いし畝傍山・耳成山・天香具山ですね。
右手には三輪さんの大鳥居も控えています。)
(すでに満開間近の各種「山桜花」の共演です。
まさに<春爛漫に式の舞う也!!>の気分です。)
さて、桜をたっぷりと堪能した後は桧原神社方面へ急ぎ向かいます。
時間にゆとりあるいつもであればこの先の「貴船社」から
「八大龍王弁財天社」を経て「玄賓庵」なども
じっくりとお詣りさせて頂くところですが、
もう夕刻間近ですから心中祈願の遙拝のうえで先を急がせて頂きます。
(ここは、写真マニアの方ならどなたでもご存じだと思われる
超有名な撮影スポットですね。
そう、あの入江泰吉大先生の
『蒼古の色濃き玄賓庵への道(山の辺の道)1971~74年』と
題された一枚の冬景写真です。
(『入江泰吉 私の大和路~秋冬紀行~』写真・文 入江泰吉著、
小学館文庫、2002年初版第1刷、142頁ご参照のこと。)
ちなみに、入江泰吉ファンの聖地である
『入江泰吉記念奈良市写真美術館』のサイトはこちら。
入江先生の場合には、桧原神社から玄賓庵方面への戻り道からの
振り返り際の季節も冬の靄がかった一枚ですが、
時代は変われどもここだけは時間が止まったかのような
<時空を超えた>ご神域ですね。
有り難い一枚でした。)
入江泰吉先生によれば、
カメラなど写真撮影機器が技術的にますます高度進展化していく
未来が予想される時代においては、
写真家の「腕前(技術力)」とは、
もはや「心眼力」こそが切り札となる要素だと
記念館のパネル解説文でも生前にすでに予測され、
強調されていたそうですね。
天才とは、先を見通す<眼力>が研ぎ澄まされた人間を
指すようです。
人間はやはり何よりも「心」を磨き続けることが
大切だということです。
(この一枚は、その脇にある林の木立のあいだから
お顔を見せて下さった夕陽<ゆうひ>の勇姿<ゆうし>です。
言葉の語呂合わせって面白いね・・・)
ここから桧原神社まではあとほんの一息の距離です。
桧原神社に着きますと、すでに先客カメラマンが5、6人ほど
「その時」を待ちかまえておられました。
で、先に語らせて頂きました予想外の事態とは・・・
それは、すでに「春分の日(お彼岸)」の頃あたりにもかかわらずに
セオリーどうりには二上山の<はざま>にうまく落日してくれないという
ハプニングだったのでした。
地元のあるご年配の方がしきりに「おかしいなぁ~」を
連発されておられましたが、自然はあるがまま(真正直)ですから
私たち「人間」が願望するとおりには動いてくれないようです。
「合理」的な近現代科学的な暦法に従えば、
まさしく定刻どうり定位置に夕陽も落ちることになるのでしょうが、
まぁ、変則事態が起きてもよいではありませんか。
管理人自身はこの点、傲慢になりがちな「人間」目線ではなく、
「自然=神々」の<微笑み>に心を寄り添わせます。
その頑固な方??(と申しては失礼!!にはなりましょうが・・・)、
「ひょっとすれば近年来の地球の地軸が傾きつつ変化が起きてきているから
ではないですか・・・」(管理人)と
ある意味これも科学合理的な応答をさせて頂きました(正しい回答か
どうかはわかりませんが・・・)が、なかなか聴く耳を持って頂けませんでした。
ちなみに「頑固」とは「頑迷固陋」の省略形のこと。
こんな「説明」はどうでもいいでしょうが、
言葉を研究していると面白いですよ。
そんなこんなで古代からの暦や考古学的知識などを
さんざんとご披露して頂いたことは貴重な勉強の機会にもなって有り難いことですし、
もちろん管理人も素直かつ敬愛の心でもって静かにお聴きしていましたが、
なかなか心静まる気配もありません。
そんなこんなの「説明」よりも
管理人は心でこの風景を感じ取りたいのです。
「世の中はどうでもええ<説明>ばかりで満ち溢れていて、
肝腎なことが読み取れなくなってきている!!(大意)」
管理人も最近、「畏友」とのご縁とご紹介から
小沢健二さんの『うさぎ!』を読む会に参加させて頂いていますが、
まさに最近この問題に関する創作童話を朗読、
それぞれに感じ取ったところを語り合っていたばかりですから、
このことが脳裏に思い浮かんでいたのでした。
もちろん、管理人もこの書評でそれこそ余計な「説明」だらけの
文章を語り綴ってきたわけで、
こうした問題意識を持たれている方には誠にもって恐れ入るばかりです。
ですから、読者の皆さんにはあくまで読書の入口(きっかけ)として
この記事を気軽に読んで頂いたうえで、
各自の問題意識に沿って、それこそ自由自在に各書を紐解いて頂ければ
それだけで紹介者としても幸いです。
「まずは、一期一会の出会いから・・・」
ということで写真挿入を忘れそうになりましたが、
最後にその美しい夕陽が少しずつ沈む「光景」を
ここにアップさせて頂きながら、
今回のお開きとさせて頂くことにいたしましょう。
いつも誠にお忙しい中、当ブログにまでお越し頂きありがとうございます。
こんな感じで今後とも精進してまいりますので、
お気軽にご訪問下されば幸いに存じます。
最後に皆さんとともにそれぞれのご多幸とご成幸をお祈りして
ご唱和させて頂きましょう。
『幸魂(さきみたま) 奇魂(くしみたま)
守り給え 幸へ給え』
最後までお読み頂きありがとうございました。
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≪幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま) 守り給え幸へ給え≫
荒魂と和魂(幸魂・奇魂)の融合法を【数そのモノ】で見てみよう。
荒魂はカオス(混沌)であり、和魂はコスモス(秩序)である。
葛城の一言主神社に荒魂(カオスのシェーマ[記号])の絵馬がある。
荒魂を和魂にするのは、【1】である。
『離散的有理数の組み合わせの多変数創発関数論 命題Ⅱ』の一・二・三次元空間のそれぞれの数式が方程式として解を導いているのは、二次元と三次元の数体の方程式の係数の積が【1】となることだ。
数理哲学としての観(vision[作用素(1 0)])の働きは、意識によって認知する。
一次元の数式で数の時間的組合せに変化(【1】トナルコト)がなければ、二次元・三次元の数式においても時間的な変化のないもともとの数を返す。これが、作用素(1 0)の関数としての意識によって認知する作用だ。
他方【1】の数理哲学としての観(vision)は、一・二・三次元数式に解を持たせる作用があるのだ。
これは一・二・三次元の離散的有理数体が、四則演算で閉じていることを明示している。
関手としての【1】の観(vision)である。
この帰結を『自然比矩形』(実数)に拡張すると 荒魂(カオス)と和魂(コスモス)の融合法で【数そのモノ】のそれぞれの次元の【1】は、荒魂(カオス)のヒエラルキー構造で双対していると見られよう。
そしてなによりもホモ・サピエンスは、数理哲学としての観(vision[作用素(∞)])を掴んだことだ。
ここに【数そのモノ】の『強力なエンジン』は、数理哲学としての観(vision[作用素(1 0 ∞)])である。
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