イーヴァル・エクランド氏の『予測不可能性、あるいは計算の魔』世界が<計量万能化思考>へと向かいつつある前途に警鐘鳴らす 数理哲学啓蒙書です!!

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イーヴァル・エクランド氏『予測不可能性、あるいは計算の魔』

いつの時代も不確実な世界に住むのが人類の宿命。

もともと有限なる存在がなぜ無限性に憧れるようになったのか?

それはやがて消えゆく身に何らかの安堵感を欲したからなのでしょうか?

現在、世界に人類究極の夢である<計量万能化>の嵐が吹き荒れる中

原点に立ち返った反省も必要な時期が訪れようとしているようです。

今回はこの本をご紹介します。

『予測不可能性、あるいは計算の魔~あるいは、時の形象をめぐる瞑想~』(イーヴァル・エクランド著、南條郁子訳、みすず書房、2018年第1刷)

イーヴァル・エクランド氏(以下、著者)は、

フランスのパリ第9パリ・ドフィーヌ大学エメリタス教授。

ここを基点に数理科学研究を世界各地の研究機関でなされてきました。

1996年にはベルギー王立科学アカデミーグランプリ受賞

1997年からはノルウェー科学アカデミー会員

著者はこれまで難解な数理科学の世界観や知見を

その独特な文体でもって一般向けにも数多くの著作を公刊され

世界各地で翻訳公開されてきました。

本書は邦訳書として昨年刊行された1冊ではありますが、

原書はすでに35年前(1984年)に書かれたもので

著者の出身本国フランスではジャン・ロスタン賞を授与されるなど

話題となった1冊だそうです。

著者に関する邦訳書としては本書以外にも

『偶然とは何か~北欧神話で読む現代数学理論全6章~』

(南條郁子訳、創元社、2006年)

『数学は最善世界の夢を見るか?~最小作用の原理から最適化理論へ~』

(同上、みすず書房、2009年)があります。

本書の魅力難解な数理的世界観を芸術や文学的イメージを駆使させた手法で

文系人にも可能なかぎりわかりやすく伝えようとされている努力の軌跡が

随所で垣間見ることができることです。

本書の最大要点は、もともと有限なる身である人間が

それを超越した無限なる世界を理解しようと努めて窮め尽くしてきた過程に

その限界点を突破しようと必死にあがく原動力の底流に潜む

ある種の<計量万能化>志向があったわけですが、

そうした壮大な人類の企図(夢)もこの先果たして本当に叶えることが

可能なのかどうかを現代までに判明してきた数理解析知見を補助教材に据えて

現在世界が突き進もうとしている道に警鐘を鳴らす視点

含まれているところにあります。

例えば、AI(人工知能)と人類が世界に拡散させている

いわゆる<ビッグデータ>を一箇所に集約させることさえ叶えば

すべてを見通す「目」が獲得されるだろうといった楽観的観測がありますが、

こうした志向性にも数理的知見から「待った」をかける思考要素が

随所に散りばめられています。

予測可能性問題については、近年も<リスク>と<不確実性>の違いなどをテーマに

経済学やビジネス書の世界でも取り上げられるようになり

次第に世間一般にも浸透してきているように見受けられますが、

人間はそもそも予測「不」可能な事態や現象に非常にか弱い存在であります。

このような予測「不」可能な事態や現象に対して

非常に強い心理的恐怖感を抱え込んできた生物であるがために

人間を取り巻く外部環境の「未知」の領域に関する推測能力を高めようと欲する過程で

言語や数理的計算推論能力も進化発展を遂げていったのだとも言えましょう。

ことに数理的計算推論能力の高度化は

そうした心理的側面が強い支えとなってきたように感受されるわけですね。

そこに現在に至るまでの「計量万能化」志向の原点が潜んでいたと

管理人は推理考察しております。

ちなみに、この<リスク>と<不確実性>の違いについてですが、

前にも若干程度ご紹介させても頂き、今回もまた本文書評内において

必要に応じ折に触れて再確認させて頂くことになりますが、

<リスク>過去の経験過程で獲得されてきた確率・統計データなどから

抽出し得た情報に基づきある程度までの近未来予測が可能となり、

仮に想定外の事態が生起してきたとしても事前に制御可能な性質を帯びた

概念だとします。

それに対して、不確実性とは今後生起し得るであろう事態ですら

変動が激しいがために想定そのものも予見困難な性質を帯びた概念だと

おおむね定義されています。

それではなぜ予測「不能」な事態や現象がこの世界には数多くあることを

身をもって体験知覚してきた人間であるにもかかわらず、

何故そうした予測「不能」な世界を諦めきれず限界突破しようとする

意思を欲してきたのでしょうか?

それはこのような予測「不能」な世界をも見越す

<より>確実な知見が獲得出来れば

何度も繰り返しとなりますが、

やはりさらなる安心感がいや増すからというわけです。

そのこと自体は人間なら誰しも咎め立てすることは出来ません。

とはいえ、一方ではこうした予測「不能」な世界を

何でも見通すことが可能になるといった

<計量万能化志向>も度が過ぎれば知的謙抑性が阻害され、

また完全な未来予測が仮に出来たとして(そんなことはおよそ不可能ですが・・・。

そのことを数理的に論証していくのが本書の一つの役割でもあります。)、

そうなった場合には人類はこの世界に暇と退屈を持て余すようになりましょうから

このような世界に適応し得る余程の知性と知恵の発達が追い付かなければ

人類と世界そのものを破滅へと追いやる衝撃波ともなり得る

潜在的危険性も予見し得るからこそ

本書で提示された数理的知見洞察を素材に

AI「全盛期」に至る前に少し立ち止まって再考する機会も

必要だろうとの趣旨から今回はこの本を取り上げてみました。

2019年はどうも国内外を問わず「大動乱・大激変」の

節目の時節となる予感がいたします。

いやすでにそうした事態や現象は随所に現れ出てきています。

そうした「非常時」だからこそ、

急な世の中の変転にも慌てふためき、

世界にさらなる「傷口」を広げないための知恵を

本書を通じて読み取っていきましょうということで

皆さんにもご一読して頂く価値は十二分にある1冊となっています。

本書を読み進めていくうえでは<複雑系>科学に関する若干の予備知識も

必要となりますが、

そのあたりは過去に当書評記事内でご紹介させて頂いた関連書と

適宜リンクさせて頂きながら、

可能なかぎりイメージしやすいように喚起していくように努めていきますね。

また本書の副題には『あるいは、時の形象をめぐる瞑想』ともありますように

この予測「不」可能性問題を突き詰めて考えていくことを通じて

とりもなおさずこれまで人類が描いてきた<時空観(認識)>をも

イメージ刷新させるかもしれない機会を与えてくれる1冊になり得ています。

それでは時空を超えた知的旅行へと皆さんをお連れしましょう。

人間の世界にはやはり<ラプラスの悪魔>は存在しなかったの かも!?~人類の天体観測とともに進展していった現代「力学」が導き出した数理世界論入門~

それでは本書の要約ご紹介へと移らせて頂きますね。

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・<はじめに>

ここではまず最初に本書の意義・目的について宣言されています。

過去の先駆者たちによって切り開かれてきた科学や数学といった

数理学的知見の軌跡を追うことを<導きの糸>としながら

『現代科学の背景をなしている「時」の数学を要約すること。』(本書3頁)。

その過程で科学と数学の同時発展過程をも追跡確認していくことになります。

「数学とは一体全体何を記述するものなのでしょうか?」

「科学との相性は一体どこにあったというのでしょうか?」

「科学が大切にしてきたお約束事=現実の実験・観察を通じて獲得されてきた

洞察知見の<再現性>を数学はどのように保証してきたのでしょうか?」

このような問題意識を中心にして

科学と数学の接点を確認していくことになります。

そのことで科学と数学の「限界」、言い換えれば、

現時点での人類の知性面における「有限性」もまた見えてくることになるでしょう。

近年、AI(人工知能)の革新的発展によって人類に与える脅威的側面が

様々な分野で議論されてきていますが、

そもそもAIそのものが人類によってプログラミング設定されたものである以上、

その脅威を説く大前提として人類の知能「限界」に由来する

人類そのものの危険性についても自覚・再確認しておかなくてはなりません。

つまり、その脅威や責任をAIのみに押しつけた議論こそ

「本末転倒」だろうということです。

管理人が本書ご紹介を通じて皆さんにも再考して頂きたいのは

この論点にこそあるわけです。

本書ではこのように現代科学と数学の最先端知見が辿り着いた

現状確認をしていくとともにその「限界」を弁えない

いわゆる科学(数学)<万能主義>についても

警鐘を促していく1冊となり得ています。

そして、著者による「科学する営み」の終局目的とは

『自分で理解するということ』(本書5頁)に尽きるといいます。

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①『第1章 天球の音楽』

第1章では、そもそもなぜ人類が科学や数学といった<数理的探究>を

深めていくようになったのかを

宇宙を眺めながら人類が感受してきた「無限性」への憧れや

その「未知」への畏怖感を超越していこうとの

生物的本能の一翼を担う知的欲動がおもむくところの軌跡を

『天体観測理論発展史』を入口にして確認していくことになります。

それは言い換えますと「天体動向が与える<時の流れ>」に関する

「時」そのものにまつわる壮大な知的探究事業だったということです。

つまり、人類はこの「天体動向」とともに「時」そのものを

<発見>していったわけです。

それではこの「時」を人類はどのように制御していこうと

志向してきたのでしょうか?

その「時」へのイメージ感覚こそが

現代の科学や数学「理論」の背景をなす思想を構築してきたのでした。

本書第1章でもテーマとなる『天体観測理論発展史』に関する

個々の本書内での解説論考を始めますと煩瑣となりますし、

すでに本書評記事内でもご紹介させて頂きました内容と

重なりますので詳しくはそちらをご参照願うことにいたします。

スティーヴン・ワインバーグ著『科学の発見』の書評記事ご参照のこと。)

簡約いたしますと、ケプラーによって大幅にそれまでの天体軌道「観」が

抜本的に修正(円→周転円→楕円、等速運動→「歳差」運動などに見られる

不規則運動)されるまでは、

『古典的な天文学者は一貫して円以外の図形、等速運動以外の運動を

考えることを拒んできた。』(本書13~14頁)という固定概念に

強く束縛され過ぎてしまっていたがために

なかなか理論と実測との「ズレ」をいかに説明付けるかにつき

克服し得る地点を見出せなかったということです。

とはいえ、ケプラー以後の天体「理論」が導出されていくうえでの

アイディア発想はすでに古代からあったというわけですが・・・。

その高い壁を作ってきた原因には様々なものがありましょうが、

まずは幾何学自体が初歩的な段階にあったことも一つの要因と

なっていたことが考えられます。

つまり、ニュートンが活躍していた頃までの古典的な時空「観」では

原則的に「絶対」時間や「絶対」空間というイメージ像に束縛されていたこと。

また、ケプラー以後の天体科学者やその天体観測「理論」を構築していく過程で

同時発展していった数学の一大難問とも重なってくるテーマですが、

それまでは「二体(点)」問題の方が明らかに解決しやすくあったために

それに特化した試みに力点が置かれてきたことにより

はるかに解決が困難だとされてきた「三体(点)」以上問題への

人間的理由(複雑さよりも単純さを好む知的性格)もあってなのか

いわゆる「多体」問題解析処理にまで追い付けなかった事情もあったのでしょう。

この「多体」問題は現代数学の最先端でも超難問だと評価されており

未解決問題が数多く残されているといいます。

とこのように古代からの古典的な天文学者とケプラー以後には

一つの(天体)科学史上における「分水嶺」が現れ出でたように

一見すると思われますが、

こうした自然現象(特に<宇宙>観)を見つめる視点そのものは

きわめて古典的な発想が19世紀末期から20世紀初頭に至るまで

長らく残され続けていたのでした。

それが「決定論」的自然観だったというわけですね。

そうした「決定論」に強く束縛された自負心の現れを象徴するエピソード

本タイトルにもある『ラプラスの悪魔』であります。

いわばこの<悪魔>は「万物を見通すことができる目」を

持っているというわけですね。

ここで別にこの有名な標語に触発されて

フリーメーソン(リー)の話題に触れるわけではありませんが、

こうした発想がこの時代の主に(キリスト教)「神学」論争の背景にも

あったようで(本書ではこの点は取り上げられてはいませんが・・・)、

その後の科学「観」にまで多大な影響力を及ぼしてきたことだけは

確認することができます。

例えばニュートンがそうであったように

近代啓蒙思想の影響を受けた科学者には「神学」的には

いわゆる「理神論」的立場を採る者が多くいたということも

そうした側面を示唆しているようですね。

この「科学」と「神学(宗教)」の接点や相関関係論にも

大変興味深い話題が数多くありますが、

今回は主題ではありませんのでここではこれ以上深入りしません。

ご興味ご関心ある読者様は各自でお調べされるのも面白いテーマでありましょう。

いずれにしましても第1章では

これから本書の主題論考内容を読み解いていくうえでの

読者に対する注意喚起論点と

近現代科学によってもたらされた知見の問題点がどこにあったのかが

提示されていくことになります。

そのことを最後にまとめておきますね。

天体科学を通じて獲得されてきた「力学系」物理学が提示してきた

時空観「理論」によれば、

『現在という一点に過去も未来も畳み込まれている』という視点を大前提に

前にもご紹介(『時間の矢、生命の矢』『時間と空間の誕生』

ご参照願います。)させて頂きましたような

時間の<相互転換>という操作処理を可能とする「理論」形式が

所与の条件とされてきたということです。

この当時の古典派「理論」物理学大系を記述処理するための

数学形式(微分<方程式>など)も

『過去と未来を区別しない』(本書26頁)わけですね。

本章が示唆する論点として以下に引用する箇所こそが一番重要な教訓となるわけですが、

こうした「固定化された静的=完全制御型」時空観に依拠した

宇宙や自然への見方がいかに重苦しいものであったかは

皆さんにも容易に想像がつくものと思われます。

確かにこのような「静的」宇宙モデルであれば

人間にとっては一見すると安心出来そうに感受されるわけですが

裏を返せば融通性の効かない不自由窮まった世界観を

各方面へと強制していく潜勢力も有していたのだということですね。

『19世紀の人々は、この息苦しい宇宙、すべてがあらかじめ知られている宇宙に

生きていた。この空気のなかで啓蒙主義の哲学が成長し、今日わたしたちの

足枷になっている多くの政治的、経済的、社会的教義が生まれたのだ。

そして人々はこの時代に、理解しないで説明するという習慣を身につけた。

(中略)このときから、科学的思考と自然な直観の溝、定量と定性の溝が

深まったのである。』(本書27~28頁)と・・・。

ここに現代科学の最先端に至るまでの深い「闇」もまた潜んでいたのでした。

そこでこの教訓の反省のうえに

こうした近代「啓蒙」主義思想(=人間<理性>を極度にまで信仰していった

いわば人間<知能万能>観)を乗り越えようとする

あらたな問題設定を準備提示した人物もまた現れ出でてきたのでした。

それがかのポアンカレ予想でその名が後世にまで知られるようになった

アンリ・ポアンカレ氏であります。

このポアンカレ氏が立てた問題意識やその数理的解析論に関する解説につきましては

管理人の手には負えませんので本書内における該当解説などに

委ねさせて頂くことをお許し願いますが、

誤解を恐れずに簡約するとするならば、

自然を記述処理するために要請された

数理的計算方式(つまりは、<方程式>)においては

条件設定が「決定」論的であり、現実の「変転際わりなき」自然現象を

より精緻に処理するうえではどうしても「限界」が生じてくるという

問題意識にあったようです。

確かに本書内における近代「啓蒙」主義時代に創案されてきた

数理<方程式>に関する解説にもありましたように

実用的な天体観測にある程度まで合致させようとする試行錯誤の過程で

「摂動」計算という処理方法を編み出し、「近似的」にまでは

その処理能力を高めることは叶ってきたわけですが、

それでもより高密度な精確さまでを求められた場合には

「理論」上の数値と「実測」上の数値との間で

「ズレ(誤差)」がより大きくなっていくといった問題は

絶えず付きまとうことになります。

なぜならば、<方程式>に「代入」する情報量が複雑膨大なものとなり、

一義的に決定することすら人間の手には負えなくなってしまうからですね。

このことはよく技術革新やビッグデータ集積がなされていけば

いつの日にか自ずと解決し得る日も来るのではなどと

楽観的に「誤解」されることもあるそうですが、

そもそも情報そのものを制御すること自体に

人間の恣意的操作処理の手が入るわけで

いっこうに定まることは叶いません。

それが現代の<複雑系>数理学などが強調示唆してきた

いわゆる「初期値(条件)」難題であります。

そのようなきわめて人間的な限界があるにもかかわらずに

簡易解決に固執しようとする人間特有の習性によって

数理科学に対する批判精神も軽視されていく状況に

著者は本章最末尾にて警告を促されることになります。

要するにあらかじめ仮定予想した筋書きがむしろ強化されてしまうといった

ある種の行動心理学の知見も示唆してきたような

<自己偏重確証バイアスに犯されてしまうというわけですね。

このようにアンリ・ポアンカレ氏によって提起されていった問題意識を

著者も共有しながらこれからの<不確実(予測不可能)性>を解読していくために

要請されるあらたな数理哲学の道が紹介されていくことになるわけです。

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②『第2章 砕けた水晶玉』

第2章ではそんなニュートンなどによって

一見すると堅固に構築されてきたかのように思われていた

「決定論(計量可能)的」数理観(本書タイトルに比喩的に表現されている

<水晶玉>!!)が徐々に後進のあらたな数理哲学観を引っ提げて望む

数理科学者たちによって打ち砕かれていく模様が紹介されていくことになります。

というわけで本章の最大の読みどころ

<ポアンカレの仕事>(本書47~66頁)であります。

ここでそれまでの「定量」型微分方程式論に

「定性」的発想が加味された改良型微分方程式論が

その後の数理科学に及ぼしていった意義について触れられることになります。

『ニュートンの方程式が記述する運動のなかにはきわめて不規則なものが

あること、しかもその不規則性は例外ではなく常態であることを証明した。

(中略)ポアンカレのおかげで、ケプラー近似の巨視的で規則的な見かけの下に、

微視的な不規則性がわんさと隠れていることが明らかになったのだ。』

(本書55頁)と・・・。

ここから見えてきた世界こそが、

次の<決定論的でありながらランダム>(本書66~87頁)かつ

<不安定でありながら安定>(本書88~102頁)の各小項目で

さらに詳細に解説されていくことになります。

ここらあたりからかなり専門用語が連発されていくことになりますので

一般読者様におかれましては読み進めづらくなるかと思われますが、

要はそうした世界の中の構造解析において

現代の数理記述がいかになされてきたかの概略が

ここでは描かれているにすぎません。

パン(パイ)こね変換」だとか「ベルヌーイ・シフト」、

「ストレンジ・アトラクター(奇妙な吸引子)」だとかが続々と出てきますが、

それはこうした時空間構造の中で生起し得る自然現象が

どのように変容していくかの過程を記述した時の説明形態だと

ここではひとまず押さえておくのが理解の促進のためにも

賢明でありましょう。

「ストレンジアトラクター」などと言えば若い読者様にとっては

ご存じの方なら、やなぎなぎさんのアルバム『エウアル』所収曲のタイトルとして

そちらの方が一般には知られているのかもしれませんが・・・。

(これはまったくの余談です。)

ですから一般の初学読者様には適宜読み飛ばして

この段階ではあまり深入りしすぎないことも

本書で著者が提示されている内容を把握するうえでは

適切なご判断だということになります。

このあたりのテーマはすでに本書評記事でも数冊ご紹介しておきましたので

そちらの方もご参照して頂けると幸いであります。

丹羽敏雄著『数学は世界を解明できるか』

吉永良正著『「複雑系」とは何か』など)

上記2つの小項目の中では<サイコロ投げ>や<ビリヤードゲーム>などの

たとえ話が「ランダム性」とは何かが比較的イメージ喚起しやすいでしょう。

まとめますと、何かを開始する段階(初期条件)で一部分のみを切り取れば

予測が簡単に見えそうでもその周辺領域における外部情報が多くなればなるほど

ゲーム開始後に起こりえる結果を「確定的」に予測するには

ますます「不安定」さを増し困難になっていくということですね。

本章でひとまず押さえておきたい点は、

「定量(計量可能)」的分析手法も自然現象を捉えるうえで

対象となる「系(境界領域)」によっては不適切なアプローチになる

いうことです。

つまり、「確定」した「静的」に固定された想定モデルの下でしか

実際には取り扱えないということですね。

しかし、そんな実験室内で考案された想定「理論」など

現実の世界にはどこにもあり得ないわけです。

著者の表現によれば、

『定量的方法は、たとえ計算ができたとしても非現実的である。

なぜならそれらの結果は、外部から切り離されて外的影響をいっさい受けない

系にしか適用できないから』(本書101頁)だということです。

つまりは、現実の「動的」自然形態現象においては

こうした計算するための諸変数が揺れ動いているために

精密計算は著しく難易度が高まるため

一義的な結果を抽出してくることも出来なくなるということです。

要するにそれでも予測したければ「おおざっぱ」な結果を

認容するほかないということです。

そこでこうした「ゆらぎ」世界を解析するには

定「量」的アプローチよりも定「性」的アプローチの方が

より柔軟に使用できるという点でふさわしいということになっていくわけです。

とはいえこの定「性」的アプローチでさえ「おおざっぱ」にしか予測し得ず

決して過大評価してはなりませんが、

過小評価してもいけないというのが著者の本章からのメッセージだということです。

予測は不能とまでは言い切れなくても著しく困難だという点は押さえつつも

ある一定の「パターン(リズム)」分析までは出来ることから

有益な分析手法だということになるようです。

言い換えますと、抽出されてきた「確率・統計学データ」として

一応どのような推論と言い訳が成り立つのかということでもあります。

ここから言えることはあくまでも後付けの「結果」から見た話であって、

揺れ動いている最中の過程ではまったくどのような事態が生起してきているのかも

捉えきれずに「確定」し得ないという話であります。

ちょうど「量子論」でよく紹介されるように

世界に入り込んだ<観測者>の目ではその世界全体像が

掴めないということとも重なるテーマであります。

より厳密に言えば、その<観測者>自体が対象世界に多大な影響力を

及ぼすために最初の「初期」段階で想定していた予期結果とは

大幅にずれていく現象に遭遇するということです。

また<観測者>以外の外部プレーヤーの動向によっても

生起してくる事態が複雑化していくために

ますます将来の予想も困難になっていくというわけです。

その典型例が株式市場であったり景況判断であったりするわけです。

次章からはこの定「性」的アプローチの派生論点となる

<カタストロフ理論>について触れられていくことになります。

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③『第3章 帰ってきた幾何』

第3章では「時」を捉える1つの科学理論として

カタストロフ理論についての概要とその批判(適用限界点)についての解説が

なされていくことになります。

この理論もまた現在の<複雑系>時空間力学を記述する一つの表現形式ではありますが、

この言葉を字義通りに受け止める数多くの誤解が付きまとってきたといいます。

<カタストロフ理論>を字義通りに解釈すれば、

まさしく「破局(終局)」ということになるわけですが、

著者によるとこの理論はそのような意味は一切含まないのだといいます。

詳細な解説は本書における各個別論考文に委ねさせて頂くことにいたしますが、

『カタストロフ理論は、カタストロフ(破滅や破局)を予言する理論ではない。

(中略)それどころかこの理論は、カタストロフであろうとなかろうと、

何事も予測しない、つまりこれは相対性理論のような物理学の理論ではない。

カタストロフ理論は現在と未来のあいだに必然的な関係を打ち立てない。

だから、今日の状態がこれこれなら明日はこれこれの出来事が起こるだろう、

というようなことは何も言えないのだ。』(本書103~104頁)

科学理論とは言ってもそれは文脈的にはダーウィンが提起したような

進化論のような一つの壮大な「非」規範的仮説のようなものであって、

その理論自体が何かを示唆することはあっても

「予測」が出来るような代物ではないといった理論だといいます。

つまり、<規範的かつ予測可能な定量的>科学理論ではないということです。

とはいえ、このような性格を宿した<カタストロフ理論>も

『関数の特異点の分類という高度に数学的なモデル』(本書107頁)によって

支えられているためにその「数学」に対する一般的イメージ像にあるような

どうしても<計量可能>な科学理論だと誤解される余地があったというわけです。

こうした一般的な数学「観」への誤解についても

著者によって丁寧に解きほぐす解説をなされていますが、

必ずしも現代数学が定「量」的志向性だけで発展してきたわけではないことは

すでに先に若干程度提示させて頂きましたが、

定<性>的な側面も強く現れ出てきているのが

現代数学の中でもとりわけ高度に抽象的な「位相幾何学」の分野であります。

「この世界は一体全体どのような仕組み(時空構造)で成り立っているのだろうか?」

この人類の問いかけがなぜ長年月続けられてきたのかというと

繰り返しになりますが、この世界での安心(定)感を強く欲してきたからでありましょう。

例えれば、<有限時空間=生の領域>であり、

<無限時空間=(人間によってそう名づけられてきた)死の領域>という

区分けをこの世界に設定することを通じて

そうした<無限=死>領域への恐怖感を押さえる知恵と工夫によって

ここまである程度まで乗り切ってきたと言い換えることも出来ましょう。

ですが、

人間(ここではあくまでも一般的な現生人類に長年月共有されてきた<人間>像)が

このように<有限性>を色濃く有した存在であり続けてきたからこそ

ある意味で幾何学の世界もかくまでも豊かな世界像を描くまでに

至ったのだとも言えます。

そうした人類の太古からの幾何学の歴史の流れの中で

科学観の変遷も位置づけ直すとするならば、

ニュートン時代の頃までの古典的科学観が捉えてきた宇宙への時空感覚が

「静的=過去と未来という<時>を現在という一瞬に閉じ込めた」

いわゆる『閉じた宇宙』(本書146頁)に安心感を見出してきたのだとすると、

20世紀以後の相対論や量子論が開拓していくことになった時空間モデルでは

特に「アインシュタイン型相対論」に関する解釈像では微妙なところで

そう解釈していいのかどうかは問題もありますが、

一般的には「歪んだ」時空間をモデルとした宇宙観へと転換していったことからして

絶えずこの世界は動態的にゆらいでいるものとして描かれるようになってきました。

それはすなわち『開かれた』(本書146頁)宇宙ということになります。

その宇宙時空間構造における「ゆらぎ」の実像を巨視(マクロ)的に

また微視(ミクロ)的に解析していく過程を通じて

現在のいわゆる<散逸系>力学理論も多種多様に発展してきたのでした。

その<散逸系>に関する独自解説をあらためてここで始めますと

煩瑣になり長くなってしまいますので、

本書での<散逸系>(本書108~119頁)解説に委ねさせて頂きますが、

この章で著者が言わんとされてきたことを簡約すれば、

現在の<カタストロフ理論>を現実の複雑きわまりなく変化(容)する

諸現象を記述するために編み出された<散逸系>力学においても

それをそのまま当てはめることが出来る領域は著しく狭いということに尽きます。

この<カタストロフ理論>自体がまとめにもなりますが、

あくまでも定<性>的な性格を色濃く帯びた<一般的>科学理論ということに

あったわけですから、当然「おおざっぱ」な性格を有するわけでした。

つまり、著者が<カタストロフ理論>の紹介を通じて

本章で現在の幾何学理論が再提示してきたのは

<計量可能>な「科学的」志向性よりも

むしろ<計量不可能>な古代のプラトン的幾何学観(つまりは、

<形而上学的=直接経験し得ない領域を「直観」的に眺めて捉えたイメージ概略像を

説明的に捉える学問的発想・探究思考>のこと)を再評価するような見方を

示唆するところにより強い意義・役割があったということです。

そこから見えてきた世界や皆さんにも一度は考えて頂きたいテーマが

本章のこの<カタストロフ理論>に対する<批判>論考文(本書136~146頁)中に

あるわけですが、特に生物学の領域において

あたかも「位相幾何学」が提示するような見方が導入されるようになってきたことです。

それが形態形成>論なわけですが、

この学問領域を真摯に深く探究していけば、

近現代学問理論や「分類学的」視点を大前提に世界を「わけて」見る発想を

暗黙の了解事項として発展してきた過程で大混乱の種を世界へまき散らしてきた

大本の根源を完全に除去することまでは難しくとも

軽減し得る1つの道すじを付け直すきっかけになるかもしれないという希望が

湧き出てくるようです。

この「分類学的」発想や視点もあくまでも複雑な事象や現象を

便宜的に説明記述していくための道具立てとしては便利だったわけですが、

これが一般的な人文社会科学(政治や経済、社会・文化一般)にまで

安易に字義通りに当てはめた解釈像として受け入れられ

世間一般にまで深く浸透していけば

さらなる「差別」や「偏見」を助長促進する母胎ともなり得るわけです。

もともとこの世界は絶えずゆらいでいるからこそ、

世界を「わけて」見ることなど根本的には出来ないはず・・・。

そうした問題意識から近年すばらしく活躍されてきた学者さんに

福岡伸一先生がおられます。

こうした「分類(分離)」思想を解毒していく触媒としても

著者によってあらたに色鮮やかに蘇生された幾何学的世界観にまで

想像の翼を広げて頂ければ本書ご紹介の意義に叶います。

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④『第4章 終わりと始まり』

※さて、最終章にまでやっとこさ辿り着きました。

このように時空観を捉え直す問題意識から

現在にまで至る数理的記述形式が描いてきた変遷史をざっと眺めてまいりました。

私たちは「時」を交えた4次元時空間の中に存在しているわけですが、

人類はこの「時」を「空間」という入れ物に閉じ込めることで

動きを瞬時に止めて静的に安定した時空間構造に満足したいとの

長年の願望によって、

ある意味で4次元を3次元空間に閉じ込める時空間意識に

理想を見出してきたかのように感受されたわけです。

とはいえ、こうした「時」を瞬間の「空間」に閉じ込めるような発想は

いみじくもポアンカレなどによる批判を嚆矢として

徐々に打ち崩されていくようになりました。

人間とは誠にもって複雑な性格を宿した生き物です。

その端的な表れこそが時空間への接し方に滲み出ています。

「静的」な時空間への憧れ=「一所にじっと落ち着きたいねぇ~」。

「動的」な時空間への憧れ=「自由に世界を飛翔したいねぇ~」。

言ってみれば人類史を大きくも小さくもその性格動向を見積もれば

この「静」と「動」の<はざま>をしばしば揺れ動いてきたということになります。

その「振幅度合」によって個人の人生も世界の歴史も

大きくうねり続けてきたということになります。

本章ではそんな「時」に対する「静」と「動」の2つの対照的な流れに対して

数学はどう接してきたのかがヘラクレイトス(『万物は流転す』、

本書の表現によれば『同じ川には二度と入れない』本書148頁)や

ホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』などの文学作品で描かれた

「時」に対する比喩が示唆する物語を素材に

本書における時空探索旅行の締めくくりとともに

まとめられていきます。

「時」に対するより奥深いイメージ像は「静(古典的決定論型時空観)」にも

「動(近現代的非決定論型時空観)」の両極にもあるのではなく

その<はざま>にあるだろう・・・。

著者はここでプルーストの『失われた時を求めて』において

提示されたような時空観や

ダーウィン流の「進化論」がその生物<形態形成論>を提示することを通じて

<時の流れ>そのものをも捉え直すきっかけを提示下さったように

どうも私たちは『決定論的かつ目的論的かつカオス的』な時空世界にも

住んでいない生物のようです。

こうした暗示的な時空観への示唆とともに

ある画家の「隠者」が観照に耽る絵によって触発されていく

この世界に隠されていた「暗号」解読への

あらたな旅立ちに私たちを誘ってくれています。

それにどのように応えるかという「問い」は

まさに「時空」そのものを生きるということであります。

「この世界はあらかじめ決定しているわけでもないし、

予定調和的に完結しているわけでもないらしい・・・。」

そこにある人は「絶望」を見出し、

ある人はまた「希望」を見出すのでしょう。

「世界の<ゆらぎ>に対して、私たち人間の方からも

<ゆらぎ>でもって応答するからこそ1つの固定した世界に

収束するわけでもない・・・。」

あたかも私たちが1つの固定した収束地点という世界を生きているかのように

感受されてきたのは後から評価を下したうえでの「錯覚」であって

その地点を歩いている途上では複数ある分岐点をそれぞれに迷いながら

1点から1点へと連続した世界を歩いているように見えて、

それぞれの別世界をまるで「飛び石」をぽんぽんと飛び跳ねて戯れる

幼き子どもたちや恋人同士のように離散(跳躍)的に

飛び移っているだけなのかもしれませんね。

そんな世界観もある種の『パラレルワールド』ですが、

私たちはこうしてあらためて本書に触発されながら

時空探索のコンパスと地図を再設定し直してみると

また魅力的な世界を再創造する勇気が湧き出てくるかもしれませんね。

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・<訳者あとがき>

・付録1<ポアンカレの主題による前奏曲と遁走曲>

・付録2<ファイゲンバウムの分岐>

・<参照図書など>

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歌劇『新撰組コンチェルト~狂奏曲~』(OSK日本歌劇団)のロックなリズムとへヴィメタルな皆様の生き様に<活力>を頂いた『平成』最終幕の幸せなひとときに感謝と乾杯を捧げます!!

さて、今月もすでに締め切り間際になってしまいました。

今月は本業(生活費獲得稼業)は3月期決算棚卸し作業があって

いつになくせわしなく、

また様々なイベント事であちこちと飛び回っていました。

本業にも直結する自前研修も

大阪市立中央図書館で先だって開催された

大好きな『パインアメ』で有名な地元大阪の天王寺に本社を構える

『パイン株式会社』様の上田社長の丁寧なレジュメ資料と

会社案内本とお土産まで頂き本当に有り難いひとときも過ごすことが叶いました。

「正」社員に危機意識がなく自前での社内研修(教育)すら

満足に出来ていない(受けさせられない)環境に

身分不安定な「非」正規社員である我が身が

身心ともに犯されなくて済むように(つまり、この先どこに行っても

皆さんのお役に立てるよう)意識をもって学んできました。

不安定な身分に明日の生存への恐怖感を掻き立てられている焦りを

悪用した下手な有料セミナーに誘導され、

ただでさえ経済的に苦しい身から

身ぐるみ剥奪されないように自己防御の道を探っていけば

自治体や公共機関が提供している民間との共催セミナー・講演会も

探せば世の中にはたくさんあるものです。

世の中には「捨てる神あれば拾い上げて下さる神」様も

必ずどこかで潜んでいらっしゃるものです。

そうしたチャンス(好運の女神様)を掴むのも

要は皆さん1人1人の意識次第で何とかなるものです。

世の中には諦めずにいれば助けて下さる奇特な方もいます。

とはいえ、そのような奇特な方に出会えるためには

こちらからも自分が出来る限りの「助力」を

社会に差し出さなくてはなりません。

世の中をより良き方向へと変革していくには

「誰かがやってくれる」などという甘い依頼(期待)心を

捨て去らなければなりません。

それに「正」社員も「非」正規社員も

各種ハンディキャップを抱いている者であろうと関係ありません。

先人も文字通りそのような「命がけ」の想いでもって

この国の行く末を考え、見守ってきたのでしょう。

だからこそ、「今がある」のです。

今年はまた選挙の年でもありますが、

そのような皆さんの想いと行動によって

世の中を良くしていく姿勢を示していこうではありませんか?

すでに終わった選挙でも棄権率も問題ですが、

一番許し難いのが「無投票」当選問題であります。

地方議員の場合には「リコール(解職)」制度もあるわけですから

きちんと働いていない「なんちゃって」議員は

どんどん皆さんの力で淘汰させなくてはならないでしょう。

これなど我が国の民主主義が健全に機能していない証左でありましょうよ・・・。

それはともかく

また名古屋からの友人の「おもてなし」まで急に予定が入った月でもありました。

さらに個人的なことになりますが、

友人知人からも読書会に向けてのレジュメ原稿創作依頼まで

有り難いことに頂きました。

BI(ベーシックインカム)読書会の延長で

今まで世間では狭い範囲でしか論じられてこなかった

経済的機能論ではなくして

社会哲学論的に解読した『貨幣論』についての話題書であります。

まだ先にはなりますが、また追ってその模様なども

読書会開催終了後に

その際に使用させて頂いた講義用客観資料としてのレジュメに

主観的論評や会合話題などを加筆編集したうえで

書評向け記事に仕立て上げて公開投稿する予定でいます。

精根と愛情を込めて少しずつ準備していきますので

温かく見守っていて下さいね。

乞うご期待願いますとともにいつもみんなありがとうね。

あらたな社会保障制度のあり方の一環として我が国では

まだまだベーシックインカム制度に関する理解の不徹底や

賛否両論渦巻く状況にあります(否定論があっても別にかまいません。

管理人自身は賛成論の方に若干程度傾いてはおりますが、

これも日本人の勤労観(意識)と相当強く重なってくるテーマで

ありますから、そう簡単には導入の道すじすらつかないだろうことは

想定の範囲内ではあります。

とはいえ、現状のところ、「おかね」の概念やAIによって仕事や

人間そのもののあり方すら大きく変わろうとしている時期であります。

それに伴って従来の教育や仕事観も進化していく途上にあります。

これだけは誰しも否定し得ない紛れもない事実なわけですから、

こうした議論自体を回避したり封殺することがあってはいけません。)が、

時代が大きく変わろうとしている時には

何かのあたらしい制度を考案していくにも

頑固な思考癖はある程度までは解きほぐしていかなくてはならないからです。

人それぞれの思想性や日々の生活行動基準における嗜好性に

<こだわり>があることはいっこうに構いません。

それは管理人とて同様です。

ですが、このような変動目まぐるしい時代だからこそ

日頃のご自身が抱いている(かれてきた)価値観とは

対立する見方にも少しばかりは目配せして頂きたいのです。

そのような柔軟な姿勢を持てば対立する価値観にも

短所ばかりではなく長所もあることも自ずと見えてくるのではないでしょうか?

それが無用な対立と混乱を回避する道にもつながるものと確信しております。

その意味で管理人は数理的「集合論」や「関数論」に基づく

あらたな価値意識<指標(マトリックス表)>を

独自にマインドセットする道を探究している途上にいます。

その参考として過去の先人バートランド・ラッセル

ホワイトヘッドによって切り開かれた道へと

これから本格的に進んでいく位置に立ちつつあるようです。

「あるようです。」とは他人事のようですが、

自身の立ち位置を客観的・俯瞰的に厳しく見据えたうえで

こうした思想哲学を<導きの糸>としながらも

思索の途上で進路変更していくことも大いにあるからです。

なぜならば、「思想哲学とは他人が辿った道すじをただ単に後追いすることで

終始するわけがなく必ず独自にしか<わかりえない>領域が切り開かれており

現在は<未知>のその領域へと少しずつ歩を進めていくのが

つまるところその人固有の生きる道」だと確信しているからです。

このような自身の人生体験とともに歩む学問を

倦まず弛まずに続けていくことさえ出来れば

教条的なイデオロギーや変な新興宗教や経済的詐欺に巻き込まれる<リスク>も

軽減され得るでしょう。

<不確実>な時代を生きるには是非こうした姿勢を

皆さんにも共有して頂きたいのです。

そうすれば、

不安に駆られて他者を操作支配する悪魔の誘惑にも誘われずに済むでしょうし、

『自己信頼』(エマソン)どころか『相互信頼(扶助)』の世界へと

必ず導かれるはずでしょう。

その思想(価値観)自体が招いた現実の歴史的教訓は

もちろん無視・軽視してよいわけではありませんが、

歴史的に実現していない領域において

そうした対立(というよりも代替)思想や価値意識が

もたらすアイディアには世の中を良い方向に変えてくれる

知恵の種が宿されているかもしれないからですね。

そのように管理人も固定的な観念に出来る限り

束縛されすぎないようにするために対立価値観にも目配せした

魅力的な書籍「発掘」作業を今後とも続けてまいります。

粗製濫造本が量産される超出版不況の時代。

真に必要とされ時を超えて読み継がれていく

「魂」のこもった書物に出会える方が稀な時代になってしまいました。

されども現在の出版物に拘泥することなく

過去の出版物を掘り探し続けていくと

必ずあなた様にも「ぴったんこかんかん!!」な宝の1冊に出会えます。

とはいえ、個人の嗜好にぴったりした書籍だけでは

幅広い興味関心を持っておられる世間の読者様向け<書評>用書籍としては

なかなか満足して頂けることもないのではと推察しております。

ですから管理人も毎回毎回<書評>用書籍選びに

慎重にもなり文字通り難儀しているわけです。

そのあたりの「心」も汲み取って頂ければ本当に有り難いことですが、

それはあまりにも極私的な傲慢な発想になってしまいますから

あえて強要などはいたしません。

ただそのような真摯な想いで管理人も

書評という形態をお借りして創作活動をさせて頂いていることだけは

ご理解頂ければ幸いではあります。

昨日はまた『西九条ブランニュー』様方で

すぐれたへヴィメタルロックバンドやファンの皆様方の

熱き「魂」に共感共鳴させて頂くことが叶いました。

しんどく辛いと思われる人生のひとときに

人によっては喧噪的な音楽だと敬遠されることもありましょうが、

人間の根源的な本能に訴えかける『ロック』音楽の魅力は

何物にも代え難い深い歓びを与えてくれます。

『ホンマでっか!?TV』でお馴染みの中野信子女史の

異色の最新注目書『メタル脳~天才は残酷な音楽を好む~』

(角川出版社、2019年)を読者の皆さんの中で

『メタル』好きの方はもうすでにお読みになられたでしょうか?

この本についてもかつて論評させて頂いたことのある

山野車輪氏の『ジャパメタの逆襲』(扶桑社新書、2018年)同様に

突っ込みたく感受されたところもありますが、

すでに締め切り間際。

ということでこの論点に関するエッセー記事は少しお時間を頂いたうえで

追って当月書評記事内へ後日加筆編集のうえで挿入投稿させて頂くか

また機会をあらためた別途書評記事「枠内」の

いずれかに挿入投稿させて頂くことをご了承下さいませ。

このように多忙な日々を過ごしている管理人ではありますが、

辛いと思うことはあまりなく充実してはおります。

とはいえあまりにも多忙というよりも活動的になり過ぎても

身心の健康にはあまりよくありませんね。

『働いたら負け』とまでは言いませんが(笑)、

もう少し余裕の持てる心身共に健やかな心地で

その人自身にしか出来ない<仕事>に携わることが叶う

『遊び心』を伴う経済環境が整えられていけば理想的ではあります。

世の中には一生懸命「根を詰める」ことが出来るタイプの人間もいれば、

ところどころで軽やかに遊びつつ一歩ずつ前進しながら

<仕事>に取り組むことしか出来ないタイプなど

本当に多種多様な人間で満ちあふれているのが

この宇宙の『実相』でもあるはず。

にもかかわらず、「働き方」や「学び方」、

さらには「生き方」や「死に方」にまで一律の「枠(足枷)」を

嵌めようとする抑圧的非人道的世界観は

誰しも納得し得ないはずです。

「ベーシックインカム」制度がこのような状況を抜本的に

<バラ色>のように変えてくれるなどといったナイーブな発想は

さすがに管理人も持ち合わせてはいませんが、

少しばかりは「改善」の余地も出て来ることは期待されます。

もっとも反対者の方が危惧されておられるように「改悪」の余地も

あるわけですが・・・。

そこは皆さんとともにさらなる理解と知恵を積み重ねていくほかありません。

さて、いよいよ春が到来してきました。

「時」がまさに移り動く節目の『桜咲く国』の桜がはらはらと舞い落つる季節。

そんないにしえの敬愛する歌人西行法師も憧れた季節。

そんな時節に管理人も想うのです。

今後この国を取り巻く情勢がいかに激しく動揺を迎えようと

若者がまわりの老獪に立ち回る悪い大人の判断や思惑に振り回されずに

自ら熟慮決断したうえで、しかと前を見据えて真剣に生きておれば

きっと輝かしい煌めく時代を切り開くことが出来るのだと・・・。

いつの時代も先に生きている壮年層の判断の狂いが

後に続く青少年層を争いの渦中へと招き入れ、

時代の犠牲とされていきます。

そのようなことがあってはなりませんが、

要領よく小賢しく立ち回るだけの大人になることが

「円熟」に成ることの別名だと思い違いされ、

それが単なる老獪な生成化育した醜い姿だけだとするならば・・・。

それは後続次世代に対してあまりにも無責任な姿勢でありましょう。

特に社会の中枢を担おうとする間際にいる

現役世代の真っ只中かつ超氷河期に辛うじて何とかやりくりしながら

曲がりなりにも社会に居場所を見つけることが叶った30代~40代の方にこそ、

共にこの国と世界を担う若者たちを見守って頂きたく願うのです。

管理人はそのために『誠』と『忠』の道に励むべく

これからも皆さんとともに歩み続けます。

昨日の『西九条ブランニュー』<IRON BOUND VOL.33>で出演されていた

管理人が敬愛し皆さんにもお伝えしたい『BLACK YAK. 』さんではなくして

初縁の『Black Cat』さんに所属されているギタリストさんの

ギターにはまさにいみじくも『至誠』の装飾が。

何かの<奇縁>とはこのことでしょう。

音楽の「信念(誠)」をもって生きるロックな魂を宿した

サムライたちでした。

そんな彼らの音楽は意外にも洋楽志向の英語の歌詞が満載。

というよりも今回出演されていたバンドさんには

いまや世界で活躍飛翔されようとする

国境を越えたいわゆる進化した<ジャパメタ>に仕上がっていた方々が

多く見受けられたようです。

外国の方も観覧されていて片言の英語を話す

ちょっとした知的リハビリ体験もあり

会話を楽しむことも叶いました。

ここ『西九条ブランニュー』様は外国から来日されたバンドさんや

外国人と邦人との混在バンドさん(今回もまたおられました。)など

毎回毎回多彩な顔ぶれに出会えることもまた

たまらない魅力を醸し出しているところにユニークな特徴があります。

いつの日かあの有名な番組である

『Youは何しに日本へ?』の取材場面にも出会うことが叶えば

有り難いことですね。

緊張するでしょうが・・・。

また魅力的なバンドに出会えて感謝。

昨日は本当にありがとうございました。

そしてお疲れ様でした。

今後ともますますご活躍して頂きたいバンドでした。

他のバンドご紹介につきましては

ひとまずまた追って追記ご紹介させて頂くことご寛恕願いますが、

『至誠』と『桜咲く国』とつながったところで

タイトルにありますOSK日本歌劇団様による

阿倍野『近鉄アート館』での

歌劇公演『新撰組コンチェルト~狂奏曲~』もまた

躍動感溢れる熱誠が漲った舞台<活劇>でありました。

管理人は関西人しかも河内人ですから

『新撰組』よりも『天忠(誅)組(管理人は一般に流布されてきた

おどろおどろしい<誅>ではなく<忠>こそが

彼ら彼女ら(女性も支えていたのです。)の願いだったでしょうから

<忠>派なのです。)天道と天朝様に<誠>をもって

忠義を尽くそうとされたはずだからです。)』びいきですが、

いまひとつ『新撰組』以上に理解されていません。

しかもこの『天忠組』はその後の薩長マキャベリズムや原理主義とも

異なる理念を掲げていたといいます。

それは後の世の現在でも未解決の真の四民ではなく万民(類)平等をも

導かんと強く欲する『一心公平無私』の精神を掲げていたからです。

かの西光万吉さんも実はこの『天忠組』に関する<戯曲>を

お書きになっておられたことはあまり知られていないようです。

やはり政治的な「色眼鏡」が着色されてしまうと

その人の思想哲学も生き様も誤解されていくようで悲しく思います。

とはいえ『新撰組』の方に人々のひいきが向かうのも

やはり現代日本を形成していった薩長主導政府の下で<逆賊>扱いされ

いわゆる<英霊>扱いすらされずに過酷な断罪を被った

悲劇の一語では言い尽くせないほどの

筆舌に尽くしがたい扱いを受け続けたからでありましょう。

とはいえ将軍以下の幕府の官僚連中とて卑怯千万な振る舞いが

一部ではあったことも忘れてはなりません。

歴史や人物を評価する時には公平な目で眺めることを

忘れてはなりません。

歴史が崩壊する時節には必ず上層部からの崩壊がまず先にあり

存外一般大衆の方が冷静でしっかりしているものです。

斎藤一氏などはまさしくそんな心に傷を宿した

最後のサムライであったようですね。

『Black Cat』さんが出たついでに『黒猫』。

敬愛する陰陽座のボーカリスト黒猫さんではなくして

沖田総司を連想させる「黒猫」です。

これも某有名作家の創作だと評価されているそうですが、

人間の儚さ、もの悲しさを体現したり

癒してくれるのが猫の魅力なのかもしれません。

最近はちょっとした猫ブームだとも聞きます。

猫にちなむ話題書では

最近の管理人が一押しの大佛次郎氏も大の猫好きだったそうで

猫にちなむエッセーも残されていたようですね。

最近書店を巡回していてふと気になりましたので

ご興味ご関心ある読者様にはご紹介しておきますね。

そんな沖田総司君にも魅力がありますが、

やはり斎藤一君ですよ。

ちなみに斎藤一役の天輝レオさんは

「メチャメチャ格好いい男役」でしたね。

それはともかく・・・。

この舞台の優れていた点は

まさに『新撰組』に属する若者たちの「想い」と

彼らに掣肘を加えられていった対立志士の「想い」の

双方の「残念・無念」感がよく対比的に描写・活写されていたことです。

だからこそ涙を流すほどに

彼女たちをあたかも<霊媒役>さながらにして

現代を生きる老若男女の<魂>に訴えかけるものがあったのでしょう。

こうした歴史の暗闇の中で死んでいった数多くの有名・無名の

先人の方々がいて下さったからこそ

私たちも曲がりなりにも独立国に住まわせて頂くことが叶っているわけです。

「歴史とはただ単に記<録>するだけではなく記<憶>するものです。」

それも<教科書的知識事例>としてではなく

<魂>に焼き付ける死者からのいわば「生命転写エネルギー」であることを

片時も忘れ去ってはなりません。

優れた芸術(能)とは、そうしたかつて在りしヒトやモノ・コトに宿る

<魂>を再現する生きた人間的営みなのです。

俳優とはいにしえには<わざおぎ>と表現していたようです。

能楽鑑賞などを嗜む方ならご存じかもしれませんが、

この<俳優(わざおぎ)>の原義・語源には

『神を招(お)ぐ(=まねく)態(わざ[=振る舞い])』

『日本語表現インフォ』から転記)を指すといいます。

ですから芸術(能)に携わるほどのプロであれば

単に技術が卓越しているだけでは足りないということです。

まさに「芸は人なり」だということです。

アマとプロの分水嶺はここにあるのだと

先週末晩には名古屋からお越しになった友人と

甲子園談義をする中でプロ野球の面白くなくなった理由を

語られていた際にも「なるほど!!」と思わせられたのでした。

また昨日のバンド演奏の評価をめぐっても

やはりアマで終わるのかプロで終わるのかを巡っての

(つまりは継続的な安定した固定客層を基盤に

ファンが次第に増殖していき本業として食っていけるのかどうかということ。

アマ『一過性』に対してプロはメジャーデビューするかどうかはともかく

『継続性ある存在』だとのこと。

そのためには贔屓のファンこそがある意味で時には手厳しい批評をして

差し上げることも愛情だというような趣旨の内容でした。

あまり傲慢なファンにはなりたくありませんが、

むしろバンドに敬愛の念を持つファンだからこそ親身になって

意見や感想を率直に申し上げることも必要なのではないかと・・・。

現に昨日の『西九条ブランニュー』様でも意識の高いバンド様は

こうした意見や感想聴取を積極的にアンケートご協力の形でなされていました。

そのことはアマであろうがプロであろうが本気であるならば

自ずとそうした姿勢に現れ出るということなのでしょう。

そうした問題意識とも重なり合いますように

書籍出版業界においても『悪貨が良貨を駆逐する』(グレシャムの法則)ような

現象が多発・常態化しない理想的な市場環境が創造されていくように

願っているわけですね。

昨今の我が国の論壇事情や書籍出版分野に限っても

なぜいわゆる『仲間内』論壇だけが雨後の竹の子のように生い茂って

粗製濫造されてきたのだろうかや

一般読者層の真の需要から乖離していっているのかなどといった批評が

続発してきているのも良心的な批評家がそれだけ少なくなってきたからでしょう。

資金力や社会的立場(肩書き)に物言わせた

いわゆる『優越的地位の濫用』(独占禁止法)ばかりの

悪徳商法があまりにも横行し過ぎているように感受されます。

誠に悲しき現実ではありますが、

現代高度資本主義経済社会における創作物に対する評価が

必ずしも客観的かつ公正になされていくという保証は

どこにもないようですね。

だからこそ<経済(金銭換算)的>評価など

あまり当てにならないわけですね。

管理人も<骨董趣味>や独自のルートでの<骨董品業界者>との

ご縁もありますことから書評にも役立つと思い

ただ今『真贋力』を磨く修業の身ではありますが、

商品を実際に鑑定評価していく訓練を通じて

つくづくとこのような想いが募っていくわけです。

書籍でも音楽でもいわゆる『絶版』や『絶盤』にこそ

素晴らしく良質な作品が眠っていることがあるからです。

特にメジャーデビューを果たさ(せ)なかった創作品や創作者に

素晴らしく魅力的な品格が宿ったものが数多くあります。

そうした人物や作品には実際に足を運んで触れ合ってみなければ

ついぞこうした「歓び」に出会う機会はないでしょう。

「出会い」の歓びとはそんな「場」にこそ潜んでいるからですね。

こうした感覚を磨いていくと

マルクス(主義)思想のような知的観念遊戯論からの見方ではない

<価値>と<価格>との乖離現象に関する

実践的な『ほんまもん』の評価が

読者の皆様でも次第に出来るようになっていくものと確信しております。

こうした<心>はいわゆる『オタク』さん(今や死語ですが・・・)と

揶揄されてきた方ほどご理解されているのではないでしょうか?

このように世の中とは「逆説」と「矛盾」だらけなのです。

その「すきま」をいかに賢く生活していくかが

人間的な<知恵>というものだと考えています。

AI(人工知能)にはこうした微妙な質感をもって

評価し得る<知恵>などついに備わることはあり得ないことでしょう。

人間がこれ以上愚かになり下がり続けなければの話ですが・・・。

そうした文脈からも管理人は昨今楽観的に論じられてきた

資本主義への各種バージョンアップ論(例えば、『資本主義○○』など)や

いわゆる『評価』経済論には今ひとつ信用することが出来ないわけです。

読者の皆さんはこうした有名人や有識者と称される人々によって濫発されていく

勇ましく超楽観的な高度資本主義経済『革新論』に対して

どのように感受評価なされていますでしょうか?

ご意見などお聞かせ願えればこの『場』からも

世間でのより良質な<対話>の機会を創造していくことも叶いましょうから

奇特な方には是非ご協力して頂ければ幸いであります。

そうした観点からこれまでご紹介させて頂いてきた書物と

それを創作された著者に対しても

時に手厳しい批評にもなっているかもしれませんが、

それは創作者全般への愛情を込めた

より志高き<飛翔>と創作品への質量向上を願った想いの現れで

あることをご寛恕下さいませ。

そういう想いですので、あくまでも<励まし>と

優れた創作者や創作品をもっと世間に幅広く知って頂きたいという

願いこそが当書評での姿勢でもあるわけです。

特に昨今のインターネット業界での情報に対する

質量ともに対する世間からの評価はますます厳しくなってきております。

管理人もこのような情勢に鑑みて、より良き品質向上に向けて

努力を積み重ねていく所存ですが、

今後とも自他ともに力不足だと感受評価される論考箇所も

多々出て来るでしょう。

創作者にとっては誰しも一般鑑賞(覧)者からの手厳しい批評は

正直言って心苦しく出来れば目を背けたくなる場面もありましょうが、

そのような創作者以外の目線から見た評価も勉強になるわけですから

そこから逃れるわけにはまいりません。

そうした問題意識と理念から管理人もコメント欄を

設定させて頂いてきました。)その分水嶺はどこにあるのかに関する

ちょっとした議論をご一緒に観覧していた方と語り合ってもいました。

これなどは「仕事=お金を頂くもの」というイメージ像も

近未来変わっていくのかもしれませんが、

わざわざお客様に「お金」まで支払って頂けるということの

意味を再度考えさせられた一幕でありました。

「お金」は後からついてくる・・・とは言いますものの

普段の仕事の中でどれほどこの大事な「心(=仕事の原点)」に

絶えず振り返りながら没頭されているでしょうか?

逆に言えば、現代資本主義経済社会の暗黙の了解事項である

評価基準である<金銭換算評価>がたとえ良かろうが悪かろうが

常に謙虚になって良質なモノやサービスを生み出していく努力を

続けていく姿勢を示すほかに安易な「金儲け道」など

あり得ないということでしょう。

「継続は力なり」は生半可な気持ちで貫徹することなど出来ません。

やはり何かを<仕事>としてなすということは

それが他人様のお役に立ちたいという強い念願と確信があるからこそ

成り立つ人生の一大事業だということになります。

管理人も哲学者ハンナ・アーレント氏によって提起された

近現代労働観に対する問題意識を共有しながら

<労働>と<仕事>と<活動>をわけた考察もしてきましたが、

真摯に他者へのご奉仕という姿勢で日々実直に取り組んでいけば

厳密にはそんな区別など完全にはつけられないのだという

意識に今では思い至っております。

ですから、必ずしも管理人自身は

<労働>そのものを苦役だとか苦行だとか思って

近現代<労働>観に批評を加えてきたわけではなく、

その「価値付け」にしても時代に応じて変遷していくことを大前提に

皆さんにもこれからのAI(人工知能)との協働社会において

一度は再検討してみませんかと呼びかける意図で

論じさせて頂いてきたにすぎないことはご了承願います。

後ほど<参考文献>としてご紹介しておきます

⑥『あたりまえを疑う勇気』

(植松努・清水克衛共著・編集、イースト・プレス、2019年第1刷)

という書物でもこのような<労働>観や<教育>観の見直しなき

ベーシックインカム制度の我が国での導入は難しかろうとの

ご意見も提出されていました。

この点につきましては管理人も傾聴すべきご意見だと感受いたしました。

(但し、特に植松努氏のミクロ経済の企業現場で技術者としての視点から

批評されていたマクロ経済政策論に対する見方や

原発(代替エネルギー)論に対する論評ご意見には

管理人自身は懐疑的な立場でありますが・・・。

「消費」や経済「成長」を悪いイメージで捉える方が

経営者ですら後を絶ちませんが、そのようなイメージ像が

巡り廻って自社の経営環境を悪化させる要因になり得るまでの

想像力に弱さを感受したからですね。

「消費」も「投資」とほぼ同義なのは

かのケインズ卿も強調されていたことでした。

「供給」も「需要」も双方が重要なことは当たり前です。

デフレ時代は「需要(消費+投資)」不足時代でありました。

今は過渡期のよくわからない時期に当たりますが、

少しずつ「供給(生産)」不足も出始めつつあると同時に

一般国民の「賃金(所得)」は頭打ち。

少しばかり上昇したとはいえ、

各種「増税」や「保険料」、諸「物価」の上昇で

またもや<相殺(そうさい)>や<減殺(げんさい)>に遭い

景況も折れようとしています。

この『平成』時代=「失われたウン十数年」の間には

実際にはこの双方ともが毀損されていった時代なのです。

すなわち、国力の「縮小(衰退)」化過程だったわけです。

ある亡くなった有名な方が遺言のように提言されていましたが、

『「平成」とは何もしなかった時代』などと言えた義理があるものでしょうか?

責任の取り方としてあまりにも理不尽きわまりなく感受された一コマも

ありました。

企業というミクロ経済の現場で「改善」作業に常に取り組み続けることは

資本主義が「革新」精神を持つ者に有利に働く以上は

<当然の事理>ではありますが、

経済も経営も現実に動かしている主体は何よりも『人間』なわけですから

個々の努力をどこまでも無理強いすることなど

いかな経営者と言えども叶いません。

植松氏の『人間』資本主義へのご理解や提起されているお考えには

おおむね管理人も共感は出来ますが、

『合成の誤謬(ミクロ経済の現場では正しいとされる判断も

マクロ経済の現場では常に正しい結果となるとは限らない、

もしくはむしろ悪化することもある!!という命題のことです。)』という

歴史的教訓も是非ご理解して頂きたいと強く感受したからです。

特に「失われたウン十数年」を心ならずも過ごさざるを得なかった

世代からするとこの世代に属する読者からは

かなりの違和感を持って批評されることでしょう。

いわゆる『デフレスパイラル』の恐ろしさは

商品の価値が製造した途端から根こそぎ殺がれていくことと

人間の尊厳が毀損されていくこと。

現場に「ゆとり」が出てこなくなるために

社員教育すらまともに成し遂げることが叶わなくなってしまうなど

様々な弊害が積み重なるわけですね。

デフレ経済においては『「賃金(所得)」よりも「物価」の方が

先に下落していく』という傾向にあることから

一般には『実質(手取り)』賃金率が高まるとはよく指摘されていますが

それは初期の頃のお話だけで、

やがて「賃金(所得)」のいわゆる<下方硬直性>も

掘り崩されていくことになります。

これまでの「失われたウン十数年」が表面的には豊かに見えたのは

あまりにも過剰在庫が多すぎたため、あるいは海外から安価なコストで

入手出来るようになったからで、国民「所得」が一見向上したかのように

見えるのは幻想でありましょう。

むしろ海外と比較すれば国民の「貧困化」は

より一段と深く進行していたのです。

そしてこのデフレ経済化においてコスト削減のために

人「財」教育すら怠ってきたつけが

ついに近未来の供給不足問題の「種火」ともなりつつあるのが

目下の日本経済の現状でありましょう。

この間の国民の「分断化」現象を甘く見られては困ります。

次世代へのツケとはかくほども恐ろしいものなのです。

本来ならば今のこの時期、

企業現場での中枢的「指揮官」となりうべき存在だったはずの

30代後半~40代の世代層がうまく育つことが出来ずに

仕事における技術や各種の実践知が伝達困難な事態へと

招かれてきたこともここにあるわけです。

ですから決して国家のマクロ経済政策の重要性を

軽視してはならないわけですね。

ですから今の30代後半から40代の

いわゆる「ロストジェネレーション(ロスジェネ)」層は

50代~60代の後ろ姿をよく見ていることを

決してお忘れなきように願いたいのです。

管理人は何よりも同じ日本国民同士の「分断」を恐れる者の

1人であります。

こうした想いを持った読者や若者層もいることを

忘れないで頂きたいのです。

管理人は今連休に日本人にとっては神聖なある場所へ出かけるに当たって、

戦没者の遺書を読み進めている途中でもありますが、

上層部が腐敗していき、また優秀な将校が戦病死していくことにより

指揮権が下士官や一般兵に下降移動していくにつれて

人間がいよいよ<消耗品>扱いされていった様子に

深い悲しみと憤りを覚えています。

大方公表されてきた遺書には直接このような「心」は

書き残されていませんが、その行間を真摯に読み込むと

そのような深い悲しみと憤りもまた確実に存在していたことも

浮かび上がってきます。

日本型組織の問題点は昨今各所でも話題となっておりますが、

こうした現場「指揮官」が次第に減少していくことで

国土が焼尽化されていったことは絶対に忘れてはなりません。

その果てに日本の「滅亡」があったわけです。

幸いにも戦後には不死鳥のごとく見事な「復活」は

成し遂げましたが、日本人の人間としての『魂』は

もはや死に絶えているとしか言えない寒い状況にあります。

それでも「心ある」若者も確実に一定数存在してきた(いる)からこそ

辛うじて「(半)独立」を保持し得てきたわけです。

しかしこれから先どうなるかはわかりません。

すべては1人びとりの「独立」への気概のみにかかっています。

『学徒』出陣の歴史的教訓や戦没者の命の重みを忘れてなるものですか・・・。

いわゆる政治的「左派」はもとより

意外にも自称「保守」層で我が世の春を謳歌しているかのような作家や

「非」人間にこのようなご英霊の「真心」を感受しようとされない方々が

近年ますます世間に跳梁跋扈していますから要警戒警報であります。

「神様」の言之葉を軽く見てはならないのです。

『歴史の連続性を取り戻す』だとか

『<日本>や<日本人の魂>を取り戻す』だとか勇ましいかけ声だけは

世間を賑わせておりますが、

どれもこれも上辺の言葉だけに感受されるのは管理人だけでしょうか?

「天」からの厳しいお諭しのお言葉を聴くにつれて

ついつい我が「荒魂」も迸ってしまいました。

とはいえ、管理人の願いは『<荒魂>を<和魂>へと転ずること』に

ありますから、ちょうど新元号『令和』の真義

皆さんにもこの時期に深く想像をして頂くきっかけとなりましょうから

語らせて頂きました。

この『令和』の出典とされる『万葉集』には

かの<海ゆかば>の原典となった和歌も採録されております。

戦時中とこの天平文化花開いた『万葉』の頃では

その歌に込められたニュアンスも大きく異なりますが、

「この日本を皆とともに盛り上げていきましょう。

その大事業のために生き死にすることこそ深い歓びであり

誇りである」との雄叫びだったわけです。

そしてこの時代の<海ゆかば>は国際色も強く帯びていたのです。

それが奈良の大仏開眼供養式典に集約されていったのでした。

管理人は幼少期からこの飛鳥から天平白鳳時代がことのほか好きなのです。

どこか「懐かしい」日本と世界の原風景を感受するからですね。

その意味ではこの『令』は冷たい感じを正直管理人も公表当初の

第一印象では感受いたしましたが、『和』との間で

硬派と軟派との<調和>を志向したものだと捉えれば

少しずつ皆さんも新元号に馴染まれていくのではないでしょうか?

新元号には様々な意見が飛び交っておりますが、

素直に新元号『令和』への門出を皆さんとともに祝福しましょう。

そんなことを上掲書の植松氏のご発言内容に触発されて

最近強く思い感受し続けてきたことに触れさせて頂きました。

植松氏のような方なら敬愛していますし、悪意など毛頭ありませんが、

あえて管理人の父親世代にも同じようなある種の固定観念というのか

頑固さというところが共通しているようでいて

まるで父親に対して私たちの世代の想いを必死に伝えようとしても

届かないもどかしさを感じているような気分がいたしましたことから

あえて諫言申し上げた次第であります。

ほかに他意などございません。)

ただ「楽(らく)」を求める方向で働くことを考えるのではなくして

「楽(たのしく)」自他共に無理なく自然体で

心地よく働くことが出来るようになるためには

「いかなる姿勢を持てばいいのだろうか?」

この本ではそのようなヒントが満載であります。

是非ご併読もお願い申し上げます。

そんなわけで今回は芸術(能)活動を参考に

読者の皆さんにも「働くこと」の意義について

あらためて考え直して頂くちょうどほどよい機会だと捉えましたので、

『平成』最後の日をまもなく迎えるに当たって

徒然思うがままに語ってみました。

それではお時間になりました。

「新元号になりましても皆様が幸せの日々を送られますことを

お祈りしつつ・・・」お別れの言葉に代えさせて頂きます。

<追記>

『平成31(2019)年4月1日新元号<令和>公表おめでとうございます。

世界の弥栄と皆さんの新たな門出も祝して和やかなることをお祈りいたします。』

IMGP1364

(伏見中書島 西へ徒歩10分ほど 三栖神社境内の桜です。

以下すべて管理人撮影)

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(上記『三栖神社』から出てすぐの橋から京阪電車鉄橋へ向けて撮影)

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(伏見中書島 『長建寺』出てすぐの船着き場沿いの桜です。)

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(京都 北野天満宮西隣『平野神社』の桜です。学生時代以来ご無沙汰の桜の名所。

久方ぶりに桜咲く時期に訪れた思い出がたくさん詰まった憩いの場所ですね。

昨年6月に堂本印象美術館などに立ち寄った際に一度参拝したのですが

その時は被害前でした。今回は被害後。1日も早い再建復興を祈願いたします。)

IMGP1375

(北野天満宮境内の桜です。)

IMGP1380

(鴨川沿いに咲く『松原橋』側から『団栗橋』と『四条大橋』へと向かう

散策途中にあった見事な桜です。

管理人としては『四条大橋』北側よりも五条寄りの南側のこちらが

落ち着いていてオススメですね。

黄昏時のひとときが往時の悲哀史とも重なり合って

現在の恋人たちが仲良く寄り添って等間隔に座る憩いの場からは

およそ想像もつかないギャップを感じるからなおさらです。

かつてはここは『六道の辻』へと向かう冥界への入口なのでした。

そして『松原橋』こそがあの弁慶と牛若丸との出会いの場所だったとか・・・。

16日生まれで閻魔様とは親しい『半身棺桶』(山田風太郎)的世界観を

強く感じて生きてきた管理人にとってはご縁ある場所だからこそ

余計にそのようにゾクゾクするものを感じるようですね。)

IMGP1378

(ちなみに冥土つながりで『北野天満宮』南側に15分ほど歩いていくと

『北野商店街』から西の大将軍方向にかけては

妖怪好きにはたまらなく魅力的な通称『妖怪ストリート』もありますよ。)

最後までお読み頂きありがとうございました。

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<参考文献>

①『カオスとフラクタル~非線形の不思議~』

(山口昌哉著、講談社ブルーバックス、1996年)

②『<最強の教養>不確実性超入門』

(田淵直也著、ディスヵヴァー・トゥエンティワン、2016年)

③『<新版>動的平衡~生命はなぜそこに宿るのか~』

(福岡伸一著、小学館新書、2018年第9刷)

④『<新版>動的平衡2~生命は自由になれるのか~』

(同上、同上、2018年初版第1刷)

⑤『<改訂版>可能世界の哲学~「存在」と「自己」を考える~』

(三浦俊彦著、二見文庫、2017年)

⑥『あたりまえを疑う勇気』

(植松努・清水克衛共著・編集、イースト・プレス、2019年第1刷)

をあわせてご紹介しておきますね。

あらためて最後までお読み頂きましてありがとうございました。

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