スティーヴン・ワインバーグ博士の『科学の発見』科学史(哲学)の世界に大論争を巻き起こした注目の書を読む!!
『科学の発見』
米国のノーベル物理学賞受賞者スティーヴン・ワインバーグ博士によって
世に大論争の種が蒔かれた話題書。
古今東西の科学史を現代の価値基準で捌ききった独自解釈に
異論続出中。
「物理こそ科学の先駆け、科学の中の科学!!」
やがて、諸学問は<万物の統一理論>でもって統合還元されていく!?
科学主義VS科学精神など考えさせられる刺激的テーマが満載です。
今回は、この本をご紹介します。
『科学の発見』(スティーヴン・ワインバーグ著、赤根洋子訳、大栗博司解説、文藝春秋、2016年第1刷)
スティーヴン・ワインバーグ博士(以下、著者)は、
量子論の統一理論へ向けた電磁力と弱い力を統合する
いわゆる<ワインバーグ=サラム理論>で、
1979年にノーベル物理学賞を受賞された「理論」物理学者です。
一般向け邦訳書には、『究極理論への夢~自然界の最終法則を求めて~』
(ダイヤモンド社、1994年)や
『宇宙創成はじめの三分間』(同上、1995年)などがあります。
このように著者は、宇宙論や天文学にも大変造詣の深い「理論」物理学者であり、
その他にも幅広い教養を持ち合わせた科学者として高い評価を受けられています。
その豊かな学識の一端は、本書第2部<古代ギリシャの天文学>などの項にも
多々見受けられます。
本書は、原書『To Explain the World: The Discovery of Modern Science』を
全訳させた邦訳書です。
本書全般にわたる問題意識は、後ほど本文内の要約項目にて
ご紹介させて頂くことにしまして、
本書における独自目線での主張が、
著者が属する物理学界だけではなく、
論考に関わる周辺の学問分野にも大きな波紋を拡げていく
衝撃波になったことで一躍話題となりました。
本書は、テキサス大学での教養学部生向けに行われた
科学史講義がもととなって執筆されたものといいます。
そのため、まだ科学的知見に十二分な目配せが行き届いていない段階にある
初学者が対象だったことから、学問的誤解を招きかねないとする
教育的配慮からなされた批判もさることながら、
その独自主張が、
いわゆる「ホイッグ史観(現代の価値基準で過去を裁く歴史観)」と目され、
各界の専門家からも、大反発の嵐が巻き起こる原因となったのです。
本書は、「<理論>物理学者」から批評された科学「史」が主要テーマです。
科学「哲学」の要素も多々含まれた論考も満載ですが、
まずは、現代最先端の物理学から見た(といっても、著者独自の
物理学観によるものですが)科学「史」に
大幅な批評が加えられているところに本書の一大特徴があります。
著者は、「理論」物理学者の立場から、この壮大な科学史を論じられていますが、
科学の本質を一言で要約すれば、厳密な「観察」「実験」を通した「実証」に
力点を置くところにあるといいます。
ですから、「理論」とは、
絶えず修正を受けざるを得ない「仮説モデル」だということを
最大限に強調されておられます。
科学における「理論」とは、そうした性格のものであることを明示することで、
科学とイデオロギー(主義)との大きな相違点をも説明されています。
つまり、科学<主義>ではなく、科学<精神>を日々養成し続ける
弛みなき努力こそが、科学者には必要不可欠だということになります。
とはいえ、本書が大論争の的にされたきっかけには、
著者独自の主張(解釈)が大きく絡んでいるだけに、
その理解のされ方によっては、誤解も生み出したようです。
それが、単なる「誤解」なのか、科学を含めた各学問の本質に適合した
正当な「反論」だったのかどうかは、
本書を読み解かれる各読者のご判断次第ですので、
ここで管理人からの「断定的判断」を提供することには
慎重でありたいと願っていますが、
読了後に感じ、考えた一応の独自考察の跡は、
本記事最終項目にて語らせて頂くことにしましょう。
ということで、本書を通じて、
「科学的精神とは何ぞや?」から
「科学と諸学問の性格面における比較分析考察」などに至るまで幅広い観点から、
皆さんにも独自に叩き台として知的体操をして頂くのに
適した教材ではないかと思い、
今回はこの本を取り上げさせて頂くことにしました。
ちなみに、本書が欧米論壇で物議を醸したのは2015年だったそうですが、
2016~2017年にかけては、
世界的な知性がもっとも厳しく吟味される時期だと強く実感させられましたので、
本年初春に取り上げるに相応しい書物だと判断させて頂きました。
「物理学」は科学の中の科学、ましてや万学の先駆け?? ~危うい物理学<帝国主義>志向に各界から大反発が続出!!
それでは、本書の内容構成に関するご紹介へと移らせて頂くことにしましょう。
その前置きになりますが、
特に(管理人含む)「文系」読者層へ向けた老婆心ながらの
本書ナビゲートアドバイスです。
<はじめに>(本書10~16頁)で、
まずは著者の問題意識を掴み、全体像を把握して頂いたうえで、
各部と各章の「冒頭」に掲げられた手短に要約されたリード記事を
読み進められると、理解の促進に役立つものと思われます。
また、各部・各章で何が議論されているのか
途中で袋小路へと迷われた際には、
適宜<目次>で確認されることをお勧めします。
さらに、参考図書や補注、テクニカルノートも充実していますので、
本書で紹介された論点に関する著者なりの証明方法を追跡確認されるなど、
各読者の趣味・嗜好や多種多様な用途によって
幅広くご活用して頂くこともできるような教育的配慮もなされています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここからは、本書の内容構成の要約に入ります。
①<はじめに>「本書は不遜な歴史書だ」
※本書では、冒頭でもお伝えしましたように
現代科学が到達した次元から科学「史」に批評を加えながら、
科学の本質に迫っていく分析考察手法が採用されています。
本書での主眼点は、『世界の探究の方法を人類がどのようにして
習得するに至ったか』(本書12頁)にあると宣言されます。
その目的は、「現代」科学とそれ以前の「古典」科学との間には、
分析考察方法論のうえで
大きな「壁」が立ちはだかっていたことを示すことで、
その違いを明らかにすることにあります。
そのため、著者の目線は自ずと「現代から過去へ」遡って評価を下すという
手法になります。
言い換えますと、「現代」科学の価値基準を尺度にして、
その「古典」科学がどれほどその創造発見に寄与したか否かの
距離度合によって、プラスマイナス度が厳格に判定されるということです。
著者は当初、本書原題のサブタイトルを「Invention(発明)」にしようか
「Discovery(発見)」にしようかと迷っていたそうですが、
下記の趣旨から「Discovery(発見)」に決定されたといいます。
このタイトル名称の変更は、「文系」型人間からすると些細なように
思われますが、きわめて重大な意図が込められていますので、
著者の目的意識をより明確にするために丁寧に引用しておきます。
・『科学は、たまたま成し遂げられたさまざまな発明の歴史として
あるわけではなく、自然のありようこそが科学のありようを決めているのだ』
・『時代遅れの社会構成主義者と距離を置くためである』(本書13頁)
この「社会構成主義」とは、科学「哲学」の分野で取り上げられることが多い
一つの科学へのものの見方(解釈像)ですが、
『科学のプロセスのみならずその結果までも、特定の文化や社会的環境が
人工的につくりだした』ものと説明する思想観であります。
(本書は、科学「哲学」が主題ではありませんので、以下の本文内では
軽く抑えておきますが、詳細を知りたい方には、前にも別著でご紹介させて頂いた
森田邦久先生の『科学哲学講義』(ちくま新書、2012年、161~166頁)
などをご一読されることをお薦めします。)
この「社会構成主義」に対するイメージは、科学「哲学」に造詣が深い方であれば
ご存じのように、トマス・クーンの有名な「パラダイム論」によく似ていると
思われるかもしれません。
本書の著者自身は、このクーン・パラダイム論については
あまり詳細に触れられていませんが、
上記の森田邦久先生によると、この「社会構成主義」とは、
『このパラダイム論をよりラディカル』(同上161頁)にしたもののようです。
ちなみに、著者は<第1部>第3章(本書52頁)で
クーンのアリストテレス哲学に対する見方を批評されています。
いずれにしましても、著者の立場では、
この「社会構成主義」や「パラダイム論(その時々の時代思潮によって科学理論も
変化変容を受けるとの見方)」を採用されていないところに特徴があるようです。
著者によると、『現代科学は、黎明期の科学とは別物』であり、
『現代科学の結果は無機的で、人間的判断とは関係ない。』(本書15頁)だと
繰り返し、様々な科学「史」の事例分析を引き合いに強調されています。
どうやら、本書を読み解く際に、この「人間的判断」が一つのキーワードに
なるようです。
この「人間的判断」については、前にもご紹介させて頂いた「人間原理」とも
絡む一大難問でありますが、著者自身はこのように強調されますものの、
「現代」科学の主流理論とされる量子論の世界ですら、
やはり、「観測(者)問題(ここでは、観測事実をどのように理論に
適合するように解釈するか)」も関係してくるだけに、
後ほど別立て項目でも再度検討させて頂きますが、
回避不能もしくは著しく困難ではないかと、管理人には思われるところです。
著者は、この難問を「ファインチューニング(俗に言う<微調整>)」として
厳しく自然科学の世界から排除する姿勢を打ち出していますが、
著者自身の「ワインバーグ=サラム理論」に至る独自の<場の量子論>を
形成されていく過程で、
いわゆる「繰り込み手法」を導入するヒントに至る
若い時期における原子軌道計算でのエピソードでもだいぶ苦労されたことも
あるようです。(本書151頁ご参照のこと)
(なお、「ファインチューニング」の概要につきましては、
ウィキペディア<階層性問題>をご参照下さいませ。)
それほど著者は、予測を立てた自身の「仮説理論」と「実測」との整合性に
注意を払い続けておられたということです。
「厳密さ(100%の完全性までは難しくとも・・・)」を
いかにして保証確保していくかが科学の本質だと主張されます。
そのような姿勢でしたから、16~17世紀のいわゆる科学革命が
起きるまでの「古典」科学に対して、
現代的基準をもって非常に厳しすぎる判定を下されています。
そのあたりは、「あまりにも酷な批評!!」ではないかと
管理人ならずとも思われますが、
案の定、この点に、各界からの非難が著者に集中したようです。
そのことを著者もやはり実感されたのか<不遜な歴史書>だと
まず最初に刺激的な宣言をされています。
「なんとまぁ、大胆不敵なことでありましょう・・・」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
②<第1部>「古代ギリシャの物理学」
・第1章 まず美しいことが優先された
・第2章 なぜ数学だったのか?
・第3章 アリストテレスは愚か者か?
・第4章 万物理論からの撤退
・第5章 キリスト教のせいだったのか?
※第1部からは、著者のそのような立場より「古代」ギリシャ科学については、
「まだまだ科学とも呼べない代物!!」だとの叫び声が聞こえてきます。
古代ギリシャ科学を展開していった各著名人物の科学観や
その分析考察方法については、
ここで逐一ご紹介することは煩瑣になりますので、
詳細は本書をお読み頂くとしまして、
一点だけ捕捉説明させて頂きますと、
プラトンのような「真・善・美」といった「人間的判断」の色濃く反映された
「イデア論型科学観」やアリストテレスの「目的」志向を伴った
ある種の「予定調和論型科学観」に厳しい判定が下されています。
「古代」ギリシャ科学にも、多少は「実用化」傾向もあったものと推測されますが、
著者は、およそ「実用化」とはほど遠い科学観だったとして論旨展開されています。
(もっとも、著者の全体的な科学観では、即効的な「実用化」路線に
科学の価値基準を置きすぎる俗論には否定的な見方であるようですが・・・)
また、古代から中世にかけては、
数学と科学、科学と哲学には厳密な区別がなかったことも指摘されています。
著者の「数学観」の一端については、本書41頁に示されていますが、
下記のように考えられています。
・『数学は、物理原則の結果を推論する手段』
・『数学は、物理学の原理を表現するのに必須の言語』
・『しかし、数学は自然科学ではない。観察を伴わない数学それ自体だけでは、
世界について何も説明することはできない。逆に、数学の定理は、
世界を観察することによって証明したり反駁したりできるものではない。』と・・・
物理学者にも英国のロジャー・ペンローズ博士のような
数学者気質をもった科学者もいますが、
著者の感覚では、
『数学者の書いたものは、厳密さに対する彼らのこだわりのせいで、
物理学にとってはほとんどどうでもいいところでややこしくなっている』
(本書42頁)そうです。
そのうえで、『過去半世紀にわたる素粒子の標準モデルの研究において、
数学的厳密さの追究がその発達に貢献した例は一つもない。』(同頁)などと
手厳しい診断を下されています。
このような「断言」までされてしまうと、
さすがに他分野の学者も黙ってはおれないでしょうね・・・
その後、古代ギリシャ人の科学的叡智は、エジプトで花開き、
やがてはイスラム圏で「再」発見されていくようになります。
このエジプトでは、タレスに見られたような「万物理論」の探究が
次第に衰退していくと同時に、天文学などの「実用化」志向へと
移行していくきっかけが形作られていきました。
「それでは、なぜ、古代ギリシャ科学は衰退していったのか?」
著者は、エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』などを引き合いに、
科学に対するキリスト教を主とする宗教的見解の優位によって
科学的「理性」が次第に萎められていったことに
一つの仮説を提示されています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
③<第2部>「古代ギリシャの天文学」
・第6章 実用が天文学を生んだ
・第7章 太陽、月、地球の計測
・第8章 惑星という大問題
※第2部では、著者のもう一つの「顔」である天文学者の
面目躍如たる姿が垣間見られます。
ここでは、アリストテレス派の「同心天球説」と
プトレマイオス派の「周転円説」の対立を主軸に
天文学が次第に整えられていく様子が詳細に描かれています。
よくありがちな誤解として、「地動説VS天動説」が
古代から中世にかけての天文学における大争点とされているようですが、
著者は、そのような表層的な見方だけでは、
この時期における論争の本質が掴めないと強調されます。
著者によると、『古代及び中世の天文学のおもな対立点は、
「地動説か天動説か」ではなかった。対立していたのは、静止した
地球の周りを太陽や月や惑星がどのように運行しているかに関する、
二つの異なる理論だった。そして、その対立の大きな部分を
占めていたのは、自然科学における数学の役割に対する考え方の違いだった。』
(本書115頁)とされています。
そのことは、「占星術」観点からの見方と「天文学」観点からの見方を
大きく区分させていくきっかけともなったようです。
以後、科学の実用化志向から「占星術から天文学へ」と
移行していくことになるのですが、その過程では、まだまだ観測技術の進歩も
未熟だったことから、純粋な「仮説モデル」と数学的精緻化作業による
「ファインチューニング」の歴史的展開がくり返されたようですね。
その観測技術の進展から、
より観測「事実」に即した理論修正が施されていくまでには、
ニュートンやケプラーなどの活躍を待たなければなりませんでした。
まとめますと、著者の立場は何度も繰り返しになりますが、
「科学は、<実証>こそ命!!」の世界観ですから、
<実証>による裏付けのない理論修正(つまりは、ファインチューニング)には
容赦ない姿勢を崩しません。
そのことが、<理論を調節するこじつけ「ファインチューニング」の罠>
(本書118~123頁)で詳細に語られています。
このように高度な問題意識を持って語られた本章を読むだけでも
本書は、良質な天文学「入門書」の役割も果たしてくれますし、
観測「事実」と「理論仮説」との距離を微調整しようとする誘惑や罠に
科学者が陥りやすい傾向への警鐘ともなってくれています。
この「ファインチューニング」問題は、単なる技術的問題に止まるうちは、
科学者に知的謙虚さが備わっていれば、軌道修正がそのうちになされ、
挽回の余地もあるようですが、
謙虚さに欠け、名誉心などによる欲望の暴走が始まれば、
論文捏造問題などにまで発展しかねないだけに
科学者なら誰しも慎重な姿勢で探究を進めなくてはならないと
襟を正させる超重要問題だということを
あらためて認識させてくれるテーマであります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
④<第3部>「中世」
・第9章 アラブ世界がギリシャを継承する
・第10章 暗黒の西洋に差し込み始めた光
※本章では、これまでの世界史の解釈では、
「中世とは、何も生み出さなかった単なる暗黒時代」との見方が多かったところ、
まったく何も生み出すことのなかった不毛期ではなく、
将来の「科学革命」を発芽させるために必要な準備期間だったとの見解が
示されていきます。
その影の立て役者こそ、
イスラム圏の勃興発展とともに急成長を遂げていった「アラブ科学」でした。
中世ヨーロッパにおいて、
キリスト教との対立に明け暮れた古代ギリシャ科学の残滓は、
ヘレニズム時代~アラブ・イスラム時代の主要拠点エジプトを中継点としながら
後世の「科学革命」へと引き継がれていくことになりました。
このエジプトの首都アレクサンドリアは、言うまでもなく
「ヘレニズム文化」の象徴的英雄であったアレクサンドロス大王の名にちなんで
名づけられた都市ですが、ここに「ヘレニズム科学」の発展に寄与した
ムセイオンという学術研究機関(今ならさしずめ大学などの高等教育研究施設)と
アレクサンドリア「図書館」がありました。
ここでの学術的伝統を引き継いでいったのが、
アッバース朝時代に設立されたバイト・アル=ヒクマ(「知恵の館」)でした。
世界史を選択された方ならご存じでしょう。
ここから「アラブ科学」は世界へと飛び出していくことになり、
現代の数学を始めとする理数系用語にも影響を及ぼしています。
そうです、皆さんがよくご存じの「アラビア数字」ですね。
このイスラム帝国時代のアレクサンドリアに、
世界各地から様々な文化資産が持ち込まれます。
「アラブ科学」については、従来の西欧中心史観を採用した
世界史教科書ではあまり詳細に取り上げられることがありませんでしたが、
第9章は、その数少ない貴重な情報を与えてくれる箇所であります。
そのようなあまり一般には知られざる「アラブ科学」の流派についても
丁寧に触れられているところにも本書の優れた点があります。
わけても圧巻なのが、<銀河の存在がはじめて記録>(本書148~
149頁)や<アラブ科学衰退期に現れた、コペルニクスの先駆者>
(本書160~162頁)が紹介された項目です。
とはいえ、「アラブ科学」も「古代ギリシャ科学」同様に、
宗教との相剋が大きな壁となって立ちはだかったのでした。
そのあたりの事情は、現代にまで影響が及んでいるようで、
著者の友人だという敬虔なイスラム教徒だったパキスタン人の
物理学者アブドゥッサラーム氏との思い出話の挿話とともに
触れられています。
ちなみに、このアブドゥッサラーム氏は、
イスラム教徒としては始めて科学分野における
ノーベル賞受賞者となった方だといいます。(本書168~169頁)
そして、第10章では、長年のアリストテレス派VSプトレマイオス派の
大論争をも吹き飛ばす見方が、復活してきます。
ここに、「地動説」が新たに息を吹き返すことになります。
以後、この「地動説」が定着していくまでの歴史的過程が
解説されていきますが、まだまだ宗教による科学への圧迫干渉が
止むことはありませんでした。
また、それまでの天体の軌道モデルについても、
「円形から楕円形へ」と実際の観測結果から軌道修正が施されます。
それが、ケプラーの有名な3法則に結実していきます。
<第4部>の次章では、ガリレオ=ガリレイについても詳細な解説がありますが、
その生涯は、まさに「科学が宗教と分離していく第一歩!!」だったようです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
⑤<第4部>「科学革命」
・第11章 ついに太陽系が解明される
・第12章 科学には実験が必要だ
・第13章 最も過大評価された偉人たち
・第14章 革命者ニュートン
・第15章 エピローグ:大いなる統一をめざして
※本章では、著者による『科学革命は確かに存在した』(197頁)の
論証作業に紙面が費やされています。
いよいよ、「科学革命」の親であるニュートンの登場ですが、
この時点(17世紀)では、まだ完全には、
他の学問分野と科学との棲み分けは完了していなかったようです。
しかし、やがて科学単体で独自発展を遂げることになり、
細分化・専門分業化していき、
各学問分野との「対話」が疎遠となっていく節目の時期とも
なりました。
そして、科学は「実験」「観察」という<実証>が
その屋台骨だということに、その本質が方向付けられていきます。
ここからは紙数の関係上、一気に「現代」物理学の最前線へと飛び出します。
逆説的ですが、その<実証>作業が不可欠な「現代」物理学の最前線では、
その観測技術の進展における限界から
大きな壁にぶち当たっているようですね。
つまり、「超」マクロな相対論が対象とする世界や
「超」ミクロな量子論が対象とする世界に、
<実測・実証>作業が追いつかないという現象が多発してきたのです。
そこに再度、「理論」が「実証」に優先するような事態が立ち現れたというわけです。
ここに、現代物理学の難問が潜んでいるようです。
それでも、現在の最先端物理学では、著者などが探究してきた
<場>の量子論などのアイディアを駆使して、
そのマクロとミクロを結合させようとする努力が積み重ねられています。
それが、「万物(大いなる統一)理論」への見果てぬ夢であります。
このテーマを追究するに当たって、
物理学は、数学や化学を組み入れることに成功しつつあるというのですが、
天文学や生物学がその前に立ちはだかります。
著者は、この生物学ですら『物理学を基礎とする(不完全ながら)
統一された自然観に組み入れられた』(本書343頁)と
科学における物理学の優位性を自負されておられるようですが、
ここに著者への批判も集中することになりました。
物理学が対象とする「無機物」と生物学が対象とする「有機物」との
融合は、そう思われるほど容易い仕事ではないからです。
ましてや、哲学や宗教となると・・・
ある意味では、<万物の理論>への願望も度が過ぎると、
またあの曖昧模糊とした「中世」や錬金術などの呪術的世界観とも
抵触する危険を冒すことにもつながりかねませんので、
ここから先はやはりもう一度科学の本質へと立ち戻って、
これまで築いてきた人類の壮大な知的財産を整理・整頓し直す
慎重な点検作業を通じて、
決意を新たに再出発すべき時期に当たるのが
「現代」科学の重要課題ではないでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
⑥<巻末>
・テクニカルノート
・注
・参考図書
・訳者あとがき
・解説「なぜ、現在の基準で過去を裁くのか」
(「理論」物理学者:大栗博司)
※ちなみに、大栗博司先生のブログはこちらをご閲覧下さいませ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
本書は、このように古代から現代までに形作られていった科学「史」を
著者ご専門の物理学を主軸に解説展開されてきましたが、
本書から読み取れることは、
科学とその他の諸学問の決定的相違点はやはり<実証性>の担保に
あるということに尽きるようです。
ですから、<実証>できない、もしくは、しづらい対象物を
分析考察するには適さない領域も多々残されているのではないかとの
素朴な疑問点が最後に浮かび上がってきました。
著者の科学観や歴史観にも様々な立場からの批判が当然予想されるところですが、
果たして、物理学だけが、「万物の親」または「科学の中の科学」とまで
言い切れるものなのか否かには、
なお十二分に厳密なテストにさらされる必要があるようです。
このような著者の見解に対しては、昔から物理学が何でも説明し得るとする
知的傲慢さを指して、「物理学<帝国主義>!!」などと
厳しく批評・揶揄されることがあります。
こうした当然巻き起こるであろう各界からの大反発に
今後どのように「説得的」に応答していくかが
著者の課題となりましょう。
著者が強調されてきた物理学の利点とは、
<「記述」ではなく「説明」するということ>(本書138頁)にあるといいます。
単なる「記述」に尽きるものではなく、
森羅万象に宿る隠された「実相」から
普遍的な「一般法則」を抽出してくるのが、
物理学の使命だとされています。
それは、「より基本的な」根本を探究することですが、
同時に「よりシンプルな」実像をこの世に映し出す作業でも
あります。
このあたりを深く追究していくと、
「複雑→単純→複雑→単純・・・」とまるでメビウスの輪のように
循環構造の中をグルグル回り続けるだけに終始するようにも予感されるのですが、
私たちの肉眼では、この一見したところの「もっともらしさ」に
よく騙される性格が生来的に備わってもいるようです。
このようなことをつらつらと考え続けていくと、
「物理学」と「心理学」の境目も曖昧模糊となっていきそうですが、
このテーマは、管理人自身の個人的ライフワークとも問題意識が重なってきますので、
これ以上無理に筆を進めますと、
読者の皆さんへ誤解と混乱をもたらす要因ともなりますので、
この難問の探究は、ここでは一旦保留させて頂きます。
今後の書評や管理人自身の研鑽とともに少しずつその一端を
世に提示していければと願っています。
ということで、本書は、物理学を主軸に解説された科学「史」ということで、
科学の本質追究を主題とした「刺激的書物!!」であります。
このあたりで本書の要約ご紹介は終わらせて頂くことにしまして、
以下では項目をあらためて、最後にもう少しだけ
科学者も当然「人間」ですから、
有するであろう「価値観」が
科学の世界にも紛れ込むおそれがあるのか否かについて
検討してみることにします。
「科学精神」とは何やろか?? ~科学といえども一定の<価値観>を含むことは回避不能!?
それでは、この問題を少しだけ考察しながら
最後のまとめに代えさせて頂こうと思います。
著者も、物理学者も「人間」であることから、
少なからずの「人間原理」による観測者効果による
影響を受けてきたことを考慮されています。
そのため、科学的知見の確実性とは一体いかなるものかということを
本書における古代から現代に至るまでの多種多様な事例を
分析観察する過程で「検証」作業を進められてきました。
その「検証」過程を通じて、「科学精神とは何か?」についての
著者なりの一応の解答例を提出されました。
それによると、最初からの「確実性」の追求がかえって、
科学的知見の「発見」を遅らせる(せてきた)のではないかとの
見通しが提示されました。
古代から現代に至るまで、人類は、いわゆる「真・善・美」という理想を
自然界に求めて、飽くなき探究を積み重ねてきました。
その結果、人類が獲得したのは、
これらは、各人各様の主観性に左右されやすい志向性であり、
世界に混乱と対立の種をばらまいてきただけではないかということでした。
かくして、科学と哲学・宗教との分離へ向けられた意識が
特に19世紀末期から20世紀初頭にかけて高まっていきました。
それでもなお難しかったのが、
この世界の裏側に潜む「実相」を理解するためには、
各科学者の世界観が大きく関与していたということです。
「現代」物理学の黎明期に起きた最大の悲劇と管理人自身が
思われるマッハとボルツマンとの大論争などはその最たる例でしょう。
「世界観(つまり、それによる科学的論証方法の立て方・志向性)」よりも
「科学的<発見>」そのものが
あたかも軽視され、脇へと押しやられるかに見えた時期もあったのです。
この難点は、今なお、相対論と量子論の間で激しく闘われていますし、
その各流派の内部でも、各科学者によって導かれた観測結果に対する
解釈を巡って混乱が続いています。
と言いますのも、最初の方で語らせて頂きましたように、
もはや「肉眼」では捕捉し難い領域へと、
科学者の目が向けられているからですね。
また、観測技術の進歩が、実際の観測実証に追いつかないという
難題を抱え込んでしまったからです。
その一つの例が、
著者も多大な関心をもって臨んでおられる
この謎の物質・エネルギーも、「理論」によって<予測>されて
導出されてきたモノやコトであります。
また、「重力」そのものの内実などもその全貌は未解明であります。
この内実も著者が関与されて築き上げられてきた<場の量子論>における
「標準モデル」からはうまく「説明」がつかず、
現在のところ、より説得力ある「理論」構築作業とともに
実際の「検出」が待たれている段階にあるようです。
(詳細は、本書336~339頁ご参照のこと)
言い換えますと、観測事実の「実証」よりも「仮説モデル(理論)」の方が
突出してしまっているのが、「現代」物理学だけに限らず、
およそ「自然」科学と呼ばれている分野に見られる傾向だということです。
それでも、人類は、「見かけ」に騙されないように
自然界の「実相」を探究していく手段を開発することに全力を注いできました。
それが、「科学」の本質へとつながっているのです。
上記「標準モデル」自体、まだまだ修正の余地があるようで、
また、<場の量子論>には、この「標準モデル」以外にも
多種多様な「仮説モデル」が提案されているところです。
ところで、この「理論」によって、
実際の「検出」が<予想>できるようになったというところに
「現代」科学が辿り着いた知的成果があります。
例えば、著者が例としてあげられています『標準モデルの電弱部分によって予測
されていた、電気的に中立の重いボース粒子(訳注:いわゆる「ヒッグス粒子」)』
(本書337頁)があります。
そろそろ、最後のまとめに入りますが、
「現代」科学が到達した知見こそ、
<予測可能性>の高さと<再現性>の精確度を
どれほど担保し得ることが叶うか否かだということです。
つまり、「理論」による<予測可能性>と「実証」による<再現性>の
両輪がうまく回転してこそ、その「理論」の<科学的>価値が高まるということです。
また、そのことを追求することで、
人間が有する「価値観(可謬性)」を科学的知見に至る分析考察過程から
可能な限り取り除こうとする強い動機を要請することになったのです。
「現代」科学においても、未解明な事例は山ほど存在しています。
その中にも、「実証」度数を尺度に「理論」の強弱を計りながら、
将来の「物理学」が実現し得る可能性を検討しておられる
ミチオ・カク博士のようなユニークな科学者もおられます。
いずれにしましても、科学精神の本質とは、誤謬が含まれることを恐れずに
探究し続ける<自由な心>とその誤謬が存在すれば潔く認め、
いつまでもその誤謬に固執し続けることなく、
新たな角度から再出発することが出来る勇気と知恵を
兼ね備えた<柔軟な心>から導き出されるものだと言えましょう。
その「心」を本書を通じて、皆さんにも感じ取って頂ければ、
本書に対する「大反発」や
それに対する著者からの「反論」問題はともかくとしまして、
様々な知見が得られるのではないかと思います。
本書を読み進められながら、じっくりと著者と「対話」することを通じて、
自ずから「科学精神」が磨かれていく教材となっています。
本書は、科学「史」が主題でしたが、さらに「科学精神」を深く探究されたい方には、
科学「哲学」の世界にも足を踏み入れられることをお勧めします。
管理人にとって、自分なりの科学的探究を進めていくうえで気になる難問が
前項目最末尾で触れました「物理学」と「心理学」の境目にある
<意識>や<心>(さすがに、<魂>という領域は、その言葉自体に
宗教的要素が含まれますので、科学的な表記としては躊躇しますが・・・)でありますが、
著者自身も、「現代」物理学が、その内実にまで迫りきることが叶うか否かは
かなり困難な道のりを伴うかもしれないと言及されています。
『意識を引き起こす脳内のプロセスというものは充分に理解できるように
なるかもしれないが、意識のある感覚そのものを物理学の用語で
どのように記述するかは見当がつかない。』(本書342頁)と・・・
このあたり、<物理学>と<心理学>の融合地点から管理人なりに
「万物の理論」へと接近しようとする仮称「唯識」<物理学>の課題としても
かなり大きな壁となって立ちはだかります。
なぜなら、一歩間違えれば「ニセ」科学になりかねませんし、
人間の<意識>や<心>の「物理学」的構造をどのように記述表現すればよいかの
方向性の目途をつけることさえ困難だからです。
(例えば、俗流の「思考は現実化する!!」だとか「意識は物質化する!!」などと
いったいわゆる<引き寄せの法則>の現実的発生過程や誰にでも実現可能性があることを
<確証>させることが難しいことは、知的な皆さんであれば釈迦に説法だと思います。)
「心理学」的には、その構造を説明する表現は見つかりやすいのかもしれません
(実際に「心理学」の角度からは、多種多様な「説明」が「仮説」として積み上がって
いるようです)が、「物理学」的にその構造を「説明」するとなると
新たな「時空論」にまで立ち入って検討していくことになりますので、
さらにその見果てぬ夢は遠のくばかりです。
(「時空論」を研究する物理学者の中には真剣に探究されておられる方もいますし、
徐々にそのような頼もしい傾向が見え始めてきているようです。
方程式でもって「時空の超対称性」と「意識」との関係性を記述しながら、
どのように「実証」し、「説明」するかに苦慮されながらも
何かと誤解されかねないアカデミズムの世界では公開することなく、
慎重に慎重を重ねながら非公式に研究されている猛者もおられるでしょう。)
とはいえ、本書や著者の歩みを学ばせて頂いた今となっては、
勇気と知恵もまた復活してきたようです。
「人類は、壮大な夢とロマンを背負って、挫折や対立混乱を経ながらも、
一歩一歩着実に前進し続けてきた・・・」ことを確信することで、
科学者もまた様々な困難や逆境にめげずに、
この世にもあの世にも通じる普遍的真相の端緒を切り開いていったのですから・・・
人間は言うまでもなく<この世>では「有限」な存在ですが、
同時に精神を宿した「無限」につながり得る存在でもあります。
<あの世>の論理の実在性などは、
<この世>にいる人間が、科学的に「実証」する手だてもありませんし、
お釈迦様ではありませんが、基本的には「無記」とする姿勢が
処世上も「賢者の道」なのかもしれません。
それでも、管理人だけではなく、この限られた人生を通じて、
「謎」を解き続けたいとの飽くなき知的欲求を強く抱くのが
大多数の人類の「想い」だと思われます。
そんな皆さんに敬意を表して、
最後に本書から著者の知的歓びに溢れたお言葉を引用して
筆を擱かせて頂くことにします。
『世界はわれわれにとって、満足感を覚える瞬間という報酬を与えることで
思考力の発達を促すティーチングマシーンのような働きをしているのである。
数世紀かけて、われわれ人類は、どんな知識を得ることが可能か、
そしてそれを得るにはどうすればいいかを知った。われわれは目的というものを
気にかけなくなった。そんなことを気にかけていては、求める喜びには
決して到達できないからである。われわれは確実性の追求をやめることを学んだ。
喜びを与えてくれる説明は、決して確実なものではないからである。
われわれは、設定した条件が人工的であることを気にせず実験することを
学んだ。そして、理論がうまく機能するかどうかの手がかりを与えてくれ、
それがうまく機能したときには喜びを増してくれる、一種の美的感覚を
発達させた。人類の世界の理解は蓄積していくものだ。
その道のりは計画も予測も不可能だが、確かな知識へとつながっている。
そして道中、われわれに喜びを与えてくれることだろう。』(本書326~327頁)
ということで、本書は科学の面白さと可能性を伝えてくれますので、
「大論争」に関しては、各読者さんの自由闊達な議論に委ねさせて頂きますが、
好著であることは間違いないと確信しましたので、
皆さんにも是非ご一読されながら、ご自身の「科学精神」を養成して頂く
ヒントになる書物として、お薦めさせて頂きます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
なお、管理人にとっての知的探究の方向性としても面白かった書物として、
本書解説者の大栗博司先生の以下の3冊をともにご紹介しておきますね。
『真理の探究~仏教と宇宙物理学の対話~』
(幻冬舎新書、2016年)
『重力とは何か~アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る~』
(同上、2012年)
『強い力と弱い力~ヒッグス粒子が宇宙にかけた魔法を解く~』
(同上、2013年)
最後までお読み頂きありがとうございました。
sponsored link
[…] そのあたりの問題点は前にもご紹介させて頂きました […]
[…] (スティーヴン・ワインバーグ著『科学の発見』の書評記事ご参照のこと。) […]
[…] 適宜挿入されている脚注(*)にも過去の書評記事でもご紹介させて頂いた […]