松山寛恵老師の「禅 無所得を生きる」を読み、「本来の真面目」を開眼させよう!!
人間は、本来「無一物、無尽蔵」
この一点だけを拠り所にして
「人生街道」を歩んでいけばたいていの難題は
切り抜けることができます。
私たちは、生まれてから死ぬまでに
「余計なジャンクフード」を食べさせられてしまい
迷いが深まってしまいます。
人間の最大の煩悩「小欲」に執着してしまい、
「本来の真面目(しんめんもく)」を忘れてしまいます。
今回は、「人生の究極の極意」を伝授して頂こうと
この本をご紹介します。
「禅 無所得を生きる」(松山寛恵著、春秋社、2001年)
著者は、臨済宗妙心寺派管長も務められた禅僧老師です。
管理人と妙心寺は「妙な縁」がありまして、
あらためて学生時代に思い描いていた「原点」に
立ち返ることにより、皆さんにも
「人間の本来の真面目=本来の姿・初心」に触れて
頂きたくこの本を取り上げてみました。
その前に、管理人と妙心寺との笑える?「ご縁」を
語らせて頂くことにご寛恕願えれば幸いです。
管理人は、学生時代を「京の都」にて過ごしました。
前にも当ブログ記事である、
「毒舌兼好法師の「徒然草」は、隠者ではなく世を忍ぶ仮の姿か!?」
でも語らせて頂いたことがありますが、
仁和寺や妙心寺に近い「御室」の双ヶ岡に下宿していました。
ですので、「妙心寺」さんの境内をよく散歩させて頂きました。
深夜遅くまで「木屋町」や「先斗町」で「飲み遊んだ」後、
下宿への帰り際に境内で「野宿?」しながら酔いを覚まして
いたことも今では「いい思い出」です。
境内は、夜間も「北門から南門」へと通り抜けできるように
なっていたので、よく利用させて頂きました。
「妙心寺」さんありがとう!!
この本に出会ったのも「学生時代(2001年)」頃でした。
古都で過ごしていたことから、「人生を深く味わう感覚」が身に付いたようです。
さすが、「千年の都」です。
境内を歩きながら、西田幾多郎先生のように「自分なりの人生哲学」を模索していました。
そんな経験もしてきたものですから、皆さんにもこの本をお届けしたくなった次第です。
「本来の真面目」に目覚めるために・・・
そんなこんなで「生き方の原点」とは何か?
を考えるようになったのです。
人間生まれ落ちた時と死ぬ時は、「無一文」
なのに、
「なぜ、人は生きている間に先を急いだり他人と比べるのだろうか?」
いつしかそんなことを考えるクセが身に付きました。
ならば、他人よりも遅くてもいい・・・
「ゆっくり気長に人生に取り組んでみよう!!」と。
不思議と今に至るも「厭世観」はまったくないですね。
「禅の魅力」は、とことん突き詰めて一旦「底=絶望の淵」に立ってから、
反転して浮き上がることをイメージさせてくれることだと思います。
「空」・・・
そんな「難しいこと」は、管理人にも分かりません。
理屈ではないですけど、イメージは何となくですが「つかめた」ようです。
「大死一番、絶後に甦る!! 喝!!」
とか、よく言われますが
人間ジタバタしても仕方がない時って、人生には何度も訪れるようですね。
そんな「逆境パターン」に陥った時には、この言葉を「イメージ」するように
しています。
「言葉を理屈で解釈するのではない」のですね。
あくまで「イメージ」です。
「禅の教え」は、徹頭徹尾「イメージトレーニング」だと思います。
「老師」から「公案」を授かった後、何年「座って」考えていても
「大悟」には至らないそうですね。
「不立文字」とも言います。
これは必ずしも「文字での理解」が一概にダメだということでも
ないようです。
「文字」であろうが、「イメージ」であろうが
「分かる人には分かる」が、
「分からない人は永遠に分からない」
そんな感じでしょうか?
日々の生活実践の中、人生をかけて追究していくものです。
「修行に終わりはない」ということです。
「何かを得るには、手放さなければならない」という
ことでもあります。
その「手放すもの」こそ、「小欲」です。
「大悟」するためには、「大欲・大願」をもって「修行」
する必要があります。
そのような過程を経て、「本来の真面目=真我」に
目覚めていき「悟る」
それからの「悟後の修行」からが、いよいよ本番・・・
いやはや「人生は厳しい」ものですね。
人間本来無一物・無尽蔵!!
そのように「人生道場」は厳しいものですが、
懸命に生きる者にとっては、
「いま・ここに」
「徹して」
「生きる」のみです。
「天」から授かった「人生という貴重な時間」を、
あだや疎かには出来ません。
生まれてきたからには、他人のために
「良き種を蒔かなければなりません」
自分の「いのち」を何に捧げるか?
これを真剣に考えて行動することに意味があるのです。
皆さんもそれぞれ「労働観」をお持ちだと思いますが、
「仕事=稼ぐ」というイメージだけで考えていませんか?
それは、本当にもったいないことです。
「仕事」は、それ自体に意味があり価値があるのです。
愛を込めた「仕事」をしていれば「縁のはからい」で
何とか生きていけるようです。
仏教では、「仕事」のことを「作務(さむ)」と呼ぶようです。
21世紀は「労働観」も大きく変化していくことでしょう。
だからこそ、もう一度「原点」にかえって
「無所得を生きる」を実践していこうではありませんか?
般若心経を一部改変引用して筆を擱かせて頂きます。
~以無所得故(所得なきがゆえに)菩提薩埵(ぼだいさった=
菩提心=大慈悲心を起こし)依般若波羅密多故(般若の知恵=空により)
心無罣礙 無罣礙故(心に一点の曇りもなく、晴れ晴れと澄んでいるが
ゆえに)無有恐怖(おそれはない)遠離一切 顚倒夢想
(一切の煩悩=迷い・不安・おそれなどの妄想から遠く離れて)
究竟涅槃(安らぎの境地を目指し)三世諸仏(過去・現在・未来に
渡って仏性を得ると)(中略)能除一切苦(一切の苦しみから除かれる)
真実不虚(これは、真実でありウソ偽りはない)(以下、省略)~
と・・・
※ ちなみに「所得が無い=お金が無い」ではありません。
「こだわりがない」ということでしょう。
なお、「般若心経」について、
「えてこでもわかる笑い飯哲夫訳般若心経」
(笑い飯哲夫、ヨシモトブックス、2009年)
「大丈夫、生きていけるよ(心の友だち)
~へこんだ日の般若心経~」
(明川哲也、PHP研究所、2008年)
を、ご紹介しておきます。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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