時代を切り開く「異端者」であれ!!町田宗鳳さん「異端力を語る」!?
「異端者」
それは、時代の「パイオニア(先駆者)」です。
同時代人には、評価されない厳しい人生が
待っています。
されど、いつの日かその人生が「未来の新たな道」
となるかもしれません。
勇気をもって人生を歩んでいくには、「われこそ時代の先駆者たらん!!」
という気概が欲しいものです。
「いまを生きる」ということは、「未来を切り開く」という
ことでもあります。
人生途上、「勇気がくじける」こともありますね。
そんなあなたに、この本をお届けします。
「異端力~規格外の人物が時代をひらく~」 (町田宗鳳著、祥伝社新書、2012年)
著者の町田宗鳳さんは、14歳で「出家」
京都の大徳寺での修行を経て、34歳の若さにて
「再出家?」をして、大徳寺を離れて渡米されます。
その後、全米の各地を「修行」しながら米国の大学での
「学究生活」を経て、現在は「学者兼僧侶」として、
日本全国各地で「ありがとう禅」という
新たな試みの普及活動をされています。
また、「宗教と平和の問題」を「ライフワーク」に
様々な問題提起もされています。
そんな著者は「半僧半俗生活の魅力」を伝えながら、
「時代を切り開く先駆者」になるような「生き方」を
提案されます。
現代社会は、まだまだ「欲望の争い」の真っ只中にあります。
「平和の使者であるべき宗教家」もいまだに「異端尋問」を
繰り返しているようで、本来の目的を見失っているかのようです。
絶えず「戦争と革命」が人々を悩ませた20世紀の教訓をふまえて、
21世紀に生きる私たちはどのような「生き方」を模索していけば
人類全体の幸福に近づけるのか?
今回は、「異端力」を切り口に考えていきたいと思います。
「英雄待望論」を乗り越えよ!!
人は、「自分の人生がうまくいかないこと」を棚にあげてしまう
悪いクセがあるようです。
世の中には、「他人や世間の問題」について
己の「分限」を超えた論評が幅をきかせているようです。
「悪口、陰口、うわさ話、足の引っ張り合い」などなど・・・
このような「マイナスエネルギー」に人生を奪われては不幸に
なるばかりです。
そのため、お互いに「責任のなすりつけあい」を始めてしまい
あげくの果てには「安っぽい英雄待望論」にしがみついてしまうのです。
「人生は自分が思うよりも短い」
この格言を思い起こして頂ければ、このような「無意味な時間」を
費やす暇はないはずです。
「われこそ時代の先駆者たらん!!」と自覚して生きてきた方なら、
誰でも「異端者」の資格を持っています。
「異端者」は、いつの時代も同時代を「マイナスエネルギー」の中で
生きる人間から迫害されてしまう運命にあるようです。
それでも「異端者」は、そんな世間の反応から超然として
「千万人といえども、我が道を往かん!!」(孟子)
との気概で「自分の人生」を歩んでいきます。
私たちも、「自分の人生を人任せにする」ことから
離れようではありませんか。
皮肉なことに、「他人や世間のせい」にすればするほど、
「自分の人生を他人や世間にゆだねる」ことになってしまいます。
ですから、私たちは「英雄待望論」を乗り越えていかなければならないのです。
「異端者」として生きることは苦難の道ではあるが・・・
しばしば、世の中を心の底から「変革したい」という人々の待望が
「歴史の意志力」して「異端者」を生み出す条件を整えるのだと、
著者は語ります。
著者は、「宗教と平和の問題」が「ライフワーク」であるだけに
「日本の仏教者」を数々取り上げておられます。
もともと「仏教」は、世俗から「出家」するところから創始された宗教です。
世間のあり方に疑問を持ち、「自分固有の生き方を問う」ことを
第一に考えて生きていくことが主眼です。
日本の「仏教界」ほど、「聖と俗の狭間」で激しく揺れ動いてきた「世界」は
ないと思います。
そのため、「仏教界での出来事」は「人間社会の縮図」のようなものです。
この「特異な環境」から数々の「異端者」が現れます。
ところで、日本の「仏教改革者=異端者」を観察していると面白いことに
気がつきました。
仏教以外の「学問の長所」も取り入れているのですね。
そこに「柔軟さ、寛容性」が見られるのです。
しかも、「学問」を鵜呑みにせず自分の人生経験と照らし合わせながら、
「長所と短所の取捨選択」をきちんとしているのです。
現在、世界の「宗教界」の現状を見回せば「原理主義」が復活してきて
いることが憂慮に堪えません。
日本の「仏教改革者=異端者」も「原点回帰」を唱えましたが、
あくまでも「原理主義」ではありません。
「原点回帰思想」には、「温故知新という寛容性」が備わっています。
それが、「異端者」でありながら「社会の安全弁」になっているようです。
一方、「原理主義思想」はどこまでも「我、正しい」の押しつけ論です。
したがって、「原理主義論」と「原点回帰論」は似て非なるものだと思うのです。
「自分だけが正しいと決めつけないこと」と「自分の人生の信念を曲げないこと」は、
決して相対立するものではありません。
「異端者」と自覚して生きるとは、「寛容の精神」を内在化させることでもあります。
東洋文化には、たくさんの「長所」もありますが「短所」もあります。
特に、「儒教の弊害」が大きいと思うのです。
「儒教」は、差別を前提とします。
「自分の出来もしないことを他人に押しつける」という「弊害」です。
「上下関係などを固定化し硬直化」させもします。
そのため、世の中の「進化・進歩を停滞」させてしまいます。
その点、「神道や仏教」には、「変幻自在性」があらかじめ組み込まれています。
「理想は理想としてそこに至る道筋を大切」にします。
しかし、「無理が通れば道理が引っ込む」ということも同時に内在化されています。
「異端者」を排撃せずに「寛容の心」をもって迎えること。
自分自身も「異端者」
他人も「異端者」
「異端者」同士が、互いに争うことなく明るい社会を切り開いていきたいものです。
なお、著者のことがもっと知りたいという方へ
『「グレート・スピリット」の教え~先住民族に伝わる賢者たちの言葉~』
(佼成出版社、2005年)
「なぜ宗教は平和を妨げるのか~「正義」「大義」の名の下で~」
(講談社+α新書、2004年)
を、挙げておきます。
また、本文で取り上げました「儒教の害毒」については、
「儒教の毒」(村松暎著、PHP文庫、1994年)
「儒禍~中国二千年の呪縛~」(黄文雄著、光文社、2014年)
を、ご紹介しておきます。
最後までお読み頂きありがとうございました。
sponsored link