熊野純彦先生の「レヴィナス入門」を読み、この世界に放り出された異邦人としての自分を見つめ直そう!!
熊野純彦先生の「レヴィナス入門」
レヴィナスと言われても、日本では
あまり知られていない哲学者です。
20世紀初頭の激動期に生を受けた
ユダヤ人の哲学者です。
「人間は、ある日突然この世にポーンと突き出される」
このことは、ある意味驚異であります。
人間は、人間である限り絶えず「他者との出会い」に
緊張感を強いられます。
ユダヤ人は、歴史的に少数派にして異邦人として
絶えず迫害の脅威にさらされてきました。
だからこそ、「他者との付き合い方」を
どの民族よりも深刻に問い続けてきました。
今回は、この本をご紹介しながら考えていきましょう。
「レヴィナス入門」(熊野純彦著、ちくま新書、1999年)
熊野純彦先生(以下、著者)は、倫理学がご専門の哲学者です。
学びながら、「他者とは何か?」を問いながら思索を重ねて
こられたようです。
現代日本人の中でも、哲学に興味ある方でないと
あまり知られていないようです。
実は、管理人もこの哲学者との出会いは
今回が初めてです。
「他者に絶えず圧迫感を感じる日々・・・」
管理人を始め「内向型人間」を自認されている方や
変化の激しい現代日本人の中には、案外多くの方が
そのような感覚を抱いておられるかもしれません。
そんな時代状況の中で、あらためて「他者とは何か?」を
考察してみたいと思っていた矢先に出会ったのが、
このエマニュエル・レヴィナスでした。
20世紀初頭の1905年に、ロシア帝国領内の
独立前のリトアニアで生まれました。
ちょうど第一次世界大戦前で、ロシア革命運動も勃発していく
端境期のリトアニアです。
特に、ユダヤ人でもあったレヴィナスは、ロシア内における
ユダヤ人排斥運動から絶えず圧迫されている状況にいたようです。
やがて、落ち着きを取り戻し、リトアニアも共和国として独立します。
このように絶えず迫害にさらされ続けたユダヤ人には、
「他者とは何か?」を問い続ける哲学者が多いようです。
「少数派・異邦人」としてのユダヤ人は、いかに他者と接しながら
生き抜く術を身につけていったのでしょうか?
考えてみれば、ユダヤ人でなくとも人間誰しも「異邦人」として
生を受けています。
「ある日突然、この世にポーンと放り出される!!」
これほど、驚異的なことも他にないでしょう。
人間は、絶えず他者の中で生きていかざるを得ない存在です。
そうは言っても、なかなか集団生活に馴染めないことも
一面の真実ですね。
管理人も、幼少期から他者に違和感を抱きつつ
「他者との距離感のつかみ方」に悩まされてきた一人です。
そんなこともあり、昔から「少数派・異邦人」タイプの
独立独歩型の人間には強い憧れを抱いてきました。
現代は、諸外国に比べて同質社会とされてきた日本でも
少しずつ「群れから外れた?独立型人間」も増えてきているようです。
そうした状況にありながらも、「他者との距離感のつかみ方」で
悩んでおられる方も多いことでしょう。
ちなみに、この本は、著者なりの独自の「レヴィナス入門書」ですので、
本格的な「レヴィナス哲学」については、レヴィナスの原作品に
当たってみられることをお薦めします。
あくまで、入り口としてご活用下さいませ。
今回は、そんな悩めるすべての方とともに、この本を読みながら
ご一緒に考えていきたいと思います。
異邦人としての人間
レヴィナスに関する細かい内容については、この本を
お読み頂くとしまして、今回の大きなテーマは
「異邦人としての人間」です。
自分と他者は、どのようにして出会うのか?
その最初から不思議な感覚にとらわれるのが、
他の生物とも異なる人間の最大の特徴のようです。
「世界内存在としての人間存在」(ハイデガー)というように、
人間は当初から「世界内」という「認識の限界」を
抱えているためか、世界理解に違和感を持つ存在のようです。
若きレヴィナスも、このハイデガーやフッサールといった哲学者から
当時あらたな「認識論」として哲学界にて一世風靡していた
「現象学」という「哲学的認識方法論」を学びます。
他者に脅威を感じていたレヴィナス・・・
指導を受けていたハイデガーは、他者に対して楽観的だったようで、
ユダヤ人であるレヴィナスにとっては、不安だったようです。
現にドイツ人であるハイデガーと、後に強制収容所暮らしを
強いられたレヴィナスでは、「他者や世界に対する認識」が
大きく食い違っていきます。
「絶望的な世界の中で、他者を楽観的に盲目的に信じてよいものか?」
こうした疑問をレヴィナスは、終生持ち続けていたようです。
ハイデガーや多くの楽観的な人間が感じるように、
「他者は寛大な存在だろうか?」
その安心感を得られるまで、考察し続けます。
レヴィナスにとって、「他者とは何か?」を思索することは、
生き抜くためには死活的に重要なテーマだったのです。
無条件に現前に現れてくる他者といかに付き合っていくか??
「他者に対して完全に無関心を決め込むことは出来ない!!」
なぜなら、すでに自己の中に他者が組み込まれてしまっているのが
人間だから・・・
どうやら、人間は一人だけで「自己完結した」生き方が
その本質上出来ないようになっているようなのです。
人間の大きな特徴は、言葉と道具を持ってしまったことです。
ここから、自分と世界との「裂け目」が生まれていきました。
そのことは同時に「自己同一性(アイデンティティー)の危機」を
もたらします。
絶えず他者からの評価にさらされ続ける社会とは・・・
私たちは、幼い時から「社会教育」によって「社会に同化」する
刷り込みがされてきましたが、このことが逆説的に示唆しているように、
人間は先天的に「他者」と違和感なく向き合っていくことが難しい
存在です。
ですから、むしろ違和感を感じる方が自然な反応のようですね。
何とか、人間社会に馴染めるように後天的な「集団教育」で
慣らしていく訓練を受けていくのですが・・・
これが、実に困難なことは、先程も語りましたように
「言葉」により世界を切断してしまったことに原因があるようです。
特に、生身の人間を「他者」として対峙する限り無意識にしろ
どうしても「道具化」してしまう難問がついて回ることです。
レヴィナスも、他者を「世界外」に置き直すことにより
「道具化」を予防すべく工夫をしているのですが・・・
この本で、一番目を引いたのもレヴィナスの次の言葉です。
「世界の組織のなかでは、他者は無きにひとしい」(「全体性と無限」)
だと・・・
世界内に存在することは、「家政(エコノミー)と経済(エコノミー)」
であるから、他者=自分はこの「道具化」から逃れることが困難である。
剥き出しの裸の状態で世界に投げ出された人間が、世界に手触り感を持つための
手段が「労働」であるだけに、他者との関係は「倫理的な関係」でもある
とされます。
つまり、他者(自分も)を経済によって「道具化」しないための要請が
「倫理的」ということです。
現代社会では、貨幣経済がどこまでも浸透し、人間の「道具化」が
著しく進行しています。
最近、貨幣経済後の「評価経済」を考察している方もおられるようですが、
このような難問がある限り、簡単に「道具化」から逃れることは出来ない
ようだ・・・という視点も是非忘れないで頂きたいと思います。
レヴィナスの「労働論」は、現代社会に大きな問題提起をしているようです。
今後、ご興味のある方は是非この視点からの考察も深めて頂きたいと
思います。
要するに、この問題を回避する一つの方法として、レヴィナスは
ユダヤ教の伝統らしく「受苦(原罪意識のことか?)」によって、
「他者に寄り添う感受性」を身体感覚を通して絶えず磨いていくことに
血路を開く道を用意しているように感じました。
あくまで、今回レヴィナスを通じて考察させて頂いた論考は、
管理人の私見にすぎませんが・・・
なにせ、初めての「レヴィナス」なので専門家の方から見れば
「とんでもなく稚拙な愚論」かもしれません。
それでも、管理人なりの「他者論」を考えてみました。
皆さんも、生きている限り絶えず避けられない「他者=自分」との
距離感について考えてみてはいかがでしょうか?
なお、レヴィナスについては、
「レヴィナス~何のために生きるのか~」
(小泉義之著、NHK出版、2003年)
「レヴィナスを読む<異常な日常>の思想」
(合田正人著、ちくま文庫、2011年)
「レヴィナスと愛の現象学」
(内田樹著、文春文庫、2011年)
※近年、ご活躍中の内田樹先生は「レヴィナス」の専門家でも
あるようです。わかりやすさに定評のある内田樹先生の
「レヴィナス」関連書も幾冊かあるようです。
「レヴィナス~壊れものとしての人間~」
(村上靖彦著、河出ブックス、2012年)
をご紹介しておきます。
※この「レヴィナス入門」の巻末にも関連書が多く載っていますので、
ご興味とお時間のおありの方は挑戦してみて下さい。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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