アラン・シュピオ氏の『法的人間~法の人類学的機能~』人間社会の潤滑油である<中間媒介項=法>の重要性を労働問題をテーマに深く掘り下げた論考集
2019年亥年。謹賀新年あけましておめでとうございます。
アラン・シュピオ氏『法的人間ホモ・ジュリディクス~法の人類学的機能~』
近年急上昇話題となっているデジタルエコノミー論。
便利になる反面、予期せぬ深刻な事態が
私たち人間社会生活を直撃しています。
生産性の高度化も度が過ぎれば人間を狂気へと誘ってしまいます。
その防御緩衝壁役に<法>が注目されています。
今回はこの本をご紹介します。
『法的人間 ホモ・ジュリディクス~法の人類学的機能~』 (アラン・シュピオ著、橋本一径/嵩さやか共訳、勁草書房、2018年第1版第1刷)
平成31(2019)年亥年。
謹賀新年、あけましておめでとうございます。
本年も当ブログをご愛顧のほど宜しくお願い申し上げます。
さて、日本では本年末年始は<平成最後>の節目の時期に当たります。
そんな例年にない特別な時期と重なりましたことから、
皆さんの中にも少しばかりは厳粛な心持ちで
新年をお迎えになられた方もおられるように推察いたします。
もはや世間では<経済的時空間侵略思想>が常態化していますから、
年末年始の特別な時空観意識も圧殺されてしまっているのが現状であります。
せめてこの時期くらい賑やかにあるいは静かに
過ぎ去りし時日と新たに迎える時日への想いを反芻しながら
再出発を図ろうとの決意を確かなものにしたいわけですが、
今のご時世そのような優雅な暮らしも
なかなか<ままなりません>(思い通りにならないこと。)よね。
そんなわけでこの時期はいつも管理人は
日頃以上に<時空観>哲学にも心を傾けたく強く思うわけですが、
まだまだ現役社会人真っ只中の身ですから
日々の労働勤務に励まなくてはなりません。
そのような生業勤務事情で
昨年の御用納めも28日夜遅くまで終日勤務(同僚欠勤のため)となりました。
そして本年始も4日からの仕事始めでした。
もはや当ブログ開設時の理念(目標)でもあった
<時短労働>の夢は現実の前に裏切られ続けています。
とはいえ、世の中にはもっと厳しい環境の中で
お過ごしになられている方もたくさんおられるわけですから、
このように課外に創作活動に従事出来る空白時空間を
許されているだけまだ管理人は幸福者でありますから
感謝しなくては罰が当たるというものです。
そんな生業時空間の余白に出来た少しばかりの休暇期間
(12月29日~1月3日)も
昨年末はぎりぎりまで当記事創作作業。
大掃除の時間も作りたかったのですが、
少しずつ身辺を整理整頓しつつも結局のところ
本年にまで持ち越し、成人式あたりの祝日3連休で
やっとこさ一段落ついたところであります。
特に困ったのが10代以来収集してきた膨大な量の書籍や
新聞雑誌などのスクラップ記事類でした。
興味ある記事やまだ積ん読状態にある中の
魅力ある書物にはついつい注目してしまい読み込んでしまいますから
なかなか掃除も進捗しません(苦笑い)。
ためにご神仏(自室の礼拝棚)へのお清め・ご挨拶行事も遅くなり
誠にもって申し訳なくも感じています。
それでも何とか一応の目途はついた段階ですが、
細かい整理整頓の続きは余白時間を見つけては
追々成し遂げていかなくてはなりません。
ですから、その教訓として皆さんにも
年末年始に慌ててまとめて「大掃除」しようとせずに
日々が「大掃除」だと思って取り組んでみましょう。
<積小為大>効果(二宮尊徳=金次郎さん)を目指すのです。
これは家計財政貯蓄から様々な人間的能力向上にまで当てはまります。
つまり、大事を為すにも時間がかかることを覚悟して
実直に取り組まざるを得ないということですね。
これがまた難題なわけですが・・・。
そんなわけで本年の初詣も自宅近くの「氏神(地主)」神社と
「生駒聖天さん」へのご挨拶しか果たせておらず、
これからまた少しずつ日頃お世話になっている
ご挨拶廻りの旅を果たしていきたいと願っている時期であります。
そんなわけで毎年恒例の『能楽事始め』<翁舞・三番叟>観覧も
今年は取りやめ。
その代わりに陰陽座さんの能楽堂でのライブを収録した
DVD『幽玄霊舞』を鑑賞して「言祝ぎ」しておりました。
今年は<亥歳>なので
それにふさわしい『亥の子唄』と
『陽炎忍法帖(その心は<摩利支天>だからです。)』を
ずっと聴きながら創作しておりました。
さらに地元のホールへ
あの梅沢富美男一座がやってまいりまして、
その観覧が叶ったことも
「有り難や、嬉しきや、おとろしや~」でありました。
年輩の方ばかりでほぼ満員御礼状態でしたが・・・。
テレビの世界とは異なり
あまり若者世代は目立っていなかったようですが、
是非そんな若い方にも一度は
梅沢富美男一座の『夢舞台』をご観劇あれでございます。
「ほんま、おもろいから・・・」
そのような忙しい生活の隙間空間にスルリと入り込んだ
楽しい一コマやその後の友人らとの新年会もありながらも
反省している矢先にひらめいた今年の抱負になりますが、
掃除や日々の生活事業、この文章創作に当たっても
適度な所で切り上げる訓練を積み重ねながら、
より本質的なそれこそ「切れ(鋭さ)」と「コク(凝縮度合)」を
高めていくことであります。
緩急のリズムをつける訓練はあらゆる芸術創作活動や
日々の生業人生事業においても当てはまることです。
「だらだら過ごす(目的なくゆとりをただ遊び楽しむ)」ことも
もちろん管理人も人間ですから十二分に享受してみたいものですが、
人にはそれぞれ「<社会=宇宙的>役割(分限)」というものもありますし、
人生もまたあっという間に過ぎてしまいますから
とりわけ時間にルーズであってはなりません。
そういった意味では
「人間」にはこの世界内時空間をうまく操る宿命課題が
各人各様の役割に応じて与えられているのでしょう、きっと。
時空間認識を磨き続けることは
世界の調和建設事業にも直結する誠に崇高な人生哲学でもあるからですね。
さて、管理人も年々歳々増加し続ける「非正規」の
経済的には誠にもって危うい橋を渡り続けている身。
ですから緊張感をもって「正規」社員さん以上の高い責任意識をもって
忠勤に努めつつ、
収入貯蓄管理・出費予算計画に関する検討修正作業を繰り返しながら
日々を過ごしておりますが、
本年度末あたりからの消費増税や
世界情勢の急激な景況悪化を見越した「緊縮」ムードに入りつつあります。
とりわけ『日本電産株式会社』様が
最近公表された本年3月期決算における通期業績予想の大幅下方修正が示唆した
日本経済社会へ投げかけた波紋は重く受け止めなくてはならないでしょう。
もはや円安誘導政策も安易に採用出来ないような
<想定外>(あくまでも現政権にとって。一般の民間企業やいかなる事態に
陥っても柔軟な構えをもって対処しようと欲する投資家や消費者にとっては
むしろ<想定外>という見立てこそこれまでの日本経済を
取り巻く環境に鑑みれば<非常識>でありましょうが・・・)の
厳しい世界情勢になってきていますので、
一般庶民にとっても過度な楽観的見立ては禁物であります。
(例えば、まだまだ自称保守派論客の方に多く見受けられるような
消費増税を再延期してくれるだろう・・・とか。
現に今月28日に招集開催された第198回通常国会における
首相による施政方針演説における『全世代型社会保障』に関する
趣旨説明をされていた中での消費増税施策に関する宣言、
国民への協力要請という姿勢をご一読下され。
さらに肝腎なところは実務者レベルにおける施政方針であります。
財務大臣による『財政演説』内容がそれであります。
行政組織構造<憲法第68条第2項、第72条>のうえからは
もちろん行政権の「長」たる首相の方針によって
下部組織である財務省の政策提案を
伊勢志摩サミット時におけるご判断のように
「制御」し得る可能性もありますが
あまり期待的観測を持ちすぎることも感心できません。
消費増税に伴う景況悪化を軽減させるあらゆる緊急的柔軟措置を
採るといった「留保」姿勢はあるものの
対外情勢も含めて影響を受ける租税政策体系の可変性も
考慮に入れなければなりませんから、
単純な期待的発想は捨て去るのが現実的「保守」による
経済生活観でもありますまいか?
管理人としてはこのような甘言=悪魔の囁きに誤誘導されて
その時になってから急に慌てずに済むように
それこそ「保守的」な構えで生計を安全に図れるように
すでに厳しい心の準備に入っています。
ですから、各論者が提唱されるような甘い見通しは
そうした期待感とは別に現実的な人生設計の指針としては
ひとまず捨ててしまうのが「賢者の道」だと確信しております。
「保険(リスク分散)」の知恵であります。
とはいえ、管理人自身としても
もちろんこのような厳しい局面展開になってくれば
再延期せざるを得ない、ないしはこれを機会にこれまでの歪な
税・社会保障制度を中小零細低所得者層が
生活経済面で不利にならないように
より公平・公正な方向へと抜本的に見直すべき時期に
当たってきているのだと確信しております。
事実として<円高>に振れる経済環境が
生起してきているからにはただ単に<円高不況恐怖派>レベルで
議論を思考停止させることなく、円高であっても
なんとか<内需拡大>を図りながら、景「気」の腰折れを防ぎ
経済「成長」へと安定軌道に乗せる至極まっとうな国内マクロ経済政策を
志向する有識者こそ待望されるところです。
そしてそれは常に<政経一体論>であることが望まれます。
でなければ、戦前のような無理な自給自足体制へと突入せざるを得ません。
良識ある人間であるならば、このような最悪な道だけは
是が非でも回避しなくてはと願うのが通常心理でしょうから
本当に現在は20世紀初頭以来の大きな歴史的転換点に
我が国は位置づけられてしまったことを意識せざるを得ません。
戦前・戦中には<欧州情勢は複雑怪奇>(平沼騏一郎)なる標語もありましたが、
管理人の見立てによると現状ではこれほど「明白な」現象も
他にはありますまい・・・という感を強く持ちます。)
ですから、いずれにしましても
私たち一般国民にとりましては「ゆめゆめ油断すべからず!!」を合い言葉に
この厳しい時期を皆で乗り越えなくてはなりません。
そして有識者や専門家だけに任せきらずに
国民共有の経済知見を創造しながら
<経済の民主化>も同時に図っていかなくてはなりません。
そうした流れの中で
現政権による消費増税による景況悪化軽減措置についても
これまたつい最近公表された
経済財政諮問会議における民間議員の人選などを個人的にも
子細にその背景調査をしてみると、
あまり安心出来なさそうで深い憂慮を覚えるわけであります。
お一人(柳川範之氏)については
すでに当書評記事でもご紹介させて頂きましたが、
とりわけ経済政策に関する考え方については
ご専門の<法と経済学>に比重を置いてきた研究成果などから
推察してみますと、その行方が個人的には気になるところです。
<法と経済学>志向でいけばすべての学派がそうとは言い切れませんが、
米国のシカゴ学派による経済観が色濃く出る流派とも評価されていますので
その「緊縮」志向にどうしても傾いてしまいがちであるように
懸念されるというわけですね。
そしてミクロ経済面における「緊縮(節約)」志向派=
マクロ経済面における「反増税または増税抑制」派とは
限らないという点も懸念されるところです。
有識者の中にもミクロとマクロの区別がついていないように
感受される方も数多くおられるからです。
特に上記<法と経済学>志向派はどうしてもミクロ経済学観が色濃く滲み出ており
その志向性をマクロ経済政策面にまで拡張させて論じようとされる傾向に
あるようにこれまで学んできた個人的実感からすると思われるのです。
もっともこれからその「新」有識者の言動を注視・精査していかなくては
現段階では何とも論評しようがありませんが・・・。
あくまでも過去の著作論考集や言動などを読み聞きしながら
所々の論考提案などで「??」と感受してしまった推察であることは
お断りしておきます。
今回の人選に当たっては『消費増税に伴う景況悪化を可能なかぎり
回避するための措置を柔軟に採用していけるようにする・・・』との
政策判断でもってこのお二方が採用されたと公表されておりますが、
その看板に偽りなきように私たち一般国民にとりましては
それぞれの政策提言を注視する必要があるようです。
まぁ、管理人としては特に大学時代から『会社法の経済学』などで
当時(1998~2000年代)としてはその斬新な息吹に触れて魅力を感じ、
ご自身も様々な人生での苦労を乗り越えながら
学問に励んでこられた姿勢には敬愛の念を抱いている柳川範之氏には
特に期待と声援を送りたいと思いますが、
実際の政策採択過程ではきわめて強力な<政治力学>が働きますから
そのような圧力に負けないようにどうか強き意志でもって
私たち一般国民の想いに応えて下さるようお願い申し上げます。
さて、管理人個人における家計事情から判断する経済観に戻りましょう。
このように個人的には厳しくあるわけですが、
「お年玉」はきちんと弾ませて頂きました。
また日頃の「交際費」などもなるたけケチりたくはありません。
使う時は「心持ち」だけでも豪快にいきたいものですから・・・。
そんな「心理学的」経済観も
最近の経済学や経済政策の動向を占ううえでは
物理的な経済観以上に重要度が増してきているともいいます。
まさに「景気」とは人間交流における<気の流れ>次第なのですから、
そのような世の経済的雰囲気に水を差すような政策は
慎まなくてはなりません。
私たち<庶民>向け経済学(観)と
「<富裕層向け>有司専制門閥たらい回し型」経済学(観)とは
まったく異なる次元にあるからです。
その認識観のズレが今の世界で生起してきている諸現象の
示唆するところでもあります。
そのような文脈からも昔の大阪(関西)商人や
実業家の景況観測眼には独特な感度があったようです。
そんなことをこのところずっと読み続けている宮武外骨氏と
小林一三氏など奇特な経済人との交流物語や
五代友厚など関西実業家研究を通じても感じている今日この頃であります。
ところで、先の「お年玉」の件に戻りますが、
今月の朝ドラ『まんぷく』の正月祝いシーンにおける
<まんぺーさん>のセリフみたく
「すぐ貯金箱に入れときなさい!!」とも
教育配慮上ついつい言いたくもなりますが、
「使う」ことを通じて<生きた>お金の使い方や
有り難さが「わかる」という経済教育もありますから、
どちらが適切なのかはその時々に子供自身にも
判断させる勇気を持つことが大人にもきっと必要なのでしょうね。
それが親子・親族間を通じた<生きた>人間教育の
理想像でもあるのでしょう。
終局的には子供を信じ「切る」ほかありません。
そこで「お年玉」ついでにその使い道について思うところ。
児童向け書籍(図鑑類)は大人向け書籍以上に値も張りますが、
そこはケチらないのが我が流儀。
なぜならば、子供時代に大人から受けた「文化資本」の質こそが
たとえ将来的に<逆境>(失業や病気、受験失敗、失恋などなど)に
立ち至った時にも人生をもう一度立て直そうという
意欲が湧き出てくるための「源泉」ともなり得るからですね。
そんな個人的人生体験から子供たちには
出来るだけ良質な「活字」に親しんで欲しいとの願いがあります。
お子様をお持ちの親御様であれば、
ただでさえ日々の娯楽遊興時間にはスマホ動画像へ没入させてしまう
環境要素で満ち溢れる中、
きょうびはすでに学校教育の現場でもデジタル教育とかで
さらなる依存中毒患者を増殖促進させるだけではないかと
深く懸念されている方もおられることでしょう。
すでにこの世代以外でもそもそも電車内などで
読書(電子書籍含む)している大人の姿自体が
「天然記念物=珍種」と見られる昨今、
こうした心強き「同志」を見つけると嬉しくなります。
もっとも書籍の「内容」にもよりますが・・・。
そこは各人各様の嗜好性の問題ですから
あえて厳しく触れないでおきましょう。
(自らも心当たりがあり憂慮・危機意識を抱かれる方で
このデジタル文化時代をうまく生き抜くコツやヒントを学んでみたいと
思われた方にはすでにご紹介させて頂いたこちらの書評記事も
ご参考にしてみてはいかがでしょうか?)
もはや続々とデジタル<ネイティブ=生まれ落ちた瞬間からそのような
環境漬けにある様のこと。>世代が生まれ出でてくる時代。
私たち30代以後のIT黎明期を生活体験してきた世代とは異なる
教育観や教育的配慮も創案していかなくてはならない時期でもあります。
そんなことから教育界も大激動で入試制度の抜本的改革で
子供たちにも大激震が走り、正直なところ不安な日々で
未来へ向けた準備をされておられる方も多いことでしょう。
あっ、遅くなりましたが、すでに受験生の皆様は
本格的な受験の季節ですが、インフルエンザなど大流行の中、
体調管理にくれぐれもご留意されながら、
残りの「追い込み作業」を怠りませんように。
「念には念を!!」ですよ。
よく集中して励んでこられた受験生であれば、
「的中勘」も強まってきていると思いますので
自信をもって最後まで諦めずに筆を走らせてきて下さいね。
「皆様の吉報をお待ちしております。」
そして、心ならずも厳しい洗礼診断結果を受けてしまわれた方も
「人生の総括決着は20代前後の節目の年だけで
終わることなど決してありません!!」ので、
人生そのもの(その後も続く人間的社会生活)を絶対に諦めてはいけませんよ。
そんな辛い時には優れた芸術作品に親しみながら、
もう一度「夢」や「志」の仕切直し(再設定)に挑戦してみて下さいね。
この時期に語るのは受験生の方には誠に心苦しいものがありますが、
人生とは不思議なもので、
「第一志望校」に落第したからこそ、
後から判断して結果として自分自身の人生が
予想外の幸福(成功)軌道へと導かれていった事例も
この世には数多く見受けられるわけですから、
「<もの>は考え方次第」ということで受験生活に一段落された後は
少しゆっくりと休息を取られた後、
もう一度じっくりとその後の身の処し方を思案してみて下さいね。
そんな有名人のエピソードも世の中にはたくさんあるでしょう。
それと老婆心ながら受験生の方へ重要なアドバイスをするとすれば、
志望校のブランド(知名度)ではなく、
自分が本当にしたい学問が出来る「学部」志向で
志願先を厳しく吟味選択されることをオススメいたします。
管理人の場合には何が何でも上位難関有名校というのではなく、
あくまでも「学部」一本で勝負していた今は懐かしい経験談があります。
そして国内での評判(各予備校が提供している偏差値やビジネス雑誌などが
提供する各種ランキング評価など)だけに惑わされずに
各自で独自の評価をして頂いたうえで、
その大学の「実力」でご判断して頂くようにお願い申し上げます。
学生時代にインターネット黎明期を過ごし、
今のようなネット情報環境にアクセス出来なかった
30代後半から40代前半にかけての管理人のような世代とは異なり、
今の若い皆さんの場合には格段と幅広い情報が得られる羨ましい環境にあります。
世界での評価や財務内容、図書館蔵書数、実際の厳しい社会を生き抜くうえで
優れた人間的総合力が身に付くような教育環境があるかどうかなども
重要な判断材料となります。
もちろん最重要なことは学費面などその他の経済出費にからむ問題もあります。
各人にとっての実際の入学校への魅力満足度は
その後の人生において時間がある程度経過してみなければ
すぐにはわからないことも多々ありますが・・・。
また、教育研究者への評価観点からはただ単に世間で
「有名(マスコミなどでの露出=知名度)」というだけではなく、
真に学問として優れた業績をあげられている
先生方の名前なども高校生時分では正直わからないことが多すぎると思われます。
今のご時世では厳しいかもしれませんが、大学入学後に学問が進めば進むほど
徐々にその名前や業績なども自ずと知るようになるでしょうから、
そのように成熟してくれば、余所の学校へ聴講生として潜り込みながら
自分の学問を進めていくという道もあるでしょう。
理解ある良心的な先生方ならばたぶん大歓迎して下さること
(なんと素晴らしく今時珍しいやる気に満ち溢れた若者なんだろう・・・ってな
感じで)でしょうし、
わからなければ入学後にゼミの先生などに教えて頂くという手もありましょう。
そのためには友人や知人などの私的ネットワークづくりもオススメいたします。
さらに今の時代は出身大学(なぜならば、人数が多すぎてあまり密度の濃いお付き合いが
出来にくいから。)よりも出身小・中・高校(なぜならば、少人数だし
末永くお付き合い願える幼なじみも多いでしょうから。)とも
言われているくらいですから、
同窓会や同級生の(不)定期的集まりなどが可能な方は
その機会を大切にして下さい。
とはいえ幼少期や社会に出てから
不幸なことにいじめや各種差別・迫害に遭われた方などにとっては、
極度の人間不信へと陥りあまりにもつらい記憶が甦ってきますから、
なかなか出不精気味になるかと想像しますが、
「<人間>とは案外その時の見た目よりも<変化>しているものです」から
人間の意外な側面を研究観察してみる機会だと捉え直して
勇気を振り絞って再会してみると、
学生時代にはあまり親しくしていなかった友人知人とも
あらたなご縁結びが叶うかもしれませんよ。
そうした入学後や今後の人生を楽しく想像しながら
無事に受験を乗り切ってきて下さいね。
このように遠縁不特定多数の人的世界よりも近縁特定少数の人的世界における
人間ネットワークの方が気心が知れて安心できる側面が強くあるからですね。
但し、最近こうした純私的な人間ネットワークを介した
マルチ商法詐欺もインフルエンザ同様に
またぞろ増殖中のようですから
くれぐれもお気を付け下さいませ。
『<マルチ>は人間関係を完全に破壊するとともに
「きゃつら(奴ら)」は絶対に責任を取ってくれませんからね。』
管理人も林修先生がおっしゃるように<人脈>なる言葉には
強い違和(嫌悪)感を覚えますが、
やはり困った時の頼れる友人知人は大切な仲間として力を与えてくれるものです。
そのためにも相互信頼関係の継続的構築が重要となってきます。
<無縁社会>や<社会的孤立死>だとかいう言葉が浸透してきているように
人間社会がかくも冷酷になればなるほど
国家やビジネス絡みの利害関係が強く出た(準)公的福祉サービスに
頼り切ることはかえって人生における危険度も高めてしまいます。
近未来の時代においてますます高度テクノロジー化が進展することで
無機質な社会環境となりゆく中、
最後はやはり生身の<人間>同士の相互連携が「命綱」となるわけですから、
自分で出来る範囲内での私的福祉ネットワークを更新し続けることが
最重要となってきましょう。
利害関係が強くなりすぎますと、人間はどんなに親しい者同士であっても
急に疎遠感が出てきますから、あまり利害関係にとらわれずに済む
適度な距離感でもってお付き合いできる人間関係性も要請されます。
そんなわけで「経済(社会生活)関係」に関しましても
それを中和させる役割を果たす<中間的媒介項>である
「法」には<ウチ>と<ソト>の論理があったり
「貨幣」にも<匿名化>作用が伴ってきたのでしょう。
特に「法」における<ウチ>と<ソト>の論理の
<中間的緩衝領域>が果たす役割には
人間的信頼関係を破壊しないための
何らかの叡智が潜んでいますから
とりわけ重要になってくるようです。
この<中間的緩衝領域>研究も管理人の関心領域ですが、
またいずれ挑戦してみますので
「乞うご期待」下さいませ。
ここでの管理人の問題意識は、
<法(法権利=契約=『合意は第三者を益しも害しもしない』)>における
<ウチ>と<ソト>の間をつなぐある種の「緩衝領域」のようなイメージです。
「<ウチ>=当事者」と「<ソト>=当事者以外の第三者」との法的言語空間において
<ウチ>の個別的取引契約によって<ソト>の世界へと影響を及ぼさないための
何らかの論理的概念装置が果たす役割を考え抜いておくことは
「<ウチ>における『身内びいき現象』=<ソト>(第三者)への
『排他的差別姿勢』」を抑制する人間的知恵として
きわめて重要な意義があるものと確信しているからです。
これは個別的取引契約(当事者間<=ウチ>合意)が
<ソト=当事者以外の第三者>に対して
特に不利益な影響を及ぼさないために不可欠な保証的装置となる
上位概念としての<法>の役割・意義を
あらためて再確認していく作業でもあるわけですね。
つまり、『<法>の下の平等』だとか『<法>の支配』の意義を考え直すうえでも
その思想的源泉へと遡って探究していくことは
人類相互間の「不信感」を軽減していくためにも
不可欠な知的作業だということです。
その<ウチ>と<ソト>の「あいだ」を取り持つ<中間的緩衝領域>には
具体的にどのような本質的機能があるのだろうかなどといった問題や
イメージ像につきましては
まだ管理人の頭の中でも
もやもやとした霞みがかった状況にあるわけですが、
この「空漠」領域を探究していこうとする志向性が
やがては人類総体における対立・誤解・摩擦などなど
あらゆる「不協和」をなしていく源泉を封印させ、
「協和」に至る道筋へと誘う知的思考回路を切り開くうえで
有意義な研究になり得るものだと確信しています。
その意味で「法学」とは
とかく抽象的で無機質、高度に専門実務的な学問研究分野だと思われがちですが、
そうした専門実務「法学」の道へと将来進まなくても、
こうした「法学」探究を通じた
どちらかといえば<法哲学(思想)>に当たる領域研究とはなりますが、
こうした領域を一度は歩いてみるだけでも
そこから人生全般にわたる知恵を汲み取っていくための
実用的一般教養も身につけることが叶うかと思われます。
管理人もすでに専門実務<法学>の世界からは遠ざかっておりますが、
その応用範囲はきわめて汎用性の高いもので
学生時代に「法学」を専攻分野に決めたことで
その後の人生においてもその他の文系学問では味わえ切れない
「かけがえのない」知的財産となっています。
またきょうび「文学」は世間では軽視される傾向にあり、
学問としても敬遠されるようですが、
優れた「文学」作品には<法>をテーマとしたものも豊富にありますので
皆さんにも是非挑戦して頂きたく思います。
いわゆる狭義の「法廷サスペンス」小説や
弁護士さんなどがお書きになった「リーガル」小説の枠内には収まりきれない
すでに語らせて頂きましたような哲学的探究へと導いてくれる
いわば「メタ」法学小説というジャンルも探せば世の中にはあるものです。
管理人の個人的雑感としては
例えば平野啓一郎氏による一連の作品群の背景には
そのような問題意識も潜んでいるものと感受しております。
かの『分人』論・・・。
管理人が日頃から抱いてきた問題意識とも重なり合う素材が豊富でしたことから
触発されることも「大」でしたが、
所々で現実的に違和感を覚えるところもあったりして、
いまいち評価しづらい作品群であるようです。
面白く魅力的ではあるのですが、
『分人』論から派生していった人間観や世界観には
何か近未来のAI(人工知能)に主導された
<デジタルテクノロジー>社会によって
生身の「人間」が侵食されていった果てに到来する
「人間」の<終焉>時代を先取りするようでもあり
ある種の「終末思想」観が垣間見えて
個人的には痛ましくも寒々しくも覚えてくるわけですね。
管理人としてはやはり人類の未来に対しては楽観的でありたいし、
「人間」への信頼感や期待感は原則的に喪失させたくはない者の
1人だと信じていますので余計にそのように強く感受されるだけに
すぎないのかもしれませんが・・・。
ちなみに管理人がなぜ平野啓一郎氏に注目してきたかと言えば、
法学部ご出身ということもありますが、
ちょうど管理人の学生時分に
『日蝕』(芥川賞)での衝撃的デビューがあったからでしょうか?
いつもどこかにちらつく「影」的作家であるようですね。
管理人よりも少し数年うえの先輩に当たりますが、
ほぼ同世代に属する時代思潮を共有してきたと思われる
作家さんだからでもあるからでしょう。
そのような平野作品に対する批評論はさておき、
これから要約記事本文内でも語らせて頂くように
<法の人類学的機能>に照らした「象徴」的側面を題材にした
「法学」<的>小説の一群があります。
例えば、ゲーテ著『ファウスト』であったり、
今回本書をご一緒に読み進めていく補助教材として
取り上げさせて頂いた三島由紀夫著『青の時代』などです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
話が脱線してしまいましたが、
管理人の年末年始の時空観哲学とそこから派生してきた経済観の
話題に戻りますと・・・。
「<人生>とはただ一回の巡り合わせの日々を
深く味わい噛み締めながら過ごす壮大な人間事業」でもあるわけですから、
日々の生業勤務だけに人生の時空間を埋没させることなく、
極度な自粛・禁欲ムードに励むのも個人的にはどうかと思われます。
個人(家計=ミクロ経済観)においてはその人の身の丈にあった
節約(緊縮)も大切ですが、個人的な経済活動も
あくまで社会全体(マクロ経済)を下支えするわけですから、
知恵ある者であるならば許される範囲での「蕩尽」理論も
実践しなくてはなりません。
こうした経済観こそが管理人がこれまで学び得て、
また独自の仮説理論(まだまだ改良作業中ですが・・・)から
オススメ出来るいわば「身の丈」数理経済生計論であります。
そんなことを今週読了し終えた『青の時代』(三島由紀夫著)における
主人公の経済観とも比較考察しながらつらつらと考えておりました。
この小説での隠れたキーワードも今回これからご紹介させて頂く
本書のテーマである<契約>と<法>へのイメージ像考察と
そこから抽出されてくる人間への多大なる影響がもたらす顛末の
怖さでありました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ということで導入部もちょうど程よい開幕準備が整ったようですので、
ここからは本書評とそれに触発された独自考察、個人的エッセーへと
本年も少しずつ語り綴り「事始め」させて頂くことにいたしましょう。
本書を読み進めていくうえでの最大留意点とは
「決して<法>(あるいは<法権利>)を軽く扱ってはなりませんよ!!」と
いうことに尽きるようです。
つまりは、「<法>(あるいは<法権利>)とは
ただ単なる道具ではありませんよ!!」ということですね。
そして本書を読み終えた時には、
いかに人間社会にとって<中間媒介項>(今回は前回の貨幣とは異なり、
<法>が主人公ですが、言語も含めた様々な人間社会を円滑にする
潤滑油のことだとひとまずイメージして頂きましょう。)が
果たす役割に多大なものがあったのかと気づかされることになりましょう。
本書は「硬派」な部類に属する法学啓蒙書の1冊に当たりますが、
<法>の本質的役割を考察することを通じて、
社会学的な<人類学的機能>も考察出来ようという
欲張りな稀有な1冊であります。
そんなわけで確かに本書には法学にまつわる多少難易度の高すぎる
抽象的議論も出てきますので、
管理人のような法学専門教育を受けた読者ではない
一般読者様におかれましては正直敷居が高いのかなぁ~とも
感受されましたが、これもまた民度を高め、
皆様の知的生活を豊かにする1冊だと信じて
今回はこの本を取り上げさせて頂くことにいたしました。
管理人もすでに専門の理論的・実務的法学からは離れて
久しくなってきており、訳文も原書がフランス語、
さらに英訳されたものを適宜参照しながら日本語訳に
仕立て上げたのが本書だと<訳者あとがき>(本書339~347頁)でも
注釈されていますから、
所々で通常の一般的日本語訳としては「こなれていない」箇所もありましょうし、
精通しているわけではありませんので、
これからご紹介させて頂く書評記事内では理解不十分なために
誤読してしまい読者の皆様を混乱させてしまうような
不透明な要約論考箇所も
もしかしたら出てくるかもしれません。
管理人も出来るだけ自身が理解出来た範囲かつ
一般の方にも馴染みやすくなるように解説評釈作業を付加しながら
語り進めていきたく願っていますが、
もし解説として不十分もしくは誤解だよと感受された
この専門分野に通暁した読者様がおられましたならば、
適宜ご教授頂ければ読者様の利便性向上にもなお一層のこと
資するものと確信しておりますのでどうかご協力頂ければ幸いであります。
<法(法権利)>のドグマ的機能を理解することを通じてこの世界における人間存在の本質を探る~社会人類学と法制度学との 接点入門~
それではいつもとは導入部が前後してしまいましたが、
本格的な要約作業へと入る前に
まずは著者についてのプロフィールご紹介から開幕させて頂きましょう。
アラン・シュピオ氏(以下、著者)は、フランスの労働法学者。
ボルドー大学で法学博士号および教授資格を取得されてからは、
フランス国内の著名な大学で法学の教鞭を執ってこられたといいます。
またEU(欧州連合)内の組織機関である欧州委員会などの依頼に基づき
数多くの労働(法)や社会(法)政策提案などもされてきた
実務家としての顔もお持ちだといいます。
そしてその労働法と社会法を結びつけながら論じていく
法の社会学的機能に着眼した議論姿勢は
世界各国の法学者や斯界の政策立案担当者などにも
広範な影響力を及ぼしているといいます。
著作論考文などの業績紹介については、
本書<訳者あとがき>(本書339~347頁)に詳細な解説がありますから
そちらに委ねさせて頂くといたしまして、
現在までの日本における邦訳書としては
一瞥する限りでは本書が最初であるようです。
(あくまでも手軽に入手可能な一般向けの啓蒙書として)
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そのようなご経歴のある著者ですが、
独特な点は法(制度)を人類学的な視点から再考した
社会学的見方の要素があることです。
日本の法学教育でも<法社会学>というジャンルはあるわけですが、
管理人の学生時代にもあまり「人類学」の視点から法(制度)を
解読したような講義を受けた経験もありませんし、
そのような著作集にも触れ得た経験がありませんでしたことから、
新鮮味を覚え、また前回と前々回から続けてテーマを追っかけてきていますが、
いわゆる「新自由主義(社会の全面的経済化現象)」の浸透により
深刻な<人間>破壊が続いてきておりますので、
そのような社会風潮へのひとつの異議申し立て方法として、
またそのための理論武装として何か適切な書物はないものかと
追跡調査をしていたところ本書にぶち当たったということになります。
しかも、日本では専門家も含めて<人権>概念をどうしても一義的に
イメージしてしまう傾向が強くあり、
ために特定の政治的文脈からのイデオロギー化が
どうしてもすぐに図られてしまうように感受されます。
そのためにせっかくの良き問題意識を持った視点が含まれていたとしても
特異な<人権>観をもって世間一般に強要している(きた)ように評価される
<左派リベラル>層への悪しきイメージ像や
対立した<人権>観を有する者からレッテルがどうしても貼られてしまう
1つの大きな要因になっているように見受けられます。
著者によれば、そのような一義的な<人権>観こそが誤解を招くもとであり、
必ず<人権>という概念にも多義的・両義的要素が
多々含まれているものと解釈されています。
そうした<人権>概念をあらためて人類の文明・歴史的側面や
人類学的側面、はたまた人間存在が有する生物(理)的側面からも
多角的に、そして鳥瞰的に捉え直してみようと勧めるのが
本書の意義・役割であります。
著者はフランス人であることからして、
西欧中枢の典型的な思考癖があるように思われるところ、
本書を虚心坦懐に読み進めて頂ければおわかりになるかと思いますが、
西欧を相対的に捉え直し、西欧以外の東洋社会(日本も含む)やイスラム社会における
<人権>観や<法制度>観についても視野を拡張されています。
もっとも、それへの著者独自の一定の評釈はもちろんなされていくわけですが・・・。
というわけで、私たち人類にとって、
法が果たす役割・意義・本質をあらためて検討してみましょうと
呼びかけるのが本書の主題であります。
そのような<人権>概念や<法制度>観に内在する豊かな世界を
提供してくれる本書はこのような日本における政治的現状に鑑みますと
一刻も早くご紹介して世間における知的共有化を図る必要があるだろうと
その機会を窺っていたのです。
とはいえ、本書全体像を捉えるに当たってのマッピング化作業もなかなか進まず
要約作業に至るまで先延ばしになっていたのも正直な心です。
本書自体は昨年(2018年)の3月に公刊されています。
「人が人として扱われるためにも・・・」
「不毛な左右の政治的イデオロギー観による
<人間同士>の対話への拒絶反応を解くためにも・・・」
そういった<人間同士>を結びつける1つの触媒として
ある程度のより望ましく適切な<人権>概念(観)の
共有化(共通言語化)を図っていく必要があります。
そのような共有化がなされていませんと、
いわゆる「拉致問題」の早期解決を妨げてきた障壁(悪因)にも
つながるというわけです。
あるいは<人間>や<自然生態系>を犠牲にしながら
発展させてきた極度な経済「成長」の陰で軽視されてきた
「公害問題」の早期解決を阻む要因にもなり得るわけですね。
他にも数多くの事例がありますが、
まずはイデオロギーではなく<人権>(の濫用はもちろん問題ですが・・・)が
人と人を結びつける一定の調整役を果たしてきた重要性について
十二分な理解を深めていくことが望まれます。
政府(国家権力)による障害者雇用水増し問題や
雇用保険等統計不正・過小給付問題から
民間企業における過酷な労働実態に由来する
精神的・物理的な<人間>破壊病理現象などなど多発している
雇用労働時代だからこそ皆さんとともに本書を読み解きながら
あらたな<人権>観を共有創造していきませんかと
オススメするのが管理人の狙いでもあります。
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それではここからは本書要約ご紹介へと移らせて頂きますね。
・<プロローグ>
※<プロローグ>ではまず本書でこれから論旨展開されようとする
問題意識が表明されることになります。
本書全編を通じて抽出されていく知的作業とは
<法>(または<法権利>)の本質的意義を分析考察する過程で
<人間>存在にはそもそも多義的要素が内在されているという当然の事理と
その1人1人の具体的な<人間>同士の多義的要素のぶつかり合いが
当然にこの世界内では生起していくわけですが、
そのぶつかり合いを最小限に抑制し相互に共存し得る論理を
準備するための補助役として<法>(または<法権利>)の
規範的側面の重要性が摘出されていくことになります。
つまり、そうした<人間>同士の多義的要素にちなむ争乱の源を
可能なかぎり塞ぎ止め、社会的存続が相互に図れる条件設定として
人間精神の混乱をより高次元で解消統合するための道標に
<共通ルール>としての<法>(または<法権利>)が
位置づけられていくということです。
<法>(または<法権利>)が提出する人間像には
とかく抽象的で無機質な人格を有したものと捉えられることがあり、
生身を有した通常人からすると冷淡なイメージ像として
どうしても想像されてしまいます。
このように<法>(または<法権利>)で想定された人格像(まさに
本書のタイトルに冠せられた『法的人間』)と
私たち具体的な生身の人間像とのズレに違和感を覚える感受性は
ごく自然な感覚に思われますが、
あえてこのようなズレを用意する必要性や理由はどこにあったのでしょうか?
そうした世間一般にある誤解に1つの回答を与えることが
本書の狙いであります。
そうした<法>(または<法権利>)が有する冷たさ(=生身の人間が感受する
拒絶反応を引き起こす内在要素。
つまり、<法(法権利)>に組み込まれた
極度の抽象性・フィクション性・ドグマ性などのこと。)にも
それ相応の歴史的背景事情や人類学的理由があったのだという点を解明しながらも
その一般的誤解を解く論拠を提示していこうとする狙いが
本書にはあります。
そして本書から学べる最大長所だと管理人が感受したことは、
人間像に関して極度に抽象化されたイメージが
「科学」を標榜する学問にはそれぞれに暗黙裏に仮定するものとしてありますが、
経済学が想定するような「(限定)合理的」人間像とも
各種人文社会・自然科学が想定するようなそれぞれの「科学」的文脈に即した
抽象的人間像とも違い
『法的人間』像の場合には決定的に異なる質感が伴っているということが
明らかになったことでした。
つまり、実際的にもきわめて汎用性が高い視点が含まれていたということですね。
「それは何なのでしょうか?」
その点はもう少し先であらためて触れさせて頂くことにいたしましょう。
さて、先程から<法>(または<法権利>)という表現が
繰り返し出現し、以下でも何度となく同じく表記させて頂くことになりますが、
その表記理由についてここであらかじめ注釈しておきましょう。
端的に言うと、これは翻訳にちなむ表現問題であります。
詳細は<訳者あとがき>(本書346頁)にも訳文設定にからむ
注釈がなされており、また冒頭でも触れさせて頂きましたような
フランス法と日本法における<法>や<権利>一般に付きまとう
イメージ像の相違問題も重なってきますが、
本書における著者の問題意識を汲んだうえでの
邦訳として訳者は、
日本でも日常的に使用されている<法>や<権利>一般を総称して
使用する文脈(管理人の理解では個別の<法権利>を
上位規範で統一・統合させたような一般普遍法のようなニュアンス)では<法>を
それに対して著者による西洋的ドグマ=固有性(西洋各国の個別具体的事情を
成立背景に据えた独自固有法といったニュアンス)を強調した視点を有した文脈では
一般には馴染みがない<法権利>という訳語を
あえて使用したとされています。
この訳語としての<法>と<法権利>に関する細かいニュアンスの違いは
一読した限りでは読者の皆様もわかりづらいだろうと思われ、
管理人もその理解に苦しむところ大でしたので、
そうしたニュアンスの違いが比較的わかりやすいと感受した場面を
引用しながら補足しておきましょう。
『法思想を掌握したラディカルな個人主義は、<法権利>を成り立たせた信を
不可侵の<法>にまで持ち上げ、この<法>を世界全体に君臨させることに行き着く。
その先に待ち構えるのは西洋的な原理主義であり、他の信のシステムに起因する
様々な原理主義が、その反動で生み出されることにしかならない。
世界を画一化しようという思い上がりは、世界を統一するあらゆる可能性の
芽を摘むことになる。客観的な<法権利>を、普遍的だとみなされた<法>に
守られた諸個人の権利の集成のうちに解消すれば、私たちは確実に、
「文明の衝突」、つまり武器を携えた信と信との衝突に導かれるのだ。』(本書21頁)と。
この箇所の説明だけでもまだわかりづらいかと思いますが、
その<法>と<法権利>の細かいニュアンスの違いを理解することが
本書を精確に読み解くうえでとりわけ重要な点だと感受いたしましたので、
以下の各章における個別論点要約をさせて頂く際にも
少しずつ角度を変えながら追々浮き彫りにしていこうと考えています。
いずれにしましても、世界どこにでも通用するような
普遍的に統一された<法>という概念は理念的には想像され得ても
実際的・具体的な場面ではあり得ない難題だということでしょう。
かえって摩擦・対立を生み出す温床となり得るということですね。
つまりは、この世界は各人各様の重層的な<価値意識>の総体によって
個々の<法権利>が積み重なって出来上がってきたものであるからこそ
抽象的な<法>概念よりも
より一層の信頼性や安定性が<法権利>にはあるとの趣旨でしょうか?
とはいえ、そうしたバラバラな<法権利>では
安定性を保持し続けることもきわめて難しくなります。
ここにそうした個々具体的な<法権利>を
より安定したものへと昇華させるための再統合化機能を果たす
<法>に期待される役割が出て来るわけですね。
ですから抽象的にもなるわけです。
著書『世界法の理論』所収内の思想にも垣間見られますが、
それはあくまでも多層(元)的重層構造が担保されていなくては
きわめて危うい論理を孕むものだとの認識が含まれたものだったように
感受されます。
管理人も学生時代から世界連邦制度やそこでの統一<法>なる概念・理念を
何度となく思索してきましたが、固有の各国民族法との整合性や融和性との
調和地点をどこに見出せるかについて
今も確固たる解答を持ち合わせているわけではありません。
されども、現在でもいずこの国においても国内法と国際法との間で
その統一ルールの構築や受認限度、受容可能性を巡り
激しい攻防戦が続いていることを鑑みれば
安易な解決法などあり得ないことだけは確かでありましょう。
さて、本書の開幕を告げる<プロローグ>冒頭で
いきなり『人間とは形而上学的な動物である。』(本書1頁)という
定義づけから<人間>存在の本質へと向けた解析探究の旅が始まります。
この<形而上学的>をわかりやすく言えば、
人間の経験や感覚を主軸として環境に向き合うただ単なる
生物理的存在を超え出た存在だということです。
つまり、『考える葦』(パスカル)というように
言語(記号)を介した高度に抽象的な知的思考が出来る生物でもあるということです。
そうした言語や場面によっては数字(記号)を使用して
イメージ像を形成しながら人間を取り巻く世界の諸現象を
いわば往復的な解釈を繰り返しながら
世界と人間とのあいだであらたな像を結び
「現前化」を再形成していく生物だということです。
ここではそうした人間像のたとえとして
管理人の表現では『複合的観念像を繰り返し再生できる生物』が
まさしく私たち<人間>だということにしておきましょう。
つまりは、
<形而上=観念(想像上の)=経験(感覚)不在・不能の世界>ということですね。
逆に<形而下=日常的な経験(感覚)可能な世界>ということになります。
そんな高度に抽象的なイメージ形成を図れる<人間>ですから
世界への「意味づけ」作業が伴います。
その前提として<人間>特有の物理的「有限性」と精神的「無限性」の
矛盾対立像がすでに内在することになります。
精神的「無限性」の前提には世界の「無限性」というイメージ像も伴うわけですが、
世界が「無限」であり人間が「有限」(この段階では物理的な側面として
捉えています)とするならば、そもそも<人間>は「無(世界)」の中から
ある日突然「出現(有)」してくるわけですから、
そこにまず初めての脅威・驚愕感情が出てくるわけですね。
そこに言語による「意味づけ(物語化作業)」が可能とならなければ
絶えざる不安に押し潰されてしまうことになります。
そうした心理的状態は精神的側面から見れば
まさしく「死活的」問題になるわけです。
つまり、こうした世界への「意味づけ」を
もしなすことが叶わなければ文字通りの精神的錯乱状態、
つまりは、「狂気」の世界へと誘われることになります。
逆に言えば、精神的に安定感を保持するための
「意味づけ」作業が果たす終局目的こそが「理性」の役割であります。
そうした「理性的存在」へと昇華していかざるを得ない運命にあるのが
<人間>だということに尽きます。
その通路を切り開くものが言語(記号)であったりしたわけですね。
この言語に表象されたイメージ像を糸口としながら、
徐々に<法>(または<法権利>)に至るまでの
まずは人間に必要不可欠な<人間>と世界とを結びつける<媒介項>の
重要性やその意義について分析考察が深められていくことになります。
そこで次なる問題は、人間は「生まれてから」徐々に
言語を「学習獲得していく」という意味を確定させる作業に入ります。
つまり、<人間>とは「生まれる」前も「生まれた」後も
自明の理として<理性的>な存在がすでに確定したものとして内在している
生物ではないということです。
<理性的>存在へと少しずつ「進化」を遂げていくのが
<人間>だというわけです。
というわけで、言語はあらかじめ<人間>に内在準備されているわけではなくして、
後天的に獲得しながら付与されていくということです。
そういったわけで、<人間>がこの世界に出現してくる前から
すでに言語は存在していなくてはならなかったわけです。
ここから少しずつ話題は言葉と<法>(または<法権利>)が有する
共通点についてその本質像を抽出していきながら
その接点(本書での表現では<絆>)を見出していくことになります。
要するに、世界と<人間>を結びつける「糸」が
きちんとあらかじめ用意されていないと
<人間>は「主体的自立」を果たすことも「理性的存在」に達することも
叶わないというわけです。
イメージとしてはそのような結合触媒を持していなければ
すぐにも空中浮上してやがては分解消滅していく
誠に儚き存在が<人間>だということです。
そのような状態では
「自ずから由らしむる=しかと地上に足をつけて立つ=自律」はあり得ません。
そこでこの「結合触媒(本書では<絆>)=他律」による
自己制御機能を認識していくことも重要な視点となります。
そこに「自由」と「理性」の関係性があり、
「主体」(いわば、自律と他律の結合体)の意味合いが付与されるわけです。
このあたりのニュアンスを著者の言葉から汲み取りながら
管理人なりに表現してみました。
著者の場合には語源論なども含めたこれから本書で論旨展開されていく
問題意識像を立ち上げていかれるわけですが、
そのまま読み始めるとおそらく一般読者様には
相当な「苦戦」が予想されますので
あえて意訳をしてみました。
その具体的な詳細像につきましては、以下の章からの要約解説でも
少しずつ粘りながら可能なかぎりわかりやすくお伝えすべく
努力させて頂きますので、しばらくご辛抱願うとしまして次へと歩を進めましょう。
ここまでを著者の言葉でまとめますと、
『人間は理性的に生まれるのではなく、他の人間たちと分かち合う1つの
意味に到達することにより、理性的になるのである。』(本書3頁)ということです。
そして、これから提示されていく『法的人間』と<法権利>については
以下のように表現されます。
『私たち一人ひとりを「法的人間」にすることが、人間存在を構成する生物学的な
側面と象徴的な側面を結びつける西洋的なやり方である。<法権利>は私たちの
内面的世界の無限性と物理的経験の有限性とを結び合わせ、そのことによって、
私たちのうちに理性を制定するという人類学的な役割を果たすのである。
人間存在のこの二つの側面のいずれかが否定されるやいなや、狂気がその隙を
うかがい、自分で自分に与えた限界のほかはあらゆる限界から解放された、
動物もしくは純粋な精神として人間を扱おうとする。』(本書4頁)
この著者のイメージ像を管理人の言葉でさらにかみ砕いて
言い換えさせて頂きますと、生身の<身体性>を喪失させた
ただ単なる<流動体、バラバラの単粒子様態>の「モノ」にまで
<人間>は貶められてしまうということになります。
そしてこのような<流動体、バラバラの単粒子様態>の「モノ」にまで
<人間>は貶められてしまうと現実の厳しい生物的自然環境の下では
弱肉強食・優勝劣敗の世界へといとも容易く放り込まれ
その尊厳が剥奪されてしまうことになります。
そのあたりを著者はハンナ・アレントの以下の洞察。
『全体的支配への道の決定的な第一歩は、人間の法人格を殺すことだ。』
(本書5頁)であり、
『生物学的、政治的あるいは経済的な現実主義なるものの名のもとに、
<法権利>の人類学的な機能を否定するのは、すべての全体主義的な企みに
共通する点である。』(同頁)を手がかりに
『人間の法人格=純粋な人工物=具体的な人間存在とは関係ない』(同頁参照)とする
法学者や一般人によくありがちな誤解が
実は私たちに対する危険性をもたらすのだと
具体的に明証していくことになります。
つまりは、先程のタダ単なる粒子としての「モノ」にまで落ち込んだ状態のまま
生物学的側面だけの生身をさらけ出せば、皮肉なことに
その脆弱さが前面に押し出されてくるというわけですね。
そこで先程触れましたように<人間>の二面的側面のうち
もう1つの重要な側面である『象徴的な側面』に
より力点を置いた視点が強調されていくことになります。
ですから本書のこれからの論旨展開をすんなりと理解していくためには
この『象徴的な側面』が意味するところを深く汲み取っていく必要があると
いうことになります。
この『象徴的な側面』とは、
『肉体と精神との融合を要請し、人間を生物学的存在や精神的存在に
還元することを禁止する、人間表象の一種である。』(本書5頁)という
人間の法人格が表象するところのいわばあらゆる外部からの圧殺力から
生身の人間を守り抜く術としての<禁止の総体>としての<法人格>の
役割がきわめて重要となってくるというわけです。
その防波堤としての<禁止の総体=人間の法人格>が
まさしく狙われてきたということになるわけです。
そのようなわけで、
逆説的な観点から<法人格=純粋な人工物>の役割を再評価して
その「極度の抽象性・フィクション性・ドグマ性など」が果たしてきた意義を
再発見していこうと志向するのが本書で展開されていく
著者の強調論点だということになります。
そこから<法>(法権利)への話題にまで拡張させた
分析考察が以下なされていくということです。
そうした文脈から近現代が極限にまで推し進めていった
<人間>そのものにまで及ぶ科学的還元主義や
数理的人間観について厳しく批評されていくことになります。
(本書6~10頁あたりご参照のこと。)
「生身の<人間>とはやはり<価値意識>を宿した
世界に<意味づけ(物語化を図る)>する存在」なわけですから
<意味づけ>にあまり配慮してこなかった
従来の数理的人間観では<人間>そのものを説明し、
そうした様々な相互対立を招きかねない<価値意識>を整理整頓しながら
この世界内で互いの人間を調和させようとする思考(志向)方法論としては
まだまだ限界があるということですね。
とはいえ、こうした数理的人間観の大前提にある
近現代の「数学とは計算思考に還元される!!」との見立ても
現代数学における最先端では徐々に崩れてきているようにも感じられます。
そのようなことを前にもご紹介させて頂いた加藤文元先生の諸著作や
ガロア理論以後の数々の数学「観」を眺めながら考察していると
少しずつそのような狭小な数学的世界観や数理的人間観を
乗り越えるための洞察知見も垣間見られるようですね。
「数学もただ単に抽象的なだけではない!!」という視点は
本書の題材である法学(<法(法権利)>)とも共通要素がありそうで
個人的には一見すると「形式」論理に思われるその背景に隠れた存在として
ある世界(思想・人間)観に多大な知的好奇心がそそられます。
そのあたりの話題は本書の主題から外れてしまい、
今回の書評における主題でもありませんから
ここではこれ以上触れることを控えさせて頂きましょう。
(ちなみにこの数学の<意味づけ>作業の脆弱性から
人工知能=AIの現時点における問題点を捉えた視点を提供されているのが
昨年評判となった新井紀子氏の『AI vs 教科書が読めない子どもたち』に
所収された論考文<意味を理解しないAI >(上掲書107~119頁)や
井上智洋氏の『人工超知能~生命と機械の間にあるもの~』に所収された
各論考文のうち特に第5章と第7章あたりで考察対象とされています。
双方ともに様々な評価はあるかと思われますが、
1つの議論の糸口としてご一読・ご参照されることをお薦めいたします。)
さて、こうした人間の科学的還元主義のそもそもの由来は
狭義の中世ヨーロッパ「宗教」イデオロギー圧迫からの逃避がありましたが、
そしてそうした科学的還元志向があたかも<理性>を擁護する唯一の道だと
逆に「狂信」されていったのが
そもそもの「理性」的啓蒙によって人間そのものを解放しようと
欲したフランス革命を始めとする近現代諸革命の背景思想にはあったわけですが、
ここにはまた信仰「観」を巡る問題も潜んでいたのでした。
繰り返しになりますが、<人間>は生まれながらにして「理性」を宿すわけではなく
絶えず「理性」を再創造していく存在だったという著者の問いかけを
思い出して下さい。
ここからフランス革命の理念の着想母胎ともなった
『理性的存在としての人間』(本書13頁)が
<神聖にして不可侵>、あるいは、
アメリカ合衆国憲法や現在の日本国憲法にも理念的に継承されている
<人類普遍の権利>や<自明の真理>といった世界観への
通俗的な理解像とはまた異なった見立てが提出されていくことになります。
要するに、現実の「理性」に対する扱いが<狂信化>されていくと
かえって社会は大混乱に陥るというまさに著者自身の母国でもある
フランス国家の現実的教訓から問い直す作業がなされていくことになります。
「<人間>には「理性」がある!!」ということは
「信」という裏付けがなくては意味をなしません。
言い換えますと、上記革命や憲法などで表明された理念は
あくまでも「信仰」の告白を含んでいることを
忘却・軽視してはいけないということであります。
しかし、『私たちが<信じる>にはさらなる正当化し得る根拠』が
必要不可欠となりますが、その根拠理由などが
本書全体を通じて提示されていくことになります。
そして、その「信じ方」も理性の<狂信化>がもたらす人間の暴走と
結果として招来される社会荒廃を防ぎ止めるための
何らかの良き「知恵」や「平衡感覚」が必要となります。
その「知恵」を探し出す導き手として本書での議論が
有益な視点を提供してくれています。
この<エピローグ>ではそうした<法(法権利)>をいかに解釈するかを
巡る法制度・思想史的話題(コモン・ローや法実証主義=純粋法学運動など)も
批評考察の対象として取り上げられているわけですが、
これ以上説明を加えていきますと煩瑣になりますから
本書に委ねさせて頂くことといたします。
そこでの話題の中心にある論点を大雑把にまとめさせて頂きますと
要は、<価値意識>が<法(法権利)>制度として結実していく過程で
政治的に濫用されてきたことから、
そのイデオロギー的危険性を中和させるために
むしろ<法(法権利)>から<価値意識>を出来るだけ削ぎ落とし
「中立化」を図ろうとしてきた結果(そうした目的志向性そのものは
必ずしも否定は出来ません。ケルゼンなどの論争が有名。)、
皮肉にも<法(法権利)>そのものへの信頼性(権威や
権力=社会的効(神通)力)まで喪失させる事態へと進展させる
促進剤となってしまったということです。
ここにそのドグマ性=意味作用の表象の「場」としての<法(法権利)>が
希薄化されていき、
「科学」の名のもとに生身の<人間>を守る最後の砦としての要素が
徐々に掘り崩されていくことになりました。
その結果として今日の私たちの社会には大混乱がもたらされ、
多種多様な<価値意識>を有する人類が
この世界内で共存共栄し得るための共有可能な<価値意識>を
条件設定しようと図る<共通ルール>としての<法(法権利)>が
まったく機能しなくなり、各人各様の「裸」の<価値意識>が
原理主義的に暴走し、その対立混乱に歯止めが効かなくなっている
その根本原因を探求したのが本書の優れた点であります。
それでは<プロローグ>のまとめとなりますが、
「<法権利>の最大の特異点とは何だったのでしょうか?」
著者の言葉を引用してこの章の結語といたします。
『西洋の繁栄の基盤となった信のことではなく、西洋が隠し持っている
解釈の源泉のことである。他のあらゆる規範システムと同じように、
<法権利>は禁止の機能を果たしている。
<法権利>とは、あらゆる者の前に立ちはだかり、また各人と世界表象との
間を取り持つ、一つの<言葉>である。』(本書22頁)
要するに、多種多様な<価値意識>を有する人間同士を
結びつける最後の<絆=命綱=安全弁>であるということです。
そしてそのような<人間>の生存において安定基盤を提供してくれる
世界解釈を可能にする媒介項である言語や法が
生まれるに先立って存在していなくては
<人間>はたちまち精神的・物理的危機にさらされるということであります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・『Ⅰ 法的ドグマ-私たちを基礎づける信条』
①『第1章 人間存在の意味づけ~神の似姿~』
②『第2章 法の帝国~厳たる法、されど法~』
③『第3章 言葉の強制力~合意は拘束する~』
※第1章では、<プロローグ>の要約箇所でも触れさせて頂きましたが、
そんな「有限性」と「無限性」のはざまに立つ<人間>存在とは
いわば引き裂かれた人格を有することになるわけですが、
そこに何らかの安心材料となり得る触媒がなければ
たちまち錯乱状態(狂気)へと落ち込むということを強調させて頂きました。
そこでこの人間における<人格>という要素が
どのようなものとして考えられてきたのか古今東西の歴史的論争点などを
参照しながら分析考察が深められていくことになります。
まずは私たちの「理性」や「自由」といった概念が
きわめて脆弱な基盤にあったのだということを再確認するところから
議論が始まります。
『自己に立ち返り、私たち自身の理性の脆弱さに立ち戻ることによってのみ、
精神の精神自身に対する主権の限界を垣間見ることができる。』(本書29頁)
この<主権の限界>を常に認識しながら生きることが
<人間>存続の条件でもあることが示唆されています。
そのためにはこの世界が自分という存在のみで成り立っているわけではないという
証明「以前」の暗黙の事理(了解事項=共通ルール)を学び取らなくてはなりません。
そうした『限界の習得は、理性の習得でもある。』(本書34頁)ということです。
ところが、現代という時代はこうした限界点を突破しようとする欲動を
制御仕切れないほど科学技術が発達してきたことから、
再び<人間>の存続が危ぶまれる状況になってきています。
その背景には古代キリスト教などの背景にある特殊西洋的<一神教>的イメージ像も
潜んでいたようです。
そこに潜む<唯一>にして<全能性>というイメージ像こそが、
<人間>をある意味で「超人」へと引き上げる推進力ともなりました。
つまりは、<神の似姿>としての<人間>像であります。
ここから「人格」という同一性モデルも導き出されることになり、
後の法「主体」や法「人格」という着想の源泉があったことが示唆されます。
それは同時に極度な<個体性>をも生み出しますが、
そうした西洋的な<人間>観を保証するには
第三者の介在が必要とされます。
(『アイデンティティを保証する<第三項>』本書56~58頁)
それは同時にすでに触れ終えましたような
「信(信用・信仰)」という問題がその背景にはあったということでした。
しかしこの「信」が極限にまで行き過ぎると
かえって<人間>解体の危機へと誘われるということになります。
またその「信」を揺るがす事態が生起してきた場合にも
さらなる<人間>解体の危機が招き寄せられることになります。
(『全面的解放の先にあるもの-解体した人間』本書58~70頁)
第2章では、その「信」を安定させることで
<人間>の「同一性」を保証させ、「人格」の諸権利を擁護する役割を
果たす<法権利>の意義やその根源的理由について問い直す視点が
提供されています。
そしてそうした問いを禁じることによって
<人間>そのものを「モノ(客体)」としてのみ扱おうとする
法の「科学化」志向が厳しく批評されることになります。
(『法により説明される人間』本書91~109頁)
第3章は再び言語論的側面からの法の本質に関する分析考察がなされていきます。
言葉を介した「合意」内容の尊重。
法的表現でもって言い換えるならば
「合意=約束=契約は必ず守らなければならない!!
(合意は拘束する)」ということになります。
ここから「契約」の意義についての話題が展開されることになります。
その「契約」概念がいかに変容していったかが
古代ローマ法以来の歴史的変遷史とともに提示されていき、
その過程で「事物(客体)」と「人格(主体)」の分離問題について
触れられていきます。
この分離をこと<人間>そのものに当てはめてみた場合、
どのような影響が出て来るのでしょうか?
その前にこの「事物(客体)」と「人格(主体)」の分離問題は
あくまでもそもそも分離不可能な一体化した<人間>を
精神的側面と物理的側面の二元的側面にわけて考察するといった
西洋哲学一般に見られる思考法であり
「便宜的(仮定的フィクション)」な見立てにすぎないことを
忘れてはなりません。
西洋でも古代にはそもそも「一体化」させた思考法を
自然なものとしていたのです。
そのような「一体化」思考をいったん分離したうえで
再統合させた思考法がかのキリスト教義ではお馴染みの
「三位一体」思考法だったのでしょう。
ですから、まず本書での批評を理解するうえでの出発点としては
この分離思考こそが不自然であり、
不自然であることを忘れたうえで、
特に<人間>の客体(モノ)的対象化の側面のみを
前面に押し出した契約解釈に偏っていくと
どのような事態が招かれるのか?
そのことを想像考察することが
本章での問いにあたるわけです。
そうした問いに対する例証として
著者のご専門である労働法や経済分野で生起してきた
様々な問題点が提示され
本来ならば「契約」とは対等性の原則で成り立っていたものが
現在では契約当事者間の力関係次第で
一方的な<従属化>現象が頻繁に生起してきている事態を
どのような志向性や方法論でもって是正していくべきかが
『契約関係の再封建化』(本書135~144頁)で論じられています。
しかも現代の契約関係の<再封建化>とはただ単に<従属化>志向でもって
成り立っているわけではなく、
責任を有した法主体としての地位を表面的には保持しながら
自発的に従属関係へと組み入れられていくといった外形的特徴があります。
この論点をさらに掘り下げた論考が次章でも展開されています。
(第4章<制度からネットワークへ>160頁ご参照のこと。)
そのような『社会の契約化』(本書141頁)に伴う
従来の国家による社会福祉<制度>に代替する政策例として
フランスの社会参入最低所得保障(RMI)もここで取り上げられています。
ですが、本書によればこの政策的措置も
どちらかというと個人主義的色彩のより強い「契約」に近い
制度設計になっているようです。
それはともに増え続ける保険「契約」加入義務の増加といった
現象としても現れているといいます。
このRMI(最低所得が保障されるためには何らかの社会参入が
必要条件となるという条件付き給付<契約>)と
BI(ベーシックインカム<制度>=無条件一律給付)の比較考察も
この問題に関する識者の間ではしばしば論争の話題となってきましたが、
今回ご紹介させて頂いている本書の主題からは外れますので
省略させて頂くことにいたします。
さて、この章で話題となっている「契約」の再封建化とは
いったいどのような問題だったのでしょうか?
それは「契約」によって人間をあらかじめ特定の時空間領域へと
閉じ込めることで<従属支配>下に置くというヨーロッパ中世の
封建制度イメージとの類推からの再解釈であります。
このように人間を厳格な拘束下に置くということは
予測可能であることを意味します。
つまりは、人間は計算可能だとする人間観であります。
<プロローグ>での要約ご紹介箇所でも語らせて頂いた
数理的人間観の問題がこの単なる「契約化」にとどまらない
イデオロギーとしての契約「主義」と結びついた時には
『悲しき茶番』(本書144頁)といった惨劇がもたらされます。
そこでこうした惨劇を回避するためには
どのような志向性が必要とされるのでしょうか?
ここで再び「国家」の問題、言い換えれば、
『法と公共討議の問題』(本書10頁)、
つまりは、「信」の問題=「国家」によって契約上の格差を
是正・適正化を図らせようとする<第三者保証>の問題が
前面に出て来ることになります。
そうした文脈を経て
封建時代や独裁的全体主義の時代における国家とは異なる
イメージ像があらたに模索され期待されています。
その例示として本章でも「民営化」問題が取り上げられています。
そこで<法>と<契約>の関係性を位置づけ直すイメージ像を
提供させて頂くと、
<法>(国家・公的領域)には<契約>(民間・私的領域)への
統御機能が備わっているということになります。
ここでの<法>は<契約>よりも上位優先規範にあるものとイメージして下さい。
本章でも<契約>によってかつて<法>が請け負っていた役割を
下部の規範へと権限移譲させようと志向する
いわゆる法の「手続き化」現象によって「特別<契約>」が増殖している
事例が提示されています。
そうすると有名な法に関する諺にあるように
「特別法は一般法に優先する」あるいは「後法は前法を廃する」とあるように
<契約(特別法)>が<法(一般法)>に優先することになりますが・・・。
ここにもう思慮深く洞察力ある読者様であればおわかり頂けるように
現在の<法>と<契約>にまつわる政治力学のような関係性から見れば、
むしろこの法格言を再び覆さざるを得ない状況にあるというわけです。
まとめますと、<法(一般法)>によって<契約(特別法)>を
修正統御し直すということですね。
これまで見てきた論旨をあらためておさらいしておきますと
<法権利>の個人主義への矮小化こそがかえって<法>を支える基盤を
危険にさらすという著者の警告とも結びつくようです。
そのような問題意識を絡めて総合考量すれば、
<訳者あとがき>(本書346頁ご参照のこと)にもあるような
<法>の『西洋的ドグマとして意識的に位置づけられている。』(同上)という
意味も少しずつ見えてきたのではないでしょうか?
つまり、この「ドグマ性」こそが逆説的に
私たちの<人間>性を支えてくれていたのだ・・・と。
そこからこれまで多大な誤解がなされてきた
西洋近現代法の底流にある
人権の<自明の真理性>や<神聖不可侵性>といった
一見すると極度に抽象化された理念が持つ意義や役割も
少しずつ明確になってきたのではないでしょうか?
この論点は本書を今回取り上げさせて頂く直接のきっかけともなった
とある雑誌に所収された被触発論考文のご紹介とともに
再度あらためてエッセー記事コーナーにて
語らせて頂くことにします。
さて、本書には訳文や外国(とりわけ西洋の底流に流れる)法知識、
その法制度(思想・哲学)史から語源論に至るまでの
複雑な議論や解説はありましたけれども
著者が示唆して下さった『法の人類学的機能』とは
畢竟するとこうした問題意識に貫かれていたのだと
まとめることができましょう。
また、契約「主義」の弊害について。
この論理(合意は拘束する)を
極限にまで推し進めていくと<人間>を自滅に追い込むことがあります。
さらに、契約論理至上主義と世界(人間)観との関係性について。
こうした問題意識が含まれた名作に冒頭でご紹介させて頂いた
三島由紀夫氏の『青の時代』があります。
この小説を読み進めて頂くと、
<法>を支える背後にある世界にも自ずと考察が及ぶことになりますが、
本書における問題意識とも照らし合わせながらご一読して頂くと
本書で論旨展開されている抽象的議論についても
より具体的なイメージ像を掴むための補助教材となってくれるかもしれません。
この論点も後ほど項目をあらためて
先程触れさせて頂いた論点とともに語らせて頂くことにいたします。
実はこの2論点こそが、
今回ご紹介させて頂いた本書の核心部分にあたる主題だと
管理人が考えるからですね。
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・『Ⅱ 法の技術-解釈の素材』
④『第4章 諸々の技術を統御する~禁止の技術~』
※本章では、<法(法権利)>に内在する世界観が変容してきた軌跡について
技術の進歩とともに明証されることになります。
それでは、なぜ一見すると関連性がなさそうに感じられる
<法(法権利)>と<技術>との間に接点があると見立てられているのでしょうか?
それは、
『技術の進歩はそれ自体、ある時点における法文化に依存している。
自然そのものが法則に従っていると考えられ、当該法則の科学的発見が
技術の基礎とされたのは、西洋の諸制度が法の理念に立脚していたからである。』
(本書148頁)
この技術との関連性だけに視線を固定させてしまうと、
<法(法権利)>は単なる<技術=道具>であり
「価値中立的」だと錯覚してしまいそうですが、
本書全体を通じて著者が最終的に導出提起を願っておられたのが、
すでに冒頭でも示唆させて頂きましたように、
『つまりは、「<法>(あるいは<法権利>)とは
ただ単なる道具ではありませんよ!!」ということですね。』という
要点でありました。
「価値中立的」に<法(法権利)>を解釈するということは、
そこに何らかの<価値意識>を付着させない。
言い換えれば、私たち人間による<意味づけ>作業を
まったく伴わせないということになります。
しかし、<意味づけ>を伴わない<法(法権利)>とは
そもそも形容矛盾ではなかろうか?
すでにお察しのいい読者様であれば、
著者の言わんとされる心が少しずつ見えて来つつある頃合いかもしれません。
著者が労働法や社会法学者であったことを思い出して頂きましょう。
著者がなぜかくまでも<法(法権利)>の単なる技術(道具)化志向に
警鐘乱打されているのでしょうか?
本書で展開される論旨がなかなか抽象的すぎて掴みにくいと感じられた
読者様(管理人も一読した限りではわかりづらく、<訳者あとがき>なども
参照しながら要約作業に手こずっていますから、その気持ちは
十二分に共感できます。とはいえ、一応管理人の場合には
法学一般や法制度変遷史に関する予備知識がありますから
そうした「文化資本」を背景に皆さんに少しでもご納得して頂けるよう
精一杯努めていきますのでどうかその心をお酌み取り頂いたうえで
もう少しご辛抱願います。)には
まずもって著者のおおもとにある問題意識に
繰り返し立ちかえって頂くほかありません。
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<休憩を兼ねた余談コラム>
専門的予備知識がなく日常生活では
あまり馴染みがない難しい本を解読するに際して
一番よい方法は、<まえがき>や<あとがき>、解説などを通じて
おおざっぱな著者の問題意識を真っ先に掴んでおくことに尽きます。
簡約すれば、『論理とは原則として言葉を変えた主張の繰り返し』であります。
『どんな長い文章でも、論理という観点からすると、
すべてはたった一つのことのくり返しなのだから、
決して難しいものではない。文章が長ければ長いほど、
同じ主張をたくさんくり返しているのだから、
論旨を読み間違えるはずがない。
ただ、具体例やエピソード、引用など、形を変えて同じことが
くり返されているだけで、その形に目を奪われてしまうから
難しく感じるだけなのである。』
(『カリスマ受験講師の論理的に考える私の方法~
「自分の頭」がもっと賢く使える!~』出口汪著、三笠書房知的生きかた文庫、
2001年、81頁からの引用。管理人が大学生時代からたびたび参照してきた
出口<国語論理学>のエッセンス集であり、このおおもとが
今も受験参考書にあるのでしょうか? 90年代の高校生、大学受験生なら
ご存じだろういわゆる『実況中継シリーズ』の現代文講義ですね。
ご存じの方だと当時を懐かしく思われるかもしれない名著です。
今を時めく林修先生と確か同じ。
かの東進ハイスクールの名講師であります。)
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話題を本道に戻しますね。
「意味づけ」を伴わない単なる技術(道具)としての
<法(法権利)>観に立つと、
<法(法権利)>は単なる世の中で生起してくる
「事実」の後追いでしかなくなり、
<後付>機能しか果たさなくなります。
つまり、「事実」の後追いとは、
「事実」の追認にしかならないというわけです。
「意味づけ」を伴わない<法(法権利)>とは、
「理念」なき形骸化した事後立法同様の不安定さが残ります。
この怖さを皆さん、イメージ出来ますでしょうか?
このような<法(法権利)>が単なる道具化し形骸化した世界では
きわめて危険な政治的「決断主義」が優先されることになってしまいます。
著者がなぜ<法(法権利)>に「全体主義的世界」へと融解していくことへの
防壁としての役割を期待され繰り返し強調されてこられたのか?
という問題意識もこの点にこそあります。
これまた有名な法に関する諺ですが、
「緊急時には法を持たない」が常態化した社会とは
無秩序化した非常に危険度の高いハイアナーキーな社会であります。
ですから、あくまでもこの格言は
本当に最後の最後に残された最終手段だということです。
裏返せば、有事に即応できる法が事前準備された社会の方が
より予測可能で安定性を担保し得るということです。
これまた余談になりますが、その実際の解釈像や制度趣旨(立法目的)に
まつわる賛否両論はひとまずおくとしましても、
いわゆる改憲論議における「緊急事態条項」設定問題に関しましても、
あくまでも事前の予測可能性(明確性)を確保しておくことこそが、
実は最大の「民主的統制」を担保する道だということです。
その本質を共有することなく、
ただ単なるイデオロギー論争(これは実は建前)に終始したり、
政局問題=主導権争い(これが裏に隠された真の意図)の道具として
議論そのものを封殺(引き延ばし)することは
およそ民主主義国家(立憲主義)を標榜するどの政党(人)であれ、
国民のためには許されることではありません。
皆さんも政治報道や各有識者のコメント評価を鵜呑みにせず、
まずは事の本質を掴むように努めてみて下さいね。
そうすれば、「デマ(風評)」や「フェイク」情報に
騙される度合も少しは軽減されることでしょう。
それから複数の情報をクロスチェックしていくことも肝要です。
多忙をきわめる私たち一般人にとりましては、
本当に深刻な難題ですが・・・。
まずは議論の本質を掴み、共有対話できる状況を作り出すところから
始めるしか民主主義の前進(改善)はあり得ないということですね。
さて、このような<意味づけ>を伴わない技術(道具)化した
<法(法権利)>というイメージ像が
私たち生身の人間(社会)に与える帰結とは?
そのことを感受して頂く具体的論考が本章の核心部であります。
それは本章タイトルにあるように『禁止の技術』、
言い換えると、人間性(社会)破壊や圧倒的な支配権力を有した
(組織)集団による暴走を食い止める制御装置としての法の役割・本質を
考えるということですね。
ところで、本章では人類の長い歴史の中で科学技術が
かくまでも高度に進展してきたわけですが、
その過程で人間そのものが「モノ(客体化)」されてきたことは
すでに触れ終えましたね。
そのイメージ像をそのままお持ち頂いたうえで、
つまりは、近現代人は単なる「個体(単独粒子状)」の
バラバラにされた状態にあるというイメージです。
そのことを象徴した表現こそが、
まさしく「公民(公衆)」ではない「大衆(群衆)」であります。
そうした人間観とともに現代のデジタル・テクノロジーが
結合したらいかなる事態が招き寄せられることになるだろうか?
想像してみて下さい。
それが、「流動化」した<アメーバ状>に形成されていく
「ネットワーク型」社会であります。
それ自体が悪いという評価を下すことが
本書での狙いではありません。
『あくまでもそのような「流動化」し過ぎた社会において
現在の<法(法権利)>が、
どのように従来のものから変容・修正を迫られていったのだろうか?』を
読み解くことで何が見えてくるのかが本章での主題だということですね。
まとめますと、本章で論じられていることは、
ⅰ「制度」から「ネットワーク」へ(本書154~160頁)
ⅱ「規制」から「調整」へ(本書160~1664頁)
という大きく2つの観点から<法(法権利)>の変容と
それが人間(社会)に与えてきた影響について論じているということです。
そして、「ネットワーク型」社会において
理想像とされてきた
ⅰ「遍在性(すべてに対する公平性・平等性志向)」
ⅱ「透明性(すべてに対する公正性志向)」という見方も
現実には「限界」があるという問題点が摘出されたのでした。
その具体的事例として労働社会法と生殖技術が
抱えている問題点が提示されるという構図に
本章はなっております。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
⑤『第5章 権力を考察する~統治から「ガバナンス」まで~』
※さて、本章ではそうした前章における<法(法権利)>の変容といった
問題意識を受けたうえで、個々の権力的分析論が展開されることになります。
「ネットワーク型」社会。
それは、一人一人の各人「間」が
バラバラに「個体化」されるということでした。
それは情報ネットワーク理論にあるような
各人をいわば<結節点>と見立てるような社会でありました。
その関連性は必ずしも持続性を有したものでも
一義的に固定化されるものでもありません。
つまり、表層的には「有機的」にその関連性が見えることがあるにしても
持続性に弱く、多種多様に重層的であることは確かに
インターネットの思想がそうであるように<リスク分散>の思想に
馴染むものとして理想的に捉えられることもあるかもしれませんが、
すでにインターネット黎明期においてそれに表象させた理想像とは異なり
現在は大きな<リスク拡散>装置としての側面も
大きく社会問題となってきております。
とともに、以下で提示させて頂く論点も
たまたま先週末に友人と語り合っていた際に教えて頂いたことですが、
検索システムに見られるように
きわめて「同質性」の強い情報だけに接する機会しか
得られなくなってきている。
本当に価値として貴重かつ有益な情報は
かなり後方のページにまで検索を進めていきませんと
遭遇することはありません(場合によっては途中でページ表示が
終わってしまっている!!=情報の数量的制限。
情報価値×時間による経年劣化!?=質的制限などの情報選別条件設定が
アルゴリズムには組み込まれているからなのでしょうか?)し、
多忙な現代人はそんな面倒な検索時間をかけてまで
探そうとはしないでしょう。
現在の検索情報システムにおけるアルゴリズムが
具体的にどのような物理的構造となっているのかは
わかりませんが、
「文章」よりも「単語」重視の仕様になっているように思われることや、
検索<タイトル表示>(=皆さんがまず最初に検索して
見たいと思われた記事に出会うとクリックして入る「表題部」ラインのことです。)
そのものだけからは(もちろん、当ブログ記事同様にその<タイトル表示>とともに
少しばかりの導入記事も添えられていますが)記事全体の内容や質量、
その記事が提示する情報にどれほどの価値を有するものなのかもわかりませんよね。
そんなわけでだいたい検索システムの最初から5頁あたりまでで
最大公約数的な「似たり寄ったり」の記事が集約されてしまうという
短所がよく指摘されています。
もっともその数ページに質量ともに「当たり」の良質記事を
表示できるように管理人も日々研鑽を積み重ねているわけですが・・・
ユーザーの皆さんへの有用価値(ニーズ)は多種多様ですから
そのすべてにお応えすることは難しいですが、
少しでも皆さんに役立てるよう精一杯努めさせて頂いております。
何を申し上げたかったかというと、
要するに「同質性(均質化・画一化)」という
現在の「ネットワーク型」(社会)システムが抱える「限界」問題の
話題でした。
このような極度に「流動化」し過ぎた社会をいかに制御するかという
視点からはもはや具体的な支配者(権力層)がいずこにあるかが
「不透明」になっていくというわけですね。
そのことはすでに前回記事と前々回記事でも
重ねてくり返させて頂いた論点であります。
特に前々回記事の<ガバナンス>問題です。
本章はまさしくこの観点から見た
<法(法権利)>に特化させた論点提示となっていますから
個別の細かい要点は本書のご一読と
管理人による上記既存記事に委ねさせて頂くことにいたします。
ただそのことをご指摘させて頂くだけでは、
本書紹介者として著者にも読者の皆さんにも不親切だと確信しておりますので、
本章の強調論点として重要論考だと思われる項目タイトルだけは
ご紹介しておくことにしますね。
<主権の衰退>(本書187~205ページ)であります。
そしてその帰結が現代という時代状況を踏まえた
「再封建化」問題であったことはすでに触れ終えました。
「ネットワーク型」社会とは、<主権(上記項目箇所では大文字の「国家」が
主人公ですが)の衰退>をいとも容易くもたらし、
逆説的にも「自由」そのものを<従属化>させてしまうことになります。
この<自由を従属させる>(本書206~225頁)では、
「国家」に限らず個人から組織集団に至るまで
幅広い「民間」<主体>にまで含めた言及がなされています。
本章のまとめを引用しておきましょう。
『ガバナンス・イデオロギーの最大の懸案の一つは、
諸々の社会の歩みの中に紛争や人々の集団的行為のための
余地がまったく残されていない点である。
こうして逆説的にもこのイデオロギーが関係を結び直すことになるのは、
社会的紛争を一掃した社会という全体主義的なユートピアである。』
(本書225頁)と。
これが「調整」の問題でありました。
事前「規制」(行政権強化)から事後「調整」(司法権強化)と
90年代末期から00年代初期に有名な標語が飛び交いましたが、
その「司法権」が紛争処理に当たって最終判断する拠り所となる
<法(法権利)>(立法権)が衰弱しておれば、
途端に意味をなさなくなってしまいます。
契約成立に至るまでの「交渉」過程においても
現実的には圧倒的な当事者「格差」が存在するために
実質的な「対等性」を確保するためにこそ、
<契約(法権利)>よりも上位規範である<法>による
統御・修正機能に存在意義があるわけでした。
経済学的観点から言えば、この「限界」領域難問こそ、
まさに「情報の非対称性」理論(ジョセフ・スティグリッツ博士などが
研究・提唱)が示唆してきたところでもあったわけですね。
こうした問題意識をも組み込んだうえで、
人々と社会により公平かつ公正である当事者対等が確保されるような
志向性をもたせた<法と経済学>研究なら大歓迎なのですが、
現在における斯界の最先端理論がどうなっているのかは
管理人自身の勉強不足のため不十分なことしか
ここでは語ることが叶いませんが、
いずれにせよ、三島由紀夫著『青の時代』における
「数量」刑法学ならぬ「数量」法学志向を
色濃く有したのが<法と経済学>派だということは
一応のところ評価され得ましょう。
管理人自身の個人的な志向性としては
数理的な明快性を感じさせますので確かに魅力は感じるわけですが、
<法(法権利)>の意義・本質や
法学の最終目的がいずこにあるかを考えますと
それはまさしく<価値意識>の「調整」にあるわけで、
この「質的」認識を忘れた「量的」に極度に偏重させた
法学などあり得ないだろうと評価しておきます。
もし、契約「主義」にあくまでも拘るならば、
あらかじめその契約内容に未決定事項については、
『紛争が起き次第、双方において別途協議するものとする。』との
文言を入れておけばその文言に拘束されるわけですから
何も必要以上に事前に決定された条項文のみに
拘束されすぎることもない(そこはまさに<信義誠実の原則>と
<事情変更の原則=こちらは実際にはかなり限定されて解釈されることが
多く、実務的にも<法的安定性の原則>から使い勝手が悪い!!わけですが>
の問題であります。)とも思われるのですが、
契約「主義」を貫くと論理的には
契約の<無限後退>現象へと陥るわけですから、
どこまでの時空間で区切ってしまえるかは
当該紛争と当事者感情動向次第だということになりそうです。
そんな「曖昧さ」は<交渉>の余地を広げすぎて、
双方にとって面倒くさい!!と思われるほど
過度なまでの「個人主義的」人間観を宿した人間が増えてきたからこそ、
逆にこうした契約「(至上)主義」論者が
自ずと増殖し続けているのではなかろうかとの
時代的推測理由から提示しておきましょう。
つまり、究極的には<人間>と<世界>への信頼感喪失問題へと
行き着くということですね。
その背景にある世界観や人間観と<法(法権利)>像との関係性やいかに?
この面白いテーマも先に予定させて頂きました論点とともに
まとめて別途エッセーコーナーでまとめて語らせて頂くことにします。
紙数が長くなってきていますので、
要約作業をひとまず急ぎましょう。(冷や汗)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
⑥『第6章 人間を結ぶ~人権の正しい使用法~』
※前章までのおさらいをしておきましょう。
私たち<人間>にとってはこの世界で共存しながら生き抜いていくためにも
何らかの「意味づけ」作業が不可欠であることを
<法(法権利)>の背後に隠された<媒介的機能>が有する意義とともに
その重要性について確認してきました。
そしてそれは「信」を大前提とした<ドグマ的機能>でありました。
人類にとってこうした「信」は
多種多様な重層構造が織りなす混沌たる世界内で
安定感を保持するうえで重要な役割を果たすことになります。
しかしながら、各個人・人格・主体としてこの世界に立ちながら
<他者>と出会い、その「間」を適度な距離感でもって
結び会える何らかの<媒介的存在(第三項)>がなければ
人「間」としてこの世界に安心して立つことができません。
ここで重要な要点は<他者>との出会いということであります。
個人としてのヒトは<他者>との出会いなくして
人「間」へと進化することはできません。
では、<他者(異質者)>と出会うとヒトはどう変容していくというのでしょうか?
それはまず最初にこの世界に唯一無二なる存在として降り立ったヒトが
すべての世界解釈「権」を握っているという幻想(自負)が
打ち崩される瞬間に出会うという体験があります。
自律と他律との共存的存在としてヒトは<人間>へと成長を果たすということです。
それでは他律的要素が単体たるヒトに浸潤してくることは
いついかなる時でも安定感をもたらすのでしょうか?
ここに問題があったわけです。
ヒトが単なる自律志向だけを保持するのみでは
この世界を独り占めしようとする狂信化への道を
ただひたすら突き進むことになるでしょう。
そうした暴走はいずれ自滅的瞬間に自身を晒すことになるでしょう。
そうした姿勢では安心して自身を存続し得ることが叶いません。
そこでヒトは<他律的存在>と初めて遭遇するわけですね。
ヒトとこの世界を仲介する<媒介的存在(第三項)>たる
「天(神)」という存在です。
西洋でも東洋でも世界いずれの地域であれ
ヒトが世界で安定して立つためには
欠かせないイメージ概念の発見がここにはあったのでした。
ただその<媒介的存在(第三項)>に対する質感が
地域によって異なっていたというにすぎません。
ここから様々な派生概念が生まれていくことになります。
本章での主題である「人権」もその一つであります。
「それでは、ヒトにとって<他律的存在>が浸潤してくることは
いついかなる時でも安心要素となり得るのでしょうか?」
こうした<他律的存在>をもう少し掘り下げてみていくと
そこにはまた不安な要素も含まれていたのでした。
それが「支配-従属」関係の必然的介入の不可避現象であります。
ここまで語らせて頂いてきたことは
あくまでもまだ<媒介的存在(第三項)>を含まない
ヒトとヒト(世界を含む<他者(異質的存在)>)との
2当事者間だけの最単純化モデルとしての分析考察でありました。
そうした2当事者間だけの<媒介的存在(第三項)>を含まない
いわば「直接的」関係性は常に「暴力」が生み出されていく
温床となります。
なぜならば、単体としてのヒトが<他者(異質者)>と出会うということで
安定感を喪失させ、不安になるからです。
不安とは言い換えれば恐怖感であります。
今回の書評では主題から外れますので、
その一つの要因としてよく取り上げられる
生理的現象としての「免疫」機能(自己の存続を保持するために
絶えず<他者(異質的存在物)>を排出させようという機能)に関する
話題には触れません。
それではこうした本能的な生物(理)学的機能を抑制させ
社会の中でヒトとヒトとが「暴力」的存在として正面衝突しないためには
いかなる概念装置が必要となってくるのでしょうか?
ここに人間の特異性があります。
概念を「発明(発見)」する知的能力。
それは文字通り、擬制(フィクション・ドグマ)による人工制度を
創造する力であります。
この概念(人工的擬制制度)を創造させ得たからこそ、
人類は絶えず厳しい闘争文化の中にありながらも
何とか存続し得てきたのです。
「では、人類にとってこのような厳しい闘争文化が極限にまで至り、
存続の危機にまでさらされる時代に共通して見られた現象とは
何だったのでしょうか?」
この問いに応えるのが、
著者の主題である『法の人類学的機能』を
抽出してくる作業だったわけです。
つまり、そうした人類存続の危機にまでさらされる時期には
いったいどのような現象が生起しているというのでしょうか?
それが、<媒介的存在(第三項)>を成り立たせてきた
「信」の崩壊という現象でありました。
『その「信」を裏付けてきた存在とは何だったのでしょうか?』
古代から中世あたりにかけてまでは、「神」がその役割を果たしてきました。
そしてルネサンスなどを経て、
「神」とはいったいいかなる存在なのかを巡る諸論争を通じて
次第に「神」(とは実は<人間の似姿>だったのではないかと反転させた思考が
浸透していくことになります。ですから、人間ひとりびとりにより
「神」へのイメージ像がだんだんずれていくことになるわけで、
唯一無二としての絶対不動の存在として屹立していた概念への
「信」が喪失していくことになるわけですね。ルネサンスの本質とは
しばしば<人間>の「再」発見だと評価されますが、それはここらあたりの
事情を指すようです。)への信認度が薄れていくことになり、
それにつれて「人間」の相対的地位が上昇していくことになります。
その促進に貢献したのが諸「科学」でありました。
一方、居住空間においてはそうした諸「科学」が発展していくにつれて
皮肉にも人間がバラバラな個体粒子状の「モノ(客体)」へと
解体されていったわけで、不安感がふたたび現れ出てくることになります。
その不安な人間を再統合させる機能を有したものこそが、
近代「国民」国家という概念への創造移行でありました。
とはいえ、人間とはもともとがあまり<他律志向>に馴染むものでは
ないのかもしれません。
その<他律>から絶えず抜けだそうとする<自律>本能が働くようです。
ここから<他律的>に人間を再統合させようとする「国民」国家への
「信」がふたたび揺らぎ出すことになるわけです。
そうして<他律的>概念装置への「信」を喪失させていった先には
いかなる事態が待ち受けていたのでしょうか?
言い換えますと、不安定な個人を安定した存在へと
成り立たせてきた<媒介的存在(第三者)>への「信」が
喪失されていくということは、剥き出しの<支配-従属>関係という
「暴力」的連鎖の中へと回帰していくということでもあります。
そのような事態に至れば、
もはや冷静なコミュニケーションが図れなくなり
『万人の万人に対する闘争』観による自然状態へと引きずり込まれることになります。
このような「自然」状態はきわめて危険だとの認識的ズレこそが、
近代「革命」を正当化させた思想的根拠を巡る対立でもあったわけですね。
ここに政治的「右」「左」の世界(人間)観のズレが
可視(見える)化されていったわけです。
今回は政治面とこの世界(人間)観を巡る要素の対立問題は
主題から外れますので最小限に抑制いたしますが、
簡約すれば、『「右」=垂直的志向性、「左」=水平的志向性』と
ひとまずはまとめることができましょうか?
とはいえ、こうしたわかりやすい図式も決して「真実」でも何でもなくて、
現実の人間はこの双方の志向性が複雑に入り組んだ存在としてあります。
ただ気質や環境要因などによって絶えず変化・変容を
繰り返す存在としてあるというわけですが、
あまりにも激しく変動にさらされれば、
人間は破壊されてしまうことになります。
そこで精神の平衡感覚を取り戻す志向性が
ふたたび蘇生されてくることになるわけですが・・・。
現在という時代は絶えず激しい変動にさらされる環境条件にありますから、
こうした政治的な「わかりやすい」図式も実は現実には成り立たないわけですが、
ここに各種議論における混乱が生み出されていく要因が
孕まれていたということです。
しかしながら、そんな多種多様な<価値意識>から成り立つ複雑な人間が
社会の中で安定した存在としてふたたび立つことが可能となるには
いかなる条件が要請されるのだろうか?
そこに「共通ルール」としての<法(法権利)>の役割があったわけですね。
そしてそれに付随する概念が本章の主題である<人権>であります。
本章ではそんな<人権>概念が前章までに確認してきた
科学技術などの進展とともに変化・変容を遂げてきた
<法(法権利)>観の変遷とともに考察されていくことになります。
<人権>と一口にいってもそれへのイメージ像は多種多様。
なぜならば、<法(法権利)>観もそうであったように
その背景には必ず世界(人間)観の違いが控えているからです。
そこで、<人権>観を巡っても様々な対立があるわけですが、
本章では『西洋的ドグマ』を宿した<人権>観を主軸に据えながらも
決して単純な「普遍」概念として受容されてきたわけではない模様が
古今東西の<人権>観と比較考察することを通じて
明証されていくことになります。
ですから、著者は決して『西洋的ドグマ』としての<人権>観を
固定したものとして「原理主義(何が何でもこれしかない!!)」と
捉えられているわけではありません。
そうして批判される<西洋的原理主義>には
いかなる「主義(イデオロギー)」が潜んでいたのだろうか?
ⅰ メシア思想
ⅱ 共同体主義
ⅲ 科学主義
この3点をそれぞれ批判的に検討していくことになります。
なぜならば、『西洋的ドグマ』としての<人権>観は
それを受容できる者にしか説得力がないからですね。
こうして著者の問題意識はもともと<価値意識>が多種多様である
人間同士、当然ながら<人権>観が異なっていくことは
致し方ない現象だとはしつつも、
そのままでは人間同士が永遠の対立闘争観の「自然状態」へと
引きずり込まれた存在として生身を晒し続けることになりますから、
その悪循環を断ち切る知恵として
ふたたび「共通ルール」としての<人権>観を
今後どのような方向へ創造していけば共有可能なものへと
立ち上がっていくのか?
そうした問題意識を下敷きにして
<解釈の扉を開く>(本書247~262頁)ための
道標を提示して閉幕されていくことになります。
それでは最後のまとめに入ります。
こうして本書を読み進めてきましたが、
人類史を通じて「共通ルール」としての<媒介的存在(第三項)>を
堅固に構築していく知的作業は決して容易な道ではなかったという
教訓が得られました。
つまり、<法(法権利)>には絶えずその創造的機能と
確認的再発見機能があったのでした。
この両義的機能を精確に理解していくことが、
これからの人類がふたたび「協和」的存在へと静かに回帰していくためにも
必要となる共有的知恵となるようです。
そして、そうした<媒介的存在(第三項)>としての
<法(法権利)>や<人権>が確固とした「共通ルール」として
受容されていくためには、それを保証する装置への信認も
必要であったことを再確認しておきましょう。
それは、揺るぎなき「永遠」志向を宿すことが出来そうな
概念装置であったことも見てきました。
その役割を今日まで長らく果たしてきたのが
「国家」という存在でありました。
ここではあくまでも近現代以後の「国民」国家の原理的機能に
絞ってまとめさせて頂いております。
それ以前は「神」がその代替役を長らく果たしてきたことも
見てきました。
そうした教訓を大切に保持することは、
必ずしも「原理主義」としての国家「主義」や
「神」への狂信的崇拝観を万人に押しつけるものではないことも
示唆されてきたところです。
現在までのところ、
そうした<媒介的存在(第三項)>への信認を保証する概念装置として
「国家」に強い存在意義を集約させてきたというにすぎません。
その「国家」観への姿勢は<訳者あとがき>(本書345頁)に
描かれているとおりであります。
ただ近現代以後、現在にまで至る過程で
科学技術の高度化とそれに伴う<媒介的存在(第三項)>の
単なる道具化=形骸化がもたらした様々な社会的荒廃現象が
生起してきていることで、人類はもはや取り返しがつかない
自滅の一歩手前にまで進みつつあるように強く感受されてきたからこそ
著者も自滅を回避するための知恵として
<連帯原則>の再確認を読者に促されてきたわけですね。
(<連帯原則を再訪する>本書252~257頁)
『あらゆる者に解釈を真に開いた<法権利>という道こそが、
進むべき道であるのは、人類がその無限の多様性を保ちながら、
互いを結びつける諸価値について同意に至るための、
唯一の道がそれだからだ。
そのための前提は、北側諸国が自分自身の着想を常にあらゆるところで
押しつけることをやめ、人間による人間への問いかけという
共通の作業において、他者たちの教えに耳を傾けることである。』
(本書261~262頁)
それが本書から読者の皆さんへと送られたメッセージであります。
再度重要なことなので繰り返しを厭わず強調再確認しておきますが、
<媒介的存在(第三項)>なくした剥き出しの「裸」のままで
「自然状態に還れ!!」と叫ぶような思想は
政治的立場を問わずに危険な道だということです。
その意味で人類共存と世界存続のためには
<媒介的存在(第三項)>の廃棄を決してしてはならないのです。
つまり、「自殺」や「他殺」を招くような思想は
端的に言って「絶対ダメ」な思想だということに尽きます。
それとともに著者からの強いメッセージとは
本書では深く掘り下げた論考にまでは踏み切れなかったようですが、
<訳者あとがき>(本書346頁)でも紹介されているように
『フィラデルフィアの精神』を再確認することであります。
市場経済「原理」主義が世界各地で浸透していく途上にある現在、
社会正義の後退(衰退)や人間環境を破壊する推進力をなす
破壊的力学をどこかで堰き止めるための「防壁」を
構築していかなくてはならない時期・・・。
日本国憲法にもこの精神が組み込まれているという以上、
各条項を巡る改憲議論の賛否両論を問わずに
少なくとも「人間と環境存続(持続可能性)の原則」だけは
最後の「防波堤」として是が非でも護持しなくてはなりません。
それは「生きとし生ける者すべてへの生存権の保障」であります。
そうした文脈で今も揺れ動く憲法観や人権観、
はたまた国防観を巡る様々な対立も源流に遡れば、
すべては世界(人間)観が皮相浅薄な方向へと
押し流されていっているからにほかなりません。
国防条項にしても生存権条項にしても
そもそも何のためにあるかと言えば、
<人間性>を回復させるためにあるわけです。
ただその回復復旧させる処方箋が時と場合によって
変容していくだけであり、「座して死を待つ」ことを
意味するわけではありません。
そしてこれまでの人類前史を振り返りながら
この日本国憲法を今の時点で再評価してみると
確かに様々な欠陥領域や空隙があることは否めないにせよ、
『人類と世界に再び未曾有の惨禍をもたらさないため・・・』
(前文大意)であります。
ただ前文でも強く宣言されるように
『諸国民への公正と信義に信頼するためにも』
常に<他者(異質者)>との対話の道が開かれていなくてはなりません。
それは確かに困難な道のりではありますが、
「信じ切る」ほか前進もあり得ません。
『それでも人類は未来を賭けて何とかやっていかざるを得ない』
(三島由紀夫著『美しい星』第10章ご参照)のです。
日本国憲法改憲論議を巡る様々な路線対立は今後とも残り続けるでしょうが、
一つだけ確かなことが言えるのは、
この憲法自体も決して未だに人類の「極北」地点ではないということです。
先にも触れましたように
法には<創造的機能>と<確認的再発見機能>があるのだと申しましたが、
特にここでは<創造的機能>により着目して頂きたいのです。
この両義的機能はそれぞれ単独で成り立っているわけではなく、
「相互作用」しながらともに交流・交換しあっているということです。
進化した憲法としてより良き方向へと
もし「改憲(改良)」していく道を採るのであれば、
宇宙的視野、人類の霊性的側面を豊かにしていかなくてはなりません。
難しい道ではありますが、政治的立場を問わずに
皆さん是非ともお互いに力を合わせていこうではありませんか・・・。
本書はこれまで読み進めてきた社会科学啓蒙書の中でも
かなり高い評価を下せそうです。
まずは本書で示唆されたような<媒介的存在(第三項)>への
認識を確認共有することから始めていきましょう。
その認識への深い理解が得られた時にはじめて、
<法(法権利)>や<人権>を規定するには
高度に抽象化された表記方法を採用せざるを得なかった
背景理由や歴史的教訓の「重み」も実感されてくることでしょう。
ということで、2019年、世界が「猪突猛進」して
互いに衝突していく恐れが色濃くある渦中だからこそ、
本書をご一読しながらともに考察して頂けることを願います。
『世界の<おわり>ではなく、<ふたたび歩み始める>ためにも・・・』
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・<注>
・<訳者あとがき>
・<人名索引>
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
自己の打ち立てた契約「至上主義」(世界認識フレームワーク)に拘束されて<逃げ場>を完全喪失させた人間が向かう先とは?~『青の時代』で読み解く人間終焉(挫折逆境)論序説~
さて、本書評要約仕事もようやく一区切りがつきました。
ここからは恒例の硬軟織り交ぜたエッセーコーナーへと
移らせて頂きましょう。
まずは要約書評記事内でも触れさせて頂いた
今回の書評にてご紹介させて頂いた本書との出会いにまで
至る経緯から始めましょう。
先程の要約記事内で
『これまで多大な誤解がなされてきた
西洋近現代法の底流にある
人権の<自明の真理性>や<神聖不可侵性>といった
一見すると極度に抽象化された理念が持つ意義や役割も
少しずつ明確になってきたのではないでしょうか?』と
皆さんへ語りかけさせて頂きました。
これは今回の場合には法学的視点からの問いかけでありましたが、
日常世界における一般論にまで敷衍して問い直せば
いわば「永遠の<理想(理念=当為=あるべき論)>と
<現実(存在=ある論)>との心理的・物理的葛藤劇」だと
言い換えることもできましょう。
一般人に幅広く共有されている日常的生活感覚(常識像)からすれば、
<理想>という上位規範イメージ像を
<現実>という下位規範イメージ像へと引き下ろして
生活していくのが通常のあり方だと思われます。
これはさらに言い換えるならば
<理念=希望=光>と<現実=絶望=闇>との闘争劇だとも
見立てることもできましょう。
とはいえ、こうしたイメージ像もあくまで人間の知的思考法に
多く見受けられる「二項対立」像による見立てから出てきたもので
あることを常に忘却してはなりません。
ここらあたりの単純なイメージ像から
人間的な思考「錯覚」が始まるわけです。
あくまでもこうした「わかりやすい」図式像も
思考の節約を図るうえでの便宜的見立てにすぎず、
この最単純型思考モデル(イメージ)像を
そのまま<現実>へと適用してしまうと
もう「対立闘争観」へとほんの一歩のわずかな距離であります。
そうした根本的要因はいったいどこに由来するものなのでしょうか?
人間の固定的見方をなす「偏見(執着的狭量観)」が
導き出されてくるイメージ思考の源泉に関する話題のことです。
この難問を冷静に読み解きながら
「対立闘争観」へと陥らないための
日常生活における知恵と工夫へと結びつけていくためには
どのように問い直せばよいのでしょうか?
管理人が当書評を通じて最大の主軸に据えてきたのは
この最難関所だったのでした。
「対立闘争観」を少しでも中和させていくためには
どのような思考のロードマップを描けばよいのか
そればかりを主題に様々に「観点」を変えながら
考察を進めてきました。
この「観点」はその主題を多角的・鳥瞰的に見つめ直すことを通じて
思考の閉塞回路を打破していく一つのきっかけを提供する
着眼点にしかすぎません。
ですから、「観点」は変わり得ます。
不安定だということです。
そのうえで、『ではその「観点」とやらはどこからやってくるか?』と
ふたたび問えば、
それは当人の最初にひらめいた問題意識ということになります。
それで問題意識とは何か?
そうした問いを解いていくために必要な
大本の「知的認識フレームワーク」ということになります。
その「知的認識フレームワーク」を形成してきた
さらなる大本の源泉とは何だろうか?
・・・と考えていくのが
「メタ(メタフィジカル=形而上学)哲学」の役割であります。
そこには「暗黙知」という問題も含まれています。
この問いを考え続けていくことが
実は<人間>そのものを理解する糸口にもなるというわけですね。
そこで、管理人は
『<人間>とはどのように成り立ってきた生物なのだろうか?』を主題に
以前マーク・トウェインという有名作家のあるエッセー論考集を
ご紹介しながら考えてみたことがありました。
(ご紹介記事はこちらからどうぞ。)
その難問は今も思索続行中で安易な解答は提出できません。
今この記事をご紹介させて頂くにあたり
読み返しながらこの問いを解き続けている途上にあるわけですが、
上記ご紹介記事で暫定的に提出させて頂いた頃とは
少しずつ考えも深まってきたせいか
どうも「誤解」もあるように感じられて、
老人の見立てに対するあの若者同様に
管理人もかなり「動揺」しております。
「(自由)意志」と「自由選択」の関連性についての
見通しがあまりうまく出来ていなかったのかなぁ~と
反省しているところです。
というのは、「自由選択」もその「意志」があればこそ
出来るわけであって、逆に言えば、
「(自由)意志」なければ「自由選択」など
本来出来ようがないはずだからですね。
論理的にはそうなりそうです。
そうした問題意識を今回の書評記事内でも
ご紹介させて頂きました井上智洋氏による
『人工超知能~生命と機械の間にあるもの~』所収内の
各論考点とともに考え続けてきたところ、
ふたたび疑問も出てきたということになります。
そこでマーク・トウェインが問いかけたような
「知的認識フレームワーク」を形成させていくにあたって
多大な影響を及ぼすことになる
<気質(先天的)>と<信条(後天的)>の話題へと
ふたたび戻ってきたということになります。
こうした問いを考え続けているうちに
次に出てきた問題意識が
「<理想(天上界的聖人視点)>と<現実(地上界的俗人視点)>で
引き裂かれる<人間>」というイメージ像でありました。
これは前にもご紹介させて頂いた林田明大氏が
いずこかの講演会でたとえ話として引き合いに出されていた
ルドルフ・シュタイナーによる<人間>を描いた象徴的彫像
(天と地の両方へと手を押し広げた<人間>彫像。『人類の代表者』)が
示唆してきた問題意識にも通底する問題であります。
こうして管理人自身による長年にわたる問いと
ご縁を頂いた様々な方々によって提供頂いた
宿題を抱えながら、次に考察が及んだのが、
『それでは、このように引き裂かれた<人間>を救い出す導き手として
どのような「観点」が必要となるのだろうか?』と
さらに問いを煮詰めていくうちに
「そうだ、<媒介的存在(第三項)>にまつわる論点もあったよなぁ~」と
思索を掘り下げていくうちに、
ついに<神>と<法>そして<貨幣>の問題へと突き当たったわけですね。
<貨幣>論については、
故今村仁司氏による名著『貨幣とは何か』(ちくま新書、1994年)が
その導き手となって下さいました。
そして<神>については、なかなか日本人には馴染みにくい
複雑な「神学論」へと深入りしていき
頭が混乱してきますから現在のところは保留中といったところ。
さはさりながら、「近代とは<神>が死んだ時代」だとの
ニーチェ的問題意識から
「それでは、<神>が死んだら<人間>はどうなるんだ?」と
突き詰めていけば、
今度は<人間>自身が<神>にならざるを得ないのだという
問題に出会ったわけですね。
これが本書でも触れられていました<神の似姿>としての
<人間>論の端緒だということになりますが、
実際にはこの逆のイメージで突き進んできたというわけですね。
<人間の似姿>としての<神>という話でした。
そのこともすでに要約記事内で触れ終えました。
それは、生身の不完全な有限なる存在である
<人間>の身の丈に合わない無謀な姿でもありました。
近代はルネサンス以来の「ヒューマニズム(これには様々なニュアンスが
付きまとっているようですから一義的にその本質により相応しい邦訳語に
移し替えることも叶わず、ここでは誤解を避けるためこのまま留保しておきます。)」観を
さらに復興強化させていくことで
いわゆる「人類教」へと進化を遂げていくことになったわけです。
ここで「理性」の問題に遭遇するわけです。
つまり、「<人間>理性はいったいどこまで正しく機能してくれるのだろうか?」という
問題意識でありました。
ここに「理性(人間性)」の限界を忘却させた<人間>が辿り着く
精神的病理現象との接点も出て来るわけですね。
それはまさしく「狂気」の世界であります。
それが近代以後にそれまでとはまた違った思想・発想に由来する
大規模な惨害をもたらした「革命」や「戦争」が
人類へ与えた教訓でありました。
近代以前と以後の「戦争」観はどう違ってきたのだろうか?
もっとも惨劇はいつの時代も共通にありますが、
「慎み深さ」というのか「畏怖」というのか
そのような心理に基づく知的謙抑性が
「理性(知性)」に対する偏重した信頼を寄せてきた
近現代へと近づいていくにつれて
むしろ喪失させてきたとも評価出来ましょう。
その大本の原因とはいかに?
ここに<媒介的存在(第三項)>が
<人間>に要請される理由がふたたび問い質されることになるわけです。
<媒介的存在(第三項)>への「信」を喪失させたことが
人類の「暴徒化」を促進させる原動力となってきた・・・。
その反省から国家の場合には「主権」概念、
人間個人にとっては「人格」・「主体」概念が
ふたたび問い直されるきっかけとなってきたというわけですね。
まとめますと、<人間>にとって
かくまでも<媒介的存在(第三項)>が
その暴走(「狂気」への道)を食い止める「歯止め」として
認識されるようになってきたからこそ、
近代の権利章典や各国憲法の精神に
抽象的理念としての<法>的人格像が据えられたということになります。
しかしながら、本書がこれまでに強調して
問題提起してきたこととは・・・。
その抽象的文言を巡るイメージ像の違いに由来する
解釈を巡る混乱と誤解。
それが招き寄せるあらたな悲劇的実例の提示を通じた
『<法>の人類学的機能』をキーワードにして
抽出されてきた洞察知見だったのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<コーヒーブレイク~管理人自身の受験生活・進路選択体験記を素材に
皆さんにも真剣に吟味して頂きたい大学(学部)進路アドバイス編~>
そこで管理人もそうした近代権利章典や憲法典が
紹介される過程で幼少期から公民教科書などを通じて
一般的な誤解イメージをたびたび植え付けられるようになり、
<理念>と<現実>を結び止める「糸」が
本来は<法>そのものに内蔵されているはずなのに・・・
「そうした肝心要の法に内在する<心>が教えられることがない・・・。
というよりも、この先生はいったいどこまで<法>や<人権(権利一般)>と
いったイメージ概念を捉え切れているのだろうか?
そのくせ口を開けば<人権(平和)は大切ですから守りましょう!!>だとか
<いじめは絶対ダメ!!>などと指導する割には
いざいじめられた時には逃げを打つ・・・。」
もともとの幼少期からの神経質な管理人の<気質>もありましょうが、
こうした後天的な教育体験から獲得されてきた<信条>とも合わさって
いざという時にはいわゆる<左派リベラル>系人間は信頼出来ないし、
確固たる思想信条を特に持ち合わせるでもない単なる<事なかれ保守>系の
人間に対してもますます不信感が芽生えていったというわけです。
そこで一般的に公民教育で刷り込まれた<人権>や<平和>を担保するはずの
<法(権利一般)>に対する抽象的理念像に違和感が
少しずつ高まっていったということになります。
つまり、本書やもう少し後でご紹介させて頂くことになる
本書ご紹介へと至る直接的被触発論考文で提示されるような
洞察知見に出会うまでは(大学や実務的専門法学教育を受けていても
長らくこうした違和感が続き、ずっともやもやとしたものを抱え込みながら
『<法>とはいったい全体何なのだろうか?』との問題意識を
持ち続けてきたのでした。)誤解したままに
世間一般の批判的イメージ像同様に
『<理想(念)>そのものを<現実>に引き下げていく』という方向性で
現実社会では法解釈をしていかなくては役立たないのではないかなどと
思い込んでいた場面もあったのです。
こうした<現実>に<理想(念)>を引き下げて解釈していく志向性が
「右派(保守的)」誤解だとすれば、
「左派リベラル」による解釈志向では<現実>を<理想(念)>へと
引き上げていく姿勢だと言えましょうが(このイメージ自体は
まぁ良いとしておきましょう。)、あまりにも双方を
かけ離れた対立像として捉えすぎる嫌いがあるためなのか
いわば「宙に浮いている」とでも形容出来るような
実際の紛争現場ではあまり即戦力となってくれそうもないように
感受されてきたわけです。
「ひょっとしたら、この左派・右派ともにある<法(権利一般)>に対する
一般的誤解があるからこそ、いつまで経っても議論する際における
共通前提条件が芽生えてこないのではなかろうか?」
「この大人たちはなんでこんなに激しく対立しているのだろうか?」
「それが子どもの世界にまで投影されてきているのではないか?」
「でも、<法>があえて抽象的理念像を掲げているからには
やはりそこにはもっともな理由もあるはず。」
「なぜならば、あまりにも現実社会に引き寄せた解釈をし過ぎれば
かえって紛争解決は遠のき、人権を擁護し切れない局面も出て来るとしたら、
あの弁護士バッジにある天秤棒の彫像に象徴されるように
バランス感覚が失われ、紛争解決の<物差しとなる一定の評価基準>である
法に仮託された理念も絵に描いた餅になってしまうのではないか?」
「そうだとすれば、法の根本的存在意義すら失われてしまいやしないだろうか?」
などなど・・・。
そうした個人的体験から
初等中等義務教育での先生方の解説は
「そもそもおかしいのではないか!!」と違和感を覚えだしたことから
大学進学に際しての学部選びに「法学部」を選択したわけでした。
「法学部」に進むという動機はもちろん将来の社会人生活における
実益という側面もありましたが、その当時は法律関連資格取得などに
有利だからだという理由よりも
むしろ「社会の仕組み(システム=からくり)って
いったいどないなっているんやろか?」という子どものような
素朴な疑問の方がより勝っていたからでした。
それと理数系学問には多大な知的好奇心が幼少期からありましたが、
受験対策上、『絶対に「現役」で入学せよ!!』との至上命令も
両親から下されていましたから、
理数系科目の勉強も時間切れになるため諦めざるを得ず、
受験校のランクを落とすわけにもいかず、
生活費も含めて諸般の事情を総合考量したうえで
「論理的」能力も身に付くことが叶う
関西圏の「法学部」がある私立大学に絞ったという経緯がありました。
それでも関西圏は1校だけの勝負でしたが・・・。
いわゆる「関関同立」に属する我が母校以外の大学には
まったく興味がなかったこともあります。
それともともとの親類縁者が京都(丹後・丹波・但馬地方。
ちなみに<洛中>は山城であり、京都<中華>思想からは辺境周縁部として
上記地方は差別されてきたようですが、父方の祖母や
ご先祖様はたいそうな「誇り」をもっていたようで
管理人も古代からこの「日の本」を守ってきた最前線基地の役割を
果たしてきた歴史的経緯のある地域ですから
その「誇り」の血を宿しているようです。
「元」伊勢社、「元」出雲社の双方の神社がありますし、
中央政権や世間での差別から逃れ出てきた人々を
温かく迎え入れる土壌もあったようですね。
あの明治維新の陰の立役者である木戸孝允も若い頃逃れてきていましたし、
「粛軍」演説で有名な斉藤隆夫代議士も出石出身などなど
この地に芽生えてきた文化土壌なかりせば現在の日本も
さらに悪化していたのではないかと思われるほど
優れた日本文化の<緩衝剤>役を果たしてきた地域だったからです。
ですから、井上章一氏『京都ぎらい』に込められた隠れたメッセージも
何となく理解出来ます。こんな違和感を抱えながらアマゾンでの評価を
見ているとやはり同感されている方もおられるようでしたから
なぜか安堵感を持ちました。)出身でもあり、
親類縁者の中からは複数名も母校出身者がいたことから
おそらく子どもの頃から親しみと憧れをもって眺めていたのかもしれませんね。
さらに管理人がお世話になった塾の先生方にも
母校の先輩がたくさんいらして、
優しく時には厳しく非常に熱意をもって教えて頂いたことからも
段々と進路先を絞るようになっていったようです。
そんなことから学問するなら落ち着いた「千年の古都」であるらしい
京の都にしようと決めた経緯もあったのでした。
ちなみに本当に地味に丁寧な学問がしたければ「同志社」大学よりも
「立命館」大学をオススメ致します。
学際提携や学外提携から
はたまた国際的ネットワークに至るまで
学問するにはその裾野の広さもまた重要だからです。
また奨学金制度なども充実しているようです。
但し、漏れ伝え聞くところによると
その審査基準が管理人の頃よりも
年々歳々厳格になってきているそうですが・・・。
まず前にもご紹介させて頂きましたように
図書館蔵書数が関西私大の中では非常に充実しています。
昨年、堂本印象美術館へ観覧に訪れた際(念願の最高裁に掲示されている
現在は非公開とされる聖徳太子ゆかりの大絵巻を
堪能できて有り難かったです。)に
ちょうどお昼時でしたから
母校の食堂に立ち寄ったわけですが、
管理人の頃とは、旧図書館もその前にあった生協購買部のあった会館も
建て替えのためなくなっていたり、
存心館地下(ぞんちか)食堂の内装も変わっていましたが、
まだあの頃の面影も残っておりましたから
懐かしい思い出に浸りながら食事していました。
そうした最近の極私的訪問体験感想はともかく、
明治以来の御皇室とのご縁や京都大学とのご縁も深いので
その後の大学院進学や社会に出てからの真の実務的能力形成や
ご縁形成の際における親しみ感(庶民感覚。今はどうか知りませんが・・・。
まさに<上下一心(五箇条ご誓文)>の心にて。
管理人の「夢」の一つにこうした身分に関係なく
上下階層を結びつける<扇の要>的仕事もあります。
昔の外交官志望を別の形で活かしたいわけです。
そのためには<人間学>を実地に学び続けなくてはなりませんが、
これがまた面白いのです。
本当に社会には様々な人間がいますから、
人間観察をしているとネタに尽きるということもありません。
最近本当に強く感受いたしますのは、
人と人を「結ぶ」ことで自分自身もますます幸福度と運気が
高まってきていることです。
もっとも誰と誰を「結ぶ」かは自他ともの
「信用度(紛争回避力)」にも直結してきますから
厳しい目利きの能力も必要不可欠となってきますが、
あまり「差別意識」や「価値意識」に拘泥し過ぎることなく
その方のニーズに合った方をその時々にご縁頂いた方をご紹介することで
自身の世界観も拡張していきますから、
これはタイトルにもありますような
<知的認識フレームワーク>を打破していくうえでも
多大な役割を果たしてくれています。
丹波哲郎さんのような「大霊界」的人間観にも通底する感覚です。)が持てますし、
社会人になってからも様々な局面で実際に体験もさせてもろたからです。
皆さん、気さくで親しみやすい方ばかりでした。
関西ではお馴染みの
お茶の間感覚風番組『ちちんぷいぷい』の河田直也先輩による
『昔の人は偉かった』シリーズなどの報道紀行モノには
管理人も<紀行文>創作のうえでアイディアをもろています。
ちなみに米国ではそうした大学ネットワークを通じた
ご縁形成という要素も重要だそうですよ。
とはいえ、格差や差別偏見助長のために
社会が歪められていく<排他的>ネットワークともなりやすいですから
批判もあるようですが・・・。
ここに集団組織の怖さもあります。
だからこそ、社会には多種多様な階層を尊重する仕組みづくりが
何よりも大切となるわけです。
管理人は言うまでもなく<排他的>にはなりたくありません。
どなたにでも学び得てきたことをお裾分けしたいという理念から
愛情をもって当記事を創作させて頂いております。
豊かな<文化資本>を持てた好運な者ならば
確実に社会へとご恩返しをしなくてはならないからです。
それが<ノーブレス・オブリージュ=高貴なる者の義務。
別に管理人は<高貴>ではありません>という名の
務めでありましょう。
要するにそのような良い意味での「誇り」意識のことです。
そのうえ社会的に様々な生活体験をされてこられた(いる)
大変ユニークな方々も多いので
変な「プライド」意識もないように感受される
<「誇り」はもちろん誰しもありますが、ここでは皮相浅薄な
偏狭的「プライド」のこと>ので
複雑な社会を生き抜いていくうえでは柔軟な感覚を養えるかと
思います。
それで母校出身の水上勉氏の仕事(労働)観に関する著書には
大変お世話になり、逆境や挫折にも耐え得る知恵を
お裾分けして頂いてきました。
以上は少し母校の宣伝になりまして恐縮です。
そんなわけで今も「誇り」に思い、
愛着をもって母校ゆかりの方々のご活躍を眺めております。
そして「励まし」を頂いております。
皆さん、本当に有難うございます。
今から思えば危険な「賭け」でしたが・・・。
管理人は「賭け」事が好きなのです。
だって、「おもろい(面白い)」でしょ・・・。
(もちろん、関東首都圏の有名校もいくつか受けて
合否半々の戦績で受験生活とやらを終えましたが、
その中には司法試験や公務員試験で高成果を出している学校も
ありましたが、別に「東国」に興味関心が必要以上に強くあったわけでもなく
<在原業平ばりに「東下り<伊勢物語>」を楽しめるならば話は別ですが・・・>、
将来の就職上の利便性などを考慮すればそちらの方が断然有利なのでしょうが、
そもそもあまり就職そのものに興味関心がなかったという
子ども時代からの「自由」を希求する悪いクセがあったのです。
本音を言えば、三度の飯やあれこれの世俗的欲望物よりも
「学問だけが強烈にしたい!!」という
今時「天然記念物」な少年だったからです。
だから、当然同世代からは浮きますわな・・・。
それでも奇特な少数の友人知人が側にいてくれたからこそ
今日まで生き抜いてこれたわけです。
こんな「けったいな奴」です、管理人は。
ですから、今の創作活動もその「夢」の続きであります。
これは『夢芝居』(梅沢富美男氏)なのです。
だからこそ、南方熊楠氏や宮武外骨氏のような
民間「在野」研究者に強い魅力を感受してきたわけです。
またそうした「批判」というよりも
「諧謔精神(関西弁では<おちょくる>心とでもいった遊び心)」に
より強い志向性も持つわけです。
それも「大まじめ」に・・・。
まさに「奇妙キテレツ」ですがね。
受験シーズン真っ只中なんで、
受験生へ向けた「大学(学部)選択」アドバイスとして
若い後輩の皆さんにお役に立てるかどうかは
心許ないですが、
いちおう管理人自身の体験談から語ってみました。
ですから、皆さんも今後の人生において
本当にご興味ご関心あるテーマを真っ先に決めたうえで
世間的評価ではなく、自身が真に納得出来そうな
大学なり学部選びに慎重になって頂きたいのです。
ちなみに有名(難関)大学の全学部狙い(数打ちゃ当たる!?)戦法は
「全滅」への道です。
進学校にはこんな思慮分別(志や夢)なき輩が
ごろごろいます。
本当に「志」や「夢」ある若い皆さんには
こんな輩には絶対に負けて頂きたくないのです。
特に戦後のエリート文化を悪くしてきた原因が
この手の「横並び思考法」と「歪んだ序列型優越意識」であります。
これでは社会と自分自身の人生に対する責任感も
育ちませんし、「悪知恵」ばかり働く輩が跳梁跋扈するだけです。
「エリート」意識とは「上から目線」ではなく
「良い意味で<世間>を斜めに見る」姿勢が本来の姿であるはず。
民主主義時代における「衆愚性」を回避して
社会を適正な軌道へと導く役割を果たす人「財」は
いつの時代にも人類が「自滅」しないためにも不可欠だからですね。
漫才師でも各種芸能アーティストの世界もご覧下さい。
本当に末永く支援して頂けるような方々は
常に「自由闊達」に活動していますし、
「研鑽」を積み重ねてきているはず・・・。
そして「才能磨き(自身を<人的資本化>することなく)」以上に
「人間力向上」に全身全霊で向き合ってきておられるはずです。
そうでなければ、最近のせっかく苦労して
全国区にも取り上げて頂くことが叶った某グループのような
結末が待っていますし、何よりも一生懸命「いちずに走り続けてきた」
他のメンバーの「志」や「夢」をぶち壊すだけの
「厄介者」になってしまいますから・・・。
そうした謙抑性を保持するためにも
やはり適度かつ良質な「エリート」文化人意識は必要なのです。
要するに、「軽薄(下種=げす=品性下劣)」者では
誰にも信用して頂けないということですね。
その意味でこれまた某グループに所属されていた女性アイドルで
<哲学者>志望を宣言されて芸能界引退された方にも
多大な声援を送って見守り続けたいと思います。
そんなわけで、こうした志向性を持つことこそが
この国と世界の未来を明るくも暗くもする分水嶺と
重なってくるということです。
「エリート」意識とは決して自慢するものではなく、
静かにその人の身心に宿る「佇まい」のことです。
景「気」循環を良くし、
社会「活力」に漲った明るいエネルギッシュな近未来を迎えるにも
若い皆さんの「気概」こそが大切なのです。
「アニマル・スピリッツ」であります。
いつの時代も「若い」力が次の時代を切り開くのですから、
皆さんも大いに「自信」と「誇り」をもって
残りの受験生活を「全力投球(妹尾和夫です!?)」してきて下さいね。
以上、余談戯れ言でした。)
さて、こんな余談を語り続けていても
いっこうに本題へと入っていけませんね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『<法>の人類学的機能』の話題に戻りましょう。
そうした近現代<法>に特有な抽象的文言解釈にからむ
違和感がありましたから、
(実は大学<法学部>でかなり問題意識が高く
法律専門職に就くようなエリート候補生でも
ここのところの問題意識を持ち合わせている人「財」など
ほぼ壊滅状態なのです。
ましてやテレビのコメンテーター氏など○○ですな・・・。
だからこそ国会などで「ちんぷんかんぷんな」珍妙答弁や
足の引っ張り合いなどで本質的議論なく
国民生活を破壊し続けてきたわけですね。
だからこそ、<学問(教養)>は
「ビジネス」目的ではなく
真の意味で「飯を食っていく(生活していく)」ためにも
絶対身につけておきたいわけです。
ここまでの目的意識を持った若者こそが
「宝」です。
危機に瀕した祖国と世界と汝自身を守り抜ける気概を宿した
青少年は自ずから「独立」志向を持つものです。
かの福澤諭吉先生も『学問のすすめ』で
強調されていたところです。
慶應義塾大学の原点も実は大阪なのですよ。
その「魂」は大阪大学にも流れているようです。
「一身独立して一国も独立す」<福澤諭吉>)、
この違和感を何とか解きほぐしたいと思って
学生時代からずっと探究してもきましたが、
ついにその本質像を誠にわかりやすく
伝えて下さった先生に論考文を通じて知り合える機会が
訪れました。
それが本書ご紹介へと至る過程で触発された論考文でした。
『表現者クライテリオン~特集:ネオリベ国家ニッポン
「新自由主義」という悪魔の挽き臼~ 2018年11月号』
所収内論考文<新自由主義の人間観、あるいは有限性の忘却>と題する
現在は慶應義塾大学名誉教授でもいらっしゃる
堀茂樹先生によって著されたモノグラフであります。
近年稀に見る一般向けの秀逸論考文だと感受されて、
本書評要約作業用の「副読本」として
何度も繰り返し拝読させて頂きました。
フランス学専門でも現代思想にかぶれた
単に知的遊戯をしているとしか思われない
「おフランスかぶれ」としかいいようがない
我が国にとって有害無益な有識者が跳梁跋扈しているとしか
見受けられないこの専門業界に
このような「異才」がおられたとは・・・。
本当に有り難いことです。
フランス哲学思想研究の「王道」とはかくあらねば・・・と
感受した管理人でした。
そうなのですよ、フランスを問わず
あらゆる現代思想が「有限性」を忘却させた
狂気的<超人>志向を持つ未来へと
人類を誤誘導していこうとする最中、
その人類をその本質に根ざした
「原点」へと適切に連れ戻そうとしてくれる
「賢者」は誠に貴重な存在だからです。
それでは本書とこの被触発論考文で提示された問題意識も
重ね合わせて最後に向かって<猪突猛進>していきましょう。
それでは、『青の時代』です。
もう5万字も超え、今月の締め切りも近づいてきていますから
さっと本書との議論での絡みで必要最小限となる
「ズバリ核心部」をなす部分のみ
先に引用しておきましょう。
『僕は疑わない人間の物語を書くつもりだよ。
それが実に扱いにくい主題だということは、こういうわけだ。
全てを疑えば哲学者になって書斎に引き籠もれるし、
全てを疑わなければ下積の幸福が味わえる。
ところがこの主人公は自分で疑う範囲を限定しておいて、
それだけを疑うのだ。従って彼の行動は青写真の範囲を決して出ないし、
青写真を破ることもできず、そうかと言って、青写真の作製を
やめることもできないのだ。』
(『青の時代』新潮文庫2011年70刷改版<以下同様のため省略>、
<序>3頁)
以下、『青の時代』の2人の登場人物の世界観に関するやりとりの
「核心部」を2つだけ絞って例示列挙しておきますね。
ちなみに2人の登場人物のうち「主人公」が川崎誠(以下、誠)。
「脇(引き立て)役」が愛宕八郎(以下、愛宕)です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
愛宕:『幹候のとき、四五人が冬の最中の水槽へとびこまされる
懲罰を喰らったが、隊長が、『俺につづけ』と言っていちばん先に
飛び込んだもんだ。率先垂範、部下の責任はまた自分の責任というわけで、
こいつは一種のプロパガンダさ。だから君はやっぱり悪だというだろう。
ところが僕はこの単純な隊長の善意をみとめてやるよ。
戦争も平和もいろんな悪意と善意のこんぐらかった状態で、
善悪どっちが勝ったということもありはしない。
悪意がうまく使われれば平和になるし、下手に使われれば戦争になるだけだ』
誠:『それじゃあ僕の考えとおんなじだよ』
愛宕:『ノオノオ。人間の善意を信じるというのが僕の主義なんだ。
理由はそのほうが得だからさ。善意を信じてもらった人間がどんなに
とろりとした嬉しそうな顔をするか、知らないかね。
まだ料簡が、若え若え』
誠:『妥協はいやだね』(以下省略)
愛宕:『妥協じゃないよ。生活だよ。
まず生きなくちゃならない。・・・・・・生きなければならぬ』(以上同書92頁)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
誠:『僕は毒薬について一見識もっている。
契約不履行を法律的に正当化する力がこいつにはあるんだ。
僕がもしこいつを呑む。そうすると契約当事者の一方が死んだことになり、
契約は事情変更の原則によって取消されるんだ。
債務がたまってどう仕様もなくなったら、こいつを呑んでこの世におさらばさ。
そうすれば、合意は拘束す、という僕の真理は守られることになる。
死人には意志能力が失くなるからだ』
愛宕:『(前略)君はいつも未来をがんじがらめに規定して、
そこへ向ってまっしぐらに歩く。決して君は君の自由にならないんだ。
奇特な男だ。(後略)』
誠:『そんなところかね。君と僕との間には、これで見ると、
理解が多すぎるような気がする」
愛宕:『君らしい言い方だな。そうだ、僕たちの間柄には
理解の鋸屑がたまりすぎている嫌いがある。君は理解されることが
大きらいなんだ。君は自分で自分を理解することしか許さない』
誠:『愛宕の思想は、自分が社会を所有しているというのではなくて、
社会が自分を所有しているという考え方だね。君は理解し理解される淫売だ。
君は理解に身を任せ、また自分の理解に他人が身を任せることを要求する。
君は近代社会の売淫性の権化なんだ。金と一緒に理解が通用する。
堕落した時代だ。僕は金を楯にしてこの堕落から身を護ろうとした。
金が理解し、金が口をきく以外に、人間同士は理解される義務もなく、
理解する権利もない、そういうユートピアを僕は空想したんだ。
君は不潔だ。なぜかというと君は僕を理解しようとする』
(同書216~217頁)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
この小説『青の時代』の「核心部」をなすセリフを引用しながら
誠と愛宕の世界観の違いを抽出してみましたが、
誠は、いわば契約「至上主義」で契約(=自分が決めたライン)の外へは
決して出ようとしない。
それは、相手を信じることが出来ないがために
自分が契約設定させた「枠内」へと相手を無理矢理引きずり込もうという
<性悪論>的見立てであります。
一方で、契約の本質に「合意は拘束する」というイメージ像を持つわけですが、
自身が描いた「枠内」に収まりきらない難題が降りかかってきた際には
「逃げを打とう」とするわけですね。
今回の契約は金銭契約(出資金と金銭消費貸借の複合的契約)であるわけで
法的には双方当事者を拘束させる「双務」契約をなすのですが、
自ら都合が悪くなればその契約を破棄する姿勢を見れば、
そもそも「合意は拘束する」というルールに従っていないだけに
契約「至上主義」にすらなり得ていないとも思われてくる
不思議なものになっています。
ある種の「出資金」商法ですから取り込み詐欺的要素も多分に含んだ
きわめて危険性の高い取引であったわけですから、
この誠の契約観そのものも
<信義誠実の原則>に反しておりいかがわしいからです。
それでいて「逃げを打つ」姿勢も当該契約の「枠内」で処理することにこだわり、
「枠内」処理という考えは三島氏による<序>(3頁)にもあるように
『彼の行動は青写真の範囲を決して出ないし、
青写真を破ることもできず、そうかと言って、青写真の作製を
やめることもできないのだ。』という誠に誠に(いま気づいたのですが、
この<誠>の名にも皮肉が込められているようですね。)奇妙キテレツな
具合になっています。
ですから、その「枠内」にこだわりながら
契約の本質を踏まえた最終処理法を考案するとするならば
「当事者そのものが存在しなくなる」方法しかあり得なくなります。
つまり、誠にとっては、
「<契約>そのものが誠自身の世界そのもの」だということになるわけですから
もはや当該契約の「枠外」へ飛び出すという選択肢もなくなり
完全にこの世界には「逃げ道(居場所)」がなくなるわけですね。
この世界すべてを信じ切れなくなった者が最終的に辿り着く
悲しき結末とはこのことです。
「なぜこうなるの?」と問えば、
この世界を完全に疑っており、
自分が他者から理解されることすら拒んでいるからですね。
ですから、愛宕のように他者の「善意」を期待することもないということは
自らが設定した「枠内」以外の世界はまったく信じていないということですが、
それは言い換えれば、
同時にあらかじめ「逃げ道」も封じられていたということです。
誠のような歪な契約「至上主義」ではなくして、
本来的な契約一般をさらに上位から拘束する
本書が定義するところの<法>の精神に照らして
契約そのものを守ろうと欲するならば
<事情変更の原則>で処理する道(こちらは「不可抗力」=そもそも
当事者の責任負担外=想定外の例外的事態ですから、
本人も責任を負わなくてもよい<もしくは負えない領域は
責任が軽減される>という法的論理)を選ぶのではなく、
<信義誠実の原則>で処理する道を辿るはずです。
この場合には通常の契約ルールに従うわけですから、
狭い「枠内」にとどまろうとする誠的契約「至上主義」による道ではなく
広い「枠外」にある暗黙共有ルールも含めた「王道的」契約として
履行処理する道を選ぶことになります。
このことを示唆する解説部分は長くなりますので引用は差し控えますが、
本書『法的人間』<エピローグ>2~4頁で触れられています。
『青の時代』で提起された問題意識と重なる論点としては、
『世界を自分だけのイメージで形作ろうとするのをやめなければならないのだ。
世界に自らの場を持つためには、私たちの誰もが、自らの主観性を区切る
限界を学びとらなければならない。(中略)
意味の世界に立ち入るために、あらゆる人間は、世界の意味を
自ら定めるという思い上がりを断念し、この意味は自分一人の了解を
超えるものであることを求めなければならない。』(本書31頁)
まとめますと、意味を喪失させてしまった人間は同時に「自由」をも
喪失させてしまうということになります。
契約ルールにおける「合意は拘束する」の背景には
こんなにも豊かな世界観が潜んでいたのです。
そこで契約(ある種の世界観設定)を結ぶにしても
そうした双方からの「意味づけ」摺り合わせの結果、
成立してくる「共通ルール(共約可能性ある世界)」を
「相互」に担保させ得るための
さらなる上位規範たる<第三項>が要請されてくるというわけです。
もし、こうした契約を背後から支える<第三項>がなければ、
途端に「弱肉強食・優勝劣敗」型政治力学関係次第で
どちらかが一方的に不利な状況へと追い込まれてしまうことになります。
だからこそ、中立的に「公平」な裁定をしてくれる「歯止め役」が
必要となってくるわけですね。
さて、エッセー項目も含めてかなり一般の読者様におかれましては
敷居が高く抽象的難解な解説が続いてきましたが、
いちおう専門的法学教育を受けてきた管理人とても
あらたな「再発見」が続々とありました。
読者様の中にはもしかしたら法曹実務家や法学者の方もおられるかもしれません。
そのような方から評釈すれば、
まだまだ十二分な解説となり得ていない箇所や
間違っている箇所もあるかもしれません。
そのような懸念を抱かれた方にはお手数ですが
一般読者様の誤解を防ぎ止めるためにも
どうぞコメント欄でも一般メールでも構いませんので
ご教示下されば本当に有り難く存じます。
というわけで、管理人も一般読者様向けへのイメージが湧きやすいと
思われる解説教材として名作『青の時代』を<副読本>に選んで
精一杯に頑張ってみました。
その努力に対する評価が「吉」と出るか「凶」と出るかは
まさに読者様のご判断次第。
ここから敷衍したさらなる<挫折逆境論>も語っていきたいのですが、
もうお時間ですから、今後とも「続々と続きます」ということで
ひとまず「お開き」といたしましょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
最後にこの混迷窮まる時代に力強いお言葉をご紹介しておきましょう。
『天下一人を以て興る』(中野正剛)
『命ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、
仕抹に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして
国家の大業は成し得られぬなり。』(西郷南洲翁)
どうやら今度は母方の祖父母の出身地である
大分は<九州の血>が漲ってきたようです。
大分県は福澤諭吉翁とご縁ある地でもありました。
そんなわけで質実剛健な気風と洋学にも目を配ろうとする
気風があった祖父は戦中には海軍を志願したのかもしれませんね。
戦前・戦中・戦後と激動の昭和の時代を
生活苦の中から駆け抜けてきた祖父の家には
戦前・戦中に「敵性言語として禁じられてきた英語教育体験」が
あるはずの人なのになぜか多くの英語辞典類があったことを
子ども時分には不思議に思っていたものでしたが、
そうした知的雰囲気のある場所で育ったことにも
いまから振り返ってみれば理由があったのかもしれません。
でしたから、厳しいしつけ教育の中で『海軍五省』的精神も
刷り込まれていったようです。
今思えば有り難かったですけどね。
「<社会(世間)>はぬるま湯ではないから!!」です。
宇佐八幡宮のお膝元に生まれ育ち、
『黒田節』をよく好んで謡っていたといいますから
そんな「血」を管理人もひいているのでしょう。
『「暴力」ではなく「知徳」でもって
世界を救う』
『上善は水の如し』(老子)
『ペンは剣よりも強し』を信じて・・・。
今後もそんなモットーでもって、
21世紀版<自由民権運動>を書評記事を通じて
世論に訴える「活動」も同時に展開していかなくてはなりません。
「政治とはもともと万人に開かれた生きた営み」なのですから
現代版<有司専制>にも官民問わずに警戒していかなくてはなりません。
本書にもありましたが、
現代という時代は官民癒着型の「新自由主義(ネオリベラリズム)」と
「新同業組合主義(ネオコーポラティズム)」が結合した
アナーキーな半ファシズム化に向かうような世の中の
時空構造になってきております。
(<国家の変容>本書190~195頁ご参照のこと。)
そのような時代において、
果たして現代の「ナショナリズム(国民主義)」は
どのような位置づけとなっていくのでしょうか?
過去の歴史的教訓も踏まえつつ、
あらたな「国権論」と「民権論」の対立でなくして、
バランスの取れたその両者の融合論を提出していくべき時期に当たるようです。
中江兆民氏によって残された名著『三酔人経綸問答』で提起された問題は
まさに今現在にこそ甦ってきている永遠の宿題でもあります。
昨年は明治150年でしたが、
「第2維新論(これには様々なバージョンがありますが、
ここではいわゆる<西郷さん=大西郷>に仮託されたもう一つのあり得た
夢想的維新論のことと差し当たり定義しておきましょう。)」や
明治の様々な「政治論文集(明治初期のいわゆる<政治文学>含む)」を
読み解きながら
あらためてこのせめぎ合いの中で
現在の我が国が置かれた位置も変化していないのだと
つくづく感じました。
とともにやはり我が国は「持たざる国」なんだと・・・。
だとすれば、
この国では一人一人の<人間>こそが
かけがえのない「宝」だということになります。
読者の皆さんもこの国の新しい形をどう保持し、どう革新させていけば
理想的な「道義」国家として世界で末永く敬愛して頂けるようになるか
ご一緒に考えてみませんか?
西郷さんじゃありませんが、
『文明とは野蛮の別名じゃ(大意)』では世界の人も困るわけです。
そんなわけでその「文明」を形作ってきた
<西洋的ドグマ>をあらためて反省を踏まえた
西洋人である著者のような良識派の方の知恵も拝借しながら、
世界のすべての人がともに協力して
この世界に「花」を添えることが叶えるようにしたいものです。
上記西郷さんの有名な語を記した
著書『南洲翁遺訓』にも適切な<財務論>が掲載されています。
備中松山藩の山田方谷翁が論じた『理財論』とともに
特に当局者には虚心坦懐になって読み込んで頂いたうえで
「今現在何をしなくてはならないのか」
その時代を超えた本質を汲み取って頂くことを
切望いたします。
それではお別れの時間です。
新年からぶっ飛ばしてみました。
長時間の疲れ目の癒しになりますかどうか・・・。
一枚の撮影写真をご提供させて頂きますね。
(管理人撮影:新年早々に初詣させて頂いた生駒聖天さんの
愛染明王様が鎮座まします多宝塔前から撮影したワンショット。
まさに<闇の中から光出でよ!!>ですね。
写真は少しぼやけていますが、まるで闇の中を舞う蛍のよう。
管理人も含めて皆さんひとりびとりが蛍火となりますよう祈願いたします。)
最後までお読み頂きありがとうございました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<参考文献>
本文中でご紹介させて頂いた著書以外に・・・。
①『よくわかる法哲学・法思想』
(深田三徳・濱真一郎編著、ミネルヴァ書房、2007年)
②『ほんとうの憲法~戦後日本憲法学批判~』
(篠田英朗著、ちくま新書、2017年)
③『現代思想講義~人間の終焉と近未来社会のゆくえ~』
(船木亨著、ちくま新書、2018年)
④『歴史に観る日本の行く末~予言されていた現実~』
(小室直樹著、青春出版社、1999年)
⑤『働き盛りがなぜ死を選ぶのか~<デフレ自殺>への処方箋~』
(岡田尊司著、角川ONEテーマ21、2011年)
⑥『なぜ日本の若者は自立できないのか』
(岡田尊司著、小学館、2010年)
重ね重ね最後までお読み頂きありがとうございました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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