「知られざる文豪 直木三十五」「直木賞」は有名でも、誰も読まず知らず!!直木三十五の素顔に迫ります!!
「直木賞」
作家を目指す人や、読書人にとっては
あまりにも有名な「作家登龍門」です。
一方で、「芥川賞」と違って「直木賞」の
名前の由来となった「直木三十五」については、
現代ほとんど知られていないでしょう。
また、本年のお笑い芸人ピースの又吉さんの
受賞でも話題になった「芥川賞」
この時、「純文学」というジャンルが注目されましたが、
実際には「定義不明」のようですね。
今回は、この本をご紹介しましょう。
『知られざる文豪 直木三十五~病魔・借金・女性に苦しんだ「畸人」~』(山﨑國紀著、ミネルヴァ書房、2014年)
研究されている日本近代文学者です。
著者は、立命館大学や花園大学でも教鞭をとっておられました。
管理人の母校ともゆかりがあり、大学時代に
著者が著された「磯部浅一と二・二六事件-わが生涯を焼く」
(河出書房新社、1989年)を読んだことがきっかけで
著者の名を知ることになりました。
そんな著者が、あらたに今回「直木三十五」に挑戦されています。
直木三十五は、大阪の谷町界隈で過ごし、日本映画の黎明期に
京都の「マキノキネマ製作所」で映画製作に関与するなど、
日本の大衆娯楽の歴史においても大変興味深い人物のようです。
当時、「マキノキネマ製作所」は京都の等持院や御室などに
あったようで、その雰囲気をイメージして直木三十五の
もう一つの素顔を描けるのは、著者が最適だと思われます。
管理人にとっても、幼少時に遊んだ大阪の谷町界隈(空堀商店街周辺)や
京都在住時代の上記地域には、深い思い入れもあるので、直木三十五の
生い立ちや活動歴などを知るにつれ、親近感と敬愛の念が湧いていきました。
『病魔・借金・女性に苦しんだ「畸人」』直木三十五・・・
彼が、本格的な作家活動をしたのは「わずか10年たらず」でした。
知れば知るほど魅力あふれるこの作家について、
現在ほとんど読まれず知られていない状況にあるようです。
「直木賞」の名前だけが、耳朶に響く現状です。
管理人も、「時代・歴史小説好き」では
他の読書人に引けを取らないつもりでいましたが(勝手な自負です・・・)
この作家は、「盲点」でした。
しかも、今回その小説を知った時に驚いたのは
いずれも興味有る題材をテーマにお書きになっていたことです。
そんな「知られざる直木三十五」ですが、これまで著者の他には
直木氏の甥である植村鞆音(ともね)氏の「直木三十五伝」
(文藝春秋、平成17年)という
身内の書いた評伝くらいしかなかったようです。
今まで、プロの文学研究者の「盲点」でもあったようです。
というのは、日本の文学界には、不文律?として
「大衆文学」に対する「純文学」優位の法則のようなものが
あったようなのです。
著者も語っていますが、ここが「文学研究者」、「文学界」
「文学者・出版社ギルド」の暗黙の了解のようで、
主に「大衆文学」を確立したとされる直木三十五が軽視されていった
経緯もあるようですね。
これが、一般人にとっても「芥川賞」優位のイメージになっている
原因でもあるようです。
それでは、前置きも長くなりましたので
「直木賞」および「直木三十五の知られざる素顔」に迫っていきたいと思います。
おそらく、この論点にはご興味がある方も多いと思いましたので、
この本を取り上げさせて頂きました。
知れば知るほど魅力あふれてくる直木三十五
まず、直木三十五の名前の由来ですが、
これがまた「人を食っていて」面白いのです。
「直木」は、本名「植村」の「植」を分解したもので
作家のペンネームとしては、よくある事例です。
問題は、「三十五」
なんと、デビュー間もない頃は、
年齢に応じてあたかも出世魚のように変えていたのですね。
「三十一」から「三十五」まで。
さすがに、周囲の忠告もあったようで35歳の時に打ち止めます。
本名「植村宗一」
幼少期は、大阪谷町界隈で過ごします。
実家は、貧しくも「独立心旺盛で教育熱心な」父の影響か
幼少期から向学心旺盛な少年だったといいます。
旧制市岡中学(現:大阪府立市岡高校)に入学します。
現在でも進学校ですが、直木三十五が在籍していた頃は
日本を代表する選りすぐりのエリートが多く輩出されたそうです。
自宅から毎日徒歩通学の傍ら、「中之島図書館」で読書三昧。
後の直木三十五の強靱な頭脳が鍛えられていきました。
それにしても、この時代の「中之島図書館」って貸本料を
取っていたのですね。
最近、公共の図書館民営化が話題になりましたが、
「知る権利」(憲法第21条)のためにも、是非「情報の無償化事業」は
続けて頂きたいですね。
「貧しくとも勉強したい方のためにも是非お願い致します。」
「少しでも社会をよくするために必要ですので・・・」
閑話休題・・・
やがて、旧制の早稲田大学に入学するも「女性問題」がきっかけ?で
中途退学します。
が、面白いのは、ここからが直木三十五の面目躍如たるところです。
当時、同棲し始めていた女性との交際費や生活費を捻出するために、
父には内緒で仕送りを続けてもらっていたとか。
なんともすさまじい「無頼」な生活の始まりのようです。
生活費を稼ぐためには、当然なんらかの生計の手段を立てなければ
ならないのですが、就職してはすぐ辞める・・・という
「天才によくあるパターン??」を繰り返します。
どうも定住定着が苦手だったようです。
しかも、晩年の交際の多さからは想像もつかないほど、
普段は「無口」で通したといいます。
一方で、将来の文壇デビューのために、
ちゃっかり有力者に名前を売るなど
なかなか手際の良い「処世術」だったそうです。
その辺りの面白さは、この本をお読み下さいませ。
出世していくきっかけは、早稲田時代の友人知人のつてなのですが、
鷲尾雨工氏らと一緒に創始した出版社でもトラブルを起こしていたようです。
そのため、貴重な友人と決別することになります。
その後は、先程も語りましたように「手際の良い交際術」で
「プロデューサー」の役割もうまくこなしていったようです。
関東大震災をきっかけに、大阪へ帰阪します。
この時に、入社したのが「プラトン社」でした。
すでに、前年の31歳から「時事新報(現:産経新聞)」の
文芸時評を手がけ始めていましたが、このプラトン社入社の時期
から随筆、小説など書き始めます。
この30代は、映画製作などにのめり込んでいったこともあり、
本格的な文学作品は、まだ世に出ていませんでした。
本格的な小説(文壇)デビューは、晩年の39歳から43歳までの
わずか5年間でした。
代表作「南国太平記」でした。
ちなみに、前述の決別した鷲尾雨工氏は、これに対抗して
「吉野朝太平記」を執筆し、第2回直木賞受賞するのですから、
世の中はわからないものです。
しかも、この受賞時には、直木氏はもうこの世の人ではありませんでした。
直木三十五氏の処世術
「人生とは、享楽する所」
「誤魔化しは、人生の一手段として立派なもの」・・・
こうした点が、直木三十五の処世術だったようです。
著者は、直木氏が手がけた「楠木正成」と「足利尊氏」の
原稿において「二重原稿使用」があったと強調され
現代の文壇事情からすれば「倫理違反」だと厳しく指摘
されていますが、この主張は一考してみる価値もあるようです。
詳細は、この本に委ねますが、
これは、あくまで「格別に創作した自作を、似た場面で
ほぼ100%同じ文章でもって大量に使い回した」というものです。
特に、他人の作品を盗用・剽窃した訳でもありませんし、
同じ作品を題名を変えて各雑誌に「二重投稿」するといった
現代では許されないルール違反でもなさそうです。
確かに、著者の指摘されたことは優れた問題提起であり、
文体をほとんど変えず「そっくりそのまま大量に」
重複使用したことは、問題かもしれません。
しかし、当時すでに病魔に侵され、死をも覚悟して
死後の家族の生活費などを考慮したうえでの「決死の覚悟」
だとしたらどうでしょうか?
「武士に一分」もあるかもしれません。
管理人は、文(論)壇事情については、ずぶの素人なので、
断言は出来ませんですが、プロの作家さんはどうお考えでしょうか?
文筆に関わる者として、決して避けられず重要なテーマなので、
もしご存じの方があればご意見して頂ければ幸いです。
それにしても、「読まれず知られざる作家直木三十五」・・・
皆さんも、この作家にチャレンジする前に
ちょいとこの本で予習してみませんか?
これから作家デビューを目指す方や、文学部の学生さんなど
直木三十五に興味のあるすべての方に、是非一読されますよう
お薦めさせて頂きたいと思います。
ついでに、おくればせながら、第58回直木賞作家野坂昭如さん
(「アメリカひじき」「火垂るの墓」にて受賞)
のご冥福をここにお祈り申し上げますとともに、
野坂さんの「平和への思い」を何としてでも後世に語り継ぐべく
当ブログでも微力ながら努力していきたいと思います。
なお、直木三十五記念館については、こちらのサイトをご参照下さいませ。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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