木原武一さんの「快楽の哲学~より豊かに生きるために」誤解されてきたエピクロス学派を糸口に考える幸福論!!
「快楽の哲学~より豊かに生きるために~」
独自の個性的な哲学エッセーを中心に
文筆活動をされてきた木原武一さんとともに、
幸福論(快楽論)を紐解きます。
「人生は短い」(セネカ)という自然の摂理を
忘却してしまったかに見える現代人・・・
だからこそ、もう一度、人間の原点に戻って、
「死」から逆算した幸福哲学をともに考察しながら
生き直してみませんか?
今回は、この本をご紹介します。
「快楽の哲学~より豊かに生きるために~」 (木原武一著、NHKブックス、2010年)
木原武一さん(以下、著者)は、独立系の批評家・翻訳家として、
多彩な文筆活動をされてこられた方です。
著書には、『大人のための偉人伝』(正・続、新潮選書、1989年/1991年)や
『天才の勉強術』(新潮選書、1994年)、
『孤独の研究』(PHP文庫、2015年)など多数あります。
このように「大人」にとっても、大変魅力ある「知的読書案内」を
されてこられました。
<より良く生きること>は、
古来から古今東西の賢者によって探究されてきたテーマであります。
冒頭でも触れましたが、古代ギリシアの哲人セネカは、
『人生の短さについて』をテーマに、人生哲学を考察してきた賢者として
著名であります。
このセネカは、後に本文でも触れる予定ですが、ストイック(禁欲的)な
ストア学派として知られています。
一方で、本書で展開されていく『快楽の哲学』を考察していくに当たって、
最初に触れられている哲学者がいます。
それが、「エピキュリアン(快楽主義者)」として、
後世に多大な誤解をされてきたエピクロスであります。
このエピクロスを中心に語り継がれていく哲学者一派が、
エピクロス学派といいます。
古代ギリシアに端を発するこの2大派閥こそ、
現代にまで影響を及ぼしてきた「幸福(快楽)論」の原点であります。
ところで、現代人は、日々、文明の恩恵を受ける過程で、
「生死そのもの」、つまり、生きる目的そのものを
忘却してしまっているかのように見受けられます。
その原因には、様々なものが挙げられますが、
とりわけ「欲望」を過度に重視してきた近代啓蒙主義的生き方の
受容姿勢に主たる根拠を置いた論考が多いようです。
著者も管理人も、このような「欲望」一般こそ、
生きる原動力として、「活力」にもなっている(きた)こともあり、
一律に断固として否定する者ではありませんが、
もう一度、その「欲望」の内実を再考してみませんかと促す者であります。
それが、本書のテーマ『快楽の哲学~より豊かに生きるために~』の
底流にあります。
ということで、本書を紐解きながら、
日々の暮らしの中で、通俗的な「幸福(快楽)論」に身を委ねてしまい、
弱くなってしまった身心感覚喪失状態から、ともに<寝ぼけ眼>を覚まそうと、
この本を取り上げさせて頂きました。
「快楽(幸福)論」の原点は、魂の安らぎを求める視点にあった!?
本書の主題は、現代に至るまで多大な誤解をされてきた
エピクロスの思想の本旨に立ち返って、
「快楽(幸福)論」を再考してみようではないかという
問題意識から論旨展開されていきます。
その原点に立ち返ることは同時に、
近現代人が暗黙の前提としてきた「身心二元的生き方」から
脱却する糸口を探究することでもあります。
このエピクロスは、ストア派そのものではないにせよ、
比較的ストア派に親近感があったとされる詭弁的??雄弁家キケロによって、
現代に至るまでの誤解要因が生み出されてきたと指摘されますが、
俗説である「エピキュリアン(肉体感覚重視の快楽主義者)」とは
まったく正反対の見解を持ち合わせていたといいます。
実際には、「肉体的快楽」に耽る生活を避けた「魂」の安らぎを
求める「精神的快楽」を重視しながら、より良き身心の調和状態を
目指す見解だったと強調されています。
そのことは、著者が本書で引用されている下記の言葉に表れています。
『それゆえ、快楽が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの
意味する快楽は、-一部の人が、われわれの主張に無知であったり、
賛同しなかったり、あるいは、誤解したりして考えているのとは
ちがって、-道楽者の快楽でもなければ、性的な享楽のうちに
存する快楽でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと
霊魂において乱されないことにほかならない。』
(「メノイケウス宛の手紙」本書12頁から孫引き)
だと、考えていた姿勢からも窺えるところです。
それでは、エピクロスの中心思想が出てきたところで、
本書の内容構成について要約しておきましょう。
『プロローグ 人間を動かす原理とは』
※最初に、本書の問題意識について触れられています。
通俗的なエピクロス理解の「誤解」を丁寧に解きほぐしながら、
後世に、エピクロスがどのように受容されていったのかを
主に西洋哲学者の見解の紹介とともに分析考察を進めることによって、
<より良く生きる知恵>としての「学問=哲学」の復権を図ります。
「哲学」とは、「知を愛すること(愛知)」でもありますが、
近代啓蒙主義思想によって、現代文明の背後に押しやられてしまった
「人間学」の復活をも目指します。
そのような考察を進めながら、「人間」の「総合的な知のあり方」を
見つめ直します。
その意味では、本書は、<快楽>をキーワードにした「哲学入門書」と
しても最適な1冊であります。
「哲学=学問」の魅力も、身心ともに安らぐ健全な爽快感をもたらすことに
あります。
近現代社会が、「知(それも、肉体の一部に過ぎない脳に偏重した知)」だと
すれば、これから「快楽(幸福)」を考える際に忘れてはならない姿勢が、
身体と心と魂といった、いわば「三位一体」による「智」の復権であります。
『第1章 エピクロスからはじまる』
※本章では、エピクロス思想の紹介とともに、
エピクロス学派とは異なる古代ギリシアの哲人の見解が
解説されています。
プラトンのような「哲人政治」を目指すストイックなストア哲学が、
世俗(社会)で、いかに力強く生き延びるかを志向するものとするならば、
エピクロス(学派)は、個人の生き方に重点を置いて論考された哲学と
言えましょう。
その志向性は、エピクロスの「隠れて生きよ!!」といった姿勢にも
見受けられるように、一見すれば、「隠者」の生活を理想とするように
誤解されてきたようです。
本書では、西洋哲学者が主流で、東洋の哲人には
あまり考察が及んでいませんが、管理人のイメージでは、
鴨長明を思い出させる風格だったようですね。
前回の記事でも若干触れさせて頂いた奇人ディオゲネスのような
生き方とも重なるようですが、あくまで、世俗社会とは身心両面における
適切な距離を置いた<より良き生き方>を理想とする思想だったようです。
むしろ、現代世俗社会における「知」の偏重姿勢が、
様々な文明の摩擦などを招いてきた反省から、
このような「個」から再考し始める「快楽(幸福)論」が蘇生し始めています。
とはいえ、その「個」を重視する姿勢には、次章以後で触れられる
近現代啓蒙主義が理想としてきた「快楽(幸福)」の「量」をもって
計測する「功利主義」的生き方とも大きな相違点があるといいます。
本章では、エピクロスの『苦痛がないことを快楽の条件に
あげているが、より大きな快楽が得られると思えば、人間は苦痛を
堪え忍ぶこともある。』(本書43頁ご参照)として、
カントの労働論を引用しながら、「快楽と苦痛は表裏一体のもの」だと
指摘されています。
この点は、項目を改めて、後ほど考察することにします。
つまり、「幸福」とは、「完全に苦痛がない状態」下では、
有り難い質感(クオリア)だと言い換えることも出来ます。
『第2章 人間は快楽と苦痛によって動く』
※本章では、「快楽-苦痛」の表裏一体論から
人間の動きを、様々な哲人の見解とともに
分析考察していきます。
ことに、エピクロスの継承者とされる著書『物の本質について』で
知られるルクレティウスなどは、エピクロスの「原子論」から
<死後の世界観=魂のありか>を考察する視点に共通する
性格があったようで、「死」の恐怖感に囚われない生き方とは
どのようなあり方を指すものかが問われています。
それは、一言で要約すると、「人間は死ねば、感覚が失われ、
死そのものを体験することもないために、死後のあり方(魂の行方)を
考えすぎても、あまり意味がない!!」ということにあるようです。
このあたりは、釈迦が考えた死後の世界観とも通底するようですが、
確かに、死後の世界に恐怖を抱きすぎるのも、
生前の生き方を消極的なものにしてしまうのでしょう。
本書では、このようにエピクロス自身の「魂観」から
死後の世界観にまでは考察が及んでいませんが、
エピクロスも釈迦も「死後の世界観=魂の行方」に関しては、
深く追求しなかったように見受けられますが、
それは、生前に経験し得る「実」体験をより重視しながら
<より良く生きる知恵>を求めていたからだと思われます。
ただ、この点は、「死後の世界観=魂の行方」について、
一見、消極的な姿勢だと見受けられる2人ですが、
この点についても、項目をあらためて、
先程来から取り残しておいた「労働論」とともに考察することにします。
本章では、そんな「原子論」に立つルクレティウスの思想から、
「ケンタウロス(つまり、ペガサス=射手座)」のような
半人半獣のような中途半端な立場などありえないとして、
徹底した人生の「合理化」を追求していた姿勢にも触れられています。
(本書61頁ご参照)
とはいえ、そうしたルクレティウスやエピクロスの「快楽(幸福)」哲学が、
「唯物」的だったのか否かは、もう少し突っ込んだ考察も必要であります。
このような古代ギリシアの「素朴(古典的)原子論」も
今日の量子物理学的世界観では、崩壊してきていますが、
宇宙を「物心両面の<物質=エネルギー>の重ね合わせ」だと
見立てることが、さらに許容されていくならば、
「物質(一応、ここでは暫定的に肉体などの<固形物>としておきます。)と
生命(精神・心・魂などの<流動体>)」の関係性も、
「快楽(精神)」と「苦痛(肉体)」の表裏一体として、
イメージしやすくなるでしょう。
その意味では、管理人の私見でもあり、
「ケンタウロス(射手座)」でもある我が身に振り返って、
このテーマを考察してみると、
「身心二元論(半人半獣の中途半端)」ではなく、
「身心一元論(半人半獣の統合的生物体)」として、
これからのあらゆる学問的世界観は見直しが迫られるのでは
ないかと予感しています。
まとめますと、古代ギリシアの本来のエピクロス的世界観を
現代科学の最前線から整理統合し直す時期がついに到来したと
いうことであります。
そのことは、個人的に大学時代の一般教養科目から
多大な興味関心あるテーマ「科学(技術)史」でも
強調されていたことから、
「万物理論(<有限>な存在である人間である限りは、
見果てぬ夢かもしれませんが・・・)」の探究とも重なります。
『第3章 幸福を求めて』
※本章では、「幸福」を求めれば求めるほど、
「幸福」から遠ざかっていく逆説的真理が、
物語分析から考察されています。
結局、「有限」な人間である身・・・
「完全」な幸福など、生前には誰しも手にすることは出来ないと
覚悟する勇気が必要であるようです。
「諦める=明らめる」ともしばしば言及されるように、
変に過度な期待感を持った生き方を目指すよりも、
「不満足」ながらも、「いま・ここに」充足して生き抜く姿勢こそ、
「心の平安」には効くようです。
逆説ながら、「不満足を自覚することが、幸福への第一歩」で
あるとも指摘されています。
しかし、そのような自覚をもって、「不幸」と呼べるのか否かは、
文字通り、普段の人生観によって、各人各様の「心理的」受容状態に
よっても異なるため、「不幸」だと断定させることは難しく、
その「心理」をいかに円滑に成熟させた「円熟」へと転化させていくかの
知恵と工夫が、本書『快楽の哲学』から学ぶことが出来ます。
そのために、
著者が推奨される「幸福のためのセルフ・コントロールの<律法>」として、
下記の3点を列挙されています。
①「第1条 不機嫌は罪悪である。」
②「第2条 上機嫌は第一位の義務である。」
③「第3条 自他の不機嫌を無視せよ。」
(本書134頁ご参照)と。
『第4章 涸れることのない欲望の泉』
「欲望」に対する賢い付き合い方のヒントを
考察されています。
それが、「有限」である「肉体」から離れた
「無限」へと志向する「精神」に寄り添う姿勢であります。
著者は、ここに「時間のそと」で得られる快感を求められます。
先程のメーテルリンクの『青い鳥』のテーマでもあった
「隣の芝生は青く見える」などという標語を安易に掲げると、
今日では、ブラック企業などの標的にされてしまいますが、
本来は、そのような「良からぬ」意味ではありません。
著者も本書で解説されていますように、
「大きな視点を持つことで、小さな世界の良さも再認識する
ことが叶う」ということであります。
そのためには、私たち人間も、「鳥」に学びましょう。
「鳥」のようなさえずりで、笑うことを習慣にするのです。
もっとも、人間は、環境によって、心理が容易く変容する生き物・・・
ですから、喜怒哀楽はあってもいいのです。
大切なことは、「身心の調和」であります。
周りの評価などによって、「一喜一憂」しない強さこそ、
欲しいものです。
『第5章 学ぶことこそ最高の快楽』
※著者は、こうして、満たされざる「汲めども汲めない欲望の泉」の
最頂点に、「知的好奇心」を置かれました。
「学問=学び問い続けること」と、
これまでも何度か強調させて頂いたことですが、
「学べば学ぶほど、<あなたの知らない世界>に導かれていきます!!」
ですから、私たち現代人の不幸の源泉は、
現代(社会化)教育に特徴的な即効性ある「ハウツー・インスタント教育」しか
知らないことにあります。
本当の意味での「学ぶ喜び」を味わえる人は、
現代では、それこそ「奇特な人」でありましょう。
人生で大切にしたいことは、「良き師匠(人や本など)」に出会うことです。
その「出会い」も、ただ待っているだけでは到来しません。
まさしく、「全身全霊」で、過酷な環境に挑戦しながら、
自ら「たぐり寄せるもの」であります。
「心は、からだの<外>にある!!」と考えられている倫理学者もいますが、
おそらく、現代の「脳科学」だけを見ていては、
永遠に「わからない(わかりようのない)」世界が、
「心」の世界でありましょう。
その意味で、本書の主題からは外れますが、
「(精神的、時には肉体的)快楽」をもたらす姿勢に
「想念」があります。
「意識(あるいは、無意識)はどこから<ひらめく>のか??」も
謎だらけですが、
少なくとも、「人間」であることを望むなら、
<より良きひらめき>を天から??授かりたいものです。
そのためには、普段の人生体験の過程で、
<より良きモノ・コト>に触れる機会を増やすことであります。
「想念」は、「想起(連想・記憶・追憶・・・)」の一形態でも
ありますが、そのことを著者もプルーストやアルキメデスの事例を
引き合いにヒントを提供して下さっています。
たまたま、今週には、前にも当ブログでご紹介させて頂いた
芸術家の横尾忠則さんが、『言葉を離れる』によって、
第32回講談社エッセー賞を受賞されるというニュースが
飛び込んできましたが、その横尾さんも、
「天からのひらめき(天啓=天恵)」を大切にされている作家であります。
管理人も、書きながら、次々と、紹介書籍に触発されながら、
着想が湧き出てくるのですが、
そのランナーズハイ感覚は、「言葉」を離れた時に、
肉体の奥底から迸ってくるようです。
『エピローグ 満たされないものを大切に』
※要約も長くなりましたので、そろそろ<まとめ>ですが、
「幸福」という泉は、「生きる意欲=欲望」とも相まって、
「汲めども汲めども尽きないもの」・・・
ですが、そのような「満たされない」感情(覚)があればこそ、
私たちは、まだまだ「希望」を明日に繋げることも叶うのでしょう。
問題は、「逆境」のど真ん中に一人佇む時ですが、
そんな時こそ、ご自身の「内なる声」に耳を澄ませてみましょう。
一人の「個体」が、心(魂)の奥底を通じて「全体」に通じている・・・
このような「集合的無意識」に問いかける姿勢も、
ユングの「仮説」を信頼してのことですが、
「非常識」ならぬ「超常識(奇跡と呼ぶ方もいますが・・・)」の
瞬間がふとしたきっかけに訪れるのは、
こうした「言葉」を離れた「あっという間」にであります。
その「あっという間」にメモに走り書きするのもコツがいるようですが、
優れた賢人(天才)は、そうしたことを「習慣」にしているともいいます。
最後は、「存在を知り尽くす楽しみ」ですが、
「わかった!」という快感に、何度も馴染むことが、
「学問する心構え」をより強固にさせるようであります。
皆さんも、そんな「快楽の哲学」を通じた幸福の糸口を
掴んでみてはいかがでしょうか?
「幸福とは、どこかに固定した形で存在するわけではなく、
生命の流れのなかに微睡んでいる潜在的意識の流れに身を浸すこと!?」
管理人の拙い経験則では、このような表現で要約してみましたが、
「幸福」とは、手に掴める「モノ」ではなく、
身に浸す「コト」であるようです。
まとめますと、人生における時々を全身全霊で深く味わい尽くすことが、
「健やかなる時も、病める時」も幸せになる秘訣であるようですね。
どんな「心理状態」の時でも、自己信頼(エマソン)して、
逆境こそチャンスにする姿勢が、より高い次元での「幸福」を約束するようです。
通俗的な「成功哲学」に誤解があるのも、即物的な目標設定だけに焦点が
合わせられているからでしょう。
ヒントは、「未だ見ぬ高い次元」に身を浸すことであります。
「この世(生前生活に限定された世界観)」だけではなく、「あの世(次世代に向けられた永遠の世界観)」を志向した「仕事」に生きよう!!
さて、ここからは、著者の「快楽の哲学」に触発されたテーマのうち、
積み残していた課題である「仕事哲学」と「霊魂不滅論」について、
無理しない範囲で(笑)、分析考察してみましょう。
エピクロスや釈迦の教えでは、
「死後の世界」について触れるのはタブーで、
この点は、現代の大多数の学者も、その暗黙のルールに則って論じられているのが、
「常識」というものです。
管理人も、「あの世」観を論ずるなど、相当なためらいもあるのですが、
「学問=知的好奇心」の赴く究極の果てには、
やはり「あの世」の存在探究が欠かせなくなります。
というよりも、真剣な「求道的」学問を探究していると、
どうしても迂回できないルートになります。
とはいえ、その迂回ルートは、「悪所(難所)」ですが・・・
まるで、大峰「奥駆け修行」のようです。
まずは、先程の著者が引用されているカントの「労働論」を
転記しておきます。
『どうして労働が人生を味わう最善の形態であるのだろうか。
それは、労働が骨の折れる(それ自体では不愉快であって、
成果によってのみ慰められる)仕事だからであり、
長い労苦が単に消えてくれたことから生まれる安堵感が
快楽として感知され、喜びとなるからである。
そうでなければ、労働は楽しみとはまったく無縁のものであろう。』
(本書43頁より孫引き)
カントは、近代啓蒙主義思想と中世キリスト教神学の
程よい「調和点」を探究してきた哲学者として知られています。
今回は、その思想的中身に立ち入る余裕はありませんが、
彼にとっては、「美意識」よりも、「倫理意識」に
興味関心があったようです。
その意味では、「知性派」であります。
そのカントに対峙して、相互に微妙な距離感も保ちつつあったのが、
前にもご紹介させて頂いたスウェーデンボルグでした。
いわば、「霊性派」であります。
とはいえ、両者に共通する視点は、「知性と霊性の調和」を
目指した姿勢にあります。
ところで、このようなカントに代表される「労働観」には、
現代のような「賃労働」に偏重した「仕事観」とは、
大きく異なったイメージがあったようです。
西洋哲学や神学では、どちらかと言えば、
「労働(単なる生計維持活動)」を厭う傾向にあったようですが、
「仕事(愛ある奉仕活動)」には、より重きが置かれていたように
感じられます。(あくまで、管見の限りですが・・・)
東洋哲学の賢人の多くもそのような視点を持ち合わせていたようですが、
基本的には、「霊肉一元(知行合一)論」の観点から、
独特の「仕事観」へと練り上げられていったようです。
現代では、「労働派」が多くを占める中、
昔ながらの職人(芸術家や学者など含む)気質を有した「仕事派」が
少なくなってきていることが、気がかりです。
おそらく、そうした「仕事観」の変遷も、世界を「小さな」島に
局限してきたことにあるのでしょう。
つまり、後世(あの世的価値観)の観点を一顧だにしない
「やっつけ仕事」としての「労働観」でもって、
現代人は、自身の「霊肉」を「この世的価値観」に縛り付けることで
満足してきたからでしょう。
「不満足(ほどほどの不自由)」が反転して、
「満足」になる「あの世的幸福観」。
「満足(一見すると自由で豊かな社会)」が反転して、
「不満足」になる「この世的幸福観」。
言い換えるならば、「短期的視野(この世)」を好むのか、
「中長期的視野(あの世)」を好むのかといった気質の違いでもあります。
しかも、恐ろしいことですが、
現代の豊かな社会が、「思考停止状態」を「良し」とする
風潮に拍車をかけてきたようです。
そのようなこともあって、先進国では、
軒並み「生産性(単なる計量的なGDP評価ではない)」が
低下してきたという現実があります。
これには、理由もあるようです。
管理人の見立てでは、「成果(結果本位主義)」を叫べば叫ぶほど、
人びとのモチベーションが低下(さらなる劣化)へと導かれ、
人びとの潜在的才能も殺がれていく経済生活環境が、
容認されてきたからに他ならないということになります。
それと連動して見える指標が、若者(だけでなく、すべての階層)に
おける「学習意欲(知的好奇心)」の劣化現象です。
それは、出版事情を観察していても窺えます。
年々歳々、「わかりやすさ」と「即効性」路線が追求され、
「難しくても高密度で<ためになる>」ような
何度も繰り返し読む価値のある良書が、
減ってきていることにも現れています。
つまり、後世に残り得る「古典」が尽きかけているように
思われるのです。
「それだけ、人類は、知り尽くし、もはや<知のフロンティア>を
開拓し尽くし、成熟させ切ったから??」
管理人には、とてもそのようには思われないのです。
その証拠に「知的堅実さ」や「知的謙虚さ」が見失われていく流れの中で、
「人間」が精神的に退化していっている諸現象が挙げられます。
そんなこともあって、世の中に「オカルト(精神世界)」や「疑似科学」も
横行し、社会的被害が絶えないのでしょう。
「学問」を愛している者から、こうした世の中の現象を眺めていると、
そもそも「完全なものなど<この世>にはない!!」とも
薄々感づいて参ります。
つまり、<この世>とは、宇宙の「反面の真実」にしか過ぎないということです。
この観点こそ、現代物理学や数学の人類最高峰の
「知性と霊性」を兼ね備えた少数派の「異端児」が再確認してきたことでも
あります。
「自然は、<真空>を嫌う!!」とも言われますが、
管理人が共感し得る現象に、「双対(相関)現象」があります。
現代宇宙論では、もはや、古代ギリシアのような「素朴原子論(分割限界論)」は
弱々しくなってきています。
ただ、「人間」が、この広い宇宙空間の中で、ほどよく適切な調整が
施されているためか、そのような「目に見えない世界」を無視しても
生き抜いていけるとの「錯覚」に陥っているだけであります。
こうした現代の傾向が、「仕事」を通じて得られる「文化(文明)」にも
「疎外=影」を落としています。
このような現代の短眼的嗜好に、
いかなる歯止めを用意しておくのが適切なのかを考えるべき時期にも来ています。
その意味では、「唯物論」も「唯心論」も双方ともに偏りがあります。
そのことは、世俗的な政治経済的価値観の現れである
「左右双対現象」にも当てはまるようです。
宇宙空間(自然の摂理)では、「陰陽(作用-反作用)」の法則が働くと
いいます。
このようなこともあって、自然界から謙虚に学び取ろうとしない
現代の世俗的風潮には、耐え難い苦しみがあります。
こうした逆境の時代に、いかなる「仕事観」を養うべきかが、
一人ひとりの人間に課せられた責務であります。
「煮詰まった時は、時空(人間なら、意識の領域)を拡張する」
これが、宗教に過度に依存しなくて済む「精神と物質の調和」を
目指す視点だと思われます。
管理人も、まだまだ「未熟児」であり、「浅学非才」ではありますが、
いつお迎えが来ても悔いが残らないように、
人類への遺言を書評を通じて、書き残していく「仕事」に
最期まで励みたいと思っています。
「快楽の哲学」も、その「あわい」に、
そこはかとなく、たゆたう「生命意識の流れ」の中に
存在するのでしょう。
管理人も、在野の片隅で、「肉体労働」に従事しながら、
まるで、<沖仲仕の哲学者>として有名なアメリカのエリック・ホッファーの
ように、「労働」と「仕事」の「あわい」で人生を謳歌させて頂いています。
「有り難いことです・・・」
そんな「仕事哲学」をもって、皆さんにも「より良き仕事(生き様)」を
次世代に残していって頂きたいと願っています。
ということで、本書は、単なる「快楽(幸福)論」に止まらない好著ですので、
是非ご一読のうえ、皆さんなりの独自の「生きる糧」を養成して頂きたく、
お薦めさせて頂きます。
最後に、管理人も敬愛する故水木しげる先生の「幸福論」を
おまけにご紹介させて頂いて、筆を擱くことにします。
<水木サンの幸福7ヵ条>
①「成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。」
②「しないではいられないことをし続けなさい。」
③「他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追求すべし。」
④「好きの力を信じる。」
⑤「才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。」
⑥「なまけ者になりなさい。」
⑦「目に見えない世界を信じる。」
(『水木サンの幸福論』水木しげる著、角川文庫、2010年第7版、
本書<第1部 水木サンの幸福論>9~25頁ご参照)
こちらの「水木幸福論」も、併せてお薦めさせて頂きます。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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