渡辺京二さんの「幻影の明治」は、近代日本の深層心理を分析した好著です!!もう一つの「独立自尊への道」を探ろう!!
「幻影の明治-名もなき人びとの肖像」
「逝きし世の面影」「黒船前夜」などで
独自の「歴史叙述」をされてこられた
渡辺京二さんが、今回は「明治近代日本」の
深層心理を分析されています。
私たちは、未だに「近代日本とは何だったのか?」に
ついて消化しきれていないようです。
21世紀に入って、ますますグローバル化が進展していく中で、
身近な個人生活の領域にも大きな影響を与え続けています。
今回は、この本をご紹介します。
「幻影の明治~名もなき人びとの肖像~」 (渡辺京二著、平凡社、2014年)
渡辺京二さん(以下、著者)は、アカデミズム(正規の大学文化)とは
一線を画した独自路線を歩んでおられる民間の歴史叙述作家です。
「逝きし世の面影」「黒船前夜」など、
数々の話題作を提供されてこられました。
前にも当ブログでご紹介させて頂きましたように、
同じ「熊本県人」の石牟礼道子さんとともに
活動されてこられたことでも知られています。
2015年は、「戦後70年の節目の年」ということで
何かと「近代日本の歩み」について話題になりました。
NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」や朝の連続テレビ小説「あさが来た」でも
幕末から明治へと至る「近代日本の黎明期」が描かれていました。
また、大学の先生方や有名作家なども
百家争鳴の「歴史論議」をされていたようです。
こうした状況の中で、著者は、そうした「歴史業界」とは
一線を画した独自の世界観をこれまでも披露されてこられました。
著者の独自な視点は、いつも「名もなき人びとから見た歴史」でした。
歴史を単なる「講談講釈」にもせず、政治イデオロギーともアカデミズムとも
異なる「盲点」を描写されています。
著者は、この本で「近代国民国家」と「江戸幕藩体制国家」との連続性を
大切にしながら、「もう一つの維新から見た近代日本」を論考されています。
この本は、軽い「歴史叙述エッセー」ですが、非常に濃い内容となっています。
特に、「山田風太郎の明治もの」から「士族反乱」「自由民権運動」へと進める論考や
「内村鑑三に試問されて」と題するエッセーは圧巻です。
ここには、アカデミズムや司馬遼太郎氏などの「知的」作家が見落としてきた
「近代日本とそこに住まう名もなき人びとの肖像」があります。
「深い人間への愛情と哀惜への共感共苦」が通奏低音として鳴り響いています。
私たちは、果たして「近代を乗り越えることが出来るのでしょうか?」
その答えを早急に求める前に、「近代日本と日本人の深層心理」にも
共感共苦してみる姿勢が必要なのではないでしょうか?
いつの時代も、「新たな時代への門出は、生きた歴史分析から」始まります。
「明るい近代の超克」を目指していくヒントは、歴史への眼差しにあるようです。
今後ともグローバル化が進展していく中で、私たちのアイデンティティーも
揺さぶられていくことでしょう。
こうした急激な歴史的変化の過程で、いかに落ち着いた生活を取り戻していくか?
そのヒントをこのエッセーから学んでみようと、
この本を取り上げさせて頂きました。
山田風太郎が描いた幻影の明治日本
著者は、冒頭で「山田風太郎の明治」と題するエッセーを展開されています。
山田風太郎と言えば、奇想天外な「忍法帖シリーズ」や「戦後日記シリーズ」、
数々の「幻想・推理小説」で有名な作家です。
それら一連の作品に流れるリズムは、悲しいまでの「虚無的物語」です。
それでもって、山田風太郎作品の「虚無的物語はなぜ明るいように感じるのか?」
それは、山田風太郎の深い人間愛から来るものだと思われます。
なぜ、21世紀になっても現代日本は憂鬱な社会なのか?
管理人も幼少時から考えてきましたが、それは学校教育や社会が
提供してきた「歴史描写」には「人間への深い愛と哀惜への共感共苦」が
始めから換骨奪胎され、放棄されてきたからではないでしょうか?
それが、「暗い虚無感」をもたらしているのではないかと思うのです。
通俗的な「近現代日本史」では、「歴史的連続性が切断」されてきました。
そのため、私たちは「先に死んでいった人びとへの愛情感覚や哀惜感覚」を
奪われてきました。
そのことが、現代日本社会にも反映されているようです。
「歴史的連続性が断絶」されることは、人びととのつながりが
失われていくことにもなりかねません。
著者も、一連の作品を通じてそのことを強調されてこられたようです。
この視点が、多くのアカデミズムに属する「歴史研究者」にも
「講談講釈」をもっぱらとする「歴史(時代)小説作家」にも
あまり感じられないように見受けられます。
山田風太郎作品の長所は、虚無感覚を軽減させてくれる
ある種の「精神治癒小説」であるところだと思います。
山田風太郎自身、若き頃は医者を目指していた「医学生」だったのです。
そうしたことも、影響しているのではないでしょうか?
「いやはや、山田風太郎恐るべし!!」です。
21世紀日本における「近代の超克」を考えよう!!
著者は、この本の中で
近代知識人が描く近現代日本史に異議を唱えていきます。
明治維新に対する見方にも、独特の視点が提供されています。
著者は、「熊本県人」でもあり
「もう一つの維新」を考察する対象として
「熊本敬神党」と「熊本民権党」を挙げられています。
公式史観では、「時代遅れの狂信者集団」として一刀両断されていますが、
著者の「愛情と哀惜ある眼差し」によれば、別の「近代日本」が
彼らの眼には映っていた心理が、今にも生き生きと甦ってくるようです。
私たちは、常に歴史を「勝者の視点」から認識しがちです。
「歴史を疎かにする者は、自分の人生も殺伐としたものにしてしまう!!」
どうやら、歴史とはそのような「構造」になっているようです。
さて、「近代の超克」ですが、20世紀の「先の大戦」前にも世界各国で
論じられていたようですが、日本でも独特の世界観が提出されていました。
西田幾多郎などの哲学者を代表とした「京都学派」に集う学者と朝野挙げての
「近代の超克論」は、「世界精神を巡る命がけの論争」でもありました。
「西洋と日本の近代精神にかける大きな見解の相違」が、
最終的に悲しい事態へと発展していきました。
20世紀の歴史は、「精神に対する物質の優位」という形で
一応決着がついたかのように見えましたが、
そのことが日本人に与えた「精神的後遺症」には、
現在に至るまで、なお深いものがあります。
この「精神的空虚感」を無理に急いで埋めようとすれば、
再び「災難」を招くことにもなりかねません。
この「精神的空虚感」を埋めるためには、
「歴史の連続性」を取り戻すことが大切になります。
では、21世紀における「近代の超克」の課題とは?
やはり、20世紀から積み残してきた課題を無視することは出来ません。
「精神的世界観と物質的世界観の調和」こそ、21世紀にあらたに甦ってきた
「近代の超克論」の主旋律になります。
それには、「近(現)代人とは、どのような人間像なのか?」
「近(現)代精神の奥底に流れる暗い影」に真正面から向き合うことも
大切になってきます。
著者は、内村鑑三の「二つのJ(キリストと日本)」にも代表される
「引き裂かれた近代日本と近代日本人の深い悲しみ」という問題提起に
触発された論考も進められています。
そのあたりは、著者の「歴史観」も反映していて考えさせるものがあります。
最後にこの本の「読みどころ」は、新保祐司さんとの対談です。
新保祐司さんは、産経新聞の「正論」の執筆メンバーでもあり、
昨年にはご自身も著作に持つ「信時潔」が手がけた「海道東征」という
音楽作品を復権させる活動とともに、
公開公演運動もされてこられました。
そこには、深い人間理解と豊かな歴史観も込められており、
「イデオロギー的歴史解釈」を乗り越えようとする
著者との接点もあるようです。
いずれにせよ、この本には「精神的空虚(虚無)感」から抜け出すヒントが
たくさんあります。
また、著者独自の「独学論」も提示されています。
皆さんも、日々の生活で疲れた時には「壮大な問題意識を持った歴史叙述家」である
著者の作品をご一読してみてはいかがでしょうか?
最後までお読み頂きありがとうございました。
sponsored link