魚川祐司さんの『仏教思想のゼロポイント~「悟り」とは何か~』非仏教徒が考えるラジカルな仏教論!?

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『仏教思想のゼロポイント~「悟り」とは何か~』

魚川祐司さんが、「仏教徒」でない方向けの

ラジカルな「仏教論」を展開されています。

魚川祐司さんは、最近日本でも大流行の

「テーラワーダ(上座部)仏教」を

ミャンマーで直接「実践体験」されながら、

その「教理研究」もされている若者です。

お釈迦様の教えは、

「異性とは目も合わせないニートになれ!!」だった!?

こんな過激なフレーズで挑発しつつも、仏教に対する

世間からの数々の誤解に真摯に回答されています。

今回は、この本をご紹介します。

『仏教思想のゼロポイント~「悟り」とは何か~』     (魚川祐司著、新潮社、2015年)

魚川祐司さん(以下、著者)は、管理人と同じ

1979年生まれの若手仏教研究者です。

2009年末より、5年間ほどミャンマーに渡航滞在されながら

日本でも最近大流行の「テーラワーダ(上座部)仏教」

教理と実践を学びながら、仏教・価値・自由などをテーマとして

研究されているそうです。

著者は、いわゆる「仏教徒」ではなく、

いずれの「仏教組織団体」にも無所属・フリーの「仏教愛好家??」

であるようです。

管理人も当ブログで、様々な「仏教啓蒙書」をご紹介させて

頂いていますが、著者と同じで「非仏教徒」です。

とはいえ、仏教に親しんでいるのは事実なので、現実的には「境界線」なんて

ないんですけどね。(言葉に拘泥しない、まさに「空」ですな・・・)

今回ご紹介させて頂くきっかけは、著者が管理人と同い年でもあり、

同年代の若者として、その「仏教論」にも興味を引き寄せられたからです。

常日頃から、管理人も抱いていた仏教への疑問点をわかりやすく

懇切丁寧に回答されています。

著者は、管理人とは異なり、一応学生時代に「西洋哲学」と

「インド哲学・仏教学」を専攻されています。

そのため、精密な専門用語の使い方や文献解釈の訓練もなされています。

釈迦様の教えは、「異性とは目も合わせないニートになれ!!」だった!?

この本の第1章『絶対にごまかしてはいけないこと-仏教の「方向」』

の中で、一見挑発的な「イメージ像」を提示されていますが、

この本を最後まで読了されると、最初に抱いていたイメージが

「いい意味」で裏切られていくことでしょう。

お釈迦様は、「涅槃寂静・寂滅為楽」といった「悟り」を追究されていきました。

その道は、「流れに逆らうもの」として・・・

著者は、第1章冒頭の「聖求経」の一節を引用しながら、世間一般の方々の持つ

仏教に対する「人間として正しく生きる道」を説いたとされる

「単純なイメージ像」を覆そうと語っていきます。

そうです。

お釈迦様とは、「ラジカルな思想家」でもあったのでした!!

現代社会では、多くの老若男女が「既成の生き方」からの脱却を

何度も試みようとして苦しんでおられます。

なぜ、「中途半端な生き方」になってしまうのか?

そうした初歩的な「疑問点や悩み」を抱えておいでの方もおられるでしょう。

お釈迦様も、既存の社会秩序に疑問を持たれたからこそ、「別の道」を

模索されていったのです。

とはいえ、お釈迦様も「生身の人間」です。

完全な「出世間」には、困難な歩みを要したようですね。

お釈迦様も当時の「世間」との折り合いのつけ方に

相当「四苦八苦」されたようです。

それは、いつの時代も同じです。

そうした「人間の苦しみ」を率直に受け止めながら、「論理的に一歩一歩」

瞑想などを通じて解決されていかれたのが、お釈迦様の「真の姿」でした。

日本でも仏教は普及していますが、大多数のプロの「仏教徒」は

お釈迦様の歩まれた「仏道のプロセス」を真摯に語ろうとはしません。

なぜか、避けているように一般人には見えるのですね。

読者の皆さんの中にも、「そうだ!!だから、もひとつ信用ならんのだ!!」と

同感の方もおられるでしょう。

管理人も強く同意します。

ということで、そんな皆さんが常日頃から感じている疑問点を

ここで解消して頂こうと、この本を取り上げさせて頂きました。

「流れに逆らうもの」として生き抜こうとするブッダ

著者は、「テーラワーダ(上座部)仏教」に学びながらも、

ご自身は、あくまで「テーラワーダ(上座部)仏教徒」ではないようです。

また、これまでも何度か触れましたように、

「テーラワーダ(上座部)仏教」は、お釈迦様の教えに比較的近いとされる

「小乗仏教」だとされています。

これも、後世の「大乗仏教」からの「呼び名」ですので、

著者も注意を促しておられますが、どちらが「より優れている」かという

ことではないことは、はじめに確認しておきます。

この本を読まれる際にご注意して頂きたいことは、これらの点と

著者も強調されていますように、必ずしも「テーラワーダ仏教」の教えに

完全に準拠したものではないことです。

しかも、今となっては、どんなに精緻な「経典解釈」を行おうと試みても、

「お釈迦様の実声」を聴いて確認することが不可能な点も考慮しなくては

なりません。

なぜなら、お釈迦様もソクラテスと同じように

直接「文章」として「教えの内容」を残された訳ではないからです。

そのため、今日私たちが「お釈迦様の教え」に直に触れようとすれば、

後世の弟子たちによる文献と若干の遺跡や足跡から推測するしかありません。

そうした中で浮かび上がってきた、お釈迦様の人物像から見えてきた視点とは??

著者が、この本で考察する最大の要点が、

①そもそもゴータマ・ブッダ(お釈迦様)のいう解脱・涅槃(悟り)とは何か?

②「成道後(悟りを開いた後)」、なぜ死なずに説法を始められたのか?

ということです。

ですから、読者の皆さんにおかれましては、第1章と第6・7章を中心にして

読まれると、理解が促進されることと思います。

言うまでもなく、「仏典」は「頭」だけで読んでも

理解出来る「代物」ではありません。

お釈迦様自身、「法を頼りに怠りなく進みなさい!!」と諭されたように、

「身・口・意(こころ)」の全身を使って、順を追って全身全霊で

体認・体得していく他ありません。

つまり、「地道に着実に焦ることなく一歩一歩油断なく歩み続ける」ことを

無視しては「解脱・涅槃(悟り)への道」へは、いつまで経っても到達出来ない

ということです。

それと、当たり前のことですが、お釈迦様は「出家の身」であったことです。

後に、「在家(俗世間で普通に生きる私たちのこと)」の者にも「説法」して

いかれるのですが、「社会との折り合いのつけ方」には、「厳格なルール(戒律)」

を設けたことにも注目しなければなりません。

このことを度外視して仏教を論じることは、それこそ「論外」ということです。

まとめますと、お釈迦様は、「俗世間のルールに縛られない生き方」をしつつも、

俗世間との間で無用な軋轢を起こさないための工夫と知恵を模索されたということです。

その「仏道成就(悟り)へ向けてのプロセス」を正確に理解しませんと、

「人間として正しく生きる道」という「美しい誤解」につながるという訳です。

「仏教を生きる」ということ

ここでは、「悟り」を理解するための「仏教の基本的知識や構造」については、

触れないことにします。

著者も、学者やプロの僧侶とは違うので

「衒学的(難しく賢しらな学識で煙に巻く姿勢のこと)な趣味」もないようですし、

いかにも「抹香臭い」ような議論は展開されていませんので、ご安心下さい。

なるたけ、専門用語は最小限に抑え、ご自身の体験を絡めながら

「仏道成就(悟り)へのプロセス」をイメージしやすいように解説されておられます。

(もっとも、管理人も著者も「悟り」など開いていませんが・・・)

あくまで、その「悟りへのプロセス」と「悟りとは何か?」という点に絞って

考察していきます。

詳細な解説は、この本をご一読して頂くことにしまして、

要するに、この世にある「現象」を実体化して、その「幻像」に執着せずに、

解釈を容れずに「あるがままに」観察することの重要性が強調されています。

ここで、「幻像」と言えば、いかにも「この世は夢幻の如くなり!!」(織田信長)

のようですが、生身の信長もそうであったように、全く「この世のあり方」を

無視することではないことです。

この点の「誤解」があまりにも世間に流布しているようなので、ここはきちんと

指摘しておかなければなりません。

なぜなら、この「一点」こそが、「虚無感(ニヒリズム)」に陥って

「人生を台無しにしないための分かれ目」でもあるからです。

著者も、最終的に「悟り」を開く仏教の「ゼロポイント」をつかむには、

この「空観・中観・仮観」を正確に把握することが、

非常に重要であることを示唆されています。

結局、仏教の最大のポイントは、「この世・あの世といった時空を超えた

悟り(涅槃寂静・寂滅為楽)の世界へ至る道のりを歩み続けること!!」に

尽きるようです。

有名な「輪廻転生論」もこの本で触れられていますが、仏教では

この「輪廻論」が大前提となっているようです。

お釈迦様は、「死後の世界」を含め「言葉で語り得ず、体験もしにくい」

いわゆる超経験的な「形而上学的世界」については、

「黙して語らず」だったようです。

後世の「仏典」では、「無記」となっている箇所です。

この本であらためて学ばせて頂いたことは、お釈迦様は「実践的な中道」を

歩まれたということです。

つまり、「危ない橋は渡られなかった!!」ということです。

そして、お釈迦様が「悟り」の「実感」(あくまで、「悟後の修行」という

ように、修行自体は終局的な「寂滅」までは続くのですが・・・)を

つかんだ後は、大きな「ためらい」もあったようですが、「説法」を

俗世間に向けて開始します。

実は、この「ためらい」こそが、仏教を理解するうえで一番大切な「分岐点」に

なるようですが、著者も強調されるように、この「俗世間への関与度・距離感」

こそが、これまでの仏教学者やプロの「仏教徒」(一般的な「宗教団体」も含めて)

曖昧にされてきたからこそ、トラブルが続発することになったのでしょう。

今回は、これ以上は触れませんが、ここに「戒律」の重要性が出てきます。

この本では、「テーラワーダ(上座部)仏教」と言っても、一口で語ることは

出来ませんが、著者の体験も踏まえて「ミャンマー仏教とタイ仏教の違い」にも

触れられているところが、類書では学ぶ機会も少ないと思われますのでお薦めです。

著者もこの本で最大に強調されているのは、「社会との接点をどこで結ぶか?」と

いうことでした。

この本ではありませんが、管理人がお薦めする小室直樹博士の「日本人のための宗教原論」

によると、「空」を理解する極意は、「庵を結ぶ」イメージをつかむことだそうです

この「結ぶ」という感覚は、昨今の若者の感覚では「弱いつながり」と言えば

イメージしやすいのでしょうか?

「実感度」は、各人によって異なり、著者もこの本で指摘されている茂木健一郎さん

などの語られる「クオリア(質感)」の内実を他人に語ることは不可能です。

しかし、この内実をつかむことこそが、仏教では決定的に重要だということは

間違いないようですね。

お釈迦様が、大きくためらったのも俗に言う「縁なき衆生は度し難し!!」だった

ようです。

この本の優れた点は、この微妙な「ズレ」も説明されていることです。

「慈悲と優しさは違う」らしい・・・

この「断絶」を理解せずに、ただ無思慮に「説法」を始めたりすると

それこそ「偽善」にもなりかねませんし、世間にご迷惑をおかけすることになります。

「俗世間と出世間の違い」を理解することが、宗教を理解するための最大の要所だと

上述の小室直樹博士はおっしゃっています。

今日、「聖」と「俗」の世界の境目が、限りなく「ゼロ」に近づいてきているため、

宗教界だけにとどまらず、あらゆる世界でトラブル続出中です。

その意味でも、仏教の奥深い世界を入り口にして、日本人が今まで無縁で済んでいた

「宗教の世界」を学ぶことに意義があるようです。

ということで、この本をご一読されることをお薦めします。

著者と同じ問題意識を共有する管理人にとっても、

「仏教は知れば知るほど、楽しく面白い世界観ですねぇ~」

もっとも、読者の皆さんには、「宗教信仰の自由」がありますので、

もとより強制などは一切いたしませんが、皆さんにとっても

「社会との折り合いのつけ方」を学ぶには、お釈迦様の歩いた道が

参考になるかと思いましたので、ご紹介させて頂きました。

なお、著者の別著として、

「だから仏教は面白い!講義ライブ」(講談社+α文庫、2015年)

「ゆるす~読むだけで心が晴れる仏教法話~」

(ウ・ジョーティカ著、魚川祐司訳、新潮社、2015年)

また、「戒律の重要性」については、

「律に学ぶ生き方の智慧」(佐々木閑著、新潮選書、2011年)

「対談 世流に逆らう~対談 佐伯快勝×アレックス・カー~」

(佐伯快勝、アレックス・カー共著、北星社、2012年)

本文中の小室直樹博士の

「日本人のための宗教原論~あなたを宗教はどう助けてくれるのか~」

(徳間書店、2000年第2刷)

をご紹介しておきます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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