伊藤邦武先生の「物語 哲学の歴史」は、これからの人類の方向性を哲学するヒントとしての必読書です!!

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「物語 哲学の歴史~自分と世界を考えるために~」

伊藤邦武先生が、これまでの「人類の哲学の歩み」について

わかりやすく物語って下さっています。

「哲学史とは、人類の意識の流れの進化の物語!?」

「人間は考える葦である」(ブレーズ・パスカル)

人間は、世界の中にあらかじめ投げ出された存在ゆえに、

絶えず「不安と緊張」に悩まされ続けます。

だからこそ、問い学び考え続けること止まない「私」・・・

今回は、この本をご紹介します。

「物語 哲学の歴史~自分と世界を考えるために~」     (伊藤邦武著、中公新書、2012年)

伊藤邦武先生(以下、著者)は、前にもご紹介させて頂いた

ジョン・ラスキンの解説者でもあります。

ご専門は、あくまで「プラグマティズム哲学」であり、

「実践的な合理的経験論」を倫理的な方向性で、生命有機的な

「血の通った哲学」へと発展させていこうと、

「知の架け橋」となるお仕事をされてこられました。

原点は、「パースのプラグマティズム」。

著者は、京都大学教授でもあり、「京都学派」の

良質的な「知の伝統」を受け継がれているようです。

「京都学派」の傾向は、地に足のついた地道な基礎研究を

大切にしながら、ローカルからグローバルへの架け橋を理想

とした「グローカルな知の体系」を現代社会に提供し続けて

きたようです。

特に、文理融合型の21世紀にふさわしい「学際研究」を

重視する傾向にあるようです。

1970年代から現代に至るまで、日本の「複雑系科学」の

主要拠点としての役割も大きいようです。

ところで、著者のご専門である「プラグマティズム哲学」の

洗礼を受けた「現代経済学の父」ケインズの警告を紹介しながら

複雑化・仮想現実化する一方の現代金融経済の指導層に対して、

「もっと知的に謙虚であれ!!」との姿勢に学ぶべきことも

強調されてきたようです。(京都新聞のブログ記事

その意味で、著者のご専門である「プラグマティズム哲学思想」は、

単なる「功利主義」ではないことも、もっと社会に幅広く共有されても

よいのではないかとの「啓蒙活動」もされているようです。

さて、人類は「言葉という道具」を持ち始めた「有史」以来、

「この世界の様々なあり方」を人間の認識の限界まで、目一杯背伸びして

哲学してきました。

著者も、この本の冒頭でパスカルの言葉を取り上げながら、

人間の考える営みの有意義について問題提起されています。

その問題提起を入口として、古代から現代までの「哲学史の物語」が

展開されています。

著者もこの本は、「かなり欲張りな試み」だとされていますが、

その<あとがき>での実感に十二分に見合うだけの高密度な好著と

なっています。

すべての思想を、一読のみで理解することは、もとより不可能ではありますが、

この本を読みながら「人間の知の営み」を学び問い続けることで、

あらためて謙虚な思いを呼び覚まさせてくれることは間違いありません。

「哲学するとは、人間の生きる原点に絶えず立ち返ること!!」

複雑きわまりなく不安に満ち溢れた現代社会だからこそ、何度も繰り返し

「自分と世界を考えるために」哲学する意味があります。

ということで、皆さんにも有意義な時間を過ごすヒントになるかと

思いましたので、この本を取り上げさせて頂きました。

新しい「生の哲学」の構築へ向けて・・・

いきなり、「生の哲学」という「大きな哲学テーマ」が

現れましたが、これは20世紀初頭の「人間機械化」への

痛烈な省察から甦ってきたようです。

「哲学するとは、人間が有意義に考える営みのこと!!」ですが、

それは、「よりよく生きる」ことを模索する姿勢と同じ意味を

持ちます。

その意味では、「生の哲学」は、有史以来ずっと問われ続けてきた

「生の営み」であります。

さて、著者の問題意識は、複雑になり「死につつある現代哲学」を、

もう一度「人間の原点」に立ち返って、「物語 哲学の歴史」という

形で読み直すことにより、「蘇生」させていこうとする試みにあります。

それが、著者のいう「新しい生の哲学」です。

その「考えるためのヒント」を、人類の「哲学史」から学び取りながら、

「自分なりに考えていく独自の哲学的創作物語」を提案されていきます。

著者の視点では、「宇宙の中の人間の位置づけ」です。

ここで、管理人は「死につつある現代哲学」と語りましたが、

特に「フランス現代哲学思想(特に、第二次大戦後)」に対する

「違和感」を念頭にしています。

おそらく、読者の皆さんの中で、比較的「哲学好き」を自認される方でも、

この「違和感」は共有して頂けるのではないでしょうか?

つまり、一般人にとって「何のことを語っているのかさっぱり不明!?」

という感覚です。

フランス現代哲学思想に対するイメージと言えば、「複雑難解な哲学専門用語」が

すぐに思い浮かぶくらいです。

どう考えても、「知的なお遊戯」くらいにしか感じられないのです。

本来、哲学とは「よりよく生きる」ための実践的な営みが「原点」であるはず・・・

もっとも、そんな「フランス哲学思想」でも、第二次大戦前までは、冒頭のパスカルや

モンテーニュのような「モラリスト」やベルクソンの「生の哲学」、ポアンカレのような

「直観の哲学」を真剣に考察した賢者もいました。

ですので、管理人にはあらかじめ「フランス現代思想」に対する「偏見」の

眼差しも入り交じっていることをあらかじめご了承下さいませ。

著者がこの本から改めて考えてみようとされる「問いかけ」も、そのような

フランスだけに限らず「現代哲学思想」の悲壮感・無味乾燥化に対する

実感に、少しでも「希望を持たせようとする試み」なのかもしれません。

著者は、この本で

①「魂の哲学」(古代・中世)

②「意識の哲学」(近代)

③「言語の哲学」(20世紀)

④「生命の哲学」(21世紀へ向けて)

という流れで、展開していく「哲学史」を

描写されています。

ことに、②におけるデカルトに代表される「認識論的転回」、

③における分析哲学や現象学派に代表される「言語論的転回」

という「哲学革命」は、科学史におけるトマス・クーン

「パラダイムシフト論」で考察されるような「大きな転換点」と

なっていたようです。

この「パラダイムシフト論」は、現代「科学哲学」の分野では、

最近は評判もあまり芳しくないそうですが、一応「哲学史」は

螺旋状のように推移しながら生成発展してきたようですね。

さて、「生命の哲学」が現代最大の課題になりますが、この哲学は

これまで人類が、「人間と自然(世界)」との間に強固に楔を打ち込んできた

ことから生み出されてきた「機械的・目的的世界観」に対しての「哲学的反省」

から問題提起されてきました。

哲学史における「意識の流れ」をざっと見晴るかすと、「抽象化から具体化」への

流れとして進化してきたかのように見えます。

しかし、それは同時に「人間と世界」とを分断していくことでもあり、

言葉や記号(数字など)を使ったある種の「操作」の歴史でもありました。

個別の思想の詳細解説は、この本に譲らせて頂きますが、総じて

この「操作(道具)主義的分析方法」は、「生きる意欲」を奪いかねないほど

人間に「壮絶な挫折感」をも、もたらしてきたように感じられます。

もちろん、言うまでもなく、私たちは、この便利な思考法を獲得することが

出来たために、科学の恩恵を始めとする「文明の利点」を数多く享受出来て

いることは否定出来ません。

ですので、その点は素直に感謝しつつ「極論(暴言)」するつもりはありません。

実は、この「生きる意欲」が文明の進歩に反比例して殺がれかねない「不安感」

こそが、現代哲学のテーマでもあります。

先程も語りましたが、フランス現代思想のことは、管理人も浅学非才のため

わかりませんが、「人間の身体感覚の欠如」「知に対する不安感」が底流

あるようです。

それは、フランスだけにかかわらず、すべての「現代哲学」のテーマですが・・・

ここから、プラグマティズム哲学の再評価にもつながっていくようです。

20世紀は、「言語哲学の世紀」だと語られていますが、この視点は、

現代フランス「ポストモダン??思想」に対する反省も促しているようで

非常に、管理人にとっては興味深いテーマでもあります。

ソシュールデリダといった、哲学に馴染みがない方でも、若い読者の方なら

もしかしたら高校の「現代評論文」で目に触れられた方もおられるかもしれません。

「脱構築」「記号論」などなど・・・

管理人が、学生だった頃は、この訳の分からない「記号論」が

大流行だったようです。

今の40代から50代の「タレント評論家」がいかにも好みそうなネタのようですが、

この年代層は、「ニューアカデミズム」なる「知(痴??)の体系」に惹かれたそうで、

それは、後に「ソーカル事件」となって議論が紛糾した出来事もあったようです。

要するに、「大した議論の裏付けもなく、何でもありのパッチワークキルトのような

知的印象操作」が問題だったようで、「批判思考」の観点から厳しく吟味されたようです。

それは、現代日本の「タレント言論人(リアル・バーチャル問わず)」にも

後遺障害として残っているようです。

ですから、これから未来へ向けて前向きに飛翔されようとされる若者の皆さんには、

30代の先輩からの老婆心として、このような「もっともらしく、わかりやすい論者」には、

あまり近寄らない方が「身のため」だと思われます。

だからこそ、真面目に真摯に生き抜こうとされる方には、著者のような

「プラグマティズム的批判思考法」を是非学んで頂きたいのです。

「学校(教科書)では教えてくれない哲学・思想!!」です。

このような「現代社会教育事情」もあるからこそ、「独学」の重要性を

強く「伝道」させて頂いているのです。

この「プラグマティズム思考法」ほど、大きく誤解されている「現代思想」も

ないようです。

この「プラグマティズム」も論者によって見解が分かれるので、一概に

「簡潔に論じきる」ことは出来ないのですが、一般的には、

「操作(道具)主義」のイメージがあるようです。

が、これは「(フランス由来の)ポスト構造主義」のような「操作(道具)主義」

とは大きく異なります。

確かに、この「プラグマティズム」も、いかにも「夢の国アメリカ」に親和性があるように

俗流の「成功哲学」や、日本では「マーク式試験型知的判別法」のように「悪用」されてきた

事実も見受けられるようです。

そのことが、賢明な知的一般人には「違和感」をもたらした原因のようです。

ところが、この「プラグマティズム」こそ「実践的合理経験哲学」と理解されている

ように、そのような「蒙昧にして無用な混乱」をもたらしてきた「抽象(形而上)哲学」

を取り除くために考案された発明品でもあるのです。

また、一般的には「功利主義」ともされますが、ケインズの「大不況対策」や

現代コンピュータ科学などの「最先端実用科学」にも活用されているように、

単なる「量的計算可能な損得主義」だけでもないようです。

もちろん、この「プラグマティズム」も

「倫理的」に歯止めをかける必要性は常にあります。

そのことは、著者も強調されておられます。

つまり、「プラグマティズム」とは、「何のためにそれをするのか?」

という「生きた視点」を回復させてくれるところに長所があります。

このあたりの考察は、前にも当ブログでご紹介させて頂きましたので、

そちらの記事もお読み下さると幸いであります。

ということで、長くなりましたが「生の哲学」の回復へ向けた素描でした。

「存在論」と「認識論」の再生も「現代哲学」のもう一つの    仕事!?

以上、著者の最強調論点でもあった「生の哲学」を中心に

管理人なりに最近関心を持っている問題意識とともに考察させて

頂きました。

著者には、もう1冊貴重な論考「宇宙の哲学」もありますので、

前宣伝になりますが、近いうちに

また「続編」をご紹介させて頂く予定です。

「乞う!!ご期待」でございます。

閑話休題・・・

さて、話題は、哲学の2大重要論点である「存在論」と「認識論」

移らせて頂きます。

『哲学史といえば、「存在論」と「認識論」の壮大な闘争劇!!』

とされるほど、「重要論点」でありました。

「存在論」(いかに、この世界に実在感(リアリティー)をもって

人間らしく生きる条件を創造すべきか??)

「認識論」(人間の無謬性を否定し、「偏見」や「誤謬」を絶えず

抱え込んでしまう「己の弱さ」を乗り越えるための謙虚さを学ぶ方法論??)

読者の方には、それぞれ「持論」がおありかと思いますが、少なくとも

管理人はこのようにイメージしながら、哲学に寄り添ってきました。

西洋哲学は、著者も誤解があることを含みつつ、簡潔に分類されておられますが、

大きくは「アリストテレス的世界観」と「プラトン的世界観」の対立だったようです。

もちろん、アリストテレスはプラトンの弟子でもありますので、直接何でもかでも

否定している訳ではありませんが、ざっくばらんに言うと、

『この世とあの世の「世界像」を切り分けた!?』作業をなしたのが、

アリストテレスでした。

師匠のプラトンも、「認識論」において、自らの「イデア論」について

不安も抱いていたことは間違いないようです。

「洞窟の影」のたとえですね。

イメージ(表象)と言葉(記述表現法)の不一致(どこまでいっても近似値止まりで、

一定の誤謬は残る!!)という難問は、20世紀の「言語哲学」でも

完全に乗り越えられた訳ではないようです。

「語り得ないものは、沈黙しなければならない」ウィトゲンシュタイン

という有名な「言語論」がありますが、これも「言語ゲーム」という

「文脈」によって変化していきます。

コミュニケーションは、「対話」重視の「思考法」を促しますが、

日常会話程度では、哲学などの「学問」のように、言葉に厳密な定義を

設定しながら意思疎通することなど出来るはずもなく、「瞬間(一時)的会話」で

「やり過ごし」されていくのが、「世の常」です。

これが、「悲壮感(ペシミズム)・虚無感(ニヒリズム)・冷笑主義(シニシズム)」

といった「現代3大不感症」の原因でもあるようです。

著者は、ヘーゲルのような「直線・進歩型誇大妄想的体系哲学(いわゆる大きな物語)」や、

シュペングラー「西欧の没落」、トインビー「歴史の研究」のような

「無限循環型悲観・虚無的世界観」、さらにローティの「哲学の終わり」で考察

されるような、ある種の「価値相対主義的哲学観」をも乗り越えようとする「生きた哲学」に

向けた長い道のりを歩むきっかけとなる「新しい哲学」を呼びかけています。

思えば、「プラグマティズム」は「実用的哲学」でした。

そこに、「いのち」を吹き込み「生きた哲学」として甦らせようと祈り願い続ける哲学が、

著者のみならず、私たち一人一人に要求されているのでしょう。

その意味で、「哲学史」も「新たな時代」を迎えています。

前にもご紹介させて頂いた梅原猛先生も「太陽の哲学」で

古代オリエントやエジプトに着眼されていましたが、

著者も、アリストテレス哲学の読み直しを通じて、

「ビザンツ世界、イスラム世界、ラテン世界の公平な咀嚼吟味作業」を

更新させていくことに注意を促されているようです。

ここにおいて、「世界の調和に向けた新たな人類史の一歩が始まる!!」

まだまだこの本を熱意を持って、ご紹介させて頂きたいのですが、

もはや紙数も尽きましたので、いずれの日にか、先程の予告として

お伝え済みの「続編」で、再会いたしましょう。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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