森博嗣さんの「孤独の価値」静寂な時間にこそ、いのちが養われる!!侘び寂び文化と未来経済のコラボレーション!?
「孤独の価値」
理系ミステリー作家でお馴染みの森博嗣さんが、
「孤独論」を淡々と語っておられます。
「孤独って、本当に心に悪いんだろうか?」
そんな素朴な疑問について、分析考察されながら、
不思議と安らかな世界へと誘われていきます。
かつて、日本人にとっては、「侘び寂び」を愛する時代が
ありました。
でも、現代では、なぜか暗いイメージを抱えられる方が
多いようです。
今回は、この本をご紹介します。
「孤独の価値」(森博嗣著、幻冬舎新書、2014年)
森博嗣さん(以下、著者)は、著名な理系ミステリー作家として、
根強い人気があり、親しまれているようです。
管理人と著者との出会いは、本書が始めてですが、
一人のSFファンとしては、今後注目して、
作品をじっくりと味わわせて頂こうと思っています。
さて、著者のデビューは、意外に遅咲きのようで、
大学での研究・教育者としてのお勤めの傍ら、
1996年『すべてがFになる』で第1回メフィスト賞を受賞。
作家としてデビューされています。
その後も、「二足(以上??)のわらじ」として、
研究職や様々な活動でお忙しい中、驚異的なスピードで、
多作されてこられたことは、業界内でも評判が高いようです。
管理人も、そのようなスタミナが欲しいというところですが、
その強靱なスタミナ力の源は、「孤独な時間」にありました。
本書<あとがき>によると、大学人も作家業からも
ほぼ引退されたとのことですが、惜しまれます。
今後とも、是非とも、本書のような成熟度の高い作品を
味わいたいものです。
もっとも、こればかりは、著者に「私的欲望」を
押しつけるわけにも参りませんが・・・
それこそ、他人の「孤独な時間」を奪ってしまうことになりますので。
さて、現代社会では、なぜか「孤独」には、否定的なイメージが
付きまとっているようです。
それが、半ば、強迫的な「承認欲求」や「いじめ」の原因にも
なってきたのではないかと、著者も推理されています。
そんな暗いイメージのある「孤独」ですが、
かつての日本人の間では、「侘び寂び文化」として、
「孤独な時間」が親しみを持って愛されていた時代がありました。
著者によると、近現代社会に特有の「都市文化」と「極端な人口増」が、
「各人固有の生きた時間」の密集化を迫り、「孤独な時間」が
徐々に排除されていったのではないかと推論を立てられています。
そして、近現代資本主義経済社会から必然的に導かれる「情報過多」が、
大多数の人間を急き立て、「思考停止社会」へと、
ますます追い込んでいっているのではないかと・・・
本書では、今後予想される未来経済とともに、実用的な視点からも、
「孤独な時間」を蘇生させる意識を持つ必要があるのではないかとも
提案されています。
その生活課題こそが、「創作表現活動」であります。
「孤独な時間」を嫌う感情は、どこからやってくるのか?
それは、人々が生活の利便性と引き換えに放棄していった
「思考の面倒くささ」にありました。
しかし、著者も本書で強調されるように、
「人間の存在意義とは、<考える葦>(パスカル)」であります。
本書では、そんな近現代人が、否定的に放棄していった「孤独」の
イメージを転換させるとともに、「孤独な時間」の復権を狙います。
その方向性を提示することで、現代人は、その乾いた「心」を
再び潤すことに寄与するだろう。
ということで、今回は、皆さんにも「孤独」に対するイメージを
再考して頂くとともに、今後の未来経済を有意義に過ごしていくヒントを
本書から読み取って頂こうとの趣旨で、この本を取り上げさせて頂きました。
「いのち」は、孤独な「静寂の時間」にこそ養われる!!
本文に入る前に、本書の内容をまとめておきます。
①「第1章 何故孤独は寂しいのか」
②「第2章 何故寂しいといけないのか」
③「第3章 人間には孤独が必要である」
④「第4章 孤独から生まれる美意識」
⑤「第5章 孤独を受け入れる方法」
このように、全編を通して、「孤独の価値」について分析考察された
軽妙な哲学的エッセーになっています。
著者のこれまでの人生における諸活動を総括した「集大成」とも
感じられる高密度な「孤独論」であります。
管理人も、これまで(というより、当ブログの主題の一つでもありますが)、
『孤独論』について、多種多様な角度から書物のご紹介とともに、
考察して参りました。
とはいえ、管理人にとっても、著者における『孤独論』の本旨も、
「(現代)人間社会からの<拒絶・隠遁のススメ>」ではありません。
むしろ、より「人間」を知り、「愛する心」を養い育てるための
「試(案)論」であります。
日々、積み重ねられていく「常識(固定観念)」をちょっと違った角度から、
休憩の時間にでも、見つめ直して頂くためのヒントになればとの想いで、
ご紹介させて頂いています。
そのことによって、現代社会に生きる人々が感じておられるだろう
「生きづらさ」から、少しでも救い出される処方箋を提示していこうとの
想いで、日々、研鑽しながら綴らせて頂いています。
そして、数多くの読者の皆さんから、管理人自身も「生き抜く勇気」を
日々、頂いていることには、心の底から、
感謝しても感謝し足りないほど有り難いことでございます。
そんな皆さんにも「孤独な時間」が多々あるかと思われます。
一日の大半を「生計」のために過ごす「仕事の時間」もそうでしょう。
また、「余暇」をどう過ごしていいのかわからないと思われている方も、
案外多いものと推測しています。
そんな方にこそ、是非お読み頂きたいのが、本書『孤独の価値』であります。
詳細は、皆さんのお楽しみとして、省略させて頂きますが、
著者独特の理系的視点から、『孤独論』が展開されていきます。
結局は、「孤独」に暗く悪いイメージを重ね合わせてしまうのも、
「思いこみの為せる業」ということに尽きます。
「人生の浮き沈みも、<波動>のようなもの!!」
著者は、理系人ですので、このようなたとえで、
イメージ喚起を促しておられます。
実際に、「生物」の本質(原点モデル)も、「リング・螺旋構造」にあると
いいます。
俚諺にも、「吉凶相半ばする!!」だとか、
「禍福はあざなえる縄のごとし!!」などと、
「メビウスの輪」のようにイメージされてきました。
しかし、「人間」(管理人も含む)は、おかしなもので、
「光(陽)」の側面には、ぬか喜びする割には、
「影(陰)」の側面がやってくると、すぐにでも逃げ出したくなる
イヤな感じに襲われるという変な習性があります。
他生物の感覚は、いざ知らず、「人間」には、「知力(言葉)」という
独自の道具がありますので、その道具が、私たちの感覚を歪めているようです。
ことに、「理性(知性)」に依存し過ぎる現代人には、
そんな感情に容易く押し潰されてしまいやすい傾向にあると言えましょう。
「理性(知性)こそ、<孤独な時間>を回避させる!?」
一応の「仮説」を立ててみることは出来ますが、
本書を読み進めるにつれ、それも何か違うなぁ~と考えさせられるから
不思議です。
「理性が先か、感情(情動)が先か??」
これは、前にも考察したことがありますが、
いくら「脳科学」や「心理学」を探究したところで、論者によってまちまち、
一向に見えてくる気配すらありません。
最後は、「考えたところでわからない!!」のかもしれませんが、
「わからない」からといって、すぐに「思考停止(放棄)」してしまっては、
何のために「人間」として生かされているのかもわかりません。
そんな「思考停止(放棄)」が、逆に「孤独感」を生み出しているのかも
しれないとの「仮説」に立てば、その「孤独感」の解消も
「考えること(知性)」によって、解消せざるを得ないでしょう。
著者も、そのことを最初に立論しながら、
読者に考え抜くよう注意を呼びかけられています。
そのことによって、「孤独な時間」と真正面から向き合う。
それが、すべての始まりであり、
「生きづらさ感」も、「孤独な静寂の時間」によって、
落ち着きを取り戻し、再び「いのち」を育み養うことになるのだと
優しく語りかけておられます。
「自己愛憤怒」を創作の力によって解消し、精神的高みへと昇華させよう!!(非戦論や反貧困論ともつながる重要な視点)
それでは、この「いのちの時間=孤独な静寂の時間」を、
どのように有意義に過ごせば、前向きな気分でいられるのでしょうか?
それが、「創作表現活動」であります。
著者も、「創作表現活動」のうち、
とりわけ即効性のない無駄に思われる芸術活動に力点を置いて、
著者の芸術家仲間の友人との会話も引き合いに出しながら、
「役に立たない(貧乏??=貧困ではない)ハングリー精神」を
活用した「自己愛憤怒」の発散を推奨されています。
とはいえ、いつも強調させて頂いていますが、
正しい方向性(倫理観=責任感)が「創作表現活動」に
組み込まれていなくてはなりません。
ことに、「趣味と実益を兼ねた<仕事>」でもって世に立ち、
今後の未来経済社会を生き抜いていこうと志す人間にとっては、
まさしく「死活問題」でもあるからです。
著者も語られていますが、確かに現状では、「創作表現活動」のみで
食べていける人間は、ごくごく一握りの少数派ですが、
今後の「人工知能」との絡みでも、
ますます、こうした「創作表現活動」の<重み>が増すようです。
今は、「創作表現活動」に携わる人間にとっては、
「厳しすぎる冬の時代」。
それでも、先の経済社会はどうなるのか見通しもつきません。
「創作表現活動」で食べていける人間も今と同じく相変わらず少ないのか、
それとも多少は倍増するのかは、
これからの社会変化と個人的努力の相関度次第ですが、
こうした「創作表現活動」に比重が移っていくだろう流れだけは、
少なく見積もっても、まず間違いないようです。
なぜなら、「単純労働(ブルーカラー・ホワイトカラー問わず)」の
「絶対数」も減少し続け、現在の推移で「生産水準を落とさず」
人口も長期的に減少し続けていくことを予想するならば、
「仕事」と言えば、「創作表現活動」や
「人間」にとって「必要不可欠かつ機械には代替不可能な領域活動」しか
残されていないと、容易に想像がつくからです。
そのことは、
「雇用の過度の流動化(正社員の非正社員化=名ばかり正社員の増加)」や
「ホワイトカラーエグザンプション(ホワイトカラーの残業代等カット政策)」、
「(社内外)副業活動の積極的容認路線」からも、
すでに現時点で、未来経済の方向性が推測されるところです。
著者も、こうした流れにあることを見越しながら、
「創作表現活動」への積極的挑戦を呼びかけられていますが、
問題は、「誰にでも出来ることなのか(とりわけ、生計の安定的維持)」です。
その点は、もちろん、著者も重々承知でありますが、
「人間の可能性」を本当に確認するには、とにかく見切り発車でも
やってみる価値はあります。
著者も語っておられますが、管理人も同意はしますが、
「努力すれば何とかなる」だとか「やれば出来る」などと、
決して、無責任で安易なことは「断言」出来ませんが、
間違いなく、「結果は、やってみないことには見えてこない」ことだけは、
「真実」でありましょう。
そのことは、「創作表現活動」に限らず、およそ「人間」に可能とされる
どんな「生活」にも当てはまるのではないでしょうか?
(ちなみに、「創作表現活動の重要性」については、前にもご紹介させて頂いた
ドリアン助川さんの『敗北からの創作』も併読して頂くと幸いであります。)
ここで、私事になり大変恐縮ですが、
たまたま、父親が、本年、「退職」したことから、「余生」に新たな趣味を
見出さなくてはならないとの思いで、「絵描き修行」を始めたのですが、
これが、毎日観察していると「進歩・進化」しているのです。
他にも「釣り」など趣味はあるようですが、「お金」という現実的壁も
あるようで、今はあまりお金がかからない「絵描き」に専念しているようです。
本人は、ゆくゆくは「個展でも」と「欲」が湧いてきたようですが・・・
でも、「欲」が湧くことは、いいことです。
「長生きして欲しいですから・・・」
「でも、いわゆる<寝た切り介護>は、困りますけどねぇ~(本音の声)・・・」
こればかりは、人間誰しも「順繰り」ですので致し方ありません。
それはともかく、もともとが、「理系畑」で学生時代には、
「流体力学(自動車工学)」の研究の傍ら、
「製図作成」もお手の物だったようで、
精密な線描写や、立体感覚には優れているようです。
父親も、社会人生活は、まったく異色の「警察官」でしたが、
人生の行程とは、誰しも「予想外」の連続です。
父親も職業柄、様々な人種を観察してきたそうですが、
仮に一時的に「人生の<表街道>を踏み外してしまった」人間でも、
その後の「改心」次第で、
「罪」と「罰」は、生涯背負わなくてはなりませんが、
立ち直ることは、本人の決意と意志次第で十分可能だといいます。
そんな父親でしたから、生真面目で頑固なところもあり、
厳格で保守的なところもありますが、
「鬱」で、管理人が退職することになり、
社会人生活を一時中断しなくてはならなくなった時も、
優しく見守り続けてくれたことだけは、
本当に感謝もし、有り難いことであります。
「希望は、絶望とともにある!!」
「人生の意味(目的)は、向こうからやってくる」(フランクル)と
かねてより、当ブログでも語ってきましたが、
「生き抜く(生活すること)」とは、「信じること」でもあります。
「信じないことには、何かが始まることもありません!!」
「能力」が、あるかないかも、「やってみないことには見えてきません!!」
もっとも、「能力」の「度数」については、個人差があるのは当然ですが、
最後は、死ぬまで、その「能力」を信じ切って、
継続し続ける方法でしか確かめる術はありません。
この点だけは、他の誰かが、自分の代わりに親切丁寧に生きてくれるわけには
いきませんから・・・
ならば、「見切り発車も早い者勝ち」であります。
管理人も、30代前半という早期に、社会での挫折も一度味わっただけに、
今が「どん底」だと思いながら、淡々と黙々と「仕事」を自ら創造すべく
試行錯誤しているところです。
そのうち、ここから「良縁」も深まり、皆さんとともに
「苦楽をともに分かち合える日が訪れれば・・・」と、
日々、念じ祈り続けながら、綴らせて頂いています。
20代前半の壮絶な時期も、そうやって乗り越えてきたので、
「自信喪失から自信回復のプロセス」も、
一応は自分なりに掴めているようです。
その過程では、「海難事故」に遭ったり、
「国家試験に連続落ち」し続けたり、
「夢」を実現すべく、工場での派遣仕事などを経験しながら、
努力し続けていた時期もありました。
結果、一応の「夢(目標)実現」は叶ったのですが、
「人生には、<魔坂の坂>もあるぞ!!」と言います。
そうした管理人自身の体験談は、先にも触れさせて頂きましたとおり、
これまでも綴らせて頂いたところです。
管理人自身は、著者とも感覚を共有するようですが、
あまり「孤独感」に苛まれる性格ではありませんでしたが、
「神経質」や極度の「心配性」ではありました。
だから、サラリーマン時代も、念には念を入れた再確認をしたり、
下調べ準備に余念がなかったことも、今となっては「生き抜く糧」として、
役立たせて頂いています。
「人間関係」も、これまでの人生で何度も苦労しましたが、
それは、反面、自分自身の問題でもあることを学ばせて頂きました。
今では、「いじめっ子」にも、感謝とまでは言えませんが、
人間的成長のために必要だった「個人的障壁」として、
認識出来るまでになりました。
(もっとも、今でも<心の傷>は癒えきってはいませんが・・・)
本当に、「おかげさまで」という思いで一杯です。
管理人にも、こうした人生経験があり、
「人間関係は苦手」とはいえ、「人間嫌い」ではありません。
そもそも、本当に「人間嫌い」なら「読書」もしないでしょうし、
このような形で、「公的創作表現活動」にも勤しんでいないことでしょう。
著者も本書で強調されていましたが、
「孤独を愛する人間=人間嫌い」といった単純な図式認識だけは、
本当に改めて欲しいなぁ~と、世間一般の「主流多数派」の方には、
お願いしたいものです。
「どうか思いやりのお慈悲の心でもって、静かに見守っていて下さい」という
ところが、「正直な気持ち」であります。
日本では、21世紀に入って、「個人主義の時代」がより拡大されていくとの
予想図が、これまでも幾たびも描かれてきたようですが、
著者の観察するところでは、「まだまだ不十分」とのご認識であるようです。
「個人主義に対する拒否反応」(本書99~129頁は、必読です。)という
論考もありますように、「個人主義」に対する明確な敵対的反応が続くようでしたら、
「多様性ある共存共栄文化(文明)も、夢のまた夢」であります。
「孤独な時間」に「いのちを養い育てる」とは、
何も「個人的作業」に尽きる事業ではありません。
「大」は、「世界平和(宇宙・自然との調和)」にまで
つながっていくわけですから、
「孤独(孤独な放浪??者)」を粗雑に排斥することも出来ないでしょう。
「孤独」から目を背けたところで、「孤独」から逃れ出ることも出来ません。
ですから、「孤独な時間」に、「本当の自分の気持ち」を内観しながら
対話することは、「他者」のためでもあるのです。
「自分自身も、究極的には他者(異邦人)」という感覚を持つことによって、
「自他弁別機能の抑止」が働きます。
この「自他弁別機能の抑止」とは、これまた難しい言葉だと思われるでしょうが、
これは、数学者の岡潔先生のエッセーで学ばせて頂いたのですが、
仏教の考えであるそうで、「この世界」を平等に観るということであります。
「大円鏡智」「平等性智」・・・と、難しい専門的な仏教的認識法も
あるそうですが、それはともかく、「人間」の「いのち」は、
大宇宙の前では、「平等」だということです。
だからこそ、「人の<いのち>を奪ってはいけない!!」のです。
「理屈ではなく、感性・霊性」の問題であります。
いずれにせよ、「孤独(少数派=奇人・変人・怪人??)」も
社会に多大な迷惑を掛けていない限りは、
悪くはないんだということを、本書をご一読されながら、
ともにそのイメージを深く味わって頂きたいのです。
本日は、このあたりで止めさせて頂きますが、
いつの日にか、「侘び寂び文化の復権」と
「生計の安定的維持(ベーシックインカム)」と
「有意義な創作表現活動」という三本柱が、
万人の上に立つ日が訪れるといいですね・・・
それは、皆さんもともに「孤独な時間(ご自身の心の闇=深い悩み苦しみ)」に
正直に真正面から向き合うことで、理知的にも解決出来る智慧を養うことが叶えば、
案外、そうした平和で穏やかな社会実現の日も近いかもしれませんよ。
ともに励みながら、明日の社会を切り拓いていきましょう。
奇しくも、今週の月曜日(5月9日付け)の産経新聞「正論」欄にて、
双日総合研究所チーフエコノミストの吉崎達彦氏が、
「目先のGDPにこだわる愚かさ」というテーマで問題提起されていましたが、
こうした「創作表現活動」は、「仕事=働く=生産(付加)価値の増加」には
算定されないのでしょうか?
「算定化」されなくては、現代社会では「十分に食べていけない(何も贅沢な
暮らしは望んでいませんが・・・)」ということになりますが、
常々、疑問を持ち続けてきましたので(おそらく、大多数の皆さんも同じ思いで
いらっしゃることと思われます。)、こうした意見も、
いよいよ表に出されてきたことは、明るい傾向なのかもしれません。
「少しずつ、時代は動いているようです!!」
「諦めずに歩み続けましょうとも。」
ただ、残念なコラム記事も見かけました。
前にもどこかの記事内で綴ったことがありましたが、
「フリースクールの義務教育認定化法案が、見送られたことは当然!!」との
意見を、ある教育者の方がお書きになっておられましたが、
なぜ、一律に現行のような「学校教育に委ねた方が望ましい!!」のでしょうか?
管理人には、壮絶でイヤな思いもした「いじめ体験」もありますので、
理解が及びません。
(管理人:5月11日付け産経新聞原紙処分済みのため、参考ブログ記事ご参照願います。)
現行の「大検制度」など、多種多様なルートも今や容認されている中、
しかも、経済環境を含め社会環境が、昔に比べると、大きくかつ急速な勢いで
変化していく中で、「義務教育だけは、断じて例外!!」という訳には
論理的にもならないと思うのですが・・・
学生時代、「優等生経験」があっても、「挫折体験の多寡や想像力の高低」で
かくも意見が異なるのも、人間の不思議なところです。
件の識者の意見も尊重はしますが、今も「不登校」や「引きこもり」で、
学生時代だけではなく、社会人になってまで、いわれなき「差別感情」に
苛まれていくことを想像しただけでも、あまりにも無慈悲であります。
著者も、そんな健全な批判意識をお持ちのようで、「学校という集団」という
テーマ(本書112~122頁ご参照)で論じられています。
2016年(21世紀に入り、10数年)のこれまでの経過を観察していても、
今後ますます重要な分野が、「心」の問題であります。
経済政策も、20世紀型政策だけではなく、「情報通信(テクノロジー)革命」と
「仮想通貨の衝撃」のことも考慮に入れた柔軟な対策が不可欠であります。
もちろん、「どの分野であれ、焦りは禁物」で、
「一歩一歩、着実にしか社会は進歩していきません」が、
もう少し「創造的アイディアは、ないものか・・・」と
管理人ならずとも、大多数のこれから社会の中核を担っていくだろう
若い皆さんであれば、共感して下さるのではないでしょうか?
最後は、「生き抜く<意志>の力を何としてでも信じ抜くこと」です。
ということで、今回は(も??)、ついつい「蛇足文」を
長々と付け足してしまいましたが、
今誰しも早急に対策を講じて欲しいとの、
サイレントマジョリティーによる「声なき声」を代弁させて頂くべく
最後に取り上げさせて頂いたことをお詫びして、
筆を擱かせて頂くことにします。
是非、本書『孤独の価値』をご一読されることをお薦めさせて頂きます。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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[…] 前にも当ブログ記事にてご紹介させて頂いた […]