リリアン・R・リーバー氏の「数学は世界を変える」調和のための美的探究こそ、数学の魅力だ!!これからの人類のために・・・
「数学は世界を変える」
第二次世界大戦中に、リリアン・R・リーバー氏が、
人類の未来を憂慮されながら、
一般人向けに数学の考え方をやさしく説かれた
数学入門書の古典です。
世界に調和と愛を復活されようと尽力された
かのアインシュタイン博士も絶賛した名著です。
21世紀現在、再び、世界に暗雲が漂いつつあるからこそ、
多くの人びとに是非ご一読願いたい1冊です。
今回は、この本をご紹介します。
「数学は世界を変える~あなたにとっての現代数学~」(リリアン・R・リーバー著、ヒュー・グレイ・リーバー絵、水谷淳訳、ソフトバンククリエイティブ、2011年)
リリアン・R・リーバー氏(以下、著者)は、
20世紀に米国のロングアイランド大学の数学科長を
務められた数学研究者です。
日本で入手可能な専門書には、『ガロアと群論』(みすず書房)や
『相対論の詩』(東京図書)があります。
本書『数学は世界を変える』は、
『数学は相対論を語る』(ソフトバンククリエイティブ、2012年)、
『数学は無限を創る』(同上、2013年)とともに、
一般人向けにわかりやすく解説された数学「入門書」に該当します。
本書以下の2冊は、管理人未読のため、
「入門レベル」に当てはまるのか否かは、
現段階では、わかりかねますが、
本書は、まさしく、最先端の現代数学(とはいえ、本書原書初版は、
第二次世界大戦中の1942年に書かれたものであるため、
時代的制約はありますが、21世紀現在でも十二分に通用する内容であります。)
の紹介とともに、楽しく数学を学びたいとの知的欲求に駆られる好著であります。
本書の米国版は、<訳者まえがき=素晴らしくわかりやすい本書の要約>によれば、
2007年にペーパーバック版として、「復刊」された書とのことです。
本書の挿絵も大変かわいらしい図柄ですが、
著者の夫も、上記ロングアイランド大学の美術学科長を務められていたことから、
共同制作となったようです。
著者は、女性的視点から、数学的世界観を世界中の子供たちに
わかりやすく伝えようとの愛の想いも込められているためか、
数学の魅力が余すところなく語られています。
文体は、「散文」というよりも、ある種の「現代詩」のようですが、
また、これが、心の琴線に心地よく響きます。
数学と聞いただけで眠たくなってしまうのが、
今日日の青少年(学生時代のかつての管理人もそうでしたが・・・)の
大方の現状であるようですが、
本書をご一読されると、
学校教育的な数学的世界観が根本から一変させられ、
文字通り、目が覚める思いに満たされることでしょう。
本書の魅力は、そんな現代の<理数離れ>の現状を少しでも変化させようとの
生命エネルギーに満ち溢れているとともに、数学的世界観を学ぶことを通じて、
世界の政治経済文化への参与のあり方に至るまで考えさせられる点に
あります。
管理人は、社会人を経て、すでに30代半ばになりますが、
今ようやく、文系的「哲学」の世界から飛翔し始めながら、
理数系の数理的世界観の魅力に取り憑かれてしまったようです。
学生時代が、まるで魔法にかけられていたかのように、
数理嫌いの心理的暗示へと誘い込まれていたのが、
ウソに思われてくるから、<不思議>です。
とはいえ、本格的に、数理的世界観への探究の旅に出かけようとすれば、
初学者なら、まず間違いなく、数式記号などの数学的専門用語の羅列で、
ダウンしてしまうことでしょう。
幸いなことに、本書では、一切、難しい「数式」などの数学的記号は
用いられていませんので、
そのあたりは、皆さんにも、すぐに馴染んで頂けるものと確信しています。
ということで、手頃な数学的世界への入口を探しておられる方に
お薦めの1冊ということで、
この本を取り上げさせて頂きました。
本書扉書きによると、
かのアインシュタイン博士も大絶賛していたとか・・・
『リーバーの新著を楽しく読んだ。
美しい例と啓発的な内容。
彼女の独創的な試みは、
必ずや大きな賞賛を得るだろう。』と。
本書を読み進められるにつれて、
数学には、「信念の魔術」が含まれているような
不思議な感覚に誘われることでしょう。
また、数学史に関する書籍『数学をつくった人びと Ⅰ~Ⅲ』
(田中勇・銀林浩共訳、早川書房、2003年)の
著者である数学史家E.T.ベル氏も本書を大絶賛されるなど
斯界の著名人も一押しの古典的名著であります。
現代数学は、理性の「限界」を大前提に、何度も突破を図ろうと「再挑戦」する過程で、人類に「知的謙虚さの重要性」を示唆している!!
さて、本書ご紹介に入らせて頂く前に、
管理人が、数理的思考の世界観に開眼させられた
きっかけについて、先に触れさせて頂きましょう。
(<数理的世界観>に苦手意識を持つ後進の方々にも、
微力ながら、「お力」にもなれるかと思いますので・・・)
それは、「言語」情報の多様・多義性に
絶えず、惑わされてきたことに由来する
心理的不安の歴史(人生行路)から始まりました。
文系思考の「限界点」は、もともと、多義性の含まれる言語情報を
当然と見なす(自明視する)傾向を強めてしまうように
思われてきたことが、
管理人自身における問題意識の出発地点でありました。
管理人が、学生時代から親しんできた法律学の世界でも、
言語の意味を「限定」しながら、緻密に分析考察(解釈)を
進行させていく姿勢を養うために、
「議論の大前提として、<定義>付けから始めることが肝要!!」との
視点を学んできたわけですが、
法律学は、<社会科学>であるため、
どうしても、<価値観>を含まざるを得ないという「限界」があります。
そのことは、現代哲学思想の分野でも、大きな論点として、
21世紀現在に至るまで、精緻な議論が展開されてきました。
これまでも、語ってきましたが、
現代哲学は、大きく、この言語的操作をどう処理すべきを巡る
メタ認知次元での処理法を工夫してきた歴史でもあったのです。
その過程で、現代社会科学の大きな論点ですが、
「価値」と「事実」の区別をいかに決着させ得るかについて、
幾通りもの方法論が提示されていきました。
その結果、私たち現代人に導かれた世界観とは、
「<絶対的>真理の崩壊」でありました。
その<絶対的>真理の崩壊は、
本書「13.常識」、「14.自由と野放図」、
「19.覚悟」などの「現代」数学がもたらした
新たな世界観とともに生み出されました。
ですから、現在では、
「この世に<絶対的>真理などない!!」ものと
覚悟しながら、生きる意味を、
絶えず、模索する決断力と実行力が強く要求されます。
20世紀以後の文系的思考にも、
上記のように、こうした数理的世界観の大転換が
強く反映されることにはなったのですが、
数理思考で要求される「一般化」「抽象化」という
言語操作法が、今ひとつ厳密には、理解されていないようです。
このあたりは、日々、「言語」情報に触れ、発信させて頂いている
管理人自身の大いなる課題であり反省点でもありますが、
いかに誤解なく、精確に「言語」描写するかという課題は
本当に難しいことですね。
そんな仕事上の問題意識と、
先にも触れさせて頂いた人生上の心理的不安を
何とか軽減解消させ得る道はないものかと、
真剣に求道する過程で、
再び、数理的世界観との邂逅が始まったのが、
管理人の数理的人生遍歴でありました。
要するに、アインシュタイン博士も、
離散的世界観をもたらしたとされる量子論に
最期まで安住出来なかったとされるように、
何らかの安心感をもって、
<この世>を快適に過ごすための処方箋が欲しかったと
いうことです。
「神はサイコロを振り賜わず!!」
アインシュタインの<神>は、
彼自身の独特な信仰的世界観による
<サムシング・グレイト>だったそうですが、
その<神>を近現代のタブーである<絶対的>真理の
言い換え表現だとしたら、
ここに、アインシュタインならずとも、
現代人の心の不安が隠されているとも言えるでしょう。
現代数学や現代哲学を含め、
現代のあらゆる学問の最前線では、
「もはや、<絶対的>真理を自明視してはならない!!」との
不文律が確立されてきているようですが、
だとするならば、
その「正解(世界観)」は、各人に問い返された難問(重荷)だと
いうことになります。
このことは、現代人を、
誠に、深刻な心理的事態へと直面させます。
その「重荷」に耐えられないことが心理的要因となって、
現代人を、安易な「結論(わかりやすいイデオロギー的世界観)」へと
飛びつかせる社会的風潮ともなっています。
著者も本書内の<教訓>で、
『結論に飛びつくな。』(本書15頁、101頁)にて、
強調されています。
とはいえ、このことは、
管理人とて、決して、「他人事」ではありません。
心の弱さから、こうした「社会的同調圧力」に屈するような
事態もたびたび経験する(させられる)からですね。
そんな心の弱い時に、どうすれば、力強さを得ることが叶い、
安定した世界観をもって、調和ある理想像を日々探究する過程で、
「自明視」を超越した視点(次元)での
人生を乗り切るための知恵として、
あらためて、数理的思考の大切さに、
開眼させられることになりました。
その学びの過程で、本書に出会うことになったという次第です。
ということで、ここで、
本書の内容構成を要約させて頂くことにします。
まずは、<はしがき>と本書に登場する主人公の
性格紹介から、本書が指し示していく問題意識について
語り始められています。
主人公のT.C.MITS氏は、
いわば、「街なかにいる求道の人!?」というイメージのようで、
「賢者にまでは至らずとも、常に、人間的成長を志す
道理をある程度わきまえた、知的探究することの出来る勇者」を
意味する<社会人>であります。
そんな一般的な良識志向を大切にする<社会人>である主人公とともに、
著者との知的論争を楽しみながら、ともに考察しながら、
世界と人生に対する洞察力を深めていこうという願いが、
本書には込められています。
下記は、目次です。
<PartⅠ 古い事柄>
1.『5000万人が間違っていることもある』
2.『天井にぶつからないように』
3.『ティッシュの思考』
4.『一般化』
5.『わたしたちのトーテムポール』
6.『トーテムポール(続)』
7.『抽象化』
8.『「用語を定義せよ」』
9.『結婚』
10.『子供』
11.『PartⅠのまとめ』
※<PartⅠ 古い事柄>では、
いずれも日々の身近な生活事例に寄り添う形で、
数学的な問題意識へと自然に導かれるような工夫が凝らされています。
<古い事柄>とあるように、
ここでは、現代に至るまでの数学史を振り返りながら、
私たちが初等中等教育の義務教育段階で学ぶ
ユークリッド幾何学的世界観に激震を与えることになった
何人もの数学者による19世紀初頭の「数学革命」に至るまでの
「(数学)前史」について、わかりやすく解説されています。
現在では、もはや、「暗黙」の大前提ではなく、
すべての事象に当てはまる「完全」体系というものでもなく、
「仮定」としての一つの世界観にしかすぎないということが
判明してきた歴史でもあったということです。
つまり、現実の世界では、教科書的な厳密な意味での「正解」が、
もはや、存在しないということであります。
ここまでの数学「前史」を評すると、
代数学と幾何学が17世紀のデカルトによって、
「解析幾何学」という形で結婚することで、
現代数学という名の新しい扉が開かれる諸条件が
整っていったということになります。
ここから、やがて、数理「論理学」が、
続々と創出されていくことになります。
<PartⅡ 新しい事柄>
12.『新しい教育』
13.『常識』
14.『自由と野放図』
15.『高慢と偏見』
16.『2+2=4でない!』
17.『抽象化-現代的な方法』
18.『第4の次元』
19.『覚悟』
20.『この現代』
※<PartⅡ 新しい事柄>では、
前章の「数学革命」がさらに前進していく過程で、
「固定」的な世界観に対する「高慢と偏見」を超克していくための
ヒントが、数学的問題意識を通じて、わかりやすく展開されていきます。
先程来から、現代数学が導き出した世界観は、
「<自明>なもの(こと)など、もはや存在しない!!」ということでしたが、
このことは、本書では、触れられていませんでしたが、
前にもご紹介させて頂いたゲーデルの「不完全性定理」ならびに
「完全性定理」などの証明で、
人間的理性の限界についても指し示されたところです。
ここでも、「証明」の意味が、数学「前史」(つまり、義務教育段階で
習わせられるような証明問題)とは異なり、大きく変化しています。
互いに矛盾しない一つの「公理」体系の内においては、
その「公理」体系自体が、正しい(真)か間違っている(偽)かを
「完全」証明することなど不可能だ・・・
という観点から、「同一次元」に踏みとどまるだけでは、
世界に生起する諸問題の解決も困難だということでもあります。
そこで、「次元」をずらす操作技法を、
現代数学を学んでいく過程で身につけていくことが、
「大人の知恵」としても、大変有益になってくるというわけです。
本書で紹介されている細かい数学的諸問題の解説については、
ご一読して頂くとしまして、
本書では、このような「不安定」な世界観の中で
生きていく他ない現代人一般の処世訓に至るまで
自ら考えるための道具立てが整えられています。
<教訓>
ここでは、本書で展開された現代数学の知見が示唆してくれた
<教訓>について、まとめられています。
ですので、この<教訓>が、
<PartⅠ 古い事柄>と<PartⅡ 新しい事柄>の
全体像を要約した章ということになります。
まとめますと、現代数学が、
私たち現代人に与えてくれた最大の恩恵は、
人間の「理性」には、知的「限界」が、常に付きまとうがために、
「高慢と偏見」を捨てる訓練を日々の生活実践を通じて養われるとともに、
謙虚になることの大切さを示唆してくれているということになります。
つまり、数学的世界観に触れることで、
人間的成長の手がかりをつかむヒントが得られるということですね。
「(すぐに)役に立たない」もの(こと)こそ、世界を救う鍵を握る!!
本書で著者が、一般人向けに最大限に発信したかった
メッセージこそが、
『(すぐに)役に立たない<もの>や<こと>にこそ、
もっと、光を当ててみましょう!!』との圧倒的な願いであります。
(ちなみに、この「(すぐに)役に立たないもの(こと)にこそ、栄光を!!」に
関するテーマは、こちらの記事もご一読下さると幸いです。)
そのことが、イメージ出来る象徴的像が、
本書<PartⅠ 古い事柄>における
『5.わたしたちのトーテムポール』
『6.トーテムポール(続)』にて描写されています。
究極のところ、本書で展開されている難しい数学的話題が理解できなくとも、
このテーマについて、
腑に落とし込むレベルにまで至れば、
「人間らしさ」を回復させ得るきっかけが掴めることになります。
それが、「世界平和」にも、「心の平安」にもつながります。
数学を学ぶメリットは、「言語」表現の「限界」を突き止めるとともに、
厳密な思考を可能にするための道筋を掴み取るところにあります。
思考の「限界」の狭間領域にて、
「諦めて、諦めず!!」の皮膚感覚も体感出来るようになるようです。
この数学が有する「より確からしさ(真偽探究証明問題)」と
「美的探究」については、今後とも折に触れて、
追跡させて頂く重要テーマとさせて頂きますので、
まずは、数学に苦手意識ある方には、
本書を「入門書」とされながら、
「数学的世界観って、こんなに奥深いんだなぁ~」というイメージ像を
体感して頂くと、少しずつ、苦手意識も軽減されていくのではないかと
思います。
そんな想いを、理数系分野には興味関心がありつつも、
学生時代の受験勉強で、挫折してしまい、
典型的な「文系人間」に成り果ててしまっていた(と強く思い込んでいた)
管理人だったからこそ、
同じような悔しい体験をされてこられた読者にこそ、
是非とも、数学の魅力を「再発見」して頂きたいのです。
「文理融合思考(志向)を自由自在に展開し得る人間は、
必ずや、世界と己自身の心に調和をもたらすことでしょう!!」
「分離」ではなくて、「(文理)融合」が、
今後の人類の行く末の決め手となることでしょう。
最後に、本書に掲載されている<教訓>を
一節引用させて頂きながら、筆を擱くことにします。
『現代の見方では、より柔軟な精神と変化に対する覚悟が必要だ。
泥だらけの古いわだちから、自分の精神を解き放て!
そして、絶えず変わり続ける世界に順応せよ。』(本書184頁)
ということで、本書をご一読されることをお薦めさせて頂きます。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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[…] ところで、本書もまた、前回ご紹介させて頂いた […]
2018年8月21日 7:19 PM から「双龍天翔」さんに、お世話になり豊富な読書観と共進させて頂き、たわいない[戯言]を呟けた事に感謝しますと共に本当に有難うございます。
≪…「<自明>なもの(こと)など、もはや存在しない!!」≫
≪…数学的世界観に触れること…≫
≪…「文理融合思考(志向)を自由自在に展開し得る人間は、…」 ≫
これらのことを「数学」の根本なる【シェーマ([符号])による[桁表示]の[0 1 2 3 4 5 6 7 8 9]の縮約(縮退)自然数】と【数そのモノ】そして【西洋数学の成果の(超越数[e π])と虚数(i『動的作用を持つ』)そしてオイラーの等式】について呟いてきた。
こんなことをいちゃなにをいっているかわからない・・・そのものが[数学]であり―≪…「<自明>なもの(こと)など、もはや存在しない!!」≫ということを自ら組み立てている道具そのものであるとの― [梵我一如]・・・
【数そのモノ】の[梵我一如]への呟きの軌跡を[量化]と[双対性]で振り返る。
【数そのモノ】は、正比例と反比例の[量化]から[反比例関数]の[原始関数]の見つけ出しが[離散数学]の『離散的有理数の組み合わせによる多変数創発関数論』の帰結と[連続数学]との[双対性]であり、【シェーマ([符号])による[桁表示]の[0 1 2 3 4 5 6 7 8 9]の縮約(縮退)自然数】と【西洋数学の成果の(超越数[e])と虚数(i『動的作用を持つ』)】が[梵我一如]と容認することで[= + - × ÷]の[演算子]を認知する。
【数そのモノ】の[数体空間(次元)]と[創発関数論]における[数理哲学としての観(vision)]としての【作用素(1 0 ∞)】と「二つの言説([ある][ない])の数学の観念」としての【作用素(1 0)】を[梵我一如]と容認することで≪数学的世界観≫として次元を跨ぐ【シェーマ([符号])による[桁表示]の[0 1 2 3 4 5 6 7 8 9]の縮約(縮退)自然数】を認知する。
【数そのモノ】の[離散]と[連続]は、【理性】による【量化】が[霊性的]な[荒魂を和魂にする]もう一つの【1】の[数理哲学としての観(vision)]が、[離散創発関数論]で作用素として推定してよい[圏論]の[随伴関手]の『関手の関手』的な≪数学的世界観≫としての【1】を[梵我一如]と容認する。
この事に触れた[一言主神社に奉納すべく]の『葛城コラム』を二・三拾う…
熊さん
「1+1は、2と計算できるのってなぜ?」
八っつぁん
「そりゃ~昔から決まっているのさぁ~」
「知りたきゃご隠居に聞いてみろよ」
ご隠居
「なんだよなぁ~落語の【義眼】の落ちだよ
【尻の穴を覗いたら、向こうからも誰かが覗い
ている】って事よ」
熊さん
「それはどういうことだぃ~」
ご隠居
「難しく言やぁ~西谷啓治の【惑星思考】だよ、
一言主神社に奉納されたジャーゴン(jargon)
算額を見に行きな~」
「1,2、3・・・と数を数える心地は、な
にからきているの?」
「1、2、3・・・と感ずる心地は、宇宙
(創発)エネルギーというのかもしれないよ。
生かされているっていう、時を刻むのさ。
昨日、今日、明日への1,2,3・・・の代
ることのないエネルギーが、皆に同じように
感じてくるというか、涌いて来る・・・ 自
他ともに、心底在る、恵みであると・・・」
「心豊かになる、願いだよ。」
釈迦とアーベルとガロアが
時空の船で
お話している夢をみたよ!
何の話だろうね!
一言主の神様お願いだから・・・何なの
【数そのモノ】の[離散創発関数論]の帰結を[連続数学]へ移すと【カオス】と【コスモス】の【双対性】で≪数学的世界観≫が眺望できる。
【数そのモノ】が、現在を示す【0】として【《永遠の今》】を生命(数)とする『ロジスティクス曲線』の落とし込みの[数直線]を容認する。
[パラパラ漫画]は、二次元空間に時間をかけたもので三次元空間を[幻想]でき、『ホログラフィック係数』との[双対性]とし掴める。
【数そのモノ】は、[三次元で閉じている]カオス表示の『ジャーゴン(数の核)』でカオスのヒエラルキー構造を[梵我一如]と容認する。
『ジャーゴン(数の核)』の[-1]を[オイラーの等式]で置き換えると[無限次元]の【1】のカオスのヒエラルキー構造を生み出すが、≪ウロボロス≫で【数そのモノ】の数【1】を観る [極微化値]と[極大化値]の「積」は 、ある何かの『【数そのモノ】の地平』を生み出すのかもしれない?…
【数そのモノ】は、≪数は表現の手段にすぎない。≫ と・・・
拙い ―[鳶に油揚げ]―思考(禅思考)の総括です。
メタ数学を戯れに語る…
メタ数学をメタメタに
二〇一六年一月二十七日発行「みんなのミシマガジン×森田真生0号」に『人間の建設』の岡潔と小林秀雄の対談で
滔々と流れ出る岡の言葉に、小林はじっと耳を傾ける。そしてある瞬間、「わかりました」と膝を打つ。ここで、「岡さんの数学の世界というものは、感情が土台の数学ですね」と確認する小林に、「そうなんです」と岡が答える。
「感情が土台の数学」との言葉の存在を、仕事で出合って数式に翻弄され、理解に懸命であった頃に記憶に有ったかは定かでないが。この数式の斯界の説明と私の理解とは、大きく乖離していたのだ。
今、しみじみ思うに「感情が土台の数学」との何気ない数式の荘厳さへの拘わりを意識すると、釈然としなかった。数式たちをこの拘りの意識からの発想として論理命題と捉えると、全称量化数式と二階述語論理の存在量化数式に遭遇していたのだった。
この数式たちは、論理命題として理解されるべきもので、全称量化数式と存在量化数式とであり、数式たちは、個々に根本的に違う取り扱いをしなければならなかったのだ。
全称量化数式の係数と存在量化数式の係数の説明を通じて、「感情が土台の数学」であるとの数式という非実在的対象を身体化された心の物語として、二〇一六年二月二十五日発行「現代思想三月臨時増刊号第四四巻六号リーマン リーマン予想の全て」の拾い読みからメタ数学に触れてみる。
人は誰でも、特に、幼き時は、森元斎先生寄稿の『月と靄 稲垣足穂におけるリーマンと相対性理論タルホ・コスモロジー』の中で、稲垣足穂からの引用に
やはり宇宙には、どの時代の誰にとっても、語りたくなってしまう無尽蔵の魅力が存在する。
人間とは言語を使用する動物だとの定義がある。そうであるなら、数学が一つの言葉であるかぎり、それが日常語にほんやくされぬはずはない。
最後に、森元斎先生の言葉で
・・・そうした神話的条件を設定することで、
の設定を外して、「靄」そのものに挑むことにより、
一人一人が自ら無名の彗星となり、革命を生ぜしめるのではないだろうか。
ということを駆動力として物語る。
八杉満利子+林晋両先生寄稿の『リーマンとデデキント集合論の源流』の数の体系と論理の中で、
・・・ただし自然数の体系に関しては、自然数は基になる理論がない。
と記している。
森田真生先生が『数覚とは何か?』スタニスラス・ドゥアンヌ著の書評に、
・・・脳にはない能力を外部に構成してきたものこそが【自然数】なのである。
・・・環境と脳の相互作用の中で、そのあいだに構成されていくものとしての数
学という「動的」な数学観である。
とある。
【自然数】を概念化する駆動力として、有限個の離散量の一次元・二次元・三次元の人の思考する二階述語論理命題が数式で表象された時、次元の構成されていくものが環境と脳の相互作用により、「数学とは何か」が身体化された心となっていくべきものとして、経験としての意識がまさしく「動的」な数学観で、これこそが理論化の根底と生っていたのである。
一次元・二次元・三次元の自然数と自然数の比から構成される離散的な数体を多様体と呼ばせてもらう。
上野健爾先生寄稿の『リーマンが変えた数学』の中で、
離散的な多様体の計量構造は多様体から必然的に決まるというリーマンの言明が何に基づいているのかは不明である。
と記されている。
この計量構造の認識は、環境と脳の相互作用により、表象された自然数の大小比較を出発点として、一次元の自然数と二次元の実形的に認識できる物理量の数、そして三次元の数として一次元の数と二次元の数の乗算の数とで構成された二階述語論理命題が表象されたとき、この表象(記号)の存在量化数式の解析によって、リーマンの言明を示唆していると判断する。
一次元・二次元・三次元の有理数の数体となる多様体の数学的思考様式を身体化された心から論及できる。
佐藤文隆先生の寄稿の『一般相対論最終盤のアインシュタインとヒルベルト、そしてリーマン』の中で、
ヒルベルトが言うように、数学は違うものを同じにする。
・・人間は数学原理で引っかかるように自然を整序しているのかもしれない。
と記している。
二階述語論理命題の数式が、数学原理で引っかかるように自然を整序するとの数学原 理を身体化された心により立ち上げている。
鈴木俊洋先生寄稿の『数学的直観とは何か リーマンの幾何学研究がフッサールに与えた影響』の中で
知覚対象のような実在的対象と数学的対象のような非実在的対象の相違はどのように捉えられるのか。実在的対象において統一は自由にならないのに対し、数学的対象においては統一のあり方は比較的自由であるのだが、その違いをどう考えるべきか、等々。
と記している。
二階述語論理命題が、記号により存在量化数式で表象された時、
実在的対象としての二次元の数の変化を一次元の【自然数】の大小比較を比で捉えることにより数の表象の【1】の実在から【自然数】を序数とし、その表象の序数の比で表象することにより序数から基数へと数の概念の変化とともに数の体系も自然数から有理数を含む数の拡張が生されている。
この生じせしめる存在量化数式は、一次元の【自然数】の比と三次元を作る数としての二次元の表象(数字)による実在的数と一次元の序数との乗積の数のアウエアネス(意識)の延長上の数量増加の比とを関連付ける方程式を醸成していたのである。
この方程式は、アウエアネスが一次元の大小比較から三次元のアウエアネスとしての数量増加を二次元の実在的数の減少を認識するアウエアネスを通じ、数学的対象として統一することができ、算術(数学)そのものを始原し得るのである。
「数学は違うものを同じにする。」との証として、二次元の数体の数【〇】の表象が一次元の数体の数【1】の表象にアウエアネスが数学的実在を方程式として構築しているのである。
有限個の一次元と二次元の数体を関係付けた方程式群の認知は、一次元のアウエアネスの変化をインプットとする有理数と、これに対する二次元の実在的数量の減少のアウエアネスを議論領域の全体の変化量と個々の変化量を数学的思考様式で統一することである。
この統一を表象しているのが、存在量化数式であり、有理数の多変数代数関数論を醸成し、算術(数学)の群を身体化された心としてアウエアネスできるのである。
高瀬正仁先生の寄稿の『多変数代数関数論の夢リーマンから岡潔へ』の中でリーマンの言葉に、
多変数関数の場合には、独立変数の値のうち、ある方程式を満たすものの全体からなる。
そして、ヒルベルトの言葉に、
・・・数論、代数学、それに関数論がきわめて親密な相互関係で結ばれている。
と記している。
一次元と二次元の数体を関係付けた方程式群と一次元と三次元の数体を関係付けた方程式群とが双対し後者の方程式群の微分係数が前者の方程式群の係数を媒体(支配)しているのである。
身体化された心のアウエアネスが群を認識し双対する方程式群の媒体が作用素環と認識できるのである。
この作用素環が【1】であることに算術(数学)とは何かを、アウエアネスとして数学的実在を明かすことができよう。
三宅岳史先生の寄稿の『リーマンと心理学、そして哲学多様性概念の思想的背景(1)』の中で
数学という領域のなかで普遍と具体の間を往復する高い意味での経験論や具体的普遍論を洗練させた。
と記している。
【1】が、「経験論や具体的普遍論」を超えて身体化された心のアウエアネスとして「環境と脳の相互作用の中で」再び構築され、「数学とは何か」を始原していよう。
郡司ぺギオ幸夫先生の寄稿の『原生意識多様体・外部を糊代とする層』の中で
局所的な神経細胞群の活動が、脳全体に一気に開放され、他の領域がこれを利用することに開かれるため、これをグローバルワークスペースと呼ぶ。
・・一気に、全体に開かれる情報の大域的展開こそが、意識であると主張される。
と記している。
身体化された心から獲得された意識(アウエアネス)が、非実在的対象である数学を実在として存在させているといえよう。
黒川信重先生の寄稿の『リーマン予想の風景リーマン没後一五〇年』の中で
ラグランズ予想
に触れられている。
一・二・三次元の有限の有理数の数体の人のアウエアネスによる存在量化数式が方程式を認知し、ラグランズ対応(予想)を現出していたのである。
以上、『現代思想三月臨時増刊号第四四巻六号リーマン リーマン予想のすべて』からのメタ数学としての論考である。
恐れ多くも、哲学的な観点から俯瞰すると、國分功一郎先生のジル・ドウルーズの解説に
ドウルーズは、数学の微分概念を哲学に転用して差異の哲学を構築
と記されている。
ものの立ち現れの次元が存在の諸領域によってそれぞれ異なっていると考えて、一次元の自然数としての分散量(序数)からの内包量を表象する組み合わせの率が有理数と表象する。それに対応する組み合わせの二次元の変化(差異化→微分化)を二次元の変化の内包量(率)で捉えることにより、この内包量の情報(アウエアネス)が一次元の内包量を二次元から眺めた外包量と認識できる。これが、一次元の数に対する二次元からの表象となり、異化であるものが分化として認識できるのである。
この一次元での内包量の組み合わせの指し示す方程式が二次元の外延量の変化を捉えていたのだ。
そして、この方程式は、一次元の分散量と内包量、二次元の外延量と変化の内包量からアウエアネスが打ち立てた情報として在るのだ。
これこそが、存在量化数式であり、二階述語論理命題である。
二階述語論理命題が、数式として表象され組み合わせを指し示す三次元の外延量の方程式上に存在させ、この方程式の微分係数が二次元の方程式を打ち立てる基底に生っていたのだ。
この一連の事象は、ドウルーズ哲学の示現である。
この異化であるものが分化として認識できる結果として、【1】・【〇】を一次元・二次元の表象の「違うものを同じにする。」とのアウエアネスをわき立たせている。
そして、驚くべきことに二階述語論理命題の莫なる(入れ子)数式の組み立て方が、数学としての郡をアウエアネスさせ、身体化された心により言明されていたのだ。このことは、ガロア郡・アーベル群の数体(多様体)を示現している。
身体化された心は、ヴァレラの「身体としてある行為」とし
意識と心とが結局は同じものであるか、両者の間には本質的ないし必然的な連関があるかのどちらかであるというわれわれの確信に挑むわけである。
意識は、さきに引用した郡司ぺギオ幸夫先生の意識についての見解で、
・・・ベイズ推論過程に相当するものだ。この結果を事後において単に確認するものが、意識であるとみなされた。この限りでは、意味の無い単なる記号であり無意識の処理した情報に添付されるラベルとみなされた。
意識が、情報に添付されるラベルとするなら「身体化された心」からの「実存はしないが、知る人ぞ知る博士論文」の博士論文の内容は、アウエアネスそのものから構成される認識になり得るのだ。
アウエアネスそのものは、ヴァレラは、縁起(共依存的生起)としてブッダから
悟りのときに五蘊の生起の瞬間性だけでなく、永遠の自己を希求し続ける人生の
動因となる因果律(常習的な円環構造を互いに条件づけあう結合の鎖)を発見したと言われている。
この結合の鎖が何なのかを、「チベット死者の書」や「チベットの死者の書」から見てみよう。ダライ・ラマの話(説明)に、
より粗いレベルの心・もっと深い微細な心・最も微細な心(光明)
このように心を三つのレベルに分類している。
アウエアネスが環境と脳の相互作用の中でラベル化されるとしよう。最も微細な心である光明で捉まえた意識からの認識は、身体化された心のオエセル(光明)でありルン(意識)はポアの期に、人類(宇宙)の生存できる時空にコヒーレントな光としてホログラフィクされるのだろう。
アーヴィン・ラズロ著の「叡智の海・宇宙」の中に、
量子真空(量子的零点エネルギー場)は宇宙の記憶であるホログラフィックな場を生み出す
との示唆すべき記述もある。
また、リン・マクタガード著の「フィールド 響き合う生命・意識・宇宙」の中に、
直感的な飛躍と言う現象は、もしかすると突然にゼロ・ポイントフィールドとコヒーレンスが一致しただけなのかもしれない。
とのオモシロイ記述もある。
数学における美しさとは、に少し触れる。國分功一郎×森田真生両先生との対談で美は、
心の中で、ある種のフォルムが自己形成することによる快感だと考えられている。
森田真生先生は、数学の美について、
美的感覚にリアリティーを持っていなければ数学はできない。
と話している。
このリアリティーが、知覚対象のような実在的対象と数学的対象のような非実在的対象として俯瞰した時、非実在的対象が身体化された心のオエセル(光明)であると三昧されることが数学の美の本質となるのだろう。
チョト脱線するが、情念について、若干論及したことがある、ジョーゼフ・キャンベル、ビル・モイヤーズの「神話の力」の中に、
理性を破壊するのは情念です。
との語りに、理性を求めて、オエセル(光明)を
永遠とは、いついつまでも存在するというようなものではない。それはまさに、いま、ここにある。この地上であなたが他者と関り合う、その経験のなかにあるのです。
とし、結びに、サンスクリット語から得たサット(存在)チット(意識)アーナンダ(至福)で語られる、
それぞれの人が各自の奥深さと、経験とを持ち、自分自身のサット=チット=アーナンダ つまり、自分の意識と至福とに開かれた存在に触れているという一種の確信を抱くことができます。
と語っている。
数学における美しさとは、「自分の意識と至福とに開かれた存在」と言うことだ。
マントラを唱えて、
【オーム・マ・ニ・べエ・メエ・フーム】
(ああ、蓮華の上にある摩尼宝珠よ、幸あれ)
合掌
引用図書
「みんなのミシマガジン×森田真生0号」 森田真生 ミシマ社
「数学する身体」 森田真生 新潮社
「現代思想三月臨時増刊号第四四巻六号リーマン リーマン予想のすべて」 青土社
「数覚とは何か? 心が数を創り、操る仕組み」 スタニスラス・ドゥアンヌ著
長谷川眞理子 小林哲生 訳 早川書房
「身体化された心 仏教思想からのエナクティブ・アプローチ」
フランシスコヴァレラ エレノアロッシュ エヴァントンプソン著
田中靖夫訳 工作舎
「チベット死者の書」 河邑厚徳 林由香里著 日本放送出版協会
「原典訳チベットの死者の書」 川崎信定著 筑摩書房
「叡智の海・宇宙 物質・生命・意識の統合理論をもとめて」
アーヴィン・ラズロ著 吉田三知世訳 日本教文
「フィールド 響き合う生命・意識・宇宙」
リン・マクタガード著 野中浩一訳 河出書房新社
「神話の力」 ジョーゼフ・キャンベル ビル・モイヤーズ著 飛田茂雄訳 早川書房