高橋昌一郎先生の第一講義「知性の限界」私たちは、世界をどこまで認識出来るのでしょうか??

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前回、「ゲーデルの哲学」でお世話になった

高橋昌一郎先生・・・

今回より、3回に分けて名調子の講義を

皆さんとともに受講していきたいと思います。

第一弾「知性の限界」

私たちは、どうも「完全な世界認識」が出来ないようですね。

なぜなら、「人間は世界内存在」(ハイデガー)だからです。

ゲーデルの「不完全性定理」でも触れましたが、

「私たちの住む世界の真偽について私たちの言語で証明出来ない」

ようです。

それでは、この本をご紹介していきます。

「知性の限界~不可測性・不確実性・不可知性~」      (高橋昌一郎著、講談社現代新書、2010年)

さて、高橋昌一郎先生の講義をこれから3回に分けて

皆さんとともに受講していこうと思います。

前回は、「プレ講義」ということで

ゲーデルの哲学」を講義して頂きました。

さすがに、数学の苦手な方にはつらかったと思いますが、

今回から3回の講義の中でも、折に触れて簡潔に解説されると

思いますので、消化できなかった方もひとまずご安心下さいね。

さらっと、前回のテーマの復習をしておきますと、

(さしあたって数学論としてのゲーデルの定理は、除いておきます。)

「自らの世界の中においては、自らの世界に矛盾がないとすれば

自らの言語(論理)によって、その判断(矛盾がないことにつき、その真偽不明)

を証明することは出来ない!!」ということでした。

つまり、「同一次元上の世界観の中にいる限り、その世界観の絶対的正しさは

証明出来ない!!」ということです。

このことは、昨今のコンピュータプログラム設定における「フレーム問題」でも

話題にされることです。

人間は、ロボットに制圧されるのか?

一見すると、荒唐無稽なSF小説の世界のようですが、

現在では決して悪い冗談でもなくなってきているようです。

前回のブログでも取り上げた「物質としての脳から心(意識)は生まれるか?」は、

あくまで私たち「人間」に限っての「仮説」でしたが、

これが「もし、他の知的生命体(特に、人工知能=ロボット)に適用されたなら?」

と、考えていくと「おそろしい」ことにもなりかねません。

普通の考え方では、この「フレーム問題」という限界があるため

安全なようにも思えますし、SF小説にもよくあるパターンですが、

仮に暴走したとしても、

とりあえず「主電源」を切断してしまえばいい、と考えるでしょう。

でも、どうなのかな?

身近な例では、「原発問題」もあったところです。

その教訓からいくと、有事には「想定外」のことが発生することを考慮に

入れておかなければなりません。

その時に、人間は「どこまで思慮深く計算出来るのか?」が問われます。

実は、今回の「知性の限界」でもそのことがテーマとなっています。

「地震や経済恐慌はどこまで予測出来るのか?」など・・・

そんなホットな話題が、私たちの周りにたくさんあることから

「余裕のあるうちに」冷静に一度は考えておこうということで、

この本を取り上げさせて頂きました。

「理性よ、さらば!?」って言われてもねぇ~

カール・ポパーウィトゲンシュタインとも交流のあった

ファイヤアーベントという科学哲学者がいます。

この方は、「方法論的虚無主義者」を自認されていました。

方法論的とは、あくまで「科学的方法論」についてのことで、

ファイヤアーベント自身が「虚無主義者(ニヒリスト)」かどうかは別問題です。

このような立場は、物理学の世界でもよくあることです。

つまり、近代合理主義科学の方法論(要素還元主義など)に対しては、

あらかじめ「自明の方法論」といった考え方を放棄して

「自由な研究方法」で、仮説を提示して結論に導くべしという立場でした。

「途中経過は何だっていい!!」

科学的に「説得力があるか否かがすべて!!」ともいえるでしょう。

なるほど、仮説やアイディアは「ある日突然」独りでに

ひらめくことから始まることが多いので、その検証方法は幾通りも

あってもよいのでしょう。

ファイヤアーベントの師匠?でもあったとされる

カール・ポパーは「反証主義」

ウィトゲンシュタインも「論理実証主義」というように

それぞれの「検証方法論」を持っていましたが、

ファイヤアーベント自身は、あまりこだわりがなかったようです。

一種の「知的アナキズム」でした。

現在では、特に科学分野においてこの二大思考法の影響力が

非常に強いようです。

特に、「反証主義」は「論理実証主義」に比べて「反証可能性」さえ満たせば

科学的だとする一方で、強い「再現性」も求めるようなので「科学と擬似科学の区別」

には有効なようです。

そのため、根強いファンも多いようです。

この辺りの論争内容は、この本に非常に分かりやすく「対話形式」で記述されて

いますので、ここでは深入りしません。

そもそも、「理性に限界」があるならば何でもありのようですね。

しかし、このような態度が一概に「科学的成果・検証プロセスの公正性」にとって

よいのか、科学者ならずとも心配のあるところです。

認識の限界を超えた「超科学」は、見果てぬ夢なのか?

この本では、それぞれ「言語の限界」「予測の限界」「思考の限界」

様々な学問分野の権威が「仮装大会」をしています。

なかなか、面白い「プロット(構成内容)」で「文系」でも面白く

読み進めることが出来ます。

「知性の限界」

だから、私たちは「もうダメだ!!」と考えるのか、

「いや、まだまだこれから」と考えて愉しみながら「未知の世界」を

歩んでいくのかによって「人類の未来」も大きく変わっていくことでしょう。

「超知」

ここから先は、想像力の出番です。

でも、この「想像力」も元をただせば、「頭」から湧き出てきたものです。

その「想像力」を写像するのも、現在のところ「言語」しか

便利な道具立てがないものですから、結局は「知性の限界軸」を巡って

回転ドアで遊んでいるようなものですね。

「それでも、人間はうまくやってくさ!!」(三島由紀夫「美しい星」のセリフから)

管理人も「楽観的」です。

なぜって、知れば知るほど「広大な世界が前に拡がっているから!!」です。

宇宙の歴史の中では、私たち人類の歴史は・・・

ましてや、一人の人間の一生なんて・・・

本当に「はかない」ように見えます。

でも、それは「距離感がつかめない」

つまり、リアリティーを感じられないように思えることが原因です。

でも、この本にもあるとおり、事前に「限界」を見据えておけば

「なんとでもなるものです!!」

だから、皆さんも諦めずに人生を積極的に生き抜いて頂きたいと思います。

「言語の限界」があるからこそ、「すべての世界が理解困難!!」

そのことにより、「錯覚・妄想」が始まります。

賢者の皆さんなら、もうおわかりだと思いますが

このことを「知っているか知らないかだけ」でも「大きな違い」です。

あとは、「知恵の問題」です。

さぁ、私たちも「知性の大海」を泳いでいこうではありませんか!!

最後までお読み頂きありがとうございました。

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