『知ってるつもり~無知の科学~』スティーブン・スローマン&フィリップ・ファーンバック博士から自己幻想・集団幻想を招く  認知的盲点とうまく付き合う知恵を学びましょう!!

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スティーブン・スローマン&フィリップ・ファーンバック共著

『知ってるつもり~無知の科学~』

人間誰しも森羅万象知り尽くしているわけではありません。

さらに教育をもってしても解決困難な課題だといいます。

そのために自他ともに認知的盲点と相互誤解が発生します。

この人間に内在する認知的問題点にどう立ち向かえばよいのか?

本書によって従来の知力観も変容させられます。

今回はこの本をご紹介します。

『知ってるつもり~無知の科学~』(スティーブン・スローマン&フィリップ・ファーンバック共著、土方奈美訳、早川書房、2018年第7版)

スティーブン・スローマン氏とフィリップ・ファーンバック氏(以下、著者らと表記)は

ともに米国の認知科学者です。

前者のスティーブン・スローマン氏はブラウン大学教授。

ご専攻は認知・言語・心理学で

認知に関する雑誌編集長も務められているといいます。

後者のフィリップ・ファーンバック氏は

コロラド大学リーズ・スクール・オブ・ビジネス教授で

ご専攻はマーケティング論だといいます。

さて、本書は人間の認知能力にまつわるあれこれを

主にその<認識盲点=無知領域の驚くべき広さ>をキーワードにして

従来イメージされてきた人間の知能観に対する抜本的見直しを迫るとともに

個々の人間知能指数「神話」を解体していく志向性と

人類の知的能力が集団全体の中で相互協力しながら進化向上発展してきた

事実を明証していく認知科学啓蒙書であります。

人間は誰しも急な説明を求められるとすぐにも窮し臆する生き物であります。

それは言うまでもなく人間がすべてのことを知り尽くし、

精確な理解力と完全な記憶力を持つことに難点を抱え込む存在だからです。

にもかかわらず人間には知的虚栄心という変なクセがあるためか

あたかも自分の専門(得意)領域内であれ領域外であれ

あまり細部に至るまで詳細な理解が獲得されていない段階で

「即答」してしまうことがままあります。

本書の<序章>と<第1章>ではまず身近にある生活存在に関する仕組みなどを

きちんと説明できるか否かを自問自答してみたり(著者ら自身がまずそうした事例説明の

困難さについて明示されます。本書14~16頁ご参照のこと。)、

また他者への試問結果(本書31~35頁ご参照のこと。)から

やはり一見してどんなに単純明快に思われた事例問題でさえ

誰も精確には解説しきれない現実を摘出していくことになります。

そこから読者もまた<驚くほど無知=認識盲点の塊>だという事実に

直面させられることになります。

ただ本書を読み解くうえで注意すべき点は、

人間はただ単に無知だと示すことに主眼があるのではなく、

あくまでも『人間は自分が思っているより無知である』(本書16頁)という

いわば<認知錯覚=誤認>問題に焦点が当てられている点にあります。

「なぜ、人間にはこうした知識に関する錯覚がしばしば起きてくるのでしょうか?」

この問いに答えるためには、

私たちの思考過程(本書では主に<因果関係の推論>)が

具体的に「どうなっているのか?」という認知構造分析の解明も

必要不可欠となってきます。

そこから人間の進化過程論も踏まえた考察がなされていきます。

すると思考判断よりも先に認知判断があったという事実

突き当たることになります。

言い換えますと、人間における思考判断の大前提として

まず行動があるということ。

その行動(情動)判断の意味を後付処理することでしか

身を守ることが出来なかったという進化上の理由もあるようです。

前にもご紹介させて頂きましたように

最近の脳科学による知見からも思考よりも先に情動から働き始めることが

次第に判明してきています。

つまり、最初の思考段階では生命維持にとって必要不可欠かつ最低限の

おおざっぱな理解さえ出来ていれば生存上はそれで十分だったということです。

詳細分析考察は再度要約箇所に入った際に繰り返し語らせて頂くことになりますが、

要するに、その時々の人間を取り巻く環境状況いかんによって

適宜瞬時に必要情報をまずは取捨選別出来さえすればよく、

随時追加情報を踏まえながらより詳細な判断へと進んでいくように

人間の認知思考回路は出来上がってきたということのようですね。

また人間にとっては記憶能力以上に忘却可能能力が備わっていることも

生存可能条件を保つうえで要請されたということもあって

完全再現記憶能力を持つようにはもともと出来ていなかったということも

このような知識の不完全性(錯覚)が生み出される背景にはあったのかもしれません。

このような人間の認知構造を総合的に分析考察していった結果、

様々な観点からの推論考察とともに

著者らによる認知科学研究成果が開陳されていくことになります。

ところで、古代ギリシャの哲人ソクラテスは<無知の知>という教訓を

私たち人類の前に指し示したことで有名になりましたが、

現在に至るもこの教訓を真の意味で理解・納得し得ているとは

言い難い状況にいます。

それでは、

「なぜ人間は自らの無知さを認めることにしばしば躊躇してしまうのでしょうか?」

1つには強固な自尊感情の問題もあるでしょうが、

他にも人間の認知能力に組み込まれた進化過程における

何らかの生理的または心理的理由が内在してきたからなのかもしれません。

そうした人間の認知能力に内在する諸論点を

本書では様々な観点から解きほぐしながら、

人類の知的進化にとっていかに<知識・学習のコミュニティ(共同体)>が

重要だったのか、また個々人の能力信仰(神話)の脆さについても

明示されていくことになります。

個々人の知的能力に限界があるからこそ、人類全体に散在する個別知情報に

アクセス共有していわば<集合知>を相互活用させながら

より良き個別知能向上へとつなげていこうとするわけですが、

このように個々人の知能限界を克服していこうとする長所もある反面、

ある種の文脈では自身の価値観に親和的な諸集団内だけの見解に埋没しやすくなる

心理的傾向(いわゆる<自己信念強化=確証バイアス問題>のことです。)もあって、

より偏見と誤解が助長されていくといった<フェイクニュース>問題

近年取り沙汰されてきたことは皆さんすでにご承知のことでしょう。

こうした短所も残念ながら<知識・学習のコミュニティ>には含まれています。

とはいえ、このような現状やここまで語らせて頂きました認知思考過程上の理由から

もちろん人類が100%完全かつ精確な「正解」へと辿り着くことは

今後とも困難を窮める難題にせよ、

少なくとも個々人に内在する知的<無謬>信仰(神話)を軽減させる方途を

見つけ出すヒントは本書から得られるものと確信しております。

本書のカバーにもありますように

『思考停止したくないすべての人必読のノンフィクション』書として

管理人の日頃の自戒も込めまして、

皆さんにもともに共有活用して頂ければと

今回はこの本を取り上げさせて頂くことにいたしました。

本書を最後まで読み進めていかれた後には

日頃の読者様ご自身も抱え込んでこられただろう

<認知的盲点=フレームワーク(価値的認知思考枠)>が

伸縮自在に変化変容させられ、

今まで知らなかった世界に出会える幸運を掴めるきっかけも

与えられることでしょう。

<無知の知>(ソクラテス)を認めることは時に苦痛な場面もありますが、

必ずやさらなる知的向上心や知的謙虚さへと誘ってくれることには

間違いありません。

このように知的謙虚さへの道は誰しも難しい道のりではありますが、

その厳しい道のりを歩もうと意識付けするだけでも

昨日までのあなたの知っていた世界とは異なる地点へと

一歩ずつ着実に近づいていくことにもなりましょう。

管理人も<無知と誤謬の塊>ですが、

皆さんとともに少しでも前進していけるよう精進してまいりますので

今後とも宜しくご教示などお願い申し上げます。

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それではここからは要約部へと移らせて頂くことになりますが、

その前に最近コメント頂いた読者様へ

この場で一言篤く御礼申し上げたいことがございます。

この前コメント頂いた方へ、誠に貴重な解説ありがとうございました。」

「数学思想上の難問もその数学上の<次元論>や<位相幾何数学論??>の

あたりの解説は正直よく飲み込めなかったのですが、

文系の管理人にとりまして当該書評との関連で独自に考察させて頂いた

哲学的世界観との結び目としての階層構造イメージ像との対応関係について

数学的にはどういった領域分野とつながりがあるのかといった点については

最低限掴めるような丁寧にかみ砕いた文系向け言語説明にもなっていて

わかりやすかったです。

「理系人向け説明において消化不良だった点は

管理人自身も追々理解を深めていきたいと願っております。

(とはいえ、小学校以来の<基礎算数学>からの復習が必要で

そこまでの理解に到達するまでにはさらなる時間がかかりますが・・・。

ただ理数学によって次第に解析されていく世界観哲学には

多大な知的好奇心がそそられますので、

これも管理人のライフワークの一環として楽しんでいきたいと思っております。

最近は文系人にもわかりやすく丁寧に言語化解説された良心的かつ良質な

理数啓蒙書も豊富に出現していますから昔に比べると本当に有り難いことですね。)」

「ご紹介されていた論者の研究内容や書物までは追跡調査出来る環境余地には

ありませんが、管理人も追って当書評ブログで理系等関連書籍を

またご紹介させて頂く際に適宜ご参考にさせて頂くこともあるかもしれません。」

「本当に貴重なコメント回答のお時間をお割き頂いて有難うございました。」

ちなみに、このコメントを頂きました書評本を上梓された津田一郎先生ほか

当書評ブログですでにご紹介させて頂きました石川幹人先生や

管理人もたびたび読書会や講演会などでお世話頂いている井上智洋先生などが

過去に『シンギュラリティサロン』という有識者会合に出席されていたとの

貴重な情報を畏友からも教えて頂きましたので

ご興味ご関心ある方向けにあわせてご紹介しておきますね。

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人類はすでに知的情報飽和点に到達しています!!      ~人工知能と対比した「人間」知能観再考論序説~

それでは、本書の要約ご紹介へと移らせて頂くことにいたします。

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①<序章 個人の無知と知識のコミュニティ>

②<第1章 「知っている」のウソ>

序章と第1章では、

人間とは無知と錯覚に絶えずさらされた生き物であることが

まず力説されるところから開幕します。

本書『知ってるつもり~無知の科学~』が次章以下で

仮説提起・検証・論旨展開されている全体像の見取り図となっています。

ですので、お忙しい読者様向けのアドバイスとしては

本書での論旨エッセンスだけでも理解しておきたいという場合には

とりあえずこの序章と第1章および結びをお読み頂いたうえで

各自ご興味ご関心の惹かれたテーマを中心に読み進められていくことを

お勧めいたします。

ただ本書のテーマは、人間の知的錯覚が起きる要因と

それへの効果的もしくは生産的対処法を導き出すところにあります。

そのため第3章と第4章では特にその認知思考過程についての分析考察が

進められていますので、

少なくとも上記各章まで読み進めておかれることも

本書概略をより的確に掴むうえで有益な作業になろうかと思われます。

本書における最終的強調点は、

『人間的思考とはつまるところ<集団的行為>』だということに尽きます。

従来の知能観や知的教育観では個人の能力向上に特化あるいは偏重してきた

嫌いがありました。

特に学校教育ではそのような知能観に依存し過ぎる傾向がありました。

とはいえ、学校教育卒業後における実際の社会現場では

「組織労働」が通常の経済生活では主流となっていますことから

組織集団内でのチームワークで活用できる知能でなければ

使い物にならないのが現実です。

もちろん、これまで同様あるいはそれ以上に今後とも

個人の仕事・生活技能向上のための個人知能レベルでの努力も

必要不可欠であることには変わりありませんが、

現実的な時空間レベルにおける制約条件からは個人の知能など

語弊はありますが、「たかが知れています」ということになります。

ですので、「実践知」としては本書で表現されるところの

<知識・学習コミュニティ(共同体)>という発想に立つ方が

より「社会適応型知能」としての人間知能の特徴も

掴みやすくなるでしょう。

まして今日ではもはや「超」がつくほどの高度過密情報化社会の最中に

人類は生活していますことから、

すべての情報を個人知の枠内へとインプットさせておく学習法など

むしろ実践面からも非効率だということになります。

そのような問題意識から<集合知>の活用が強調されたり、

学校教育現場でも来るべき人工知能との協働型社会に適応し得る

人間知能要請教育法の一環として<アクティブラーニング(積極学習)>の

推進が学習指導カリキュラムに導入されていることも

すでにご承知のことでしょう。

問題はここから先にあります。

個人知能向上面であれ、<集合知>活用面であれ、

それをより良く活かすためには

そもそも人間知能とはどういう仕組みで成り立っている(きた)のかを

より精密に整理分析しておかなくてはならないということです。

そのことを通じて初めて実際の社会現場で適切に応用活用できる

「実践知」になるということです。

そのことはまた来るべき人工知能と人間知能との棲み分け問題を

考える際にも不可欠な視点を提供してくれるようです。

その棲み分け問題を考える際のキーワードとして<志向性>があります。

1つの社会集団活動体の中で共通課題に取り組む際に

目的や目標を共有し得るか否かを巡っての<志向性>共有が

可能か否か問題であります。

人間の場合にはこうした<志向性>共有が可能とされていますが、

人工知能などの非生物知能では少なくとも現在までのところ

その<志向性>共有の可能性が確実だとまで言える段階にはないといいます。

その具体的詳細解説は第7章でも順次考察がなされていくことになるわけですが、

人間の思考とはそれに先立つ「行動」とともに立ち上がり始めるところに

最大の特徴があるということです。

人工知能(少なくとも現段階でのという留保は付きますが・・・)との

最大の相違点は、

人間の場合には「自ら進んでこれから向かうべき行動目的に沿った

随伴型思考が順次展開されていく」というところにあります。

それでは、『人間の「行動」にとって必要とされる知識は

どこから供給されてくることになるのでしょうか?』

この問いこそが、遺伝子情報などに基づく先天的獲得によるものなのか

環境情報からの後天的獲得によるものなのかといった

長年の哲学的難問とも関わってきますが、

一応今回の本書では領域外問題だということで省略させて頂きます。

今回の問題意識ではその必要知識は個人の社会生活上の

「実践経験知」から獲得されていくというわけですが、

人間の知識(知能)という意味を深く考察理解していくうえでも

人間とは<社会的生物>だということの意味を

あらためて問い直す作業へと誘われていくことになります。

人間は生まれた時から教育によって人生渡世上の必要な知識が

与えられていくことで社会内で存続し得る知能を発達させていくことに

なるわけですから、当然のことながら社会共同体の中から

初期知識情報を仕入れていくことになるわけで、

最初から個人に内在した<社会的>知能が組み込まれていると

想定するのはむしろ例外だと見立てたところから分析考察を始めた方が

ある意味「合理的」な知能解釈ということにもなりそうです。

次章からは「人間はなぜしばしば知識の錯覚に陥るのか?」や

思考回路構造分析(どう思考するのか?)を中心テーマに据えながら、

人間が無知と正しく向き合っていく際の「知恵」を

学んでいくことになります。

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③<第2章 なぜ思考するのか>

④<第3章 どう思考するのか>

⑤<第4章 なぜ間違った考えを抱くのか>

第2章では、まず素朴な疑問として記憶力が高いほど

生存にとっても有利だろうとの一般的イメージに対する揺さぶりから

必ずしも人類の生物進化上、超記憶能力が適しているとは限らない

事例紹介とともに<なぜ思考するのか?>を分析考察していくことになります。

ここでは、『思考は行動の延長』(本書20頁)だという視点を

さらに深化させていくと記憶能力(言い換えれば、超過密情報処理能力)が

最初の行動時点においてはむしろ生存戦略上も望ましくないとの

推論がなされます。

そこから当書評冒頭導入部での繰り返しとなりますが、

個別具体的な情報記憶処理能力よりも

環境周辺状況を「おおざっぱ」に眺めればとりあえず良しとする

抽象化能力を先に発達させていったのではとの仮説が提出されます。

『すなわち脳は、有効な行動をとる能力を支えるために進化した。

思考する動物は、短期的にも長期的にも自らを利するような行動をとる

可能性が高く、ライバルよりも生き延びる可能性が高い。

これは思考とは何かを理解するうえで、重要な示唆を持つ。

脳が大きく複雑になるにつれて、環境からのより本質的で

抽象的な手がかりにうまく対応できるようになり、新たな状況に

ますますうまく適応できるようになる。これは知識の錯覚を理解するうえで、

きわめて重要な点だ。往々にして、有効な行動をとるうえで詳細情報を

保持している必要はない。たいてい全体像さえわかっていれば事足りる。』

(本書60頁)

つまり、人間行動戦略において最重要必須目標として

何よりもまず自己の生存危機回避能力が詳細情報記憶処理能力よりも

優先されるということです。

その過程で生存確保に当面必要でなかった情報は「捨象」されてしまうと

いうわけですね。

まとめますと、人間は「見たまま」の姿をそのまま記憶する方向にではなく

とりあえずは当面の生存確保と行動目的に絞られた必要情報のみを

抽出選別し、それが脳内記憶としても強く焼き付けられるという

思考回路へと進化してきたということですね。

そして先にも触れましたようにその情報解析力をより精緻化させる

後付作業も必要に応じて適宜追加更新されていくことになりますから

いわば行動時点における周辺情報すべてに関する「瞬間記憶」が

可能となる知能にまで達していなくとも

生存上不可欠な本質的情報さえ取捨選別できさえすれば

当面は別段問題はなかっただろうと推定されます。

第3章では<どう思考するのか?>を人間の「行動」原理支配との

関連でさらに考察が深められていきます。

ここでは推論過程における「因果的推論方式」について分析

なされていくことになります。

そこから認知システムとしての「物語化」という思考パターンが

生まれていくことになります。

つまりは管理人の見立てるところでは、

「物語化=<時間的>情報編集作業」というイメージへとつながります。

この<時間的>情報編集作業の仕組みや役割を考えることが、

本書との関連でも人間の認知的「記憶」能力やその脳内処理「容量」問題から

「<知識の錯覚>がなぜ生まれてくるのか?」を把握するうえでも

重要課題となってきます。

そこでさらに第4章では、その<知識の錯覚>が生み出される

1つの最大要因として『直観、熟慮、説明深度の錯覚』(本書95~99頁)が

挙げられることになります。

こうして序章から第4章まで見てきましたが、

ここまではあくまでも「個人」レベルでの思考認知システムに関する

テーマ考察でありました。

そして「個人」レベルだけでは、どうしても認知システムによる限界点から

「盲点」が生み出されていくことになるために、

次に不可欠な視点となるのは、

「では一体どうすれば、個人的認知システム(思考回路)の<盲点>を

少しでも超克かつ改善していけるのでしょうか?」というテーマへと

課題解決作業は進展していくことになります。

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⑥<第5章 体と世界を使って考える>

⑦<第6章 他者を使って考える>

⑧<第7章 テクノロジーを使って考える>

第5章では、人工知能「開発」史の進化過程を振り返ることを通じて

ロボット工学思想が辿り着いた現在の着地点が簡潔に要約されています。

本書で言うところの「古き良き時代」の人工知能は

当初はそのアルゴリズムプログラム設計をすべて人間がまかなうことを

想定して開発されていったわけですが、

ある時点からその限界が見え始めてきたところから

すべてを最初から設計内蔵させる思想ではなく

人間からは必要最低限の設計を人工知能に仕込んだうえで、

徐々に人工知能自らに「学習」させていく方式へと変遷してきた様子が

わかりやすくまとめられています。

とはいえ、この方式でも「初期設定」は人間が仕込むわけですから、

人工知能工学において難問とされてきた「フレーム問題」が解決されたとは

言い難い現状にあります。

こうして現在の人工知能は『その意思決定と行動に、動物の計算方法に

着想を得た、まったく異なる計算スタイル』(本書106頁)が採用されていった

ことであらたな局面が切り開かれることになったわけですが、

この人工知能「開発」史は同時に人間知能の「解明」史でもあったのでした。

まとめますと、現在の人工知能開発に生物学の知見も

大幅に取り入れられるようになってからさらなる技術的飛躍が

もたらされたということです。

そこで今度は「人間はどのようにして周辺環境から情報を抽出選別作業をして

そこからどのような思考回路を立ち上げていくことになるのだろうか?」という

研究が深められていくことになるわけですが、

そこから獲得されてきた知見こそが、

ある種の人間における<コペルニクス的認知視点転換革命>でありました。

つまり、人間の脳内情報処理を中心に見た人間主軸型認知観ではなくして、

世界=情報を先立てた『世界が私たちのコンピュータである』(本書112~

117頁)と見立てる世界=情報主軸型認知観への発想転換であります。

そしてそこから判明してきたことは、

ヒトの知性とは決して脳内処理だけで完結してきたわけではないというわけです。

それが、「唯」脳論的発想には帰結され得ない身体を通じて

世界=情報を観ずる(認知する)という着眼点へと発展していきました。

詳細な論考解説は本章<脳は知性の中にある>(本書117~121頁)へと

委ねさせて頂くことにしますが、ここではアントニオ・ダマシオ氏の議論などを

引き合いに出しながら、知性とは脳内だけに完結され得ない

『システム全体に分散』(本書121頁)されてきた様子が

明確にされていきます。

「唯」脳論的見立てでは、

この<世界=情報システム全体-身体-(心)-脳>という一連の

情報抽出「統合」システムも終局的には脳によって

知覚「統合」一元化されていくことになるわけだから、

別段、「唯」脳論的見立てに最終的に収斂させていってもよいのではないかとの

見解に至るわけですが(←あくまでも管理人自身による主流派脳科学者が

採用されているような見立てへの解釈イメージです。)、

そもそも人間という存在につき「身体」を切断された「脳」だけが存在した状態を

想定することなど通常はしないわけで、現実的な物理面としても

観念的な思考実験としても、人間存在の本質を想像考察するうえでは

何ら有意義な見立てとは思われないのが通常感覚でありましょう。

そのような観点からも従来の「唯」脳論的見立てに立った知性論も

現在の知性を脳に特化させていく脳科学者による知性論にも

どうも腑に落ちないなぁ~と思い続けてこられた読者の皆さんにおかれましては

本章における問題提起は何らかの有意義な視点を提供してくれるのでは

ないでしょうか?

それはまた知性「偏重」型教育観や古典的知能観を見直すうえでも

重要なヒントとなり得ています。

ここまでを一言で要約すれば、

『知性は脳の中にあるのではない。むしろ脳が知性の一部なのだ。』

(本書121頁)ということです。

こうして人間は「個人」レベルでは間違った信念にとらわれやすくなる一方で、

それを乗り越える視点として、世界(自分以外の<他者>)から

足りない知識や知恵を借りてくるという発想へと辿り着くことになりました。

そこで、第6章では、他者の視点から知性を再考することになります。

とはいえ、ここにも難点が発生してくるようです。

つまり、今度は他者と自己の知識の<境界線>が認識しづらくなるとともに

ある種の知的虚栄心にも由来するのか自己だけですべてを知っている「つもり」に

なってしまう弊害が出てくるというわけですね。

ここに問題が出そろったようです。

こうした<境界線>上の知的混乱がさらなる「思い込み(錯覚)」を

生み出していき、それが社会における様々な対立や収拾しがたい困難をも

生み出す根本的原因ともなってきたということです。

そうした社会での重要問題点は第8章と第9章において

科学と政治の事例問題に特化して考察が進められていくことになります。

第7章では、現在の人類が今だテクノロジーをうまく使いこなせていない現状と

来るべき近未来におけるテクノロジーと人類との協働社会を見据えた

著者ら自身による予想図が提出されています。

ここでの結論でも人類がテクノロジーに従属されてしまわない知恵を

いかに確立させていくのかが課題として提出されています。

特に近年目覚ましい躍進で注目される情報産業企業(いわゆるプラットフォーム企業)や

国家などの巨大な公共組織に対する情報アクセス「集中化」の弊害にも

目配りさせたご提案論考文<真の超絶知能>(本書161~166頁)は秀逸。

この超絶知能の<有機的集合体>こそが、本書で表現されるところの

<知識のコミュニティ>だということです。

そのためにもテクノロジーの仕組みや本質について

より一層深いレベルでの理解度を高めていく努力が

ますます必要となってくるということに尽きます。

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⑨<第8章 科学について考える>

⑩<第9章 政治について考える>

※この第8章と第9章では先の第6章において結論付けられていた

<集団意識の強みと危険性>(本書142~145頁)という問題意識を踏まえた

主に科学と政治の領域で生起してくる事例を取り上げながら考察を深めていきます。

特に第8章では科学への不信感も高まる中でどのような付き合い方をすれば

科学を<知識の欠乏を埋める>(本書185~187頁)道具立てとして

活用させることが叶うのかの視点が注目されるところです。

さらに第9章の政治問題では、政策論争における従来の価値観論争を超え出た

本来目指すべきだったはずの人類全般に共通する課題解決へと

いかにつなげていくのかに関する知恵を学びます。

ここでは「政策論争過程においてなぜしばしば人々は極端な価値観対立へと

陥りがちなのか?」という問題などにつき心理的な側面から

認知的錯覚が生起してくる理由がジョナサン・ハイト氏などの

諸論考を手がかりに独自の分析考察が重ねられています。

いずれにしましても、特に価値観(自己信念)が強化され

知識の錯覚に縛られることでより望ましい問題解決からはほど遠い不適切な結論へと

誘導されやすくなる傾向のある政治論争の場面では、

自己の確証バイアスや無知さかげんに思慮深くあろうとする

知的謙虚さや冷静な判断力がより一層要請されるということになります。

政策立案形成に関する枠組みを描くに当たりある程度の価値観の相違が

どうしても付加されることは人間である限り避けられないにせよ、

その細部に関しては「対話」次第でいかようにも変容させ得ようとする

相互譲歩姿勢による柔軟さは是非とも持ち合わせたいものです。

なかなか効果的な弁証法的論争技法も一般には浸透しにくく

その意義も深く理解されていないところも

左右両党派を問わずに拭いがたいものがあります。

管理人も自己の政治信念(価値観)にあまり強くとらわれすぎずに

普段あまり馴染めない対抗軸価値観に立つ論者の意見にも

積極傾聴させて頂く場面も多くなってきていますが、

「そもそも何のためにそうした政策合意に至る対立的論争議論はあるのか?」という

原点に常に立ちかえりながらより良き改善案を

皆さんとともに「創造」していきたいものです。

政策合意形成に至る論争の場がただ単なる政局絡みの主導権争いの様相を

呈するだけでは貴重な時間的浪費となるだけであります。

憲法でもなぜ立法機関たる国会に「会期」制度が設定されているのか

あらためて深く噛み締めて頂きたいところです。

そんなことも最近読了したジョン・ロック著『市民政府論』

國分功一郎著『近代政治哲学~自然・主権・行政~』

(ちくま新書、2015年)で反省を迫られたところでした。

ちなみに後者の読みどころは第6章ヒュームと第7章カントによる

従来の社会契約論「観」への再考を促す諸論考だと考えています。

あるいはルソーのいわゆる<一般意志論>への誤解に関する諸論考

≪特に「自称」保守派による誤読批評見解が最近かなりの俗論として

世間にも浸透していますし、管理人もそうした影響を受けてしまっていた

からです。≫やスピノザによる<自然権ないしは自然状態>への

捉え直し作業論考から得られた示唆なども

大変興味深く読ませて頂きご教示頂いたところでした。

そして、前者のロック論に関して個人的に気になった論点として

近現代所有権の根拠付けも古代ギリシャ以来、

やはり労働による正当化・価値付けに偏向傾斜させたところにありました。

この<所有権の正当化事由の背後に隠された労働価値説>こそ批評する価値が

現在から近未来の人類社会を再構想するうえで

今こそ強く要請されているのではないかとも思われたからです。

この点はどうやら管理人がこれまで学んできた範囲の感触では

リベラリストであろうとリバタリアンであろうと

そんなに大きな隔たりがなかったのではないかと感じさせられたからです。

このあたりの感触・感覚について同様の問題意識を抱いている方で

何か新しい知見やアイディアなどございましたらご教示下されば有り難いです。

このことは何もプロの職業政治家や知識人でなくとも

民主主義を指導理念と掲げ続ける限りは

私たち一般国民も政策の善し悪しの判断や民主主義制度の本質論を

絶えず見つめなおし続けていくためにも

それなりの洞察力を深めるべく学習能力を高めていかなくてはならないからですね。

「お任せ」民主主義はもうやめにしませんか?

「自治=自己統治能力」を高める努力をすることは

人格の陶冶や人間の品性を高めることにもつながりますしね・・・。

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⑪<第10章 賢さの定義が変わる>

⑫<第11章 賢い人を育てる>

⑬<第12章 賢い判断をする>

第10章では、これまでの知能観を形成してきた各種識者による

知能論議にどうやらかなりの無理があったことが示されます。

『どうやら人間の思考と切り離せないものという知能の概念に

無理があるようだ。個人の基本的な認知能力を明らかにしようとする試みは、

知能を理解するための最も生産的な方法ではないようだ。』(本書220頁)と。

詳細は本章各論における解説論考に委ねさせて頂きますが、

差し当たっては社会階層内における「相対的」知能評価(本書では

チャールズ・スピアマン氏によって考案導出された

いわゆるg因子に関する話題を中心に批評されています。)が

ここでも従来の知能観には偏った見方として内在反映され、

現在までの教育界に多大な影響力を及ぼし続けている点を

ご理解頂くことにしましょう。

しかしながらすでに当書評記事内でも示唆させて頂きましたように

現在は「協働」型社会ですのでそうした社会観に適合し得る

従来の個人別知能偏重観を超えた

あらたな「社会参加協力を通じて再創造されゆく」知能観が

これまで以上に強く要請されてきています。

例えば、IQ(狭義の知能指数)に代わる

鈴木謙介氏によるSQ(社会的かかわり指数)や

ダニエル・ゴールマン氏らによって有名になった

EQといったいわゆる<心の知能指数>、

はたまた直近ではGRIT=グリット(やり抜く力)なども

話題となったところですね。

いずれにしましても現在では個人プレーに偏重させた知能指数は

あまり好意的に評価されにくい世の中に変化してきたということです。

もちろん個人の努力が無意味になったわけでもありませんし、

磨き続けることは今後とも世の中への積極的かつ肯定的貢献度を

高めていくためにも有意義な取り組みではあります。念のため。

こうした<知識のコミュニティ>化していく一方の

知識社会観が強まれば強まるほど「社会的」知能観が

より重視されていくだろうということです。

ということで、著者らも本章で

『知識はコミュニティのなかにあるという気づきは、知能に対する

まったく別のとらえ方をもたらす。知能を個人的属性と見るのではなく、

個人がどれだけコミュニティに貢献するかだと考えるのだ。

思考が集団の中で起こる、チームとして取り組む社会的行為であれば、

知能は個人だけでなく集団に宿ることになる。』(本書223~224頁)との

主張を繰り返し説明論証されていくことになります。

このような「集団」内における「個人」貢献度といった

あらたな知能指数を測る物差し(計測方法)は

まだあまり論議も深められていないようで

手探り状態でもあるようですね。

それでは、「そうした集団内での個人知能力をアップさせるには

どのような教育技法や人的支援方法が考えられるのでしょうか?」

この問いから次にリーダーシップ問題へと論点が移っていくことに

なります。

その人「財」育成論に対する著者らの見解が第11章での

テーマでもあります。

ここに第8章でも考察された科学リテラシーの効用や

「社会」を通じて学び続けていく「体験」学習観を

確立させるのに寄与したプラグマティズム(実践的)教育の祖の

1人でもあるジョン・デューイが再評価されていくことにもつながるわけです。

<学習のコミュニティ>本書247~251頁ご参照のこと。)

まとめますと、「社会」知能指数を高めるために必要な人間観や教育観を

健全に育むためには相互信頼感をいかに形成していくかに力点を置いた

教育技法が要請されるということです。

「励ましと気づきを与え合う互恵的知能向上を促す相乗効果」とでも

言うべき教育イメージ像です。

互いの「盲点」を示唆するにも対立を煽ったり、

自尊心を損ねるような人格批判や人身攻撃につながらない

「情愛」教育技法を編み出していく視点がより一層望まれるということですね。

従来の個人知に偏った学習教育観では、

認知の歪みがかえって強化されてしまうことも

すでに行動心理学者などによって提出されてきました。

一方で、「集団」型学習もこれまで論じてきましたように長所もある反面、

1人の誤解が集団内での誤解を積み重ねていくといった

伝染伝播リスクにも絶えず晒され続けるという自覚も要請されるところです。

第12章では、さてここまでの本書での議論を踏まえて

今度は社会生活を送るうえでの様々な知的判断能力についてまとめられていきます。

主に経済分野の話題が中心となりますが、

一点だけ注意を惹きつけられた論点に

消費者契約法などで重視されてきた「説明義務責任」が

かえって心理的な警戒感を提供することもあるといった

事例説明の紹介がありました。

そのあたりの論考が<情報量を増やすことは解決策にならない>と

題する本書259~264頁でなされています。

最後に著者らからの重大な問いかけとして、

『人々が物事を深く理解しないまま、意思決定することを防ぐ手だては

なさそうだ。たとえきわめて重大な結果をもたらすような決定でも、

それは変わらない。ではどうすれば、より賢明な選択ができるように

なるだろうか。』(本書267頁)

その問いに対応する政策的解決方法の1つとして「ナッジ」理論が紹介され、

前にもご紹介させて頂いたリバタリアン・パターナリズムが

好意的に評価されるというわけですが・・・

つまり個人の認知能力に自ずと何らかの「盲点」や「限界」があるとするならば、

環境そのものを変えて認知能力をより望ましい方へと

「誘導(ナッジ)」させるための素材を提供していきましょう・・・というのが

この理論の本旨にはあります。

しかしながら、『その判断主体たる情報提供媒体自体に

本当に「的確」な判断が出来るのでしょうか?』と

さらに問い返されたならば「??」も出てくる場面も

なきにしもあらずでありましょう。

とは言いつつも、個人にせよ集団にせよ、

およそ人間によって知識情報ネットワーク社会が形成されていくわけですから

100%完全な「正解」など始めからありませんし、

どの文脈にも適合する「正解」もあり得ないことでしょう。

そのことをあらかじめ織り込みながら、

自己と他者の不完全さに向き合っていかざるを得ないのが

悲しいかな、人間の「性(さが)」だということです。

このようにいつも楽観的であることも出来ませんが、

悲観的になり過ぎることもありません。

そのあたりの暫定的独自考察の軌跡は

項目をあらためて最後に提出させて頂くことにいたしましょう。

いずれにしましても、本書を読み進めてきてあらためて感じさせられたことは

己の「無知」に気付くことは本当に難しい課題だということに尽きます。

ことに自己自身による気づきの難しさにです。

しかしながら一方で「無知」だということを

本書によってあらためて気付かされたことで

その「無知」さかげんを常に意識続ける姿勢が

何よりも知的謙虚さと賢さを磨き続けていくうえで重要だという

これまた当たり前だといえば当たり前な教訓へと辿り着くことが叶いました。

ただ「言うは易く行うは難し」であるのが

<無知の知>(ソクラテス)であります。

そのうえでさらに突っ込みますと、

本書ではドナルド・ラムズフェルド国防長官の名言の紹介で

語られていた『自分たちにわかっていないという事実すら、

わかっていないことだ。』(本書43頁)という問題。

そして、「そもそも私たちはなぜそのことを知っていると

確信し得るのか?」という難題もあります。

この問いは管理人も不定期に参加させて頂いてきた

畏友らによる私的主催の<朗読対談懇親会>という形態での

小沢健二氏による創作童話『うさぎ!』を読む会でも

語り合ったテーマですが、

この問いも広い意味での「本当は知らないのに知っていると言い張る

<無知の無知>」問題であります。

このテーマは難問でこの謎解きは今後とも続きますが、

皆さんにも是非問い続けていって頂きたい良問でありましょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑭<結び 無知と錯覚を評価する>

最後の結びはここまで「無知」や「錯覚」に対する

否定的評価を中心に再認識を促す論考が展開されてきましたが、

その肯定的評価面にも目を向けてみましょうと

あくまでも「逆説的視点」からの気づきですが

著者らなりの見解で締めくくられています。

例えば、「無知」問題に関しましては、

この世の中には知らなくてもよいことが

それこそ無数に点在していますが、

知らなければ犯罪に巻き込まれなかったり、

もしくは罪を犯さなくてもよかったことも確実にあるでしょう。

あるいは、ある種の中毒性のあるモノやサービスに近づくことで

始めから知らなければ回避出来たであろう依存症克服問題などが

考えられるところです。

一方で、「錯覚」問題であれば、

通常人ならば「そんなことを研究し続けてもムダだからやめておいた方がよいぜ!!」

なんていう忠告意見もある中、

結果が吉と出るか凶と出るかはあらかじめ不明な手探り状態から

己の信念と確信のままに突き進んで

「吉」や「瓢箪から駒」がもしかしたら出て「幸運」を掴めることも

あるかもしれませんし、

人類の未来を明るい希望の光で照らし出すきっかけになる

発明や発見もあるかもしれません。

確率的にはこうした「無知」や「錯覚」から生じる幸運など

本当に稀なたまさかの僥倖にしかすぎないでしょうが、

絶対にないとも言い切れないところに

人間界における面白さも含まれています。

今回取り上げさせて頂いた本書では、

「無知」を科学するをテーマにご紹介させて頂いてきましたが、

このように人類は今後とも「無知」や「錯覚」と

付き合い続けざるを得ない存在であってみれば、

一度はこのような人間ならば誰しもに内在する認知的性質について

真摯に問うてみる価値は十二分にあります。

そのようなわけで皆さんにも本書をお薦めさせて頂くことになりました。

今後とも人間の「認知問題」について人工知能問題などとも絡ませながら

折に触れて、手を変え品を変えて考察を深めていきたいと予定しておりますので、

皆さんも何かこれは『良書』だと評価なされた書籍などございますれば

どしどしご遠慮なく当書評ブログまで情報をお寄せ頂ければ

書評人の「はしくれ」としてこれに勝る喜びもございません。

ヒトはなぜ知能欠陥(盲点)やフレームワーク(価値的認知思考枠)が組み込まれてしまっているのでしょうか?~愛の本質から推察する相補性知的原理仮説~

最後になぜ人間は一見して不完全な存在として創造されてきたのでしょうかという

謎をテーマに語ってみましょう。

ここでいきなり<創造>なんていう言葉を持ち出してくると

何か宗教的なイメージが付きまとってしまいますが、

ここでは別に「神学」論争や特定の宗教観に立脚させた

小難しい理屈付けを意図しようとしているわけではありません。

またルソーばりの『人間不平等起源論』のような仮想型哲学論争を

持ちかけようとする意図もありません。

ただ純粋に「そもそも本当に人間は不完全な存在なのだろうか、

それとも完全な存在であるにもかかわらず何らかの理由で

一見すると不完全な存在だと感じられてしまうのだろうか?」といった

幼少期以来、素朴に感じ続けてきた違和感であり疑問点について

皆さんもご一緒にあらためて再考してみませんかとの問いかけであります。

「人間の原点にはそもそも何があったのでしょうか?」

この問いについて考えていくためには、

生物進化論や地球物理学、はたまた宇宙論にまで想像力を

拡張していかざるを得ません。

そうすると物理学的には「原子論」へと辿り着きましょう。

そうした「原子論」を古代ギリシア以前の哲学者や

東洋では老子や荘子も問いかけていたのでした。

また日本神話なども示唆しているように

本当に根源のところまで辿り着けば「一点」に集約されていくわけですが、

その「一点」の以前と以後問題を想像することもまた

ある意味で宇宙論から見た人類に至るまでの被造物進化軌跡を

考えるうえでは興味深いヒントが次々と湧き出てくるようです。

その「一点」を宗教的な文脈では西洋でも東洋でも

またそのはざまにある日本においても「神」なる言葉で

表象させてきたわけですが、

その「神」なる概念(イメージ)をどう捉えるかは

各人各様の<手触り感>によっても大きく異なってくることは

言うまでもありません。

その「神」なる概念を物理学者がどのように取り扱ってきたのかも

誠に興味深いテーマであります(例えば最近刊行された

『科学者はなぜ神を信じるのか~コペルニクスからホーキングまで~』

(三田一郎著、講談社ブルーバックス、2018年)などでも

著者や各科学者がどのような信仰観を抱いているかといった

バイアス問題はひとまず留保したうえでも科学者が物理学の主目的である

<物自体(そのもの)>と厳しく対峙していく過程で

何らかの「神」概念(イメージ)を手がかりに仮説理論を

形成創造してきたことが鮮やかに活写されているところは

やはり見逃せない論点であります。)がここでは細かくは触れることは

叶いませんが、現在までのところ物理学が辿り着いた着地点は

この世の中の原初状態では物質とエネルギーによって

重ね合わされていた様子までは解析が進んでいます。

個々の物質やエネルギーのさらなる最小単位である

いわゆる肉眼では把捉不可能な領域は不明ですが・・・

例えば、ダークマターだとかダークエナジーの有無に関する話題のことです。

そうしたこれまでに宇宙物理学などが積み重ねてきた

詳細な知見に対する批評は出来ませんのでこれ以上のコメントは

控えざるを得ませんが、

「原子(素粒子)」物理学の知見では、

少なくとも物質レベルではマイナス(陰)とプラス(陽)の組み合わせの

「双対」型構造で形成されているところまでは確認されています。

そしてそれぞれを結合させる何らかの<因子>も。

問題はエネルギーの方ですが、こちらは物質以上に複雑怪奇な存在のようで

様々な「仮説」として捉えられている段階にあるようで

物質以上の難問であるようです。

マイナス(負)のエネルギーと言われても

にわかには実感しづらいことも関係しています。

この世の仕組みを物理的にうまく整合性を持たせた解釈でもって

解き明かすために必要な知的道具立てとなる多種多様な方便としての

仮説見解が錯綜していることも一般的理解を妨げている要因とも

なってきているからです。

物質についても「目に見える」領域から「目に見えない」領域まで

様々な形態があり得ますが、観察できるレベルからの推定で

形ある存在としての物質の性格をなす「双対」構造は

まだ見出しやすい点があります。

一方でエネルギーは「力そのもの」ですから

その構造について問うてみてもなかなか実測しづらいものがあるからです。

さて、物理学が現在までに提出してきた最先端の知見については

ひとまずここまでといたしましても、

古代から人類はこの宇宙のあらゆる原理を3点構造でイメージさせてきた

見方が多く存在してきました。

ここでは「人間」存在の本質を理解し再評価していくうえで

「脳(知性=狭義の認識判断能力)-心(魂=霊性)-身体(肉体=感覚体)」の

三位一体構造で考えていくことにいたしましょう。

すると驚くべき事実が判明してきます。

「なぜ1人1人の人間はかくまでも異なる存在なのでしょうか?」という

難問であります。

たとえ親子の遺伝子が似ていたとしても、

1人としてまったく「完全コピー」された同じ存在の人間など

この世には存在しないからです。

それはいわゆる双子や三つ子・・・などでも同様であります。

そして人間は必ず男性と女性という両性が結び合わなければ

1人としてこの世に生を受けることすらままなりません。

少なくとも現在の生殖技術ではの話です。

ここに最近世間を賑わせたような趣旨での「差別的」な他意は

込めていません、念のため。

現在は一般的に両性「外」生殖の可能性は不自然だとして

心理的または倫理的嫌悪感がどうしても世間には幅広く浸透してしまっていますが、

将来的には少子高齢化対策の1つの最終的切り札として

「両性具有型」生命工学手法や「同性内遺伝子組み換え型」生命工学手法によって

地球上の人口調整問題に使用される可能性もあるかもしれません。

こうした「生殖」工学技法や「(半永久的)不老不死型超絶人類誕生」工学技法には

かなりの哲学的・倫理的課題があると管理人自身は

最近読了し終えた『ガラスの地球を救え~21世紀の君たちへ~』

(手塚治虫著、光文社知恵の森文庫、2017年第27刷)所収の

エッセー論考文<『火の鳥』が語る生命の不思議さ>(182~186頁)などを

読みながらつらつらと考え続けてきました。

もちろんまだ的確な独自解答など持ち合わせていません。

ただ強く思いますのは、

自身の生命は自身という個体レベルで自己完結し得ないという

後続次世代への「類」的責務を伴った厳粛な営みだということです。

皆さんにもそれぞれ<自然>という概念をどう捉えるかという

イメージ像はお持ちだと思いますが、

人類だけではない森羅万象の存続を含めた「人間」哲学を

手塚治虫作品などを通じてともに想像考察されることを願います。

いずれにせよ、地球人口調整問題と資源エネルギー問題は

今や人類と地球生態系の存続をかけた正念場を迎えていることは

間違いない最重要テーマであります。

こうした哲学的テーマを深く深く探究していくことも

今回の本書で取り上げられた<知識のコミュニティと科学の授業>

(本書239~247頁)で提出されたテーマとともに

さらに掘り下げて想像考察していけば、

最深部でつながっていくことにもなりましょう。

この<知識のコミュニティと科学の授業>(本書239~247頁)

提出された教訓から抽出できることは、

科学者と言えども1つ1つの現象解析を

すべて1人だけで成し遂げてきたわけではないということです。

さらに驚くべき事に今日の複雑な科学技術時代においては

科学者自身もすべての存在構造や現象について理解仕切れていないことも

さりげなく示唆されているところに本書の炯眼点がありました。

相互「信頼」のもとに形成されてきた科学コミュニティ。

とはいえ、その「信頼」には必ず「裏付け」が伴っていなくはなりません。

そこが宗教や哲学的「論証」との大きな分岐点であるからですね。

相互検証可能性が保証されていなくては

科学的「信頼」の根拠が崩れてしまうからです。

そこに科学コミュニティのルールがあるわけですね。

このような複雑怪奇な現象界の中に住まう住人である

人類も宇宙開闢以来ずっと互いに反目しあった状態では

ここまで存続し得て来なかっただろうことこそが

今回のこのエッセー項目部で考えて頂きたいところなのです。

宇宙未明混沌の中で出現してきた物質とエネルギー。

その構成分にはどうやらマイナス(陰)とプラス(陽)があったという事実。

(ちなみにここでのマイナス、プラスという双対表現には

道徳的善悪論といった価値付けを一切含めず、

あくまでも物理学的に解析されてきた純粋客観的な構造論として捉えています。)

それぞれが時に合わさったり(物理学用語では<対生成>)、

あるいは分かれ去ったり(同様に<対消滅>)しながら

宇宙時空間内を自由に行き来してきたこと。

そのうち宇宙空間内に「生命」が誕生していったわけですが、

この「生命」が物質に<宿る>という現象をどう捉えればよいのかという

テーマから科学を離れた哲学が始まるわけです。

そしてこの哲学できる生物こそが、

今のところ唯一人類だけだと一般には解されてきたわけでした。

生命論を哲学するということは同時に時空論、

わけても「時間」論を主題に人類の存在意義を再考していくということでも

あります。

そして「生命(いのち)」ある存在はいずれこの世からいなくなる。

「諸行無常 盛者必衰 生滅流転」の世界を行き来する存在として

人類もその「理」から逃れ出ることは出来ません。

ここに人類の本質も存在します。

そこで冒頭の問いに戻るわけですが、

管理人の見立てるところ

ヒトは不完全でも完全でもない存在。

言い換えますと、完全にして不完全(厳密に言えば未完成体)ということに

なります。

未完成体とは大前提として「生命(いのち)」ある存在として

時間軸の中で生きる生<物>だということです。

宮沢賢治氏などの問題意識とも通底する宗教哲学的認識です。

それでは人間として考える場合に、

この生<物>がそれぞれ異なる性格を有するのは「なぜなのか?」が

次に来る論点になります。

ここに<エネルギーの強弱=高低>問題として

「意識」問題が絡んでくるわけです。

この「意識」をここではとりあえず「知性・感性・霊性の三位一体構成物」と

イメージしておきましょう。

この組み合わせいかんで「個人」としてのヒトが完成します。

とはいえ、ヒトは「個人」としての完成だけでは、

「類(社会協働存在)」としての「人類」としては

まだ完成していません。

つまり何が言いたいのか申しますと、

ヒト単体としては「完全コピー」出来ない理由も

「類」全体の中で「個体」同士の相互扶助協力なしには

どうやら完成体へとは一歩も近づけないように

なっているらしいということにあります。

ここに近未来において出現してくるだろうと予測議論もされている

最先端の「超(絶)人(類)」と現生人類の決定的分岐点があるものと

考えています。

そのような意味でヒト単体が

ヒトとヒトとの<はざま=あいだ>を生きる人「間」へと成長し、

さらなる大規模集団協働生活を成し遂げていく過程で

生存率を高めていった人「類」へと進化発展を遂げていくためには

どうしても相互協力する何らかの物理的<システム>

あらかじめヒトには組み込まれていなければならなかっただろうとの

仮説が一応成り立ちました。

ここに「個体」としてのヒトは「一世一代」では完成体になりきれずに、

「類」全体を通じて世代を超えた完成体を志向する「意識」が

芽生えてきたというわけです。

そういうわけでやはりヒトは「生命(いのち)」ある存在ですから

いつかは必ず死ななければならない運命を辿ることに

どうやら『生物』物理的にもなっているらしいということです。

そうでなくては「文化」の継承もなかったのではないでしょうか?

つまり、生命(いのち)の<生滅流転>なくしては

「同質・同形」文化だけが無限増殖循環的に

ただただひたすら繰り返されてきたに違いなかろうからですね。

これは物理的な<エントロピー増殖問題>を少しでも遅延させるために

生命(いのち)を発生させたとの生物戦略仮説とも整合性がありましょう。

<エントロピー増殖>に対する<自己組織(再現)化>戦略。

物理学と生物学の接点にある魅力あふれるテーマですが、

皆さんはどのように考えられますでしょうか?

このことを極端に楽観的な「超人」志向を有する方にも

もう一度深く「自問自答」を繰り返して頂きたいわけです。

もっとも管理人はこうした「超人」志向を有される方々の

死生観を妨げる権利も資格もありませんし、

それはそれでそのような方々にも

今後の人類の行く末を見届ける責務があるわけですから

そうした方々の役割を完全否定するものではないのです。

ただそのようなこれまでの現生人類が願っても叶わなかった

「不老不死」型「超人」の夢が叶ったとして

どう生き続けていくかは絶えず歴史から厳しく「審判」され続けることでしょうし、

その「重圧」に耐え得るだけの強靱な「心」であったり

「魂」を燃やし続けることがなければ、

そうした希望もついには絶望(安楽死??)へと至ることにも

なりかねないだろうと恐れながら推測するわけです。

それほどまでに人類はまだニヒリズム(虚無感情)や

シニシズム(冷笑感情)、ルサンチマン(負の感情)を克服仕切れる状況にはなく、

難しい課題を背負わされている現状にあるのです。

今回の本書における認知的推論形式でも解説されていたところですが、

人間の推論形式は時間軸の中で前後関係が即座には理解できずに

しばしば「想定外」の結論へと至り、

思わぬ「迷宮」へと足を踏み込み、

泥沼から抜け出せなくなってしまいます。

つまり、人類の現状の認識推論形式能力では、

現状の判断が最善あるいは的確であったのか否かは

かなり後になってからでないと事態を完全把握できないということです。

それではそろそろ<まとめ>に入らせて頂きますが、

私たち現生人「類」の未来がどのような世界になっているのかは

まだ誰にも未知であります。

とはいえ、2018年現在の今、世界には様々な難題が降り積もる時期だからこそ、

現時点で有史以来の人類史を振り返ると同時に

近未来からさらに遠い先の未来へ向けた人類やそれを取り巻く周辺世界に

想いを馳せたり、思考実験してみることは後続世代への責務として

大変有意義な知的作業だと少なくとも管理人は確信しております。

ひとまず現生人類はすべての皆さんの助力を賜りながら

<知識=学習コミュニティ>を再創造させていく志向性の共有を通じて

この地球内において共存共栄できる条件である

持続可能な最適システムを見出していこうと欲するあらたな旅へ

ともに再出発してみませんか?

現世人類には「この地球がダメなら宇宙があるさ!!」などという

逃げを打つことなど許されようはずがありません。

これほど宇宙に対して傲岸不遜な態度もないでしょう。

そう今月末にお亡くなりになられた『ちびまる子ちゃん』の原作者である

さくらももこさんも今なお心から私たちに語り続けておられるように思われるのです。

あらためてご冥福をお祈り申し上げますとともに

人類史に残る優れた名作を私たちに残して頂きありがとうございました。

実は前にもご紹介させて頂いた『アミシリーズ』でも

イラストをお描きになられていましたのです。

この『アミシリーズ』は単なる<精神世界系>のぶっとんだ世界観を

描いたいわゆるトンデモ小説ではなく、近未来の人工知能などとの協働社会の

あるべき姿を想像考察するうえでも大切な視点や論点を提供してくれていますので、

まだお読みでない方にはこちらもあわせてご一読されることをお薦めさせて頂きます。

必ずや読者様にも幼少期の純粋な「童心」時代へと回帰していく

体感覚や思考回路が甦ってくることと確信しております。

ここでやっと本タイトルである『愛の本質から推察する相補性知的原理仮説』へと

思考回路がつながりました。

まとめますと、人「類」相互間における<知識=学習コミュニティ>形成原理の背後に

『情愛』感覚が宿っていなくては有意義な<知的情報共同体システム>に向けた

これ以上の発展は見込めないだろういうことに尽きます。

『情報』の<情>の意味を皆さんにも深くご想像・ご実感頂きたいのです。

<情=青き心>も<性=心を生きる>も人間だからこそ

深く味わえるわけです。

世間に散在する通り一遍の情『報』に心傾けることなく、

くれぐれも心の通い合った『情』報の方へ心配りを傾けたいものです。

そんなこんなで『宇宙からの色』『命売ります』(人間椅子)が

また無性に聴きたくなってきました。

明日はライブ。

その翌日も敬愛する陰陽座さんのライブもあります。

双方とも「人間にとっての生き死に」の意味をいつも深く味わわせて下さる

数少なき優秀なへヴィメタルロックバンドであります。

やはり「苦難」や「逆境」がヒトを鍛えるのでしょうか?

その音楽的「思想」性も演奏の質、はたまた観客の質量ともに

静かにじわじわと増殖し続けているように毎度実感させられてもおります。

管理人も彼ら彼女らにいつも「活力」をお裾分けして頂いております。

深い『情愛』を感じるのです。

21世紀以後の音楽業界はじめ芸能業界がどのような形態に

進化発展していくのかは予想もつきませんが、

彼ら彼女らのような活動スタイルも厳しい芸能商売生活を

されている(きた)現状に鑑みますと、

あらたな希望の光を照射してくれるに相違ないでしょう。

そう言えば、「人間椅子」さんも『ちびまる子ちゃん』同様に

昭和最末期から平成初期の管理人が小学生時分だった頃の

テレビ番組『イカ天』から出てきたバンドだったそうです。

恥ずかしながら最近知ったことですが・・・

『イカ天』バンドとしては有名な「たま」さんの

『さよなら人類』も思い出します。

『さよなら人類』ではなく『ようこそ人類』へと

宇宙からも大歓迎されるような人類へと管理人も

進化を遂げていきたいですね。

管理人にとりましては、

『NO   MUSIC     NO   LIFE(音楽なしの生活は考えられない)』

『NO   BOOK   NO   LIFE(本なしの生活は考えられない)』は

同義。

そのライブ報告などは

また次回の書評内でのエッセー記事で語らせて頂く予定ですので

乞うご期待のほど宜しくお願い申し上げます。

それではまだまだ残暑も厳しく台風なども迫っているようですが、

くれぐれも身心のご健康と安全配慮をお心がけ頂きますように

皆さんのご多幸とご繁栄をお祈り申し上げます。

また今夏も山や海、川などで相次ぐ事故も多発していますので

どうか細心のご注意を払いながら楽しんで来て下さいますように

こちらも心から皆さんの安全をお祈り申し上げます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

また次回皆さんとお会いできることを楽しみにしております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<参考文献>

①『経済と人類の1万年史から、21世紀世界を考える』

(ダニエル・コーエン著、林昌宏訳、作品社、2013年第3刷)

②『全脳エミュレーションの時代~人工超知能EMが支配する

世界の全貌~(上・下)』(ロビン・ハンソン著、小坂恵理訳、

井上智洋解説、NTT出版、2018年初版第1刷)

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One Response to “『知ってるつもり~無知の科学~』スティーブン・スローマン&フィリップ・ファーンバック博士から自己幻想・集団幻想を招く  認知的盲点とうまく付き合う知恵を学びましょう!!”

  1. 1729 akayama より:

     SNSに漂流しているのに
     ≪『数学人』と自然科学や社会科学に携わる『科学人』が現象を等式で考察する時、『数学人』のは、理性であり、『科学人』のは、量化であると思惟する。≫
             とある。

     岡潔の言うところ(「人間の建設」)の【理性】の言説は、 

     ≪理性は捨てることを肯んじない。理性はまったく純粋な意味で知らないものを知ることはできない。つまり理性のなかを泳いでいる魚は、自分が泳いでいるということがわからない。≫
                 とある。
     【量化】を③と捉え、
    ① 【ある事象のモノ】を数値化する事  →【数量化】 
    ② 【言葉でのセンテンス】は、一階術語論理
    ③ 【数そのモノ】は、二階述語論理をもともと保持
    【数そのモノ】の只管を「数学の想像力~正しさの深層に何があるのか~」にチョト触れておきました。
    【数そのモノ】を【心】として対峙すると歴史的人物の言説が深淵なモノとなる。
     ガリレオの言葉
       ≪宇宙は数学という言語で書かれている。≫
     ガウスの言葉
       ≪数学は科学の女王であり、数論は数学の女王である≫
           ないどなど・・・
            ≪双龍天翔≫に訪問できたことを感謝するとともに誠に有難うございます。

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