ウェンディ・ブラウン氏『いかにして民主主義は失われていくのか』経済的観点だけで新自由主義批判を繰り返していると思わぬ  落とし穴が待ち受けているよと示唆する書です!!

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『いかにして民主主義は失われていくのか』

米国の政治哲学者ウェンディ・ブラウン氏による

新自由主義批判論考書。

現在世に流布しているいわゆる<新自由主義>批判書は

星の数ほどありますが、本書はこれまでの類書とは

少し趣を異にする視点から論じられています。

民主主義原理(民衆自治)論の観点から

あらためて新自由主義思想を捉え直していこうとする

発想が底流にはあります。

今回はこの本をご紹介します。

『いかにして民主主義は失われていくのか~新自由主義の見えざる攻撃~』(ウェンディ・ブラウン著、中井亜佐子訳、みすず書房、2017年第2刷)

ウェンディ・ブラウン氏(以下、著者)は米国のカリフォルニア大学バークレー校

政治学教授を務められている政治哲学者といいます。

本書を読み進めていかれると次第に著者の政治的姿勢もご理解頂けるかと

思いますが、いわゆる左派系の論客であります。

詳しいご経歴などは本書<訳者あとがき>(特に260頁あたり)で

触れられています。

これまでに我が国で刊行された邦訳書には

『寛容の帝国~現代リベラリズム批判』(向山恭一訳、法政大学出版局、2010年)

あります。

さて、これから本書をご紹介させて頂くに当たって

読者様へご留意頂かなくてはならないことがございます。

本書はいわゆる左派系論者によって問題提起された論考書であるために

どちらかと言えば保守系に属される読者様におかれましては

最初からすでに警戒心をもって予断を持たれてしまう方も

もしかすればおられるかもしれません。

その点は政治的姿勢としては比較相対的に右寄り(保守志向)に

傾きがちな管理人とてそのお気持ちは十二分に理解し得ます。

そのような志向性(価値意識)をお持ちである読者様向けには

本記事末尾でもあらためて今回ご紹介させて頂く本書において

論旨展開されている問題提起や趣旨とも共通する感覚を

養って頂けるにふさわしいと感じる関連話題書もご紹介させて頂きますね。

その比較読書によって左右両翼における主に経済政策を巡っての

現時点における日本政治風土上における共通(類似)点や相違点を

皆さんにも知って頂く機会にもなるのではないか

考えております。

そのことは来年以後に予定されている選挙における有権者の選択にも

資するご判断材料にもなるものと自負しております。

管理人の見立てるところ、

現時点における最大の政治的課題とは

まさしく1990年代以来長らく続いてきた「失われた20数年」を

完全終幕させるに足る<経済政策>に対する総決算評価審判だと

確信しているからです。

そのキーワードとは本書における隠れた主題でもある

新自由主義イデオロギーとそれに付随する「緊縮」経済政策によって

人心荒廃させられた我が国の惨憺たる経済状況回復・改善させ得る

『<反>緊縮』経済政策の積極採用のススメであります。

安全保障政策などの外交問題ももちろん軽視出来ない論点ではありますが、

「内政問題」こそ実はいつの時代ももっとも最優先課題に据えなくては

ならないからですね。

そのことは古代中国の賢者である老子墨子なども強調されていたところです。

「理想と現実の<はざま>において価値意識(特に政治面)が異なる者同士、

どこで<折り合い(対話)>が成り立つのか?」

その条件を皆さんにも考えて頂き、

特に皆さんご自身の経済生活環境をより望ましい方向へと進化発展させていくためにも

避けては通れない議論だと確信しているからですね。

今年も残すところわずかですが、

本年は明治維新政府樹立から150年の節目の年でもありましたし、

NHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』でも

そのできたてほやほやの政府部内でも相次ぐ政策対立や主導権争い、

閨閥(有司専制)や汚職などが生み出されていく背景事情や

後の「国権」か「民権」かの争いが始まる端緒も描かれていましたから、

その頃以上に「内憂外患」の今まさにここにおいて

皆さんにもどうか現状の日本社会内における異常さや

深刻に迫る国際情勢急展開への「切実度」も体感して頂きたくて

こうしていつにも増して語らせて頂いております。

来年は2019年です。

日本では「オリンピック」やら

ここ大阪では「万博」誘致決定報道で「空騒ぎ」の現状にあるようですが、

80年前の1939年は第二次世界大戦勃発の年。

90年前の1929年は世界大恐慌の年。

100年前の1919年は第一次世界大戦終結後の

後の第二次世界大戦の遠因ともなり得た禍根を生み出すことになる

フランス・パリでのベルサイユ講和条約の年・・・などなど

こうして単純に数え上げてみるだけでも人類史上

恐ろしいほどまでの「急激暗黒転換」の節目年だったのです。

管理人自身はもちろん「未来志向」で

人類が「明るさ」を取り戻すための大前提として

ひとまずは現状を厳しく見つめ直そうという趣旨から

書評を通じて一部読者様におかれましては

かなり厳しめの批評だと思われるかもしれませんが、

理想実現へ向けた「ロードマップ」形成のためには

どうしてもやむを得ない分析作業ですから

そのようなコンセプト(趣旨)で語らせて頂いてきました。

そのような文脈からも

管理人も含めましてそもそも読書する効用の第一義点には

日常の意識的・無意識的を問わず暗黙裏に抱え込んでしまっている

価値観(意識)によって自由にこの世の中の仕組みを眺めることが

出来なくなる弊害から自己と他者を守ろうとする利点と志向性があるということを

あらためてご理解頂きたいのです。

言い換えるならば、自己における思考上の盲点も克服され得ずに

あらたな視点が得られなくなる視野狭窄症に陥ったままでいれば

生活上のリスクすら生じ得ますし、あらたな視点さえ獲得されていたならば

叶ったはずの豊かな世界への体験享受可能性も剥奪されたままで

人生を終えてしまうことになりましょう。

そのような問題意識から管理人などはもちろんその都度その都度において

抱えている価値意識からは完全には自由になれないにしても

普段から自己の価値意識を俯瞰的に見つめ直していくことで

絶えず自己と他者との関係性や世界観を揺らぎにかける姿勢を持つことを通じて

あらたな「発見」へと導かれていく爽快感獲得を念願して生活しています。

そうした志向性から当書評でご紹介させて頂いている書物も

左派から右派までこれはなかなか優れた着眼点が宿されていると感じたものであれば

今後とも積極的に取り上げていこうと考えております。

そのことはひとえに管理人自身の人間的成長の楽しみでもありますし、

読者の皆様にもなにがしかの有益な視点を継続的にご提供させて頂くための

きっかけづくりにもなるだろうと信じて

そのアイディア探しも兼ねた日々様々な読書仲間との触れ合いや

書店さんなどのトークイベントにも参加させて頂いたりするなど

自己研鑽に努めさせて頂いております。

また大手マスメディアによって提供される情報だけを鵜呑みにして

思考が知らず知らずのうちに偏向させられることなく

今やインターネット情報社会なのですから

市井に散在する一般民衆の相互連携システムを通じて世界中に張り巡らされた

小さなミニコミSNS(社会的交流ネットワーク情報システム)なども含めて

流通されている多種多様な情報を多角的な観点から分析考察していける知的体力づくりや

良質な批評力を磨き上げ続けていくための教材として接するように

注意しながら活用させて頂いてきました。

言うまでもなく新聞・雑誌や書籍などのマスメディア(いわゆるオールドメディア)

のみならずこのような情報革命がもたらしてきたインターネット情報であれ

そこに散りばめられた内容自体は玉石混淆ではあります。

「フェイクニュース」を見極めるための

より「確かな目(目利き力)」を育て上げるにしても

常に自身の知能「危機意識」感をもって思慮深く接していく努力をし続けていくほか

ありません。

つまり、「真贋力」を身につけていくに当たり

簡易な道などないということです。

このような情報環境の中で私たち現代人は生活しているわけで

絶えず圧倒的に押し寄せてくる情報洪水に流されていかないためには

どのような姿勢で臨めばよいのか皆さんも途方に暮れる毎日を

お過ごしになっておられるものと思います。

というわけで今回ご紹介させて頂く本書は左派系論客からの視点で

新自由主義思想が批評されていくことになるわけですが、

世の中を眺める視点は出来るだけ多様であった方が

社会的偏向に基づく皆さんの生活上リスクを回避出来る利点があることも念頭に置いて

当書評記事創作に当たっての理念・方針として掲げさせて頂いてきたからには

その趣旨に沿った公平な書籍取り扱いを可能なかぎりしてまいりたいと念願しておりますので

今後とも管理人がご紹介させて頂く著者や著書につきましても

どうか寛容におおらかな姿勢で見守って頂ければ幸いであります。

(もっとも各回でご紹介させて頂く書籍の取捨選別決定過程に当たっては

その時々の管理人自身における時事的問題意識・知的関心度とも絡むわけで

独自の主観的「偏見(価値意識)」が紛れ込むこと自体は

完全回避できないという点だけは

管理人も不完全な人間ゆえ予めご了承願うほかありません。

そうした問題意識から

より客観的・公平な書籍評価度を高めていくためにも

読者の皆様のご協力も必要となるというわけです。

ですから皆様から頂いたコメントも社会的に有益であり、かつ、

マナーに反しないものであれば、

出来るだけこちらでも積極承認してご紹介していきたいと考えておりますので

どうぞこちらのコメント欄にもお気軽にご意見・ご要望など

お寄せ頂ければと願っております。

とはいえ、お寄せ頂いた1つ1つのコメントには

もはや丁寧にお応えさせて頂く時間的余裕もございませんので

コメントされた読者様には毎度誠に恐れ入り申し訳なく思っておりますが

どうかこの<心>をお酌み取り頂いたうえで

当書評記事内にてご恩返しさせて頂くという手法で

ご回答させて頂きますので予めご了承とご寛恕下さいますようお願い申し上げます。

また読書会や個性的な本屋さんなどでのトークイベント情報などございましたらば

どしどしご教示下さればこれに勝る喜びもございません。

管理人もいわゆる「街の本屋さん」の守り育て人になりたいからです。

こちらからも今後とも読書会イベントなど実際に体験する機会があり次第、

折に触れて適宜情報発信していきますのでどうぞ楽しみにお待ち下さいませ。

「人生とは日々<旅>であり、新発見(気づき)と出会いの連続です!!」

その過程で読書好きの皆様ともリアル世界のどこかでお会いすることが出来れば

いいですね。

このようなワクワク・ドキドキ感を日々抱えながら

当記事を綴らせて頂いております。

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それでは前置きも長くなってきておりますので、

ここからは本書をご紹介させて頂いた趣旨・本題について

触れさせて頂くことにしますね。

まずはすでに冒頭でも語らせて頂きましたように

世の中には毎日のように<新自由主義(自己責任万能世界観とも言っていいの

でしょうか・・・)>批判が溢れ続けています。

この流れにはもちろん歴史的観点からそうならざるを得なかった

一応の<流れ>もあるわけですが、

いつの時代も画一的価値観だけで社会が満たされていくようでは

リスク度が高まるばかりであり、また人間的可能性も阻害されていくことに

なってしまい日々の生活方針も1つの視点・姿勢だけに「囲い込まれて」しまい

人生における面白みも欠けていくことになります。

社会においてその時代ごとに主流となっている価値観(意識)に

違和感を抱く人間であればなおさらのこと「肩身の狭い」鬱屈した気分へと

追い込まれていくことにもなります。

そのような鬱屈感や精神的・物理的ストレスが高まっていくばかりでは

自己にも他者にも世界にも寛容にはなりたくてもなることが

ますます難しくなるわけです。

それがもう私が何を世界に問いかけて言説(言動)として投げかけても

どうにもならず「もう、いいや・・・」となる諦観(シニシズム・ニヒリズム)や

不満の発露(発散)であるいわゆるルサンチマン感情だけが

募りゆく一方となりかねません。

人間は誰しも各人各様「思い(想い)」があるわけで

誰かに語りかけたり、耳を傾けて欲しいと願う生き物であります。

ですから、世の中が画一的言説だけで満たされれば満たされるほど

マイナスエネルギーが蓄積されていく一方となります。

ですから今回ご紹介させて頂く本書のテーマは<新自由主義>に

特化された批評論考文となっていますが、どのような価値意識でさえ

一方通行だけでは人間社会を「円滑」に進化・発展させることも

叶わなくなってしまいます。

だからこそどのような価値意識であれ常に検証・批評の余地があり

自らをも問い直し続けようとする知的謙抑心の要請が課題となるわけですね。

それで今回の左派的視点から批評する<新自由主義>批評論考についても

後ほど要約とともに独自的視点によるコメントをいつもながら

付与することで皆さんとともに考えるきっかけづくりにしていきたいと

考えているわけですが、この<批評>という知的営みも

同じようなコメントだけが積み重なれば世の中がより良き方向へと

動くというほど生やさしいものではありませんから、

世に流布しているような偏りある批評論考だけでは

真に社会にとって実りある議論素材ともなり得ませんし、

圧倒的に物足りなくなるために「盲点」が出てきてしまい、

その「盲点」を逆手にむしろ主流派批評によって

その時代の価値観(意識・風潮)が拡大強化されるといった

補強材料を与えてしまうだけになるという憂えるべき状況へと

誘導されてしまう傾向がままあるというわけですね。

今回のテーマでは<新自由主義思想>による社会的価値観が

その批評の題材とされていくことになるわけですが、

現在の主流派批評論考ではそのほとんどが<経済面>に

驚くほど偏重したもので終始しています。

確かに後ほども触れていくことになる予定でいますが、

「政治的自由」を達成するためにも

まずは私たちの身近な生活を成り立たせている<経済>に

優先して着目していく必要性は間違いなくあるわけで、

「衣食足りて礼節を知る」という諺が示唆してくれていますように

まずはその「衣食足りて(経済的自由)」度をいかに確保するかが

重要論点となります。

とはいえ、今しがた経済的「自由」とあえて語らせて頂きましたが

より厳密に言えば「安定性(相互扶助制度を基盤に据えた<節度ある>自由度の

保証)」という方がより適切なイメージになりましょうか?

「それでは、現状の世の中における経済的価値観(意識)が

このような人々の暮らしを安定的に支える基盤を提供し続けていくうえで

実際のところ真に<理に適っている>のでしょうか?」と

問いを立て直したとすればどうでしょう。

そこに本書の問題意識もあるわけです。

端的に言えば、ここで語られていく<新自由主義>批判の骨子

人間社会生活における「全面的な経済(的価値意識)化」とでも

評価し得る社会政策風潮が人々の「政治意識」をどのように変容させ

その結果どのような問題点が生起していくのかという論点にあります。

とりわけ、近代以後において試行錯誤されながらも

積み重ねられてきた<自由民主主義>の叡智を再確認することで、

現在の新自由主義によってもたらされてきた社会風潮に対する

ある種の<防波堤(抵抗手段・装置)>を再建させていくための

方途となる知的道具立てを準備する点に

本書の意義・目的があるということです。

人間生活にとって「経済」生活は日々身近な課題なわけですから

この「経済」的側面を決して軽視・無視してよいというわけではありませんが、

その経済「全体(至上)」主義だけで人間社会を浸透させていくと

かえって「政治」的には不自由度を強化させていくといった逆説にも

直面することになります。

つまり、経済競争(現在の生存競争とは日々の生活費を稼ぎ続けることが

その保証となり<当たり前>であるといった価値意識がその暗黙の大前提と

なっていることが周知の事実ということです。)にだけ

人々が追い込まれていけば他に人間生活を豊かにしていくだけの

思考的「ゆとり」も無くなってしまいます。

大方の現代人が日々経験されてこられたような

いわゆる「朝起きて、仕事(学校)に出かけて、

残務整理(学生なら部活動などの余剰課外業務)が終われば疲れ切って、

帰宅すればどうでもいいゴミ番組や消費(消耗)型娯楽で

人生の貴重な時間をドブに捨てて、寝るだけ!!」の生活リズムだけで

とある1日はほぼ完結してしまうといった事態へと

自ら望んだわけではないにもかかわらずどうしてもなってしまいがちです。

まるで「現代人は仕事や勉強、それに付け足した申し訳なさそうなレベルでの

消耗型娯楽以外に<余計な=ここでは良い意味で使用>ことはするな!!」とでも

言われているような強迫的生活観念へといとも容易く誘導されていきます。

このような状況では人間にとってより良く望ましい「健康で文化的」な生活など

ついに享受することが叶わなくなってしまいます。

その疲れ切った皆さんの貴重な頭脳と身心に押し寄せるのが

「フェイクニュース」や「ゴシップ記事」の洪水であります。

「心」ある人間であれば誰しも「バカにするな!!」と思うところですが、

現実にはある程度まで「やり過ごして(つまりは、自分の本心をごまかしてという意味)」

日々の貴重な時間が剥奪されてしまっているのが現代という時代の

特徴でもあります。

このような社会的環境条件が長く続けば続くほど

人間は「劣化」していく一方であります。

つまりは、「ゆとり」を剥奪された人間からは

自己統治する気力すら湧き出てこなくなってしまうというわけですね。

このような無気力な状況へと追い込まれる環境にあるにもかかわらず

「自己責任」論を強制されてしまえば、

かえって「無責任(無力)」感だけが強く残り続けるだけとなってしまいます。

そのように「無気力・無感動・無節操」へと落とし込まれた人間ならぬ

「半廃人」を穏やかになだめすかしながら収容統治させることを通じて

人間の<良心>を麻痺させ、擬似安定生活(=本当には安定・安心出来るような

生活環境ではないにもかかわらず、あたかもそうであるかのように錯覚させる

という意味)へと誤誘導させる<統治>技術・技法の問題点や

社会的仕組みを乗り越える視点を提供しようと

終生粘り強く問い続けられたのが

本書での論考を積み重ねていくうえでも

重要な役回りを与えられた人物にフランスの哲学者ミシェル・フーコー氏が

おられました。

著者自身は本書の論旨展開の中でマルクスなどの主要かつ著名な左派系知識人による

問題提起・批評認識を拠り所にこのフーコー氏への違和感や限界点をも

提示して独自論考を提出されていくわけですが

ここに後ほども要約記事内で著者の批判論点に触れる際に語らせて頂く予定ですが

管理人自身とのフーコー氏への(あくまで学び知り得た範囲での知見イメージで

しかありませんが・・・)評価分岐点もあるようです。

著者によればフーコー氏の問題意識を推し進めていけば

フーコー氏にとって違和感を覚える現状社会システムの改変に

つながり得る「流動性」ある社会に期待感や親しみを感じていたと

評価し得ると仮想するならば

同じく社会の「流動性」を促進させる思想的支えとなるだろう

<新自由主義>とも相性があったのではないだろうかと推察されたうえで

フーコー氏によって提起されていくことになる論理的帰結への批評に

なっていますがその評価が真に適切なものなのかどうか?

このあたりもしご存じの読者様がおられますれば

ご教示願えれば幸いであります。

というわけで導入部もまとめに入りますが、

本書ではこの<新自由主義>の一般的かつ主流派のような「経済」観点に

特化・偏重させた文脈からの批判ではなく、

先程も少し触れさせて頂きましたが、

「人間社会における全面的経済化現象」がもたらす帰結によって

<民主主義の融解(崩壊)が招き寄せられることに対する危機意識>を

主題キーワードに据えながら

著者独自のあらたな<新自由主義>批評論考素材が提供されているのが

本書の大まかな<流れ>であり<まとめ>でもあります。

簡約いたしますと、

「人間社会の<全面的経済化>が帰結させる政治(自己統治)への

融解化現象とその危機意識批評論」が本書での核心部に当たります。

管理人自身の本書への今回の主な興味関心点は著者のフーコー批評も加味された

『第1部 新自由主義的理性と政治的生』内所収の

<第2章 フーコーの『生政治の誕生』>及び<第3章 フーコー再訪>

『第2部 新自由主義的理性を散種する』内所収の

<第4章 政治的合理性とガバナンス>及び<第5章 法と法的理性>

ありましたから今回の書評記事でもそこに主要力点を据えて

語り進めていくことにいたします。

そこでの分析考察と著者との問題意識との分岐点なども踏まえながら

共通する問題意識である本書の主題である<民主主義の危機>について

まとめていこうと一応の見取り図を最初に提出しておくことにしましょう。

残りの重要論点は<第6章>論に触れる際に語らせて頂くことになりますが、

教育における<人的資本化>がもたらす人間「道具(機械)化」の

「非人道性」や<人的資本化>によって現代高度知的資本主義経済への

過剰適応(俗に言う<稼ぎ続ける力=経済的成功力>のことです。)を

可能にする経済的条件における深刻な「格差」があることの状況確認、

そのことに連動させた人々にとっての<文化資本>の役割・重要性に

ついても問題提起させて頂こうと考えております。

現在地点からの評価そして著者からもフーコー氏による<新自由主義思想>解析論には限界点(難点)があると言及されるのだが・・・~それは<ほんまでっか!?>(笑)再考論~

それでは本書要約ご紹介へと歩を進ませて頂くことにいたしましょう。

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・<序 デモスの崩壊>

※「歴史の終わり」(フランシス・フクヤマ氏)という言葉が

冷戦終結直後の一時期に世界中で流行語となっていたことがあります。

簡単に言えば、社会(共産)主義がその歴史的役割を終えて

資本主義や自由民主主義に最終的な軍配が上がったのだと・・・。

そのような今から翻って再検証してみれば

驚くほど楽観的な未来への見通しが立てられていた時代もあったのでした。

しかしながら20世紀も終えて今世紀に入っていくにつれて

次第にそれらの体制思想哲学にもかなりの欠陥点が目立つようになり

あらたな思想大混乱の時代であることが判明してきており

従来の上記代替思想哲学の反省点を踏まえたうえでの

その思想的意義(役割)の再評価が生み出されてきているのが

昨今の情勢でもあります。

そうした位置づけで従来の手垢(反対思想家から貼られた政治的レッテル)に

まみれた社会(共産)主義思想の捉え直しがなされてきているのが

現在の思想状況の一端にはあるわけです。

この「新自由主義」思想に内在する論理があまりにも劇薬を含んでいたことも

実際の社会事例から明白にされてきたことから

冷戦終結後から21世紀初頭のいわゆる「00年代」までは

楽観的な様子見だった「保守派」でさえ相当な危機意識を抱えるように

なってきているのが昨今のいわゆる「自称」保守派内における

思想分裂のいち真相(理由)でもあるわけですね。

日本ではいまだにこのイデオロギーとしての「新自由(保守)」主義と

歴史的教訓から汲み取られてきた社会的「知恵(洞察)」としての

保守「思想」との大いなる相違点や分岐点が十二分に理解されておらず

混乱状態に陥っています。

「保守派」がこのような現状であれば対立する代替思想に立脚した

思想家や政治論客も混乱した状態にあるわけです。

つまり、相互に何が本質的な論点なのか一向に掴めず

議論が噛み合わないという由々しき事態にあるのが

現在の論壇や政・官・財の実情であります。

このような思想的混迷の時代にはあらためて私たち一般民衆の間でも

適切に対処・判断していくための何らかの<ものさし=考えるヒント>が

必要不可欠となります。

その1つの<観点>として今回は左派の論客にご登場願ったまでであります。

そうした意図から以後、管理人独自論評を加えながら本書評を進めていく所存です。

ですので管理人の日頃抱いている政治的価値意識から

著者の論旨意図や政治的立場を陥れようなどといった

「悪意」や「他意」はまったくございませんのでその点はご安心下さいませ。

あくまでも柔軟に皆さんとともに

本書を通じて今回問題提起されているテーマについて

考えていきましょうと呼びかけるのが

もともとの当書評ブログコンセプトだからです。

さて、本書では<新自由主義>思想哲学の解析検討を通じて

民主主義が宿していた本質(特にラディカルさ)に着目させた

批評論考が展開されていくことになります。

『デモス(demos)は古代ギリシャ語に由来する語で、

「市民」「人民」あるいは「民衆」を意味する。』(<訳者あとがき>259ページ)

とあるように「民主主義(democracy)」の接頭部に当たる語で

本来は「民衆自身による自己統治体制」を意味するところに

原義があるといいます。

その「デモス」による支配原理が「新自由主義」思想の浸透度合が

強まるにつれて<崩壊>していくのは「なぜなのでしょうか?」、

また「いかなる事態」を意味し、その行き着く果てには

「いかなる帰結が待ち受けているのでしょうか?」と

推測考察することが本書における主要論点となります。

ここで新自由主義」とはどのような思想哲学を意味しているのかは

論者によって多種多様なイメージ像・見解があり錯綜しているために

一律に確定させる作業は困難なわけですが、

おおよそのところ経済面における「市場万能志向」でもって

政治面における国家(公的組織機関)の意義(役割)を

縮小もしくは軽減していく方向での経済主導(至上)型政治的イデオロギー

いうことになりそうです。

何が「新」かという点を「旧」との比較考察から

この場で語り始め出すと煩瑣となりますので

その点は省略させて頂くことにしますが、

「旧」は18世紀~19世紀末にかけて

欧米(特に英米圏、とりわけ英国)においてその帝国主義型地球市場拡大政策を

正当化させていくうえでの政治経済理論として出現してきた産業貿易を

自国に有利に展開させていくために考案されてきた思想の一形態ということに

なります。

それがたまたま現在では「自由」という表現形態で一般にも浸透していますが、

その内実は他国にとっても当時の英国内においても「不自由(今日で言うところの

不公正格差・階級社会)」を背景に成立していたのでした。

その「自由(あからさまに言えば当時の支配層にとって都合のよい民衆統治技法を

隠すための方便)」とは別名「利己主義(個人にとっての悪徳が集団としての

有徳ある行動形態となる!!)」との詭弁でもあったのでした。

そうした表向きの「自由」の内実を厳しく吟味し

より公平かつ公正な政治経済理論として組み立て直す役割を担ったのが

かのアダム・スミスであったりジョン・スチュアート・ミル、

はたまたカール・マルクスだったりしたのです。

それぞれの論者による当時の「自由」主義思想に対する見立てと

その問題点を解決・克服していかんとする姿勢・視点は異なっていましたが、

概ね社会的「公益」(社会全体において整合性ある方向に

個人利益の相互調整を目指していくことで獲得されてくる「集団的相互益」)を

どのように実現させていくかを狙った問題意識が彼らには共通していたのでした。

その時代と比較したうえで現在の「自由」主義思想哲学を再検証してみると

もはやこうした社会的「公益」意識が著しく低下してきており、

そのために社会に集う個人相互間における対他的謙抑意識も薄れていくことで

それぞれの「自己統治(制御)」意識が形骸化されていくといった

事態が招かれるようになってきた・・・。

そのような風潮が現在の「民主主義(民衆自身による自己統治責任感に

基づく政治的意識)」を崩壊させる最大要因となってきたのだ・・・という

着眼点を持つことを通じて、

著者は「民主主義の新自由主義への全面的従属化(絶えざる攻撃性)」だと

警鐘を鳴らされているのが本書で一貫して強調される問題提起となります。

それは「社会全域に及ぶ経済侵略現象」とも言い換えることが出来ましょう。

それでは、「今日のような新自由主義思想による社会全域にまで及びゆく

<経済>の優越化が進展していけば私たち一般生活者にとって

いかなる損害が生じてくるのでしょうか?」

その問いを<第1部>でのフーコー思想哲学理論がもたらした

いわば<権力による見えざる統治技法の解析・可視化>という洞察知見を

手がかりに据えながらも現在から省みてなお予見されず、克服され得ていない

問題点に焦点を当てつつ著者独自の観点から

あらためて「新自由主義」批評がなされていくことになります。

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・<第1部 新自由主義的理性と政治的生>

①「第1章 民主主義の崩壊~新自由主義が国家と主体をつくりなおす~」

※本章では、本来ならば<経済化=金銭的価値評価>に馴染まないはずの

非経済的社会領域に至るまで全面的に及ぼさんと欲する潜勢力を有する

いわゆる「新自由主義」思想に内在する論理が主に西洋諸国において

近代以後において一定の合意確認(<確立>ではないことにご留意願います。

なぜならば、本書において著者は<(自由)民主主義>の本質を論じ進められていくうえで

<(自由)民主主義>をすでに静的に定まったものとしてではなく、

常に継続的に「守り育てて行かなくてはならない」との動態的意識イメージのもとで

その重要性を強調されているからです。

ですから本書における「新自由主義」批評では大方の論者とは異なり

「(自由)民主主義」擁護の側面からの批評アプローチに

主たる問題意識があることを常にご留意されながら読解に努められることを

お願い致します。)がなされてきたという

「(自由)民主主義」思想が提供し、そこに胚胎してきた政治理念を

激しく破壊・破滅・侵食へと追いやってきたのだといいます。

本章ではあらためて「民主主義」の原義やその本質について

古代ギリシャ以来の伝統に立ちかえりながら

その統治観に宿る「魂(特にラディカルさ)」に着眼することを通じて

現在の世界各地域に深く浸透していこうとする「新自由主義」イデオロギーに

対抗し得る「力」を「再発見(確認)」し、回復させる道筋を描こうとされています。

ここで著者自身の民主主義「観」を下記に引用させて頂きながら

確認しておくことにいたしましょう。

まずは再度<序 デモスの崩壊>部分から・・・。

『民主主義はけっして唯一の健全な政治的価値ではなく、暗黒の軌跡に

陥らないための保険ですらない。しかしそれでも、グローバル・ガバナンス、

専門家による支配、人権、アナーキズム、共産主義の非民主主義的バージョンなど

といった問題に集中している左翼的計画の内部で一般に認知されている以上に、

民主主義は居住可能な未来にとって欠くべからざるものかもしれないのである。』

(本書3~4頁)

また本章においては、民主主義のラディカルさに関して

肯定評価すべき観点として

『民主主義の開かれていて論争可能な意味を受け入れることは、

本書にとっては本質的である。なぜなら、わたしは民主主義を

いかなる特定の形態による包摂からも解放したいからであり、

それとともに、人民が誰であれ、人民による政治的自治を

意味するという点で、民主主義の価値を主張しているのである。』

(本書13頁)

一方で、著者自身による新自由主義「観」につきましては、

『新自由主義を一連の国家政策、資本主義の一段階、あるいは

資本家階級の利益を回復するために市場に放たれたイデオロギーなどと

理解するのとは対照的に、わたしはミシェル・フーコーらとともに、

新自由主義を規範的理性の命令であると考える。

その命令が優勢になるとき、それは経済的価値、実践、方法に

特有の定式を人間の生のすべての次元に拡大する、統治合理性のかたちをとる。』

(本書26頁)ものとしてイメージ解釈されておられます。

以上このそれぞれの民主主義「観」と新自由主義「観」を大前提として

次章からは新自由主義の現代民主主義に与えている影響や

その結果がもたらす人々への実際上の悪影響(負の側面)について

より掘り下げた検討がなされていくことになります。

まとめますと、現代社会においては

新自由主義という名の<妖怪>が徘徊しており、

その<妖怪>が人々の意識(主体性)や国家「理性」のあり方などを

抜本的に塗り替えていったということですね。

しかもそれは従来のような「目に見える」ような形態で

人々の前に明るみに出されることもなく、

それと気づかれないうちに知らず知らずに

民衆統治に都合のよい支配勢力によって

新自由主義思想に内在する論理を悪用(乱用)することを通じて

誘導支配していかんと欲する社会<統治>システムが採用されることになります。

そうした「目の見えない」民衆統治へと至る支配過程を

解析する道具立てとして著者はフーコー氏に着目され、

その「規範(命令)」の側面に比重を置いて

これまでに流布されてきた一般的な新自由主義批判論者の盲点についても

鋭く批評していくことになります。

この新自由主義における「規範(命令)」という側面に着眼することで

著者は本章タイトルにもありますような

<(国家と主体を)つくりなおす>ことによる人々への影響がもたらす

各種問題点について注意喚起を促す論考となっているところに

本書の「特徴」があります。

この点が従来の新自由主義批判関連類似書との大きな相違点であり

本書の最大の「売り」の部分であります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

②「第2章 フーコーの『生政治の誕生』~新自由主義の政治的合理性の見取り図~」

③「第3章 フーコー再訪~ホモ・ポリティクスとホモ・エコノミクス」

第2章および第3章では

第1章で著者によって打ち立てられた新自由主義思想の定義・イメージを大前提に

本書論考批評における伴走者となるフーコー氏が問いかけられた

とある講義録の解読をしながら

新自由主義思想とその思想が現代社会システム(統治権力)へと

与え続けている内在論理について分析考察されていきます。

そのとある講義録とは、

1978年から1979年にかけてコレージュ・ド・フランスというところで

なされた「新自由主義的理性」に関する一連の講義内容記録集であり

後の<生-政治>という専門的造語でフーコーの名を世に知らしめた

『生政治の誕生』という書物の母胎となる彼特有の着想や構想論考が

示されているといいます。

フーコー自身の思想は一本の道筋はあるものの

常にその時々の問題意識によって思考の軌跡が揺れ動いており

他の関連著作を含めて、その短い人生のために

<未完成>となった作品も多く残されたがために

その全貌はなかなか捉えがたく、その思想解釈についても

フーコー研究者の中でさえかなりの幅があるために

容易には読み取ることが叶いません。

そのことは著者も認めておられる(<コンテクスト>本書52~60頁ご参照)

ところですが、管理人のこれまで読んだフーコー氏に関する人物評伝書や

思想研究・論考書から理解し得た範囲では

この世界での違和感を感受し続けていたいわゆる「異端者」感情を

終生強く有しておられたようで、そうした性格のために

そうした感情を納得させ、生存していた時点における社会システムが

一体全体どのような仕組みであり、成り立ちで出来ているのかに関する

関心度が人一倍強かったということが

彼自身の学問的方向性を形成していったのだとしか

ここではお伝えすることが叶いません。

こうした問題意識や知的感覚そのものは

およそ人生に真剣に向き合い、世界との折り合いのつけかたについて

うまく適合させることが難しい性格を共有する者であれば

誰しも共感し得るところでしょう。

そのような共感覚を管理人自身も有してきたことから

フーコー氏には興味をそそられるわけですね。

ちなみに管理人にとってフーコー氏にまつわるスキャンダルだとか

ゴシップ論などにはまったく興味がありません。

「他人のことをとやかく言うべきものではなく、

汝自身を知ることにこそ徹せよ!!」を人生モットーに掲げながら

生きていきたいと念願しているからですね。

つまり、他人に関する評価などにかかずらうほど

管理人も「暇人」ではないからです。

「それこそ人生の無駄な時間なのですから・・・」

それでは著者がフーコー氏によって示された新自由主義思想解釈において

違和感を感受された問題点にはいかなるものが含まれていたのでしょうか?

まずはフーコー氏によって示された新自由主義思想の要点について。

その要点につきましては<フーコーの新自由主義>(本書60~73頁)

まとめられています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ⅰ 非自然としての競争。

ⅱ 国家と社会政策の経済化。

ⅲ 競争が交換にとってかわり、不平等が平等にとってかわる。

ⅳ 人的資本が労働にとってかわる。

ⅴ 企業家精神が生産にとってかわる。

ⅵ 法の経済化と戦術化。

ⅶ 真理としての市場。

ⅷ 国家の責任化。

ⅸ 政治的合意が個人化と政治論争にとってかわる。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

のおよそ9項目にわけた解析結果が示されています。

そしてフーコー氏在世中にすでに上記講義録など一連の著作によって

現在の新自由主義思想に依拠したような社会システム化論が

一定程度まで予言されていたために当時としては画期的な「発見」だと

評価はしつつも、現時点から振り返っての評価としては

多々問題点(課題)も残されていたのだといいます。

それが<フーコーによる新自由主義の枠組みの問題点>

(本書77~84頁)で示されています。

結局のところ本書におけるフーコーの新自由主義思想解釈・評価に対する

著者自身の不満足点とは、

フーコー自身がマルクス「主義」を拒否されていたということと

著者自身の思想的・政治的立場からするマルクス「主義」に

親和的な問題意識から

『マルクス主義を拒否することは、とくに新自由主義にともなう

独特の支配を評価する際には、損失になる。』(本書79頁)に尽きます。

とはいえ、著者のフーコー思想に対する関心度合がどのあたりに設定されているかを

厳密に公平な観点から評釈いたしますと、

『ここでのわたしの論点は、マルクスをもちいてフーコーを正そうというのではなく、

マルクスの資本分析のある次元をもちだして、フーコーの新自由主義的理性の評価と

融合させて新自由主義の脱民主化にかんする豊かな説明を生み出すことである。』

(本書82頁)ということに主眼があるということになります。

第3章ではフーコー氏が思い描かれていた

「ホモ・エコノミクス(<経済的側面を宿した生き物としてのヒト=

経済人としてのヒト族>)」観にも決定的な物足りなさが感じられるとの

批評論考<フーコーのホモ・エコノミクス>(本書87~96頁)

展開されています。

管理人自身におきましては、

現時点でフーコー氏の全貌を掴み切れていませんし(そのような時間も

ありませんから)、その思想評価を安直に下すことも出来ませんから

著者によるフーコー氏への批評がどこまで説得的なのか否かが

正直いまいち掴めません。

それでもある程度まで理解し得た範囲では

フーコー氏がそれぞれの時代を取り巻く思想的枠組み(エピステーメー)の成り立ちや

変遷の流れを系譜的に位置づけ直すことで私たちが普段知らず知らずのうちに

「当たり前(常識)」だと思い込んでいる知の盲点に気づかせ、

そこから視点(認識的枠組み)をずらす技法や知恵などを示唆されたことを通じて

より人類にとって「自覚的に」生きる決意や覚悟だとか

その生への価値意識を絶えず問い直し続ける積極姿勢を持つことで

ただ単なる「住み心地のよい」至れり尽くせりになったような

現代社会システムの「体制内」で満足するような人生を過ごすだけでは

人間の「尊厳」や「魂」といったかけがえのない<宝>を剥奪されるだけよ・・・と

注意を促すためにこそ、

例えば「福祉国家」などを批判しただけであり、

確かに著者がフーコー氏の新自由主義「観」に問題性を感受されたにしても

あくまでもそれは「新自由主義」でさえ

新たな知の枠組み形成に資する1つの<過渡的評価規範>にしかすぎず、

後の世でまた「新自由主義」に十分代替し得るような「枠組み」が

出現してくれば<否定>されるということもあり得る(た)わけで

フーコー氏もそのあたりまで期待されていたのだと思います。

というわけで管理人自身は著者がご指摘されるほど

フーコー氏自身何も「新自由主義」という知的枠組みに対して

無防備かつ甘すぎたという評価はあまり有益かつ公平な論評だとは

思われないわけなのです。

要するに、フーコー氏にとっては「自由」への手がかりとなる

思考道具をこそ欲されたわけであり、

「新自由主義」を含めていわゆる○○主義だとかいったイデオロギーに

とらわれずに自身の人生を「生き生き」と充実したものへと進めることが

叶うならば、特に「民主主義」に対する意識度や感受性が弱くても

ここまで手厳しくとがめ立てする必要があったのか

その点に著者と管理人との評価分岐点があるようです。

とはいえ、もしかしたら著者の言及されてこられたような

強大な社会システムに対して単なる<個人的倫理>でのみ抵抗していくなど

「蟷螂の斧」だとしてフーコー氏の見通しは甘すぎるのでは・・・という

見解の方が現状の厳しさからすればより適切な評価になり得ているのかもしれません。

なぜならば、<個人的倫理観>でそうした強固かつ巨大な社会システムに

立ち向かうといっても、その倫理観こそがその「社会システム」に

内在させられた「知的枠組み」に支配されているのだから・・・。

意識的にせよ無意識的にせよ、

そんな簡単に個人主義で立ち向かえるわけではないと・・・。

「では、どのような処方箋があると言うのでしょうか?」

左派に立つ著者ならばそれこそ「社会的連帯」の重要性を説かれるのでしょう。

その「社会的連帯」を支える内在的論理として

古代ギリシャ以来の<ホモ・ポリティクス(政治的自治意識を持ったヒト)>の

自覚を呼び覚まそうじゃないか・・・ということのようです。

いずれにしましても、

私たち現代人が忘れてはならない点は、

「自由」にせよ「民主主義」にせよ「平和」にせよ何にせよ、

何もせずに突如として「天から降ってくる」ものではないということだけは

確かなようです。

その意味で著者もたびたび民主主義は絶えずこちらから「創り上げていく」という

自治意識が是非とも必要不可欠なのだと強調されてきたわけです。

今回の本書における最大重要点もこの「精神」の確認だということに

尽きるようです。

そこに著者の最大眼目があったのだということですね。

まとめますと、フーコーによる新自由主義解釈がもたらす

人間の「主体」的あり方に関する<ホモ・ポリティクス>としての

政治的精神の側面があたかも軽視されているかのような、

言い換えれば、そこにあまり関心度がなかったと感受された点に

現状の新自由主義がもたらす社会システムの改変による

人間精神の希薄化・剥奪化に対する危機意識(感受性)の薄さに

一抹の不安を覚えられたり、

現状の社会システム改善へと向けられたフーコー思想の脆弱さについて

警鐘を鳴らされているのが著者による主張の骨子だということです。

つまり、古代以来論じられてきた<政治領域と経済領域の分離>の意義や

重要性に関する哲学的問題設定にフーコー自身はかなり無頓着な点が

あったのではないかと危惧されたということです。

しかしながら、近代以後においては政治と経済を純粋に分離して論ずることが

はなはだ困難になってきていることも歴史的事実であり、

だからこそあらたに「政治経済学」という名の学問が創設されたり、

大学アカデミズムなどでも同学部が増設されていったわけです。

こうした歴史的経緯において現在でも政治と経済を一応「分離」して

分析考察していく必要性があるとすれば、

結局のところ近現代「資本」主義経済システムに内在する

「論理的<精神(意識)>」が

国家や社会、家計、個人単位におけるそれぞれの「守備領域」にまで

全面的に浸透し、それぞれの役割や意義を換骨奪胎していったり、

すべてを「経済的価値観(貨幣的評価)」でもって換算させられていくような

生活へと人間意識が誘導されていったところにこそ

「逃げ場」を失った人間自身の<人間性の回復>をいかになし得るか、

またなすべきか(<倫理の復権>)が

きわめて重要な緊急課題となってきているからだということでもあります。

それは「第6章」における人的「資本」という考えが

人間精神にもたらす悪影響に関して論考されている問題意識とも絡みますが、

カント倫理学が提起したような人間を含むおよそこの世に存在する

森羅万象に対する「道具化(最近の表現では<モノ・コト化>と言い換えても

いいかもしれませんが・・・)」の帰結する人間精神の「荒廃」が

人間そのものをも自滅させかねない危険性を常に付着させていることに

対して無自覚な点に再び注意喚起を促すという意味があります。

ここにこそ<倫理の復権>について絶えず論じ続け、

実践行動を啓発し続けなければならない意義も含まれているからです。

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・<第2部 新自由主義的理性を散種する>

④「第4章 政治的合理性とガバナンス」

⑤「第5章 法と法的理性」

第4章では「新自由主義」に親和的で緩やかだと思わせるそぶりで

人々の前に忍び寄ってくる

それとは気づかせない実はかなり過酷な「良くできた統治技法」こそが

<ガバナンス>という技法なのではないかと示唆されています。

ある種の「自発的」に人々が動いているように思い込まされ、

その実、支配する側から見れば誠に都合の良いような

強制的統治論理(<ブラック企業×自己啓発のススメ>みたいな論理が

実際に人々に過酷な労働を強いてきた事実などを

少し皆さんにも想像して頂くとこのことが意味するイメージも

掴めやすくなるでしょう。)のようなものが

この<ガバナンス>という言葉のニュアンスにはあるようです。

著者自身による<ガバナンス>定義や批評については

本書解説に委ねさせて頂くことにしますが、

<ガバナンス>という表現は邦訳すれば「統治」ということになりますが、

『従来から政治学で論じられ暗黙の了解事項とされてきた

いわゆる<統治>像とは一体全体どこがどのように違うのだろうか?』という点に

第4章における著者の問題意識があります。

それは、

『「ガバナンス」は、行為体をなくし、プロセス、規範、実践において

制度化された統治の特定の様式を意味する。』(本書139頁)

このことが示唆する論点はどうやら広範囲に及び、

私たち自身にも多大な影響力があるらしい・・・。

つまり、管理人が第4章を読み進めながら想像し得る範囲では

狭義の政治的意思決定に限らず、

より広範囲に渡る私たちの日々の生活面における

ごくごく些細な意思決定場面に及ぶまで

その意思決定「過程」上、

「本当に自覚的に納得したうえで<同意>された」ものなのか否かが

きわめて「不透明」な事態へと直面させられるということ、

そしてそのことは同時に「責任範囲が不明確になること」をも意味し、

にもかかわらず、「責任を取らされる場面もあり得る」という

深刻な人間と社会への相互不信をももたらしかねない点にこそ

最大の問題点があるだろうということです。

そのことがもたらす直接的帰結点からは

近代以後の刑法制度が確立してきた「罪刑法定主義」と

その精神が体現してきた「明確性の原則」をも

揺るがせかねない危惧感も含まれているとも言えましょう。

このことを政治面における「民主主義」の側面から捉え直しますと、

「誰が誰を支配しているのかわからない!!」ということであり、

「何か深刻な政治的被害(ここでは<匿名>支配権力者による人権侵害などが

起こったと仮定しておきましょう。)に遭遇したとしても

どこの<責任>をもった処理機関に救済を申し立てればよいのかさえ不明!!」という

事態へと追い込まれかねないという意味でもあります。

次の第5章では、法的問題意識が主題となっていく論考であり、

管理人自身も多大な興味関心がそそられる論点ではありますが、

ここでは簡潔に示しておきますと、新自由主義による理念に基づく

法と法的理性への働きかけ(つくりかえ)によって

<法的>人間像もまたあらたに

それに相応しく親和的なものへと「つくりかえられる」という点に

力点が置かれた論考となっているとだけ要約しておきましょう。

その論旨を引用しておきますと、

『法と法的推論は、たんに経済的なものに形式を与えるだけでなく、

あらたな領域と実践を経済化する。このようにして法は、

新自由主義的合理性を、経済を超えて、民主主義的生の構成要素さえへも

散種する媒体となる。たんに資本の権利を保証し競争を構造化するばかりか、

新自由主義の法的理性は政治的権利、市民性、そして民主主義の

現場そのものを、経済の言語使用域のなかでつくりなおす。

そうすることによって、それはデモスという理念そのものを崩壊させる。

法的理性はこのように、民主主義的な政治的生とイマジナリーを

解体する手段として、ガバナンスの実践を補完する。』(本書172頁)

このように第5章には様々な興味深く面白い論点があるのですが、

このテーマに関しましてはまた別途関連書書評もいずれ予定しておりますので、

今回は保留させて頂き乞うご期待のほど宜しくお願い申し上げます。

とはいえ是非ともご一読して頂きたい論考箇所がありますので

その論点だけざっとここにご紹介しておきますね。

それは、

・<言論は資本に似ている>(本書178~185頁)

・<市場は増殖する>(本書185~187頁)

・<企業のために徹底的に吟味する>(本書187~190頁)などで示された

「言論すら<知的財産(権)>として極度に売買対象とされていけば

どのような事態が招き寄せられるのか一度皆さんにもご想像・ご検討してみられては

いかがでしょうか?」という重要論点であります。

<金(資本力)によるあらたな言論統制>にまで発展しかねないことは

(このまま新自由主義的社会システム制御支配が継続されていけば)

今後とも十二分にあり得ることですので警戒感を抱かざるをえないところです。

実際に政治的駆け引きの場面でも<知的財産(権)>を巡る

深刻な論争対立は生起してきております。

また少し本書からは離れますが、

現在進行中の消費増税「軽減税率」問題における

隠れた取引材料として政府(公的権力機関)が認定指定した

有害図書などに関する言論・出版・表現規制なども

あまりマスコミなどでは大きく取り上げられる機会もありませんが、

激しい攻防戦が展開されてきたということも

是非知っておいて頂きたい問題であります。

「有害図書(典型的には猥褻図書など)」だから「規制もやむなし!!」と

軽く見ていますと、「次はこの図書だ・・・」と必ず

その認定指定範囲が拡大されていくことは間違いありません。

このあたりも話題は外れますが、外国人「単純」労働者受け入れ拡大問題とも

兼ね合わせた有意義な論点整理や議論喚起が要請されるところです。

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⑥「第6章 人的資本を教育する」

本章では、民主主義の理念が新自由主義によって剥奪、

形骸化されていくことからの予防手段として

教育機関やカリキュラム内容の多様性、

何人も公平・平等に教育を受けられる機会保証が

経済面でも十二分に確保されていなければならない必然的重要性について

人間の知的能力を単純に労働力(=労働商品)と割り切って

消費・処理・消耗せんとする<人的資本>概念化に対して

何らかの歯止めを設けなければならない理由や方途について

語られていきます。

そもそも教育の本旨とは「よりよく生きる」ための知恵や知識を

獲得するところに究極目的があると古代以来論じられてきたことには

きちんとした理由があったわけです。

「自己統治=本来の自己責任」観を教育(特に<対話>や<討論>などを

通じた相互教育)によって養成していくことは

自己の<人間的尊厳>を護るうえでも大変重要な意義があったからです。

古代ギリシャ時代を含め大昔においては

教育を受ける機会が保証された人間など

社会の中でもごくごくわずかの少数精鋭エリート(自由人)にしか

許されていなかったわけです。

その「自由人」とはまさしく「奴隷」所有能力(または奴隷制度の存続)が

あることを大前提として許される階級身分だったのです。

なぜならば、人生における人間「精神」を豊かに育て上げるためには

(現在もそうですが)それだけ経済的ゆとりがなくては叶わなかったからですね。

それがやがて時代が現在に近づくにつれて一般にも対象範囲が拡張されていって

公立学校での義務教育段階では「無償化」の恩恵も享受することが

叶うようになったわけです。

この「大衆」教育化がどれほど貴重なものであったのか想像して頂きたいのです。

なぜなら、自らの教育次第で身分や経済力などによってそれまで阻まれていた

社会的差別扱いを乗り越える機会が獲得されるようになったからです。

少なくともその可能性が出てきたからですね。

この一般「大衆」教育黎明期においては、

教育の貴重さや重要性について気づいていた少数者にしか

その真の意義や威力は知り得なかったでしょうが、

次第にその経済(労働)社会における教育効果が

はっきりと目立つようになってきてからは

次第に下層部へも向かってそのような教育観も拡大浸透していき、

経済生活面でもその恩恵を受けることが可能になっていったのですから・・・。

とはいえ、時代が現在に近づくにつれて

次第に経済(労働)社会が要求する水準が高まるにつれて

特に「利潤」面においては皮肉なことに

経済学で言うところの「収穫逓減化現象」も散見されるようになってきたのでした。

そして現代の高度「知的」資本主義経済社会においては

もはや社会人になってからの

より安定した生活保障を享受しようとすれば

ますます日々の労働現場において必要とされる知的技能も高度化されていくわけで、

それに伴い必然的に「誰でも出来る(出来そうな=代替可能な)」仕事は

「単純」労働だと評価され、またいわゆる「きつい・きたない・きけん」の

「3K」労働に従事する人間には蔑む視線でもって扱われてしまう事態へと

なってきました。

今でこそ露骨な「ホワイトカラー(事務作業中心系労働者)」に

対する「ブルーカラー(肉体作業中心系労働者)」などといった

差別的「階級」意識や感情は死語もしくは禁句となりつつありますが、

まだまだ色濃く残っております。

逆に言えば、最近話題となった

ホワイトカラーエグゼンプション(高度専門熟練技能労働者における

残業時間規制撤廃(残業代未払い容認)法案)」によって

「ホワイトカラー」と「ブルーカラー」における

圧倒的な職業的身分差別が撤廃される端緒が付与されたということで

「めでたし、めでたし・・・」ということになりそうですが、

ことはそう簡単な問題ではないのです。

今日では労働者「全般」にまで実質的な「単純」労働者化への

道が切り開かれてしまったとも捉えられるからです。

そうなるともはや「熟練」も「非熟練」も関係なしとなり、

誰が真面目に勤労・勤勉に励むか!!という人間における

<働くヒト>としての意義や意識、尊厳が剥奪されていく一方で

協働社会で成り立ってきた人類の生活保障基盤すら喪失してしまいかねない

そんな不測の事態にまで進展してきているのです。

近代以来の「資本」主義経済にはもちろん多々問題点や今だ克服されざる難問も

含まれていますが、一応の暗黙の了解事項として

「真面目に頑張った者はその能力や貢献度において適正報酬にて

報われる」という原則がありました。

ところが新自由主義やそのような思想に親和的な経済観に依拠する

労働観からはその原則も通用しなくなるというわけです。

人間の労働力(労働商品化)という発想自体は

すでに近代黎明期、また大昔から存在していましたが、

ほとんど「モノ(物品)」同様に切り売りされるような

労働観にまで「著しく劣化」してきたことは

ここ数年のきわめて短期間での現象であり

歴史的にも意外にまだ年数が浅かったわけです。

そして「資本」主義経済社会における労働者は

常に明日への拡大再生産のために教育を受ける必要性があるわけですが、

ここにすでに不公平が存在しています。

つまり、幼少時からの家庭における経済的教育環境の差異

文化資本度合)によってすでに将来への選別排除過程が始まっているからです。

『「無償」の公立教育機関がまだあるじゃないか・・・』と

認識されている方には、現状程度の知的義務教育レベルでは

現代の高度知的情報資本主義経済社会において

将来も継続的に安定した生計を立てていくには

とうてい不十分であるという点を厳しく再認識して頂くほかありません。

その証拠に現状の平均的な公立学校教育レベルで(しかも学校の授業だけで)

塾や家庭向け進学・受験用教材もまったく使用せずに

学校が提供する教材のみで独力対処可能かを

体感・想像してみるだけで十分でありましょう。

そんなことはよほどの「天才(それもあくまでも受験頭脳に適応出来るような

特殊型人間)」でしかあり得ないことでしょう。

しかも今の「公立」学校の環境状況では

貧困家庭向けに十二分な「補講」などして頂ける

時間的ゆとりすら残されていません。

つまり、現状では教師も生徒も真面目に誠実に対処すればするほど

「共倒れ状態」になってしまうのです。

さらにひどいことには「金持ち」家庭の子弟や親御様ほど

教育に関する自助努力観に乏しくなってきているように見受けられます。

つまり、古代ギリシャ・ローマ時代のような

「奴隷」身分であった家庭教師任せ、

知識の<外注化>によって一般労働者からの余剰利潤「搾取」を

正当化するような教育観が今や静かに浸透しつつあります。

つまり、著者も本書にて警鐘を鳴らされておられたように

いくら<人的資本>として自分を鍛え上げて

一般労働市場へ出て行っても報われる機会が

ますます剥奪されていっているということです。

実際に真面目な勤労者ほど「うつ」を含めた精神的・肉体的病魔に冒されたり、

過労死へと追いやられる深刻な事態へと立ち至っています。

それは、一般に新自由主義に依拠する経済(労働)観に親和的な

経済学者が<人的資本>にイメージする

「教育投資した分、その投下資本回収を将来労働によって図る」という

企図すら危うくなってきているということであります。

「投下資本回収すら危ぶまれる経済(労働)環境下において

誰が好きこのんで自らを<人的資本>化しようなどと考えるでしょうか?」

通常の誇りを持った人間であれば「断固拒否!!」したくなるのは

理の当然でありましょう。

このようにして、<資本力>の多寡によって

人々のあいだで分断化(格差)がより顕著になってくれば、

誰も自分の生活防衛だけに専念させられ、

社会一般(つまりは隣近所や他人の現状などに及ぶまで)の

共有事項について「無関心・無気力」になってしまいます。

それはもはや「善いとか悪い」とかいう次元の話ではないのです。

こうして各人が社会の中で孤立化させられ、分断させられていくと

世の中には殺伐とした雰囲気が蔓延していくことになります。

これが真の意味における新自由主義による「脱」民主化の

恐怖であります。

厳しい社会の中で生き抜いていくための「免疫力(抵抗力)」も

剥奪されてしまうからですね。

そのような「抵抗力」がなくなれば、

<資本力>を持った支配権力層は圧倒的優位さをもって

都合の良い支配を継続的に一般「大衆」に向けて行うことが可能となります。

こうして見てくると、

通常人にとっては自らを<人的資本(労働商品)>化していくことよりも

幼少期からの受け取ることが可能な<文化資本>の差異こそ

より優先度が高くなるということもご了解頂けるものと思います。

この差異をいかに縮小(解消していくことは難しくとも。というのは

<文化>に対する価値観や意識度合は人によって多種多様であり

バラバラだからですね。)していくかが

今後の新自由主義化(社会における個人生活の内面にまで経済的価値意識化が

深く浸透して刷り込まれていく事態のこと)にどう対応すべきかが

喫緊の政治課題として優先度が高まってきていることも

ご了解頂けるものと確信しております。

⑦「終章 剥き出しの民主主義が失われ、自由が犠牲へと反転する」

最終章では、「民主主義」を生み出すことは決して容易なことではなく、

常に「つくる(守り育てる)」という感覚を

持ち続けていなくてはならないことが再確認されていきます。

「自由」もまた同様であります。

ここでは最後にここ最近になってようやく世間にも浸透しつつある

『新自由主義の緊縮財政時代の「犠牲の共有」言説』(本書246頁)についても

言及されています。

そして結論においては、今後の「左翼」の<高度>新自由主義化時代へ向けた

役割意識がアピールされて本書の幕は閉じられていくことになります。

このように今回ご紹介させて頂きました論者は

「左派」に属すると自称もされている論客による論考批評でしたが、

ここで管理人があらためて現在の日本政治状況において

強調確認させて頂きたい点は、

こと日本においてほど「左派」、「右派」(ちなみにここでの

「左派」、「右派」とは政治的立場から見たものです。)を問わずに

経済面においては「緊縮派(右派志向)」で共通認識されており

この勢力が圧倒的大多数だという憂慮すべき事実であります。

そのために新自由主義によってさらに過酷な経済環境へと

導かれていったデフレ不況(「失われた○○年」とも重なる)の深刻さを

真に体験でもってご理解頂ける方々が

まだまだこの日本社会には圧倒的に少ないという

現状にあります。

その真っ只中に社会に出ざるを得なかった

いわゆる<ロスジェネ世代>ですら

このような認識のままでおられる方が大半だとお見受けします。

だからこそ、「増税やむなし!!」だとか

「(人手不足なんだから)移民受け入れもやむなし!!」・・・

その他何でもよろしいですが、

世の中の動向がこうなっているんだから「仕方がない!!」だとか

「そうせざるを得ないだろう・・・」といった

諦めきった消極的言説が横行し、

暴力的言動も世に満ち溢れてきたわけです。

「なぜこのような事態に私たちは立ち至ったのでしょうか?」

その原因を真摯に振り返りながら

ひとつずつ見つけ出す知的作業をしていかなくては

今後ともこのまま生活不安による殺伐とした人間環境や

社会環境が取り残されていくだけであります。

今回あらためて本書を皆さんとともに読み解きながら

管理人からあらためてご提案をさせて頂きますと、

「結局、人間が不安を克服していくにはその原因について

怖くても真正面から見据えていくほかない」ということに尽きます。

そのためには時に自身の「内面」感情や置かれた環境状況を

人前にさらしながら、ともに共有化を図り、

解決の糸口を見つけ出す助け船を出し合うことも必要です。

そのような「草の根ネットワーク」づくりこそが、

人間を「モノ」扱いする時代精神に抵抗していける

拠り所となります。

本書でも語られていましたが、

労働者の<人的資本化>は個人主義観をより強めていくために

お互いが競争意識に駆られたライバル(まさに敵対関係ですね)同士という

ことにさせられ、相互協力していこうとする人間的感情が

ますます薄れていくことになります。

(本書<訳者あとがき>263頁ご参照のこと。)

そのような人間の「廃人(終焉)化」傾向を少しでも抑制させ、

人間らしく生き返るためにも

こうした状況認識やそれを乗り越えていくための知的財産を

皆さんとともに共有していかなくてはなりません。

その知的バトンリレーによって「分断化」に追いやられた状況にあった

漠然とした不安感で対立していた者同士においても

少しずつ相互の誤解が解け出したりするきっかけも得られることになります。

そうなってくれば今まで悩み苦しんでいたことも

ウソのようにきれいさっぱりとした正常な精神状況へと

少しずつ回復されていくことになります。

それほど悩みを解決するうえでも

「言葉」が持つ力は大きいのですね。

とはいえ、人間さんの悲しい性は、

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という教訓であります。

「ではそのような人間さんに特有の弱さに少しでも打ち勝つには

どうすればよいでしょうか?」

それは、「記録」に残していくことです。

あるいは嫌なことはいったんちり紙などに書き出して

捨ててしまうことです。

「書くことは話すこと以上に予想外の<浄化>効果もあるのですよ・・・」

あるいはアーティストであれば

その心理的内面を描写(絵画)化したり、

音楽化するのも優れた治癒効果があるといいます。

管理人はいつもそのように優れたアーティストの皆さんに

教えて頂いてきました。

こうした芸能(術)との接し方も

経済力や知的体力に自信がなくとも叶う

<文化資本>の独自的養成力になりますから

是非皆さんにもお勧めさせて頂きます。

<文化資本>に親しむには

「知力」よりもむしろ「人間的感受性」にあります。

最後はまさしく「愛」による支え合いしかありませんねということです。

難しいことですが、お互いに「情愛」感覚を養い育てていきたいものです。

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・<訳者あとがき>

・<原注>

・<索引>

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ということで、今回もまた硬派な書籍ご紹介となりましたが、

内容はそのタイトルどおりでありますから、

その趣旨に寄り添いながら、

読者の皆様各人各様でご興味ご関心がおありのところから読み進められたり、

絞って読み込まれるだけでも現在の世界で生起してきている事態を

認識されるうえで十二分にその効用が得られるかと思います。

是非ご一読されることをお薦めいたします。

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<ご参考文献>

①『表現者~「危機」と対峙する保守思想雑誌 クライテリオン 11月号

<特集>ネオリベ国家ニッポン~「新自由主義」という悪魔の挽き臼~』

②『増刊号 別冊クライテリオン<消費増税を凍結せよ>』

③『保守とは何だろうか』

(中野剛志著、NHK出版新書、2013年第1刷)

④『そろそろ左派は<経済>を語ろう~レフト3.0の政治経済学~』

(ブレイディみかこ×松尾匡×北田暁大共著、亜紀書房、2018年)

⑤『チャヴ~弱者を敵視する社会~』

(オーウェン・ジョーンズ著、依田卓巳訳、海と月社、2017年)

※特に③につき本書における<左派>系論者と

<保守派(良心的穏健中道右派))における

民主主義観の違いがわかる論考がありますので

本書との比較ということでご参考文献として掲げておきますね。

『「純粋な民主主義」は危ない』(218~220頁)における

<中間勢力(媒介的存在)>の重要性について触れられた論考文であります。

新自由主義を擁護する政治勢力は

この<中間勢力(媒介的存在)>をいわゆる「岩盤規制」だとして嫌悪します。

ここに<新>自由(保守)主義者と保守志向者(<主義者=イデオロギー信奉者>

ではありませんから、ここでは仮に<志向>者としておきましょう。)との

決定的分岐点だということです。

この<中間的媒介項>の存在については

民主主義を擁護・発展させていくうえでも

きわめて重要な意義を持つことになりますので

是非とも着目しておきたいところです。

本書の著者も民主主義の「ラディカルさ」を強調されるあまり

少し関心度合も低く見受けられたように思われましたから

おそらく著者もその問題意識を共有(同意)して下さると思いますが、

追加論点としてご紹介させて頂きました。

近未来の<キャッシュレス化>社会においても

この<中間的媒介項>の重要性に着眼させた視点を持つか否かで

人間性を守り抜くための「防波堤」となるのだという議論や

問題提起も出てくることを期待しています。

<キャッシュレス化>社会はただ単なる貨幣を「道具」として扱い、

より利便化が図られるというイメージで捉えていると

思わぬところで恐ろしい「罠」が待ち受けているように

悪い予感がしています。

このテーマでもって今週末(12月1日)も友人知人らとともに

京都で読書会(通常のベーシックインカム制度勉強会とは打って変わり、

討論・対話会を開催)をする予定ですので

またそこで語られた内容など含めて

一般読者の皆様にも近未来経済社会をご考察頂けるヒントとなるような

情報提供を関連書評とともにさせて頂きますので

こちらも乞うご期待願います。

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それでは今回も楽しいエッセー項目を予定していたのでしたが、

もはや「タイムオーバー」となりましたので

また機会が出来ましたらば別途今月書評に「加筆修正投稿」させて頂くか

次回書評記事内においての掲載を予定しております。

とはいえ、あくまでも「予定」ですので変更があるかもしれませんことは

ご了承下さいませ。

それでは今後とも意欲的に取り組んでまいりますので

ご愛顧のほど宜しくお願い申し上げます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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