執行草舟さんの「根源へ」目に見えない霊的根源へと粘り強く探究し続ける宇宙哲学から蘇生の知恵を学び取ろう!!

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「根源へ」

知る人ぞ知る「平成の憂国の志士」である

執行草舟さんとともに、「死生観」をつかみとり

人間としての根源へ還ろう!!

本書は、決意と覚悟を持って真剣に蘇生を願う者にしか

読み取れない「覚醒の書」であります。

生半可な浅知恵が通用しない「ほんまもんの宝箱」です。

孤立的生き方(水平精神)から屹立的生き方(垂直精神)への

転換を促す「魂の永久革命の書」でもあります。

今回は、この本をご紹介します。

「根源へ」(執行草舟著、講談社、2013年)

執行草舟(しぎょう・そうしゅう)さん(以下、著者)は、

知る人ぞ知る「平成の憂国の志士」である実業家・著述家・歌人で

あります。

現代消費文明のあり方と宇宙共有生命原理の観点から、

優れた文明批評論や和歌を詠み、言挙げされてこられた方です。

音楽・文学・絵画を始め、幅広い芸術を通じた独特の動態的生命論を

提唱されてこられました。

ことに、戸嶋靖昌画伯や三島由紀夫文士との親交は篤かったことが、

本書からは伝わってきます。

本書を読み進めながら、久方ぶりに

「本当に信じることが出来る<大人かつ日本人>である師匠」の

魂に邂逅することが出来ました。

昨今の日本では、「真のエリート」と呼ばれるようなリーダーが

減少の一途を辿る中、在野の遺賢による「草奔崛起論」(吉田松陰)が

各地で静かに動き始めています。

ところが、平成日本では、「維新」あるいは「日本を取り戻す」などという

熱いメッセージ性の強いスローガンが叫ばれれば叫ばれるほど、

逆に「日本および日本人」さらに、「世界」や「宇宙」の心から

遠ざかっているような気分もします。

「なぜか?」

その考えるヒントとなる手がかりが、本書にはあります。

著者によると、「10代から40代あたりの若者中心社会」が

強調される時代は、「精神的危機」また「歴史的危機」の時代だと

いいます。

さりとて、「物質主義」に偏重する一方の現代社会では、

真の意味で「老成」した「成熟したご隠居様」も少ないようです。

著者は、青年時代に三島由紀夫文士を始め、数々の「憂国的賢人」との

出会いがあったといいます。

そうしたところから、魂を磨くためには「出会いと別れ」に

「けじめ」をつける生き方を提唱されています。

「社会的交流」と言っても、短い人生に

「誰とでも付き合うような八方美人外交」をしていては、駄目だと

強調されています。

そんな人間や世界との付き合い方では、「死生観も定まらない」

ただの「耄碌人間」に成り下がるだけだと・・・

具体的に、そのような激越な表現を本書でされている訳ではありませんが、

本書を丁寧に読み進めながら、著者の魂に寄り添い、自らも思索を重ねていると、

自ずと、襟を正され、「魂の根源へ」と誘い込まれていきます。

その意味で、本書は「憂国の書」であり、「魂の永久革命の書」であるようです。

とはいえ、単なる「悲憤慷慨書」ではありませんし、

俗世間における「低俗」な「政治活動使嗾書」でもありませんので、

ご安心下さいませ。

いわば、平成在野の遺賢による「魂の慟哭の声」であります。

戦後もすでに70年経つ中で、ますます「歴史との連続性」に敬意を払う

至誠(市井)の賢者が少なくなる中、若者も優れた「魂の師匠」を持つことが

困難になってきています。

そのような時代環境の下で、「自らの生ききる力と死にきる力」である

「死生観」を身につけることは、絶望的な状況にあります。

一方で、目に見える範囲、目に見えない範囲を問わずに、

著者の表現をお借りするなら、「(個人的)保証」と「(集団的)保障」の

「精神的囲い込み運動」で至れり尽くせりの現状にあります。

なるほど、このような「物質的安定感」の得られる現代社会は、

便利であり、一見すると安全・安心な世の中ではあります。

このあたりは、先人の苦しみの後に創建されてきた仕組みであるために、

素直に感謝するべき点でありましょう。

しかし、実にこの点にこそ、「落とし穴がある!!」ようです。

そのような「経済成長(物質的生産)至上主義」こそ、

「精神的空虚」を生み出してきたからです。

「物に心あり」(七福神のこころ)も忘れてしまいかねないからです。

では、そのような「精神的空白状況」からいかに脱却していく道があるのか?

それは、「常に自らの確立した死生観の中で、感じ、考え続ける姿勢」の過程で

創造されていくものであります。

本書は、そのような問題意識を主軸に、あらゆる角度から「根源へ」と

迫っていきながら、思考し行動する哲学を私たち読者に促します。

本書の原典は、産経新聞社月刊誌『正論』(平成23年10月号~

平成25年9月号)の二年間にわたって掲載されたインタビュー型エセー

『根源へ-草舟立言』を加筆・改稿させたものだといいます。

『正論』誌の編集長である桑原聡氏の導きがあったればこそ、

最後まで語り続けることが叶ったといいます。

たまたま、管理人も産経新聞の読者であるので、この桑原聡氏の

お名前は存じ上げていますが、現在も朝刊紙で長期連載である

『鈍機翁(ドンキホーテ)のため息』というエセーを楽しませて

頂いています。

そのことと、今週の月曜日(平成28年3月21日付け)の

石原慎太郎氏の連載エセー『日本よふたたび』

(「世界はどうなるのだろうか」)の末文で、

東欧詩人ゲオルグ氏の有名な言葉・・・

『たとえ明日地球が滅びるとも、君は今日林檎の木を植える』

触発されつつ、前にも当ブログでご紹介させて頂いた

三島由紀夫著『美しい星』のテーマを考察している中で、

「偶然の一致(シンクロニシティー)」で出会ったのが、

本書でもあったようです。

著者も三島作品の中で、『潮騒』『葉隠入門』『金閣寺』や

『豊饒の海シリーズ』とともに、この『美しい星』を一押しされています。

一度もお会いしたことはありませんが、著者の魂と触れ合うことの

叶った有意義な時間を過ごさせて頂きました。

久方ぶりに、「大老??」であられる人生の先輩との<魂の対話>が、

「一服の清涼剤」となったようです。

ということで、前置きも長くなりましたが、「大志と大望と大欲」を

お持ちの読者の皆さんにも是非お薦めさせて頂きたく、

この本を取り上げさせて頂きました。

すべては「死生観」の確立から始まる!!

さて、このように、通常以上に<魂が揺さぶられる>本書ですが、

究極のところ、人間は「生ききることと死にきること」といった

「生死一如観(死生観)」をいち早く確立させることの出来た者から

この世における創造的活動に携わることの出来る資格が付与されるのだと

強調されています。

「言葉は、あとからついてくる」ものであるし、また、

「意味解釈よりも決断と覚悟による行動」こそが、

「生きる原動力」だとされています。

その行動は、「思慮に富んだ行動」を伴うものとは限りません。

というよりも、「魂のおもむくところ」生ききる(死にきる)が

人間の活力の源でありますので、必ずしも「賢慮(熟慮)」といった

「知性ある行動」だけが正しいという訳ではありません。

時には、一見すると、「無価値」と思われる事象(世界)そのものに

ぶつかっていかざるを得ないのも人間です。

そのことを、著者は、主に冒頭の桑原聡氏のテーマと重なりますが、

スペインの風刺作家セルバンテスの『ドンキホーテ』を引き合いに

指摘されておられます。

それは、「俗世間における、あらゆる虚像をはぎ取る生き方」であります。

いわば、「王様は裸だ」的生き方であります。

俗世間の嘲笑や批難中傷などを恐れず、自らの魂のおもむくところ、

信ずるところへと、決意と覚悟をもって突き進むドンキホーテには、

今も多くの人びとに愛されています。

なぜなら、世の大多数の人間(管理人も心弱くなる時は、容易に落ち込みますが・・・)

にとって、抗うことの困難な惰性的生き方から、容易に脱却することが、

絶望的に困難だということを、実感させられるからではないでしょうか?

皆さんも、おそらく、日々そのことで煩悶されておられるのではないでしょうか?

「もっともなことです!!」

むしろ、「悩みなさい、苦しみなさい!!」というところでしょうか?

これは、管理人自身への戒めの言葉です。

「心優しい」だけでは、この世を乗り切ることも叶わず、

死に際に後悔することにもなりかねません。

それこそが、真の意味での「苦しみ」ではないでしょうか?

俗に言う「往生際が悪い」との表現もここに由来するのでしょう。

たまたま、先日のNHK大河ドラマ『真田丸』での、真田兄弟の中での

セリフにもありましたね・・・

そうです、「すべては<死生観>」なのです。

それ以外の「あれやこれや」は、宇宙の中から見ると、「枝葉末節」なのです。

ここで、『真田丸』が出たついでに、本書や前にもご紹介させて頂いた

主演の堺雅人さんの著書『ぼく、牧水!』でもテーマとなる

「あくがれ(憧れ)」こそが、「生ききる(死にきる)」ということを

考察するうえで、大切な視点となるようです。

そのあたりのことを、管理人も敬愛し、著者も敬愛されているという

郷土の大英雄「楠木正成公」の「出会いと別れ」を引き合いにうまく

解説されています。

戦後教育の中では忘れ去られていく偉人が、楠木正成公です。

考えてみれば、後世の真田幸村と「死生観」まで似通っていると感じるのは、

管理人だけでしょうか?

それはともかく、世の中を生産的(本来の意味は、<創造的>だということ)に

開拓していく人物には、そのような共通感覚(常識感覚ではなく・・・)が

あるようです。

それは、著者も本書で強調されている「水平感覚」ではなく、「垂直感覚」を

日々養ってきたか否かという点にあるようです。

現代教育が、大多数の方々(管理人もですが・・・)つまらないと感じる点も、

「魂を奮わせる視点」が考慮されていないように思われるからです。

管理人の場合、先程も語らせて頂きましたが、たまたま個人的に歴史好きという

こともありますが、ますますひどくなる一方の戦後教育の荒廃現象の中で、

幼少期に、楠木正成公と真田幸村公、そして二宮金次郎さんに出会えたことは

わが生涯において「幸い」でありました。

管理人の居住する郷里では、今はどうか知りませんが、

近場への遠足と言えば、たいていは「楠公史跡」でした。

観心寺や楠妣庵観音寺、金剛・葛城山の耐寒登山などなど・・・

管理人の幼少期からの「情操教育」にも役立っているようです。

そんな地域的特殊事情もありましたので、いわゆる戦前・戦中の

「皇国史観」による「大楠公・小楠公像」とも異なる「イメージ像」を

形成出来たようです。

これも前にご紹介させて頂きましたが、あの直木三十五氏の弟君である

著名な歴史学者<植村清二>氏の『楠木正成』も、そんな「革新的人物像」

であったように記憶しています。

では、そのように「いついかなる時局」においても、

無理に粋がる(勇ましく振る舞ったり、<もったい>や<かっこう>つける)ことなく、

穏やかに、微笑みながら事に処することが出来るようになるのでしょうか?

このことも、管理人だけでなく、志高く生きようとされる読者の皆さんの

興味関心が惹かれるところだと思われますが、

それが、「垂直的歴史観」だということです。

この「超時空感覚(ある種の<確信感覚>)」が、

身に付けば「向かうところ敵なし」どころか「味方ばかり」になるようです。

俗に言う「渡る世間に鬼はなし!!」の心境に達するようです。

それを、昔の人は「悟り」と言ったのでしょう。

ところが、現代社会では、容易には、こうした皮膚感覚も身に付かない仕組みに

なっているところに、大いなる問題点が潜んでいます。

著者は、そうした平凡感覚である「水平精神」に警鐘を鳴らされ、

私たちに<気づきの機会>を与えて下さいました。

それを、ユダヤ人や本来の日本人における「超時空感覚」に学びながら、

示唆されています。

「垂直精神」とは、「縦一系の孤高かつ屹立した心構え」です。

神道で言うところの、「赤き、直き、清き」の「廉直心」です。

昔の方なら、<神ながらの道>と表現されるところのイメージ像ですね。

「人間は、生まれながらに神になることも、神のように振る舞うことも

傲慢であり、必ずどこかで躓くことになります」が、

あたかも、「<神ながら>に生きる努力」は出来ます。

つまり、生前は、「いかなる人間であろうと、未完成な存在」だと

自覚するところから、真の人生の第一歩が始まるということです。

「自分探しなど、するだけ<時間と費用のムダ>」ということですね。

なぜなら、「自分のみ」などという像は、「夢幻のごとくなり!!」だからです。

しかし、この「断念」は、決して、消極的な生き方を要請しません。

また、仏教では、「無常(空・仮・中)」を観じながらも、

神道的な「明るい実感」で、「もののあはれ」(本居宣長)を

感じ取ることは、生き方次第で叶います。

その修養こそ、日々の鍛錬が要求されますが・・・

だからこそ、著者が強調されているように、「出会いと別れ」に対する

緊張感が必要だとのことです。

今生にても、過去世においても、また、来世(管理人は、<霊魂>の次元で

確信していますが・・・)においても、「信じるに値する<双子の魂>」に

出会えた方は、幸いです。

そのような読者の方は、自信を持って下さい。

まだ、出会えていない読者の方も、本書の知恵を活用しながら

日々の生き方を革(あらた)めていく注意と感覚をつかむ努力をしてみて

頂くと、きっと、絶妙なタイミングで出会えることでしょう。

著者も強調されているように、

「出会いとは、単なる無関心な接触事ではない!!」ということも

大切な視点となります。

管理人も、歴史上(霊的次元)における人物だけではなく、今生においても

優れた「魂」に出会うことが叶いました。

ことに、京都の市井に隠れた二人の画伯の方には、お世話になりました。

お一人は、今生での悲しい別れがありましたが、

その「清廉たる裂帛の気魄と気骨」による現代の<大和絵>には、

日々、画伯との思い出を胸に、管理人の「生き抜こうとする糧」となっています。

前にもご紹介させて頂いたように、アメリカの大学教育でも活用されているという

アイヴァン・モリス氏の『高貴なる敗北~日本史の悲劇の英雄たち~』の

表紙絵に、画伯の魂が宿っています。

イギリス人ジャーナリストのヘンリー・S・ストークス氏のご紹介とともに

一躍、一般社会でも知られるようになった書物です。

もう一人の方も、現代の<大津絵>の系譜をひく??<山科絵>を

再現させる努力をされてこられた素晴らしい画伯であります。

こうした方々以外にも、現世で、きわめて「霊性」の高い方に出会えたことは

わが生涯の「宝」であります。

そうした「真剣な一期一会の出会いと別れ」の過程で、「人を見る目」なども

徐々に養われてきたようです。

人生とは、「名誉」でも「地位」でも「経済力」その他何でも構いませんが、

「属性」での人物評価だけではありません。

このことを、つかまないことには、人生の真髄もついに知ることなく、

儚く逝ってしまうことになるでしょう。

本書は、そのような人間的成長にとって、根本的に重要な視点を提供してくれます。

さて、「垂直の歴史観」をつかむには、次の言葉を腑に落とし込む必要があります。

『祖国とは、国語である』(エミール・シオラン)であります。

この言葉も、賢明な読書人の方ならご存じだと思われますが、

数学者の藤原正彦さんの著書名で、有名になりました。

管理人は、これに加えて、『祖国とは、国語と歴史と信仰である』として

おきましょう。

実は、このところユダヤ人の生き様と日本人の今後の行く末を憂慮している

のですが、両民族に共通するのも、この「垂直の歴史観」です。

この「超時空感覚」があったればこそ、いかなる歴史上の危機をも

乗り越えることが出来たのでしょう。

ユダヤの方々も、大変ですが、私たち日本人も「苦難の連続」です。

私たち日本人は、是非とも「地球上の架け橋」とならなければなりません。

ただ、現状の地球人の精神的次元で、「自由・平等・博愛」などと

あまり深く追究せずに、一途に信奉してしまうと、

むしろ、低俗化の方向へと引き寄せられていくようです。

なぜなら、著者も示唆されていますように、

これらは、たかだか200数十年で出来上がってきた

人工的な「水平精神」だからです。

「自然国家」と「人工国家」

この両国家「属性」の決着がつくのは、いつの日でありましょうか?

一つ確かなことは、「歴史に学ばない民族は、滅びやすい!!」という

ことでしょう。

「国家喪失」の果ての「流浪の民族」でも生き残ることの叶った民族は、

例外なく、上記3点セット「国語・歴史・信仰」という「記憶」を喪失

させなかったところにあります。

されども、「喪失してからの苦しみは、凄惨の連続」であります。

だからこそ、「知恵の書」に学ぶ必要があるのです。

本書は、そんな現代日本人のための「知恵の書」であります。

また、著者が嗜み、管理人も好む「和歌(うた=祝言の歌)」を

忘れた人間も、「人生における深い喜怒哀楽」を味わえないといいます。

著者は、西洋音楽を通じて様々な角度から考察されていますが、

管理人にとっては、ブラームスの精神的影響が大きいようです。

ブラームスは、「貧民窟の哲学的音楽家」のようです。

また、「憂鬱で神経質なところ」も似ているようです。

一方で、「躁状態の時は、向かうところ敵なし」のような性格を

感じさせるところに魅力を覚えます。

ブラームスの音楽に、「深い悲しみと歓びの調べ」を感じます。

特に、『ハンガリー舞曲集』は、「魂を揺さぶる民族の祝言曲」だと

実感しながら、傾聴させて頂いています。

そのついでとして、「経済力」に絡めて、「貧の哲学」について思うところ。

管理人は、「貧」について、最近あらたな発見をしたのですが、

「貧=貝+分」なのですね。

つまり、「福を分け与える」ということです。

この「貝」は、通常「お金」のことを、世の大多数の皆さんはイメージ

されるそうですが、「貝」は「豊かさ一般のこと」が、原義だそうです。

この「福田(ふくでん)思想」こそ、現代日本に復活させたい「垂直精神」であると

個人的には考えています。

それは、聖徳太子、天武天皇、聖武天皇に流れるご精神です。

管理人は、この3人の「聖者」に流れる「御霊(心)」こそ、

「水(龍神)の心=いのちのリズム」だと感じています。

しかも、国際感覚豊かな「賢人政治家」でありました。

著者も、大伴家持にまで伝承されてきたとされる『海ゆかば』を例に

挙げながら、解説されていますが、この曲はもともと、

単なる哀切調の「軍歌」ではなかったことも判明してきています。

あくまで、これは、飛鳥から白鳳天平の頃に至る時代思潮を

瑞々しく称えながら歌われた「荘厳歌」であります。

「大仏開眼の供養(祝言)」の時の「交響曲」だそうです。

確かに、大伴氏という「武門の棟梁の家系」に伝承されてきた歌ではあるようですが、

それは、日本人が神々とともに喜怒哀楽をともに出来た頃の「歓喜の歌」であり、

「誇りの歌」だったということは、今日再評価されてもいいものと思われます。

それが、日々「失われつつある」日本人における「世界精神」を思い出すためにも

不可欠だと思われます。

そこで、「垂直精神」と比較しての「水平精神」ですが、

著者は、「地政学を捨てよ」とまで語られています。

管理人は、この考察を読み進めながら思い浮かんだのも、

「地政学こそ、物質的低次元にとどまらせようとする水平精神の現れ」では

ないかという直感でした。

現在も、なくならないテロや戦争や、経済的生活困難といった「暴力」を

いかに超克していくべきか・・・

その処方箋も、本書を読み進めながら、各自考察して頂きたいと思います。

誇り高く生ききる(死にきる)気概を蘇生させよう!!

ところで、本書の哲学全編を飾る『根源へ』をテーマに思索していくうえで、

欠かせないのが、「死生観」であります。

そのためには、「宇宙共有生命のリズム」という視点を取り入れながら

思索イメージを高めなければ、本書を読んでも掴みきれないようです。

「死生観」と一口に称しても、もちろん、各人各様のイメージ像があるかと

思います。

そのことに関しては、まさしく各自で考察して頂ければ宜しいかと

思います。

ですから、本書を読んだからといって、著者や管理人の「死生観」に関する

イメージ像に合わせる必要など、毛頭ありません。

「根源へ」あるいは、「事象そのものへ」は、哲学の原理原則的思考法でありますし、

「問い」に対する「答え」も、一義的に決定されるものでもありません。

但し、本書を、単なる「哲学お勉強本」と思って、甘く考えておられるとしたら、

「時間と費用のムダ」にもなることでしょう。

だからこそ、本書に関しては、真摯な求道心をもって愚直に(そうです、本書の

勘所は、<愚直に>であります。)人生を歩み、生ききる(死にきる)という

決意と覚悟をもって、読み進めて頂く必要があります。

著者も、本書で再三再四、強調されておられるのが、「愚直なまでの謙虚さ」で

あります。

何と言っても、「神の前で生ききり、死にきるための鏡の本」ですから・・・

現代社会では、忘れ去られていく「神の前での生き死に」ですが、

こうした「霊的次元」での、意識の志向性なくしては、

それこそ、「死んでも死に切れません!!」ということになってしまいます。

管理人も、はや30代半ばですが、人間30代を超えると、

「いつ死んでもおかしくない」時期でもあります。

江戸時代には、この年代は「若年寄(若隠居)」の晩年でありました。

その代わり、その「短い生涯」は、成熟した老成とともに、

世の中の「精神文化」も「物質文化」もバランス良く調和していたといいます。

その現れが、「七福神のこころ」であるようです。

本書では、「七福神」については触れられていませんが、

本書に流れる精神意識は、「七福神のこころ」だと感じられます。

同時に、著者によると、「芸術(ことに、文学)を解するこころ」だと

いうことのようです。

『文学のこころを忘れた人間は、味気ない死生観を持つことしか出来ない!!』

直接的な表現ではないですが、数々の文学作品を例に指摘されておられます。

現代社会は、ほとんどが、物質重視の「唯物論文化」であります。

精神重視の「唯心論文化」もありますが、それとて、きわめて怪しげな

「オカルト商売」に代表されるような「唯物論」の延長にしかないようです。

なぜ、このような「まがい物文化」が大流行するのでしょうか?

それが、本書の大テーマであります。

管理人が、読み進めながら、著者とともに考察して得た結果は、

「いつまでも長生きすることが出来る」との「生の喪失感」だということです。

「生の喪失感」は、裏から言えば「死の喪失感」でもあります。

「陰があれば、陽がある」

これは、古今東西、「賢者」なら誰もが知る「公然たる叡智」でありますが、

なかなか一般的には理解されることが少ないようです。

私たちは、意図せずとも無意識のうちに「陰(死)」を悪いイメージで観じるクセが

ついてしまったようです。

その淵源は、むしろ、「近代的知性によって産出された心身二元論的死生観」に

あるようです。

著者も、本書では、主に「武士道論」を中心に「死生論」を展開されていますが、

何も「武士道」に限らず「仏道」「神道」を身近に生きた「庶民」にも共通した

「死生観」だったように見受けられます。

そりゃ、いつの時代も、「目に見えない<死の世界>」は、生前には

イメージもしにくく、不安になるため「恐い!!」ですよ・・・

ましてや、中世仏教では、「天国・地獄」も出てくるのですから。

このあたりは、中世宗教思想史として、キリスト教を始め

世界宗教における「死生観」を比較してみても興味深いところです。

そこで、現代社会における「死生観」に戻りますが、

「なぜ、生死論が避けられるのか?」です。

そのことを深く考察していくことで、自らの「生き死に」のあり方だけ

ではなく、現代文明(文化)の根本的な欠陥も見えてくるようです。

これは、管理人も含めて、現代社会を生きる万人の「死ぬまでの宿題」で

ありますが、このビッグテーマから目を逸らせていくと、

「現世における永遠の監獄」の中に住むのと大差ないことだけは、

間違いないところです。

そこで、「何が、あなたを、わたしをそうさせるのでしょうか?」ですが、

著者のヒントであるポルトガルの大航海時代のエンリケ航海王子の

『航海をすることが必要なのだ。生きることは必要ではない。』(本書44頁)

という言葉で考察してみましょう。

つまり、「生計を立てることだけに安住する人生で、

あなたは死に際に後悔しませんか??」との問いかけでもあります。

もちろん、現代貨幣資本主義経済生活の中で、「生計を立てていく」のは、

余程の「好運」にでも巡り会わない限り、しんどいことです。

管理人も、「四苦八苦」しています。

「学び続けること」と「稼ぐ力」は、まったく「異なる才覚」が要求されますから・・・

このようにどうやら、現代人は、中世人とは「真逆」の方向へと進んできたようです。

著者も、膨大な哲学者、芸術家などの事例を引用しながら思索されておられますが、

中世ルネサンス(新生とも天地「再」創造とも言うようですが・・・)の

「ヒューマニズム(人間中心主義)の発見」から大きく「死生観」、

つまり、「世界観」も変化していったようです。

この「ヒューマニズム」も、様々な見解があるようですが、少なくとも、

現代の環境問題などの影響から「悪解」されてきているようですが、

世の主流は、まだまだ「善解」のようです。

神道的世界観では、中立的??であり、

仏教的世界観では、こと「人間と世界の関係性」という視点で眺めてみると、

この「ヒューマニズム(人間中心主義)」は、

今も昔も、まともな「仏教徒」であれば、「悪」とみなしているところです。

現代のような、表層的には「神(仏)は、死んだ」(ニーチェ)と称される

世にあっては、余程のまともな生き死にを考えながら、人生の大道を

歩む勇気をもった人間でないと、「我こそすべて!!」の浅薄な人生に

なってしまうようです。

そろそろ、紙数も尽きかけており、まだまだ本書を通じた「語り」を

皆さんとともにしていきたいことは山々ですが、最後に一点だけ。

著者が、本書を通じて語りかけてこられたことは、

「水平精神から垂直精神へと<神(仏)の道>を辿る人間的成長の物語」

であります。

上記の左(水平精神)から右(垂直精神)へと至る精神的道筋を

次のようにまとめられています。

「孤立→孤独→屹立(孤高??)へと」進化発展してやまない道筋です。

そして、いずれにせよ、現世は「未完成」終結が予定されているだけに、

「あの世(来世または、過去世)」も含めた「壮大な精神的歴史観」の中に、

「この世(今生)」における「死生観」も位置づける想像力と創造力の

深度次第で、生死の充実度も変化していくのは間違いないだろうとの見立てです。

著者も管理人も敬愛する楠木正成公(奇しくも、聖徳太子や観阿弥(世阿弥)との

縁戚関係にもあるという)の「七生報国論」も、戦時中のような「偏狭な死生観」ではなく、

こうした「無限循環天壌無窮的死生観」こそが、「本願」だったのだと思われます。

それとて、『太平記』によると、「妄念」のようですが・・・

楠木正成公は、朱子(宋)学的な「大義名分論」のみに、

こだわるような「器の小さい」人物ではなかったと推察されます。

「法華経」を始めとする「仏道」も学んだ「永久革命家」だったと想像しています。

あの観心寺の「建て掛けの塔(大日如来)」も国宝「如意輪観音像」も、

そんな「未完成」ながらも、永遠に循環し続ける生命の躍動(ベルクソン)を

表現しているように感じられるのです。

「生きる(死ぬ)とは、いずれも<宇宙の根源へ>と一時的に回帰する現象」だと

考えると、この世でも有意義な人生を過ごす助けになるのではありますまいか・・・

この度の出会いに感謝して、私淑させて頂くことをお許し願います著者と

三島由紀夫先生に捧げる一句として詠む歌に・・・

『大神の 社におはす 弁天の 清きほとりに 幸はふ御霊』(管理人)

皆さんも、本書を紐解き、著者の「問い」に触発されながら、

各自の「死生観(生き方の充実度)」を考察してみてはいかがでしょうか?

もうまもなく、「桜の開花時期」であります。

本書には、西行さんも出てきますが、そんな「春うららかな週末」にこそ、

本書をお薦めさせて頂きます。

なお、著者の別著として、

「友よ」「生くる」

(ともに、講談社、2010年)

「魂の燃焼へ」

(執行草舟・清水克衛共著、イースト・プレス、2015年)

をご紹介しておきます。

※清水克衛さんと言えば、松岡正剛さんと同じくらい

読書人であるならご存じだろう「本の名ソムリエ」であります。

清水克衛さんも「お薦めの1冊」が本書でもあります。

ところで、本書は、現在(平成28年3月23日現在)の

管理人も日頃お世話になっている「丸善&ジュンク堂ネットストア」には

「在庫無し」のようです。

各自お調べ頂くか、各公共図書館もしくはアマゾン、

さらには、確実なのが上記「清水克衛」さんが運営されておられる

オンラインショップ「読書のすすめ(通称:dokusume.com)」での

ご注文方法をご活用下さいませ。

清水克衛さんも、「平成の憂国の志士」で

管理人も応援させて頂き、いつも良い本で学ばせて頂いています。

ここに、日頃の感謝を込めて厚く御礼申し上げます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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