エルヴィン・シュレーディンガーの「生命とは何か~物理的にみた生細胞」量子的生命論の古典から人類進化の方向性を探ろう!!
「生命とは何か~物理的にみた生細胞~」
量子物理学者のエルヴィン・シュレーディンガー博士に
よる古典的名著です。
現代の「分子」生物学に多大な影響を与えた
アイディアの萌芽が、この本では展開されています。
「生命の起源」は、今も未解明であり、
「神秘のベール」に包まれています。
また、「心」や「意識」、「魂」といった概念も
定義が多様で、一律決定には及びません。
今回は、この本をご紹介します。
「生命とは何か~物理的にみた生細胞~」(E・シュレーディンガー著、岡小天/鎮目恭夫訳、岩波新書、1975年第30刷改版)
エルヴィン・シュレーディンガー博士(以下、著者)は、
前回ご紹介させて頂いた20世紀を代表する
量子物理学者であります。
今回は、前回、予告させて頂いた「生命論」にテーマを絞った
続編として、本書をご紹介しながら、
現代科学の最前線の知見と重ね合わせて、
分析考察していこうと思います。
著者は、ご専門の量子物理学に止まらずに、
生命論から宇宙(時空)論哲学に至るまで
幅広く思索探究されていった
「科学者」かつ「哲学者」であります。
管理人も、大人になってから、
数理脳に目覚めた一人ですが、
とりわけ、その「思想面」からの発想や論理展開に
興味関心が移行しています。
学生時代に、「なぜ、こんなに理数系学問に苦痛を感じたのか?」
それは、そもそも論として、数理的発想の「原点」を
教科書的世界観からは、ついぞ学び取る機会もなく、
ただ課外の個人的知的好奇心として脇に押しやってしまうような
学習環境にあったことも、一つの原因かもしれません。
中学から高校へと至り、学習内容も、より抽象化・高度化していく中で、
その学習テーマへの興味関心を持続させることも困難であります。
ただでさえ、現代の高校生は忙しく、3年間で、
人類が、これまでに得た「知的財産」を消化吸収することは
難儀なことです。
結局は、現代の社会環境にマッチングした「受験」制度教育のため、
本来なら、多くの若者が有しているであろう純粋な知的好奇心が
完全に殺がれてしまう悪環境に、現代教育はあります。
そんな絶望的な徒労感を抱かれている学生諸君も多いと思われます。
さて、8月は、多くの学生諸君にとって、夏休みでありましょう。
とはいえ、「休み返上」で部活動や受験勉強などに
日夜、自由時間を侵食されていて、読書の時間など
「さらに、ない!!」と嘆きの声も聞こえてきそうですが、
そんな時こそ、意識して、
「ゆとり教育!?」の時間を各自で確保して頂きたいのです。
無味乾燥な「受験」勉強によって、将来の進路選択肢の多様性まで
剥奪されては、人間にとっての教育の意味や効果もありません。
ということで、特に、理数系分野に苦手意識がある文系志望の方にこそ、
読んで頂きたい1冊として、この本を取り上げさせて頂きました。
夏休みの「読書感想文(課題図書)」のネタ探しに困っておられる方にとっても、
お役に立つ1冊でしょう。
現代「分子」生物学の土台を築いたシュレーディンガーによる「生物理」学とは??
まず、この本が世に出されたのは、1944年のことでした。
著者は、オーストリア人であり、第二次世界大戦下における
ドイツの教育研究環境から「亡命」するなど、
過酷な人生体験の過程で、生み出されたのが
本書『生命とは何か~物理的にみた生細胞~』でありました。
本書からは「深読み」することも難しいですが、
当時のナチス的「優生学」理論に対する警告憂慮の書としても
解読して頂きたい1冊です。
訳者あとがきで、鎮目恭夫先生の「本書の科学的および歴史的な意義」
(本書164~171頁)と題した解説記事では、
もう一つの全体主義国家であったソ連で、
当時、猛威をふるい、ナチスドイツとは、また違った意味で、
人類に多大な損害をもたらしたルイセンコ仮説についても触れられています。
詳細は、この解説記事をご一読願いたいのですが、
ここでは、「仮説」の現実社会での無理強要が、
社会に大きな被害をもたらした実例があったとだけ強調しておきましょう。
本書は、すでに「古典」の部類に属し、
この新書が出版された当時の時代背景には、
東西冷戦のイデオロギー的「影」が差し込んでいたこともあって、
今となっては、「昔日の面影」のように思われるかもしれませんが、
現代科学のイデオロギー的特殊性や「専門家」に依存し過ぎる産業科学界の
現状批判としても、今もって有効な議論を提供してくれる好著です。
また、この訳者あとがきは、著者の思想とは、直接的な関連性はないようですが、
本書の「第3章 突然変異」の31節末尾で、
著者が「どうしても述べておかなければならない実際的な問題」
(本書76~77頁)として、現代の科学技術的操作が、
生物の生態系に及ぼす悪影響に関する警告と重なっています。
厳密な科学的結論や社会的適用には、十分慎重な検証結果が
望まれますが、「X線(つまりは、<自然>ではない<人工>的に
もたらされた放射線照射のこと)」が、「個体」への直接効果とともに
人「類」といった「種」全体に間接的な危険をもたらす恐れについて、
「望ましくないかくれた突然変異により徐々に害を受けるという可能性」に
ついて、
人類が、共通して関心を持つべき課題として強調されています。
ここから、本書の内容構成に関する要約に入らせて頂きますが、
著者は、本書での生物学的知見については、
デルブリュック氏の分析考察の成果に負うものが多いと
強調されています。
著者は、プロパー(専門という意味です。)の生物学者ではないことから、
あくまで、量子物理学者としての知見から、
「生物論」について、大胆にも論旨展開されたのが、
本書でありますが、
優れた学者を目指すなら、時には誤解や危険を冒す可能性があっても、
「大胆かつ繊細」な問題提起をする勇気を持つことも
示唆してくれています。
著者は、<まえがき>にて、「言いわけ」と謙遜されていますが、
こうした気概を持つことで、
とかく、専門的な領域である「蛸壺」に籠もりがちな
現代の研究環境や学者習性から突破する姿勢がもたらされます。
それでは、内容構成の要約ですが、
本書の最大の趣旨は、「生物学(生命)と物理学(物質)」との
「中間場」で、
「宙に迷っている基礎的な観念を、物理学者と
生物学者との双方に対して明らかにすること」だということです。
前回の『精神と物質』が、より「精神」に比重を置いた
哲学的考察とするなら、
本書は、「物質(物理)」面から見た「生命」論哲学の入門書と
いうことになりましょうか?
また、各章の冒頭には、著者が影響を受けた思想家の
名言が掲載されており、各章で、解説される内容の要旨と
されています。
前にもご紹介させて頂いたウナムーノなどから
思想的影響を受けているようですね。
また、本書<エピローグ>にて、
『決定論と意思の自由について』をテーマにした
著者の哲学的知見が紹介されています。
そこでは、ドイツ観念論的啓蒙哲学者カントの
認識論にも批判的だったことが読み取れます。
とりわけ、「<物自体>認識不可能論」に対しては、
ウパニシャッド哲学から影響を受けた著者の
認識的方法論から手厳しい評価が下されています。
(本書155~161頁ご参照のこと。)
①「第1章 この問題に対して古典物理学者はどう近づくか?」
※本章では、量子論の大前提となった「統計熱力学」の活用によって、
従来の「古典」物理学理論では捕捉し難かった「動態的」な
「生命」に関する動向を解析しやすくなったことが解説されています。
著者によると、「有機(生命的)化学」が、
物質の「非周期性結晶体」に近づいた化学者による知見を
物理学者がほとんど活用しきれていなかった当時の現状に
ついて、啓蒙的視点を提供されています。
『私の考えでは、非周期性結晶こそ、生命をになっている
物質なのです。』(本書5頁)と。
ここに、着眼するところから、
著者独自の「生物理学」に関する諸考察が展開されていきます。
②「第2章 遺伝のしくみ」
③「第3章 突然変異」
※第2章と第3章では、「遺伝学」と「進化論」について
著者による解説がなされています。
もっとも、「遺伝子の永続性」については、
現代の最先端「遺伝子学」がどのように捉えているのかは、
管理人には理解不十分であり、丁寧な解説で補完は出来ませんが、
今日、遺伝子にも、様々な構造が確認されているようですが、
中核部分の「不変性」については、
環境によって、変化していく様子も確認されつつあるといいます。
(詳細は、前にもご紹介させて頂いた村上和雄先生の
『こころと遺伝子』などをご一読下さいませ。)
少なくとも、遺伝子についても、
脳と同じような「可塑性に富む」性質が発見されてきたようです。
このあたりは、管理人も現状、不勉強ですので、
勉強の成果とともに、類書のご紹介も兼ねて、
いずれ改めた機会を設定させて頂く予定でいます。
いずれにせよ、この第2章と第3章は、
著者が活躍した20世紀初期の頃の「古典論」でもって
解説されており、ワトソンとクリックの「二重らせんの分子構造」の
提出(1953年)以前のことですので、
時代的制約がある中での論旨展開であることは、
ご一読される際には、ご注意願います。
さらっとした解説については、本書の訳者である岡小天先生が
されていますので、そちらでご確認下さいませ。
④「第4章 量子力学によりはじめて明らかにされること」
⑤「第5章 デルブリュックの模型の検討と吟味」
※第4章・第5章では、「量子論」が得意とする
いわゆる「量子飛躍現象(不連続な遷移現象=ある種のワープ現象??)」を
「突然変異」のモデルとして、分析考察するための道具立てが
完成されたと明らかにされています。
いずれにせよ、「突然変異」は、そうそう頻繁に起こっては
困ることも補足説明されています。
永年月を費やした漸進的進化論が、
この「突然変異」のイメージ像であり、
通常の生物環境下では、
「急進的(もちろん、例外もあるかもしれませんが・・・)」では
ないことも大切な視点であります。
著者は、48節『自然淘汰により安定な遺伝子が選ばれる』と
解説されていますが、こうした「自然淘汰」も、
あくまで「自然の摂理(自然現象)」であって、
当時、世の中を席巻して、人類に脅威を与えていた
「優生学」のような「人工操作」によって、
もたらされるものではないことだけは、
今日でも強調しても強調し過ぎることはないでしょう。
とかく、進化論を論じる時には、通俗的な「社会」進化論が
イメージされやすく、世間にも多大な誤解を与えかねない
「素人論」も評判になる風潮だけに、
きちんとしたプロの知見を学んでおきたいものです。
おそらく、「遺伝子論」を考察する際には、
「先天性」と「後天性」の両方の「素因」を考慮することが
欠かせないのでしょう。
また、53節の『突然変異は元に戻せる』という視点も
デルブリュックのモデルが汎用性に耐えるものだと考えられ、
その「妥当性」を今後の考察に活用すべきだと論じられています。
⑥「第6章 秩序、無秩序、エントロピー」
※本章も、著者独自の考察として有名な論点を含んでいますが、
とりわけ、
「生物は、<負のエントロピー>を食って生きている!!」という
視点は興味深い論考であります。
ここは、著者の「生命論」の中でも、
疑義の提出されることが多かったところのようで、
補注も後に追加されています。(本書130~132頁ご参照のこと。)
⑦「第7章 生命は物理学の法則に支配されているか?」
※このように、著者は、デルブリュックの知見を活かしながら、
著者は以下の結論を提出されています。
『生きているものは、今日までに確立された「物理学の諸法則」を
免れることはできないが、いままでに知られていない「物理学の別の法則」を
含んでいるらしい』(本書118頁)と。
最後は、あくまで比喩的な表現ですが、
「生物は、<時計仕掛け>のような<秩序から秩序>へと
向けられた歯車のような回転軸!?」というような意味深なイメージ像から
新たな「物理的」生物論の未来像を予測されていたようです。
通常の「物理学者」なら、
「無秩序(無機的物質)から秩序(有機的生命体)」へと考察を
進めるのでしょうが、著者は、生物の最大の特徴である
「生きている状態」により即した「物理学的」手法からの
生物解析を試みられています。
まとめますと、本書における「量子」物理学者シュレーディンガーが
提唱した「生物理学」をもって、現代の「分子」生物学の基礎土台部分が
築かれたということです。
本書では、これまでもご紹介させて頂いたような「ブラウン運動」について、
アインシュタイン博士同様に、
シュレーディンガー博士も注目されていたとのことでしたが、
いずれにせよ、「生物の起源」論で
まず最初に考慮しなくてはならない点が、
生命体は、「中間場(ミドルワールド)」という
生き物にとって、最適領域の「場」に存在していることや、
その「大きさ(スケール問題)」が、
何よりも「決定的に重要!!」なようですね。
今後の生物進化論では、「生命意識の流れ」が焦点になる!?
さて、著者の生命論の一端については、
本書が、かいま見させてくれましたので、
今後の生物進化論の方向性について、
若干考察しておきましょう。
管理人の書評ブログの特徴は、個人的な学術研究なども
考慮したご紹介になっていますが、
まずは、世に多くおられるであろう研究者の方にも、
専門的な研究をともにして頂きたいという願いと
応援の一環を兼ねさせて頂いています。
それというのも、日本は「資源の乏しい国」ですから、
優れた人財による「基礎研究」を確固とした土台にして、
世界に貢献しなくてはならないからです。
「戦争や差別、経済的貧困や環境悪化で、
これ以上、地球上、いや、宇宙全領域の森羅万象に
ご迷惑をおかけしないためにも・・・」
「みなが苦しむことなく、共存共栄の生態系を再生させるためにも・・・」
大の「大人」にとっては、
大袈裟な表現に思われるかもしれませんが、
「童心」を失ってしまうようでは、
「人間」らしさが枯渇してしまいかねません。
そこで、今後の人「類」の方向性ですが、
やはり、あまり芳しくない表現ですが、
一応は、「万物の霊長」を自認するからには、
やはり、人類の「類的」進化を「霊性面」からも
成し遂げていく決意と実行が欠かせません。
最近は、「保守」的な管理人も、
20世紀までの現実における「史的推移」や、
いわゆる「世俗的イデオロギー」に囚われずに、
マルクスからも、なにがしか学び取ろうと努力研究中ですが、
その「<唯物的>視野の狭さ」がネックになっているようです。
その「限界」を超克しようと、
反対側の「唯心論」も同時考察してきましたが、
こちらも、「視野が狭すぎる!!」ことに変わりはないようです。
そうした問題意識から、「物質(科学)と精神(神秘)」の
「狭間」を探究してきたわけですが、
認識論をカント的視点に閉じ込めておくだけでは、
「啓蒙」されないことも判明してきたようです。
(著者も、それとなく、その限界点を指摘されていたことは
先に触れさせて頂いたところです。)
では、今日の「現象学」や「分析(修正論理実証主義)哲学」的認識論では・・・
となると、これまた、細分化・複雑化し過ぎて、
一般人には、理解しづらいものがあります。
「<論理的>直観」ないしは、「<直感的>論理」とでも
言えそうな認識方法は、
どうも「人間」が、
「同じ体系下(つまり、現状と同じ視点=次元)」に止まる限りは、
かなり難しいようです。
この問題を常に考える際に参考にさせて頂いている賢者に
「不完全性定理」で有名なゲーデルさんがいますが、
この方の場合も、「数学的形式実在観」の裏側に潜む「神秘的世界観」を
秘かに宿しながら生きていたといいます。
それが、「現世」における人生の難関を突破していく
原動力になっていたらしいと・・・
(『ゲーデル・不完全性定理~”理性の限界”の発見~』
吉永良正著、講談社ブルーバックス、1993年第2刷、
本書268~269頁ご参照)
管理人などは、「学問」で行き詰まった時に、
こうした先人の生き様に寄り添うことで、
「安心」した気分に浸る歓びを感じています。
それが、「生命意識の流れ」なのでしょう。
やや「論理が飛躍」していることは、百も承知していますが、
一歩ずつ積み重ねることが、一番大切なことも分かり切ったことでは
ありますが、「学問」も「リレー」でありますから、
先人たちの「飛躍部分」をともに軌道修正しながら、
より「確かな真理(今日では、<真理>という言葉が持つ頗る評判の悪さも
承知していますが・・・)」に近づく努力を重ねる過程こそ、
「生命意識の流れ」だと確信しています。
その「霊的成長」の歩みこそ、
「生命意識の流れ」であり、
とりわけ、「個体」を越え出た「類」全体の底流にある
「共有生命の哲学」でありましょう。
この点は、またあらためて「出直し」がてら、
近日中に続きを考察してみたいと思いますが、
皆さんにも、本書から未来志向の「共有進化論」を
ともに考察して頂ければと、本書をお薦めさせて頂きます。
若き柔軟な学生さんへ向けた夏休みの「宿題」としておきます。
(半ば本気、半ば冗談ですが・・・
とはいえ、この「宿題」は「正解なき」人生を通じた難題ですよ。
徒や疎かにしませんように・・・
実は、数学にも「解なき」問題があるのですよ・・・
学校(教科書)では「教えてくれない数学」ですが・・・)
ところで、最後に、「心」は、「拡張する」というのが
最新の「心の哲学」では話題になっています。
そこでは、狭義の「脳(科学)」だけに閉じ込められない
広義の「身体」と身体を取り巻く「生体環境」が「心」を
形成する素材となっているとの「仮説」が提示されています。
いよいよ、時代は、17世紀頃から200~300年ほど
続いてきた「身心二元論的世界観」から飛び立つ時期が到来したようです。
その意味では、現在の経済産業界で進行中の「第4次産業革命」以上の
「心のルネサンス時代の幕開け」であります。
「今、<学問>が面白い!!」
そんな熱き思いを若い皆さんにお伝えしたく、
今後とも精進して参りますので、
末永くご愛顧のほど宜しくお願い申し上げます。
今年も例年に増して、蒸し暑い夏が続きますが、
どうかお体をご自愛されつつ、オリンピック観賞を始め、
「青春」を謳歌して下さいね。
「社会人」になった「大人」の方にも、
ともに人生へのエールを送らせて頂きます。
なお、「拡張した心」理論については、
「暴走する脳科学~哲学・倫理学からの批判的検討~」
(河野哲也著、光文社新書、2009年第2刷)
をご紹介しておきます。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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