波頭亮氏の『AIとBIはいかに人間を変えるのか』<成熟社会論>を唱えてきた論者によるAI×BI論とは!?

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波頭亮氏の『AIとBIはいかに人間を変えるのか』

早い時期から日本社会を<成熟社会>だとして

経済成長論から分配論への移行的視点を提供してこられた

コンサルタント波頭亮氏によるAI×BI論です。

ここ数年内に急激な勢いをもって

欧米先進諸国の一部でもすでに試験的導入が実施されてきた

ベーシック・インカム制度に関する本格的な議論が

日本社会でも待ち望まれています。

今回はこの本をご紹介します。

『AIとBIはいかに人間を変えるのか』(波頭亮著、幻冬舎、2018年第1刷)

波頭亮氏(以下、著者)は、有名な経営コンサルティング会社である

マッキンゼー・アンド・カンパニー日本支社を経て

独立された株式会社XEEDの代表者であります。

過去の代表的著作には、

『成熟日本への進路~「成長論」から「分配論」へ~』

(ちくま新書、2010年第1刷)があるように

早くから日本社会の<成熟化>を大前提に従来型の

経済<成長論>の限界点などについて大胆に問題提起されるなど

各界で注目されてきた政治経済論客でもあります。

一般には<ソシオエコノミスト=社会経済分析論者>としても

評価されているそうです。

その他の著作にも

『プロフェッショナル原論』(ちくま新書、2006年)

『知識人の裏切り~どこまで続く、平成日本の漂流~』

( 西部邁氏との対談書、ちくま文庫、2010年)などがあります。

ところで、著者がこれまでに提起されてこられた日本社会<成熟論>には

かなりの批判的評価も下されているように見受けられます。

他でもない管理人もその1人ではありますが・・・

「果たして今の日本経済の現状を見て本当の意味で

<成熟>し得たと言い切れるのだろうか?」

「従来型の<成長論>には確かに問題が含まれているにしても、

資本主義を日本経済社会が採用する限り、

今後もある一定の<成長>戦略論や景気対策を

まったく不要とすることなどあり得ないのではないか?」など

様々な点で著者が提示される立論には

盲点や矛盾点もあるように感じられてなりません。

もっとも、著者が真に強調したかった意図は

ベーシックインカムのような制度思想に見られる

あくまでも恒久的な生活保障制度があれば「小手先(目先)」のその都度ごとの

景気変動に照準を合わせた景気対策など不要だとする趣旨のようですが・・・

また、前掲書

『成熟日本への進路~「成長論」から「分配論」へ~』

(ちくま新書、2010年第1刷)における

個々のご提案やその論拠を読み進めながら感じた

一般的な印象としては「成長戦略不要!!」だとか

「景気対策不要!!(その中心思想はおそらくムダな公共投資など止めてしまえ!!だと

思われますが・・・)」といった主張は受けがいいだけに

十分にその行き先を想像かつ見抜かなくては、

早晩私たち自身の首を絞めてしまうだけになるでしょう。

このあたりの論考の進め方はおおむね「失われた20数年間」において

大手マスメディアや各種論壇等によって流布されてきた

耳触りがよく、また現場感覚との間でかなりのズレを感じる

地に足のついていないような各種評論家諸氏の言動と

あまり大差がないように実感されたのが正直なところでした。

このような誤解を招きかねない言動だけが近年猛威をふるう勢いで

ワンフレーズのように一人歩きしてきただけに

ある程度の水準に達した言語リテラシー

(←ここでは<解読能力>としておきます。)観がないと

大変な窮地に追い込まれてしまうことは片時も忘れてはなりません。

というよりも与党・野党問わずに現実として採用されてきた

この間の「緊縮」型経済政策の実績結果がそのことを

如実に証明してきました。

さらに、いわゆる「ムダな」公共投資の一例やその理由意見が

前掲書『成熟日本への進路~「成長論」から「分配論」へ~』

(ちくま新書、2010年第1刷)における

<「二本目の高速道路」と「僻地の高速道路」は効果無し>(同書89~

90頁)や<乗数効果は今や1・0以下!?>(同書90~91頁)などで

提出されておられますが、その反証事例も数多く

直ちに即断など出来ないものと思われます。

前者の場合には実際に物流促進効果は確実にある(管理人自身、

日々の仕事柄、物流ドライバーさんの肯定的意見を聞くことも多いです。)ようですし、

後者の場合ですと、どんなデータを基準に採用するかや

その効果を測定するための期間尺度の取り方などによって

しばしば変動することも考慮に入れなくてはならないでしょう。

ですから、何事も一概に否定的判断を即座に下すことには

慎重でなくてはなりません。

また、著者の論旨展開を見ていると、

どうも「デフレ不況」の本当の怖さ(あくまでもベーシックインカム制度類似の

充実したセーフティーネットがない現状のままなら。少なくとも現状の

生活保護制度程度の不完全設計では不公平な事例が多発。

例えば、しばしばワーキングプア生活層≦生活保護受給者「もっともすべての事例に

当てはまるケースではありませんが・・・」になりがちですし、

一般的には優遇されているというよりも

脆弱な生活事例も多々見受けられます。←真の最貧困生活者層にとっての実感だと。

もちろんマスコミなどでバッシング対象に取り上げられるような存在は

ごくごく稀な現象事例だということが大前提です。)

あまり深刻に認識されておられるようには見られない点も

特に気になったところです。

なぜなら、特に過酷な「失われた20数年」を経験してきた若手現役世代

(特に30~40代)としては、

とてもとても<成熟論>などを唱えることが可能な時期には

どう考えても思われないからです。

このあたりもバブル経済を経験した世代とそうでない世代とでは

社会経済認識に相当な乖離が見られるようですね。

むしろ、この過酷な期間中(今でさえまだまだ不十分ですが・・・)における

マクロ経済政策の不十分さこそが、数多くの人々の生命を剥奪したり、

不安定な生活状況を強いてきたように思われるのが生活者実感ではないでしょうか?

著者を始めとする数多くのエコノミストや特に酷いのが社会学者だと思われますが、

表面的な社会の豊かさ度を比較相対的に計れば確かに日本社会は<成熟化>してきた

ように感じられますが、それはあくまで都心部かつ社会上部にいるインテリ富裕層による

体感によるものでしょう。

その証拠にマスコミに出てくるような評論家諸氏の姿勢や人相に注目されれば

明快至極でありましょう。

それはまさしく今の財務省のお役人(あくまでかの御仁のような一部の異端者だけに

限られた現象だと信じたいですが・・・)の一般人への侮蔑的態度や

その経済政策姿勢にも如実に現れ出ています。

「緊縮」型は国民に対する生活支配にも多大な影響を与えることから

財務官僚は特に好んで採用する!!との説を聞いたこともあります。

(もっとも公平のため、すべての財務官僚がこのような発想を

もって仕事に当たっておられるわけではないでしょうが・・・)

このような財務省が採用し続けてきた経済実態とはおよそかけ離れた

「緊縮」型マクロ経済政策こそが今日の歪な経済格差をもたらしたのであり、

仮にもし公共事業投資などを柔軟に挟まなければ、

さらに経済状況は悪化していただろうと推論するのが良識派の見立てだと思われます。

最近は政治的立場を問わずにそのような「反」緊縮型経済政策を提起されてこられた

良識派の意見も世間に浸透してきており、

ひと頃のような極端な「緊縮型」経済言論も抑制されつつあるようですが油断がなりません。

あるいは、様々な問題点はあるにせよ、

何とか財務省主導の「緊縮」型に対抗しようとしてきた総理や官邸政治主導による

「反」緊縮型アベノミクスの一側面を公平に論評されるエコノミストも

ようやく世間で活躍出来そうな雰囲気も出てきたようです。

それは今の日本銀行人事面にも表れているようです。

具体的な実名を出すと若田部昌澄氏のことですが、

その政策姿勢や手腕、その実績も今だ判定し得る段階ではありませんので、

今後の動向を注意深く見守ることに止めておくことにします。

さらに例えばご参考までに最近刊行された話題の

『アベノミクスが変えた日本経済』(野口旭著、ちくま新書、2018年)などで

提起された問題意識を有する経済論客もおられることを

ここであわせてご紹介しておきます。

いずれもいわゆる「リフレ派(リフレーション政策支持者)」と

評価されている論者です。

とこのように<アベノミクス>にも肯定的側面があるらしい

(その効果が真に中長期的に「骨太」のものか否かの判断はさておき)ことを

ご紹介させて頂いたからといって、管理人自身が

別に猛烈な現政権<信者>(比較相対的な消極的<支持者>として

現政権に一票を投じた有権者の1人ですが・・・。

だからこそむしろ積極的な是々非々の視点から批評する

当然の責務と資格がありましょう。

現政権支持の有権者以上に。

支持者からの批判の方がより政権に打撃的効果がありますからね。

それが民主主義の本義というものでしょう。

そうした観点から本日新聞紙面で報道されていた

世論調査を見ての特に若者世代の反応を観察していると、

意外にもこれが今の政治への現状評価としては

正直な心だと思われました。

もっとも、管理人は多少の違和感も持ち合わせている者ですが・・・

むしろ、この機会に財務省の「緊縮」体質改善の地盤固めとして、

「反」緊縮型財政政策や税制に造詣が深い人材登用へと

人事を刷新すべき時期だと思います。

そうでないと、ますます現政権は信認を喪失することでしょう。

このように考えていらっしゃる現政権支持層も多いと思われます。

ですから当然のことながら現政権をまるまる容認する<信者>でも

ありませんし、何も独裁・暴走を許す者ではないのです!!

特に最近、価値観を異にする友人知人との政治談義でも

このような丁寧な説明をして微妙な心理を伝えても、

冷笑・揶揄する存在があまりにも多すぎるように実感されます。

近年の傾向として、

このようなレッテル貼りやグルーピングをして選別・排除する姿勢は

政治的立場を問わずに見受けられ、

何かを論評するにはいちいち丁寧に説明しなければならない

誠に厄介な現象がすぐにも生起するご時世でもあります。

賢明で良識ある読者の皆さんの中にも

このような実感をされる方は多々おられるかと思いますので、

そのような公には言い出しにくいだろう苦しい胸中も

お察しして代弁してみました。

こうした意見表明は印象操作・フェイクニュースなどが

飛び交う現在ますます重要な視座になるとも思われたから

特に強調させて頂きました。

その煩瑣を避けては責任ある言論も民主主義の成熟度数も高まりませんので、

面倒でも管理人の言論姿勢として今後とも粘り強く誤解が起きそうな

論評箇所に至れば丁寧かつ誠実に説明していこうと思っています。

それはひとえに読者の皆さんの良識・良心を信じ切るからです。

そうでなくては、そもそも公的な言動などなし得ずに

社会的ひきこもりになるしかありません。

人間である限りは誰にでも言論・表現の機会が開かれていなくてはならないと信じています。

もちろん、社会的に許容されたルールは遵守しなくてはなりませんが。)でもありませんし、

あくまでどのような政権であろうと是々非々で公平な評価を下すべきだと考えています。

ここではさらに深くその「リフレ派」による各論旨や政策効果への論評は

省きますが、いずれにしましても長らく続けられてきた「緊縮」路線からの

脱却こそが未来への希望の道であることは確かでしょう。

ですから、皆さんにも是非「反」緊縮派を応援して頂くとともに

ただそれのみで終始することなく最終目的である

私たちの生活安全(安定)保障へと向けられた実績が

きちんと打ち出されるに至るまで注視し続けて頂かなくてはなりません。

それが、経済「民主主義」の本旨でもあるからですね。

「私たちの生活安定は私たち自身が多くの方々の相互協力を得ながら

勝ち得ていくものですから・・・」

「1人の力(すなわち、ミクロ的節約努力)だけでは

すぐに限界に達してしまいます!!」

そういった切実な意味があるからこそ、

皆さんにも抽象的で一般にはあまり面白みに欠ける「マクロ」経済学にも

是非とも幅広くご興味ご関心を持って頂きたいわけです。

とこのようになぜ本書ご紹介前に長々と管理人の論評姿勢や思想的立場も含めて

まず最初に提示させて頂いたかですが、

著者のように結論としてはおおむね妥当かつ合意形成可能に思われる

ご提案をされるわりには

その結論に至る過程でところどころ矛盾したように思われる論考に

あまりにも多く見聞し実感してきたからなのです。

ということで著者の前掲書

『成熟日本への進路~「成長論」から「分配論」へ~』

(ちくま新書、2010年第1刷)におけるご提案については

管理人はかなり批判的ではありますが、

著者の前掲書における主張内容の一部を本書ご紹介に先立ち

あわせてご紹介させて頂きながら、その背景をなす思想的立場を

ひとまず確認共有して頂こうとの趣旨で

以上長々と前口上を語らせて頂きました。

そのようなわけで今回ご紹介させて頂く本書については、

原則として好意的に取り上げさせて頂く姿勢でいますが、

個々具体的な論点批評には多少厳しめの評価がつくこともあるという点は

あらかじめお含み置き下さいませ。

そのかぎりでは、前にご紹介させて頂いた著者同様に

管理人自身にとっての本書への評価は<反面教師(教材)>としての

1冊であることは否めません。

今後様々な分野において管理人自身の日頃の嗜好性や思想的価値観とは別に

こうした観点から<反面教師(教材)>本も

積極的にご紹介させて頂く予定でいますが、

なぜそのような角度から批評する必要があるのでしょうか?

それはやはりこのような論客の方があまりにも多すぎるために

かえって誤解が広まったりして、その政策提案も十二分に活用されずに

「お蔵入り」や「うやむや」にされてしまうことも

世間には多々あることから

管理人のような一読者にとっても残念に思われるからですね。

言い換えますと、こうした同床異夢的論評が世間には多すぎるために

せっかくの良き志向性をもったご提案も実現が遠のくというわけです。

自分とは価値観が異なるという理由だけの判断で

そもそも耳を傾けようとしない頑なな姿勢が

より良き社会実現へ向けたアイディアを死蔵させていくという典型的事例は

本当に世の中には数多く見受けられるのです。

管理人自身の比較相対的な思想的立場は保守的な志向性を持つ者ですが、

左派リベラルの方々にも是々非々で歩み寄りつつ、

より良き社会実現へ向けた活動をさせて頂いている道中です。

今年は明治維新150年ですが、

世界的な大激変期を迎える最中の我が国もまた大国難の時代です。

歴史的評価は別としてもあれほどの犬猿の仲であった薩長が同盟し、

新たな夜明けが始まったことだけは否めません。

とはいえ、新しい「ご一新」が成った後の検証や

そこから汲み取れる歴史的教訓にも目配せしなければなりませんが・・・

管理人自身の志向性としては、

かつての恩讐の彼方を超えた左右対立状況を克服した

本来の「大和」を再建しつつ、世界の模範国家としての道義の道を

1人の日本人として、また人間として指し示したいという志にあります。

そういった志向性からの書評をさせて頂いています。

そのためには宇宙次元にまで視野を拡大させていく道標や先達が

是非とも必要だからですね。

いま必要なのは一貫して「大同団結」の心で

真摯に多くの方々と向き合う姿勢であります。

そのことこそが、本書との絡みでは

まさしくベーシックインカム実現を考える主要な狙いでもあるのです。

そのことは後ほどもご紹介させて頂く

『ベーシックインカムへの道』

(ガイ・スタンディング著、池村千秋訳、2018年第1刷、プレジデント社)でも

特に<実現への道>を探るうえできわめて大切な視点(戦術・戦略)だとも

強調されています。

そういう点でベーシックインカム論議を深める趣旨は、

ただ単に制度さえ実現すれば終わりではなく、

「居場所づくり」の場としても幅広い方々に共有して頂けるような

社会的志向性があるようですね。

常に発展途上の生々流転の「場」を皆さんとともに形作りたいのです。

その意味であくまでもベーシックインカム論議や制度実現とは

単なる入口にしかすぎないのです

ですから、この制度に過度の期待をし過ぎるのも

あとで失望感を招く元になりますし、

著者も前掲書や本書で語られているように

「衣食住」がすべて満たされたことを出発地点として、

さらなるより良き社会実現と個々の人間的成長に向けられた努力は

実現後においても続けていかなくてはなりません。

「衣食住」に安心感が持てるだけでも、あらゆる紛争のきっかけとなる原因の

一部が抑制されることも期待されます。

それに加えて<読書論>としても

細部の議論では正しくても全体としてはバランスが欠けてしまう

論考事例も多々見受けられることがあるという点は

皆さんが読書される際にも常に留意される必要があるということも

あわせて知っておいて頂きたかったのです。

さらに著者の思想的立場を再確認させて頂きますと、

前掲書<あとがき>によりますれば、

『19年の間に自分は個人主義的リベラリストから穏健な社会論主義者へと

変身』や『今だにシカゴ学派的なロジックは大好きである。』(双方ともに

同書262頁より引用)に見られるような傾向にあるといいます。

この思想遍歴はかつての管理人にも若干程度重なりあった時期もありますから

特に著者の言動変遷史に気が向くのかもしれませんね。

著者がかつて所属されていたマッキンゼー社はもともとの創設時の性格からして

<シカゴ学派>からの多大な影響を受けているそうなので、

当然ながら陰に陽にその影響を色濃く受けざるを得ないことは致し方ないでしょう。

管理人も含めて誰しもその人自身が置かれてきた環境によって

思想形成がなされていくものですから・・・

その点では誰しも矛盾を抱く存在でありますから、

あまり厳しく論評し過ぎるのも公平ではありません。

とはいえ、書評をする限りは読み進めていくうえで、

個人的に引っ掛かった点はどうしても問いかけておく必要があります。

それが良心的な著者になればなるほど度量(心の広さ)の幅を

拡張させ得る精神的糧にもなり得るものと信ずるからです。

ということで、著者の立場はあくまでも日本社会はすでに<成熟期>を

過ぎつつあるとの見立てから論旨展開されてこられたという点を

読者の皆さんにも事前にご確認共有して頂いた方が、

より本書へ込められた著者による意味づけも理解されやすくなるだろうと考え、

長々と著者の背景思想をご紹介させて頂く運びとなりました。

そして、この時期(連休前)に本書を取り上げさせて頂いたのも

ほかでもなく管理人自身が今週末に京都でのBI読書会を控えているために

その下準備勉強も兼ねての個人的課題書として読み進めてきたからです。

その成果の一端を皆さんにも少しだけご披露させて頂こうと

今回はこの本に決定させて頂きました。

ちなみに、本書は上記BI読書会における課題書ではありません。

さらに後ほど本文内でもご紹介させて頂きますが、

ベーシックインカム「賛成」論者の中にも様々な思想的派閥があることから、

先程の経済政策同様になかなか良い方向へと踏み出すことも叶わず、

共有可能な政治的「合意(コンセンサス)」も成り立ちません。

こんなところにも「文系」社会の限界が現れ出ています。

数学的「集合論」のエッセンスだけでも掴み取り、

実社会に活かしたいものです。

「数学は必ず役に立つのです!!

(後からその意義が判明することが多い迂遠な抽象的学問ですが・・・)」

そうしたベーシックインカム実現への道のりには

極めて険しいものがありますが、

それこそ「すでに機は熟した!!」であります。

それでは、長らくお待たせしました。

ここからが本題です。

AI(人工知能)×BI(ベーシックインカム)による「労働」観の変容がもたらす人間進歩の可能性を夢見る大切さ

それでは、本書の要約ご紹介を始めさせて頂くことにしましょう。

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・<まえがき>

①『第Ⅰ章 AI・・・人工知能とは』

・<第1節 AIとは・・・AIの発展の歴史>

・<第2節 AIと人間>

本章では、人工知能の開発史とその最終目的に向かう過程で

人間との決定的な相違点などについて分析考察されていく筋立てとなっています。

人工知能史に関しましては、すでに当書評ブログ内(記事①記事②記事③など)でも

かなり詳細にご紹介させて頂いてきましたので、

本書での解説論考との重なりも多く、今回の書評テーマでは

ベーシックインカム(BI)により比重を置いた姿勢で語っていきたく思いますので、

以下は若干程度の簡約をさせて頂いたうえで

残りの具体的論点は本書に委ねさせて頂くことを予めご寛恕願います。

基本的な人工知能史の概要は数多くの類書でも解説されているように

おおまかに3期にわけて前段階における開発過程で発見されてきた

それぞれの限界点突破(ブレイクスルー)を果たしながら

徐々に進展してきたことが知られています。

すなわち、第1次AIブームと第2次AIブームでは

いわゆる「フレーム問題」や「シンボルグラウンディング問題」といった

諸問題に遭遇することで、

人間ならいとも容易く判断・認識出来そうなイメージ操作をすることが

機械である人工知能には難易度が高すぎて精確・精密にうまく処理が

果たせないという限界があらためて人間の眼前に突き付けられたということです。

言い換えますと、人工知能では人間が予め設定させておいた

単なるアルゴリズムに沿った機械的記号操作しかなしえないという難題が

証明されたということになります。

つまり、この段階においては、曖昧かつ微妙な記号操作につき

まだまだ苦手な領域が広かったということになります。

その後、こうした曖昧かつ微妙な記号操作において、

特に専門的には<特徴量>や<微差量>といった画像分析能力の向上から

次第に事物のパターン認識の精度が高まっていくことになります。

そして、現在の第3次AIブームに至る突破口が次第に開けていくことになるのですが、

その推進力として、

・ディープラーニング(深層学習能力)の発展

・ハードウェアの性能向上(例えば、画素数や高速処理能力の向上など)

・ビッグデータの活用

といったいわゆる3点セットが揃ったことが挙げられるといいます。

そして、2018年段階ではそのAIの目的機能によって

「特化型」と「汎用型」に大きく区分されてきています。

「特化型」とは、あくまでもその名が示すように

何か特定の目的に沿った処理だけが可能な機能を有したものです。

いわば「局所的処理」に長けたAIですね。

対して、「汎用型」というのは、

特定問題に限定された処理機能を果たすにとどまらずに

人間脳に匹敵するような超高度な自律的処理志向を果たすことが

可能なAIに当たります。

現時点ではまだまだ人間にとっては脅威的存在となり得る「汎用型」AIは

実用的ではありませんが、日進月歩の勢いで

その性能も高まってきていることから

こうした「汎用型」AI時代に向けられた

人間による防御対策が順次練られているということは皆さんもご承知のところでしょう。

皮肉なことですが、人類史の発展の原動力の根底には

人類自身の労力や思考力の節約志向がありました。

そのことこそが、文明「開化」の推進力と深度を高めてきたのでした。

そのためには、どこまでも機械に人間に似せた能力開花の源を

与えてやらねばなりません。

そうした志向と同時に人間自身が備えている「脳」力には

どのような回路が埋め込まれていて、

また「意識」が顕在化してくるまでの諸段階を解明しなくては

なりませんでした。

それが、「ニューロン(脳内神経細胞)システム」の解析でありました。

まとめますと、脳科学は人工知能開発とも同時並行しながら

開拓されてきた学問でもあったということに尽きます。

とはいえ、こうした並行研究の過程で次第に判明してきたことは、

やはり人間と人工知能(機械)との間では、

その<分かり方>には圧倒的な壁があるということでした。

本書70~74頁ご参照のこと。)

能力と一口にいっても、あまりにも多種多様な能力が

人間自身には秘められていることから、

特に最初の「ひらめき(直感あるいは直観)」的反応や

感情を伴った微妙な質感を補足し得る知能までは

人工知能にはきわめて高度な難関として立ちはだかっていることも

解明されてきました。

こうした現在までの研究成果を踏まえたうえで、

著者もAIの強み/弱みについて簡潔にまとめられています。

とはいえ、何事も慢心は禁物です。

このように人工知能には弱点も多いとは言われるものの

仮に「汎用型(どの程度の能力までを獲得すれば人間にとって脅威的な

知能と言えるかはともかくも)」に近づけば近づくほど

ますます人類にとっての安全策を講じる必要性が出てくるのは

論を待たないところです。

そうした将来における「汎用型」AI時代における社会的課題が

人間の能力を補完するレベルに応じてより一層強まっていくことだけは

確かだというところでひとまずの暫定的結論に至ります。

なお、そうした「汎用型」AI時代における人間側からする

経済社会の見取り図や対策などは本書第Ⅲ章で

さらに次章のBI論とも相まって論考されていますので、

後ほど該当箇所に至った際に再び触れさせて頂くことにします。

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②『第Ⅱ章 ベーシックインカム(BI)の仕組みと効力』

・<第1節 BIの仕組みとメリット>

・<第2節 BIの実現可能性>

・<第3節 民主主義・資本主義とBI>

本章では、ベーシックインカム制度の仕組みやその趣旨、

それがもたらす成果・役割について様々な観点から解説されていきます。

ベーシックインカム制度についてすでに何らかの勉強をされてこられた

読者さんにおかれましては、

もしかしたら本書で紹介されている内容には既視感があり、

かなり物足りなく思われることもあるかもしれません。

また、初めての読者さんにおかれましては、

本書は、AI(人工知能)とBI(ベーシックインカム)論議の

最前線の一端をうかがい知ることのできる

コンパクトな「入門書」となりましょう。

そこですでに学習活動中の管理人から評価した本書の

読みどころを中心にまとめさせて頂くことにします。

まず第1節については、

<(4)BIの思想的意義>(本書126~133頁)です。

その解説中でもとりわけ秀逸かつ簡潔にまとめられているのが、

各思想的立場からのベーシックインカム制度への評価と期待であります。

第2節については、

その実現「可能性」を阻む障壁問題について分析考察が加えられています。

具体的には、

「フリーライダー(まったく自己努力もせず、あるいは自己努力を

節約して他人の余剰努力成果分へただ乗りする=濡れ手で粟)問題」

・「財源(そんなベラボーな大判振る舞い財源どこにある!?)問題」

の2点です。

この他にも細かい障壁はあるのですが、

その点は本書解説に委ねさせて頂くことにします。

ここでは「財源論」に絞って論評してみましょう。

「財源論」については民間と異なり

国家がその基礎財源を<創造>することが可能なのですから、

景気変動への微調整処理問題はあるものの

まったく調達不可能ということはありません。

ここのところで民間・家計(ミクロレベル)と

国家(または自治体を含めたマクロレベル)との

財源の捻出方法について世間ではかなりの誤解があるようです。

また、国家による財源捻出法については、

ほとんどが税収増で賄ういわゆる「増税」型を好んで取り上げる

論者が後を絶たないようです。

なぜか、「国債発行」や「通貨発行特権の行使」、

「通貨発行益(シニョレッジ)の有効活用」などは

無視されるか軽視される傾向にあるようです。

また、「通貨」に関しては、国家による正式な「法定」通貨だけではなく、

昨今目まぐるしく進化し続けている民間通貨との併用も

考慮していく時代がすでに到来しています。

その点で、現在進行中の国家・民間を問わずの

通貨制度改革(私たちの勉強会では

しばしばCI<カーレント・イノベーション>という言葉を使用しながら

議論を深めさせて頂いています。ちなみにこんな英語はないそうですが、

前にもご紹介させて頂いた井上智洋氏が講演会でわかりやすさと語呂の良さを

兼ね併せて考案された造語です。<AI×BI×CI>として・・・)の行方を

見据えた議論も必要であります。

管理人が前掲書や本書における著者自身による「財源論」を

確認させて頂いたところでも

そうした「増税」路線に偏重した傾向にあるように見受けられます。

ベーシックインカムに関する「財源論」に関して

著者は既存の税制体系における各種項目を組み直すことを通じて

あらたに生み出された余剰税収分や

あらたな増税分(=社会福祉<目的税>化という大義名分!!)で

補おうとするご提案をされている中、

景気変動の時期を考慮した柔軟な景気対策や一定の経済「成長」率向上へと

効果的に誘導させる政策手法による国民経済全体の底上げを狙った経済効果を

軽く見られるような志向性を含ませたかのように見えるご提案だと

具体的な生活場面ではかなりの重税感を国民各層に与えてしまうように

思われてなりません。

こうした理由から管理人自身は、なにが何でも「増税」案もしくは

あるいは「増税」志向に偏り過ぎたご提案には警戒心を持ち続けてきたのです。

現政権もすでに消費「増税」による庶民経済生活へ与える打撃を

緩和させ得る手法を検討する段階に入ったと伝えられていますが、

その結論をあまりにも早期に出し、実行に移されると

多少の問題点はあるにせよ、比較相対的に景気の回復軌道に入りつつあるという

状況下、同時に掲げる「賃上げ政策」にも大打撃を与えかねません。

そういった観点からすると、

現政権による現段階における<アベノミクス>手法の方向性にも

著者ご提案の方向性同様に一抹の不安を感じるわけです。

この「失われた20数年」を一気に回復させる特効薬もなく、

人口変動調整も今しばらく時間がかかるわけですから、

よくよく景気判断を慎重に見定めたうえで、

より望ましいマクロ経済政策を打って頂きたくお願いしたいところです。

国内経済の体質改善といった

「構造調整(管理人はあまり<改革>や<革命>といった表現を

使用したくはありませんが・・・)」がいずれにせよ必要なことは変わらないのですから、

可能なかぎり国民生活に打撃を与えずかつ著者の本旨でもあるとされている

『むしろより重要なのは、長期的な視野に立った実質的で本格的な

成長戦略の方である。』(波頭氏前掲書『成熟日本への進路』85頁)としての

マクロ経済底上げとそれによるセイフティーネット(安全網)構築効果も

あるとされるベーシックインカム論議を政府内でも深めて頂く意義はあります。

それは、前にも管理人自身が1人の「支持者」として提出させて頂いた

「全世代型社会保障制度」の具体的内容を明確かつ誠実に

早急に情報開示して頂きたいと願ったことにも直結します。

おそらく有権者の中でも特に現政権支持層は強く待ち望んでいることでしょう。

これなくして、ますます失われつつある信頼回復の道はないでしょう。

と同時に野党の方にも言葉尻をとらえた揚げ足取りを

一刻も早く止めて頂き、こうした本質的に今一番国民が求めている

議論に復帰すべきです。

それこそ、某有名ジャーナリスト女史ではありませんが、

『国会よ、与野党問わずに目を覚ませ!!』であります。

第3節では、ベーシックインカム制度と従来型の社会福祉制度との

相違点や民主主義との直結点を中心に説明されています。

ここで管理人自身も特に大切だと思われる視点は、

ベーシックインカム制度を導入したからといって、

現行の各種社会福祉制度のメリットまで完全に廃止する必要はない

いうことであります。

今一般に想定されているベーシックインカム制度だけでは、

当然に最低限の生活保障も危ぶまれますし、

勤労意欲の低下につながるといった批判も根強く残るでしょうから

いかな理想論者であろうと、ベーシックインカム制度だけでは

満足な生活など送れそうにないからです。

また、特に保守的なプライドのあるきわめて勤労・勤勉意欲ある方への

選択メニューとしても現行社会福祉制度の大前提である

「申請(任意)」主義にはなお意義が残りそうだからです。

ベーシックインカムは、その意義からして

特に「ユニバーサル」ベーシックインカムとも定義されるように

無条件に全員に一律適用される「強制」的制度になってしまうからです。

このあたりは、管理人も前回のBI読書会で

このような志向性を有した方が必ず一定程度はおられることを想定して

よく考えたらその定義からして愚問にはなりましたが、

「選択式」ベーシックインカムの可能性についても触れてみたことが

ありました。

とはいえ、そのような愚問??も杞憂のようです。

今週末に開催予定のBI読書会では、

『ベーシックインカムへの道』

(ガイ・スタンディング著、池村千秋訳、2018年第1刷、プレジデント社)

を使用する予定なのですが、

この本を精読しながら思索にふけっていると

<共通公共財源>として寄付(放棄)するなどして

積み立てていく方法なども浮かび上がってきました。

あるいは、ガイ・スタンディング氏がご提案されているような

ベーシックインカムの定義上、ユニバーサル(普遍的=全員一律のという意味)

制度という趣旨を貫徹し、

最初の分配時点では「返納不可」を大原則として

「選択型(<選択式>であれば、<申請主義>と同じことになってしまいます。)」

方式を認めないのであれば、

『行政実務の面では、全員に等しい金額のベーシックインカムを配り、

富裕層から税としてお金を取り戻す制度のほうが簡単でコストもかからない

(以下省略)。』(同書139頁ご参照のこと。)という方法論なども

考えられるようですね。

つまり、自由民主主義社会の本質である

<選択の自由>はきちんと確保されるというわけですね。

人々の<自己決定権>も同時に考慮加味された

制度設計でなくては、ベーシックインカムが志向する

共和主義的自由主義や民主主義原理がうまく機能しなくなるということも

大切な視点だからです。

また、そのような富裕層や社会的強者であっても

いつ何時不安定な状況に置かれるかはわからないからこそ、

ベーシックインカム制度には従来の社会福祉制度にはない

メリットも多々あり、そのメリットの中でも最大の優れた特徴点は

「待たなくとも直ちに(申請せずにという意味)、

必要な時(定期的かつ継続的ですから将来の生活設計に関して予測可能性が

担保されるという意味)に受給できる」ということに尽きます。

また、全員ですから、いちいち査定を受けることなく

人間的に傷つく機会も回避できるからこそ、

むしろ、これまで精一杯頑張って稼いでこられた方にとっても

プライドが傷つけられるという事態も少なくなることでしょう。

(それでも、個人的な主観的皮膚感覚はどうしても残ることは

否めないでしょうけど・・・。その点はもうどこまでいっても

本人の心の問題ですので、どこかで折り合いを付けて頂くほか

仕方ありません。)

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③『第Ⅲ章 AI+BIの社会で人間はどう生きるのか』

・<第1節 AIとBIが導く”新しいステージ”>

・<第2節 AI+BIの社会で人間はどう生きるのか>

本章は、そうした来るべきAI+BI社会実現後の

人間の生き方についてそれぞれの読者さんに考えて頂くための

素材提供論考となります。

本書要約の総まとめに入らせて頂きますが、

いずれにしましても、

AI+BI(管理人が先に触れさせて頂きましたCIも含めまして)が

当たり前に普及した社会段階に至れば、

従来型の勤労観や勤勉観、はたまた娯楽観(現在の主流はあくまでも

「余暇」と「消費」文化装置としての側面が強すぎますが・・・)も

大胆に変わらざるを得ないことだけはほぼ間違いないところです。

そうした理想(に見える)社会が実現した(ないしは近づいた)として

「あなたご自身、人生をどう有意義に過ごされますか?」という問いは

すべての人々に重くのしかかってくる命題です。

かえって、あまりにも豊かな世界になりすぎて、

人間として生きる意義を喪失してしまう方も続出するかもしれません。

それは、前にも語らせて頂いたことがあるように

「超」長寿社会が人工的に可能になったとして、

そうした事態に耐え得る性格を有した人間類型と

耐え難い苦痛を感じる人間類型にどうしても分離していくことが

予測されるからです。

こんな遠い未来社会にもなれば、予想もつきかねますが、

いずれにしましても、何かを生み出し、次世代に伝えたい何事かを

数多く抱えている人にとっては有意義に過ごせそうな時代のようですね。

とはいえ、このようなほぼ「不老不死」にも近い生き方が可能となった

世の中において全面的な豊かさの海で溺れない人などいないとも

想像されるのです。

それに人間が死ななくなるということは、

新たな生命を生み出すきっかけもなくなる(少なくとも

生命を産み育てていくといった負担が軽減される)わけですから、

現役世代だけがいつまでも生き残り続けていくことになるわけでしょう。

そうした社会においては、かつてのように様々な子育てなどに

まつわる心理的・経済的負担はあったにせよ、

あらたな生命を見守り、見守られる中で学び得た

<人間的>な何ものかを得る機会も乏しくなることでしょう。

そうなってはじめて、

「人間的とはそもそもどういうことを意味するのだろうか?」という

哲学的命題も再び問い直されることになります。

とはいえ、管理人の想像するところ、

あらたに産み出されてくる「生命」が身近に存在する機会が

減少すればするほど、いつも見慣れたメンバーばかりになり、

毎日の生活も変化に乏しくなるために、

寂しさだとかいった人間的感情を抑制し耐え得る人間など

絶望的なまでに少なくなるのではないだろうかと予見するのです。

なぜならば、いかに孤独を愛し馴染むことができる人間でも

そういった孤独状態を永遠に続けることはできないように

思われるからですね。

孤独というよりも孤「立」と表現した方が

そういった場面の状況が皆さんにも思い描きやすくなるでしょうが・・・

むしろ、豊かになり、有り余るほどの時間があるがために

現世人類の「時間は1日24時間・体は1つしか存在しない」からこそ

なし得ていたなにものかが失われてしまうようにも思われるのです。

逆に言えば、その失われたものこそが、

人間的なるものの「源泉」だったということになりましょう。

どうやら人間という種族とは存在し得る時空に限りがある

「有限的」生物だからこそ、いろいろと難題は抱えつつも、

突拍子もないアイディアが続出することが可能だったとも考えられるのです。

「私たち人類にとって、時空とは何だろうか?」も大きなテーマですが、

こうした時空論を理系書も絡めてこれまで論評させて頂いてきた

趣旨もここにこそ存在します。

あとは、本書をお楽しみ下さいませ。

それぞれの近未来人生を楽しく想像して頂きながら、

皆さんにも楽しい人生を送って頂く1つの考えるヒントにして頂ければ

紹介者としても本望であります。

そんなことからもルトガー・ブレグマン氏が方向付けて下さったように

<ユートピア>を夢想する意義は十二分にあるのです。

「空想的ユートピアから超現実型合理的ユートピアへ」

こうした近未来のユートピアは、

かつてのマルクスやエンゲルスなどが想定していたような

「社会(共産)主義」なのでしょうか?

管理人には彼らの本当の心を知るよしもありませんが、

何かが微妙どころか大きく違うような気がするのです。

そういった思想面から想像した社会イメージなども

各人各様に精一杯思い描いて遊んで頂ければ、

本書の効用もあるのではないでしょうか?

というわけで、管理人自身は、本書第Ⅲ章こそが、

著者自身にとっての売りだとも思われます。

違ったらごめんなさいね。

まぁ、現実は誰しも厳しい人生を送らされるわけですが、

「すべてはものの考えようと心の持ち方次第で

いくらでも変身可能なのが人間だ!!」ということ確信しつつ、

本書ご紹介の結びとさせて頂くことにします。

最後に著者にはいろいろと手厳しい書評・批評となってしまいましたが、

決して悪意から出た趣旨ではなく、

好著だと評価していますので、

皆さんの読後感もそれぞれ出てくるかと思いますが、

是非ご一読されることをお薦めさせて頂くことにいたします。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・<あとがき>

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憂き世を少しでも楽しく過ごすために不可欠なユーモアの効用を夏目漱石とイッセー尾形氏からあらためて教わりました・・・

<平成30(2018)年5月5日加筆修正>

それでは長らくお待たせしました。

前回の告知どおり<第2部 エッセーコーナー>から

再開させて頂きますね。

今回の記事では、来るべきBI(ベーシックインカム=基礎的生活所得保障制度)

実現へと向けられた各種団体による現時点での取り組み内容のご紹介や

BI実現後に予想される人類の暮らし向きの変化やそのあり方などを

皆さんにもご想像・ご検討のうえ

幅広く多種多様な議論を喚起して頂くことを願って

本書を題材とさせて頂きました。

ここで本格的なエッセーコーナーに入る前に少しだけ補足説明しておきますが、

よくベーシックインカムについて<最低限>所得保障というように

翻訳されたり、説明されたりすることがあるようですが、

こうした表現ではその制度趣旨(本旨)について

多大な誤解を招いてしまうおそれがあります。

といいますのも、<最低限>と表現されれば、

古代ローマ帝国のようにただ単に「パンとサーカス」さえ民衆に

与えてやりさえすれば、「大人しくしてくれるわい・・・」というような

圧倒的な権力を有した社会階層から支配操作されるだけの統治手段として

悪用されるおそれが多分にあるからです。

もっとも曲がりなりにも先進国と評された国々における

一般的かつ常識的な現代民主主義観では

このようなあからさまな階級闘争史観のような見立ては

あまりにも浅慮な見方にしかすぎません。

「民主主義の本義とは、治者と被治者の同一性」とは

よく政治学の教科書などで解説されるように

権力と権威の正統性をどこに設定すべきかという論点として

提示されますが、その主体として一般公衆(<大衆>という表現は

管理人自身はあまり好みません。

もっとも、歴史的な経緯からしばしば煽動者に

付和雷同してしまう事態も生起してきたことから、

その抑止策をいかに企てるかを目的とした

オルテガ氏やル・ボン氏のような<大衆>政治分析論には意義が

ありますが・・・)による「熟慮」のうえで

政治議題を「代議」する人間を選定・罷免することに対して

民衆自身に責務があることを大前提とした政治システムが

現代民主主義制度の暗黙の了解事項だからです。

とはいえ、事実上は政治的にも経済的にも社会的にも

一般公衆に比して圧倒的に優位な立場にある階層でしか

実際の政治統治運営はうまくなし得ません。

なぜなら、そんな「熟議」に参加している

各種能力的ゆとりがないからですね。

少なくとも、規模にもよりますが

国家や地方自治体レベルともなれば難易度が高まりますよね。

つまり、「熟慮」しながら民主主義的「自治」をまっとうさせ得るための

規模としては、現代の政治体制では大きすぎるという問題があります。

また、こちらの方がより重要な視点となるのですが、

圧倒的に管理人も含めて一般公衆の場合には

生活に追われすぎて、身近な生活文化圏で生起する

諸問題ですら議論し得る余地など残されていないからです。

例えば、町内会やマンションなどの自治会活動の

煩瑣な点などを想起して頂ければ、

どなた様もご了解して頂けることでしょう。

このようにして政治力・経済力・社会力あるいは

文化資本力などによる諸々の生活「格差」によって

先に触れた「治者と被治者の同一性」なる理念は

現実には「空念仏」と化してしまいます。

こうした本来の民主主義観が想定していた理念を

「空中分解」させてしまう制度的限界や当事者間の齟齬感情を

いかに解決すべきかの知恵と技巧的工夫を問うのが

現代政治学が志向する1つの課題でもあります。

こうした一般公衆間における「すきま(齟齬空間)」に

入り込んで来るのがあらゆる形態の現代広告宣伝技法であります。

すなわち、情報の「非対称性(格差)」といった誰しもが抱えている

知的弱点につけいりながら誤誘導しようとする情報操作手法のことです。

現代民主主義観が究極の理想として想定していた「熟慮(議)」も

生活自体が忙しすぎれば正常に機能することもありません。

また「熟慮(議)」するための素材となる知的道具立てを

手に出来る階層も

昔に比べれば言論・表現・出版・結社などの自由が

曲がりなりにも保障されているわりには、

圧倒的に少なすぎるのが現状であります。

まとめますと、現代民主主義の理念としてきた世界観想定を

実現させ得る大前提たる土壌(条件)が

現実社会にはまだまだ不足しているということに尽きます。

「こうした難しいことはわっちにはさっぱりわけわからん!!」と

思われた方もおられるでしょうが、

世の中の「カラクリ(仕組み=システム)」が

本当のところ一体全体どうなっているかを知ることが出来ただけでも

「なんでわっちの生活がこんなに苦しいのかのぉ~」といった

理由も次第に解き明かされていくことになります。

そのことによってこちら側からも改善案を提示しながら

システム全体を見直すきっかけが掴めることになります。

前にも要約部で語らせて頂きましたが、

1人でなんぼ頑張ってもがいてみても

どないにもならんことって世の中にはたくさんありますよねぇ。

こうした日々の疑問や悩みを身近にいらっしゃる

人々と少しずつでも語り合っていくことだけでも

世の中の現状を変える力となり得ます。

そんな大層なことでなくてもいいのです。

ただ生活していて困り切ったことを相談し合うだけでもいいのですよ。

それが、本来の広い意味での政治的営みでもあるのですから・・・

職業政治家がされているような活動だけが

何も「政治」ではないのです。

もっと身近な「自治」的営み。

つまりは、1人1人の生活そのものを意味します。

なぜならば、「自分(治者)で自分(被治者)を治める」のが

究極的な民主主義観だからですね。

そうした身近な政治観から次第に遠方へと拡張させていったのが

古代の政治的「自治」観でした。

今回参加させて頂いたBI読書会後の座談会でも

本記事末尾でもご紹介させて頂きました

井上智洋氏の新著

『AI時代の新・ベーシックインカム論』

(光文社新書、2018年初版第1刷)

第5章でも取り上げられていた「儒教的エートス」では

その短所ばかりが強調されているように感じられましたが、

その長所と管理人が考える点は、

こうした「身近な生活範囲(一番の原点は自分自身の内面から)から

遠い社会全般へ」と視野を押し広げていく感覚でありました。

「儒教」への一般的イメージは

中国における科挙制度などに見られるような

受験地獄をくぐり抜けた秀才エリート集団だけの

特権的知的道具のように思われがちですが、

その最終的な目的はあくまでも

「修身修養」といった個人の「自治」的側面にこそ

主たる意義があったものだと解釈しています。

もちろん、「儒教」自体を学ぶことの出来るような

知的階層は当時の社会では圧倒的に少なかったわけで

現代日本のような識字率の高い国では

そうした時代状況をイメージすることも難しいわけですが、

このような効用もあったことは是非知っておいて頂きたいのです。

なぜならば、こうした「身近から遠くへ」及ぼしていく思考法では、

まずもって自身の内面整理と姿勢が自ずから厳しく問われるからですね。

特に人の上に立つべきほどのエリート層であればなおさらのこと・・・

昨今の不祥事などを分析観察しながら異常事態が次々と生起してくる

背景事情などを管理人なりにも考察していると、

こうした学問の進め方にも大きな原因があったのではないかと思われてきます。

言い換えますと、いきなり遠い世界のまだ見ぬ理想を志向させた問題設定から

社会「改造」思想を学ぶことになっていきますので、

足下を見つめる自己内省作業が疎かにされてしまうのです。

つまり、極度に抽象的な世界観に馴染むことから教育が始まってしまいますので、

次第に地に足がつかなくなってしまう嫌いがあるということです。

先程の「儒教」教育を引き合いに出すと、

管理人の経験では、

一番大切な『小学』が疎かにされたうえでの

『中庸』『大学』『論語』『孟子』ですから

そんなの難しいに決まっているわけです。

前掲書でも少し触れられていましたように

さすがに何から何まで(例えば、箸の上げ下ろしやテーブルマナーに至るまで。

管理人自身はもちろんある程度まではこうしたエチケットもマナーも

大切だとは思いますが・・・)指図されなければ何も自主的に責任をもって

行動出来なくなるまでに心理的拘束を受けてしまえば、

心理学的にもダブルバインド(心理的葛藤状態の1つでどちらの規範が正しいかの

方向感覚を喪失させ二重規範の間でさ迷うような)状態に陥ってしまうなど

数多くの弊害も起きてくることから著者同様に容認し難いことだとは

思いますが、基本的な『小学』レベルの

例えば、挨拶だとか公共の場では飲み食いしないだとか

授業中や職場では私語を慎むだとか脱いだ靴は履き揃えるなどといった

程度のことは当然弁えた(習慣づけ)うえでなければ、

『中庸』などで理想とされる高尚な行動や言動など

出来るものではないくらいの常識は持ち合わせているつもりです。

なぜなら、自身の生活体験からもほとんど絶望的にまで

難しいことだと実感している(きた)からです。

だからこそ、自分にもなかなか出来ないことを

他人様に強要することも出来ませんし、

出来ない人をあまり責めすぎることも躊躇します。

とはいえ、社会の模範や木鐸となるべきエリート層となると

話はやはり別でありましょう。

また、管理人の気質としても志向したい道ではあります。

そうでなければ、世の中の<示し(けじめ)>がつかなくなるからですね。

そのあたりが、現代教育の「盲点」でもあるようですね。

それは、小は個人から大は国家の独立気概にも見られるようです。

管理人自身も日々、自身を内省しなくてはならない課題ですが・・・

「一身独立せざれば一国独立せず。」

「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らずと。」

いずれも福澤諭吉翁の名言ですが、

『学問のすすめ』で語られているものです。

「人間はなぜ学習し続けなければならないのか?」

言い換えますと、「学問」の意義・効用ということですが、

『「学問」とは学び問い続けること』であって、

短慮や浅慮を戒め、自身の偏見や高慢さをへし折る利点があります。

謙虚さや敬虔さをいかに体認・体得していくかが

本来の「学問」の課題であります。

現代教育では、「実学」と称してすぐにも実生活で役立つ

即効性ある「ノウハウ」だとか「テクニック」だとか

各種「ハウツウ」が好まれますが、

「実学」を重視した福澤先生もこのような現代の風潮を

想定して「実学」論を提唱されたわけではないでしょう。

恥ずかしながら管理人自身は大学受験の頃、

かの福澤先生が創始された大学には落第しましたが、

その教育方針だけは慶應義塾大学出身者以上に

大切な教育訓話として折に触れて点検させて頂いています。

しかも、福澤先生は大阪の適塾ご出身。

今とは異なる古き良き時代の

大阪「教育」文化が根付いていた頃の息吹も感じられます。

「規律(制約)ある自由」という考えも

人間は誰しも間違うことがあるからこそ、

決して傲慢な無謬性に陥ってはなりませんよという

教訓だと解しています。

これも難しい課題ですが・・・

ところで、大手マスメディアや教育機関を通じて教えられる情報だけでは

「システム」の全貌がどうなっているかを理解することも困難なことです。

管理人自身ももちろん世の中の全体像が真実のところ

「どないなっているのか?」など知り尽くすことも出来ていません。

ために、よく騙されることもあります。

騙されまいと身構えていても1人の個人がどれほどのことを

学ぼうとしたところでこの世の全体像や真実を汲み尽くすことなど

出来ようはずもありません。

だからこそ、1人では知り得なかったことを様々な方々の

著書や講演などに触れたり、また同じような悩みや問題意識を

もった方々と接する機会を増やすことで

自身の人間的「盲点」を補うべく努めています。

「書物を読む人にしかわからないことがある!!」とは

前にも語らせて頂きましたが、

それは同時に書物を読み、そこからなにがしか学び取り得た人間ならば

世の中へ向けて再伝達(発信)する高貴なる使命義務(ノーブレス・オブリージュ)が

あるということです。

少なくとも管理人はそのように解し、確信した時から

書評活動を開始させて頂くことになりました。

そうした人生におけるあらたな活動を始めていく過程で、

現在の仲間にも出会うことが叶いました。

そんなわけで、最近は様々なところで

「読書会」や「書評合戦(ビブリオバトル)」なる

知的遊びも静かに浸透しつつあるそうですが、

1人だけで読み進めていても独りよがりな読み方になったり

読み落としもあるものですし、他の読者の意見に触れることを通じて

多様な見方を取り入れることが叶います。

そこから自身の「盲点」を補うことも出来るのです。

人間でも書物でも1人では孤立していて気づけなかった

こうした「盲点」を突破してくれる意外性に出会うことが出来るからこそ

こうした知的娯楽活動も面白いのです。

「読書会」や「書評」には

何かかなり難解な専門書や高尚な文学書を読み評釈するイメージが

一般にはあるようですが、本当にどんなジャンルでも良いのです。

絵本でもマンガでも

ご自身にとって魅力を感じてなにがしか心に残っただとか

勉強になっただとか、その書物を取り上げる理由なんて

何だっていいのですよ。

要は、読者の皆さんが是非この本は誰かにご紹介したいという

想いだけがあればそれだけで十分なのですから・・・

読書を通じて人間同士が集う「居場所」をあちこちに形成する・・・

そのような「読書村」というか「知的遊技場」が出来ていけば、

世の中の成熟度も高まっていくと確信しています。

と語っているうちにますます深みに嵌り込んでいきながら

当初の問題設定に対する回答を引き延ばしてしまいました。

要するに「なぜベーシックインカムの<ベーシック>を

<最低限>と翻訳してはかえって誤解を招きかねないのか?」に

対する回答でしたね。

この問題についても多種多様な見解の相違があって、

一概にこれが「正解」だという「回答」を持ち合わせているわけではないのですが、

管理人自身の暫定的回答として示しておきますと・・・

何をもって<最低限>所得ととらえるかは各人各様で異なりますし、

地域や景気状況によっても常に揺れ動きますので、

具体的な<最低限>所得金額など確定することは難しい作業です。

一応のベーシックインカムに関する主流の定義では、

「一律」分配を想定していますから、

基本的には全国どこでも画一に決められた一定金額ということになるのでしょう。

このあたりの具体的な設計方法については、

本邦ではまだ議論の入口にすら到達していませんので、

架空想定問答のようになってしまいますが、

ここでは、ごくごく普通の生活人にとって、

少なくとも自身の生活志向や嗜好からは

十分な欲求を満たすことが叶わなくとも

通常の経済生活を営む限りにおいては困窮することなく、

また経済力が足りない(なさすぎる)がために、

自身に適した就職や求職活動の妨げにならない程度の

所得保障ということにしておきましょう。

そのことを大前提とした所得保障設計ということで、

あくまでも<基礎的>という表現を使用させて頂きました。

とはいえ、現状の年金制度でさえ

本来はそれだけで生活が保障されるべき「基礎」年金の性格を

持つべき制度設計であったはずのところ、

まったく「基礎的」にはなっていないからこそ

それへの皮肉と批判も込めて

この表現でもまだ誤解がありましょうが、

あえて「基礎的(=一応その所得金額で生活に困窮しないレベル)」という

表現で説明させて頂いています。

こうした問題点が現行の各種社会福祉制度には残されているために、

あくまでも「基礎的」のレベルをもっと現代生活の実状に合わせたものに

「引き上げるべき」だとの趣旨で

あえて<最低限>に代えて使用させて頂きました。

それでは一応の補足説明を完了させて頂いたところで、

ここから開幕させて頂くエッセーコーナーの<導入部完了>と

いたします。

「吾輩は一体何をしておるのじゃ・・・」

「貴様は<高等遊民>であるぞかや・・・」

「頭が高い~、控えよろ~」

「(黒猫大明神様と読者様に向かって)頭を下げる・・・」

というわけで、ようやくエッセー部で語りたかった本題へと

導入部がつながったようですね。

ここからは、去る本年3月30日金曜日の晩、

時短労働のおかげで長年月待ち望んでいた

大阪阿倍野橋における近鉄アート館で公演された

敬愛するイッセー尾形さんの夏目漱石作品を題材とした

『妄ソーセキ劇場+1』に足を運ぶことで

その独特な世界観に浸ることが叶いましたので

そのご報告を兼ねながら、

イッセー尾形さんや夏目漱石さんに頂いたお題をテーマに

徒然と語ってみましょう。

この『妄ソーセキ劇場+1』は、

3月29日木曜日~4月1日日曜日にかけて

夏目漱石作品の『抗夫』『草枕』『道草』『門』『明暗』で

描かれている物語モデルを背景にイッセー尾形さんが

現代風にアレンジされた喜劇かつ悲劇とともに

日替わりメニューでの有名文豪作品を題材とした

時に歌もはさんでの歌劇として公演された

<1人芝居モノ>であります。

管理人が観劇させて頂いた3月30日金曜日の

日替わりメニューは、横光利一氏の機械でありました。

いずれも、現代にも通底する一般庶民生活を描きながら

社会風刺も兼ねた鋭い作品群であります。

横光利一氏はまったくはじめての体験でしたし、未読の作家。

恥ずかしいことですが、今回の主人公夏目漱石氏の<小説>作品も

ほとんど馴染むことなくこの年齢にまで達してしまいました。

とはいえ、漱石氏もまた管理人と似た性格を有しておられたそうで、

憂鬱感情や特に神経質な性格だったといいますから、

10代の頃から興味関心ある作家の1人として

心にも引っ掛かっていた存在ではありました。

漱石作品で読了したのは、

前にもご紹介させて頂いたことのある

『私の個人主義』だけで、

教科書などを通じた受験用知識としてしか記憶としては

残っていない漱石晩年の心境とされる<則天去私>や

ユーモアを駆使した軽妙洒脱さに至るまでの生活観や人間観といった

人生観の一端をほんの少し教わったことがあるくらいだけで

その人物像をほとんど知ることもありませんでした。

そんなことから、イッセー尾形さんの芝居を見る予備知識として

急遽3月中にこれら作品群を読んでいったわけですが、

意外にもどれも長編モノですし、

文体も現代語にアレンジされてはいるものの

明治文語調で森鴎外ほどの「擬古文」ではないものの

読みにくいことに気付かされたのでした。

すでに公演までに時間もなく、日々の生活時間で

とてもとてもじっくりと漱石作品群と向き合っている時間も

ありませんでしたから、安直ではありますが、

短い<あらすじガイド本>にてその内容だけは確認しておいたうえで

公演へと足を運ぶことになりました。

1つ1つの作品をよく読み込まれたうえで

よく練り込まれたイッセー尾形作品でありました。

有名な文豪作品に関する「朗読会」は

様々な俳優さんが各地でなされていますが、

<1人芝居モノ>にまで仕立て上げるのは

かなりの力量が必要とされますし、

まずもって夏目漱石を心から敬愛するとともに

その性格を知り尽くすこと、さらには

漱石と同様の生活体験や精神病理的??体験を

経た人生を過ごしてきたことのある者でなければ

味わえない微妙な質感というものを捉えきることも

難しいでしょう。

しかし、そこはさすがイッセー尾形さんです

これまでも数々の舞台での孤独な<1人芝居>体験を

積み重ねて来られたわけですから、

安心して観覧することが出来ました。

管理人も漱石ほどではありませんが、

「うつ」体験もありますし、神経「症」といった

精神病理的状態にまでは至ったことがありませんが、

それでも他人からはそのように見られることが

少ないようですが、

心の奥底で抱え込んでいる自身の最大の弱点や悩みといった

暗部に土足で踏み込んでくるような輩に遭遇すると

本当に癇癪を起こしてしまいそうになります。

少年の頃は本当にこれで悩まされましたね。

今はもう大人ですので、

他人の反応を見据えながら、

それなりの忍耐力もついてきたようですが、

人によってはたまに癇癪を起こしそうになる一歩手前にまで

至ることもありますから、漱石の悩みはよく理解出来ます。

あるいは、意外にも漱石は作品が売れ出して、

生計がある程度成り立つまでには

経済面でも相当な苦労を積み重ねられたようですので、

「金は俺の敵!!」みたいなところもあったそうですね。

そうした性格だったそうですから、

漱石自身の心理コントロール技法の1つとして

「書き綴る」心理療法が彼の場合には効いたようです。

それが、彼の作品の背後には隠されています。

一見(一読)すると荒唐無稽に感じられる要素もないとはいえない

漱石作品群(特に初期作品『吾輩は猫である』など)ですが、

晩年になるにつれてかなり重厚な宗教哲学的要素も加味された

作品へと仕上げられてゆくわけですが、

そこかしこにユーモアがたっぷりと仕込まれているところを見ると、

漱石もまた、

数ある作家の中でも照れ隠しが

ひじょうにうまかった作家だったのかもしれませんね。

そんな「魂」を宿した作品群でしたので、

管理人も今後時間を見つけては漱石作品を深く味わっていきたいと

思っています。

今回の『妄ソーセキ劇場+1』における漱石作品の中で

一番印象に残り、またこの機会に読み始めている作品が

『抗夫』であります。

いわゆる<高等遊民>(=今でいうところの高学歴ニート!?)が

慣れない肉体労働者生活を経験することで、

今までに自覚することの出来なかった<真の自己>に目覚めていくという

物語であります。

こんな物語など世が正常な経済状況であるならば、

ついぞ体験することなく終わってしまう世界観であり、

冷笑の下、一笑し去るような作品として

管理人も知ることなく人生を過ごすことになったことでしょうが、

たまたま超就職氷河期世代として

『抗夫』ほど過酷な飯場生活までは体験したことがないものの

それを相当程度薄めたような労働生活は幾度か経てきたことが

ありました。

いわゆる「ブラック企業」体質の事業所でしたが・・・

そんなところでも自分の能力に見合った「居場所」が

確保し得るのだろうか?

この漱石作品『抗夫』ではたまたま主人公が良い先輩に出会うことが

叶ったために、一応の<ハッピーエンド>結末を迎えることになる

わけですが、現代のブラック企業ではかえってこの作品『抗夫』が

別の形で悪用されるおそれも十二分にあり得ます。

「隣の芝生は青い・・・」とかね。

まぁ、そういった現実味を帯びた重い話は脇に置いておきましょう。

いずれにしましても、

今現在も様々な心の病などで悩んでおられたり、

過去の過酷な労働体験などで長期間引きこもり状態に

心ならずも陥らざるを得なくなった方々には

それぞれの心境にあった作品で構いませんので、

漱石作品を皆さんも読んでみませんか?

そうすれば、

予期もしなかったあらたな世界観へと誘われるかもしれませんよ。

今回もまだまだ語り合いたいことは山ほど積み残してしまいましたが、

(ネタは豊富に持ち合わせています。)

またいずれ追々提出させて頂くと言うことで、

残り僅かのつかの間の休息期間を憩って来て下さいね。

最後に目の保養に読書会前の午前中に訪れた

滋賀県膳所にある義仲寺の「心」と

琵琶湖沿いの風景を皆さんにお届けしながらお別れの

挨拶へと代えさせて頂くことにいたします。

IMGP1081 IMGP1080

(いずれも管理人撮影。松尾芭蕉など各界の文人墨客が愛した

<朝日将軍>こと木曽義仲公と巴御前の墓所でもある御寺です。

管理人も10代にはじめて『平家物語』の一節で

義仲公と主従である今井兼平公の最期の模様を知ってから、

芭蕉翁と同じく憧れ親しんできた身でしたから、

いつの日にかこの義仲寺に訪れたいと念願していたところ

ついに導かれました。

(ちなみに、義仲寺情報はこちらのサイトがご参考になります。)

京都の法観寺(通称:八坂の塔)へはお詣りさせて頂いたことは

ありましたが、たまたま境内開放日に遭遇した時で、

いついかなる時でも境内参拝まで出来るわけではありません。

そんなわけで謡曲『巴』謡曲『碇潜(いかりかづき)』とともに

修羅能として有名な作品ですが、好きな一曲ですね。

またこの御寺の再建に活躍された知る人ぞ知る著名人も

静かにその「心」に寄り添いつつ眠られています。

<夢>や<志>を持つことの大切さをあらためて気付かせてくれます。

再建事業に尽くされたここに眠られているお二方も

知る人ぞ知る著名人ですが、汚穢(おわい)にまみれた

俗世間による人物評価などと異なり、

誠にもって清々しさを感じさせられます。

管理人にとって、正直言えば俗世間的な右左の価値観など

どうでもいいのです。

芭蕉翁ではありませんが、風雅・風流の「心」を真に知る者とのみ

本当は時間をかけて語り合いたいのです。

そんな方は現在も将来も世間では本当に少ないですけどね。

『剣魂歌心』

この無心さ、無私さがよいのです。

管理人は、歴史愛好者ですが、

本年明治維新150年で京都でも幕末関連行事が目白押しで

多くの若者や世間でも賑わいを見せているようですが、

「勝者」によって形成された現実の歴史や歴史観など

どうでもよくあまり興味関心もありません。

昨今では右左問わず世間では、

いわゆる<滅びの美学>を意図的に貶める風潮・思潮にありますが、

「勝者」のかげで真の「夜明け」を念じて滅び去っていった

志士にこそ皆さんも心から感謝の「誠」の祈りを

捧げて頂きたく願います。

「先人の苦心の想いが忘れ去られる時、

歴史はまた血を欲する!!」ようですから、

血が流されたくなければ、

必死の想いで祈り続けるほかありません。

「すべては、世界平和と宇宙弥栄のために・・・」

『一心公平無私』

この言葉は、管理人の郷里からも参加していった

天忠組の標語ですが、

まさしく「天道」感覚をもった力強い響きがあり、

座右の銘でもあります。

『南山踏雲録』

これは天忠組記録方であった伴林光平さんが

残された記録型紀行文でありますが、

義仲寺再建事業にご縁あった保田輿重郎氏も

伴林光平さんの『南山踏雲録』の評注とともに

同名の表題を掲げられた1冊を遺しておられ、

今は「文庫本(「新学社」<保田輿重郎文庫13>、2000年第1刷)」

として手軽に入手することも出来るようになっていますから、

歴史愛好者かつ<慰霊・鎮魂・顕彰>の「心」を

共有されておられる読者様には

是非ご一読のほど宜しくお願い申し上げます。

そして、<剣>の話題が出たついでに一言。

<剣>とは決して「武(兵)器」の1種などではありません。

また単なる美術品でもありません。

先に触れた『剣魂歌心』の言葉を遺された方が思い描かれたように

「雑念(慮)」を払い除ける

本来は汚れた「魂」を磨き直す<破邪顕正>の

真澄の「鏡」を意味するもの

少なくとも管理人は理解しています。

世はアニメや映画『るろうに剣心』などの影響なのか

刀剣ブームとやらで若者や女性にも人気があるようですが、

決して殺傷するための「凶器」として「眺める」ことなく、

日頃の自分自身の「心」を見つめなおす<ひとすじ>の

「鏡」としてご観賞して頂ければ幸いです。

ちなみに、奈良県立美術館で今現在開催中の

『奈良の刀剣 -匠の美と伝統-』

是非お薦めの特別展覧会です。

値段も「国立」博物館に比べてお得です。

『<通>は、「国立」よりも「県立」』を合い言葉に

奈良へ散策されるご予定がある方には

少しお時間をとってでも足を運ぶ価値は

十二分にあるかと・・・

また駐車場はこの連休中はどこもかしこも満車状態の

ところも多いようですが、時間帯をうまく見計らって

選んで頂ければ、駐車場「数」自体は

民間・市営問わずにかなり多い方だと思われますので、

そのあたりは京都に比べて少しはご安心頂けるかと思います。

ここで管理人から奈良県へ陳情の件があります。

奈良公園周辺を見渡す限り、

自販機周辺ですら、ゴミ箱がほとんど撤去されているようでしたが、

そのためか、あちこちにゴミが散乱。

酷い事例になると人目に付かない場所などに

ゴミが隠されていました。

外国人だけではなく、日本人のマナーも酷くなる一方ですが、

こうしたゴミ問題を何とか解決してやれないものでしょうか?

景観配慮「条例」などの諸般の事情もあるのでしょうが、

この点はご再考願いたいところです。

景観配慮も行き過ぎると、

かえってこのような大量のゴミ散乱の要因を

つくってしまうことになります。

こんな時こそ、ガイ・スタンディング氏の前掲書では

評判が悪かったようですが、

長所もあると思われる「リバタリアン・パタナリズム」で

言うところの「ナッジ(誘導)」理論も必要不可欠で

ある程度までは効果的な政策手段だと思われます。

また、当美術館へ出品展示中である

管理人も一押しの河内國平さんの刀剣展も

京都は本能寺にて同時公開中とのこと。

期間は奈良県立美術館に比べて短いですが、

こちらも是非お薦めします。

京都へ行かれるならば、

この奈良・京都を観光ルートにして

旅行プランを立案されるのもいかがでしょうか?

特に外国人の方にも気に入って頂けるかと思います。

そんな悪念や雑念にいとも容易く「心」を奪われかねない思潮の世に

身を委ねざるを得ないのが現代人の悲しい性ですが、

最期まで「人間」として踏みとどまりたいと

願っておられる「良心」と「良識」を持ち合わせておられるすべての方に

是非一度は訪れて頂きたい滋賀県の1名所とともに

ご紹介させて頂きました。)

IMGP1082 IMGP1083

IMGP1084

(琵琶湖岸から眺めた景色と有名なシバザクラです。)

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(船着き場に徐々に接岸してくるこれも有名な観光遊覧船『ミシガン』です。

ちなみに、ミシガンについての詳細な情報はこちらのサイト

ご覧下さいませ。)

このように近江國と大和國の巡拝旅行から本書の主題である

生存権・生活権保障の問題もあらためて考察探究してきましたが、

歴史的には只今現在でさえ、

とても確立した思想的価値だとは思われません。

「政の原点は<慰霊・鎮魂・顕彰>の三位一体と

何よりも民衆の福利経済の確保から」始まる

古代の賢者も申されています。

この「心」が忘却・軽視される時、

世は再び「動乱」の火ぶたが切って落とされます。

それほどまでに、<経世済民>という考えは大切なのです。

そんなことを旅行中にも再読していた

『日本人の味~荘八ざっくばらん~』

(山岡荘八著、太平出版株式会社、昭和44年)

収録されていた<まごころの開花>中の

エッセー論考文「家康と百姓」(248~254頁)における

俗に言う<生かさぬように 殺さぬように>に関する解釈を巡る

一文から現在に通ずる教訓をつらつらと考えてもいたのですが、

この言葉自体かなり誤解されて世間に流布されているようですね。

大切な「心」は「百姓」といった特定の庶民階層だけではなく、

「支配層」をも含めた「分配の公平・平等」観をいかに浸透させ、

もって万世の天下泰平の世を切り開く指針とさせていくかの知恵に

あったようです。

もっとも、家康の時代と現代とでは「経済」規模も大きく異なりますし、

その価値観も異なることは論を待たないところでしょう。

がしかし・・・

家康からの江戸時代は一般的なイメージでは

<質素倹約>だけが先行していますが、

マクロ経済的には当時の富裕層である大名家などに

参勤交代を課すなど「分配面」での配慮もしていたそうです。

現実的には参勤交代制度も徐々に縮小はされていくのですが。

五街道ほかの街道筋など

社会「交通(物流)」基盤整備も大規模になされるなどして、

お金の流れを意図的に切り換える工夫もあったといいます。

ただ貨幣制度においては、金銀複本位制度が活用されるなど

大阪(上方)と江戸、さらには地方経済圏では

その貨幣流通における棲み分けなどの問題もあったようですが、

難しい点は多々あれどもおおむね「分配面」の正義を

考慮した経済観も取り入れられていたのでした。

時期によってその強弱(つまりは、緊縮型か反緊縮型か)の

違いはありますが・・・

いずれにしましても、「分配面」の公平をいかに考え、

経済制度の背景をなす思想に反映させていくべきかは

今も昔もまた将来も変わらないということです。

この世に完全無欠の制度などあり得ませんが、

人類はここまで科学技術や学術などの諸技芸「知識」は

積み重ねてきました。

唯一足りないのは「知恵」であります。

ということで、この<無い無い尽くし>の「知恵」を

いかに「集約」させていくかがこれからの正念場であります。

人工知能などを駆使させたビッグデータ活用なども

考えられますが、1つだけ忘れてはいけない視点があります。

それは、「情報」の「情」とは

「こころ」でもあるということです。

「匿名」だけの情報交換では得られない

「直接対面」での情報交換の重要度は

むしろ今後ますます高まっていくことでしょう。

そんなことを予想しつつイデオロギーを超えた

人間的叡智の結集が求められています。

大学などの高等教育機関でも

そうした意味での本来の「学問」回帰が

遅かれ速かれ始まっていくものと思われます。

その「心」なく「学業」に勤しもうとしても

人生の時間の無駄でしょう。

そんなこんなでたまたま今月発刊の『正論』誌(産経新聞社)

大学以来久方ぶりに手に入れて読みながら

考えさせられたのが、

掛谷英紀氏による『大学政治偏向ランキング』でありました。

まぁ、予想どおりでしたが、

母校が上位に入っていたので一言だけ

受験生や保護者の方へ物申しておきますと、

あくまでも一部の学者や生徒だけですから・・・

そこはご安心して入学して頂けるものと確信しています。

母校の入学・入試センターに成り代わって

卒業生の1人として代弁させて頂きます。

いずれにせよ、「学問」をし続けていくためには

それなりの「判断力(見識や胆識)」を自ら養い育てていく

覚悟が必要となりますし、

もはや大学生ともなれば先生から教わる内容を

ただ鵜呑みしているだけでは「大人」とも言えないでしょう。

たとえ偏向していると感じる学者に当たったとしても

それをどう受け止めるか否かは学生の責務です。

厳しいアドバイスになりますが・・・

それが、真の意味における「学問の自由」あるいは

「大学の自治」というものでしょう。

大切な姿勢は多種多様な見解に触れながらも

自らの<皮膚感覚>を磨き上げながら、

問題意識(疑問点や違和感)を守り育てていこうとする

体感学習だということです。

少なくとも管理人の師匠は法学部内では比較的まともな

公平感覚を有されていましたし、ゼミの説明会などで

先生ご推挙の書籍一覧には保守から左派リベラルまで

バランス良く並べられていたのを思い出しました。

ゼミ選びの際に管理人自身が注目していたのは、

バランスよく大学生らしい学問が出来そうかや

楽しい思い出作りが出来そうかなどで判断決定していたこと

今は懐かしく思います。

勉強ばかりでもなく遊びばかりでもなく、

若者らしく学業に勤しめる教育的配慮が行き届いているかも

大切な判断材料ですね。

とともに本好きの管理人にとってはここが一番大切ですし、

経済的観点もなお一層大切な視点ですが、

母校の図書館充実度は関西私大中でもトップ。

(ご参考資料として、こちらのサイトご紹介しておきますね。)

最近は近畿大学さんも頑張っていますので、

今後はどないなるかわかりませんが、

こうした図書館充実度こそ実は教授陣の「質」よりも大切だと

思うのですね。

図書館には、右から左まで多種多様な雑誌類も充実していましたし、

特に好んで読んでいたのが別冊 宝島

学問的には果たして「どうかなぁ??」なんていう本も

ありましたが、特に当時は苦手だった経済学や哲学、理数系分野などに

至るまでよく勉強に疲れた時に読んでいましたね。

ついつい面白すぎて読み込んでしまい

肝腎な「本業」の方が疎かになっていたこともありますが・・・

調査された上記論考者は理数畑で人工知能分野にも

それなりに造詣が深い方であるようですが、

今後「価値」の問題をいかに扱うべきかという論点は

人工知能研究者ではなくとも多大な興味関心があるところだと

思います。

思想問題については掛谷先生も理系的視点から

簡潔にまとめておられますが、

本記事末尾でのご参考文献としてご紹介させて頂いている

井上智洋先生の新著第5章も読みどころ満載の論考文ですよ。

是非ご一読の程お試しあれであります。

マックス・ヴェーバー著『職業としての学問』での問題提起とも

重なり合いますが、果たして「社会科学」の場合には、

いかにして「科学的」価値にまで高め得るのか?

難問ではありますが、

「科学」への定義付けはともかく

「学問」ということで言えば、

常に誤謬性を帯びることを大前提に何度でも

後世の強靱な検証に耐え得るレベルにまで

高めていく研鑽力が必要不可欠となります。

この研鑽力の高度化こそが、

知的にも人間的にも謙虚さの源泉だと思う時、

管理人もまた「未熟者」ですが、

こうした学問の究極的理想へと向かい進化成長し続けていきたいと

願っています。

大学や師匠選びも難しい時代ではありますが・・・

一方で、上記雑誌の今月掲載記事である

『西郷隆盛はNHK「西郷どん」では分からない』と題した

新保祐司氏と先崎彰容対談も読みどころ満載。

管理人としては、

すでにこの<傾向>雑誌そのものには大学生時代ほどの

新鮮味を感じませんが、この2記事は

今後各界でじわじわと効果を発揮していく

(議論が喚起されていく)ことが大いに予想されるだけに

ご一読されても損にはならないことでしょう。

さらにこの連休中後半部においては、

録画しておきながらなかなか観る機会もなく過ぎ去っていた

天海祐希さんと佐々木蔵之介さんら主演の

本年2月23日放送済みの読売系テレビドラマ番組

『天才を育てた女房』も久方ぶりに泣かせましたね。

「貧乏には何もいいことはない・・・」というセリフも

印象的でしたが、

学界における俗人的人間模様や

人間を「信じ切る」ことの大切さや

人を育て上げるということは

一体全体どういう意味を持つ営みなのかなど考えさせられました。

湯川秀樹博士を介した交流も見所。

日本の学界ではまったく認められなくても

コツコツと文字通りに<淡々と黙々と>

学問に熱中していれば、

「わかる人にはわかる!!」のですから・・・

現役の学生さんや

かなか業績が認められない研究者の方にもお薦めします。

その「心」だけは万国共通なのですから・・・

是非ご自身と取り組んでおられる課題だけでも

信じ切って邁進して下さいませ。

岡潔先生が取り組んでおられた数学も

常に「中間」論文段階で立ち止まりつつ、

その評価も常に「待ち」の状態が続きましたが、

最後にはきちんと評価されました。

岡先生の「関数」理論の具体的内容についてはわかりませんが、

ドラマの中で少しだけ紹介されていたように

現代数学の最先端であり管理人自身もまずは文系的視点からの

思想面で興味関心ある「集合論」や「位相(層)論」にも

つながっているそうです。

難しそうな課題ですが、

いわゆる社会科学が「科学」として大成し得る道理としても

こうした分野における数学理論から獲得されてくる知恵を

なにがしか活用、転用し得ることが叶うかもしれません。

ご参考までに、この分野にご興味ご関心ある方向けに

①『「集合と位相」をなぜ学ぶのか~数学の基礎として

根づくまでの歴史~』

(藤田博司著、技術評論社、2018年初版第1刷)

バートランド・ラッセル卿の

『数理哲学入門』(河出書房<世界の大思想26>所収論文、

昭和41年)もあわせてご紹介しておきましょう。

文系人の場合には、まずその思想的理解から始める方が

取っ付きやすいかもしれませんね。

とはいえ、一筋縄ではいかず、

十二分な時間がなければ理解も及ばないという難読書と

なりますが・・・

「時間に制約ある中で、いかに学問の時間を抽出するか?」

この命題は、真剣に学問に道を求めようとされる

<求道者>型かつ<のろのろ運転>型人間にとっては、

常について回る難問ですが、

「1日でも早く1日3時間??労働(←これでもまだしんどい

経済生活が余儀なくされましょうし、現時点では

誠にもって贅沢な悩みだと指弾されることを恐れつつも)の

世界が到来してもらいたいものです!!」

すべての人間に好きなこと(人に多大な損害を与えない限りは)を

追求できる機会が豊富に与えられることが叶うならば、

その時はその時でまた問題も発生しましょうが、

とりあえずは人類「前史」を乗り越えることも可能となりましょうか?

そんな楽観的予測に裏切られるのが人類史の常ではありましたが・・・

「夢」を見続けることだけは誰にでも許されています。

皆さんにもよりよい「夢」を見ながら、

より良き人生を探究していって下さる元気づけ(まさに<アニメイト=

animate>)と本記事がなってくれれば幸いであります。

この本のご紹介も最後におまけしておきましょう。

『とても良い人生のために~失敗の思いがけない恩恵と

想像力の大切さ~』

(J.K.ローリング著、松岡佑子訳、静山社、2017年)

ハリーポッターの著者であるJ.K.ローリング女史の

ハーバード大学における2008年卒業記念講演録です。

絵本のような世界が広がっている短文集ですが、

ここには<魔法の使い方>も載っていますよ・・・

その内容はヒ・ミ・ツですが。

ちなみに管理人の魔法力は<忍耐力>かもしれません。

先だって訪問させて頂いた敬愛する

今は亡き著名な写真家がご在宅されていた旧宅資料館で

生前ご縁があった方による思い出印象記事が掲載された雑誌を

拝読させて頂く機会があったのですが、

その方もどうやらそうだったようですね。

しかも、「本業」以外にも多趣味。

深夜まで様々なジャンルの書物を読み散らかしておられたとか・・・

管理人も「いのち」をすり減らすほど

精進せにゃならんねぇ~。

そんな「いのち」の使い道ならば本望というもの・・・

現実の「労働」生活で「うつ」になったり「過労死」などに

至りたくはありませんが・・・

「<いのち>の律動・飛躍は、<仕事>・<活動>にあって、

<労働>などにはありません!!」

なぜならば、いくらでも「不純物」が混じり込むから・・・

とはいえ、現実はそんな文句も贅沢も言っていられませんから、

とりあえず飯を食う種を授けて頂ける職場があるだけでも

感謝しなくちゃ「バチ」が当たります。

そんな世俗的悩みはどうとでもなるのです。

大切なのは、どんな逆境下においても微笑みながら

「夢」や「志」を是が非でも貫徹させようとする

その「魂」と「心」に忠実であることでしょう。

やはりいい歳をとるためにはいい人や書に親しむことです。

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『世の中に 人をそだつる心こそ

我をそだつる心なりけれ』

(荒木田守武『世中百首』より)

大阪府神社庁が配布されている<今月の言之葉>の

一枚からご紹介させて頂きました。

難しいことではありますが、何度でも挑戦し続けるだけの

価値はあります。

最後になりましたが、一首をご献上いたします。

『粟津原 ただひたすらに 駆けめぐる

もののふの夢 包む春風』(管理人)

和歌は人の世を言祝ぐもので、

ことさらに声を張り上げて「言挙げ」する営みではありません。

「千秋万歳」ということで

「おあとがよろしいようで・・・」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 <ご参考文献>

①『ベーシックインカムへの道』

(ガイ・スタンディング著、池村千秋訳、2018年第1刷、プレジデント社)

※「実現の障壁をいかに突破していくべきか?」を

具体的に考察提案された<実用書>です。

ベーシックインカム実現を探る運動をされている方や

すべての有権者にとって

今後の選挙時などにおける経済政策・政党選択を

される際に指針となる本です。

かなり実践的で頁数も400頁ほどになる骨太書ですが、

最新のデータなども含まれた論考満載なので

是非ご興味ご関心ある方にはご一読されることをお薦めいたします。

②『AI時代の新・ベーシックインカム論』

(井上智洋著、光文社新書、2018年初版第1刷)

※いつもながら先の先の世界を想像されつつ、

多種多様な見解に柔軟に触れ、対談・対話を重ねながら

進化していく今もっとも注目される若手経済学者のホープ。

今回の隠れた主題でもあった「左右対立を超えて」の視点も

第5章で披露されておられます。

従来の「右派」の弱点は、

やはり管理人も憂える「儒教的エートス」かもしれませんね。

故小室直樹博士の炯眼でもありました。

ことに資本主義経済の推進力における障壁面としてですが・・・

ケインズ経済政策が有効かつ適切に機能するためにも

官僚機構が腐朽化しないことが大前提とする観点から

「儒教的エートス」にはマイナスの側面もあることを

かつて指摘されておられたように記憶しております。

要するに今なお日本経済は「鵺」的経済という視点です。

『日本人のための経済原論』東洋経済新報社、2015年

などをご参照下さいませ。)

もっとも、すべての儒教的視点が悪いというわけではないのでしょうが、

「大義名分」論といった<劇薬>も使い方によっては

日本社会あるいは東洋世界をひどく混乱させてきた側面があると

思われますので、管理人も今後再考してみたい論点の1つですね。

③『ベーシックインカム~分配する最小国家の可能性~』

(立岩真也/齊藤拓共著、青土社、2010年第1刷)

※脚注も多く、本格的な研究論文に近い書き方をされているので

正直言って管理人にとっては読みにくい本でしたが、

母校で教鞭を執っておられるということなので応援の1冊として

ご紹介しておきます。

齊藤拓氏による<第3部 日本のBIをめぐる言説>(同書285~

325頁)はすでに刊行時から8年ほども経っていますので、

その後の各論者の主張変動もあって古くなっているかもしれません。

とはいえ、これまでの言説の全体的見取り図が

詳細に描かれていますのでそこは一押しの論考文となりましょうか?

④『プライマリー・バランス亡国論

~日本を滅ぼす「国の借金」を巡るウソ~』

(藤井聡著、育鵬社、2017年初版第1刷)

※現政権にも影響を与えている藤井聡先生の

「財務論」です。

管理人も公共事業に関して、従来型だとかなんだとか

特に左派リベラル層から保守というよりも

新自由主義(ネオリベラル)思想に親和的な

右派??「構造改革」派に至るまでの

言説・言動に常日頃から違和感・嫌悪感を

抱いてきたことから、そうした疑問点に見事に応えてくれた

ある意味でオーソドックスな公共「投資」論であります。

確かに本書著者の論旨にもあったように

従来型の公共事業のあり方自体は景気変動時期を

正確に見据えたうえで質量ともに改善していく必要はありましょう。

とはいえ、著者や世にはびこる数多くいるエコノミストや

各種評論家諸氏のいうような「コンクリートから人へ」的言説には

少し冷静に吟味したうえで思慮深く検討を深めなくてはなりません。

「国債」の意味合いやその種類、

「増税」の時期的問題なども加味した緻密な論考でないと、

たとえそれが環境税だとか観光税だとか社会福祉税だとかの

いわゆる特化された「目的税」として打ち出されたものだとしても、

それが耳障りがいいだけに警戒感も必要となります。

なぜならば、こうした誰もが一見反対し得ないような手法でもって、

これまで「増税」路線が正当化され、

しばしば景気の腰折れ材料ともなってきたという

歴史的教訓があるからですね。

ベーシックインカム実現のうえでも経済「成長」は

やはり必要であります。

管理人もこれまで指摘させて頂いてきたように

あくまでもその「内実」をどう質的に高いものに

誘導するかは何よりも大切な論点ですが、

ガイ・スタンディング氏もベーシックインカム制度に

その改善促進効果があると①書117~120頁あたりで

語られています。

そうした論点も踏まえつつ、中長期的に国家の財政問題をいかに

解決していくべきかが金融政策とのポリシーミックス効果とも

併せて検証中なのが現在の日本政府の正しい姿でしょう。

問題は急進的か漸進的かの手法の違いにありますが、

持続的に全世代に公平かつ安定した経済生活基盤を与えつつ

急激な生活変化を抑制するためには、

著者が提唱されるような政策手法も十二分に一考に値します。

今後の現政権の経済政策の進め方を注視していくうえでも

是非一度はご一読願いたい1冊であることは間違いありません。

⑤『仕事消滅~AIの時代を生き抜くために、

いま私たちにできること~』

(鈴木貴博著、講談社+α新書、2017年)

※本書は、人間と機械(AI)との協働型社会において

予想されるだろう「賃下げ圧力」に人間「労働」が

耐え得るための処方箋などが提案されています。

特に賛否両論ある「機械にも給与支給する」といった

奇抜な提案は具体的にどのようにイメージすればよいのか

見当がつきにくいところもありますが、

議論の素材として面白い側面もありましょう。

⑥『経済政策で人は死ぬか?

~公衆衛生学から見た不況対策~』

(デヴィッド・スタックラー/サンジェイ・バス共著、

橘明美/臼井美子共訳、草思社、2014年)

※本書はご一緒に勉強させて頂いている方からの推薦書ですが、

管理人は未読のため評価できません。

とはいえ、アマゾンレビューなどを一瞥する限りは

特にデータ分析による解釈・結論付けには賛否両論あるそうですが、

日本国内で経済政策そのものが死を招くおそれがあるものだとの

認識があまりにも少ないようですので、

一度は目を通されたうえで皆さんにも検討をお願いしたい1冊です。

⑦『緊縮策という病~「危険な思想」の歴史』

(マーク・ブライス著、若田部昌澄監修、

田村勝省訳、NTT出版、2015年)

※現日銀金融政策当事者である若田部昌澄氏が監修のうえ

「緊縮」型経済政策が特に不況期に与える危険性について

警鐘乱打された書です。

常に「緊縮」が悪いというわけでもないでしょうし、

各個人の生活姿勢や経済観としては

ミニマリストであろうがロハスであろうが、

はたまたダウンシフティングからBライフ??まで

好みがあり国家が強制することも出来ません

(出来たらまさしくそれこそが「共産(共貧)主義」でしょう!!)が、

国家全体すなわちマクロ経済政策において「緊縮」型を採用すれば

最悪な事態を招くことだけはすでに歴史が明証してくれています。

というわけで、昨今の「緊縮志向(みんなで一緒に貧しくなろう!!)」に

反対の方にはお薦めできる1冊かと思います。

⑧『不況は人災です!~みんなで元気になる経済学・入門~』

松尾匡著、筑摩書房、2010年初版第1刷)

⑨『この経済政策が民主主義を救う

~安倍政権に勝てる対案~』

(松尾匡著、大月書店、2016年第1刷)

※⑧、⑨の著者も③の著者同様に母校で教鞭を執っておられる

経済学者です。

と言っても「マルクス経済学」ですが、

管理人や保守層に支持されてきた「ケインズ経済学」とは

異なるアプローチから真摯に「反」緊縮型経済「成長」の方法論を

考察提案されてこられた学者さんです。

語り口もソフトで左派リベラルの論者でも

信頼のおける気さくな方ですので保守派の方も

どうぞお気軽にご一読されることをお薦めします。

少なくとも、「成熟」社会論一辺倒でごまかさずに

現実に起きている経済現象を解析されたうえで、

処方箋を提示されています。

また個人的な希望ですが、

左派マルクス経済学と右派ケインズ経済学における

数理計量経済学手法の違いなどを

一般向けにわかりやすく解説してくれる「入門書」などを

刊行して頂ければと期待しています。

ちなみに、松尾先生は置塩信雄先生のお弟子さんの系統だとか。

森嶋通夫先生のご存在については、

上記故小室直樹博士からご教示頂いていましたが。

我が国の「マルクス」経済学者の中でも

ずば抜けて頭脳明晰だった数学のできる経済学者だったようですね。

そうしたお人柄からか著者の語りも大変わかりやすいので

他の学者さんにはない独自の魅力が打ち出せるかもしれませんよ。

先生とは立ち位置が異なりますが、

今後とも陰ながら応援しています。

意外な「盲点」や「落とし穴」はむしろ自分の価値観とは

異なる論者の指摘によって「発見」されるものです。

あらゆる角度から脳内を揺さぶってみるのも

読書の効用というもの。

判断は読んでからでも遅くありません。

まずは異なる価値観をもった論者の意見にも

真摯に向き合うこと。

こうした鍛錬が知的忍耐力をも増強させるようですよ。

⑩『消費増税の大罪~会計学者が明かす財源の代案~』

(醍醐聰著、柏書房、2012年第1刷)

⑪『大不平等~エレファントカーブが予測する未来~』

(ブランコ・ミラノヴィッチ著、立木勝訳、

みすず書房、2017年第2刷)

(※以上2冊、平成30年5月25日追加)

以上11冊を差し当たってあわせてご紹介しておきますね。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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