番外編:NHK連続テレビ小説『半分、青い。』撮影協力地である岐阜県の魅力ご紹介~現代版中山道旅情紀行編~

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平成30年(2018)夏本番。

NHK朝ドラ『半分、青い。』もすでに終盤へと差しかかる中、

清涼感を求めて岐阜県を再訪してきました。

今回のテーマは、「水」。

ここ近年、急激な勢いで「水」や「風」を始めとする

大自然界からの人類への厳しい問いかけが連続して生起しています。

この度の被災者様にはあらためてお見舞い申し上げますとともに

今後とも誰しもが避けて通れない災害大国:日本を考察します。

清涼を求めたはずが、連続した記録的酷暑地となりにけり!! ~旧中山道地域沿いに横断する岐阜県視察紀行~

平成30年(2018)真夏日現在、風水害による被害が

日本列島を連続して直撃しています。

心ならずもこのたびの被災に遭われた地域の皆様には

慎んでお見舞いとお亡くなりになられた方々へのご冥福を

お祈り申し上げます。

これから紀行文を語り綴らせて頂くに当たり、

冒頭からすでに例年にない重苦しさを感じていますが、

このような時節柄だからこそ今回の被災教訓を

全人類の共有財産とするべく<天災大国>日本に住まわせて頂いている

いち民草として全世界へ向けて発信させて頂きます。

そしてあらためて平和の有り難さについても皆さんに噛み締めて頂きたく

願いつつ、今回は「水」をテーマに据えて、

天災・人災含めての広い意味での「積極的」防災意識を高めて頂こうとの想いで

あえて紀行文の形式に借りて語り綴らせて頂くことをご寛恕願います。

そのことで少しでも「絶望」の中にも「希望」の種は必ず潜んであるのだと

皆さんにも確信の根を生やして頂ける一助になればと願って止みません。

お子様がおられるご家族向けには

特に夏休みの<自由研究>のアイディア帳として、

またこれからこちら方面へのご旅行予定がおありの方向けにも

ご参考になるような情報源としてご活用して頂ければ幸いです。

それではこのような出だしから始めるとなれば

どうしても暗くなってしまいますが、「明るさ」を見出していく

一服の清涼剤としてご一緒に紀行文を味わっていきましょう。

とはいえ、やはり重苦しさとともに悲痛さが先立ってしまいます。

そんなわけで管理人もいつになくなかなか元気も勇気も湧いてこないのが

本心ですが、こんな時こそ力強い心理的サポート役がどうしても必要となります。

そこでご登場願うのが今回の旅行先で「再会」させて頂いた

<文豪>島崎藤村氏と大佛次郎氏のお二方であります。

今回のナビゲートサポート役を願う島崎藤村氏の問題意識については後ほど

紀行文の最中で追々ということで、

後者の大佛次郎氏がなぜこの場にご登場願ったのかと申しますれば、

大佛氏の名作『鞍馬天狗』こそが今回のテーマにもっとも相応しい

問題意識を共有されているものと確信させて頂いたからにほかなりません。

管理人の個人的嗜好性として小説では「歴史・時代」小説というジャンルを

好んで幼少時分より親しませて頂いてきたのですが、

大佛次郎氏の作品についてはほとんど未読体験であるために

ここでは多くを語ることが叶いませんが、

このほど終戦日がほど近いという時期的な理由もありますが、

大佛氏の「歴史観」や「人間観」、「文明(文化)観」を知るに当たって

前々から<積ん読>しては気になっていた

『大佛次郎の「大東亜戦争」』(小川和也著、講談社現代新書、2009年第1刷)

このたび読了し終えましたところ<活眼>を開かせられましたので

あらためて大佛氏とその作品群にも真摯に向き合わなくてはとの

思いにさせられたからなのでした。

詳細は上掲書をご一読して頂くことに委ねさせて頂くことにしますが、

「どんな逆境期においても他人事とせず<我が事>としてみる・聴く・

味わい感ずる」ことを生活習慣化していくことで

傍観者にならない姿勢を養うことが可能になるといった共通認識に

より一層強く至ったからですね。

つまり、決して「卑怯者」にはなるまいとの覚悟であります。

そのためには、ただ私的領域に引きこもって

「明るさ」なる世界へと逃げ込むだけでは叶いません。

己の「良心」と真摯に向き合うことで<至誠>を実感していく

厳しさが求められます。

本当の「明るさ」、「強さ」を兼ね備えた人間とは

このような厳しい「暗さ」と向き合いながら深く味わい尽くした者で

なければ「わかりあうこと」など出来ようはずもありません。

そこから始まる「道」もあるということです。

<批評家>として敬愛し座右の書ともさせて頂いている

新保祐司氏のご著作『批評の時』(構想社、2001年)所収の

<大佛次郎と小林秀雄>(83~111頁)内でご教示頂いたのですが

大佛氏には『「人にそれぞれの道がある」』(108頁)と認めた色紙が

あるそうです。

著者によると、通常人の感覚ならば、<さまざまな>道があるとも

形容がなされるところ、大佛氏のような眼力からすると

<それぞれの>道があると形容されているのは

「なぜなのか?」という点に着眼されたところに

管理人も思わず「はっ」とさせられたのです。

ここにどうやら<傍観者(他人事のように感じる者)>と

<当事者(我が事のように感じる者)>の究極的な分水嶺があるようですね。

『「人にさまざまな道がある」というのは、「相対化」にとどまるであろう。

「人にそれぞれの道がある」には、「歴史家」の「上から」見る「眼」が

あるのである。』(同108頁)と・・・

そんなエッセー的批評論考文を深く味わっていくうちに

管理人自身の場合には日頃親しんできた

すでにご紹介させて頂きました

妖怪へヴィメタルバンド陰陽座さんの下記の歌詞

『 然う 斯界は 責めて 択び得る

  夫れ夫れの 行が 道に代わる 

(陰陽座『覇道明王』「覇王」から引用)』

に「通底」する響きを感じさせられたこともあったからでした。

やはり「みえる」人には「わかる」のでしょう。

もちろんここで持ち出させて頂いた歌詞の引用との符号など

管理人の連想型妄想推察であり偶然の一致にしかすぎませんが、

歴史的な垂直軸志向「眼」を有する芸術家による「審美眼」にかかれば

意図せずとも「重なり合う」ようですね。

そんなことから管理人自身にも

あらたな大佛次郎「発見」への旅が始まったようです。

つまりは、どんな絶望状況下においても「希望」を最後の最後まで

捨てなかった人間が真の意味での「幸福」を授かる機会が

またいつの日にか得られるだろうということです。

そのことを是非皆さんにも覚えておいて頂きたいのです。

「人間は本気になればいつだってやり直せるのだ!!」ということ。

おそらく「許し(寛容)」というのは、

そうした「気づき(恩寵)」といっていいのかどうかはわかりませんが、

その「気づき」からやって来るのでしょう。

と語り続けていくうちにもこれまたシモーヌ・ヴェイユ氏による

『重力と恩寵』的世界観へと導かれてしまったようです。

まとめますと、「うつむき」加減になりがちな世の中だからこそ、

ひとりびとりの<自立>が「明るい」<夜明け>へと誘われる

ひとすじの道へと連なっていくに違いないだろうということです。

そうしたひとり、またひとりと立ち上がっていく先に

真の意味での「連帯」感情が芽生え、

消極的な「(奴隷的)群衆(心理感情)」から抜け出す

「類」意識が生み出されていくということです。

そうした過程を経ていくことでやがて人「類」は再び

闇の中に光を見出し、戦争や差別といったあらゆる暴力や圧政から

「解放」される日も掴み取ることになるのです。

「解放」されるということは、

他者から自身を奪い返すといった意味よりも

自身で自身を見つめなおす(取り戻す)という意味を込めています。

なぜなら、前者の志向性でいけばいくほど

いつまでもこの世界の「争い」は止まないからです。

自分自身の内面との対話を通じての「決着(断)」こそが

自身を「解放」するということです。

この地平線上において初めて「自己」と「他者」との

出会いの接点が生み出されていくということでもあります。

「他者に振り回されるのでもなく、自己自身の<殻>へと

引きこもりすぎることによって独善と偏見の塊に固着化することもなく、

より良き方向へと進化してゆく<可動態>のような動く霊的生物・・・」

管理人にとっては、

それが「人間」という名を持つ生物へのイメージ像であります。

また、「人間」存在の究極的本質にはこの「人間」への探究を

深めていくことを通じて、単なる生<活>課題(私益)に優先する

生<涯>課題(「類」的公益)を見出していく<過程そのもの>だということです。

この<過程そのもの>こそが<可動態>のような動く霊的生物である

「人間」に組み込まれた最大特質なのではないかと考えています。

管理人自身も困難かつきわめて厳しい道のりですが、

この「道」をひたすら歩んでいきたいと願っている道程にいます。

さて、前置きが長くなりましたが、<夜明け前>というキーワードで

やっとこさ、紀行文の導入文が終幕しましたので、

ここからは本格的な紀行文へと歩を踏み進めてまいりましょう。

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<7月14日土曜日>

①午前6時過ぎ大阪の自宅を出発。

「高速」近畿道~名神道、途中の京滋バイパスを経由して瀬田東ジャンクションから

草津へ到着。

そこからさらに名神道を北上し、米原ジャンクションを経て関ヶ原・養老・大垣・

小牧ジャンクションまでまっすぐ東上していきます。

小牧ジャンクションからは中央道へと進み、

内津峠パーキングエリアで初休憩停車します。

今回は車での道中でしたが、

旧中山道(ちなみに岐阜県内を通る中山道17宿ルートの

詳細な紹介サイトこちらをご閲覧願います。)からはそのルートが外れますが

現在に往時の旅人感覚を体感されたい方がおられるならば、

東海自然歩道も完備されていますのでそちらもお薦めできそうです。

ご参考までに環境省ご提供によるこちらのサイトもご紹介しておきますね。

管理人も江戸時代の五街道を始め、日本全国にある旧街道を歩きながら

本格的な紀行文を綴りながらの「漂泊」作家活動を夢みるも

一番大きな経済的理由を含め諸般の事情などから

実行するに至るまでにはなかなか茨の道が立ちふさがっていますから

すでに体験済みの方々による旅ブログなどを通じた

想像上の追体験でもって遊ばせて頂くほかない状況が続いております。

それはともかくといたしまして、

短い休憩を済ませれば、車は再び中央道を東に向かって

緩やかに北上していきます。

その日の最終目的地は宿泊地である『かんぽの宿 恵那』なのですが、

まずは旧中山道の昔日の面影がほんの少しだけ今に残す

美観地区「馬籠宿」~「妻籠宿」に至るコースを辿りたいと

岐阜県中津川市へと歩を進めます。

中津川インターチェンジを降りると国道19号線へと入ります。

そこから車を走り進めること小一時間もしないうちに

「馬籠宿」へと到着しました。

時間は午前11時半過ぎ。

大阪からここまでおよそ5時間半ほどだったようです。

すでにお昼間近でもあり、これからの散策に備えて腹ごしらえを済ませます。

今回はいつもと異なり家族連れ旅行でしたので、

あまり個人的な希望を叶えることは出来ませんでしたが、

家族の意見ではこの有名な美観地区である「馬籠宿」~「妻籠宿」に

至るルートを徒歩で散策したかったようなのですが、

じっくりと散策するとなれば駐車の関係もありますことから

往路だけでもおよそ4~5時間??が予想されますことから

長期歩行経験者である管理人の意見を強く押して

「絶対無理やから断念した方がええで・・・」の提案で

馬籠観光案内所で頂いたガイドマップに沿って

当初のプランを再考立て直しさせて頂くことになったのでした。

まずは、食事させて頂いた「馬籠宿」入口にあるお食事どころの

駐車場へ止めさせて頂けることになったので、

そこからものの1分もしない「入口」から

いよいよ「馬籠宿」へと入っていくことになります。

その「入口」にある昔日の面影を残す看板が

こちらの写真です。

IMGP1112 IMGP1113

(以下、すべて管理人撮影。

この「馬籠宿」の様子を皆さんにもお届けさせて頂きたかったのですが、

何せ人が多くてどうしてもその姿が映り込みますから

<肖像権侵害>防止の関係上、残念ですがここでご紹介できません。

そのあたりの「心」をご理解のうえご寛恕願います。

ちなみに外国人観光客の割合がここでも圧倒的に多かったですね。)

それはともかく石畳の旧街道沿いを少しかけ上がっていくと

馬籠観光案内所がありその真向かいに『夜明け前』で知られる

文豪:島崎藤村に関する資料を集めた『藤村記念館』がありましたので

入館させて頂くことに。

管理人自身の藤村に関する読書歴は、

高校生の頃に読んだ『桜の実の熟する時』を皮切りに

『破戒』との2冊のみ。

ちなみに『桜の実~』純愛小説

一方でこの題名に似たタイトルの作品である

『桜の森の満開の下』坂口安吾による小説ですが、

これに着想を得た戯曲舞台劇が野田秀樹氏による

話題のこれから公演予定の

『贋作・桜の森の満開の下』(NODA・MAP第22回公演)ですね。

大阪では『新歌舞伎座』でも公演される予定です。

豪華俳優人ぞろいとか・・・

こうした舞台劇から入るオリジナルの原作と向き合う

読書「入門」もいいのではないでしょうか?

「古典」の場合にはその方がかえって取っ付きやすいでしょうから・・・。

<無頼派>が好きな管理人としても

坂口安吾や大阪が誇るオダサク(織田作之助)は特に気に入っております。

話が脱線してしまいましたね。

話題を藤村に戻しましょう。

歴史小説好きの管理人ではありますが、

今回の「馬籠」が舞台となる『夜明け前』は未読状態。

何せ「長編モノ」ですのでなかなか思うように時間がとれないからです。

もっともこうした旅に触発されることで

前々から抱え込んできた「歴史認識論」的問題意識も

ふたたび強まってきた時にこそ読む絶好のタイミングだということで

そろそろ読まねばと思う今日この頃であります。

小説モデルは藤村の父親である正樹氏だとされています。

幕末攘夷・開国維新期から明治文明開化期へと至る

時代の過渡期に激変する時代思潮の渦巻きの最中で

煩悶しながらも己の信念を貫き通そうとする

国学思想家の系譜を辿ったある地方の一途な青年の人生から

問いかけられた「人間」哲学的歴史小説が『夜明け前』であります。

ここのところ管理人自身は藤村の父親:正樹が終生影響を受けてきた

平田派国学とは異なる立場である陽明学からのアプローチでもって

この日本における「神学」問題を考えています。

このあたりの問題意識がありましたことから、

先にご紹介させて頂いた新保祐司氏との接点も出てきたという次第です。

「日本人にとっての<西洋近代化>の意義って一体何だったのか?」

「そもそも幕末維新期に西洋と接した時以来の深刻な思想的矛盾問題は

今に至るも中途半端なままで一向に解決し得ていないからこそ・・・」

「年を追うごとに日本国内における<分断・亀裂>状態が

ますますひどく混迷を窮めてきたのではなかったか・・・」などなど

あまりにも自らの思想遍歴とも重なる自意識が

藤村の父親:正樹との魂の次元における「邂逅」へと立ち至ったようです。

よく「<思想>が人を狂わせる!!」から常識人であれば

「あまり<思想>に近づきすぎてかぶれるな!!」とは言われますが

人間であれば何らかの<思想>に多かれ少なかれ影響を受けるものですし、

人生の指針としても<思想>なき人間は

しばしば「時世」に流されてしまうものです。

その意味でも人間ならば決して<思想>を軽く扱ってはならないわけが

あります。

むしろ、

<思想(過激な劇薬思想は管理人もご免被りますが・・・)>ある人間よりも

<思想>を驚くほど欠如させた「時流」におもねる、

もしくは、おもねりやすい品性下劣な人種の方が問題でありましょう。

そのような傾向が多く見受けられる現在だからこそ、

軽薄な政治思想型敵対意識バッシングやら己の私益のためだけにする

有害な言説があちらこちらで飛び交う原因にもなっているのではないでしょうか?

そうした問題意識を抱え込んできた管理人でもありましたから

藤村の問題意識とも通底し得る独特な「差別」問題への意識が

反映された『破戒』において提起された世界観へも

導かれていったのでした。

こうした「差別」への意識問題は敏感にして厳粛なテーマですので

この「明るさ」へと向かう紀行文エッセーには馴染みませんので

ここではこれ以上触れないようにしておきます。

とはいえ、この問題を決して「触らぬ神に祟りなし」として

取り扱ってはならないこともまた事実であります。

「言葉」を扱う人間の端くれとして常に恐れる問題ではありますが、

人間ならば誰しも避けては通れません。

昨今の各種差別規制法や表現規制問題ともあわせて

皆さんにも大いに有意義な論争を展開して頂きたく願います。

それでは、藤村記念館をそろそろ後にして

もう少し一段と高い見晴らしのよい場所に皆さんをお連れしましょう。

「高札場」あたりの展望「台地」から眺める景色がこちらです。

IMGP1114  IMGP1115

(右写真の景観「保存決議」に関する文章が皆さんには大変見えづらくて

誠に申し訳なく思いますが、

一点だけこのご時世において深く考えさせられた点に

民間「資本」流入への共同対処措置法がありました。

今後の地方<創成>にまつわる様々な政策を考案して頂く際にも

要路の方々には真剣にご検討願いたいところです。

何でもかんでも「民営化」すればよいというものではありません!!

このような「公共資本財」こそがいざという時には

ひとりびとりの「いのち(生命)」を救う基盤財産ともなるからですね。

一方の左写真は恵那山であります。

この恵那山には天照大御神「降臨」伝承があるとか・・・

おそらくこうした伝承も加味しながら、

こうした神々しい風景を幼い頃から眺めてきた藤村の父親:正樹氏で

あったればこそ、その深い感受性から文明開化の軽薄さに

強い憤りや先行き不安を確信されたのでしょう。

管理人も日々古代から神々が降臨された候補地の1つとされてきた

地域に住んでいますが、日本各地から年々歳々こうした「神々しき」風景に

代えて「禍々しき」風景に置き換えられていく時世の流れを眺めるときには

魂の奥底から現実政治への激しい怒りを覚えます。

「政(まつりごと)」の原義も近代宗教改革によって

完全に葬り去られてきたからでした。

もっとも特定の宗教・宗派による<祭政一致>論に賛同する者では

ありませんが、正樹氏が崇敬された平田派国学の行く末が

皮肉にも日本古来からの多元的宗教観を壊してしまったことを

今から振り返って鑑みれば、廃仏毀釈が日本人に何をもたらしたかも

わかろうというものです。

つまりは、一般民衆から「おおらか」な心を剥奪する原動力にもなり

様々な思想的対立混乱の種蒔きとなってしまったということです。

かえって<神ながらの道(洋の東西を問わずに古代人が親しんでいた

多元型神想観)>から遠ざかる遠因ともなったということです。

一元的<思想>観や一神教型<信仰>観の恐ろしい点は、

本来「善きもの(幸福へと続く道)」として構想意図された

「思惑」からはるかに跳躍してしまい

思わぬ「悪しき(不幸へと続く道)」領域へと

閉じ込められてしまうことがしばしばあるということです。

地獄への道は善意で敷き詰められている・・・」という格言を

皆さんにも深く想像・自省して頂きたいのです。

ともあれ正樹氏自身がもともと平田派国学観に心寄せて想定されておられた

思想・信仰観が帰結していくだろう諸問題点に関するこのような批評感想など

あくまでも現時点における管理人自身の考察し得た浅慮にしかすぎないことは

百も承知ですが、どうしても今日の有り様から過去の日本社会思想史を

振り返って観察していけばそのように強く「体感」もされてしまうのでした。

正樹氏自身による平田派国学への深い想い入れや生き様には

<我が事>として管理人も深く強い敬愛の念や共感も有しておりますし、

決して名誉を汚す意図から論じているわけではありません。

藤村が『夜明け前』で正樹という1人の人生を描き、

提起された問題分析考察を通じて、

<思想>や<信仰>が持つ欠陥領域にも想像力を働かすことが

いかに人間には困難なことかを再認識して頂きたくて

語らせて頂いたまでであります。

話題転換をします。

さらにちなみにの話題になりますが、

この恵那山の下には日本でも有数に長大な恵那山トンネルも開通しています。

このことによってこの地域の山間部に属する地場産業などの

流通網振興には多大な貢献となってきましたが、

一方では、こうした経済的死活問題とともに見過ごされてきた

信仰観の希薄さに由来する人間の「魂抜き」現象問題にも

発展してしまっていることも決して忘却してはならないのです。

特に今回は「水」が最大テーマでありますが、

日本列島の山々には隅々にまで張り巡らされた貴重な「水脈(すいみゃく)」が

走っているのですから、その「水脈」をぶち破るという所行が

結果として私たちに何をもたらすのかまでの先を読む力が、

近現代以後ますます厳しく問われてきたということに

管理人の問題意識も尽きるということです。

管理人は大阪の河内人ですが、大阪人であれば日々眺めているだろう

生駒山直下を走る新旧生駒トンネル開通時にも

こうした問題が多発していたことも忘れて頂きたくないのです。

またその工事のかげには数多くの徴用工の悲劇もあったことも。

このような数多くの物言われぬ無名の人々の「心」に寄り添いながら、

<我が身>、<我が事>として受け止めることを通じて

過去の残酷な歴史と真摯に向き合うこともまた悲惨な天災や人災から

教訓を得ることになります。

「いつの時代も弱い立場の者から犠牲に供される」からです。

「理屈」だけをこねくり回すタレント文化人が多い中、

「心」で「魂」で論争を超えた静かな境地に立った

<真心=至誠>の込められた良質な言説に触れたいと

切に願う今日この頃の管理人でした。)

②午後13時過ぎ。

先に馬籠観光案内所で頂いたガイドマップを参考に

プランを立て直していると、

この「高札場」が立てられている地点から先が

馬籠峠に差しかかることになり「美観」地区からは遠ざかり

山中に入っていくことになるようですが、

道は観光用に整備されているようです。

この先には清涼感を体感できる『男滝・女滝』があると

確認できましたので、徒歩では時間がかかりすぎますので

この中山道に沿って迂回する県道7号線を車で走行しながら向かいます。

車で走ることわずか15~20分たらず。

すると下記の『男滝・女滝』に関する案内板のある駐車場に着きます。

駐車可能台数はおよそ3~5台程度くらいかな。

バイクだともう少し駐車出来そうなスペース感でしたね。

バスの停留所もあって「馬籠宿」からもバスで行けそうでしたが、

運行数は少なそうです。

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(上記駐車場脇の案内板真横から真下へかけて遊歩道がつけられていて

滝下へ下り降りることができます。

すると上記の『男滝』を背後にした行き先掲示板に出会います。

この『男滝』を背後に見れば「馬籠宿」は今しがた降りてきた左側、

「妻籠宿」へは遊歩道をそのまま歩いていくとなると右側に当たります。

上記右写真がこの看板から振り返って眺めた『男滝』です。)

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(上記<上段2枚>が『男滝』、<下段2枚>が『女滝』。

前者が背丈が高く、後者が低いようにありました。)

③午後14時過ぎ頃。

『男滝・女滝』を名残惜しくも後にして

県道7号線を「妻籠宿」方面へ北上。

途中ようやく「妻籠宿」へと辿り着きますが、

「馬籠宿」と異なり簡素なたたずまいの宿場町であり

駐車場規模も小さく、「馬籠宿」に比べると「有料」がほとんどだとか・・・。

(ちなみに、妻籠観光協会のサイトこちらです。)

車中から流し目にその風景を眺めただけですが、

どこか寂れた様子で「馬籠宿」に比べれば見所も少ない模様でしたので、

その日の宿におけるチェックイン時間なども考慮して

そのまま国道19号線との分岐点(ガソリンスタンドがあり、その真向かいには

何と<読書>発電所の文字が見えています。)へと向かいます。

<読書人>のための<読書>発電所!?

思わず心中で微笑みが漏れましたが、そのまま分岐点を

恵那市方面に国道19号線を西方へと左折していきます。

この<読書>発電所も由緒ある水力発電所だそうで

後ほど触れる「恵那峡」にある大井ダム同様に

福澤諭吉の婿養子となった実業家福澤桃介によって手がけられたようです。

この頃のいわゆる<慶應山脈>に属する実業家は堅実かつ優秀だったようですね。

有名な<電力王>であった松永安左エ門翁など

我が国黎明期における近代的「水利」事業という難題に果敢に取り組んだ

偉人でありました。

小林一三氏なども水利事業とは異なりますが、「先見の明」があった実業家でした。

つまりは、現在の<慶應閥>出身ないし周辺関連の政財官人(誰とは言いませんが・・・)に

多く見受けられる思考回路とは異なり、

なにが何でも<民営化(あくまでも<私益>度の高い志向性を宿した)>路線へと

激しく突き進もうとする<民営化無謬信仰>論理とは

大いに異なる志向性が見られたということです。

<公益>を兼ねた<私益>とのバランス追求・・・

福澤諭吉翁もそのような志向性でもって

いわゆる官業と民業の棲み分け経済(営)理論を

想定、講義されていたはずです。

これが明治期の慶應閥実業家に多く見受けられた発想だったように

部外者ながら感じられたからです。

明治期における「官尊民卑」思考から今や「民尊官卑」思考へと

なぜ日本ではこうも極端な突き進み方をするのでしょうか?

あたかもその「中道(第3の道)」はないかのように・・・

どうも近現代日本人には根本的な思考バランスが著しく欠けているようです。

こうした論理バランスが崩れた思考法は至るところで見受けられますが、

適切な論理訓練を初等中等義務教育段階からなされていないと

戦後民主主義の良質部分ですら機能不全に陥ってしまうことになりかねませんし、

現にそのようになってしまっています。

「わかりやすい」論理を現実事例に当てはめた際に起こりえる矛盾点を

克服する視点こそ、各「文脈(現場)」に適合する想像力であります。

この適切な「論理」と「想像力」の組み合わせこそが、

優れた「創造力」の源泉となり得るのです。

現在、原子力エネルギー発電所依存体質型から

否応なしに脱却・軽減していかざるを得ない時期にある最中、

「水力」発電も何かと環境破壊だとかコストが高すぎるだとかの

批判もありますが、本当にそうなのか否かは

こうした水力発電の歴史も踏まえながらよく慎重に

再評価していかなくてはならないのではないでしょうか?

もっとも岡山県真備町で起きてしまった

災害時のダム開閉時における水位計測ミスによる

大惨事招来などあってはならないことですが、

自然は「想定外」のことを引き起こすわけですし、

すべてを人工知能化による「純粋機械化」するというのも

まだまだ難しいでしょうし、人手に頼らざるを得ないのが現状。

今回の教訓も踏まえつつ、今後いかなる水力調整が要請されるべきかが

厳しく問われるところではありましょう。

とはいえ、エネルギー資源に乏しく「リスク分散化」や「電源多様化」に

備えるならば、こうした水力発電の多大な貢献度にも

再評価の眼が必要なのではないでしょうか?

管理人自身は最近話題となったいわゆる水道事業<民営化>法案の趣旨や

方向性に関しましては否定的な見方をしてきましたが、

今後とも何度でも繰り返し甦ってくることでしょう。

管理人自身における否定論の根本的理由は、

水循環法」における制度趣旨との整合性に

現状での上記<民営化>法案との間で

大いなる矛盾点があるのではという重大な疑惑があるからです。

「水循環法」の制度趣旨は言うまでもなく

水資源を貴重な「公共財」と捉えた発想で立案されているのに対して、

<民営化>法案の志向性はその言葉どおりに

どうしても利潤追求志向がより強く前面に出てしまうからですね。

特に管理人の住まう大阪府では

大阪「市」による「条例」レベルにおける<民営化>法案の

行方が注目されていまして、現行条例案は昨年度一旦は「廃案」となり、

今後の「国法」次第ということで与野党問わずに継続審議中とのことですが、

「国法」レベルでこそより慎重な議論が要請される最重要課題であります。

(なお、大阪市における上記条例案改廃議論の現状は

昨年の記事で少し古くはなりますが、こちらのサイトをご参照願います。)

言うまでもなく、平成30年(2018)現在の「国法」案も

かなりの懸念があるものと確信しております。

今回の大水害などの教訓や上記「水循環法」の本来の制度趣旨も

踏まえた慎重な議論をお願いしたいところです。

「何よりも<水>はヒトだけでなく他の生命体にとっての

<いのち(生命)>の源なのですから・・・」

それでは国道19号線を西進していきます。

途中の『道の駅 賤母』で休憩。

この道の駅には、『東山魁夷 心の旅路館』(有料)が併設されています。

管理人も東山魁夷画伯の名画:『道』には

学生時代より親しませて頂いてきましたから、

多大な興味関心があり少し時間も残されておりましたことから

寄り道入館いたしました。

この時の展示物はまさしく「水」や「氷」とともにある世界観が

主軸に据えられていた作品群でありました。

さて、道の駅での休憩を済ませると、

さらに最終目的地『かんぽの宿 恵那』へ向けて一直線に急ぎます。

到着時間は午後17時前頃でしたので

「恵那峡」遊覧や周辺散策は翌日へと持ち越すことに

家族会議にて決定。

じっくりと初日の疲れを癒すことになります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<7月15日日曜日>

①午前5時半頃起床。

朝風呂・朝食などを済ませるとすぐにもチェックアウト手続き。

この日は三連休中でもあり家族連れなどの宿泊客で賑わっていましたので、

この日のメインである恵那峡散策に欠かせない恵那峡遊覧船も

混み合うことが予想されましたのですぐに移動します。

とはいえ、恵那峡遊覧船乗り場と駐車場は

この『かんぽの宿 恵那』の眼下でありますから、

車でほぼ5分も掛かりません。

早速そちらへと向かいます。

(ちなみに、恵那市観光協会のサイトこちらからどうぞ。

サイトを開いて頂ければ、左下側面部に恵那峡遊覧船の

乗車時間などに関する情報サイトもリンクされていますので便利です。

また今回は時間の都合上で行けませんでしたが、

NHK連続テレビ小説『半分、青い。』のロケ地である岩村町に

まつわる情報も上記サイト内からリンクされています。

岩村町観光ガイドこちらです。

恵那市観光における主な見所はこの岩村町地区にある岩村城下町散策ほか

さらに南方方面となりますが、明智光秀公ゆかりの地にして

『日本大正村』のある明智町地区など自然に囲まれた憩いの場が

数多く点在しています。

岩村城はなんと日本三大山城の1つだそうです。

最近、歴史愛好家のあいだでもちょっとした「山城ブーム」が

来ているそうですが、この恵那市以外にも

隣接した中津川市には苗木城跡などもあるそうなので

ご興味ある方は少し険しいかもしれませんが是非訪れてみては

いかがでしょうか?

早朝だと雲海に囲まれた市街地が眺められるかもしれませんよ。

こちらも時間の都合上行けませんでしたので写真などの

確かな情報はご提供することが叶いませんが、

詳しくは中津川市観光協会のサイトをご閲覧下さいませ。)

さて、それでは恵那峡のご紹介に移らせて頂くことにいたしましょう。

IMGP1130 IMGP1129

IMGP1128 IMGP1127

(上記4枚は、『かんぽの宿 恵那』の宿泊部屋窓から眺めたものです。)

IMGP1131 IMGP1138

IMGP1140 IMGP1139

(上記4枚は『恵那峡(大井ダム湖含む)』に関する碑文です。

大井ダムもすでにご紹介させて頂いた福澤桃介 によって

手がけられたといいます。

この恵那峡は木曽川水系に属し、有名な日本ラインのある美濃加茂市流域を通じて

犬山市街~岐阜羽島~長島・桑名~伊勢湾へと流れ込んでいく最中に位置づけられます。)

IMGP1134

IMGP1135 IMGP1133

(上記3枚は遊覧船内から恵那峡水上および周辺流域に点在する

巨大な奇怪岩などを撮影しようと試みたものですが、

船内から外へは窓ガラスべりとなりますので、

上記写真の一部をご覧になって頂ければご理解頂けるように

光の反射具合で人影などがどうしても映り込んでしまいますことから

中途で断念させて頂くことになってしまいました。

遊覧船乗車時間は往路合わせておよそ30分くらいでした。

高速なのでわりとテンポ良くスムーズに遊覧を楽しむことが出来ました。

ちなみに、快晴日だと遊覧船コース最先端部からは

あの御嶽山も一望することが叶うそうですよ。

ここも悲しい大惨事がありました。

本当に日本は<自然災害大国>なのだということを

片時も忘れてはいけないのだと再認識させられた旅でした。)

IMGP1142 IMGP1141

(乗船後には船内からも眺めることが出来た『弁天島(さざなみ公園散歩道の

恵那峡大橋が見える先端に突き出た小さな島)』へお詣りに。

このあたりの民話などにも『龍神伝説』があるそうで、

昔から多くの人々を見守り続けてきたといいます。

『恵那(峡)弁財天』と愛称され現在も数多くの人々に

親しまれているようでした。

将来的にはちょっとした恋人の聖地になるのかもしれませんね。

そうした「和合精神(信仰)」に相応しい<聖地>に感じられました。

ところで、恵那峡遊覧船にまで乗車されてもここまで散策される方々は

意外に少ないようでした。

管理人としては寂しい感じがしました。

弁天様もそう感じておられるかもしれませんね。

これが今日の世相を象徴しているのかと思うと・・・。

せっかく遠路はるばるとここまで遊びに来てくれはったのに

みんな忙しく急いで帰らはるとはねぇ~。

それじゃぁ、旅行の醍醐味はなくなるよってね。

そんなお声が聞こえてくるような明るい場所であるにもかかわらず

寂しい<聖地>なのでした。

「心ある」方には船着き場からもそんなに時間はかかりませんので

ここまで来られた方には是非じっくりと散策してみられてはいかがでしょうか?

じっくりと散策したところで30分ほどもかからない距離感ですので。

お天気の良い日ならば家族集合写真や恋人同士の素晴らしい

ツーショット写真も撮影することが叶いますので、

是非この弁天様にお詣りされてはいかがでしょうか?

きっと、その後の人生で良い<奇蹟>が起きてくることでしょう。

管理人もこれ以上の水被害が拡大しないことや

貴重な水資源が人類によって枯渇させられないことを祈りつつ、

私欲を超えた『大願成就』を心中祈願させて頂いてまいりました。

「ほんと、有り難いことですね・・・」

ちなみに、弁天様の前方に見えます観覧車は

『恵那峡ワンダーランド』というレジャー施設であります。

家族連れや恋人同士で来られた方ならこの観覧車から眺める

恵那峡「眺望」も清々しい気持ちにさせてくれるでしょう。)

この「さざなみ公園」散策の後は少し茶店で小休憩。

再び乗車すれば、この『弁天島』から見えます恵那峡大橋を渡って

観覧車の見える対岸へと向かうことになります。

途中、『天佑稲荷』様も鎮座されていますし、

目指す<パワーストーン>ミュージアムである

『ストーンミュージアム 博石館』などもございます。

ここはかなりの賑わいを見せていて繁盛していたようです。

その割には駐車場は小さかったためにすでに「満車」状態。

駐車するまでに少しだけ時間がかかりました。

ちょうどお昼時にも差しかかってきたために

駐車後も続々と乗り入れてきます。

それほどの隠れた「穴場」であるようです。

いわゆる<パワーストーン>好きの方ならば、

絶対に外せない観光コースだとお見受けしました。

また日本だけではなく世界各地の鉱石も展示されるなど

小学生のお子様をお連れの家族の皆様であれば

ちょっとした夏休みの宿題である「自由研究」テーマを

探すにも適した施設かもしれませんよ。

しかもお値段もお手頃。

高級貴金属店ならぬ「宝石」店にまで足を運ばずとも

普通の「庶民」層にとっても本当に有り難いお値段で

各種鉱石類をお裾分けして頂けます。

自作のネックレスも創作出来る楽しみも味わえましょう。

②午後12時30分~13時過ぎ。

『ストーンミュージアム 博石館』を出発。

もと来た恵那峡大橋を渡り中央道「恵那インターチェンジ」へと

向かいます。

ここから目指すはその日の次の目的地だった犬山城がある

犬山市方面です。

小牧ジャンクションを経て名神道の小牧インターチェンジを降り、

国道41号線沿いに犬山市街地へと進みます。

③到着時間は、午後15時前後。

この日はかなりの猛暑日で、

岐阜県多治見市では40度を超すとか超さないとかで

世間を賑わせた日でもありました。

犬山城駐車場もほぼ「満車」に近い状態でしたね。

ちなみに、犬山城駐車場に関するご案内は、

犬山市観光協会サイトによるこちらの情報記事からどうぞ。

IMGP1144

幼少期にはよく家族旅行で各地のお城巡りをしましたが、

その頃からの憧れであった念願の犬山登城が

ついに叶いました。

「なぜ、犬山城に魅せられてきたか?」ですが、

「山城」あるいは山城にまではいかない「平山城」には

やはり高台の眺望のいい立地条件にあるためなのか

そこに「雄々しさ」や「雅やかさ」を感じてきたからです。

犬山城は「平山城」の部類。

対して、再度掲げます下記写真に見える(見えづらいですが・・・)

岐阜城は「山城」の部類。

IMGP0972

ちなみに大阪城も「平山城」に属します。

とはいえ、犬山城の方が木曽川に面していて

山裾も少し険阻で遠くから眺めれば厳めしく見えますので

魅力もより増すというわけですね。

こうした城の種類や性格・風格から眺める楽しみも

なかなか「オツ(乙)」なものです。

さて、犬山城へと「いざ、登城!!」ということになりますが、

城門を入るとすぐに2つの神社がありました。

「三光稲荷神社」と「針綱神社」。

いわゆる<男女(夫婦)和合>の神様である

猿田彦さんが祀られていることから

カップルで大いに賑わっていました。

ここもちょっとしたパワースポットと化した

<恋人の聖地>だったのかもしれません。

現地に来て初めて知りました。

「日本不思議発見!!」でした。

「ハート絵馬」なるものも独特な可愛らしさがあって

穏やかな気持ちにさせられました。

さて、早速にも登城ということになるのですが、

ここで久方ぶりのびっくり仰天。

階段があまりにも狭くて急だったからです。

さて、天守閣頂上部にまで達すると素晴らしい景観が・・・。

それがこちらの写真です。

IMGP1146 IMGP1145

IMGP1147

天守閣最上階からの眺めともう一度下からの眺めの写真を

比べてみるとその険しさ感も際立ちます。

IMGP1143

先程の上記写真における撮影地点線を少し下へずらしたもので

柵が画面に入り込んでいますが、

上記写真よりも山の「こんもり感」がおわかり頂けるかと思います。

このような感じの犬山城には魅力度も高く、

また先程のように<恋人の聖地>感もあらたに付け加わったような場所なので

多くの若者にも人気がある城の1つであるようでした。

さて、犬山にはこのお城以外にも魅力的な観光スポットがあったのですが、

時間の都合もあって断念しました。

『日本モンキーセンター』『明治村』

前にもご紹介させて頂いた故竹田和平氏とご縁ある

『お菓子の城』などもございます。

管理人が敬愛している「投資家」でもありました。

かつてのホリエモンブームが沸き立っていた頃にもてはやされた

「物言う」株主の何某氏よりも市場へ愛情を注ぎ込む

ある種の「エヴァンジェリスト」型投資家の姿勢の方が

夢もありますしね。

「投資家」ならば「ちまちました」姿勢よりも

「蕩尽理論」に基づく「タニマチお大尽」、「旦那」姿勢でこそ

輝きたいものですし、一般人を輝かせたいものです。

そんな余裕資金があればですがね・・・

とはいえ、「投資」は何も現金でなくても出来ます。

それが愛の溢れた言葉であります。

「根拠なき」自信だけだと「投機」熱を煽り、

やがては一般経済をバブル化させ、一般人にも大迷惑(損害)を

与えますが、前向きな愛に満ち溢れた言葉を上乗せさせた

「お金(広い意味)=<活力>エネルギー」だと

経済を活性化させることにつながります。

現在、イノベーション(革新的経済観)だけがお題目のように

唱えられる時節柄ですが、肝腎な個々人によるアニマルスピリッツが

相変わらず冷却状態にあればいつまで経ってもデフレ経済からの

脱却も果たせないでしょう。

それほどまでに物理的経済市場を支える心理的経済観は

重要なのです。

また「京大霊長類研究所」も犬山にありましたね。

このように魅力たっぷりの観光都市が犬山市なのです。

交通の便にも優れた物流拠点地でもあります。

いずれも詳細情報は先程ご紹介させて頂いた犬山市観光協会サイトから

ご閲覧下さいませ。

犬山城を出発すると、この日の宿泊目的地である

『かんぽの宿 岐阜羽島』へ一直線。

犬山市から岐阜羽島市方面へは

国道21号線を通るルートです。」(カーナビ音声みたいですが・・・)

高速は節約のため利用しなかったのですが、

国道21号線沿いはバイパスも整備されてきているようなので

比較的スムーズにスイスイと走り抜けることができました。

走っているうちに「輪中」地帯へと入り込んでいきます。

道路も次第に平面上を車が流れるようになっていきますし、

地域一帯に田畑風景が見られるようになってきます。

目指す宿泊予定地までは時間もおよそ1時間ちょっと位でした。

④午後17時過ぎ頃到着。

『かんぽの宿 岐阜羽島』は二度目の利用となります。

「輪中地帯」のど真ん中に接した地域にあります。

前回利用させて頂いた時は、家族とともに

西国33箇所の結願地『谷汲山 華厳寺』へ訪れるために

宿泊させて頂きました。

その時は1泊2日の旅でした。

さて、この日も遠距離を効率よく運転しながら廻ってきましたので

疲労も蓄積。

夕食と入浴を済ませるとすぐにも眠気が襲ってきて

心地よき眠りへと誘われることになりました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<7月16日月曜日>

①貴重な3連休日も走馬燈のように消えゆく最終日朝を迎えます。

管理人も翌日から仕事が控えていましたので一刻も早く帰宅して

ゆっくりと旅の疲れを落としたかったので早朝起床。

この日も前夜の心地よき疲れとともにぐっすりと眠りに就くことが

できましたので、目覚めも快適状態。

朝風呂を浴び、朝食時間までに少しゆとりもありましたから、

『かんぽの宿 岐阜羽島』のすぐ前景に広がる

『大賀ハス園』(無料)を見に行くことに。

本当に普通のハス田でしたが、すでに撮影団も先着されていました。

ハスの花というのは皆さんもご存じのように

だいたい早朝の時間帯に開花するものと言われています。

とはいえ、今夏この日も記録的猛暑の連続。

もしくは7月上旬から中旬にかけてのまだ早い時期だったのかもしれません。

開花もまばら状態ではありました。

芥川龍之介『蜘蛛の糸』の世界観が呼び起こされ、

少しばかりお釈迦様のような清々しくも柔和な気持ちにさせて頂きました。

まさにハスの花とは<妖花>そのものですね。

よき夢見心地に浸らせて頂けました。

IMGP1153 IMGP1157

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IMGP1161

朝食を済ませるとチェックアウトします。

翌日からは仕事でしたので早めに宿を出発。

前に地元の岐阜県大垣市の方に教えて頂いた

通称『おちょぼさん』こと『千代保稲荷神社』へと向かうことになります。

『かんぽの宿 岐阜羽島』からはそんな時間的にも距離的にも

遠くありません。

およそ30分もかからない程度で到着しました。

先に地元の方による情報で『毎月末日から翌1日にかけての

夜通し縁日』以外の平日も大いなる賑わいがあり、

駐車場もそれなりに混雑するともお聞きしておりましたので

少し心配はありましたが、ちょうどタイミングよく駐車ができました。

『おちょぼさん』は小さいながらも一説によると

日本3大お稲荷さんの1つだとか・・・

駐車場を出て少し参道に入れば左右両方にお店がずらりと並び

多くの方々で賑わっていました。

良質な腕時計や財布などもお手ごろ価格。

食べ物も名古屋近辺なのか「味噌カツ」など充実したメニューが

提供されていました。

鳥居をくぐると串に刺された揚げさん(油揚げ)を買って、

手水鉢で手と口をすすいで境内に入ります。

お供え台に揚げさんをお供えしてお祈りモードに入ります。

「天下万民、森羅万象一切弥栄」

「商売繁盛、景気回復祈願」

「災害回避、平和祈願」

「ありがとうございます」と・・・

参拝を済ませますと、すぐに出発します。

それでもまだ午前10時過ぎでしたので、

長良川沿いの堤防を『国営木曽三川公園』手前まで出て、

そのまま左折。

(ちなみに右折すれば展望タワーや治水神社。

この展望タワーはお薦め。レストランほかトイレ休憩施設なども

内部にございます。そのまままっすぐに右方向へと進んでいけば、

油島大橋を経て『お多度さん』こと多度大社へも行くことができます。

おそらくそこから車で行けば30~40分ほどで

1時間もかからないと思います。

歩けばおよそ1時間~90分くらいだと思います。

実際に歩いた体験だと・・・

あくまでもこの治水神社そばの展望タワーあたりから多度大社までの

徒歩コースですが。

『養老の滝』も車だと1時間程度でたどり着けるでしょう。

徒歩では死にます(笑)。

行けない距離ではないでしょうが、

じっくりと周辺環境を味わいながら歩くには

十分な余裕時間の確保が必要でしょう。

自転車やバイクならもっと快適な旅が楽しめることでしょう。

さらに『ナガシマスパーランド』も至近距離という

便利な立地条件にこの『国営木曽三川公園』は位置していますので

遊びにもお子様の<自由研究>テーマ選び対策にも一石二鳥でしょう。

管理人のささやかなご提案意見にしか過ぎませんが・・・。)

左折すると長良川大橋と立田大橋を渡り、

『道の駅 立田ふれあいの里』に立ち寄ることになります。

ここも賑わっていました。

この時すでに午前11時過ぎ。

東名阪道「桑名東インターチェンジ」から

亀山ジャンクション経由で新名神道~京滋バイパス~第二京阪を経て、

近畿道から大阪市内方面へと帰宅するコース。

自宅には午後15時前着。

途中の「土山サービスエリア」での小休憩を挟むも

名古屋から大阪まで行きとは異なり速やかな移動が叶いました。

途中の「土山サービスエリア」では自衛隊車両も多く見受けられ、

例の西日本豪雨被災地への救援活動の行き帰りだったのでしょうか?

ただただひたすら感謝申し上げる次第です。

「1日でも早い復興が叶いますように・・・」

というわけで、今回は「輪中」地帯を車で急ぎ駆け抜けただけでしたので、

前回の多度大社参詣時に立ち寄った治水神社参拝時に

ざっと周辺の模様を眺めただけの体感情報とともに

僅かながらの情報でしか今回はお伝えできませんが、

最後に少しだけ微力ながら今後の被災回避対策に少しでもお役に立てたらと思い、

現在学んでいる途上にある知識や知恵とともに

まとめて閉幕させて頂くことにいたします。

まずは、『国土交通省:国土地理院』のサイトから

今回の西日本豪雨によって比較相対的に被害が大きく

報道でも中心的に取り上げられた岡山県真備町付近を流れる

小田川支流である真谷川の上空撮影写真図をご閲覧下さいませ。

その後に同じく『国土交通省:中部地方整備局 河川部』のサイトに入り

木曽三川「輪中」地帯の上空撮影写真図から木曽三川「輪中」地帯における

決壊状況がわかる『木曽川・長良川・揖斐川~主な災害~』をご覧下さいませ。

「そうすると何が見えてくるか?」

皆さんにもご一緒に考えて頂きたいのです。

前者の岡山県真備町:真谷川の堤防決壊「前」の写真図を眺めて頂ければ

おわかりのように確かにそれなりの植生がなされていたことも明らかです。

このあたりは、後者の木曽三川「輪中」地帯の現在の状況などとも

一見すれば似ているとも言えます。

とはいえ、前者と後者での大きな違いはまず川幅や川の本数において

大きく異なるために小さな前者では堤防の高さも比較的低く抑えられていた

のではないかという推定が働きます。

もちろん、現場を直接視察したわけでもありませんし、

専門部外者かつ地域外住民による一般素人感による推測でしかありませんので

あまりいいかげんなコメントは慎まなくてはなりません。

ただ、今回の西日本豪雨による真谷川決壊地点は

過去にも同じような近似点での決壊事例があったとも指摘されていますし、

その当時の決壊地点や模様が標された「水害碑」なども

数多く点在していたとも報道されています。

こうした「水害碑」から過去の被災教訓を伝承する重要性なども

指摘されていました。

また本流につながる小田川も下流域において

高梁川との合流地点における付け替え工事が計画されるも

何らかの事情で大幅に着工が遅れていたとも伝えられています。

(産経新聞:平成30年8月7日夕刊記事ほかによる。)

さらに前にも<番外編:信楽・甲賀旅情編>記事中でも

さらっと綴らせて頂いたところですが、

その地域周辺の地理的知識を持つことで

いざという時における救命率を高める助力にもなるだろうということでした。

特に東日本大震災時においても高台にある神社などが逃げ場所として

大いなる威力を発揮させていたこともあるなど

避難場所がどこにあるかやどのあたりが望ましいのかなどを

日頃から探索しておくことも重要となります。

ハザードマップの活用も重要だと力点を置いて説かれていましたが、

なかなか広報も行き届いていない部分もあったようですし、

「まさか」という<想定外>事例というように

こうした<想定外>事態そのものが人間の盲点にもなりやすいために

いざ災害という場面になってからでないと実感が持てないことも

そうしたハザードマップほかの活用もあまり意味をなさなかった要因に

つながったように思われます。

今回の堤防決壊要因もいくつかあると言われておりますが、

堤防の高さをより高く盛りますとともにコンクリート補強工事にて

ただ改修すれば事が済むという易問ではないということです。

専門家だけではなくひとえに地域住民との日頃の連携姿勢と

相互信頼関係形成構築こそが最大の被災回避対策になるということに尽きます。

(参考:産経新聞 平成30年8月1日夕刊一面記事)

日本は昔から「水害」大国であり「治水」対策は

民政の基本中の基本政策だと言われてきました。

仁徳天皇による淀川べりの茨田堤(まんだのつつみ)や難波の堀江、

武田信玄による釜無川における信玄堤、

明智光秀による由良川「治水」工事、

今回の岡山県の事例でいえば、

備中松山藩の山田方谷による河川・港湾「治水」公共工事や

熊沢蕃山による「治水」論提案や実際の「治水」事業着手など

優れた為政者や藩政責任者になればなるほど

誰しもがまず<いの一番に>重点的に行ってきた民政事業だったのです。

ハザードマップ活用の周知徹底ももちろん大切なことですが、

こうした歴史・地理的知識や先人の知恵を

初等中等義務教育過程で周知徹底させていくことも不可欠でありましょう。

戦後のいわゆる「平和ボケ」や「アウトドア活動嫌い」の増加傾向も

そうした非常時認識を脆弱化させてきた要因の1つでもありました。

「想定外」という言葉は最近至るところで聞きますが、

<失敗学>などの知見からも絶対必要不可欠だろうと思われる対策を

怠ってきたことが最大のミスを誘発するものとされていますから、

「やるべきことをやらなかった」というのは

あくまでも<想定の範囲内>の出来事であるため

「想定外」という逃げ口上は非常時には通用しないのです。

管理人も戦後民主主義時代の下に生まれ育ってきたために

「非常時」に対する認識が甘いところは同じですから

あまり偉そうなことは言えませんが、

こうした非常時において役立つ知識や知恵などは

例えばスイス政府発行の『民間防衛』であったり、

アウトドア関連図書などで学ばせて頂いております。

特に登山における天候の変わり目を知らせる雲の動きなどから

試みる気象解析法や

海水浴などでの潮の満ち引き予想などがそれに当たります。

特に現実に「水難」事故に遭遇した体験時以後は

このことを強く認識するようになりました。

まずは天候が変わりはじめたら速やかに水辺から引き上げること。

大人になればなるほど体力も落ちてきますから

自信過剰にならず、いつでもすぐに水辺から引き上げることができるように

浜辺に近いところだけで「満足」すること。

特に体力に自信がある方ほど事故率や死亡率も高いと言われています。

管理人自身も幼少期には水泳経験がありますが、

スポーツに心得ある兄弟ほどには体育には自信がありませんでした。

体育会系ほどではないにせよ幼少期からスポーツに心得があり

体育が比較的得意だった兄弟が二人ともたまたま水泳体験

(何せ幼少時にはイトマンスイミングスクールで選手コースへ

なぜか進むことを勧められていた弟もいたのです)があったのですが、

その弟はあの海難事故時に向こう側に先に泳ぎ切って

何かの浮き台に乗って待ってくれてはいたのですが、

その時に無理にこちら側に助けに来ようとせずに

救援を呼びかけたのがよかったのかもしれません。

とはいえ、肝腎なライフセーバーがいなかったのですが・・・

近年は「人手不足」なのか何なのか

ライフセーバー自体がいない、もしくは、いても頼りない海水浴場も

多いですので、皆さんもご利用時には十二分にご注意下さいませ。

人があまりいなくて泳ぎやすいから隠れた「穴場」だと思って、

無理にその海水浴場を選択すると・・・

いのちが危険にさらされることにもなりかねません。

「後悔先に立たず」という諺もありますから、

本当に皆さんにも過信しないで頂きたいのです。

その時にもう1人の弟が管理人の後に追い付こうと泳いできたのですが、

管理人すぐに大声を出したのが功を奏したのか、

(とはいえ、次にご紹介するサイト記事によれば、

「叫ぶ」のもやめた方がよいとの意見もあるようです。)

それに加えて弟に必死にしがみつこうとするのを弟も遠回りに振り切りつつ、

とっさの機転で瞬時に鳩尾(みぞおち)をおもいっきり殴り込み

気絶させるとともに背後に回り込んだまま浮き輪と救援者が駆けつけてくるまで

しばらく管理人をつかみながら静かに待機してくれていたのも

良い意味(生き残る方向への)での運命の分かれ道だったのかもしれません。

あともう数分遅れていたら水を大量に飲み込んでいただろうし、

弟もろとも「あの世」へ道連れにしていたかもしれない状況だったからです。

父親も周りにいた方々に助力を願い、

浮き輪を貸して頂くことになり、

ライフセーバーがいない中、救援者が来るまで

その浮き輪にとりあえずしがみつかせることで気道を確保させた

後から聞きました。

父親がこうした災害対策に心得があった警察官だったことも

ただただ運が良かったとしか言いようがありません。

『一家に一冊 地震・災害に勝つ本』

(監修:大和勇三、協力:東京航空地方気象台長  藤本成男、

産報ブックス、昭和48年初版、214頁)によりますと、

『325 おぼれても、4分以内なら助かる』とのこと。

あとから知ったことですが、

本当にぎりぎりの生死の分かれ目時間ゾーンにいたようです。

また管理人自身も諦めずにまずは精神的に落ち着く意味で

「何としてでも生かさせてくれ・・・」と念じきったのも

大きな助力となったようです。

体力的にはもがけばもがくほど体力も奪われていくと

昔のアウトドアキャンプや小学校などの水泳授業で

教わっていたので素直に従って、

いい意味でこの体力面では諦めきったのも良かったのでしょう

このようなささやかな教訓から皆さんにお伝え出来ることは、

①「まずは、絶対に1人だけで助けに行こうとしないこと。

(どうしても1人だけの場合には浮き輪があれば投げ入れるなどの

出来るだけの応急処置を施したうえで、すぐにも救助を求めること。)」

②「体力面ではある意味<諦めきる>こと。」

③「精神面では生き抜くことを簡単に<諦めきらない>こと。」

などが挙げられるかと思います。

ちなみに、日本赤十字社東京都支部が提供する

ユーチューブ映像情報もともにご紹介しておきますので

非常時には是非ご活用下さいませ。

管理人も岡山赤十字病院様には大変お世話になりました。

この場をお借りしてあらためて篤く御礼申し上げます。

この御恩を忘れずに管理人も人助けできるように

精一杯力を尽くしていく所存です。

何はともあれ生き抜くことが叶いましたからには、

また前にも触れさせて頂きましたように

先に「水難」事故でお亡くなりになった学生時代の友人のことを思えば、

何としてでもその方に代わってでも志高く生き抜いていくとともに

後世になにがしかの善知識や知恵を提供していく人生を送らねばなりません。

また「失業・半ニート」体験や「抑鬱」体験も経てきたからには

この時に学び取った教訓や知恵も同じように悩んでおられる方に

お裾分けしなくてはなりません。

これが天や友、ご縁あるすべての森羅万象への誓いでもあります。

昔から「天災は忘れた頃にやってくる」(寺田寅彦)だとか

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」といった諺を

数多くの先人たちが残されてきたのも

人間という存在はすぐにもそうした貴重な教訓を

忘却しやすい生き物だからでしょう。

私たちももういざ非常時という時になってから「想定外でした!!」などと

逃げ口上せずに済むように意識転換を果たさなくてはならない時期が

やってまいりました。

かえすがえすも今回の被災により亡くなられた方々や

受難に遭遇された被災者やご遺族の方々には「無念」な想いで

日々をお過ごしなされていることと存じます。

管理人も含め災害に遭わなかった人間も

この「天災大国」日本で生活し続ける限りは

こうした事態がいつ何時訪れるかも知れません。

「<他人事>としてではなく<我が事>として・・・」、

自己を取り巻く世界を感受すること。

ここに「慈悲(共感)」の心とあらゆる困難(逆境)を

乗り越える勇気と知恵といった「活力」が湧き出てくる源泉があります。

「治水」問題は管理人自身のライフワークでもありますから、

今後とも継続的に追跡調査してまいりたいと思います。

「水はいのちある存在にとって有り難いと同時に

とてつもなく恐ろしい存在」だということを肝に銘じながら

付き合ってまいりましょう。

今夏も異常な猛暑日が続きますが、

熱中症にご注意頂きますように、

十二分な水分補給や塩分補給をお願い申し上げます。

それでは、今回も長々と紀行文形式で日々の雑感なども含めて

語らせて頂きましたが、皆さんにも是非日々の内省材料として

本記事をご活用下されば有り難いことこのうえなき幸せであります。

「すべては皆さんの幸せのために・・・」

最後までお読み頂きありがとうございました。

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One Response to “番外編:NHK連続テレビ小説『半分、青い。』撮影協力地である岐阜県の魅力ご紹介~現代版中山道旅情紀行編~”

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