丹羽敏雄先生の『数学は世界を解明できるか』人類は世界をどのように認識してきたのかを振り返らせてくれる<数学的世界解析論>

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丹羽敏雄先生の『数学は世界を解明できるか~カオスと予定調和~』

人類は有史以来この世界をどのように認識しイメージ形成を

図ってきたのでしょうか?

一見すると混沌に満ち溢れた世界に一定の秩序感を与えたい。

それは人類の世界内における存在的安心感を強く切望する

本能的心理に由来するものでしょう。

もし、未来動向を確実に数学的に予想できる可能性が

一抹でもあれば・・・

今回はこの本をご紹介します。

『数学は世界を解明できるか~カオスと予定調和~』(丹羽敏雄著、中公新書、2000年第5版)

丹羽敏雄先生(以下、著者)は、大阪生まれ。

京都大学理学部ご卒業。

長年、津田塾大学でのご奉職を通じて優れた女性数学研究者など多数

育成輩出されてこられた数学者であります。

現在は同大学名誉教授。

ご専攻は複雑系科学を成り立たせるうえでの道具立てとして必要となる

各種最先端現代数学の知見を融合させたあらたな力学系理論を

主題に取り組んでこられたといいます。

著者によるご専攻にまつわる専門書としては

『力学系』(紀伊国屋書店、1981年)

『微分方程式と力学系の理論入門~非線形現象の解析にむけて~』

(遊星社、1988年)など多数あります。

また若年の頃からのゲーテシュタイナー愛好者でもあられ

我が国では著名なシュタイナー研究者としての顔もお持ちだといいます。

シュタイナー教育についての詳細は管理人自身にも多大な興味関心があるところ

現時点ではまだまだ未知のことが多く、

この場で多くを語らせて頂くことも叶いませんが、

算数・数学分野においても独特な教育技法を開発されていたそうですね。

特に芸術と主に幾何学分野を中心とした数理教育との融合性に着目させた

独自教育手法があるといいます。

そのようなシュタイナー教育紹介者の顔もお持ちであることから

数多くのシュタイナー関連邦訳書も手がけられています。

『百合と薔薇~ゲーテ=シュタイナー的自然観察への誘い~』

(涼風書林、2016年)など多数。

読者の皆さんの中にもシュタイナー愛好者やその教育技法に

多大なご興味ご関心をお持ちである方もおられるでしょうから、

ここでは今回の書評の話題である数理教育に焦点を合わせて

下記の関連書もご紹介しておきますね。

『シュタイナー学校の数学教本』

(ベングト・ウリーン、丹羽敏雄・森章吾共訳、ちくま学芸文庫、2011年)

『シュタイナー学校の算数の時間』

(エルンスト・シューベルト、森章吾訳、水声社、1995年)

ところで今回ご紹介させて頂く書物では複雑系理数理論にまつわる

様々な幾何学図形も使用されながら論考解説が展開されていくことに

なるわけですが、よくこの分野で引き合いに出される画家に

マウリッツ・エッシャーがいます。

たまたまではありますが、この秋11月中旬から翌1月中旬にかけて

関西周辺にご在住の方であれば、エッシャー生誕120年を祝して

あべのハルカス美術館にて『ミラクル エッシャー展』も開催されるということなので、

合わせて芸術にご興味ご関心がある方向けにもご紹介しておきますね。

最先端理数分野でどのような研究がなされているかを理解するうえでも

こうした幾何学図形の世界に触れることは何かしかの助力になるかもしれません。

今回の書評テーマとも少し関連性があるようですが、

そのエッシャー芸術を題材にして複雑系科学の世界観に浸ることが叶う書物に

『ゲーデル、エッシャー、バッハ~あるいは不思議の環~

20周年記念版』(ダグラス・R・ホフスタッター著、野崎昭弘・柳瀬尚紀・

はやしはじめ共訳、白揚社、2005年)もございますので

エッシャー芸術の観覧からさらなるご興味ご関心へと導かれた方には

これも何かのご縁ということでご紹介しておきますね。

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さて、ここからは今回の書評へと入らせて頂く前座として

いつものように導入部が長くなり誠に恐縮ですが、

今回ご紹介させて頂くことになる本書ご紹介に至る趣旨説明

管理人にとってなぜ<数理的世界観の視座>へと導かれていったのか

の観点からも重要な話題が含まれてきますとともに

まもなく当書評ブログ開設3周年目を迎えるに先立ちましての

日頃ご愛顧頂いてる読者様へのご挨拶と感謝の気持ちも込めて

語らせて頂くことをお許し下さいませ。

《最初に断り書きをさせて頂きますが、お急ぎの読者様で

本書ご紹介理由の結論部分だけを先に知りたいという方は、

本書評記事<主題本文項目タイトル>直前の

今書き綴っておりますこの<前座導入記事項目部>最後尾(※~~~以後)

まとめておりますのでそちらにお回り下さいませ。

それでは宜しくお願いいたします。

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さて、管理人ももはやアラフォー(40代前後)に近づこうとしているこの時期、

残りの余生と余勢でもって今後の来るべき人類の未来へ向けた

微力ながらも良きアイディアがないかと探究しながら

独自にも研鑽してきた結果、少しずつ蓄積してきた知見などを後世へ残しておきたく

「時空論」と「エネルギー論」、「はざま論(関係性哲学)」などを

最重要テーマに据えながら

『人間とはそもそもどのような存在なのか?』

皆さんとともに何度でも粘り強く問い直していこうではありませんかと呼びかけながら

書評を通じて様々な切り口から考察を続けさせて頂いてまいりました。

そんななか奇特な読者の皆さんのコメントやバーチャル・リアル世界を問わずに

数多くの方々の励ましのお声やご縁も頂きながら、

<愛ある>勇気と知恵や活力を授かることで

何とかここまで続けさせて頂くことが叶いました。

「皆さん、本当に毎度長文にお付き合い頂きありがとうございます。」

そんなこんなでまもなくブログ開設3周年目を迎えることになります。

最初期は自身の抑鬱症状が積み重ねって来ていたことから

これ以上の社会的労働を継続することも重苦しくなるにつれて、

一旦は退職。

社会的労働の世界からも遠ざかり「休業」生活へと至ることになっていたわけですが、

1年目は少し自身の正直な魂と人生の原点を見つめなおすために、

各地を遍歴旅行(お遍路も含む)することを通じて社会を俯瞰的に見つめなおすところから

人生における「再出発」を始めることになりました。

するとやはり遍歴旅行をするのはいいものですね。

特に「お遍路」に出かけていた時に実感させられたわけですが、

社会から一度自身を切り離すことでそれまでの社会的関係性を作り直そうと

されている人々がかなり多く見受けられるのでした。

管理人も「人間とはそもそもどのような存在なのか?」を探究することを通じて

自他ともの社会的安心感をいかに再創造させていくことに役立つかといったことを

分析考察する視点を持つことで

こうした管理人固有の私的事情問題解決に限らず、

今やこの日本社会には同様の問題意識を抱えておられる方々が

数多く潜在的にも顕在的にもいらっしゃるということを再認識し、

確信するに至ったことから、

たとえこれからの余生における生活が経済的に困難な道のりになろうとも

この世に生を受けたからにはたとえ微力なりとも

再び他人様のお役に立ちたいとの想いがますます強烈に湧き出てきたことから

新たな「再出発」へのイメージ形成が図られるようになったのでした。

その時期はまだこれまで精一杯頑張ってきたことを放棄することや

社会的責務から遠ざかることで自分だけが「休業」させて頂くことは

ただ単なるエゴや現実逃避でしかないのではないかと

自身の内面でもかなりの煩悶・動揺期が長く続いていたのが正直な心でありました。

また、退職前には現に内面事情も知らない単なる仕事上・社会上における

「経済的=社会的利害関係」といった表層的関係性でしかお付き合いのない

赤の他人でしかなかった同僚や知人程度の人間に

そのように指摘されたことほど心にグサリとくる言動体験もなかったからでした。

どうも管理人には幼少期の頃から最近少しずつ知られるようになってきた

HSP(とても敏感な人)気質が備わっているようです。

(ちなみに、内向型だからHSPとは限りません。

見た目は非常に外向的だと思われる方でも内心は常に繊細な心で

揺れ動いていて、1人になった時に急激に疲れがどっと押し寄せてくる性格を

有する方も社会にはたくさんおられるからです。

つまり、かなりの無理をされておられる方が

特に日本社会には数多くいらっしゃるということです。

進化する現代資本主義経済社会の中で安定した稼ぎを得て生活していくにも

セルフ・ブランディング(自己演出)能力が強く要請されるなど

HSP気質の人間にとっては本当に生きづらい社会になってきています。

絶えず激変しゆく現代経済社会に適応しようとすればするほど

真面目であまり目立つことを好まない人間ほど

無理に無理を重ねることになりますから、ある種の「変性意識」に長けた

人間でなければ普通に生きていくにもかなりの苦痛を感じてしまうのです。

そのような時代の流れの中でそうした過剰適応が精神病理現象として

表れてきているのが「現代という社会」のひとつの特徴なのかもしれません。

ですから、昨今『サイコパス』などといった書籍にも

一般的な関心が集まっているのだと思われます。 )

そのために幼少期の頃から社会に出る不安感が人一倍強かったようです。

内向的な反面、急に社交的というのか外向的になることもあるのですが、

どちらかといえば本当の心は内向型気質だったように信じ込んできたのでした。

そんなわけで外で友人たちと遊ぶことも多い方でしたが、

いわゆる人間関係において無難に付き合おうと志向する

「八方美人型全世界的等距離外交」が出来なかったのです。

その割にはリーダー役を仰せつかったこともありますので

正直しんどく辛い時期も思春期などにはあったのでした。

多種多様な価値観を持つ人を束ねることがいかに困難なことか・・・

この時点で政治家や経営者には向いていないことを確信しましたので

裏方に徹せそうな職人や研究者や図書館の司書さん、

または博物館などの学芸員などに憧れていたものでした。

とはいえ、年代が上がるにつれて、

どうも大人の世界(現代資本主義経済社会のことですが)では

異常なことが起きているらしいことも少しずつ

詳しくその事情が判明してくるにつれて、

大学生にでもなれば「就職活動」とやらに励む友人知人たちを

羨ましく思う反面、社会的孤立感や焦燥感ばかりが募るのでした。

子供の頃に思い描いていたような

そのような独立してでもやっていけそうな「理想的」職種など

きょうびますます減少してきていることも

次第に「就職活動情報」などを友人知人などから

見聞きし、自分でも調べていくうちに具体的に判明してきたからです。

この時期はすでに「超」就職氷河期真っ只中でもありましたしね・・・

そんなわけでアルバイトなども経験しながら

社会的「耐性」力は鍛えてきたつもりでしたが、心配事や不安度が

より増すだけの状態が続いていたのでした。

そんな精神状態だけが続く中、何とか自分に適しそうな「資格」を

取得して将来の就職に役立てようと

両親などの理解と協力も得て数年間は「浪人」生活を許して頂けました。

この時期の経験なくしては今の自分もないことを考えれば

誠に感謝の念で一杯です。

こうした人生経歴を経ながらやっとまともな就職先を見つけたわけですが、

やはり幼少期から心配していた現象が続発。

そんな前職時代のある職場では同僚に

「あいつひょっとして、○○(障害名)ではないか・・・」などと

陰で囁かれている場面も見てしまったことから

ますます人間不信へと深く嵌り込んでいったというわけです。

自分自身の気づきや理解ある両親や友人知人ならこのような厳しい指摘というか

親身になったアドバイスとして、また評価を受けても

こちらも真摯に愛情をもって受け止めることもまだ可能ですが、

まったく普段から無視・軽視という冷笑的態度に出るような

単なる同僚や知人程度にこのような非難中傷行為を受けると

本当に精神的「外傷」となってしまうのです。

つまり、本当はそうではなくとも社会への不安感が

ますます強固になっていくというわけですね。

たとえそれが自身の強すぎる「思い込み」や

冷静に論理的に考えれば「錯覚」や「幻覚」、「妄想」だと

例えばNLP(神経言語系)認知行動心理学の知見によって教示されたとしても

理性的に論理的に「頭」で理解され得たとしても

「身体」や「心」が、また「魂」レベルにまで至れば

まったく受け付けなくなってしまうのです。

ために身心ともに硬直しストレスばかりが溜まり続ける日々を

過ごすことになっていったのです。

こうした精神的「外傷」はちょっとやそこらの療法では治癒されることは

あり得ません。

そうした日々を何とか「もう大人なんだから・・・」などと

自身を「騙し騙し」しながら納得させつつ我慢に我慢を重ねながら

精一杯頑張って「出社」は続けていたのですが、

気付いた頃には何を指示されても否定的反応というのか

消極的投げやり??といっていい心理的反応というのか

「元気」が出なくなっていったのです。

その時に初めて「自分はあれおかしいなぁ~」などと

思い始めた頃に、実はこの症例こそが「うつ」なんだと知るように

なったのでした。

その時たまたま管理人には「うつ」を患っておられた師匠や

友人知人などもいましたから、思い切って心の内を打ち明けてみたら

「それやそれ、その症例こそが<うつ>の初期反応なんやで・・・」って

教えて頂いたのです。

「自分の場合はまだ<初期>やから深まらんうちに少し職場に相談して

休職するかその不快な職場をいったん退社して別の職場に転職してみて

身心の状況が変化するのを試してみる方法もあるんちゃうやろか・・・」とか

様々なアドバイスも受けていたのですが、

その当時の職場にはそんな休職までさせて頂けるような環境にはなく

これ以上の我慢もならない状況にすでに犯されていましたことから

「退職」する決断に至りました。

そんなわけで予定以上に「休業」期間が長引いたわけですが、

ある程度の「非」社会的期間を設けたことで少しずつ症例も軽くなり、

社会に再復帰してやっていける「自信」こそまだ足りませんでしたが、

ようやく少しばかり「活力」も甦ってきた頃に

課外時間に今の書評記事創作活動や仏像彫刻修業など

(手作業や少しばかりの肉体を活用させた軽作業といっても

かなりの生命エネルギーは伴いますが、<うつ>には効くらしいとの

実感も得られてきましたので)を続けながら

無理のない範囲での生活費獲得「労働」が出来そうな

時間に融通が効きそうだった今の職場に「派遣社員」という

不安定な社会的身分ではありますが、

何とか潜り込ませて頂くことが叶いました。

するとたまたまその職場には障害者の方も雇用されていたために

管理人自身はあくまでも「非」障害者という通常の枠ですが、

そうした障害をもった同僚とともに語り合いながら

働かせて頂いていることで不安感も少しずつ軽減されていき

同じような心理的・物理的状況にいる仲間とも社内外で出会えたことで

少しずつ身心ともに楽になっていったのでした。

とはいえ、社会的不安感が癒されたわけではまったくありません。

そんな精神状況下で今に至っております。

そんなわけでそうした心的「外傷」で今なお煩悶や苦痛に苛まれておられる

ニートの方や「社会的」引きこもり斎藤環氏の著書名などによって

世間一般に浸透した言葉。ちなみに管理人はこの方やその周辺領域で

共闘されておられるようなリベラル系心理カウンセラーや

精神科医などをまったく信用・信頼しておりません。

「そもそもラカン派って何様ですか(怒)」などと感知してしまうからですね。

ですから特にインテリ系の方には親和的だと一部では評価されている??そうですが、

なぜこうした見立てに軽く納得・同調されるのかそうした論壇風潮にも

管理人などは懐疑的になるわけですね。

そのように「実感」されている真に賢い読者様であれば

おそらく強く同感して下さる方もおられるかもしれません。

あくまでも管理人の周辺にいるインテリ型「患者」さんの中には

こうしたフロイト=ラカン型治療法に疑念を抱かれている方も

結構な割合で見聞きしますし、こうしたタレント的カウンセラーに

違和感を抱かれている方々も多いように感じられてきたからです。

そうした感知「勘」が当たっているかどうかはわかりませんが・・・)に至った

方々の心情に思いを馳せながら語り続けさせて頂いております。

そこで管理人もこの「休業」期間中に多種多様な心理療法などを研究し

自身に試みてきましたがほとんどの専門的心理療法や精神医療には

心の一側面しか補足できない、それもかなりの牽強付会さが際立っているから

ではないかと推察することに至ったわけでした。

そうした時期のある最中にあくまでも管理人自身という固有事情にしか

当てはまらず、万人に当てはまるような治癒法ではありませんが、

少なくとも管理人自身にとって治癒に大いに貢献してくれる知見を

ご提供して下さったのが本多信一氏や<トランスパーソナル心理学>に

基づく治療法をご提供頂いた諸富祥彦先生、

映画やテレビで<貞子現象>としてひと頃話題にもなり

明治期にスキャンダル騒動へと巻き込まれ

社会から抹殺されていった今や数少なき<心理学者>福来友吉博士の理念を

継承されてきた故山本健造氏や山本貴美子氏による心理学的見解に出会ったのでした。

その他にも数多くの信頼できそうな心理学・精神医学研究者もいましたが・・・。

そうそう、忘れるところでした。

特に管理人の哲学志向にも10代の頃より多大な影響を与え続けて下さっている

精神医学の道から哲学者への道を辿られているカール・ヤスパース先生。

また日本では木村敏先生や中井久夫先生などの問題志向性にも触発されること多く

強い共感を覚えてきました。

ここにあらためて感謝と御礼申し上げます。

こうした方々によって分析されてきた知見に基づく

心理療法などに辿り着くまでにも必死な想い(何としてでももう一度社会と自分との間に

安定感を回復させたいとの願い)がありました。

もし、幼少期からの読書体験や優れた師匠との出会いの「蓄積」がなければ・・・と

今から振り返って想像すればおそらく寒々しい殺伐とした風景が

眼前に広がっていたことはほぼ間違いなかったと思われます。

この故山本健造氏・山本貴美子氏による一連の著作集で

『六次元』弁証法という哲学的心理療法の試みが紹介されていて

初めて知ることになったわけですが、

やはり西洋由来の近代「啓蒙」心理学や精神医学による治療法が

大方の日本人には合わないだろう理由なども

ずいぶんと得心させられることになったのでした。

ちなみに、最近はあの京極夏彦氏なども推理・伝奇小説などの

人物素材に取り上げられるなどで一般にも福来友吉博士の名が

再認知されるようになってきているようですね。

その独特な「念写」理論やその科学的「再現性」問題などは

未だに完全解明されたとは言えず、一般的にも疑似科学扱いされたりする

傾向にありますが、西洋でもすでに最先端の「理論」物理学者など

錚々たる科学者が脳科学と「意識(ある意味で<念>の揺れ動きですな・・・)」の

起源発生や物理的に現象化される過程、そのメカニズム(構造的把握)が

研究対象とされてきているだけに単に「超」心理学は眉唾物だと言って

斬り捨てるだけでは済まない時代になってきています。

管理人もまだまだ理解出来ず、この福来友吉博士によって開拓されていった

「超」心理学研究から導かれゆく最終目標にはたどり着けずにいますが、

少なくとも前にもご紹介させて頂きましたロジャー・ペンローズ博士や

ミチオ・カク博士、石川幹人先生などの知見も手がかりに

「超」心理学という敬遠されがちな学問領域に対しても

真摯に探究している途上にいます。

擬似科学・オカルト謬見は論外だとしても

人間にとって重要な「心」やさらなるその根源である「魂」を

生み出す「意識」の起源に迫ることは

人間存在の本質を現代分子生物学や遺伝子情報工学思想とは根本的に異なる

学問的アプローチであるだけにワクワク・ドキドキ感もあります。

「果たして、<物質(無機物)>から<心(有機物)>は

本当に生み出し得ないのだろうか?」

管理人自身も山本氏などの問題意識に触発されつつも、

一方では現代「唯物」科学(必ずしもかつてのソ連の科学者オパーリンなどによる

生命起源解析科学だけに狭く限定して批判するニュアンスを込めたものではありませんし、

その研究意義を否定するわけでもありません。)による

「無機物(非生命体)から有機物(生命体)が出現してくる

生<物>発生起源論」が問題提起していた難問が

完全に解明仕切れたとも考えておりませんので、

そちらからの研究アプローチも無意味になったものとは考えられないために

管理人としても両側面からの研究アプローチが必要不可欠だと確信しております。

社会で生きる人間にいたずらに不安感を与える「迷信」や「俗信」だけは

追放していかなくてはなりません。

なぜならば、それが現代資本主義経済社会では儲けの「源泉」とも

残念ながらなってきているからですね。

そのために本来なら生活にとって不必要なまでの「出費」を強いられるなど

健常な生活を願う数多くの人々を圧迫する原因にもなっているです。

そこに人々の「不安」感につけ込む「屁理屈」や「悪徳商法」が

胚胎するわけであります。

この二本立てを始めとする多角的研究視点によって

従来の「唯心」論と「唯物」論といった二元思考法の限界点を

突破し得るでしょうし、政治的な左右両極端なイデオロギー対立による

純粋な科学的・学問的研究発展の障害物を除去し得るものとも

確信しているからですね。

それは言い換えますれば、

「物心二元論から物心一元論への道」であります。

いずれにせよ後者の「唯物」的生物<進化>論においても

「では果たして、<意識>はどのように高度化していったのか?」という問いを

立てたならば、現時点でもまだまだ十二分に納得のいく結論が

提出されているわけでもないからです。

また20世紀初頭は米国のスタンリー博士による実験も見逃せないところです。

条件さえ揃えば「無機物が有機物になる一瞬を捉えることが可能」となるかも

しれないからです。

このあたりは微生物や粘菌などを含むウイルス・細菌研究の最前線とも

接点が出てくる問題でありましょう。

また晩年のマルクスなどはこうした科学的生物論にも多大な興味関心が

あったそうで、こうした生物学知見からの<物質代謝>思想理論から

現行経済学(狭義の資本主義経済だけにとどまりきれない

ある意味では現代<功利主義>型経済思想全般をも超越せんと飛躍する

豊かな思想的地平線<展望>も一部ひらかれていたようですね。)批判の

構想も練っていたといいます。

『カール・マルクス~「資本主義」と闘った社会思想家~』佐々木隆治著、

ちくま新書、2016年第1刷、246頁あたりご参照のこと。)

こうして皮肉にもこれまでの「超」心理学への否定的イメージが一変しそうな

好ましい転換点や兆しを生み出したのが

かの「人工知能(AI)」であったことともここで関係してきます。

そうした問題意識も踏まえますれば、

確かに自身の経験則からも心を「全体的」に捉える志向性を持つ

いわゆる「ホリスティック」治療理論に依拠する心理的アプローチでなければ、

ますます心の傷口が深まるだけではないかとも実感させられてきたからなのでした。

これなどは米国の「統合医療」研究者として著名なアンドルー・ワイル博士の

思想理論にも通底するものがあるように思われます。)

こうした心理療法的アプローチや鷲田清一博士にご教示頂いた

「哲学」カフェ的治癒の試みも取り入れながら

今の段階では少しずつ心も落ち着いてきているようです。

とはいえ、今なお完全に心が癒えたという状況にはありません。

またいつ何時「社会的」引きこもり願望(それは子供の頃からでして、

「自由(管理人のイメージでは<宇宙との一体化意思・欲求>です。)」を

求めた漂泊願望がなぜか拭いがたく付きまとってきたのでした。

ですからもう今では本当の「伴走同志」ですね。)へと引き戻されるとも

限りません。

そういった意味で潜在的な特に「現代」社会世相への不安感や

不信感が根強いわけなのですね。

こうして1年目のいわば「お遍路」旅行生活はひとまず終了させ、

ふたたび子供の頃に思い描くことが出来ていた「この世界」への

安定感イメージを少しは取り戻せそうかなぁと思われてきた頃に、

とりあえず完全な(と言っても今も「不安定」就労者の1人ではありますが・・・)

「社会」復帰へと至る<一里塚>としての位置づけから

「休業」2年目に入ったある時期に

ある種の日記療法もいいよと信頼できる方にご教示頂いたことから

「ではでは、生活費を稼ぐにはあまりにも不安定で厳しい道のりではあるが、

何か今まで学び得てきたことで皆さんのお役にも立てるような形態で

自身の精神状態の把握管理のためにもいっちょうやってみるか・・・」みたいな

半分重く、半分軽い気持ちでこの書評ブログを始めさせて頂くに至りました。

それが今を遡ること2015年10月頃。

およそ3年ほど前に当たります。

その翌年6月頃に今の会社に「派遣(非正規)」社員として再就職して

現在に至っております。

今の経済状況でベーシックインカム制度もなく

既存の社会福祉制度も貧弱・脆弱である最中に

「自由」な人生時間を何とか確保しようとすれば

たとえ「不安定」であれ「非」正規社員を選択するほか

ごくごく一般の労働者であれば「余地」が残されていないことこそ

本来であれば深刻な死活的経済問題でもあるはずです。

今の不安定就労型非正規社員に代替可能な「限定」正社員制度の導入といっても

現状ではごくごく一部の大企業だけでの話題でありましょうから・・・

我が国の雇用環境とはかくまでも誠に貧弱なものなんです。

雇用の「流動化」と言っても悪い点ばかりが目立つばかりですね。

労働に歓びすら感じられませんし、

資本主義の大前提たる「明日への労働<力>の拡大再生産」すら

すでに行き詰まってきている状況にあります。

「ゆとり」をもって休息(遊び)する時間を持ったり、

新規学習する時間や社内外問わずにあらたなご縁結びが可能な時空間すら

なければ資本主義が要請するところの「革新(アニマルスピリット)」が

生まれ出てくる「余地」もあり得ないからです。

ですから日本は今なお「持たざる」国なのですぞ、読者の皆様!!

何か「文体」まで敬愛する小室直樹博士に似てきていますが・・・

そうそう「文体」って精神的バロメーターを測るに最適だそうですよ。

『いま生きる「資本論」』(佐藤優著、新潮社、2014年第4刷、

151~154頁ご参照のこと。)にも今ご教示頂いているところでした。

「文体」の流れによってその人の思想遍歴過程や

また精神状況も可視化されるといいます。

「公開」するのは恐怖や緊張感もほんと多々ありますが、

むしろ世の中の人々にたとえ僅かでも自身が経てきた体験談が

お役に立てればとの想いの方が勝っていますので

頑張って続けてみます。

閑話休題。

さてこのように今や官公庁ですら「派遣」社員に依存しているとも

言われるご時世ですから、

あまり厚生労働省などの公的機関ですら当てにすることも出来ませんから

国民的不安や不信感もいや増すばかりでしょう。

何もかも「経済原理」で割り切る社会とは「生きづらい」ものですね・・・

だからこそ管理人も機会あるごとに関連書ご紹介とともに

「時は金なり=人生の貴重な時空間を切り売りさせる」労働観に対して

闘い続けているわけですね。

「好きなことを仕事に・・・」とはよく大手広告代理店などが

打ち出す宣伝文句にありますが、こうした現状の経済環境下では

ほんの一握りの頑張り詰めて市場で生き残った猛者にしか

経済的ゆとりも勝ち得ることは出来ません。

いや、一時的には勝ち得てもそのような猛者の方でさえ

いずれ市場での優位者の地位が脅かされることになるわけですから

常に戦々恐々にならざるを得ず、いつも何らかの強迫観念に

苛まれることから逃れ出る方途すらありません。

つまり、「ゆとり」などほとんどの人類に残されていないのです。

その「ゆとり」状態を無理にでも残そうとすれば、

自然状態では維持出来ませんから人工的(つまりは、社会的)に

強い「利権圧力」の障壁を設定せざるを得ません。

そのことが社会的「格差」を固定し、

流動化社会という割には敗者復活すら許されず、

多くの人々の「夢」や「志」を奪っていく要因となっています。

要するに社会的「勝者」やいわゆる「成功」者は

よく「既得権力(益)」と

私たちは闘っているのだと言いますが、

むしろそのような恵まれた環境条件を獲得できた方たちこそが

そのあらたな「既得権力(益)」にも成り得るということに

あまりにも無頓着であるように見受けられます。

言い換えますと、「ノーブレス・オブリージュ(恵まれた者だからこそ

持つべき社会に対する義務)」感が

今日の社会的エリート層ほど欠けている人々はいないということです。

人間の真価は「出世」した時にこそ厳しく「天」と「地」から

試されるのです。

このあたりも故小室直樹博士にご教示頂いたところでした。

どなたかが関西圏の某ラジオ番組で強調されていたように

「本当に若者よ(若者層だけに限りませんが)、

いじめられていることに気付かなアカン!!」のです。

とはいえ、ルサンチマン(マイナス)感情の発散だけでは

「あきまへん」けどね。

大切なことはそこから「不純物」を濾過して

どのようにして皆の明るい希望となる「光」へと転じていくべきかです。

そこがまさに人間「成長」を促す正念場なのです。

さて、そうした哀しみや否定感情からはひとまず離れて

気を取り戻しますと、

もちろんその頃はまだ半ニート状態の「社会的」引きこもり生活でしたから

自身の内面状況の「吐露(暴露)」も含めまして気恥ずかしく、

相当な緊張感や責任重圧感に押し潰されそうな心情でありました。

実際にその頃も現在でさえもネット上、リアル社会上も

そうした「非(<反>ではなく!!>」社会人に対する

激しいバッシングが続いているからです。

これほどまでに「うつ」や「過労死」、パワハラやセクハラ、

アカハラなどなど多数の「社会的いじめ」が続発しているにもかかわらず

相変わらず社会の「目」には誠に冷たいものがあります。

もっとも、そんな冷たい人間ばかりではありませんけどね・・・

そんな社会的現象を観察してきたことから「差別」が生み出されていく

土壌や心理状態に関する独自考察探究も進めているところです。

「差別」とはただ単に「なくせ!!」と叫び続けるだけでは

どうも悲しいかななくならないようで生物学的理論研究も必要であります。

「免疫学」などの研究です。

20世紀初頭はまさしく、現在でも新自由主義的な<優勝劣敗>志向に

基づく「優生学」思想・思考法が至るところに浸透・蔓延しています。

直近の話題では、例の<生産性・非生産性議論>にまつわる

偏見をさらに助長しかねない問題提起の仕方にも見受けられたところですね。

特定の政策を裏付ける財源論に関して特定階層を優遇する処置に対する

問題提起としては世界的にも多種多様な<政治哲学上>の議論は

あってしかるべきだとは思いますが、

たとえ深読みして論者の意図を冷静に公平・温情的に見積もっても

やはり管理人にとっても疑念が残る論旨展開だったように思われます。

この論点は、今後とも移民(難民)やその他各種少数者保護政策に対する

論争として続いていく問題だと確信しておりますので

管理人自身もこの種の話題に関する分析考察論を進めていくうえでは

慎重に論旨意図や言葉を吟味しながら出来るだけ丁寧な説明を

心がけていくよう努めてまいります。

とはいえ、社会的にタブー視されかねない微妙かつ繊細な

神経質にもなる重要問題を含む政策論争だからこそ、

場合によっては<逆差別(どこからを逆差別と捉えていいのか自体が

難問)>問題として議論される場面も出てくるわけです。

とはいえ、今回の論議の行方を見ている限りでは、

これまでの歴史的経緯などを踏まえると管理人自身は

そもそも逆差別問題(あるいは特定階層を優遇する利権問題)にすら

到達し得ていない段階だと現状認識しております。

法的にも公正志向が要請される政治政策上の立案工夫としても

特定少数者がすでに社会大多数との同化・融和(という言葉が

語弊を招き不適切表現になってしまうかもしれませんが)状態に至った段階では

順次、特定保護法を廃して一般保護法への

法の下における《より前進させた形式的・実質的平等》として組み入れて

いこうとする志向性こそが近現代リベラル型政治秩序観に依拠する

立法・行政的措置だったように評価されるからです。

しかしながら、一般法のみでの措置だけでは十二分に

特定少数者を実質的に保護するに足る担保となり得ないとの

認識がこうしたシビアな問題の背景にはあるからこそ

例外法を用意する必要性も出てくるわけですね。

例えば、新規移民(難民)や過去の国家政策から引き継がれてきた

歴史的経緯に鑑みて、法的に内国人と平等の扱いを受けてきた

(国内法上も国際法上も現在では<内外人平等の原則>として

その内実条件の差異は多少あれども概ね慣習として暗黙の了解事項に

なりつつあります。もちろんどの程度のレベルにまで到達すれば

外国人が内国人と同様の条件で扱われるかの細かい議論はありますし、

論者によって多種多様な見解もありますので、そもそも<慣習法>にまで

高まっているか否かという問題も国際法上の一論点ではあります。

なお、国際法と国内法の優劣(階層・関係性)問題として

国内法規範として国際法規範(条約など含む)を

どの程度まで受け容れることが可能か、

また国内法としてもすでに慣習(法)化されているかは

国際法などを学ばれた方であればかなりの難問だということも

おわかり頂けるかと思います。)特定少数外国人が

その国の時期的環境条件(敗戦などの混乱期)や

内国人による受け容れ態勢の許容量によっては

過酷な扱いを受ける場面が多々あることなどを想定して頂けると

ご理解頂けるでしょう。

このあたりの議論は法学・政治系学部に所属されている(いた)

読者層の方であれば馴染みの議論だと思われますが、

一般の読者層の方にもこうした議論(今回のこの場ではあくまでも

法的次元での<文脈>として語らせて頂いております。)を

展開する場合における一定の言動作法・ルールとして

是非<基礎教養知識>としても知っておいて頂きたいからこそ

ここで詳細にあえて語らせて頂きました。

そのような暗黙の了解事項というものが

あまり一般言論業界では理解されていないように

見受けられるからですね。

だからこそ、某雑誌の論争記事などでは知的混乱や

政治的騒動にまで発展してしまっているというわけですね。

ついに今週にはその某雑誌(ズバリ言うと『新潮45』です)も

<休刊>にまで追い込まれるといった異常事態にまで

発展してしまいました。

残念です。

その意味は少なくともそこで掲載されていた論者による論旨見解に

賛否いずれの評価を下すかといった一般読者や世間からの反応という

問題次元とは異なり、これはすでに純然たる言論表現に関する

人権上の問題にまで進展してきているからに他なりません。

いわゆる「反論権」をどの程度掲載するかは

各マスコミの編集権といった自主裁量に委ねられているために、

強制的に掲載させるといった措置は難しいことも

すでに過去の判例などで示されているところです。

(例:サンケイ新聞事件など)

とはいえ、何らかの形(別媒体など)で弁明の機会が付与されること自体は

あってしかるべき自由(言わずもがなですが、どのような劣悪な表現をしても

いいというわけではなく、もとより公共言論という性格上は

<公序良俗=良識>を持ち合わせた言動でなくてはなりません。)ですし、

是非今後の有意義な議論へと発展させていくためにも、

また何よりも私たち1人1人の表現の自由が必要以上に規制されていくような

言動抑圧社会(それは、ある種の全体主義社会への毒種ともなり得るからです。)を

招き寄せないためにも議論自体を決して「封殺」してはなりません

「自主」規制という対抗措置も聞こえはいいですが、

かの出版社に関わる方々はどの程度の見識をお持ちであったのか

多くの方々が興味関心あるところだと思われます。

音楽を始めとする芸術表現でもタブー視された領域に関わる歌詞が

「自主」規制されるあるいはそのように「強要」されそうな事件が

すでに別記事でも触れさせて頂きましたが、

つい最近もあったところでした。

しかし、そうなれば特にロック音楽など社会批評と親和性があるような

芸術ジャンルではもはや創作を通じた問題提起(もちろん、「差別」を

単に煽るような表現は常識的に論外ですが・・・)すら出来なくなってしまい、

そのジャンルでしか持ち得ない「特性(独自的個性)」を活かした

表現<媒体>としての存在意義すら剥奪されかねません。

管理人も言論人のはしくれとして「差別」問題には敏感であろうと

努めながら常に研鑽を重ねているところですが、

この問題の難しさはまさに<文脈力=読解力>に左右されるところも

あるからですね。

読者によっては不快に思われる方もおられるでしょうし、

その趣旨をきちんと汲み取って善解して頂ける方まで

本当に社会全体を見渡せば幅広い読者層の皆さんがおられるからですね。

しかしながら、この世には「万人受け」するような意見などあり得ませんし、

誰も優等生的な「八方美人型無価値」見解をわざわざ聞きたいなどという方も

おられないことでしょう。

ですから、良識ある言論人であれば「自主」規制には

本当に慎重であらねばならないわけです。

もっとも、管理人も努力はしておりますが、

誤解を与えかねない表現を可能なかぎり回避し得るような表現技法は

磨き続けなくてはなりませんし、

一定の知恵と工夫や配慮は常に練り続けなくてはなりません。

そのような視点や問題意識が

昨今の政治的立場や編集方針を問わずに創作されていく

一般雑誌やマスコミ=ジャーナリズムにはどうも希薄になってきているように

強く実感されるのです。

特にこれらの日本を代表する出版社やマスコミが言論表現の「プロ」だからこそ、

これから本格的な「プロ」を目指す現在は「アマ」である者の

<道標>ともなって頂きたいからです。

もはや若者世代には「死語」となっていますが、

それが社会の「木鐸」という意味でしょう。

そのような<お手本>がなくなれば良質な言論人が

今後より一層少なくなっていくことでしょう。

また、「勇気」がなければ誰もわざわざ危険を冒してまで

タブー視されている領域を素材に問題提起するジャーナリストに

なろうともしないでしょう。

そうなればどこもかしこも「タブー」だらけとなり、

誰も安心してこの世界で生活していけなくなることにもなりかねません。

それほど「自主」規制効果は恐ろしい結末をもたらすのです。

皆さんも歴史からそうした事例を見つけて自分なりに

いちど「当事者(になったと仮定)」として想像力を働かせて

考えて下さることをお勧めいたします。

このようにあえて一般視聴者の神経を逆撫でしないでおこうとする

「無難なわかりやすい」議論に押しとどめて回避・逃避しようとする

言論界の動向に憂慮する1人であります。

たとえマスコミ言論界が「タブー視」した「優等生」的見方を

提示したところで、深刻な生活対立状況が生起している最前線では

紛争は絶対に回避出来ないからです。

そのことが「サイレントマジョリティー(物言わぬ圧倒的大多数)」の

潜在的心理から出てくる「声」にも反映されて

マスコミが好んで表現するところのいわゆる「ポピュリスト」政治家や

政党への潜在的・顕在的支持となって現れ出てきていることを

知らなくてはなりません。

誠に寂しく残念なことではありますが、

そうした社会風土や風潮が各種の「ヘイトスピーチ」を

発生させてきた温床となり得てきたのではないでしょうか?

欧米社会ではすでに大手情報企業でもこの問題で

次々に表現規制がかかってきているといいます。

ですが、規制だけですべては事は済むのか

情報企業に勤めるほどの方であれば

もう一度ご検討願いたいのです。

確かに「悪貨は良貨を駆逐する」ではありますが、

そうした感情を吐露する「場」(そんな吐露など

人間なら誰しも出来得ればしたくないでしょうが・・・)もなくなれば

ますます陰湿化していくことも歴史が証明しているからですね。

とはいえ、「悪」の根は

なるたけ早期につみ取っておかなくてはならないという趣旨も

わかりますが、それで本当に効果が上がったのでしょうかと

いうことです。

特に権力を持つ立場側にこそ<やましい>「悪」が蔓延っていたとすれば・・・

そのような言動表現の「取捨選別」作業は

それこそ恣意的になってしまい

一般民衆にとっては予測不可能となってしまいます。

そのことでより一層の「不安心」を煽り立てることにもなりかねないからです。

自警的「自主」規制がどれほど恐ろしい事態を招いたことか

関東大震災の事例を見ても明らかでしょう。

ある意味で暴力がより一層助長されてしまう推進力ともなってしまうからです。

また一般民衆の感情をメディアなどを通じて政治が汲み取ることが

出来なくなれば、より望ましい施策を創作する資料もなくなってしまいかねません。

つまり、二次的・三次的被害にも発展してしまうということです。

こうした一般公衆の「声なき声」を意図的に無視・軽視して

現状の世界的政治動向を否定的に論評したところで

明るい展望が開けてくることなどあり得ないからですね。

ということで、そのような従来のリベラル型志向性そのもの

(ちなみにかの『新潮45』の現在における論調傾向に対する評価が

一般的には「保守」と見立てられているようですが、その経営陣や

言論出版関係者の姿勢を見る限り、なぜか<臭いものには蓋>みたいな

そうした姿勢を従来のリベラル型思考法の限界点と解釈するのが

適切な見立てなのかは不安ですが・・・。どうも従来のリベラル志向言論の

弱点というのか限界点がそこにも垣間見られるように感じられたのです。

こうした見立てが管理人だけの独断と偏見であれば<杞憂>なわけですが・・・)が

逆に様々な紛争・摩擦を招き寄せてきたことも事実だからこそ、

今日世界中で既存政治秩序観に挑戦・再考を求める

各種政治的動きも出てきているわけですから、

こうした一連の政治現象を表層的・一面的に評価するだけでは

何ら根本的解決には至りません。

このあたりが昨今よく議論もされている近現代リベラリズム思想を

主軸に展開されてきた政治ないしは政策に対する厳しい見立てであるように

感じております。

いずれにしましても「少数者だから神聖にして犯すべからず」という趣旨で

議論そのものを封殺することがあってはなりませんし、

すぐに「ヘイト!!」いや、「反ヘイト!!」だと相互に応酬合戦を

繰り広げるだけでは何ら良質な生産的議論にまで発展していかないことだけは

確かなことです。

特に「当事者」ではない「第三者」同士による

政治イデオロギー的応酬合戦ともなれば、なおさらのことでしょう。

この観点に照らして、最近の政治思想的テーマ・課題としても

キーワードとなることが多くなった<社会的包摂>という思想も

言われているほど生やさしい問題ではないことも見えてくることでしょう。

管理人もこの<包摂>という言葉が

<選別・排除>という言葉同様に

あまり深く吟味されることなく社会内で一人歩きしていくような

言論状況だけは心配しております。

「差別」や「偏見」は管理人も含めまして誰しも多かれ少なかれ

有しています。

しかも、この世界(自己自身の立ち位置や他者認識など含む)を

どのように見立てているかと説明する際には通常人であれば「日常」言語である

<言葉>を活用せざるを得ません。

その点は「普遍」言語を志向する「数学」言語(コンピュータ言語含む)との

大いなる相違点であります。

しかも本書とも関連してくるところですが、

「数学」言語たる<数>やそれを使った「結合」記号などで表現する背景にも

ある種のイメージが先立ってあるわけですから、

このイメージをどのように「普遍(誰にでも誤解なく通じるという意味)」言語化して

表記(現)していくかは数理的にも難問なわけです。

数理学者はこうした人文・社会科学者が「価値意識」を込めて語る言語化作業に

対してある種の「中立化」を図ろうとしているかのよう

今のところ管理人には理解されています。

文系的「人間原理(価値意識)」に対する

理系的「宇宙原理(あらゆる価値意識を高次元で

統合させ得る<集合>意識のようなものか?)」を

反措定しているように思われるのです。

ですから、「偏見(謬見)」はともかく「差別」と「差異」と「区別」と

一応は辞書的定義によって微妙なニュアンスの食い違いが生起してくるのも

致し方なく、その言葉自体は本来「中立的」であったにせよ、

使用<文脈>によってはそこに話者の<価値意識>が反映されていくことに

なるために、

同じ言葉(例えばここでは「差別」と仮にしておきましょう。)を

使用しながら会話していてもしばしば些細なニュアンスの食い違いから

少しずつ論旨がずれていき、

知らず知らずのうちに双方が依拠する価値観に基づいて

使用される言葉の背景にある世界観「対立」から

深刻な亀裂が生じてくるというわけですね。

「まさに気付いた時にはすでに遅し!!」の

人間関係状況であります。

だからこそ、議論が噛み合わなくなった時には

常に「原点」に立ち戻ってそこで使用されている(きた)言葉の定義確認、

あるいは、再定義作業をしていかなくてはならないわけですね。

特に法律学の分野ではこの「定義」が重要だと口酸っぱく

教えられてきたのもこうした問題意識に由来するからなのです。

「論理学」一般でも「定義」設定はきわめて大切です。

「ではこうした決定的な世界や他者との分裂・対立を防ぐ手だてはあるのでしょうか?」

このあたりの問題意識に「(数理)言語哲学」を展開させていった

ヴィトゲンシュタインやラッセル、フッサールなどの問題提起が

あったように見受けられます。

だからこそ、数理哲学者は「相関関係(関数)論」や「集合論」、

「位相(幾何)数学論」や「群論(ある種の<類型表現>論でしょうか?)」などに

発想を借りた独自の言語哲学論へと関心を深めていったものと考えております。

現在の管理人の志向性も世界や他者との<関係性>で可能なかぎり

無用な摩擦や対立を回避して安定感・安心感を得られる

「<情緒>論理」が欲しいからこそ、

ますます数理哲学への興味関心が高まってきているというわけです。

こうした人間に<特有>な世界や他者への

「眼差し(ある種の<認識論>ですね。)」論を忘却・軽視して

論議してもあまり有意義な結論は出せないものと信じております。

そんなことを管理人自身は、

エリック・ホッファーやハンナ・アレントなど様々な哲学者による

問題提起とともに考え続けています。

本当に難問なのです。

ですから、簡単な「正解」など管理人も提出出来ません。

「第三者」としての見立てと「当事者」としての見立てでも

大きく議論の方向性が食い違ってくるからですね。

この論議をここで展開していきますとさらに長くなりますから

また追々何度でも繰り返し検討していきましょう。

ここでいったんこの議論を打ち切らせて頂くことにしますね。

皆さんにも是非粘り強く考え続けていって下さることを願います。

それは政治的立場を問わずにであります。

このような人類全体に幅広く見られる精神病理現象を

自分自身も勘定に入れて距離感をもって冷静に心理制御していくためには

人類史全体を見据えた俯瞰的見方が重要となってきます。

そうした非常に苦しい時期にネット上、リアル生活上を問わず

多種多様な方々による生活体験談や精神的不安相談などに触れることで

世の中には自分と似たような悩みや感覚を抱え込んだ方々も

意外と多いようだとの気づきも得て、

管理人もそうしたすでに勇気を出して「社会」への再挑戦(くれぐれも

否定的復讐!!心からではありませんので、そこは誤解なされずに

ご理解頂きたいところです。あくまでも同じような想いを抱いている方々との

相互連携による社会という名の「水槽」の入れ替え作業の一環だと

イメージ下さいませ。)を果たしている方々に活力と自信を得て、

現在に至っているということであります。

この時期にやっと従来の「認知的不協和」といった

心理的・物理的「盲点(フレームワーク)」が外れる機会が

巡ってきたわけでした。

管理人にとりましては、それまで「ガンバリズム」一辺倒で

やってきた思考法や行動姿勢に「修正」を施さざるを得ない

視点があらたに獲得されることになったのでした。

誠に鈍感なもので「この世界(社会システム)」の構造に

気付くまでに遠回りし過ぎてしまいましたが・・・

だからこそ、頑張っている方にこそ

その頑張りは十二分かつ最大限に敬愛の念をもっていますが、

「もう少し肩の荷を下ろす」練習もしてみませんか・・・

強く思うのです。

なぜならば、そんなあなたの人生の貴重な時空間や身心の健康状態を

少しでも救出してあげたい気持ちで一杯だからです。

管理人自身、その辛さを今もずっと体験し続けているからですね。

つまり、管理人が抱える問題意識には

いつも人類を「不和」から「協和」への世界観へと

何としてでもはやく導き入れたいとの想いが

日に日に、年々歳々増してきているということです。

そのための「祈り」も高まってきています。

とはいえ、人類の現状と管理人の思い描く<万民協和>の理念との間には

あまりにも隔たりがあるがためにストレスも同時に重くのしかかっていますし、

日々の労働生活によって生活費を稼ごうという現代経済観に

深い悲しみと絶望感・徒労感を覚えますので疲れも溜まる一方です。

唯一の救いは「心」ある同時代をともに悩みながらも励まし合える

あらたな畏友たちと談笑させて頂ける「社交場」が出来たことです。

やはり「対話」こそが良質なコミュニケーションの「場」を切り開き

より良き「ご縁結び」にもつながるものだと

こうしたあらたな畏友たちとの交流を通じても

その実感度数は高まってきているようです。

皆さんも「社会人」だからこそ、

自らが所属するコミュニティー「外」の方々との

積極的なお付き合いが必要だということをお互い認識し、

共有していきましょうよ。

いざという時に本当に自らの「心」のセーフティーネット(安全網)にも

なってくれましょうから。

そうした「活動」を通じて

「この世界」には多種多様な社会「層(局面)」が

あることも見えてきます。

現代は自分が所属する狭すぎるコミュニティー(家族や学校・会社組織)だけに

「安住」して一生を「完結」してしまう(える)世の中になっています。

そのような「安住」地だけで棲息することが叶うことは

ある種の性格を有した人間であれば確かに「安心」することは出来ましょうが、

やはり人間も生物の一種なのですから、

いざ環境が激変した時には生存リスクも高まることになります。

私たちはこうした状況を忘れがちな「生-権力」(ミシェル・フーコー)システムの

「枠内」で棲息していることを片時も忘れてはならないでしょう。

『人間の「類」的本質とは何か?』

今後とも何度となく繰り返し考察を深めていく予定ですが、

この秋の夜長にでも是非皆さんも今ひとたび「反芻」して頂ければ幸いです。

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こうして本書評記事本文へと進みゆくまでに

ここまで長く3周年目の現状ご報告を兼ねた

心情吐露をさせて頂きました理由こそ

今回ご紹介させて頂くことになる本書を取り上げさせて頂くきっかけ

でもあったからです。

そうです、少しでも自分とそれを取り巻く世界との接点に

安定感(秩序感=精神的落ち着き)を回復させるための

1つの見立てとして数理的アプローチの検証を試みてみたかったからですね。

今回は<数学編>ということになります。

いずれ、管理人の勉強と整理整頓時間も必要ですので、

時間をおいて追々ということになりますが、

<物理編>からのアプローチも考えております。

現時点では一応の<予告編>として

皆さんには毎度心配や長文でご迷惑をお掛けしておりますが、

「乞うご期待のほどを・・・」ということでご寛恕願います。

愛情を込めて綴るにも生命エネルギーを「充電」させる期間も必要ですことから

読者様には温かく見守って下さればこれに勝る喜びもございません。

そのため毎度のこと、

次回書評記事更新日までの期間がどうしても空いてしまうことになり、

毎回楽しみにお待ち頂いている読者の皆様には誠に相済まなく思っておりますが、

今後とも十二分なご奉仕サービスでもってご恩返しをさせて頂きますので

どうかご寛恕の程よろしくお願い申し上げます。

それでは、

『<不安定感(カオス的世界観)>に<安定感(コスモス的世界観)>という

<花>を添えていくためにもどのような見立てが必要となってくるか』をテーマに

本書を素材としながら皆さんとともに考察を深めていくことにいたしましょう。

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数学的世界解析論から見た人類認識史における<カオス(開かれた宇宙観)>と<コスモス(閉じた宇宙観)>の葛藤相剋の視点から見えてくるものとは!?

それでは本書の要約ご紹介へと移らせて頂くことにいたしましょう。

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<本書をご一読されるに当たってのアドバイスです。>

ここからは管理人自身による評釈を含めました独自要約論評と

なっていきますが、本書は『理系書』の1冊。

そのために途中で議論に付いていけなくなったり、

要約内容を十二分にご理解頂けなくなる場面もあるかと思われます。

管理人も典型的な<文系人>でありますことから

要約中にはかなりの誤解や混乱も混じっているかもしれません。

そのことも予めご了承を得たうえで、論旨展開を進めさせて頂くことになりますが、

本書は良心的な一般「啓蒙書」。

ご一読頂ければひと目でおわかり頂けることになりますが、

各章末尾には<この章のまとめ>が丁寧に添えられていますので

そこはご安心下さいませ。

ですから、<文系人>の管理人もなるたけ<この章のまとめ>に依拠しつつ

各章本文内で特に気になったテーマなどを中心に

各章要約を進めていくことにいたします。

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・<はじめに>

※『世界は数でできている。』(本書冒頭文)

このピタゴラスによって提示された世界観の背景をなす

独特な数理的言語観(概念)に込められた質感を

どのように解釈し発展させていったかで現代科学観は

形成されていったといいます。

とはいえ、著者が本書<おわりに>でも再びまとめられていますが、

このピタゴラスやその源流や傍流(プラトンに代表されるような

『イデア』論理も含む)によって展開されていくことになる

数に込められたイメージによって過度に世界(観)を

「合理的」記述化しようと欲する極限思考法こそが

現在至るところで存在している「単純化(数量・数値化)」の弊害を

もたらした側面もあったのではないかと注意を促されています。

つまり、現代の科学観は過度にその一面しか捉えてこなかったというわけですが、

19世紀~20世紀にかけての科学革命たる「量子論」や「相対論」の

発展によってやがてもたらされていくことになる

コンピュータ原理論の背景をなす<ダイナミカル・システム>理論こそが、

その「単純」な見立てによる世界観を再度「転換」させていく

原動力になっていった・・・という問題意識も踏まえて

本書における論旨展開はなされていくことになります。

ピタゴラスによって提示された数に対する「直観」の背後に隠された

もう一面(=不合理な側面)にも目を向けるべきではないか・・・

この<目に見えない=数値・数量化しづらいもしくは不能>領域への

「眼差し」はまた<おわりに>に差しかかった時に

まとめさせて頂くことにしましょう。

この<はじめに>からは

ピタゴラスの<目に見える>領域側面から

現代世界観が数理科学的にはどのように捉えられていったのかという

問題提起から講義が開幕しますので

次章以下ではまずこの解読から始めていくことにいたしましょう。

いずれにしましても、コンピュータによってもたらされた世界観こそが

この世界の両義性(単純な「決定論=予定調和的秩序観《コスモス》」と

複雑な「非決定論=未明混沌的無秩序観《カオス》」)を如実に提示してきたという

「逆説性」を学べることが本書が持つ「売り」であります。

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①『1 未来を予測する~科学の始まり~』

※本章では古代の人々がどのようにして科学観を形成していったのか

その原初に遡って考察されています。

それはまず天文現象の観測から始まりました。

ここではプトレマイオスの天動説(観)が黎明期の人類に

画期的な科学的思考法をもたらした点が語られています。

そしてその天動説思考にはすでに現代科学では暗黙の了解事項とされてきた

「天」と「地」とに共通する普遍的モデル(=法則性)を探究する

意識の芽生えもありました。

「天文現象を観測することがなぜ人類にとって重要だったのか?」

それは、言うまでもなく人類の生活環境に天文現象が

大きな影響を与え続けてきたからに他なりません。

つまり、その天体動向=天文現象の詳細が解析されなければ

不安定な生活に耐えることが出来なくなってしまうからです。

それは同時に人類存続の命運にもかかわっているからですね。

そこに「未来予測」技法の確立といった需要が生み出されてくるわけです。

ここに実際に観測された諸現象(本章での例は天体動向)を

分析するに当たって必要となる道具が考案されていくことになります。

それが「モデル化(仮説設定)」とそれを精緻に「検証」するための

計測可能な数理解析システムの誕生でありました。

以後、現在に至るまでの科学技術と数理学はともに車の両輪として

進化を遂げていくことになるわけですが、

「未来予測」の精確度数を高めていくためにも

その数理科学の発展度合が大きく左右してくるというわけですね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

②『2 システムとモデル化』

※それでは実際の諸現象をいかに追跡解析していくか?

それが次の課題となります。

人類が観測し得る諸現象は常に時間とともに変動していくことに

なるわけですが、その「軌跡」を「見える化」することは

かなりの難問であったことが想像されます。

前章ではそのための技法として「モデル化(仮説設定)」作業と

それを「検証」するために必要となる<数値・数量化>して

理解する数理解析道具が生み出されてきたことまでが確認されました。

その数理解析道具を使って

今度は反転して「モデル」に当てはめ可能な考え方が要請されていく

ことになるわけですが、現象を対象化してその相互関係性や作用性を

分析するためにも

まずは細部を要素にまで分解していく志向性とともに

全体像を把握するための技法が必要となります。

それが『現象をシステムとして捉える』(本書10頁)という

発想であります。

本章ではその「<システム>とは何か?」について

解説が加えられ、先に触れましたプトレマイオス「天動説」と

ガリレイの物体落下現象を事例にして<システム>思考法の

強靱さが示されることになります。

この2つの事例を<システム>思考法で眺めていくとどうなるか?

ここから科学的分析法の有効性が次第にわかるような解説と

なっていきます。

また本章での<システム>論解説からは

『開いたシステム(開放系)』と『閉じたシステム(閉鎖系)』の

相違点に関する基礎的な知識も得られるようになっています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

③『3 単純な法則と美しい現象』

※本章では、すでに前章の2つの事例(天動説と落体現象の解析)でも

確認されたように

この世界で生起している諸現象の背景では実際にどのようなことが起きているのかを

検証することで数学的性格を有する「法則」性があることが

「発見」されたのでした。

そうした数学的性格を有する「法則」性を抽出確認するには

すでに第2章でも提出されましたが、

プラトン=ピタゴラス的な「信念」、

つまりは、物事の「単純化」といった「理想化」志向があったのでした。

また、科学的検証過程できわめて重要な思考法は「モデル(仮説設定)」によって

まずは一定の「法則」性が現象の中核(主要部分)にはあるのではないかと

見立てたうえで

(その思想背景にプラトン=ピタゴラス的信念体系が暗黙裏に想定されている。)

実際の実験・観察(測)を通じて

「アノマリ(法則からのずれ=例外現象)」が発見されたならば

さらにその例外現象を詳細に追跡調査することで

「モデル」に適宜修正を加えていくというものです。

さて、本章では自然現象の中で観測されてきた様々な動向現象の中でも

とりわけ振動(後にむしろ<ゆらぎ>という言葉で

一般にも知られるようになる)現象をキーワードに

ニュートンが発見した「万有引力」の法則に基づく惑星運動論や

その拡張版であるケプラーの軌道解析論、そしてマクスウェルの電磁気論を

主な事例に取り上げながら

いよいよ著者が本書にて表現されるところの

<ダイナミカル・システム>理論の成功が語られることになります。

この成功によって近代科学が暗黙の了解事項としてきた

機械的・物質的世界観およびその決定論的予定調和型世界観が

開幕されていった様子が素描されていくことになります。

とはいえ、その分析過程で待ち受けていたこととは?

常に複雑に揺れ動く諸現象の「軌跡」を追跡探究することが

いかに困難な作業を伴うものであるかという

現在も多くの科学者を悩まし続けている難問との遭遇でありました。

ここにその揺れ動く「ゆらぎ」を波として捉えながら

計量表現させようとする「波動」方程式や

そのミクロ面からの連続性を補足させようと志向する

「微分」方程式の話題などが展開されていくことになります。

ニュートンに代表される古典的物理観(静的世界観モデル)の時代には

「線形的」にマクロ的に大まかに捉えることでも足りたのでしたが、

やがてその限界点がやってくることになりました。

「(最)単純化」モデルも

「超極限」的ミクロ面あるいは「超極限」的マクロ面にまで拡張させていけば

実際の「複雑な」現象構造を精密に描写できないことも

多々現れ出てきたからでした。

それでは、「単純化」させて物事を考えていこうとする志向性は

まったく無意味になったのでしょうか?

またその一見すればマクロ的には「単純」に見える現象も

その根源ではどのような作用が働いているのでしょうか?

それを探究することで「単純さ」と「複雑さ」との間には

繰り返し相互に影響を与え合っていることが判明してきたのでした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

④『4 複雑さこそ単純さの源』

本章ではその「複雑さ」の源流にさらに深く迫っていくことになるわけですが、

ここからはミクロ面での「振動」状態分析から見えてきた問題点について

触れられていくことになります。

この第4章あたりからはいよいよ文系人にとっては取っ付きにくく

すぐにはイメージや理解しづらい専門的な話題が次々と繰り出されていくことには

なるのですが、数式などは一切出てきませんのでそこはご安心下さいませ。

複雑な諸現象に見られる「揺らぎ」現象を解析していった結果、

現れ出てきた「軌跡」をいかに数理的に説明していくのかといった

課題が本章での主な話題となっています。

それを時間的に表現したものとして<エントロピー増大則>があります。

この<エントロピー増大則>に関してはすでに当ブログでもご紹介させて

頂いていますのでここでは繰り返し触れることはいたしませんが、

秩序だった状態も時間が経つにつれて散逸(無秩序)化していくという

イメージで差し当たってはご理解して頂ければと思います。

数理的な説明としては、「局在(局所・偏在)化」したモノ・コトも

時間が経つにつれて

「非局所(遍在=あまねく拡散していくというイメージ)」化していくという

イメージでしょうか?

確率・統計論的なイメージでは、最終的には平均(平衡状態)へと

収斂していくといったイメージ感覚でしょうか?

本章では、「単純さ(線形モデル)」から「複雑さ(非線形モデル)」として

この「非線形性」という用語をキーワードに<エントロピー増大>現象に

ついて解説されているところです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑤『5 揺らぎから生じる新しい制度』

本章では、前章の<エントロピー増大則>に関しましては、

前章要約記事内でもすでに触れさせて頂いた当ブログ記事内での

要約解説とも重なりますが、

『プリゴジンの散逸構造』(本書83~86頁)として

著者による独自解説でご理解頂けるようになっています。

一言でまとめますと、最近は福岡伸一先生などの話題書でも

一般的に知られるようになった<動的平衡状態>のことを

プリゴジン流の表現によれば<散逸構造>ということになるようですね。

ここでは、揺れ動く「渦巻き」現象であったり、

「水流」や「風流」などを分析する研究分野である流体力学などに

よって獲得されてきた知見などからある一定の「変動パターン」を

時空間的に追跡調査することで数理的にも見えてきた「幾何学的特徴」が

説明されていきます。

<システムの状態空間あるいは相空間>(本書74頁)だとか

<不動点の不安定多様体、安定多様体>(本書78頁)、

<ホップ分岐>(本書80~83頁)などなど独自の数理的専門用語が

出てきますが、要は「ゆらぐ」諸現象のパターン・リズムを

分析・把握するための説明道具にしかすぎません。

難しく感じられる読者様は適宜読み飛ばしても構わない箇所ですが、

理系の方で特に『流体力学』などをご専攻分野に据えられている方

(例えば、将来的に自動車や航空機メーカーなど流体構造をきちんと

把握していることが研究者・技術者の基礎的知識として最低限要求される

企業・研究機関へ就職予定の方)は絶対に押さえておかなくてはならない

章でありましょうから、本書はあくまでも最低限の「入門書」レベルと

いうことになるのでしょうか?

そういえば、本日放送終了したNHK朝ドラ『半分、青い』でも

佐藤健君演じるところの萩尾律君が扇風機「そよ風」を開発している

ワンシーンでこのような流体力学用語を駆使していた場面も

ありましたような・・・

一般読者にとってのここでのイメージとしてはそんな感じですかね。

きっと・・・

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⑥『6 生態学モデル』

※さて、前章までで物理現象における<ダイナミカル・システム>のおおよその概要が

示されました。

本章では、さらに生物現象や社会現象にまで敷衍されて

物理現象の検証過程で抽出されてきた<ダイナミカル・システム>が

活用されていく様子が紹介されることになります。

特に本章の主要論点は人口変動現象を観察して得られたデータを前提に

提起されたマルサス理論を題材に解説がなされていくことになります。

また本章では主に「社会科学」における「モデル」の作り方や

その考え方について学ぶことができるところにメリットがあります。

マルサス法則の読み解き方については、

『人口変動のメカニズム』(本書94~102頁)と

その『モデルの改良』(本書102~105頁)に詳細な解説があります。

その意味で前章が理系人対象論考だとすれば、

本章は文系人対象論考だということになるでしょう。

もっとも本章はあくまでも<生態学モデル>におけるダイナミカル・システム理論の

一般活用事例論考なので『ロトカ・ヴォルテラのモデル』(本書105~112頁)や

『競争モデル』(本書112~116頁)に至るまでの生物界における

生物と環境との相関関係に関する論考も含まれています。

ちなみに、現代経済学では数理的解析理論がすでに活用されて久しく

「プロ」の学者や企業マーケティング専門家などに従事する(予定の)者で

あれば当然に数学や物理学的素養は必須となります。

そのあたりは最近の早稲田大学の入学試験制度改革でも

世間一般で話題となったところですね。

現在の実社会ではデータ・サイエンティストが強く求められているからですね。

そうした分野にご興味ご関心の方にお勧めなのが

我が国における<経済物理学>の草分け的存在でいらしゃる

高安秀樹先生による『経済物理学の発見』(光文社新書、2004年初版1刷)

あります。

特にこの本で管理人自身が気になった論考分として

現在のインフレ・ターゲティング(目標もしくは志向性)理論に基づく

金融政策理論に対する理数的解釈(『提言-インフレ誘導政策は危険すぎる』

上掲書167~172頁ご参照のこと。)がありました。

ここは政策当局者にもひとつ注目して頂きたいところかもしれません。

「社会科学」での実験は「自然科学」での実験以上に危険きわまりない

手法でもあり、場合によっては<禁じ手>ともなり得ますから

(なぜならば失敗すれば社会的大惨害につながるからですね。)、

予測を立てるにしても理数的知見も必要となってきます。

もっともその理数的知見の誤った活用法も

サブプライム・ローン問題で明らかにされましたが・・・

果たして高安氏による問題提起とその批評が真に的を得たものであるか否かは

現在まさしく「実験・検証」中でありますから完全には評価し得ませんが、

決して軽視・無視し去ることができるような生やさしい易問では

ないことだけは確かでありましょう。

高安氏とはまた異なった観点からの「反証例」などを提起して下さる

数理経済学者などが出てきてくれれば幸いなのでしょうが・・・

どなたかこの問題に果敢に挑戦して下さる方が待ち望まれるところであります。

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⑦『7 単純さから生じる複雑さ、カオス』

※ここまでで論じられてきた<ダイナミカル・システム>理論の解説から

判明してきたことは世界はそれほど見立てよりも「単純」ではないという

当然の事実でありました。

仮に単純な「法則」性が一定程度成り立つにせよ、

それは現象内でもごくごくきわめて厳しい条件の下でしか

見られないようなことも確認されてきました。

特に「社会科学」ではなおさらですし、

現代の最先端「理論」物理学なども示唆してきたように

「自然科学」ですら条件設定の厳格さ・精密さが要請されてきたところでした。

そのことをここまでの論考解説文とともに押さえながら、

次にいよいよ本格的な「カオス」理論(複雑系科学でよく使用される用語)へと

議論は進展していくことになるわけですが、

ここでは数理生態学と気象学を事例問題として検討が加えられていくことになります。

特に気象学事例解説ではご存じの方もすでに多くおられることと思いますが、

いわゆる<バタフライ効果>についての検証もなされています。

この<バタフライ効果>も現在あらゆる領域で

恣意的に悪用・誤用されていることも多々見受けられるようですので

ここは<自然>科学者によるある種の「正統派」の見方を

押さえておきましょう。

さて、「カオス」理論を考察していくに当たっては、

「初期値」問題が特に重要な論点になるといいます。

この「初期値」問題の処理自体がかなりの難問だそうですが、

恣意性を抑制する手だてとしてもきわめて重要な視点となるようですね。

いずれにしましても、この「カオス」理論が

有史以来長く続いてきた「決定論的予定調和型」世界観を

徐々に崩していったことは間違いないところです。

とはいえ、このような「カオス」理論がもたらした教訓が

すべて「否定的」な結論ばかりかと言えばそうではなく、

『非常に複雑な時間的変動の背後に単純な法則性が隠されている

可能性を示す』(本書150頁<この章のまとめ末尾>)ということで

そこから一見複雑に見える<社会現象>においても

特に人間にとっては楽観的安心感が得られる希望的観測も

出てくるきっかけ(本書の表現では<兆し>)となる可能性もあるようですね。

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⑧『8 日はまた昇る?』

※ようやく最後に近づいてきました。

本書では数理的解析方法によって複雑な諸現象を多種多様な側面から

アプローチ検討することで、私たちが生きている「この世界」について

どこまで<解明>できるかどうかを学んできました。

まとめになりますが、

現在の<ダイナミカル・システム>理論を活用させた

いわゆる「複雑系」科学の最前線では、次の教訓が導き出されてきました。

つまり、『「この世」には決して<自明>なものなどないし、

常に移りゆく世界では安定した法則も実は確率的には少ないのかもしれないのだ。』と。

そのことは最後の「隕石落下の可能性」問題でも示唆されていました。

これまで安定した世界内に安住し得ていたということも

決して<自明=当たり前>の事態ではなかったのだとすれば、

むしろ平和で落ち着いて暮らせているという状況こそが

たまさかの僥倖(稀に見る偶然的奇跡)なのかもしれません。

そのような世界に私たちはいるということであります。

現在もこの日本を始め世界では天然災害含め多種多様な「厄害」が

立て続けに起きてきていますが、

すでに被害に遭遇された方に対しましては誠に心苦しく綴らせて頂いていますが、

一方で只今現在たまたま被害に遭遇せずに無事息災に暮らせている者でさえ、

いつ何時「明日は我が身」となるかもしれません。

1つだけ確かなことはこの世の出来事を予測することは

絶望的に不可能ではないにせよ確率的にしか言い表せないということであります。

だからこそ、私たちはこうした暮らしの安全性や

安心願望を強く求めるからこそ、

理数的観点からのより安定した予測技法はないものかと

深く探究していきたいという心理的志向性もあるわけですね。

今回本書を通じて最大限に皆さんにお伝えしたかったのも

本記事冒頭の私的問題意識の中で明かさせて頂いたこともさることながら

こうした複雑な不安定社会の中に一抹の「光明=安定性=安らかさ」が

どこまであり得てどこからがあり得ないのだろうかという問題意識に

尽きます。

このような意味で管理人の私的趣味になり恐縮ではありますが、

楽曲『廿弐匹目は毒蝮』(陰陽座第13作アルバム『迦陵頻伽』所収)を

創作された趣旨について作詞/作曲者の瞬火氏が

『陰陽座』公式ホームページ内のブログ記事解説で

詳しくご説明されておられたこととも

通底する問題意識と重なり合ったわけでした。

複雑な世界を表現する数理的技法たる確率・統計学理論も

言うまでもなく「万能」ではありませんし、

前もっての完全なリスク予想「管理」が出来る代物でもありません。

だからこそ、最近の科学リテラシー教育などでは

<どこまで科学を信頼出来るか、また、信頼すべきか??>といった

特にリスク「管理」問題が話題になっているわけですね。

そのような文脈からも「複雑系科学」から得られてきた知見は

私たちが日常生活を過ごしていくうえでの深い洞察力を

磨くためのヒントも提供してくれています。

それでは最後に、もう一度「カオス」の性質について

本書から著者による簡約で引用させて頂きながらまとめさせて頂きましょう。

『カオスとは決定論的システムが産み出す不確定的現象である。

従来、不確定性は、原子レベルの現象を支配する量子力学でのように

原理的に内在するものであるか、きわめて多数の要素が複雑に絡む

システムに特有の現象と考えられていた。しかし、カオスは、

それが少数の要素からなるシステムでも、さらにそれほど複雑でもない

システムからも普遍的に現れる現象であることを明らかにした。

カオスが生じる原因はまだすべてが解明されたわけではないが、

7章で触れたように、1つの大きな根拠は、システムのもつ不安定性、

あるいは、より正確には、初期状態への解の鋭敏性といわれるものである。

そのメカニズムはまた、かなりの一般性をもっている。

それからみると、カオスとは反対の予定調和的な性質を示すシステムは、

むしろ例外的であり、対称性や線形性といったある特殊性をもったものに

限られたものであるとさえいえる。』(本書<あとがき>179~180頁)

ですからここからもご理解頂けるように

私たちが住まう「この世界」はむしろ不安定な世界こそが主役であり、

安定した世界は例外的<奇跡>にも匹敵するということであります。

生活が安定して続き人間が安心して暮らせる世界。

それは管理人も含めて数多くの人間が望んでいる世界観ではありますが、

残念ながらそうは問屋が卸しません。

そうなってくると安定した限られた生活状況の下で、

むしろ本質的に不安定な社会システムまたは基盤の中で

リスクとうまく付き合っていく知識や知恵、

場面によっては積極的冒険心でもって乗り切っていかざるを

得ないこともありましょう。

世界への向き合い方はそれこそ千差万別ではありますが、

そうした1人1人の世界への関与の仕方が多種多様でもあり、

受け取りようもそれぞれに異なるからこそ、

そこから獲得されてくる知恵をお互いに共有できる土壌も

産み出されてくるのだということであります。

難問はそこから見える多種多様な景色がもたらす

1人1人の<価値意識(観)>が数理的に整理整頓できずに

しばしば現実社会では対立や摩擦を誘発させる<引き金>とも

なってしまうことでしょう。

安定・安心出来る「社会」や「国家」、「企業」といった

組織集団システムの中で幸福感がある程度までに最大限

誰しもが得られる条件を作り出そうと志向するならば、

やはり「集合論」的発想に基づくあらたな枠組みを考え出さなくてはなりません。

そのことこそが20世紀の現実の世界情勢から獲得されてきた歴史的事実の数々や

優れた数理哲学者が後世に残してくれた教訓的知見なんだと確信しております。

そんなわけで今、近現代リベラル型思考法によって作り出されていった

社会システムに至るところで歪みが生じてきていることから

様々な価値意識による問い直しが始まっている最中にあるわけですが、

これに代替し得る思考法に知恵を借りた社会システムの造り替えは

どこまで可能か、かなりの難問を伴う作業ですが、

人類と地球生態系そのものの存続にもかかわってくる重要問題ですから、

今後とも私たち1人1人が相互協力・連携し合いながら

何とかしのいでいく他ありません。

皆さんにも是非お知恵や優れた知識・アイディアなどあれば、

ともにより良き方向へと人類が進化していくためにも役立つ情報を

このささやかなブログから発信させて頂く助けとも勇気ともなり得ますので

どうか出来るだけ数多くの方々に良心的ご協力が頂ければと願います。

皆さんの『愛と勇気だけ』が明日への活力なのですから。

それが高度情報化社会における本来の<集合知>のあり方だと

確信しております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・<おわりに>

※さて、ここまで本書を読み進めてきたわけですが、

結局何を申し上げたかったかと言いますと、

言うまでもなく私たちは『人間』だということに尽きます。

『人間』だからこそ世界をここまで詳細に窮め尽くそうと悪戦苦闘してきたわけです。

「言葉=理性(ロゴス)」を発明することが出来たからこそ、

ある意味で「禁断」の世界解釈も可能となってきたわけです。

「言葉」を持たない他の生物が幸か不幸か、

「言葉」を持ち得た私たち人間が幸か不幸かは

状況によりますし、

究極的にはわかり得ないのかもしれません。

今回の書評記事内で考察させて頂いた内容をもって

前回の書評記事末尾に設定させて頂いたコメント欄にまで貴重なご意見・ご感想を

お寄せ頂いた方へのご満足頂ける当方からの回答となっているかどうかも

心許ないところですが、

この方のコメントに

『岡潔の言うところ(「人間の建設」)の【理性】の言説は、

≪理性は捨てることを肯んじない。理性はまったく純粋な意味で

知らないものを知ることはできない。

つまり理性のなかを泳いでいる魚は、自分が泳いでいるということがわからない。≫

とある。』という一文がありました。

この意味を管理人も探し続けているわけですが、

私たちは「この世界」を見る時に

当人のみが感受した「この世界」への質感を

他者にどう伝えるかで四苦八苦しているわけですね。

その質感を表す表現技法(多くは日常言語ですが)が

うまく対話している相手とのあいだで「合致」して

意思疎通を図ることが叶えば、まさしく「阿吽の呼吸」で

幸せ、感謝・感激の奇跡体験をすることになるわけです。

が、そうは言っても、

たまたま「同意」、「同感」さらには「共感」して頂けたとしても

真の実感として双方の魂レベルで「合致」したといえるかまでを

確認する術は残念ながらありません。

つまり、双方の「勘」や「眼差し(皮膚感覚)」、「善解」などを

手がかりに「当て推量」するしかないわけですね。

とはいえ、ここでの意味は何も相手を「否定」的に突き放し、

ニヒリスティックに絶望的に反応して

「結局はお前さんと私とでは違うんだから、

そんなの分かり合えるわけないやん!!」ということではありません。

あくまでもその「同感」して頂ける「質感」レベルを

表層の言語的表現のみで確かめるには

あまりにも足りなさ過ぎるということでしかありません。

また言語表現を超え出た何らかの「愛情」表現でさえ

皮膚感覚としては体感・体認し得ても(何か変な方向に話が

ずれてきているようですが。笑)、心底からの「共感」にまで

立ち至っているのかどうかまでは確かめようがありません。

人によっては「そこまでの完全な確認作業なんてしなくてもいいんじゃないの」と

おっしゃられる方がおられると思いますし、

大半の通常の感覚(どこまでを<通常>といっていいのかどうかも

わかりませんが・・・)を有された方であれば、

おそらく一定レベルまでの確認さえ出来れば

そこまでのところで打ち止めでありましょう。

そんな奴、普通は面倒くさいでしょうからね・・・(笑)。

ですから、日常生活における人間関係の<知恵>としては

これでいいのでしょう。

とはいえ、たまにはこんな哲学的難問を想像してもいいんじゃない・・・

といった程度です。

そうした哲学的問いを考えることも想像力を磨くことにつながりますし、

相手を理解し愛する能力を高めることにも役立つだろうからです。

このあたりの心理的「質感」レベルにまでなってくると、

幼少期からの「愛着」気質問題など

様々な要因も複雑に絡んでくるような微妙な心理問題となってきますが、

このような各人各様の受け止め方が異なるからといって

そうした世界や他者への捉え方自体をもって

「異常だ!!」と決めつけるような昨今の(いや有史以来か)社会風潮には

かなりの違和感があります。

真摯に考え続けていけばいくほど人間への「愛着」がむしろ

ますます強く湧き出てくるからこそ表層レベルで

この「語り」も終わらせたくはないのです。

少なくとも管理人はそう人間や世界を捉え、

不安になることは多々ありますが、

究極的には「信じて」います。

すでに冒頭導入記事内でも語らせて頂いた繰り返しともなりますが、

そうだからこそ、人間について簡単に「生産的か否か」、

言い換えますと、「お前は世の中のためにどこまで貢献しているんだ!!」とか

「役立つことだけをしろ!!」だとか強要して頂きたくないのです。

本人自身は、むしろ「世の中のために役立ちたい」と思う気持ちが

強くあるのでしょうから。

ただ、その方法論や能力に「自信」が足りないだけですし、

そのことを「自覚」しているような方が多いからこそ

傷心度数も高くなるにすぎないのです。

そのあたりの微妙な「心」の揺れ具合をこそ

お互い「忖度」し合いたいものです。

NHK朝ドラ『半分、青い』でも萩尾律君がこう言っていたシーンも

ありましたよね。

鈍感な鈴愛の言動に

「土足で心のうちに踏み込むな!!」(大意)と。

そんなことで自身の問題も含めまして、

「差別」や「社会的いじめ」問題ととことんまで対峙していきたいと

思っていますが、そうした「心」の内面問題を真摯に掘り下げていくことでしか

世界や他者といった外的存在と誠実に向き合っていくことは出来ないのだと

考えています。

「人間にとって世界や他者といった外的存在に対して

どこまで向き合えば安心出来るのだろうか?」という問題意識から

今回は数理的世界観を1つの着想点に据えながら

本書とともに考えてきましたが、

最後は「魂」レベルの問題にまで至りました。

実はそれこそが著者自身も本著書にて問いかけられた問題でもあったようです。

だからここまでの議論も大枠は外していないと信じています。

つまりは、「プラトン=ピタゴラス」的世界観には

もう一つの一般的には忘れ去られた論点も存在していたんだということで

<おわりに>で著者も閉幕されておられます。

『数値的な眼鏡によってのみ明らかにされる世界の姿は非常に重要ではあるが、

世界の一面に過ぎない。その一面にのみ幻惑されることは他の重要な面を

ますます覆い隠していくことになるように思われるのである。

その面とはピタゴラスの直観に現れたに違いない、宇宙の眼にみえない

「霊的」側面である。』(本書182頁)

「カオス」理論から見えてくる世界も

物理的現象だけでは「完結」し得ないだろう何か・・・だということです。

ちなみに「プラトン=ピタゴラス」的世界観の負の側面についても

考えを深めていきたいと願っておられる読者様には

<考えるヒント>となる手がかりとして

『複雑系の意匠~自然は単純さを好むか~』

(中村量空著、中公新書、1998年)から

特に<第1章 ピュタゴラスの呪縛>(34~62頁)

ご一読されることをお勧めしておきますね。

この本も隠れた「名著」であります。

そこに「未知」の可能性もあり

人類が歩みを進めるべき「道」のヒントも隠されているのかもしれませんね。

ということで今回もかなりの力を入れて語り続けていますが、

本書は数学から見た複雑系科学がもたらした世界観への

「入門招待書」にしかすぎませんが、

噛めばかむほど深い味わいが出てくる本に仕上がっていますので

皆さんにもこの分野にご興味ご関心がある方には

是非ご一読のほど宜しくお願い申し上げます。

読了感はきわめて爽やかでした。

丹羽先生、ありがとうございました。

また読者の皆さんやコメント頂いた方にも篤く御礼申し上げます。

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浪速の晩夏に時空を超えた歓びを感じさせた『人間椅子』と  『陰陽座』来阪ライブツアーご報告~まさに<苦しみも喜びも夢なればこそ現世は夢>ですね ~

さて、長きにわたった書評もここにて一件落着。

ここからは軽妙洒脱感を効かせて前回記事末尾にて

皆さんにお約束させて頂いていたライブツアーご報告エッセー形式で

語らせて頂きますね。

とはいえ、ライブ報告は著作権などの関係で

どこまで触れさせて頂いていいのか正直わかりません。

また本日はまだ『陰陽座』さんの東京での<千秋楽>も残っております。

それに日にちも経ち、細かい具体的描写まではおっさん(笑)の記憶力も

薄れてきており必要最小限にしか語ることも叶いません。

そんな微妙な事情もいろいろとありますので

許容範囲と信ずる程度で抑えて語らせて頂くことをご寛恕下さいませ。

それでは始めさせて頂きましょう。

今月の<言之葉>で詠ませて頂いた

『現世の 浪速の夜に 歓喜光

飛び交う熱き 夢幻抱擁』

その気持ちを如実に表現しております。

まずは<8月31日金曜日>

大阪梅田は堂山町にあるライブハウスumeda  TRAD(前)AKASO』にて

開催された『人間椅子』さんのライブツアー

『恩讐の彼方~2018年晩夏のワンマンツアー~』から。

この日は平日でしたので久方ぶりの仕事帰りは週末のライブでありました。

管理人は有り難いことに時短労働をさせて頂いておりますので

残業を含めて16時に終了。

その後いったん帰宅し(自転車通勤なんです。職住接近はこのうえなく便利で

有り難いことです。前職では堺市内まで電車通勤でしたしスーツ姿でしたから

大変でしたことも今は良き思い出です。)、家を出ること16時半過ぎ。

地元から阿倍野(天王寺)を経由して梅田までおよそ1時間半ちょっと。

梅田に着いたのは18時過ぎでした。

その日のライブ「開場」時間は19時、「開演」時間は19時半。

少し時間に余裕がありましたんで梅田地下街にて軽く食事を

先に済ませます。

こういう時には大好物の蕎麦定食に限ります。

ほろ酔い加減にまではいかない程度に適度に済ませて

堂山町方面の出口へ向かいます。

実はこの堂山町。

管理人にとってはあまり馴染みがありませんが、

このあたりの飲食街には少しお世話になったことがありますが、

ライブハウスに行く用事では2回目なんです。

一回目は高校生の頃に地元の中学の同級生が

バナナホール(今の新装開店前のだいぶ昔です。)で

ライブ出演するからと言うんで友情観覧したのを今も覚えています。

友人には申し訳なく思いますが、

その時の友人バンドのセットリストもまったく記憶にはございませんが、

他のバンドさんでSIAM SHADE シャムシェイド)さんの

名曲『RAIN』を演奏されていたことだけが

今もはっきりとその「光景」まで瞼に焼き付いているから不思議です。

それもそのはずこのロックバンドを今も愛し続けているからですね。

大学時代には弟と大阪心斎橋にある『BIG  CAT』にまで

『SIAM SHADE LIVE  男樹 〜野望のために〜』(男性限定)に

参加させて頂いたこともありました。

特に管理人の敬愛するギタリストであり米国のロックバンドである

『ドリームシアター』さんの存在を教えて頂いた

ギタリストDAITAさんがライブ終盤後に投げはなったギターピックが

何と幸運なことに弟の足下に。

そのピックも引っ越しの際にどこかにしまい込んでしまったようで

必死に探すも見つからずの状態が続いておりますが・・・

それはともかくここはまだ序曲でしたね。

そうでした何につなげたかったと申しますれば、

今回初めて訪問させて頂いた

ライブハウス『umeda  TRAD(前)AKASO』の内部空間が

少し昔のバナナホールに似ていて

懐かしさというか既視感を覚えたからでした。

開場前に玄関左脇のコインロッカーへ荷物をしまい込みます。

締めて300円だったかな。

それと陰陽座さんと同じくドリンク代500円を準備します。

外には『人間椅子』と標した赤い幟だけが翻っているシンプルな感じ。

この日は雨もしとしとと降っていましたが、

何かこの安堵感がよかったですね。

さて、ライブ開幕の時間です。

実は管理人は敬愛する陰陽座リーダー兼ベーシストの瞬火氏から

たびたびライブMCなどで『敬愛する先輩バンドに<人間椅子>さんという

方がいるんですけど~』とは聞いていたものの

脳裏にはその名が焼き付くもそのご存在自体を

あまり深く知悉していなかったのです。

ところが今年の年始あたりだったか

某放送局で放映されていた命売ります

その主題歌を手がけられていたのが『人間椅子』さんだと知り

その歌唱力に一気に惚れ込み

その世界観にも吸い込まれていったのですね。

調べてみると文豪小説作品のタイトルを冠した

楽曲が多数あるとのこと。

それでもってどんな方々なのかをライブ情報を知ったのも

遅かったのですが、そのライブ開催前に

ボーカリストの和嶋慎治さんによる

『屈折くん』(シンコーミュージックエンタテイメント社、2017年初版)

大阪市内の書店(と言っても『ジュンク堂』さんですが)を廻って

探し求めた結果、ついにライブ前の入手に成功。

そこでの壮絶生活体験記にも圧倒されてしまい、

ますますその人柄にも惚れ込むことになっていったわけです。

和嶋氏は大学時代に仏教的世界観に「持って行かれた」ようですが、

そうした世界観がそれぞれの妖しげな文学の世界観とも相まって

何とも言えない独特の作風へと仕上がっているようです。

前回のライブ前日に公開させて頂いた記事内末尾文で

『<人間椅子>さんの《宇宙からの色》《命売ります》

無性に聴きたくなってきました・・・』と綴りましたが

本当にライブで演奏して頂けました。

篤く御礼申し上げます。

さて、細かい内容は先程申し上げましたように覚えていないわけですが、

きわめて優れた記憶力の持ち主で管理人と同様に

陰陽座さんのライブ報告をまとめて下さっているブログ記事に

ネット上を探していて出会えましたので

詳しくはそちらの記事をご参考に

これから語らせて頂くライブの雰囲気について感じ取って頂ければと思います。

他の方の<土俵>までお借りして誠に申し訳なく思いますが

ここは同好の士ということでご寛恕下さいませ。

それは、『気まま猫草~音楽が好きな社会人の徒然~』様による

ライブ報告記事です。

この方のレポートには敬意を表します。

よくこれだけ詳細な記憶力がおありだなぁ~と。

さて、管理人はその日は仕事帰りの週末。

少し疲れ気味のところにアルコール飲料を体内に入れてしまったせいか

『悪徳の栄え』あたりで少し気分が悪くなってしまうというハプニングが。

後ろの方の空きスペースあたりで観覧していたので

少し座り込みその気持ち悪さが遠ざかるまで耐えしのいでおりました。

とはいえ、そのおかげで『悪徳の栄え』終盤頃には

気分もまた良くなっていき回復してきました。

演奏タイトルが『悪徳の栄え』なんですから

何かの悪い念でも入ってきたのでしょうか??

その直後の楽曲が『命売ります』ですから、

敬愛する三島由紀夫先生が助けて下さったのでしょうか?

宇宙からの愛ある温かい<波動念力>を送って下すったのでしょうか?

ともかくも『命売ります』で生気(正気)が蘇ってきましたので

ひと安心というところです。

そのまま気分が悪いままだとライブも最後まで楽しめずに

何のためにここまで足を運んだのかさえ「意味不明」に

なってしまうところでしたので・・・

また皆さんにも不快な思いをさせてしまうことにもなりかねません。

飲食して視聴・観覧することが主たる目的の

ライブ「BAR」やハードロック「カフェ(喫茶)」じゃないんだから。

文字通りの『冥土喫茶』へと連れ去られてしまうところでした。

今後の反省材料です。

とはいえ、急激に気分がスーッと良くなっていったのも「謎」でした。

和嶋さんならこの現象を解明して下さるかもしれません。

それこそ「物心一元論からすると・・・」と

インテリ風に面白おかしくご講義して下さるかもしれません。

それとも「莫妄想(妄想することなかれ)!!」と

一喝されるかも・・・

それはさておき、今回はレア曲のオンパレードらしく

帰宅後アルバムを聴き返しておるところです。

『人間椅子』さんも研究せなと思う

その興奮さめやらぬ余震が残る今日この頃です。

来年は人間椅子さんもバンド活動生活30周年をお迎えになるようで

陰陽座さんの20周年ともあたらしい「元号」とも重なり合って

誠に不思議な「巡り合わせ」というそれぞれのバンドにとって

<節目の年>にも当たるそうですね。

最終アンコール曲は

『なまはげ』です。

その前の『地獄のヘビーライダー』

和嶋さんのバイク好き、バイカーぶりも垣間見られて

魅力的でした。

そういや、今<ヘヴィメタル音楽雑誌>『ヘドバン』にて

『和嶋慎治の野営1人旅』も連載中でしたね。

管理人はバイカーでこそないものの

無類の1人旅好きですのでご参考にさせて頂いており

毎回楽しみにしているエッセー記事でもあります。

それはそうと、閉幕時間はすでに22時前。

終電時間もありますので先に食事を済ませていて「正解」でもありました。

もうちょっと余韻も楽しむべく週末ですので

夜の街にくり出したかったのですが、

資金も十分な持ち合わせなく、

翌日のこともありますので「体力温存」のため

早めに帰宅いたしました。

二晩連続のロック(それも<へヴィメタル>)ライブコンサートは

10~20代前半の「学生君」ならまだしも

30代後半のおっさん連中にはさすがにきつくなってきていますからね。

それこそヘドバン」されている女の子が羨ましすぎる。

あんなに輝いていた頃も管理人にもありましたから

懐かしく感じられたのでした。

それでも30代のロック好きおっさんも彼ら彼女らに負けないように

拳を突き上げて来ましたけどね。

この時くらいちょっと「非」社会人ムードというのか

「ハレの日」ムードに没入して

「大人げなく」シャウトしてもいいでしょ・・・

「だって、それがロックなんだもん!!」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

それでは翌日<9月1日土曜日>『陰陽座』さんの

大阪『なんばHatch』でのライブ公演ご報告へと移らせて頂きますね。

この日の開場前は隣接地にて何かのイベントがあったようですね。

まずはその模様観測から待ち時間を楽しくやり過ごします。

どうやらそのイベントは

日本とインドネシア国交樹立60周年を記念してのものだったようですね。

インドネシアも近年は発展目まぐるしい状況にあるといいますが、

そこでの音楽事情や日本音楽がどう評価されているかも

ご縁頂いたある方に教えて頂いたこともありましたから、

興味関心をもって眺めていたのですね。

まぁ、その様子はこれくらいにして開場時間です。

ツアーグッズに手頃な弁当入れサイズのトートバッグがありましたから購入。

陰陽座さんのあの家紋がたまらなく美しいんです。

『龍鳳』を陰陽太極図風にあしらったデザインですね。

まさに不死鳥のごとく甦る力強いお姿です。

前回のなんばHatchでのライブではなぜかいつものように翻っているはずの

この家紋がステージ上には掲げられていなかったように記憶しているのですが、

少し寂しい思いもしていたところ、

今回のライブツアー『陰陽座全国ツアー2018覇道』では

見事に「復活」してくれていました。

『やっぱしこの家紋がなくちゃね。』

いつものようにドリンク代金と引き換えに頂いたチケットをもって

ライブ会場へとエスカレーターを昇っていきます。

コインロッカーに荷物を入れます。

但し、『扇子』と貴重品は忘れずに。

締めて300円。

あ、ここで良き情報を・・・

1回の会場入場入口脇にあるコインロッカーの方は

少し高いですよ。

締めて500円也。

こんな豆知識も経済的にちょい苦しい方向けにご紹介しておきますね。

本日は陰陽座ツアーファイナル<千秋楽>ですから

ホームページ上にもまだセットリストが掲載されていないわけですが、

大阪会場での詳しいご紹介は控えておきますね。

懐かしい楽曲もありましたね。

どの曲かはここでは「ひ・み・つ」であります。

とはいえ、先程ご紹介させて頂いたブログ管理人様が

その模様を詳しく報告して下さっていますがね。

途中、ボーカリスト黒猫さんが一瞬だけ「声」が飛ぶというか

ほんのちょっとした稀なハプニングもありましたが、

やはりそこはプロとファンの『「魂」の綱引き』でお互いに

補い合っていたところも愛らしい場面でした。

幸せでした。

おそらく本日の東京での<千秋楽>では定番の収録もなされることでしょう。

その発売も今から待ちわびているところです。

もうかなりの分量でお疲れムードだと確信しておりますので

これ以上語り始め出すと怒られてしまいそうな雰囲気にも

なってきていますのでここらあたりで閉幕しますね。

最後までお読み頂き誠にありがとうございました。

またお会いしましょうね。

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2 Responses to “丹羽敏雄先生の『数学は世界を解明できるか』人類は世界をどのように認識してきたのかを振り返らせてくれる<数学的世界解析論>”

  1. 1729 akayama より:

    固より,[…桑楡の期,須臾に在り、…]の戯れの日々・・・ 
     【数そのモノ】に≪縁起≫を≪普遍≫し続けた序に[循環]の【数(n)】についても触れる。
     [循環]の【数(n)】は、
        [サーカディアン数]
        [世代数]
        [数学的帰納法の(n)]
        [フラクタル数] 
      などなど巡り廻るモノと観る。

     【一次元】の『創発エネルギー』の超越数(e)に『循環数(n)をべき乗に作用させ
     『微少数』と『増大数』の因子の積の立ち換えりとして『創発エネルギー』(e―1)と生ると観ることだ。
     生物(ホモ・サピエンス)は、【二次元】の【積分表示の1(カオスを抱え込む)】の【1】を基に【四次元】まで表象できる【1】のカオス表示のヒエラルキー構造が観え・・・。 
     『循環数(n)』は、【二次元】の計量構造の基底が『微少数』と『増大数』の因子の積(≪不定域イデアル≫[『自然比矩形』])として作用していると観れば生物進化なども解明できる道具と生るようだ。
    ≪バタフライ効果≫も『循環数(n)』の隠れた仕業とも観える。 

    ≪不定域イデアル≫(『自然比矩形』)における[点][線][面]が渾然一体となし、『数理哲学としての[身体がする数学](作用素 0 1 ∞)』を湧き立たせ【数そのモノ】の[ロゴス]を生物(ホモ・サピエンス)は、感知すると観る。

    ゴミ箱入りのエッセイの草稿のある部分を以下に曝す。

    『【数】が至宝とする徳って』  

     ・・・【数】は、動的な現象としての【自己組織化】で説明でき、創発エネルギーそのものがマクロ進化とミクロ進化を内在していることも解る。だからこそ宇宙(自然)の記述道具と生れると見ることができよう。
     観照した『自然比矩形』の反比例曲線の【1】からの出発点を【0】と見て左半回転した折り返し曲線は、過去(負数)・現在は、【0】・未来(正数)は、反比例曲線として『数のロジスティクス曲線』を得る。 
     例えば、スキージャンプのK点が、現在を示す【0】とし【《永遠の今》】を生命(数)のロジスティクス曲線の生成点と捉えることができる。形からの喩は、西洋楽器のギター・東洋楽器の三味線のそれぞれのピック・撥の外縁の形状が凸・凹に出来ているのも西洋・東洋の思考形態に擬態していよう。
     東洋の老荘思想等と西洋数学の融合から観照できる【数】は、生命(エナジー)あるモノであり、徳(タオ・オエセル)を有つ。     

      『大人にナ(成)五段活用』

     ・・・鷲田清一先生の「折々のことば」の拾いに、マックス・ピカートの言葉の 
      「非連続の世界においては、精神は存在しえない」
      を眼にし、つくづく数学は、ミステリーだなー・・・と。
     何故なら、非連続の世界を【身体化された心】で捉えると連続の世界が顕現してくる、これ即ち精神の世界への突入ではないか。数学は、精神に生きる生き物だと。

     そして何よりも、【数そのモノ】は、正比例と反比例を【形態空間】で纏め上げていることだ。 

     四月十一日が、【数の記念日】
            [算数の日]
            [算術の日]
            [数学の日]
                  と生れるようにしよう。 

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