ライアン・エイヴェント氏『デジタルエコノミーはいかにして道を誤るか』<ニューエコノミー>論を一度総括しながら近未来へ向けての新たな一歩を踏み出すための経済論考集です!!
ライアン・エイヴェント氏『デジタルエコノミーはいかにして道を誤るか』
前世期末からの革新的デジタルテクノロジーに
牽引されながら従来の経済構造が変容してきました。
人々の経済観や経済政策論に対しても大幅な見直しを
強く迫ってきたというニューエコノミー論。
そこには大きな期待感がある反面、
これまでの勤労観や経済観を否応なしに変えざるを得ない
種もあると言います。
今回はこの本をご紹介します。
『デジタルエコノミーはいかにして道を誤るか~労働力余剰と人類の富~』(ライアン・エイヴェント著、月谷真紀訳、東洋経済新報社、2017年)
ライアン・エイヴェント氏(以下、著者)は米国のジャーナリスト。
『エコノミスト』誌など数多くの新聞・雑誌などに寄稿されてこられた
<経済コラムニスト>として活躍中だといいます。
現在は同誌のシニア・ディレクター兼経済コラムニストとして
主に世界経済に関するテーマ記事をご担当されているといいます。
さて、日本では平成最後の年末であり、
世界でも来年以後大きな激動転換期を迎えようとしているかに見える
節目の年末にあたり、
これまでも様々な角度から問題提起させて頂いてきた
デジタルテクノロジー(機械的技術革新)と人間による労働のゆくえについて
再度この場で一時総括してみようとの趣旨で
今回はこの本を取り上げさせて頂くことになりました。
すでにこのテーマにつきましては
ますます機械の高度進展化がなされていく過程で
人間の労働力過剰に由来する雇用不安が生み出されていくという問題意識から
たびたび言及してきましたし、本書でも重なる論点が出てきますから
お馴染みのテーマに関しては読者の皆様も多少は食傷気味だと
想像感受されますので今回のこの書評に当たりましては
これまで言及してこなかった問題提起などを中心に
ご紹介と考察論考を深めていくことにいたします。
とりわけ日本では来年度末あたりに既定路線として予想されている
(このまま言論界や政治経済界における無関心さと
強く予想される景況悪化への見通しの甘さや軽視が続けばとの
仮定をおくとすればの話ですが・・・)消費増税とその緩和策としての
軽減税率に絡ませたポイント還元制度などを活用させた
静かなるキャッシュレス経済社会への誘導移行を巡る仮想上の論点なども
今後少しずつ論壇などで提起されていくだろうことも踏まえまして
本書で提示される諸論考点も参考材料にしながら
読者の皆様にもご検討願える有意義な機会にもなり得ましょう。
そのような時期にも当たりますから
今回取り上げさせて頂いた本書で論じられていくテーマとともに
<キャッシュレス経済社会とデジタルエコノミー>の関連性についても
焦点を当てて
皆さんにも大いに議論喚起して頂けるような話題を
提供させて頂きますね。
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このテーマにつきましては、本書評要約記事を済ませた後の
別途あらたな項目にわけた<エッセーコーナー>の冒頭あたりで
検討をしてみますね。
今回も長文になりますから先に告知しておきますね。
お忙しい皆さんにはいつも恐れ入りますが、
それぞれの読者様におかれましては
ご自身のご興味ご関心あるテーマからつまみ食いの要領で
楽しんで頂ければそれだけでもう十二分に幸せで有り難いことです。
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ところで、これまでの書評記事ではいわゆる技術革新が進展していく最中の
<2045年問題=シンギュラリティ=技術的特異点>が話題となり
世相を賑わせていましたが、
このところは特に日本国内に限っての特殊経済事情となりますが、
深刻な<人手不足問題(本当にそうであるかどうかの批評的考察は
ひとまずさておくといたしまして)>が当面の課題だということで
その議論も少し落ち着きをみせているように感じられます。
その背景理由も多々あるようですが、
雇用労働における人間そのものへ支払われる経済的コストの方が
技術革新への設備投資にかけるコストよりも下回るなどといった
我が国固有の異常なまでのデフレ化現象(ここでは諸物価上昇率>賃金上昇率より
分析評価接近する観点からデフレ化が招く負の側面に議論を絞らせて頂きます。)が
引き続いているということも背景にあるようです。
そんな中で国内労働者の<人手不足>という怪現象を補充するとの
もっともらしい理由から国外労働者への依存度を高めようと志向する
内外を問わずまともな人間感覚からすればおよそ正気の沙汰とは
思われない政治的措置が採用されようとしております。
ここでの管理人はあくまでも移民政策の是非について
さらなる言及をする余地もありませんし(過去記事では
現状での国内受け入れ態勢の不備や外国人と外国文化への
十二分な理解不足などによる心理的・物理的障壁摩擦が
発生していくだろうことを懸念して<消極的>意見を提示しておきましたが・・・)、
後ほど本書における主に第10章における移民問題に関する著者意見に対する
批評的考察をさせて頂く際に若干程度触れさせて頂くほかは
今回は最低限に控えさせて頂くことにいたします。
この場における問題提起としては
これほどまでに技術革新が年々強まりゆく途上における
人間による労働「力」過剰問題が取り沙汰される中で
少しは雇用労働における<人間依存度>を軽減させていってもいいのではないかとも
思われるのですが、
世間一般的には人間による雇用労働が剥奪されていくことへの
不安感の方が根強くあるために悲観論が蔓延しているように感受評価されます。
後ほど本書要約記事項目内でも語り深めていくことになりますが、
むしろ現在の過酷なまでの高度資本主義経済社会における
<人的資本=人間能力の技術的道具化=選別排除化>の方が
人道的にも疑念が生じるはずだろうし、
ごくごく普通の庶民生活感情からしても強迫的重荷
(つまり、一般生活人における仕事能力向上の側面からは
そのための教育訓練機会も現状の平均的な労働時間環境を大前提とする限りは
かなり難しい状況にありますし、経済上も相当な教育出費が
強いられるために日常生活に必要な生計費へのより過大な圧迫感が
与えられますでしょうから。要するに企業経営者側からも労働者側からも
民間レベルにすべてを委ねようとする発想が続く限りは
そうした問題点も一向に改善克服される余地もあり得ないだろうということです。
営利追求を目的とする民間企業経営者にとっては
出来るだけ人件費や教育投資費を抑制しようとする誘因効果が
どうしても働かざるを得ないからです。奇特な経営者であれば
労働者と企業生産者の<公益社会化>を志向しようとされる方も
稀にはおられるかもしれませんが、現在のような過当競争状態と
圧倒的な大資本優位市場が続く限りは無理難題ということになります。
しかもすでに「独占化」や「寡占化」<市場優位化現象>を果たした
大企業になればなるほど意外に思われるかもしれませんが
中小零細企業ほどには自社の労働者への教育投資や自己教育意欲が
減少していくという心理的効果も働くようです。
そういった側面からも給与<賞与や待遇格差なども含む>査定における
適正基準はどのあたりに設定すればよいのかという問題も
経済心理学者には是非とも問題提起して頂きたいわけです。
贅沢すぎても貧窮すぎても人間は労働・教育意欲が湧かなくなってしまうという
逆説現象であります。
ここに深刻な経済「格差」の現実があります。
そのあたりの問題点はすでに前回記事における
<第6章 人的資本を教育する>でも力点をおいて考察してみた
ところでした。)を覚えるだろうと
管理人なども推察するに難くありません。
こうした過酷な人間による雇用労働環境を日々目の当たりにすれば
普通の人間感覚であればむしろ「(純粋)機械化大歓迎!!」だということに
なりそうですが、人間は仕事というよりも「(賃金)労働そのもの」を
剥奪されるイメージの方が強くなるためでしょうか
なかなかこのイメージの壁を乗り越えることが難しいようですね。
こうなってしまえば
もはや労働「物象(神聖)化」イデオロギーに犯された
精神病理現象の1種ということにもなりかねません。
(念のため管理人は何も「労働」を軽視しているわけではありません。
一般的には「勤労(勤勉)」者には感謝すべきでありましょうし、
管理人の性格からは親和性や好感度が強いからです。
とはいえ、ここでは感情問題としてではなく
現状の雇用労働環境を評価した場合における論理的帰結として
語らせて頂いたまでであります。
また今後のデジタルエコノミーの進展速度などをリアルにイメージしたり、
そうした果てに実現可能になると予測される経済社会では
必要以上に「(賃金あるいは強制された奴隷型サービス)労働」をしなくても
生存(生活)していくことが叶う楽観的経済観が
むしろ当たり前となっていくかもしれませんから・・・。
そうなった時代においては
今のような「働かない(働きすぎない)」人々への
過大なバッシングも必然的に軽減していくことも予想されます。
とはいえ終局的には人類史において長年月続いてきた
<支配-被支配関係>による社会システム観が克服されない限り
近未来においても負の遺産として引き継がれてしまうとも
言い換えることができましょう。
一般的日本人や保守的感情を抱いた方々によるイメージからすれば、
このような「階級闘争観」を想起させるような<支配-被支配関係>などという
表現には何かおどろおどろしい感覚を呼び覚まされるでしょうし、
相当な違和感を持たれるかと思いますが、
管理人がここでそうした感覚を有する方々にも想像して頂きたかったのは
あくまでも人間の「道具化」志向をやめませんかという趣旨にすぎません。)
たとえば前にもご紹介させて頂きました井上智洋氏などによる
時期的分析考察提示によりますれば、
従来の単なる機械化経済と近未来に徐々にその姿が現れてくると
想定されている「純粋」機械化経済とでは
まったく人間労働によって主導的に成り立ってきた従来の経済観や
経済政策論では「想定外」の事態も起こり得てくるだろう・・・との
ご提言論考文(『人工知能と経済の未来』文春新書、2017年第16刷、
<第4章 第2の大分岐-第4次産業革命後の経済->所収の
<純粋機械化経済における経済成長>182~185頁などご参照のこと。)
なども鑑みますと
「なぜこれほどまでに人類は人間による雇用労働に拘りすぎるのだろうか?」との
違和感が湧いてくるからでもあります。
もっとも「純粋」機械化経済が本格稼働し始めた時代においても
人間がすべきまた人間にこそ適した「労働」ではなく
<仕事>や<活動>領域はむしろ増えていくのかもしれません。
「労働」にはどうも<労役>といった
あまりにもつらく苦しいという過酷な苦役感情が
付着してしまいがちですが、
完全な苦労感は<感情>ですからなくなりはしないにせよ、
「もう少し<労働>でさえ楽しめないものだろうか?」という
問題意識を持つだけの意義はありましょう。
むしろ現在の過酷な雇用労働環境から少しは「解放」され、
「ゆとり」ある人間らしい生活を回復させ得ることが叶うのであれば
楽観的になるだろうに・・・と感じられるからですね。
しかしそのためには<生産的>だとか<効率的>だとかいった
人間へそのまま当てはめて発想していくような
いわば機械的労働観というのか
従来の人間の労働力に着色されてきた妄想的概念像から
目を覚ます志向性も要請されます。
こうした文脈から最近は保守派論客による
<生産至上主義>に偏向させた人間の労働「力」観にも
相当な違和感が増してきています。
その思想背景にはまだまだ右も左も労働価値説的なイメージ像が
根強く固定概念として付着していることもありましょう。
こうした労働観を巡る現在次元を離れた
次なる時代へと向けられた有意義かつ臨場感ある
もうひと段階次元を上げた議論を深めていきませんと
政治経済における人類「前史」もなかなか閉幕せずに
これからもこのまま膠着状態が続くことでしょう。
それはそのまま支配-被支配文化といった
人間同士における事実上の奴隷制度(他者の安易な機械化道具志向。
<人的資本>論はこれを無意識化してしまう非常な危険性があります。
<人的資本>論によって人間の才能を無意識レベルにまで
浸透させていくような勤勉・勤労観はこれまでもありましたが、
特に近現代以後の労働観はこれを拡大強化してきました。
精神病理的な観点からは真面目な人ほど
極端なまでに憂鬱感情に圧し殺されていく推進力とも
なってきたからですね。
カントやマルクスだけではなく
現代実存思想の領域でもカール・ヤスパース博士を含む
数多くの哲学者も人類の未来へ向けた警鐘を鳴らされてきた
重要論点であったのです。
さらにこの<人的資本>論によって
一般にも可視(明示)化がなされたことだけは
功績の側面も確かにあります。)が残されたまま
未来に禍根を先送りしていくことと同義でもあります。
その「人間が機械に仕事を奪われる!!」との恐怖感や不安感は
もちろん管理人にも理解し得ますし、
大方の読者様のご意見も想像が出来ますが、
それは今までの人類史の中でそのような経験があまり少ないか
産業革命のようにあったとしても他の産業分野で
十二分に人間による雇用労働を吸収することが叶い、
生活が全面的に成り立たなくなるといった事態が
たまたま好運に恵まれたことで辛うじて回避し得たからだというに過ぎません。
もっともそれでも人間同士の雇用労働ダンピング競争(各国における
「内需」経済政策の失敗などに由来する海外経済への依存度を高めていった
<規模の経済追求>路線の過程で生起してきた人間の経済的<無価値化>現象と
でもイメージされる現象のこと。)が激しく続くことで
帝国主義型近隣窮乏化過当経済競争という結果を招来していくことになり、
稀少な資源分配を巡っての政治的紛争がますます強まり、
ついには人類史上未曾有の大惨禍である二度の世界大戦にまで至ったのでした。
その深刻な反省からGATTやWTOといった国際貿易機関や
国際的為替調整制度が整備されていくことになっていったわけですが、
今日に至っても十二分にその「本来」の理念や背景思想が
とても活かされているようには思われないところに
人類間における大きな壁が立ちはだかっているというわけですね。
つまりは、いまだに各国間の「思惑(力による駆け引き)」によって
世界の勢力図は左右させられ、理想的な均衡点に至るまでには
今なお険しい状況が続いているということであります。
そんな現実的状況がありますから、
理念としては日本国憲法<前文>に掲げられていますような宣言文には
誠に崇高なものがあるとは管理人も思いますが
なお人類間における現実的な微調整処理が必要不可欠ということになるわけですね。
理想と現実の<はざま>で呻吟せざるを得ないのが
遺憾なことではありますが現在の人類意識がおかれた状況であります。
このような人類間における「不協和」の種を少しでも低減させていくためには
「どうすればよいのでしょうか?」
ここに管理人の当書評ブログにおいて読者の皆様にも問いかけてみたい
哲学的問題意識もあるわけです。
ちょうど日本国憲法<前文>に関する話題に触れさせて頂きました
ついでとなりますが、それがまさしく
『全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、
平和のうちに生存する権利を有することを確認する。』でありますが、
この確認宣言文もあくまでも前回記事でも強調させて頂きましたように
みなの相互協力によって力強く「創り上げていく」という
意志がなくてはそれこそ「絵に描いた餅」と空文化してしまいます。
憲法論議をする際には常にこの理想と現実の<はざま>に
人間は絶えず引き裂かれた中間的存在にあるのだということを
認識自覚したうえで向き合わなくてはなりません。
そのような<切実さ>感覚がなければ
政治的イデオロギーに基づく不毛な論議が
今後とも延々と続くだけでありましょう。
そこでこの上記引用させて頂きました
日本国憲法<前文>における哲学思想が
今回の書評でも提示されていくことになる
近未来の人類における雇用労働「観」に関する考察を深めていくうえでも
1つの「突破口(手がかり、取っ掛かり)」となり
良き「道標」にもなろうかとひらめきましたので
本書ご紹介導入部の語りとして触れさせて頂くことにいたしました。
まとめますと、先に触れました
機械の技術革新によって人間の仕事が剥奪されていくといった懸念は
畢竟するに要は「経済的手当(生活保障)をどうするか?」という
論点に集約されるということになります。
しかもその根底では『仕事の<対価(見返り)>としてお金を稼ぎ、
そのお金を元手に生活を保持していかなくてはならない!!』との
これまでの経済「観」を打破するような哲学思想面での
裏付け作業も強く要請されることになります。
『それではこのような従来の経済「観」に代わる
夢のような話などあり得るのでしょうか?』というところに
今回の書評記事における次なる一手となるテーマも含まれています。
もし本書でも提示されているように
「純粋」機械化経済が高度化していき、
その最果てに潤沢な経済的「余剰」分が創出されていったとしたら・・・
そう仮想してみれば、この労働「力」、つまりは人間による労働を
通じて創出されていくことになる富の適切な分配問題、
すなわち格差の解消にもつながる政治的解決法も
次第にうまく見出されていくようになるかもしれません。
もっともその仮想論も実際には「夢想」にしか過ぎない
夢物語で終わってしまうのかもしれませんが・・・。
現実の厳しさは厳しさとしてきちんと真正面に見据えながらも
その課題解決へ向けた努力は積み重ねていかなくてはならないことは
論を待たないところですが、
今回は新年と新しい元号を迎える「慶祝(賀)」の節目の年でありたいものと
皆さんとともに「言祝ぎ」たくもありますので
たまには視点を変えてこうした未来の明るい「夢語り」も
してみようではありませんか・・・。
せめて正月だけでもそんな「初夢」を見たいものです。
「初夢」がやがて「正夢」にまで成長を遂げてくれれば
本記事も未来から振り返って見た時には「予知夢」だったとも
評価され得るのかもしれません。
そうすれば本記事の役目も無事果たせたことになります。
ということで<序章>も長くなってきましたので、
ここからは本文記事での要約ご紹介と論考批評を進めていく中で
明暗(悲観論と楽観論)の双方に目配せしながら
本書を読み解いていくことにいたしましょう。
人類は近未来において果たして経済的稀少性という難問を克服し得ているのだろうか?~労働力「余剰」問題にいかに適応していくべきか論~
それでは本書要約ご紹介へと移らせて頂くことにいたしますね。
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・<序章>
※<序章>では本書全編を通じて著者が問題提起していこうとされる
テーマとイメージ像が描写されています。
ここでは現在の世界で起きてきている政治経済変動について
語り起こすのに先だって読者にとっても現在から近未来へと至る過程で
生起し得る環境変化をイメージ喚起しやすくするために
著者ご自身の経歴や職業観などを披瀝しつつ、
これからの雇用労働「観」転換に向けた事前整理の役割があります。
特に本書の読者に想定されている先進国に住まう人間にとって
この20数年間(国によってはそれ以前から!!)賃金の伸び悩みが
続いてきたと総括されています。
一方の新興国では賃金は急上昇してきたという事実はあるものの
この先進国と新興国に共通して評価される点は
いわゆる「高額」所得者とそれ以外の「一般」所得者との間で
歴然とした「格差」が拡大し続けているという現実的分析結果があります。
前にも巻末ご参考文献としてご紹介させて頂いたこともあります
『大不平等~エレファントカーブが予測する未来~』
(ブランコ・ミラノヴィッチ著、立木勝訳、みすず書房、2017年第2刷)によって
一躍その模様が世間一般にも浸透することになった
「先進国超富裕層の所得が急激に上昇するとともに
(準)先進国の一般中間・低所得層の所得上昇が犠牲に供されることによって
新興国の最底辺層の所得が徐々に上昇していくことによって
世界的な賃金所得<均衡化>が促されていく・・・」といった
図でお示しすればちょうどゾウ(エレファント)が鼻を持ち上げたような
姿をしたカーブが描かれることで命名されることになった
<エレファントカーブ>が統計分布図表として明確に示唆されるようになりました。
世界的な深刻な経済「格差」が均されていくことで
先進国と新興国の間で人類史上長らく続いてきた不公正問題が解消されていくことは
確かに人道的に見て公平かつ公正な方向へと進展しつつあるという点だけを
強調すれば誰しもすぐには反論が出来ないところがあります。
とはいえ、問題なのはその中間領域で生活している(きた)
分厚い層に急激な犠牲が強いられてきたという事実にあります。
そのことが特に米国や日本、ヨーロッパ各国といった
いわゆる先進国家(経済圏)において如実に見られてきたことから
激しい政治闘争にまで発展してきているからですね。
「国内」労働者間では「分断」がより一層促進されていくことから
大多数の一般労働者間における連携(連帯)が難しくなってきており
それが「分配」の偏りを創出していくことにつながるとともに
企業経営層から国家統治支配層や(超)高額所得富裕層への
「是正」措置を求める声も年々抑えられていく傾向が生じてきました。
そうした「国内」労働者の生活環境が悪化していき、
ただでさえ政治的救済政策も疎かにされていく最中に
「国外」から新たに「安価」な労働者を様々な表向きの理屈(「人手不足」だとか
若者層が熱心に働かなくなったからこのような事態を招いたのだという
すでにあるいは徐々に「現役」社会人層から抜け出すことが叶い
安定した経済基盤がある高齢の余裕階層によるメディアなどを駆使した
宣伝効果による知的偏向による正当化理論)がつけられて
「現役」世代層による切実な生活改善へと向けられた声も
かき消されていく現状にある時に
さらに「国内」労働者の生活状況混乱に拍車をかけるような事態にでもなれば
否応なしにさらなる「差別」感情も湧き上がってくることになります。
それでもヨーロッパ諸国(とりわけ最近のフランスなど)とは事情が異なり
日本ではみな静観する姿勢で忍耐に忍耐を重ねているように
マスメディアなどが報道する情報の表層面だけを眺めておれば
そのように実感されてしまうのも正直なところでありましょう。
それでもマスメディアが報道しない社会の深層現場では
少しずつ危機的予兆も出てきています。
管理人はあくまでもそのような潜在的紛争要因となり得る
悪い種が蒔かれていくことは好ましくないという姿勢から
語らせて頂いております。
こうした見立ては何も「国外」労働者に対する
偏見や差別を助長させる意図からしているわけではなく、
純然たる政治上の事実問題として、
また表向きの理屈の裏に隠された「安価」な労働者といったイメージ像や
「先進国が新興国の最末端(底辺)労働者の世話をしたるわ!!」的な
人間を「下」に見た差別観も隠されている
(しかも表面的には善意に出ている=特に日本人の場合には
憲法論議に対する姿勢を持ち出すまでもなく
こうした善意願望が強く滲み出やすい傾向にあります。
しかし世界全体で見ればそうした近視眼的善意観も
押しつけ的に嫌悪感をもって感受されてしまうことも多々あります。
国際交流や異文化理解とは言うほど簡単なことではないのです。)からこそ
まさしく「国外」労働者に対しても非礼ではないかという趣旨から
申し上げているわけであります。
言い換えますれば、上記<エレファントカーブ>を
ただ漫然と眺めているだけでは
世界と未来の理想像から評価し直すと
「誠に結構な成り行きではないか・・・」ということになりそうですが、
「急激」な変化がこれまで無事平穏に過ごしてきた
あまり移民文化に馴染みがなかった社会(日本のことです)にもたらされれば
いわゆる「底辺への競争」がより一層と激しさを増すことで
内外労働者の間で生活実感を巡る政治的軋轢が生じてくるのではないかと
通常人感覚であればおそらく不安材料として浮上してくるに違いないからです。
日本の場合はこのように移民文化を共有してこなかったことや
過去の日本史では「高度」外国人材を受け入れてきた実績もありますものの
あくまでも「高度」お雇い人材の「一時的」受け入れということであり
「定住化」を想定したものではなかったのでした。
「定住化」を要望する外国人材には
「郷に入っては郷に従う」といったどこの国(地域)にも通底する文化ルールを
受容することを大前提に厳しい帰化条件を課してきたのが
先人の内外人との間で深刻な摩擦を回避するための「知恵」でもあったからです。
また日本の場合には実際に受け入れることが可能な
国土面積における制約条件もありますし、
安全保障上の地政学リスク難題を抱え込むことも考慮されてきたからです。
このあたりは「内」か「外」かの皮膚感覚の差異観にもよりますので
読者の皆さんにおかれましても見解の相違が自ずと滲み出てくるところで
ありましょう。
しかしながらこの観点は何度も強調させて頂きますように
蔑視的差別感情から出たものではなく実際の政治的調整といった
運用・工夫から出た法律上に反映された「合理的」差別待遇だということに尽きます。
というわけで同じ「差別」という表現を使用していても
<社会的>文脈によってまったく色合いが違ってくるということに
皆さんにも注意を払って頂きながら
この問題を捉え直して頂く素材として語らせて頂きました。
さて、このような絶えず揺れ動き続けている国内外の環境状況を大前提に
近未来におけるデジタルテクノロジーの進展が主導していくものと
予想されている人間の労働「力」過剰問題と
今語り終えましたような国内外労働者間の軋轢や
国内労働者間における深刻な亀裂・分断状況を精確に押さえておくとともに
少しでも軋轢や摩擦を回避できる条件を生み出していくためにも
本書で提起される諸論考文とともに理解を深めて頂きたいと願っています。
そうした本書で展開される諸論考に触発される形で
管理人自身による賛否両論の評価も加えさせて頂きますとともに
著者同様に出来るだけ管理人も楽観的な未来図を描いてみようと思います。
それにはいつも強調させて頂いていますように
「短期」と「中長期」の視点が欠かせず、
大いなる楽観的見通しの前に「まずは考えられる限りでの<悲観論>にも
きちんと目配せしておこう!!」をモットーに
次章以下の要約記事内でも折に触れて考えていくことにいたしましょう。
この<序章>では現在の深刻なまでの経済的または政治的「格差」を
考えていくうえで欠かせない視点だと
著者が強調されているのが
<社会的文脈>や<ソーシャル・キャピタル>(その定義やそれがもたらす
重要度については第6章の要約時にまたあらためて詳細に触れさせて
頂くことにいたします。)という概念を的確に見据えておくことだといいます。
この<社会的>はそれぞれが育った物理的・心理的環境条件によって
絶えず左右されていきますから、一律にこれがそうだとは
断定し得るものではありません。
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・<第1部 デジタル革命と労働力の余剰>
①「第1章 汎用テクノロジー」
②「第2章 労働力の供給過剰をマネジメントする」
③「第3章 もっと良い働き口を探して」
※第1章ではますますテクノロジーに要求される用途が「汎用化」されていく
に従って生起していくことになる人間による雇用労働減少問題について
分析考察がなされていくことになります。
このテクノロジーの革新度合と進展速度次第で
人間による雇用労働「領域」が徐々に狭められていくことになり
やがては労働「力」余剰問題が深刻な度合へと高まっていくというわけですが、
人類は今までのところ技術革新の恩恵とそれとの棲み分けに
うまく成功してきたかのように思われます。
また産業革命以来のテクノロジーとの付き合い方の経験則から
人間は微調整していく知恵を身につけていったこともあるのでしょう。
そんな人間が機械へと便利さの夢を託す反面で、
「あまりにも人間的な」理由であえて「不便さ」を受け入れることで
激甚な社会変容に耐え得る条件設定をしてきたのかもしれません。
そのことが見た目ほどにはテクノロジーが進展していないようにも
思われるのかもしれません。
とはいえ、このことは20世紀期末前後あたりまでの
短い期間に辛うじて当てはまっていた出来事にしか過ぎなかったようです。
21世紀に入りすでに20数年になろうとしている現在、
人間が創造してきたテクノロジーも「自己増殖(深層学習方式)」していく
「汎用型」人工知能時代へと進展してきたからであります。
現在はその「汎用化」が人間にもたらす様々な難題事例を想定した
試作実験と哲学的議論が積み重ねられている過渡期に当たります。
そのようにして少しずつ技術革新度も高まってきたわけですが、
実際にはこれまで想定されてきた理想的ロードマップと
現実との間で大きな隔たりがあるらしいことも判明してきたことから
冒頭でも触れさせて頂きました「2045年問題」も
落ち着きを見せているかに感じられます。
そのような現状から多くの論者の間で
多種多様な見解の相違が出てきています。
そこにどのような「折り合い」を見出せばよいのだろうか?
ここに本書における著者の役割があります。
これまでの『議論に欠けているのは、急速なテクノロジーの変化がなぜ、
世界的に雇用が増えている現象と、賃金と生産性が期待するほど
伸びない現象の両方につながるのか、への明確な説明だ。』
『デジタル革命を過去にまったく類のないものと見なすのは間違いである。』
『逆に、デジタル革命が産業革命とよく似ていると主張するのが本書だ。』
(以上の引用箇所はいずれも<序章>22頁より)
ですから、少なくとも著者の「短期的」見立てでは
デジタルテクノロジーの進化そのものによって
労働「力」過剰がもたらされ生活困難を来すという問題設定よりも
なぜそうしたテクノロジーの恩恵がありながらも賃金面で不当な扱い方が
なされてしまうのかといったテクノロジー以外の側面にも焦点を当てた
解明作業がなされていくことになります。
言い換えますと、
デジタルテクノロジーの進化そのものによって
労働「力」過剰がもたらされ生活困難を来すという問題設定は
かなり「中長期」後の話題となるだろうという見立てであります。
そこで視点を現在に戻して、
まずは当面の人間的経済課題を解決していく処方箋が提示されることになります。
その現在に立ちはだかる壁が「経済構造の変化」にあるといいます。
機械化による大量生産方式が今日少なくとも先進国では浸透したことから
生産能力の担保はほぼ「自動化」で吸収されるようになったことで
平均的な労働者のスキルも頭打ちになり、
より知的高度化が求められるようになってきました。
とはいえ、一般労働者の賃金上昇率が伸び悩む中、
一方では高等教育にかかる経済的負担は年々上昇していくばかりの現実。
また先に触れました「実働」労働時間そのものは多少は短縮されつつあるも
現実的にはまだまだ諸般の事情から労働時間が長すぎるために
明日への労働「力」再生産へと向かうための余力時間も
なかなか持てないのが通常人の労働実態であります。
しかもこの数十年間でその高度知的労働分野でさえ、
「汎用型」テクノロジーによって追い越されようとしていたり、
日本の場合には特に長期デフレ状態が続いてきたことから
労働者のスキルアップ意欲も低下し続けるばかりの現状が
一方ではあります。
こうした経済構造の変化も進展していくことで
著者は<労働力の余剰をもたらした要因>として
以下の3点を挙げておられます。
ここにまとめておきます。
①技術革新に伴う機械的「自動化」。
②デジタル革命とともに進展していくグローバリゼーションが
もたらす安価な労働「力」調達手段が確立されたこと。
③スキルの高い一部労働者が牽引していく生産性向上による
一般労働「力」の長期的余剰化現象。
それではこうした労働「力」余剰がもたらす経済未来像や
それに対応し得るような発想を持っていた賢者はいなかったのでしょうか?
というとすでに20世紀初頭に著名な経済学者ケインズが
ある論考文でそうした未来を見越した予想図を残していたのでした。
が・・・。
当時の経済実情や政治的現実の前では
誰もそれをまともに検討したり真に受ける人間は少なかったといいます。
つまり、こうした人類が到達し得た状態を見越した
<繁栄という政治課題>(本書10~23頁)を
本気になって取り組もうとした人間もこれまた少なかったということです。
(なお、このケインズが示した問題提起は前にもご紹介させて頂きました
『隷属なき道』所収論文<第6章 ケインズが予測した週15時間労働の時代>
130~155頁も是非ご一読されることをお薦めいたします。)
そんなわけで現在でもまだ事態の深刻さを重く見る論者が
少ないのが実情であります。
そこでこの労働「力」の供給過剰がもたらす事態を想定した
具体的処方箋がついに現実課題として浮かび上がってきたのが
今であります。
そのことが第2章で論じられています。
そこで次なる問題点は一般労働者への教育投資や
さらなるデジタルテクノロジーへの設備投資にかける経済的投資意欲に
乏しい企業経営側の姿勢であります。
ここにまで至ればすでに「資本」主義経済の存続危機ということに
なります。
それではなぜそのように早急に解決しなければならない重要課題が
あるにもかかわらず遅々として積極的投資が進まないのでしょうか?
その背景理由には以下のものが潜んでいたのだと
著者は語られています。
『失業した労働者のほとんどはむしろ、低スキルの仕事の奪い合いに
追いやられる。そのような仕事に働き口を探す労働者の供給が増えれば、
賃金は下がる。すると企業は人間の労働力をもっと使おうとするようになり、
逆に本来ならできるはずの自動化の可能性を活用しなくなる。
つまり、テクノロジーの進歩と生産性の向上はおのずと制約がかかるように
なっているのだ。』(本書85頁)
要するに、私たち一般労働者の経済的価値は
機械よりも低く見積もられており、
都合良く「使役」されているということになるわけです。
言い換えますれば、経営者から見て機械への設備投資を増すことで
利潤拡大を図り、その「余剰」利潤を給与所得として
労働者へ支払うよりも、
あえてその設備投資よりも安価に入手可能な人間の労働「力」に頼って
「余剰」利潤を手元において内部留保へと回す。
しかも税制面でも企業家は優遇されている!!
ここに資本主義に必要不可欠な
<アニマルスピリッツ=絶えざる創造的革新意欲>すら阻害されていく
要因もあるようですね。
つまりは、完全な企業経営陣による「惰性」経営であります。
だからこそ巷には過去に見たような<既知案件>の焼き直しが
溢れかえっており、さらなる余剰在庫問題もいや増す要因にも
なるというわけですね。
この労働「力」余剰問題と在庫過剰問題は、
「ヒト」と「モノ」で一見違うようで
実は類似の構造問題が含まれていたということになります。
それでは、こうした生身の人間である私たち「ヒト」族にまつわる問題は
ひとまず留保することにしまして、
「モノ」の在庫過剰問題を解消する志向性はないものでしょうか?
あるいはすでに過剰なまでに「モノ」が行き渡る時代において
「タダ同然」は資源コストという希少性問題が残り続ける限り
不可能だとしても人間による労働を介さずに入手可能な方法はないものでしょうか?
ここに少なくとも「モノ(ここでは過剰物品に限定します。)」に対しては
究極のハイパーデフレーション問題も関係してきます。
ちなみに管理人が見立てるところ完全な「純粋」機械化経済に至り
労働力「供給」面での人手不足問題が完全解消したと仮定したうえでの
制約条件はつきますが、
必ずしも(ハイパー)デフレーションによって
「モノ」の余剰在庫が積み上がっていくという現象形態を歓迎するということと
(ハイパー)インフレーションになれば
深刻な「モノ」不足が起きるとは限らず、
その状態でも「余剰」供給分を享受し得て歓迎するということは
まったく「ヒト」に関する問題としては
意味が異なるだろうということです。
「ヒト」に関しては少し先に語りますが、
(ハイパー)デフレーション状態は
まず間違いなく価値(人間的尊厳)が完全に毀損されていくからですね。
「ヒト」にとっての<労働>に仮託する願望には
人間の尊厳感情も含まれているからです。
こうした側面が<労働>にも含まれているが故に
先程も『<労働>を決して軽視するわけではありません。』と
注意書きを添えておいたわけです。
出来るだけ誤解を避けるために。
これはあくまでも完全な「純粋」機械化経済へ移行を果たしたうえでの
仮定話題であり、
現在のような「マンパワー(人力)」に依存している
経済体制下における話題と混同してはなりません。
「ヒト」のデフレ化(無価値化志向)は論外だとしても
それでは、最近話題になっている
「コト(サービス)」消費、
はたまた「トキ(体験型)」消費などはいかが考えればよいのでしょうか?
この「コト」や「トキ」消費に関しては
「モノ」消費以上に人間が関わる余地がまだまだありますから
人間に完全な「飽き」が来ない限りは
その希少性を尊重した所得向上につながる経済循環回路も生み出せそうですが・・・
こうした見立てもすでに楽観的過ぎるのでしょうか?
第2章では労働「力」余剰の負の側面を中心に考察されてきましたが、
それではテクノロジー革新によって正の側面がもたらされることは
あり得ないのでしょうか?
言い換えますと、テクノロジーの創造的変化による
現状の過酷なまでの人間による雇用労働環境の改善余地は
もはやあり得ないのでしょうか・・・という論点であります。
それが第3章の話題となります。
この第3章ではいわゆる<雇用のトリレンマ=次に掲げる3つの条件すべてを
同時に満足させ得ないということ>問題から論考が開幕いたします。
その<トリレンマ>とは、
①高い生産性と高い給料
②自動化に対する抵抗力
③大量の労働者を雇用する可能性
の3点になります。
(以上、本書90頁冒頭ご参照のこと。)
そしてここに先に触れました「モノ」に代わる
「コト」や「トキ」消費といった
いわゆる情報サービス主導型の
本書のもう一つの隠れた最大課題の1つとも評価し得る
こうした人間による労働「力」余剰問題を解決させるに足る
決定的切り札にはなり得ないとの悲観的帰結もまた示されることになります。
最終的には富の分配問題を巡る政治的「折り合い」が
どの攻防ラインで決着がつくかという
きわめて政治的課題が潜んでいるという結論になります。
ここにあらたな社会福祉制度の革新的進化が要請されます。
(<ニューエコノミー>論が抱える問題点については
本書101~104頁。
<ギグ・エコノミー>論については本書104~106頁を
それぞれご参照願います。)
後者の<ギグ・エコノミー>論とあらたな社会福祉制度の革新的進化の
必要性に関する論点につきましては、
第10章<ベーシックインカムの可能性>(本書282~285頁)でも
重ねてさらに深く論じられております。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・<第2部 デジタルエコノミーの力学>
④「第4章 希少性という利点」
⑤「第5章 情報処理する有機体としての企業」
⑥「第6章 21世紀のソーシャル・キャピタル」
※第4章ではデジタルエコノミーが否応なく促進させる
人間による労働「力」余剰問題と
時間が経つにつれて次第に利潤(収益)が逓減していく
損益分岐点に着目せざるを得ない企業経営者や
余剰利潤生活可能者(つまりは、超富裕層=第7章に表象されるところの
<1%の人々>)にとって損失発生を可能なかぎり回避するために
採用される戦略論について<希少性>というキーワードでもって
分析考察が進められていきます。
第5章は<社会的>文脈から捉え直した現代企業の本質論に
迫っていきます。
現代企業はいかな「私」企業といえども
<社会的文脈>から離れては決して存続し得ない性格を有しています。
つまり、その企業の社内文化は組織の内外を問わずに
その<社会的文脈>によってその社風が決定づけられるということでも
あります。
その社風の1つに社員への報酬分配方法が含まれることになります。
この第5章では1つの会社企業組織体を構成する様々な「力学」によって
有機的に変化していく模様が分析考察されています。
その変化のあり方次第によって
当該企業組織の社会的地位ひいては利潤回収率も変化していきますから、
企業経営者側の判断も重要度を増していくことになるわけです。
ですから一般社員にとっても「運命共同体」としての
当該企業の経営判断には注目が集まり、
積極的参加も本来なら促進されるはずなのですが・・・。
だいたいのところ社員の交渉力が弱いとされ、
当該企業組織を「運命共同体」とするほどの
強い危機意識が社内各層間で共有されることも
巨大企業になればなるほど意外にも弱くなっていく
逆説もあるらしい・・・という点は先にも触れさせて頂きました。
第6章では<ソーシャル・キャピタル>の重要性について
強調されています。
さて、ここに先程冒頭で予告させて頂いておりました
<ソーシャル・キャピタル>の本書における著者が使用されている
定義について触れておきましょう。
それは『特定の社会的文脈の中でだけ価値を持つ個人の知識』(本書171頁)であり、
同じような行動目的パターンを共有する集団内でのみ通用する
<社会的価値意識>とでもいったようなものであります。
このような<価値意識>を共有し得る社会的組織集団が
現在の資本主義経済の動向をも左右させているといいます。
この<ソーシャル・キャピタル>が果たすそれぞれの社会的文脈における
役割や効果が第6章でのテーマとなっています。
前回ご紹介させて頂きました<人的資本>が純粋な個人的所有物だとするならば、
この<ソーシャル・キャピタル>はその名が示唆しますように
特定の価値意識を共有し得る社会集団内で総有し得るものとも言えましょう。
これまで本書で見てきた観点から、
現代資本主義経済における労働者個人が所有することの可能な<人的資本>も
年々デジタルテクノロジーの進展とともにその値打ちが下がってきています。
そうした傾向にある中でその重要性が注目されてきたのが
この<ソーシャル・キャピタル>という<価値意識>存在であったというわけです。
<ソーシャル・キャピタル>をその定義に即してそれ単体のみを取り出して
論じてみてもはなはだ抽象的でわかりづらい解説になるかと思われますので、
その具体的実像や実際の社会的機能の側面については
本書で紹介されている各事例をご一読されたうえで
そのイメージ像を掴んで頂くほかありません。
その方が誤解される余地も軽減されるでしょうから・・・。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・<第3部 デジタルエコノミーが道を誤るとき>
⑦「第7章 1%の人々限定の場所」
⑧「第8章 ハイパーグローバリゼーションと発展しない世界」
⑨「第9章 長期停滞という厄災」
※ところで第6章で語らせて頂いた<ソーシャル・キャピタル>も
特定の文脈でしか共有し得ない限定価値意識から創出されてくるものだとすれば、
それは長所だけではなく短所も現れ出てくることになりましょう。
そうした具体的実例がこの第7章でのテーマとも重なり合います。
具体的には大都市の特定地域における超富裕層などによる
良質な環境領域の「囲い込み」区域(つまりは、<ゲーテッドシティ>のような
都市生活空間に該当します。本書では218~220頁に当たります。)
この「囲い込み」はそのまま「選別」と「排除」を促す効果があります。
その弊害が次の結語でまとめられています。
『ソーシャル・キャピタルに寄与する人々にとって寄与し続けることが
自分自身の利益になる場合、ソーシャル・キャピタルは充実する。
共同体を構成する人々にとってソーシャル・キャピタルはそれ自体に価値があり、
共同体の経済的可能性をさらに増幅させる。しかしその一方で、
ソーシャル・キャピタルにはレント(管理人注:様々な権益利得のこと。)を
追求する強力な機関を作り出すという面もある。
すなわち、他者を排除することによって共同体の富を守ることを使命の1つと
考える共同体だ。』(本書227頁)と。
第8章では、地球規模の超巨大(ハイパー)グローバリゼーション化によっても
地域によって恩恵を受ける場所とそうでない場所が生み出されていく
「差異」の原因について、<ソーシャル・キャピタル>の概念を使用した
解析がなされています。
現在は地球規模で過大なまでの経済市場に信頼性を委ねる思想哲学が
猛威をふるっています。
「巨大民間企業組織体(経済市場空間)」と
「超大国もしくは超国際的政治組織体(政治的統治空間)」との対立闘争とも
揶揄されるような状況が激しく続いております。
そうした過程で国家そのものの本来的役割も変容を否応なく迫られており
<民営化>志向に傾こうとする政治的動向も
ここ数十年間で急速な勢いで出てきています。
そのために政策立案者も本来の憲法で想定されていた
統治権力機構内に所属し、「選挙」や「三権分立」といった
相互牽制統治技法によって制御可能とされてきた勢力からは
大きく外れてきています。
つまりは、権力の「立憲的」制御も
国民による公式の選出過程を経た「審判」もますます難しくなってきている
由々しき事態が招来されてきております。
要するに、特定の勢力図に有利な政策が通らないように
監視するための制度的歯止めの効き目も薄れてきているということですね。
そのあたりの問題点はすでに前回記事でもお伝えさせて頂いたところです。
そしてこの第8章で残された論点は
デジタルテクノロジーの急激な伸張によって
これまでの国家産業「成長」モデルが想定していた事態とは
大きく異なる経済循環回路が生み出されたことで
新興国が想定していたこれまでの先進国と似たような
安定した成長回路を成立・保持させる手段が
きわめて限られてきたことによる各種弊害事例の紹介であります。
『グローバリゼーション・パラドクス~世界経済の未来を決める3つの道~』
(柴山桂太/大川良文共訳、白水社、2014年)で著名となった
経済学者ダニ・ロドリック氏が主張するところの
『「早すぎる脱工業化」と呼んだ病』(本書242頁)という
現象が現れ出てきているということです。
それではグローバリゼーション化とデジタルテクノロジーの進化がもたらした
世界地域間における「格差(極端な差異化事態)」を緩和させて
ある程度まで「公平(均等)化」させる魔法の杖はあるのでしょうか?
そこに今回の<ソーシャル・キャピタル>問題と移民政策との関連性が
提出されることになります。
詳細は第8章末尾あたり(本書250~251頁)の解説に
委ねさせて頂くことにいたしますが、
簡約すれば、<ソーシャル・キャピタル>基盤の有無によって
世界的「格差」問題が発生しており、
その<ソーシャル・キャピタル>基盤を確立させていくのも
時間的に至難の業なのだから
<ソーシャル・キャピタル>の貧しい場所から豊かな場所へと
自由に人々を移動させればよいとする
「移民」の自由のススメであるようですが、
ここに管理人と著者の大いなる見解の相違点があります。
歴史が示唆するところによれば、
古代ローマ帝国での移民政策実態を始め、
現在進行形で生起している世界各地における
文化的摩擦を重く見るならば
そのような考えも現実の前では軽く一掃されるものと思われるのですが
読者の皆さんはいかがお考えでしょうか?
確かに世界にはいまだに貧しい地域が散在していたり
政治的紛争が続発している1つの背景事情として
「先進国」による「新興国」への搾取形態という
歴史的名残に起因するものもありますから、
その解決責任はもちろんその原因を生み出した「先進国」にあります。
とはいえ、直接的「移民」政策は各国の地域文化事情や
国民風習をあまりにも軽視し過ぎた解決法であり
ある種の劇薬でもあります。
著者は<ソーシャル・キャピタル>基盤を育成していくには
時間がかかりすぎる嫌いがあるため
即効性ある「移民」政策を採用することを促されていますが、
それは同時に「移民」の当該受け入れ国における
「移民」自身による具体的屈従と忍耐の生活努力の困難さをも
軽く見ていることになります。
「移民」自身にとってもこんな苦難の道を歩むくらいなら
自国への投資を促す政策に先進国を誘導し続けることで
やがて母国内で安心して暮らせる基盤をいち早く生み出して欲しいとの
念願の方が強いことでしょう。
それに「移民」によってもそれぞれの考えは多種多様でしょう。
たとえ苦難の道を歩んででも「先進国」への<定住帰化>を望む方も
いらっしゃれば、出来るだけ母国への早期帰国を実現させたいと願う
<一時的滞在>を望まれる方まで幅広くいらっしゃるはずです。
厳しいですが、その「グレーゾーン(<いつまでもどちらの立場にも
属さない宙ぶらりん状態)」ということは
おそらく許容されないことでしょう。
未来における人類が脳裏から「国境」という名の
<縄張り意識>を完全消去できれば話は別ですが・・・。
現状ではビートルズ的な『イマジン』にあるような
世界観はまだ万人には受容されていないからです。
もちろん国や地域によって
「移民」政策に対してどのようなプログラムを
準備しているかにもよりますが・・・。
しかしながら今までの歴史的教訓や世界の受け入れ許容態勢事情から
総合判断いたしますとそのような奇特な国家や地域など
ほぼ壊滅的な現状にありましょう。
第9章は世界的なグローバリゼーション化の影響とともに続く
経済「成長」の長期的停滞が与える各国「内」経済需要へ
「厄災」がもたらされてきた現状分析と
多少でもこの「厄災」を軽減させ得るために採用されるべきだと
著者が考える経済政策案の提示となります。
ここでは著者はあくまでも世界経済の均等化を志向させた
超長期的展望の下で従来の国内向け正統派マクロ経済学の終焉を
説かれていますが(本書271~273頁)、
私たち一般の国「内」生活者の視点からすれば
まずは「短期」的対処法に真剣に取り組むことこそが
肝要であり「各国」政府への要望事項ともなります。
確かに現代の国内経済は
国外経済の影響をたやすく受ける側面があるとはいうものの
国内外間における均等化(極端なグローバル不均衡の是正)は
あくまでも長期的展望に立った緩やかなものでなくては
国内労働者の生活基盤が急速に破壊されていくことになります。
外国からすれば我が国は「ダンピング輸出(現に過度の為替管理政策は
米国から警鐘が鳴らされています)」と見なされていますし、
我が国から見て外国の同様な政策もまた不当措置だと
感じてしまうものです。
こうした世界規模での安売り(不当廉売)競争が続けば
本来なら無用であったはずの政治的摩擦もいや増します。
そのあたりの事情は各国「お互い様」であります。
とするならば、どこかで双方とも折り合うための
「均衡点」が問題となります。
そうとすれば問題は貿易の原点に立ち返った
「互恵」関係の尊重ということになります。
それが二度までの世界大戦を経て共有してきた
歴史的教訓に基づく国際貿易機関の設立理念であったことは
すでに触れ終えました。
いずれにしましても即効性ある理想的解決法は
現実の政治力学ではあり得ませんが、
急激な国内生活基盤の破壊を促す変化だけは
回避させなくてはなりません。
そこで次章からは再び各国「内」経済へと
話題が転換されることになります。
管理人の評価するところ、
次の<第4部>こそが著者の真骨頂だということになりそうです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・<第4部 余剰から繁栄へ>
⑩「第10章 賃上げがなぜ経済的に実現しにくいのか」
※この第10章が『賃金政策面』から分析評価された
先の<雇用のトリレンマ>(第3章、本書90~93頁)とも
連動するテーマ論考となります。
賃金の下方「硬直」性(今ではこの言葉自体が死語であります。)から
下方「移動柔軟」性(といっても生活最低保障ラインは
その時々の諸物価動向次第で吟味されています。そこに最低賃金法などの
政策誘導意図もあるからです。国家自体は直接的な民間給与支払い基準を
強制発動させることは難しくとも、こうした法制度上の政策的措置が
間接的には生活保障となり得ています。憲法第25条があるからです。
この第25条は法学生ならご存じのように
「プログラム規定(単なる努力目標)」だと長らく解釈されてきましたが、
今日のような状況ではもはやこのような人を食ったような解釈など
許される余地はあり得ません。
もしこのような人を食ったような解釈が許容されるならば、
確立された立法措置とともに
司法による救済措置すらない<空白領域問題>につきましては、
私たち1人1人が粘り強く国会への請願活動を続けていくほかありません。
そのような場面では国の経済政策の失政責任を厳しく問うてもいいのです。
それが明文化はされていなくても
自然法でも容認されるだろう<抵抗権>であります。
もっともこの<抵抗権>の具体的行使方法には幅があり、
その理論的裏付けにも多種多様な見解がありましょうが、
ここでは穏やかな「請願権」(日本国憲法第16条)の行使を
とりあえず想定しておきます。
その行使方法に当たっての強弱は
まさしく「国家」と「国民」の
力学相関関係によります。
ですから、テロなどの極端な暴力行使を回避しようとすればするほど
「国家」権力も「国民」に対して寛容にならざるを得ません。
これは右から左までの良心的な法学者や政治学者の
最大公約数的見解でもあると思われるのです。
特に世代間の不公平「格差」状況に関しましては
社会保障制度を実質的に改善させてこなかった「不作為」責任が
間違いなくあります。
単なる「自己責任」論で済ませられるような軽い問題ではないのです。
それが民主政治の実践的プロセスの本質であり
政府の国民に対する立憲的責務だからです。
もう1つは勤労と納税の「義務」規定ばかりが強調されてきた解釈像から
「権利」としての側面も重視していく方向での解釈像も要請される時期に
当たります。残念ながら憲法「改正」論議でも
このような国民生活に直結するような重要議論は軽視されているように
見受けられますが・・・。
これだって立派な「安全保障」論議なのですぞ!!ということです。
管理人などはその意を先に大阪NHKホールに併設された
『大阪歴史博物館』での
その重要性について実感してまいりました。
またいつの時代でも国民生活の安定保障だけは忘れずにの精神は、
『国の死に方』<片山杜秀著、新潮新書、2012年>で
学ばせて頂きました。
この本を読めば実は「平時」も「有事」も連続体であることが
よく理解されます。
なお、片山先生は音楽評論家<主にクラシックがご専門ですが>としても
秀逸な方であります。)
この賃上げが難しい理由は第2章における
<豊かな時代に下がる賃金>(本書78~79頁)と
<好景気でも賃金が上がりにくい理由>(本書79~83頁)でも
簡約されています。
先に引用させて頂きました第2章(本書85頁)とも重なり合いますから
これ以上の言及解説は省略させて頂くことにいたします。
また<生産性向上>の視点も「短期」と「長期」の双方からの
十二分に配慮された議論が要請されるところです。
このところ特に保守派論客の間でこの<生産性向上>論議に
混乱が見られるようですので。
本章冒頭278頁の問題提起は優れた卓見であります。
また人材への教育効果もあまり過大な期待感を持たない方が
良いそうです。
この論点は不必要なまでに教育出費競争を招来させますし、
費用対効果の点でも実際上の能力向上に資するとのデータ結果も
意外にも少ないようです。
単なる「見栄」であることも多く、
現実社会を見渡しても「学歴(肩書き)」の割には
その実力が伴わなくても「出世する人は出世する」し、
「稼ぐ人は稼ぐ」といった事例も数多く見受けられるからです。
また「教育」観をどう捉えるかで人によって多種多様な
教育への期待感が違うからですね。
<人的資本>と捉える人から<知的教養>と捉える方もいますし、
はたまた<人間修養>の素材や場と捉える方など
これまたイメージ「幅」があるからですね。
前にもご紹介させて頂いたロバート・H・フランク博士なども
『幸せとお金の経済学~平均以上でも落ちる人、平均以下でも生き残る人~』
(金森重樹監訳、フォレスト出版、2017年)などで
指摘されていた論点でもありました。
著者はここでもまたもや世界的視点から語られておられますが、
このことは国内に限定させた話題としても当てはまるようです。
あくまでも労働力「余剰」の時代でのことですが。
最後にこの「余剰」問題を解決する際の難点として
<近接性と排除>のトレードオフ問題(本書293~299頁)が
指摘されています。
「トレードオフ」問題とは
「あちらを立てればこちらが立たず」問題を意味しますが、
政治的には<排除>意識の方が先立つ傾向にあると
著者は憂慮されています。
とはいえ、管理人の場合にはこのような問題の立て方をするよりも
もう少し厳密な「割り当て規制」として再設定した方が
より現状に合致した問題意識になるのではないかと思われます。
さすがにあからさまな<排除>は不適切な解決法だとしても
<近接性(つまりは、ある程度の包摂受容可能性)>を
厳しい現場状況に鑑みると
これまた相当な受難が待ち受けていることがすぐにも予想されるからです。
この「移民」に待ち受ける受難問題を軽く見過ごしてしまうことは
むしろ人道上からも許容されないものと思われるからです。
確かに「寛容」な精神が行き届いている環境の方が
「移民」にとってはより望ましく居心地もよいではありましょうが
こうした現実の物理的限界や心理的限界を冷静に加味して
捉え直せばまた違った風景も見えてくるように想像されます。
「では、実際に救済を求めてきた移民をどのように取り扱うべきか?」が
次なる厳しい現実として立ちはだかることになりますが、
国際的な共同管理地域にて緊急避難的に保護する道しか
残されていないのでしょうか?
この問題は管理人自身が仮に「移民」の立場に置かれたら
どう対処すればよいのかと同等の問題でもあります。
「当事者」意識による思考実験であります。
友人ともこの難問を別の角度から語り合っていたことがあるのですが、
私たち日本人の場合には移民文化に馴染んだ経験のある人間の方が
少ないわけですから、ついつい「受け入れ」国側の発想から考えてしまう
傾向にありますが、逆に日本人が「亡国の民」としての「移民」と
不幸なことになってしまった場合、
つまりは今度は出て行く立場となり代わった場合を想定すれば
急に現実味を帯びてきます。
実際に過去の日本にはブラジル移民や満州移民を含め
戦争が原因で取り残されてしまった「残留孤児」問題もあったわけですし、
今なおその後遺症で苦しんでおられる方もいます。
そんな時分にも遭遇すれば、たとえ過去の経緯がどうあったにせよ、
寛大にも受け入れてくれる存在がいてくれることは
本当に有り難い奇跡だと想像されるのです。
これから本格的な「受け入れ」態勢が始まるわけですが、
『受け入れる外国人材はあくまでも「移民」ではありません』との
詭弁的言辞で問題解決を棚上げするのではなく、
こうした現実的な想像力を働かせた総合的判断が
厳しく問われることになります。
それを世界も注視しているわけですから、
来てから「大失敗だった!!」では済まされないわけです。
「移民」政策論を真摯に検討・議論する際には
ここまで細かなシミュレーションを立てなくてはならないのです。
現時点での日本社会の受け入れ態勢から鑑みて
どのような対応をすればより理想的なのか
来年の4月以降すぐといいますから、
もう時間もあまり残されていませんが、
世界の「移民」政策に関する動向なども適宜見極めつつ
出直すことも十二分に一考に価します。
一番最悪な事態は、来年10月以降の消費増税などが
与える国内労働者への雇用労働悪化に由来する
急速かつ深刻な生活侵害事例が多発してきた際に
受け入れた外国人との間で悲劇的対立が生じてくることであります。
もし、警察力でも自衛隊でも治安対策が間に合わなくなった場合に
民間から自ずと自警団のような存在が立ち上がってくるものと
予測もされますが、その時に政府はどう対応すべきか
そこまで考えを煮詰めておかなくてはなりません。
「政治とは決して<綺麗事>で成り立つ営みではない」からですね。
⑪「第11章 労働力余剰時代の政治」
⑫「第12章 人類の富」
※第11章と第12章での話題はすでに何度も繰り返し触れてきました
「分配」論のあり方と政治への具体的働きかけ、
また各自職場における働き方や労働参加のあり方次第ということですので
省略させて頂きます。
本書をまとめますと、あらためて無難かつ安易な即効的解決法など
あり得ないということに尽きます。
とはいうものの管理人自身と著者における具体的な「移民」政策論に関する
見解の相違点はありましたが、
「移民」も「同じ<人間>」であることには変わりない点だけは
共有し得るところであります。
著者も<人間>というカテゴリーを外した
人種や移民といった単なる属性だけで
私たちと「同じ」か「違う」かを判断する視点は頂けないと
警鐘を鳴らされていますが同感いたします。
制度をあらたに創設するにせよ廃止するにせよ
十二分な思慮深さが要請されることも強調されています。
(本書第12章339頁ご参照のこと。)
そして最後は社会は私たち1人1人の個人単体で
成り立っているわけではないという当たり前の事実にも
立ちかえること。
そして、恵まれた社会的条件に出会えた者ならば
常に感謝の気持ちを忘れないこと。
この<偶然の好運や幸福>といったキーワードは
これからの勤労(勤勉)観を考えるうえでも重要な論点となりそうです。
また人間には本当に「自由意志」が備わっていて、
完全に純然たる「個性」を所有することが出来ているのだろうか・・・と。
管理人も皆さんにもそれぞれ「個性」がありましょうし、
政治観や経済観、その他様々な世界観や人間観もお持ちでありましょう。
とはいえ、そうした「個性」の偏りも
もしかしたら様々な「因果(仏教的世界観での表現ならば<縁起>ということに
なりましょうか?)」で複雑に成り立っていて
その因果のうちたまたま強く自分の気質に応じたものを
選び取っているだけにすぎないのかもしれません。
こんなことを語れば人間の「固有性」をお前は軽視しているのかと
誤解されるかもしれませんが、
人類を宇宙史や生物史の流れの中で見つめ直すと
もともとは共通の始祖から誕生し、
それぞれに分岐していったといいます。
ひょっとすれば共通の始祖ではなく、
まったく別々の「星々」から分かれて
やってきた存在なのかもしれませんが、
それはまだ最先端の学問でも「謎」に満ちています。
それでもこの狭い地球上で御身互いに
不都合なことも多々あれど
「共進化」しながらここまで辿り着いてきたことだけは
間違いありません。
そうでなければ、今この場に居合わすこともあり得なかったことでしょうから・・・。
そんなことまで本書を読み解きながら
想像の翼を広げていました。
『美しい星』(三島由紀夫著)とも重なり合うテーマですが・・・。
また今回の本書評記事創作に取りかかるうえで
あらためて井上智洋先生のご著作を読み返していましたが、
『「努力する能力」を授かったこと自体が運の賜物だということだ。』
(『AI時代の新・ベーシックインカム論』光文社新書、2018年初版第1刷、
<はじめに>4頁ご参照のこと。)というお言葉を肝に銘じながら
今後とも自分なりに出来る社会貢献を
無理のない範囲で勤しんでいこうと思います。
無理をしないためにも
皆さん、やはり心の糧となってくれる仲間というのは
得難き貴重な存在であります。
「みんな、本当にいつもありがとうね。」
「皆さん、世の中は一見暗く見えるにしても、
すべては<心(認識のあり方)>次第で周囲の景色も
大きく変化していくのだ」といいます。
それでは今回の書評課題はこれにて閉幕させて頂くことにいたします。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・<エピローグ>
・<謝辞>
・<参考文献/注>
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<キャッシュレス経済誘導政策論とデジタルエコノミー>の関係序論~そして今年もたくさんの出会いに感謝・感激・雛あられです♪♪~
それではここからは気分転換も兼ねて
前回果たせなかったお約束を最後の1日にかけてやり遂げてみましょう。
今回のテーマは音楽を介したあらたな出会いがテーマですが、
その話題に入る前に若干程度
今月冒頭に京都で行われた<キャッシュレス経済のゆくえ>論について
語り合った内容などを素材に書評記事冒頭でお約束していた
宿題を終わらせてから本格的なエッセーコーナーへと
少しずつ歩を進めていくことにいたしましょう。
今月1日には数ヶ月に1度の割合で
有志とともに<ベーシックインカム>に関する
略して<BI読書会>を開催してきたところ、
当方での<ベーシックインカム>に関する学習会はすでに一巡してしまい
巷に散在する特色ある関連話題書のネタも尽き果てたという段階で
通常とは少し企画を変えた討論・対話座談会のようなものに
参加してきました。
お題は『消費増税とキャッシュレス化のゆくえ』であります。
先の書評記事内でも予告していましたように
消費増税と引き換えの軽減税率(景況悪化対策論)に絡ませた
キャッシュレス経済社会への誘導移行論がにわかに脚光を浴びてきました。
とはいえ、普段クレジットカードやカード決済(イコカなど含む)など
一切使用せずにそもそも「信用」取引的な決済手段には
幼い頃から不信感を極度に抱いてきた人種からすれば
「唐突」な感じというのか、
ある種の拒絶反応(衝撃)を受けたのでした。
経済論議に親しんできた者からすれば
こんなキャッシュレス経済社会ごときで驚くこともないのかもしれませんが、
クレジットカードなる響きには「信用」という名前の裏側にある
<もやもやとしたもの>に何か不信感を感受するからであります。
また昔の仕事柄からいわゆる多重債務者問題にも
一定程度は通じてきたことから
その仕組みにもあまりいい思い出がなかったからですね。
だいたい「査定」という響きも嫌いですし、
別段後ろめたい経済取引をするわけでもないのですが、
取引履歴に宿るプライバシー情報が
どこか見知らぬ領域でこれまた取引対象とされていることも
想像すれば一抹の気持ち悪さを覚えるからです。
そんなわけで管理人は超保守的な金銭感覚なのか
今でも「現金」取引を重視します。
このあたりの貨幣「観」を巡っては昔から
保守派(現金派)と革新派(脱現金派)とのあいだで
たとえば金本位制を巡っての激しい攻防戦も
すでに数世紀をまたいで続いてきておりますが、
必ずしも「金」などの実物資産に担保(裏打ち)された経済取引に
限定さえしておれば世界経済の安定に資することが出来たのかどうかは
今となってはわかりません。
しかも現金派(この場合は数量に限定ある金銀プラチナなどの
超希少性ある<実物>資産でありますが・・・)だけの
意見が通りすぎていたら
今日のような豊かな経済「成長」も取引促進もあり得なかったのかも
しれませんね。
実物(現金)重視の「保守」派の中にも多種多様な方が
おられるかと思いますが、
ここではすでに金持ちであることを想定して
金持ちないしは「持てる」富裕層の方で
こうした実物資産に極度に安心感というのか
偏愛される方に対しては
趣味の問題ですから
個別に特定の人間をあげつらって批判することはいたしませんが、
どうも管理人には異常なまでに<ロハス>や<ミニマムライフ>を
宣伝される芸能人を始めとするセレブ有名人を
どうしてもイメージしてしまうのです。
されどもこの生活「観」が
生活に余裕のない一般民衆の生活時空間にまで
忍び込みすぎてしまえば
極度の耐乏生活を強いられてしまうのです。
このあたり極度に江戸時代や超太古の暮らしぶりを
理想視されている論者にも不信感を覚えるところです。
そんな時代を見たこともなく
実際に暮らして体験したこともないのに
なぜ「理想的」だと思われるのか?
「管理人には、まっこと不思議!!」です。
そりゃ、その時代に
もしタイムワープして
現在の価値観も消去できるような
文字通りの「洗脳」マシンがあったとしてですよ、
そうした機械(まさしく近未来のVR機器のことか!?)によって
「洗脳」儀礼を済ませた後に
過去に時空間移動を果たせば
その時代の「フレームワーク」に完全没入できますから
もしかしたら理想的快適感を味わえるのかもしれませんが、
それでもあくまでこれは架空の「思考実験」上での
空想物語であります。
それで話題を現在の<信用(創造)制度>と貨幣観、
<キャッシュレス経済>に戻しますと・・・。
おそらくこの争いの根源には実物資産か非実物資産のどちらを
より重視していくべきかの問題よりも
<信用創造制度>にまつわる統治主体への不信感や
より民主化することを通じて一般民衆の生活不安や
その侵害への防波堤をいかに構築していくべきかのイメージ像や
見解の相違に由来する問題意識の方により力点が置かれていたのだと
考えています。
そのイメージ像や思想哲学については
管理人もまったく同感でこの<信用創造>によって生み出された
それこそ「余剰」利得分を国民に遍く配当していく
いわゆる簡易版ベーシックインカム制度というのか
<国民配当>制度の実現へ向けた取り組みの方が
狭義のベーシックインカム制度の実現よりもしやすいのかもしれません。
とはいえ、現実の財務省(+国税庁)と日本銀行とのあいだでの
激しい攻防戦に加えて政財界など各界の思惑が複雑に絡んできた
歴史的経緯と現状がありますからこれまたハードルが高いことは
論を待たないところでもありましょう。
いかにして経済(制度)の民主化を図るべきかは
当書評ブログでも隠れた大きなテーマの1つでもありますが
こうした経済制度論や経済政策論、はたまた経済観の背景をなす
イメージ像や思想哲学観につきましては
まだまだ一般国民の知的共有財産となり得ていないのが
残念ながら現状であります。
だからこそ管理人も仲間とともに勉強を積み重ねながら
ここから知り得たことなどを積極的に発信していかなくてはなりません。
なお、この<信用創造>制度の仕組みや
今後どのような志向性でもって改革していけば
より望ましいのかにまつわる諸論点や論考につきましては、
たびたびご紹介もさせて頂いてきました
井上智洋氏による先にご紹介させて頂きました
『AI時代の新・ベーシックインカム論』(光文社新書、2018年初版第1刷)の
<第3章 貨幣制度改革とベーシックインカム>に
より詳細かつ経済学に明るくない一般読書人層にも
類書にはあまり見られない比較的わかりやすい部類に属する
解説がなされているのではないかと評価しております。
またまた若干話が逸れますが、
たまたま先々週末あたりに奈良の<ならまち もちいど商店街>にある
とある行きつけの日本酒取扱店(試飲しながら奈良の地酒が購入できます。)で
これまた知り合った若い方がたまたまベーシックインカムのことを
語っておられたので管理人も興味ある話題でしたので
耳を傾けながら聴いていて、
その後の二次会にも数人と近くの穴場だという飲み屋を
ご紹介頂きご一緒に参加させて頂いたのですが、
この方も井上先生の上掲書にかなりのご興味ご関心を
もって読まれたそうで、
「で、いったいお兄さんはこの本のどの章が一番面白かったの?」と
陰ながらのマーケットリサーチャー的「助っ人」のような役割で
お聞かせ願ったのでしたが、
やはり<第5章 政治経済思想とベーシックインカム>に
異色感を見出されたようで通常のお堅い思想哲学書や
何かの政治団体や政治思想家の語るような
イデオロギー的違和感を感じなかったので
一般人にとっても非常にわかりやすかったし、
「読後感も爽やかだった!!(大意)」と
語られていました。
市井の若者にもこうした隠れたところに
優れた慧眼の士がいるものです。
日本と次世代若者による「夜明け」に希望を感じた
ほっとしたひとときでありました。
こうした幸せな出会いがあるからこそ、
「1人旅(と言うよりも1人ぶら=ぶらぶら散策のこと。)」は
やめられないのですね。
すっかり吉田類さん化してしまっている管理人でした。
さて閑話休題。
また話題を<キャッシュレス経済>に転じますね。
その場での直接的「見える化」決済に安心感と魅力を覚えるわけですね。
こんな「時代遅れ」の管理人ですが、
この年末についに掃除機購入のついでに
日頃親しませて頂いてきたある家電量販店のポイントカードと
クレジットカード引き換えの機会とも重なり合ったことから
このキャッシュレス経済社会にいずれ対応せざるを得なくなるのであれば
持っていてもこの先「不便」になることはないだろうとの決断から
生まれて初めて「審査」書類に必要事項を記入してきました。
とはいえ、社会的身分は不安定な派遣社員のために
果たして無事に「審査」とやらは通るのだろうかと
疑念が続いています。
まぁ、通らなくても経済生活に支障がない限り
どうということはなさそうですが、
今後の政府の想定案では「現金」決済に応じる者には
不利な措置を課すような志向性がちらほらと見え隠れしているようですから
やはり不満と不信の念が多々あります。
このあたりのたとえば不安定就労者への新規カード申込み手続き面での
「審査」上の不利な取り扱いなど生じてこないのでしょうか?
(ちなみに、「審査」面でご心配されている方向けには
デビットカードなどもあるようですよ。
また最近ではQRコード決済なる手法もスマートフォンなどの
普及とともに徐々に増加しつつあるともいいます。
このあたりのキャッシュレス経済へ向けられた取り組みや
制度的問題点などは管理人もまだまだ勉強不足のことが
ございますので今後とも情報収集とともに研鑽を重ねつつ
追々この場でもご紹介させて頂くことにいたしますね。
平成31<2019>年1月7日月曜日追記)
そういった場面における政府による救済措置はあるのでしょうか?
どうも現在のキャッシュレス経済移行化論には
「持てる者」からの余剰資金の吸い出しに伴う
「持たざる」生活困窮者までそのとばっちりを食らうようにしか
思われないのです。
後は「ビッグデータ」収集に伴うプライバシー侵害問題でしょうか?
何も極端な「陰謀論」的事態を想定し過ぎているわけではありませんが、
どうもその背景事情に怪しさ(胡散臭さ)や危うさを
本能的に嗅ぎ分けるのは管理人だけなのでしょうか?
皆さんは現時点でこのキャッシュレス経済社会移行論について
どのように思われますか?
人間という存在は管理人の皮膚感覚では
「目に見えない」存在に脆弱性があるようです。
だからこそ、何かに偏愛したりすがりつこうとする
いわば「物象化」というのか「物神化」というのか
「物質(可視化物体)崇拝現象」に傾くのでしょう。
そのように感受されるわけですね。
人間の記憶容量(記憶喚起時間)には一定の限界があるとも言われていますから
こうした個々の取引で流出させた金額も
きちんと会計管理をしていないといずれ使途不明金が出てくることになり、
家計管理にも難が生じてくることにもなりましょう。
現に多重債務者と言われる方々はそのような深刻な病理現象に
巻き込まれていった犠牲者でもあるからです。
そんなのは多重債務者という特異な精神病理を抱え込んでしまった
人々の話であって「健常な」生活者にはそもそも無関係な世界の話だと
言われるのであれば、それは「偏見」であります。
そもそも管理人には「健常者」と「障がい者」を区別する分水嶺が
理解できません。
確かに目に見える「障がい」を抱えた方もいますが、
「障がい」そのもので人間を蔑視・選別・排除しようとする姿勢には
子供の頃から相当な嫌悪感を覚えてきた性格でもあるからです。
人間は誰しもいずれ身心ともに衰えゆく存在ですし、
何がきっかけで「障がい」を得るかもわからないのです。
そうした謙虚さや想像力が足りない方とは
正直「馬が合わない」ことでしょう。
そうした貧しさは「オタク(もはや死語でもあるようですが・・・)」と
レッテルでもって即座に偏見の目をもって反応する方にも
当てはまるようです。
管理人などは「オタク」と言ってはまさしく失礼になりますが、
何か特殊なこだわりというのか偏愛趣味を持っている方は
それが特に社会的変質(犯罪)趣味(行為)にまで突き進む
文字通りの異常性がない限りは
むしろ今時の冷めた感覚を持った大人が増殖していっている中では
微笑ましい存在に思えてきます。
それは何かに熱中したことがあるほどの方であれば
きっと共感して下さることと信じています。
「学問」もある意味「オタク」趣味の1種ですし、
何かの芸能や創作活動に従事されておられる方も同好の士でありましょうから。
きっとその「心」というのか「魂」を感受できる方だと信じています。
話がどんどん変な方向に逸れていっています。
話題をキャッシュレス経済論へと戻します。
このキャッシュレス経済移行化論の背景には
このような不透明さが感受されますから
もう一つ信用が出来ないということでした。
「現金」に代えて「キャッシュレス」決済が促進されていけば
「便利なことこの上なし」とは宣伝されているわけですが、
民間企業でも相次ぐ個人情報流出事件が多発していたり、
すべてを電子決済に切り換えることも「キャッシュレス化」に
当たると考えられるわけですが、例えば「仮想通貨(ビットコインなど。
つい最近になって<暗号資産>なる名称変更もなされたそうですが・・・)」に
おいても
すでに「流出(資産剥奪あるいは盗難??)」事件が多発していたわけですから
おいそれと政府が「キャッシュレス経済」への
誘導移行論を唱えだしても俄に信じがたいものがあります。
それがまだまともな皮膚感覚というのか知的感覚を
有する者の見方でありましょう。
ですから、政府が「便利ですから・・・」という宣伝文句には
警戒感を抱かなくてはならないのです。
現在放映中のNHK朝ドラ『まんぷく』での
GHQ占領下の日本政府の一部局であった国税当局の行動パターンを見ても
それは推測されるというものです。
官僚の行動パターンはいつの時代も変わらないのです。
キャッシュレス経済社会への誘導移行論はこのあたりで止めておきましょう。
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ここからは新春「夢語り」と明るく笑いながらいこうじゃあ~りませんか。
朝ドラの話題に触れたついでになりますが、
たまたま出演することになられた
管理人の敬愛するイッセー尾形さんには
「乾杯!!」であります。
相変わらずいい味を出していますねぇ~。
あの「1人ボケ1人ツッコミ」の芸風は
管理人の創作活動でも見習いたいものです。
孤独な中で1人独特な芸風を磨き上げてこられた
役者さんだからこそ
「ちょい役」で出てきても不思議と存在感や魅力が醸し出されるのでしょう。
いつもあの芸風に出会えば1人思わず「爆笑」してしまいます。
これまた「爆笑」ついでの話題で脱線してしまいますが、
昭和から平成にかけての名番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』
における若き日の志村けんさんの芸をたまたまこの年末にユーチューブで
視聴していた時にも「爆笑」してしまいました。
志村氏が新興宗教『だいじょうぶだぁ教(なんじゃそりゃ、笑)』の
教祖の姿をして
例の『だいじょうぶだぁ~』とヘンテコな太鼓で叩いて
「お念仏??」を唱えるシーンがあるのですが、
あの時の感覚がイッセー尾形さんの芸風にも感じられて
「爆笑」が誘発されるわけですね。
まぁ、あの頃が小学生時分に感じたバブル経済とやらの
乱痴気騒ぎの雰囲気だったのでしょうか?
今から振り返れば、つくづく大人の世界も
『だいじょうぶかぁ~、ウェッ、ウワッ、ウオッ(爆笑)』の世界だったのですね。
そりゃ、平成の無責任(テキトー)男の異名をとる高田純次氏の芸風も
流行ったわけだ。
『24時間戦えますか♪♪』だとか
『5時から男の○○♪♪』といったテレビコマーシャルも
いまだに口ずさめますから宣伝文句とは
実に恐ろしいものですね。
この『だいじょうぶだぁ~』を昭和から平成にかけての転換期を
象徴する表現だとすれば、
江戸幕末期から明治にかけての『ええじゃないか♪♪ ええじゃないか♪♪』とも
なぜか響き合うようです。
それではこの平成から新元号にかけては
どんなかけ声に象徴されるのでしょうか?
「・・・、・・・」ということで
もはや馬鹿馬鹿しくて出てこないようです。
元号が変わる節目の時期に不謹慎であることは百も承知でありますが
この世相を見て真面目に問題提起しても
年々歳々反応が薄くなる大人の幼稚性(知的関心度の劣化)が
目立ってきていることを思えば正直深刻かつ憂鬱な気持ちになり
悲しくもなるというものです。
とはいえ、今からが本当の日本開闢以来の「正念場」ですから
しっかりと「おかしいことにはおかしい!!」と
断言できる勇気と理論武装を「心」ある読者の皆様とともに
磨き上げていかなくては
いよいよこの国も危うくなります。
ますますもって先人への想いを強く持たなくてはならない時期が
近づいてきています。
「<喜怒哀楽>感情は素直に表現した方が
精神衛生上もよろしいらしいぜぇ~。」
そんな微かな声も草場の陰から聞こえてくる深夜になってきておりますが、
「忖度」などといった変な美徳意識感情は捨てましょう。
曖昧さは確かに日本文化の良き「心」でもあるのですが、
私たちの日々の生活に直結してくる重要問題が
政治の場で議論されている時には明確な意思表示を示した方が
日本と次世代の日本人のためにもなります。
いや、事は日本と日本人だけに限ったことではなく
このまま軽い感覚で政治を進められていけば
近隣諸国にも多大な迷惑をかけてしまうことにもなりかねません。
国内外問わずに「是は是、非は非」と適切かつ精確な事実認識に
基づいた意思表示ももちろん忘れてはなりません。
そのためには社会人からの生涯学習こそが
本番なのです。
「学歴」や「肩書き」など捨てましょう。
どうせ未曾有の「有事」には一兵卒として戦わざるを得ないのですから。
事は私たち1人1人の独立基盤への危険が差し迫っているわけですから・・・。
1人の<人間>としてこの世界的な困難な時期を乗り切らなくてはなりません。
そのようにこれまた12月8日に有志の友人知人とともに
とある講演会にも参加させて頂いたわけですが、
そこでも有名な講演者の方が
こうした時期だからこそ
・「仲間を作ることの大切さ」
あとものすごく印象に残ったのが
・「何も政治など時事問題のような硬派な話題でなくてもいいから
身近な恋愛相談からもっとざっくばらんな日々の生活の苦楽を
分かち合える話題でもいいじゃありませんか・・・。
そんな話題を<肴(さかな)>にして気軽に語り合える仲間や
友人をたくさん作ろうじゃありませんか・・・。
なぜなら、孤立感が人間の精神を荒ませ社会的にも自暴自棄からの
暴走を招くことにもつながるからです。(大意)」と
呼びかけられていたことがありました。
これなどはまさに同感。
<人間>精神を荒廃させた者は社会的「暴徒」へと
最後は追い込まれてしまうこともあるからです。
いわゆる単なるアトム(原子=バラバラ)化した「大衆」と
成り果ててしまいます。
(精神病理学者でもあった哲学者カール・ヤスパース博士も
そのように論じられています。)
こうした話題を傾聴しながら
管理人などは心中に
「人間ならまだまだ性根が腐ってはいかん!!」と決意もあらたに
「天」と「同志」に誓ったのでした。
こうした想いが日々強まってきていますから
ロスジェネ世代として散々苦労してきた(今も卑屈感にある)管理人などは
ここで踏みとどまって次世代のためにも「架け橋」を作り直す
誠に尊い「仕事」や「活動」に従事し続けなくてはなりません。
「意欲」を良き方向に転じるためには
何かの創作活動で高次元へと昇華させるのが
精神衛生上もよいそうですよ。
皆さんもマイナスエネルギーに犯された時には
是非試してみて下さい。
そのための『アイデア』(星野源)も
これからも当ブログから発信していきますね。
これはもはや「ライフワーク」の一環<事業>でもあります。
この崇高な想いは決して日々の<なりわい>賃金労働だけでは
味わえない境地であります。
この「仕事」や「活動」そのものは
ベーシックインカムがあろうがなかろうが
やり遂げていかなくてはならない課題なのです。
少なくとも私たちのようなロスジェネ世代にとっては・・・。
『正しい恨みの晴らし方(新世紀版仇討ち)』
(中野信子女史)でもあります。
もっともベーシックインカムがあれば
やるべきまたは本当に人生を通じてやり遂げたいと願う
「仕事」や「活動」にもっと貴重な時間を割くことが叶うわけですが、
これは贅沢な相談ですから控えておきましょう。
とはいえ、そんな熱意をもった「魁(さきがけ)」や「前衛」になろうと
身を捧げる人間とはそのような美意識に支えられた存在でありましょう。
「志」とは「士(サムライ)」の「心」と書きます。
その「志」を今生の中で持てたことこそ
<人間>としての誇りでもあります。
「果報者」とはこのような美意識に支えられた存在を指して
言うのでしょう。
それはもはや「へヴィメタル」な精神とも通底するようですね。
今年最大の出会いと言っても過言ではないアーティストにも出会えたことは
誠に幸せな出来事でありました。
去る11月23日の祝日にある方とのご縁がきっかけで
初めての念願だった大阪西九条にある
『西九条ブランニュー』で開催されたへヴィメタルライブコンサートに
出かけることが叶ったのです。
そのライブイベント企画とは、
『IRON BOUND VOL.27』と言いますから
もうかれこれ30回近く繰り返し開催されてきたイベントなのでしょうか?
そこに導かれたというわけですね。
この『西九条ブランニュー』とは
音楽アーティストにとっては名門中の名門。
管理人の敬愛する妖怪へヴィメタルバンド陰陽座さんも
ここからメジャーデビューして羽ばたいていかれました。
そのほかにも今や日本を代表する超有名アーティストさんも
無名時代はこのライブハウスを1つの登龍門(通過点)として
演奏技術(話術も!?)磨き上げられたうえで
羽ばたいていかれた舞台に当たります。
この時に演奏されていたバンド数は6組あったわけですが、
すべての方をご紹介することもその詳細を知りませんので
この場ではご縁を頂いた方を中心にご紹介させて頂くことにいたしますね。
それはまずはこの『西九条ブランニュー』へと誘ってくれる
直接的なきっかけを頂けた
『メランコリック ロックバンド kyanos(キュアノス)』の
ボーカリスト兼絵師でもいらっしゃる宮城愛様であります。
この方とはたまたま管理人が崇敬する天王寺茶臼山にある
『堀越神社』を詣でた後、阿倍野方向へと帰ろうとしていた矢先に
いつも時間があれば寄らせて頂く<茶臼山画廊>さんとも違う
小さなミニギャラリーが隣の某専門学校の横にある
雑居ビル??の一画にありまして、
そのビルの入り口になぜか興味を惹かせるような
看板が出ていましたので、
なぜか吸い込まれるように入っていった先で
出会うことになったのでした。
「こんなところにミニギャラリーってあったっけ・・・。」という
ような好奇心溢れる感覚で。
そしたら不思議な時空間に迷い込んだようで
宝塚風というのかご本人はOSK日本歌劇団のファンだと
おっしゃられていたのですが、
そうした独特な関西歌劇団風の
力強くも可憐な絵画が目に入ってきたので
ゆっくりと堪能させて頂いたのでした。
OSK日本歌劇団と言えば、昔よく遊びに連れて行ってもろた
今は無き『あやめいけ遊園地』の一画にあったのを覚えています。
また真田幸村を演じられていた某女優さんのイメージも強くありました。
ちなみに近くにある『安居神社』の境内にも
このOSK日本歌劇団に関するポスターが貼ってあったことがあるので
よく記憶に焼き付けられていたというわけです。
さらなる余談ですが、
『堀越神社』は最強のパワースポットですよ。
管理人も何度も『ひと夢祈願』どころか
無数の『夢(志)』祈願を叶えさせてもろてます。
この神社の魅力は何と言っても
遠路はるばると熊野三山参詣まで行けなくても
熊野の神様に祈願することが叶うことです。
さらに出羽三山にも。
『祝 <なまはげ>ユネスコ無形文化遺産登録決定』
『<異界からのまれびと>なまはげ』(人間椅子)でもあります。
ほかにも『白龍さん』、『黒龍さん』、
『ちんたく(鎮宅霊符神=北辰妙見信仰=天御中主神)さん』や
『かえる(石)さん』までおられます。
さらに奥には『茶臼山稲荷さん』がおられます。
現宮司様も芸能に多大なご関心をお持ちで
過去にも境内で数々の芸能にまつわるイベントを
開催しておられました。
本当に大都会の一画に
こんなにも「清々しい」時空間があるとは・・・。
本当に有り難いことですね。
ギャラリーに戻りましょう。
するとこの方に話しかけられて
「どんな感想でしたか?」と聞かれて
当方も談笑させて頂いているうちに
「実は私は某へヴィメタルバンドのボーカルも
やっているんですよ・・・」とおっしゃられるじゃないですか。
そして
「次のライブは大阪の『西九条ブランニュー』ってとこでやるんで、
ご興味あるんでしたら是非1度遊びにいらして下さいね(ニコニコ)」と
おっしゃられたのでした。
確かにこのギャラリーには先程来から
何か心の琴線に響くような旋律の
<ゴシックメタル>風な曲が流れているなぁ~と
思っていた矢先のことでもあったのです。
その音楽性に惹かれたことと
もちろん絵師としての才能にも惹かれ、
『「西九条ブランニュー」!?』ってところにも
惹かれていくうちに、
たまたま8月末に『人間椅子』さんを
9月冒頭に我らが『陰陽座』さんを観覧させて頂いた直後の
ギャラリー訪問だったこともあって、
そうした<へヴィメタル>ネタの話題にも
花を咲かせて頂いた後
上記『メランコリック ロックバンド kyanos(キュアノス)』さんの
ミニアルバムと図録を購入させて頂くことに・・・。
そこからのご縁ということになります。
そして日取りが適合した先月23日を迎えることに・・・。
この日にある上記『西九条ブランニュー』でのライブ開場・開演時間は
17時以後なので、
時間を見計らいながら、
ちょうどその日には
お世話になっている
大阪谷町にあるすでにご紹介もさせて頂きました
『隆祥館書店』さんでのトークライブも開催されるとのことで
事前申込みを済ませていたそのイベントに2度目の参加を。
明智光秀の民間研究者であり
ご自身も何らかのゆかりがあるのではと自称されている
(ご本人も系譜的には本当のところはよくわからないのですが・・・と
少し躊躇いがちに自己紹介をなされていたのですが)
明智憲三郎氏の新刊トークライブイベントに
時間が許すまで参加させて頂いておりました。
ちょうど再来年のNHK大河ドラマは
この明智光秀公が主人公の『麒麟がくる』。
明智光秀公役に朝ドラ『まんぷく』の
「まんぺーさん」役の長谷川博己さんというのも奇縁。
別に無理に合わせているわけではないのですが、
こうした連想ゲーム??的な不思議なご縁というのか、
まさしく、奇縁が続発しているのです。
そうした観点から人間関係を分析観察してみるのも
面白いものです。
管理人も『縁切り 縁結び』の研究をしてみようかな・・・。
何か朝ドラのイッセー尾形さん演じる
「インチキ」占い師みたいになってしまいそうですが。
それはともかく何か不思議な因縁が
この大宇宙・大霊界には働いていそうです。
話の内容は書店や著者の著作権なども絡み、
途中退席いたしましたから控えさせて頂きますが、
これまたご紹介させて頂いた滋賀県の坂本にある
明智光秀公ゆかりの『西教寺』さんとも関係がある
『明智光秀公顕彰会』とも
かなり異なる見解をお持ちであることは
1つの歴史愛好者としての収穫だったかと。
『顕彰』会になりますと確かに
明智光秀公の「光」、
つまりは、「肯定的」側面がどうしても全面的に出てしまいがちですから、
その「影」の側面にも注目しながら
客観的・公平な視点を持つことが
歴史観形成や歴史(人物)研究には必要だとのこと。
勉強になります。
とはいえ、最近出た某新書でも「悪役」的側面を
全面的に押し出した内容の本が出ていましたが、
書店でぱらぱらと立ち読みしながら
初見で感じた第一印象は
「そりゃ、この人が生きていたのは戦国乱世でしょうが・・・」
この時代に生き抜こうとすれば、
ましてや「一族郎党」をまとめる
今ならさしずめ「大企業」の総領の立場にあるのが
戦国大名だとすれば
「何を今更。そんなの当たり前じゃないか!!」
「今の価値観で過去を見る視点こそ一見客観性を装っているようで、
実はもっとも不公平な見方ではないか・・・」と感受しました。
それにこの時代の「覇道か王道か」も常に揺れ動いていますし、
各人各様のそれぞれにイメージする「観」もそりゃ違うでしょうよ。
なぜならば、日々管理人も文筆業務に勤しませて頂いている過程で
言葉の語感や文章のつながり(流れ、英語ではいわゆるコロケーションですね。)に
悩みながら、
「どうすれば皆さんに誤解なく最大限の<想い>が伝わるだろうか?」と
常に胸の内が揺れ動いていますから、
むしろそうした「観」の成り立ち過程にこそ
興味関心もいくわけですね。
これこそ、私たち<人間>と<人工知能=デジタルテクノロジー>との
大きな分岐点でもありましょう。
特にネット上の目に見えない不特定多数を読者の対象に選んで
語り綴っている時にはその「匿名」度合も強まりますから
より慎重になりますし、むしろ反応が見えにくいだけに
普通は恐ろしく感じるはずでしょう。
だからこそ、管理人もリアル社会における目に見える「実名」での
対面的直接対話の時空間を大切にしています。
「実名」のリアル時空間でも感情がもつれたり、
相互誤解のために言葉遣いを間違えれば
大変な事態に遭遇いたします。
さはされども、人間はそもそも感情に揺れ動く
「情動性」生物ですから、こうした相互誤解に基づく
対立や喧嘩を恐れて優等生型の無難な振る舞い方をしているだけでは
<人間>の崇高さについぞ気づくきっかけすら掴めません。
今回のブログ記事創作に当たっても
友人知人に「生命エネルギー(活力)」をお裾分けして頂くために
各種ブログやSNS記事を事前準備体操も兼ねて読ませて頂いていたのですが、
昨今多くのSNSユーザーのあいだでその「SNS疲れ」が横行しているとも
漏れ伝え聞くところです。
そんな折りに日頃ご縁を頂いているミュージシャンでもある
友人のブログを拝読させて頂いているうちに
管理人も何か「応援せなあかんなぁ~」と思いながら、
そこでの問題意識に触発されて
この場で今その暫定的回答をさせて頂いております。
この友人だけではなく今多くの「SNS疲れ」や「SNSいじめ」に
遭遇して心傷つかれた方向けに真剣に愛情を込めて
語り綴らせて頂いております。
『イジメ、ダメ、ゼッタイ!!』(BABY METAL=ベビーメタル)ですね。
ですから、このような目に遭われた方も
「絶対に諦めないで下さいね!!」
管理人などはそもそも少ない文字数で「つぶやく」程度の
コミュニケーション手法では本当にその「想い」を届かせることは
難しかろうと考えて、友人知人にもSNS(ツイッター、フェイスブック、
最近はインスタグラムという媒体も大流行のようですが・・・などなど)も
駆使すればもっと活躍できる場が拡張されるのではと勧められたりしたことも
あるのですが、明確なコミュニケーションポリシーというものが
あるので、今もこのブログ一本槍で頑張っております。
いまどき本(長い活字媒体)をじっくりと読み味わう時間もない
まさに「ビジネス」な時代ですが、
最後の最後はやはり言葉への信頼感がなくては
<人間>を廃業せざるを得ません。
そのように敬愛する三島由紀夫氏の文体から
学び続けております。
名作『青の時代』に出てくるような
何でもかんでも理詰めで世間を斜めに見るような
シニカル(冷笑的)にしてネガティブニヒリスト(否定=消極的
虚無主義者)や単なる否定感情をゴミ捨てのような感覚で
世間に投げ捨てるようなルサンチマンダーにはなりたくありませんからね。
『命売ります』ではなく『命燃やします』派です。
管理人は。
まるで米国のロックバンド『ドリームシアター』さんの
アルバムジャケットに描かれた
<ハート(愛)が燃えている絵>のように生きたい(逝きたい)ですね。
「ロックな」生き方とはそんな感覚ではないでしょうか?
ですから、たとえ長文作家の場合には
しばしば「装飾的」だなぁと揶揄されることもあるかもしれませんが、
(ちなみに必ずしも「装飾的」とは侮蔑的な否定ニュアンスだけが
込められているわけでもないでしょう。そもそも日本語や日本文化とは
<言霊の幸はふ国>でありますから、「形容過多」「装飾的」に
なりがちです。それはもはや私たちの文化なんですから善し悪しを
超えた評価がある世界ですよね。日本人作家さんならば
きっと腑に落ちるものと信じております。
そんな意味で若手作家さんの中でも日本語と日本文化の本質を
窮め尽くそうと必死にもがきながら創作活動に携わっておられる方には
敬愛の念を抱きます。音楽関係のアーティストさんでも同じでしょう。)
「やむにやまれぬ<大和魂>」(吉田松陰)でありましょう。
「すべての創作活動の源泉には魂が迸る<情念>ちゅうもんが
あるのではおまへんか・・・」(河内丸菜っぱ=この場での管理人の暫定的芸名)
なんか宮武外骨さんや中江兆民さんの文体に親しませて頂いているうちに
「うちの頭おかしゅうなってきておりまっ!!」
まだ呑んでへんので素面で仕事を続けていますが・・・。
まぁ、年末くらい「笑い」ましょうよ、大いに。
先程の歴史(人物)評価談義に戻ります。
管理人にも独特な歴史「観」を持っていますが、
この世には完全な人間などいないのですから、
よほどの性根がねじくれた異常すぎる人間でない限りは
多様な側面を有するのがまさしく<人間>ということで
寛容な姿勢で真摯に向き合うべきかと・・・。
そう、確信しております。
歴史「観」を形成していく際の姿勢や
歴史上の人物(伝記や評伝も含む)から学べる人間研究は
日頃の人間関係の妙な<綾>を読み解きながら
うまく付き合っていくうえでも必ず役立ちます。
管理人も人間「道」を歩むので苦労しております。
「修羅道と人間道の<はざま>や如何に!?」
そんなことを今も『陰陽座』さんを作業用BGMにしながら
考えております。
音楽は文章創作に当たっても
様々な着想(ヒント、ひらめき)を与えてくれるのですね。
そう『麒麟がくる』のついでにですが、
『陰陽座』さんには『麒麟』という楽曲もあるのです。
『麒麟児』とは「天才児」の別名。
「天才=<天分の才能>とは何なのでしょうか?」
<天分>の才能とは
<それ相応>を意味する<応分>の才能のことなのでしょうか?
まだまだ「才能」に関しても研究の余地がありそうですね。
それではトークライブの件はこれにて終了。
この日も結構なハードスケジュール。
何せ日頃は<なりわい>労働を持ちながらの
<仕事>や<活動>も余暇業務の一部ですから
もはや遊びと仕事が一体化している多忙な1日を
日々過ごしていますから
どうしても強行軍になりがちです。
この日は朝からすでに書評記事内でも触れさせて頂いた
『大阪歴史博物館』を経て
『隆祥館書店』~『西九条ブランニュー』と充実した
メニューを堪能。
誠に貴重な文化的な日を過ごせました。
このような「文化・芸術」に親しめるほどの
時空間的ゆとりや経済的ゆとりもありませんと
社会は殺伐とした雰囲気ばかりに満ち溢れてしまいますからね。
「お金」の有意義な使い方も大事です。
『「お金」は人々の生命エネルギーが集約されたもの』とは
よく指摘されますが、経済の流れ、
すなわち、景「気」をよくするにも
「気」の巡りをよくしなければなりません。
「血行」と同じで血の巡りをよくすれば
「ぽかぽか」するものです。
「金融」がよく「血液」にたとえられるのも
まさにこのイメージにあるからでしょう。
「遊び」を単なる一過性の<消費娯楽>として鑑賞するだけでは
本当の文化「通」にもなれません。
「お金(経世済民)」道も究めなければと思う日々です。
さて、もはや4万字あたりに近づきつつありますが、
やっとこさ、『西九条ブランニュー』にまで辿り着きました。
このライブは<へヴィメタル>祭典だったわけですが、
ここでまた衝撃を受けてしまったアーティストさんに出会ったのです。
今回のライブ会場にまでご招待頂いた
先程ご紹介させて頂きました『kyanos(キュアノス)』さんの
直後だったかに演奏された着物姿で舞台に出てこられた
女性ボーカリストに「目が点!?」になったのでした。
着物がトレードマークの女性ボーカリストと言えば
敬愛する『陰陽座』のボーカリスト黒猫嬢が有名ですが、
それともまた違う何かそこはかと香しい感じが漂う歌手が
出てこられたのです。
そして他のバンドとはまた何か一風違った雰囲気が漂う
そんなバンドがこの歌手の背後を固めておられました。
その背後に掲げられたバンドのロゴマークが入った幔幕には
<京風へヴィメタル>とあり、
「またすごいの出てきたなぁ~」と魅入ってしまいました。
(ちなみに、特に<へヴィメタル>バンドさんは
よく企業ロゴのようなバンドを象徴するロゴマークも
独自創作されている方が多いようですが、
どれもこれも個性的で審美的な感じを抱かせます。
管理人も何か<ロゴマーク>を創作出来る機会があればいいのですが、
あまり才能もなく残念。
代わりに大阪あべのハルカスで現在開催中の
『ミラクルエッシャー展』で購入してきた
『ドラゴン』と『蛇』さんに
<生命エネルギー>を頂きましょう。
「『エッシャー展』に皆さんも行かれましたか?」
「関西在住の方なら近くですし、
関西在住の方でなくともお仕事などで来阪される機会があれば
まだ間に合いますので是非一度でも遊びに行ってみては
いかがでしょうか?」
「平日の夜は意外にオススメかも」です。
17階からの大阪の夜景も思い出に残りましょう。
オススメは某カフェ。
素敵な出会いがあるかもしれませんよ。
「1人」でも「相方」を連れ添ってでも
楽しめる時空間がここにはあります。
プチ贅沢な時空間。
「持たざる」者でも十二分に楽しめます。
「日々の些細なひとときこそが幸せなのかも」
そう、すでにご紹介させて頂いた
ロバート・H・フランク博士もおっしゃっています。
「相対的」消費量に誘惑されないこと。
幸せはすべて<主観>から生起してきます。
「幸福=その人のその段階に応じた質感」であります。
『絶対的幸福論』(水樹奈々嬢)は
自ら魂の奥底から引き出してこなくては
絶対にたどり着けない境地であります。
さすれば「涅槃(ニルヴァーナ)」の境地に至りましょう。
知らんけど・・・)
それが『BLACK YAK.』さんとの初対面でありました。
この女性ボーカリストについては知らず、
一気にその世界観に引き入れられて
たまたま来場されていた他の『BLACK YAK.』ファンの方とも
知り合いになり(後で下の居酒屋でこのバンドについてレクチャーも
受けながら語り合っていたのですが・・・)、
語り聞くところによると、
この女性ボーカリストは普段は京都・名古屋を中心に
『YAK.』という従姉妹同士でユニットを組んで活動されているといいます。
それで月1で京都祇園でもそちらの名義(『YAK.』)で
ホームパーティーライブを開催されていると教えて頂いたのです。
その方のお話や後でネットなどで調査させて頂くと
本格的に音楽で生計を立てていらっしゃるアーティストであることも判明。
大手レコード会社からもCDを出されていたといいます。
で、肝腎なこの『YAK.』と『BLACK YAK.』の関係性ですが、
『YAK.』が本家本元であり、その<へヴィメタルバンド>バージョンが
この『BLACK YAK.』だといいます。
つまり、1人(ユニット)2役を演じておられる
日本でも稀に見るアーティストだったのですね。
そこで、後から結成された『BLACK YAK.』に対して
本家本元の『YAK.』を『WHITE YAK.』とみなして
忙しいスケジュールをこなしているといいます。
こんなアーティストさんは今まで見たこともなく
おそらく本邦でも珍しい部類に入るのではないでしょうか?
『YAK.』=『WHITE YAK.』がJ-POP系の楽曲中心だとすると、
『BLACK YAK.』はまさにへヴィメタル。
しかもボーカリストと従姉妹同士である相方はギタリスト。
ギタリストとしてアコースティックとエレキを使い分けている
(このこと自体は実力派のギタリストであれば
朝飯前なのかもしれませんが、それでも通常のバラード系ロックならば
少し緩やかな演奏でも済みそうなところ<←簡単に書いてしまいましたが
これとて本業のギタリストによる体験評価からは難しいと言われるに
違いありませんが・・・>、ただでさえ速弾き奏法の要求される
へヴィメタルサウンドですから立派なものです。)ことに
感心しきりでした。
それで初めて『BLACK YAK.』さんの演奏を聴いて
何か他のバンドと大きく雰囲気が異なると察したのは
素人ながら「正解」だったようです。
この『BLACK YAK.』の女性ボーカリスト<ゆうみ>氏と
ギタリスト<あさみ>氏を裏方からサポートされているのが
ご存じの方もおられるかもしれませんが、
<知る人ぞ知る>関西ではその名が高いとされる
ロックバンド『RAJAS』などで活躍中のギタリスト遠藤コースケ氏や
後藤晃宏氏などを始めとする錚々たるメンバーだったのです。
管理人のロック音楽初体験はおそらく幼少期によく聴いていた
アニメソング(なかんずくメタル!?ヒーローもの)だったと
思われるのですが、80年代~90年代にかけての
初期のロックアーティストはあまり知らず、
本格的な没入体験は『LUNA SEA』さんからでした。
いや、他にもあるかもしれません。
つまりは、中学生の思春期を少し乗り越えた
様々な意味でも節目の年(ちょうど高校受験あたりですが)の1995年から
ぼつぼつ世間でも話題になりつつあった
ビジュアル系ロックが管理人の本格的な「入門」となったようです。
それでそれまではあまりこの業界のことを知らなかったのですが、
よほどマニアックな大人びたロック少年少女か
実際にバンド活動をしている方でない限りは
一般の子供には知り得る機会もありませんしね・・・。
そんな時代の最中でも
関西ロック音楽業界シーンでは「伝説的」バンドだったといいます。
大阪出身の『影山ヒロノブ』さんを始めとする
管理人の幼少時期からすでにご活躍されていた
アニメ主題歌をご担当されていたロックアーティストさんの
名前は知っていましたが、
この『RAJAS』さんの名前は存じ上げていなかったからです。
「世の中には今だ知らぬ超かっけー(かっこえー)バンドや
アーティストさんがいるもんだ!!」
そんな<おまけ>までこの『BLACK YAK.』さんを通じて
授かることが叶いました。
「熱いメッセージ性のある言葉を乗せて奏でる音楽は
それ自体がある意味<政治>なのかもしれませんね。」
「凝り固まったイデオロギーではなく
多種多様な観覧者の<想い>とともに
常に再創造しながら紡ぎ奏でるのが
なかんずくロック音楽の醍醐味(本質・本道)なのだとするならば、
これこそまさしく生きた<政治>であり、
<音楽のテクノロジー>なのかもしれませんね。」
そうした意味でロック音楽だけではなく
すべての学術技芸には<調和への道>を切り開く力があります。
管理人もそのように信じて一歩一歩着実に
時に皆さんのご要望などにお応えさせて頂きながら
<平和の祭典(祝祭)>に参加させて頂こうと願います。
管理人もこの世界を様々な「観」でもって眺めておりますが、
特に<政治>や<経済>を始めとする
あらゆる<社会現象>は人間の欲望や情念が
引き出されやすい「魔物」でもあります。
されどもその「魔物」を引き出すのは
他人事ではなく自分自身の「心(識)」でもあるわけで、
それが他者の「心(識)」と重なり合うことで
この世の善し悪しも<投影=妖怪七変化>されていくことになります。
そんな意味では、
管理人を始めとする1人1人の小さなプライドが
「群れ」を作り出し邪魔をしているのかもしれませんね。
まさしく『SIAM SHADE(シャムシェイド)』さんが
創作提供された『PRIDE』の歌詞にあるような世界観であります。
本年もまた数多くの方々に支えられた1年でありました。
リアル(実社会でも直接対話させて頂いた方)から
バーチャル(当ブログの場だけでのお付き合いを頂いた方)世界に
至るまで様々なお声を聞き、また1段と学びも深まった1年でありました。
皆さん、ありがとうございます。
来年以後もまた様々な読者様との出会いをお待ちしております。
今後とも皆さんとともに少しでも心地よき「居場所」を
この世界に増やすべく精一杯励んでいきますので
どうか末永くご愛顧のほど宜しくお願い申し上げます。
「それでは、皆さん<乾杯>の時間です。」
『大宇宙 大和楽 森羅万象 一切弥栄』であります。
『言葉で世界を<荘厳>にする』
華厳の世界観ですが良き<響き>であり<調べ>ですね。
『来年も皆さんに<幸>と<愛>と<福>が舞い降りますように・・・』
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<最後に少しだけ追伸記事を>
『夢を見続ける事が 俺のファンタジー』
(仮面ライダーブラック主題歌)であり、
『ペガサスファンタジー そうさ夢だけは
誰も奪えない 心の翼だから』
(聖闘士星矢~ペガサスファンタジー~のテーマ)
少年時代に聴き惚れていた
この曲を憂鬱な気分に犯された時に口ずさんでいると
なぜか身心の健康状態が自然に回復してきますから
いつも不思議に感じています。
「愛と勇気」に満ち溢れてきます。
いつもこのような「ハイテンション」で世界に望むことが叶えば
幸せなのでしょうが残念なことに沈むこともあるのが
<人間>でもあります。
そんな時は無理をしないことにしております。
ですから皆さんもあまり無理をなされませんように・・・。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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