デヴィッド・スタックラー&サンジェイ・バス著『経済政策で人は死ぬか?』緊急事態宣言<自粛要請>解除に伴う気の緩みムードを警戒せよ!!

Pocket

デヴィッド・スタックラー&サンジェイ・バスによる

『経済政策で人は死ぬか?~公衆衛生学から見た不況対策~』

連休明けあたりから徐々にコロナ防疫対策と経済活動再開との両立路線を

模索する提言が世論を大きく動かしてきています。

この志向性が成功するためにも過去の歴史的教訓を踏まえた

必要十分条件を押さえておく必要があります。

『コロナ禍前に戻すな=緊縮志向から脱却』

今回はこの本をご紹介します。

『経済政策で人は死ぬか~公衆衛生学から見た不況対策~』(デヴィッド・スタックラー/サンジェイ・バス共著、橘明美/臼井美子共訳、草思社、2015年第2刷)

デヴィッド・スタックラー氏とサンジェイ・バス氏(以下、仮に論者とする。)は

本書<まえがき>での各履歴紹介にもあるようにともに苦学される者同士で

経済的困窮の中での健康維持の重要性を実感されたことをきっかけに

互いの親睦と研究者としての同志魂を育まれてこられた仲だといいます。

本書タイトルでもある『経済政策で人は死ぬか?』<結論>とは・・・。

各国の経済事情や国民文化風習などに則した

きわめて適切な処方箋(経済政策)を採用することさえ叶えば、

たとえ不況になったとしても生活困窮から帰結される医療難民化に伴う

疾病感染率をも軽減させ得るのだということになります。

連日のマスコミ報道などが発信する

コロナ禍による感染率や死亡率の上下変動情報に絶えず一喜一憂させられるとともに

それらを抑制させるために発動された経済を始めとした社会生活活動の

自粛要請も長期化すればするほどに

私たちはさらなる不安心理に追いつめられていきます。

人間ですからこのような異常事態に直面させられれば誰しも不安心理に

駆られることは当然のことながらもその不安心理が誘発される

根本原因を探求しなければますます不安心理が増強させられていく・・・という

悪循環に嵌り込んでいってしまいます。

その根本原因を摘出するとともにそこから獲得されてきた知見を

診断材料として適切な処方箋を描き出すことが叶えば、

自ずと不安心理も軽減解消されていく方向へと前進していくことも可能となります。

それでは私たちがこれまで直面させられてきた不安心理が誘発される根本原因のうちでも

とりわけ社会経済的背景事情には何が潜み込んでいたのでしょうか?

そのことを探究考察していくうえで<思考の補助線>を引いて下さっているのが

本書の役割だということになります。

『不況になればむしろ健康状態がより良い方向へと促進されることもある!!』という

見解が本書でも事例紹介として引用されている論考箇所もありますが、

それには厳格な必要十分条件が要請されるのだ・・・とも強調されております。

(本書<序文>24頁~ご参照のこと)

いずれにしましても、表層的現象面に接触感受する限りでの個人体験だけでは

不況に伴う生活困窮悪化がより一段と進展するために

病気にかかっても医療費や予防医療措置としての健康維持促進のための

各種費用を節約せざるを得なくなることによって

健康状態は悪化していくだろうと想像推測する方こそが

むしろ一般常識というものでしょう。

つまり、個人的な常日頃からの自助努力の積み重ねはもちろん重要だとはいえ、

個人的な『自己責任論』の領域ですべて処理せよとする

社会的常識感覚だけで各人に健康維持管理を委ねてしまう風潮だけでは

今回のコロナ禍がまさしく示唆してくれたように自ずと限界があるということに

なるわけです。

ここにも個々人の正しい努力姿勢も時として社会全体としては間違った結果を

招来してしまうといういわゆる<合成の誤謬>現象が生起してくることも

あるということですね。

そのような集団的誤謬を少しでも軽減させる一つの知見として

経済的困窮に陥った場合における国家社会からの健康維持費用の

補助政策といったマクロ経済政策的処方箋に期待されるということになるわけです。

本書ではこのように『公衆衛生学』の観点から見たマクロ経済政策の適切なあり方を

諸外国の歴史的教訓知見に学びながら有効活用させていこうとする趣旨で

論旨展開されていくことになります。

本書各論考文は共論者の所属する英米的視点から眺めた

諸外国の比較事例研究が中心テーマとなっているために

肝腎な我が国の状況についてはほんのわずかしか触れられていない嫌いはあります。

とはいえ、論者も英米世界に偏りすぎずに公平な問題意識でもって

我が国を含むアジア諸国において過去に生起した社会現象分析から

見出されてきた知見を第3章にて力説されています。

このような本書の不足点を補う我が国固有事情の取り扱いについては

本書訳者による<あとがき>解説と若干の図表データが紹介されていますので

適宜ご参考にされつつ、各自で関連書や関連情報などとともに

現在の最新データを追跡調査探究・考察なされますことをお願いいたします。

特に我が国マスコミ業界がたびたび繰り出す医療崩壊現象なる

まことしやかな報道がされていますが、

実際の厳密なデータ分析を通じた検証を徹底的にして頂いたうえで

国民へのさらなる不安感を煽り立てるようなことは慎んで頂きたいところです。

もちろん『医療崩壊』に至り得るような状況は是が非でも回避しなくてはならぬこと

論を待ちませんが、『医療崩壊』の言葉だけが一人歩きして

もう一つの重大な懸念事項である社会不安心理の増大による

『社会崩壊』現象も生起してくる点にも十二分な配慮が要請されるからです。

感染者に対する差別や非感染者同士においても自粛要請が長期化すればするほど

暴力行為誘発の温床が形成されていくからです。

『クラスター(過密集団)』を疫学上のクラスターだけで見ていると

その他にも生起し得る恐ろしい事態を見過ごしてしまうことになるからですね。

このように『<医療崩壊>か<社会崩壊>か』あるいは

『<感染拡大防止至上主義(社会経済活動などの自粛要請強化)>か

<経済活動再開至上主義>か』という二者択一的議論もまた非現実的かつ

有害無益な極論であることも示唆して下さるのが

本書の優れた利点でもあります。

(本書<まえがき>15頁~ご参照のこと)

現実的な感染拡大防止策と特定の識者によって増強されてしまった

『医療崩壊』恐怖を沈静化させていくためにも

私たち1人1人に出来る取り組みとしては<新しい生活様式>とやらを

無理のない程度で協調実践しつつ社会経済活動再起動の道を歩んでいくほかありません。

相次ぐ自粛ムードの中、大手マスコミなどですら取材活動が縮小させられており、

官民ともに書店や図書館なども休業(館)中だった間にも

インターネット上では玉石混淆の真偽不明な情報が飛び交っておりました。

信頼出来る第一次情報源に比較的近いとされる書籍に接する機会が

剥奪させられていくだけでも社会不安は増幅させられていくものです。

今回ほど確たる情報の重要性をあらためて身にしみて実感させられた

機会もなかったのではないでしょうか?

真偽不明の怪しげな情報が流布されていく中で

さらなる不安を駆り立てているのが

各種重要法案審議のあり方なども取り沙汰されていますが、

重要法案になればなるほど丁寧な説明責任が与野党問わずの立法府や

行政府にさらに重く課せられることになります。

今月は種『苗』法改正案に関連して

著名人も絡んだ『相互』誤解も誘発されていくといった

珍事件も話題になっているところです。

検察官を含めた国家公務員の定年延長問題以上に

こちらの方がよほど私たちのいのちに関わる食文化にも直結する

重大問題だと個人的には感受しています。

また公務員の定年延長問題そのものは

民間企業における定年制度問題とともに現在の少子高齢化や

雇用労働問題に伴う人材不足をいかに補っていくべきか問題で

ことさらに目くじらを立てるほどのことでもないでしょう。

某検事長自身への定年延長適用の適格性うんぬんの話ならば別問題でしょう。

とはいえ、この件で明るみに出された関与ジャーナリストの取材姿勢のあり方も

問題あるところです。

このようなあり方をされれば権力との癒着にもそりゃ無頓着になるでしょうし、

もしも国家安全保障(ひいては私たち一般国民の生命・自由・財産への

侵害にもつながりかねない重要案件)などに関わる

『機密情報(プライバシーなど含む)』漏洩など起きたら

いかなる責任をお取りになるのでしょうか?

そういった面から管理人などは日頃ご愛顧させて頂いている新聞社様も

関与していただけに信頼感を低下させられたことも悲しかったですね。

また普段の報道姿勢では価値観が対立している某新聞社と

行動をともにされていたというのも

我が国の報道業界とは結局単なる『お仲間倶楽部』だったのか・・・と

暗澹かつ唖然とした気分にさせられたのが第1印象でしたね。

『こりゃ、ダメだ。我が国独特の取材報道文化の積年の諸悪の根元たる

記者クラブ制度のなれ合い感もなくなるはずがないわい・・・』とも。

一方でこの報道を受けて批判する立場にある者のあり様も

いつもと同じくどうも腑に落ちないことばかり・・・。

この厳しい時局にする政権批判の一つだとしても

個人的には<ためにする>批判としか感受されず

政権支持/不支持を問わずに常識に照らせば

この時期ならではの他にも<言挙げ>すべき重要事項は山ほどあるでしょう。

そうです、第二次補正予算の規模問題などを含む

『財政』政策の充実要請のことです。

さらには消費増税凍結の是非や外交・安全保障政策の見直し<『独立性』強化=

政経分離ではなく政経一体論への転換!!>など『国家百年の大計』に関する

重要事項も忘れてはいけません。

些末な次元の問題で遊んでいるうちにも『孫子の兵法』駆動大国に

蹂躙されてしまう余地を与えてしまうことになるのですぞ。

香港や台湾で隣国が引き起こしている諸問題は

決して我が国にとっても<対岸の火事>ではないのですぞ!!

『小国には小国なりの勝算ある戦術・戦略を考え抜いていかなくてはならぬぞよ!!』

とかの国の老子墨子も示唆して下さっております。

ちなみに墨子は日本では安易な平和主義/博愛主義者だと解釈評価されているようですが

精密に読み込んでいくとかなりの厳格な兵法家であることも

次第に判明してきます。

いかなる思想・哲学も取り扱い厳重注意ですが、

表面的な領域のみにとらわれていると

重要部分を見落としてしまうことにもなりますし、

大きなやけどをしてしまうことにもなりかねません。

日本国憲法下でのいわゆる『専守防衛論』を貫徹しようとすれば

まるで先の大戦末期のようないわゆる『本土決戦』態勢を覚悟せざるを得なくなるからです。

そこまでの覚悟があって墨子的な平和/博愛主義者を任じるのであれば

信頼出来る人間でありますが、そのような危険な場面をまったく想定すらせずに

のんきに構えておられる人間であれば

むしろ人間の<いのち>を危険にさらす大迷惑者でありましょう。

誠に悲しいことですが、現生人類の霊的次元から眺めると

そのようになりそうです。

あのお釈迦様ですら、本当に戦を回避したいのであれば

『先駆捨身(虎に身を投げる覚悟<捨身飼虎>)』の凄味を示唆されたのですから、

真なる平和愛好者であればあるほど

墨子や老子から学ぶべき<それも頭だけで理解することなく

身体感覚で体認・体得する意識姿勢>価値があります。

『<民主政治>を護る』とは楽な作業ではなく

最悪の場合には体を張った横暴権力との対峙もあり得るのですから・・・。

これまでの人類史の教訓でありましょう。

『<油断大敵>とはこのことなり!!』

現に我が国の名だたる戦国武将も孫子に限らず

墨子や老子・荘子の『兵法』からも学び取っていたのでした。

このように決して他国を軽侮してはならないのです。

むしろ自国内で多発して見受けられる『油断』現象をこそ

心ある人間であれば警戒しなくてはならないのです。

人間の<いのち>と<尊厳(誇り)>を相互に守り抜くためにも・・・。

いかに他人(国)を軽侮することなく謙虚に自己反省することが出来るかが

『人間』本来の真価というものでしょう。

少なくとも管理人はそう確信しております。

それが厳しいですが、本当の『愛』というものでしょうよ、きっと。

『他人事だと思っておればいつの時代も<麒麟>は来ない!!』

今こそ国民1人1人の『英知』を結集して

1人1人が<麒麟>意識を持つべき時節到来でありましょうよ。

『人任せは単なる他人依存の<英雄待望>論者で

<敗北主義>者ですぜ!!』

『<児戯で朽ち果てた>小国をいかなる勢力にも蹂躙支配されぬ

<すべてに責任を持つ心豊かな大人で満ちた>大国へ甦らせよ!!』

いうことです。

批判するにせよ、国民生活の重要度に応じて優先順位を付けた

重要法案審議過程の相互確認批評や疑惑追及をすべきではないかということです。

管理人もいちおう法学部出身の人間ですから

当該関連法案の文言や制度趣旨および立法背景事情などにまで

目配せしながら独自に批判的に検証中でありますが、

専門家(立法府/行政府双方の担当責任者含む)による

説明もどうも『木を見て森を見ず』のような感覚にさせられるために

読めば読むほどに双方ともに一部分のみを拡大強調させた

理解のされ方をされているのだなぁ~と感受しているところです。

管理人自身も『無知』な側面も多々あり、

さらなる『誤解』を世間様に拡散させない言論責任がありますので

ようやく図書館も再開されたことから

この分野の図書を借りこんできて只今猛勉強中であります。

現時点でこれまで得てきた知識の中で直観的に認識判断し得たことは

そもそも種『子』法種『苗』法のそれぞれの立法趣旨や

立法背景(過程)事情が関連する点もあれども

相違点が多すぎるように感受されたことでした。

ためにどちらの法に関する議論をされているのか不明瞭な点も多々あり

管理人自身もかなり混乱させられてしまいます。

ただ一つ言えそうな点は現在の思想的流れでは

『官(公)よりも民(私)へ』の志向性が強くなりすぎて

私たちの生活(特に<いのち>)に関わる重要な制度にまで

狭義の経済『利潤獲得』至上原理という毒が廻りすぎているということです。

種『子』法は主に<食糧安全保障(自給というよりも自給増強)>の

面に比重があり、

種『苗』法の方は主に品種改良者などの「育成者権」保護という

名目が強くあって『種と苗』を知的財産権(著作権や特許権)と同様な

次元のもとに制御管理するものだということですね。

つまりは、生産管理技術への窃盗対策といった財産権保護ということで

それに付随した上記のような狭義の『利潤』保護原理が

強く付着しているというわけです。

そのこと自体はまさしく<保護法益>としてまったく適切妥当な

立法理由であり是非とも政府には混乱を招かぬように

適切な出来る限りのわかりやすい説明責任を果たして頂くとともに

現場の農業生産従事者や一般消費者の声なども広く

公聴して国民の不安感情の払拭に努めて頂きたくお願い申し上げます。

法律などというものは古来から完全無敵な『包括』法を

創設・制御管理することこそ難題中の難なわけですが、

出来る限り『ザル(重要な<保護法益>が十二分に護りきれずに

ザルの網の目から抜け落ちることをイメージして<ザル>といいます。)』法に

ならぬよう慎重に慎重な審議を積み重ねたうえで

より理想的な環境での立法成立となりますことをお祈り申し上げます。

それでは、

『なぜ種<苗>法改正案にこれだけ否定的反応が相次いでいるのでしょうか?』

それはこの種『苗』法によって制御管理される品種対象目録の拡大が

進展していくことで

経済的弱者である零細農業従事者や個人家庭菜園での栽培者にまで

お金を出して種苗を入手しなくてはならぬ事態に

やがて直面するだろうことを見越して

いわゆる<自家増殖/採取(種)>の厳禁(有罪罰則あり)という

十二分にあり得る異常事態にまで突き進んでいくのではないかという

恐怖心理(何せお金が払えなくては種苗入手出来ずに

自家栽培にて生計を立てることも叶わなくなり、

場合によっては生存危機にまで直面させられるから。

それ自体が『誤解』だとする解釈見解もありますが、

いずれにせよ説明責任不十分なため

どうしても疑心暗鬼にさせられてしまうのです。)に

駆り立てられることになるからです。

政府への信頼(民主政治の危機でもあります)が喪失させられていくたびに

説明責任の不十分さも相まって、一部国民のあいだで

静かに緊張状態が高まり不安心理も拡大強化させられていくことから

当然ながら事情に疎い方々から先走った『誤解(管理人などは

すべてを<誤解>だとは評価判定いたしませんが)』でもって

世論を混乱錯綜させるような事態にまで進展してきているように

感受するわけです。

まとめますと、種『子』法(この法がそもそも先行して

<廃止>されたことが問題を拗らせているわけです。もっとも

この『国法』こそ廃止されたものの従来の制度趣旨を踏まえて

各地域(地方自治体)毎に『条例』などでもって独自防御策を

採択されている)廃止後のあり様ですが、

これも各自治体毎の

<温度差(従来の種『子』法存在理由への認識理解力度数)>によって

その地域住民の生活保護政策に大きな「格差」も出現してきているとも

聞くことになります。

『国法』であれば全国民一律平等に保護し得るものの

各自治体による『条例』レベルでは

そもそも日本国憲法第94条にもあるように

その『国法』の範囲内(基準)においてでしか制定出来ぬという

限界もあるからです。

もっとも明確な『国法』なき場合には

独自の自主立法権としての条例制定もあり得ますが

そこには各自治体による問題意識の高低なども絡んできて

難しい側面も現実政治の場面ではあるわけですね。

ゆえに明確な一律基準がなくなれば

当然ながら「後はどうぞご自由に」の自由競争原理に委ねられることに

なるわけですが、それが常に良い結果をもたらすとは限りません。

このようなわけで私たち国民1人1人の<いのち>に関わる

<食糧安全保障>をこそ狭義の経済<利潤獲得>原理に優先させるべし・・・との

種『子』法再復活への嘆願活動が稼働中というわけです。

<食糧安全保障>という名の広義の『経世済民』観を取り戻し

すべての国民生活が一律に保護されるためにも

今月の種『苗』法改正案議論もまたコロナ禍に伴う防疫政策と同様に

是非皆さんにも一度はじっくりとお考え頂きたく宿題とさせて頂きます。

要するに、<食糧安全保障=国民の生命・自由・財産(広義)の保障>と

<経済利潤獲得原理>の狭義の財産「権」のいずれを優先して

保護していくべきかという問題だということです。

上位規範たる前者の<安全保障(経世済民)原理>が確保されて

はじめて第二段の<育成者権>なる『知的財産権』の意義も

強く出て来るというわけですね。

このような制度構造になっておれば『両立』も可能でしょう。

とはいえ、制度構造うんぬんよりも

旧種『子』法が廃止されていった背景にあった

<市場原理主義>思想の貫徹こそ警戒すべきなのであって

表層的にはもっともらしく聞こえて納得させられそうになる

この種『子』法廃止と種『苗』法の関係性にこそ

今後とも注視していくべき要素があるということです。

もし種『苗』法改正案の意図が誠に正しいものだとしても

現状のような種『子』法廃止状態のままでは

話題の渦中にある某女優様のご意見ではありませんが

当然ながらここでも『誤解』が増幅されて

国民分断の緊張状態がいついつまでも根強く浸透していくことになります。

このような最悪な結末だけは是が非でも回避阻止しなくてはなりません。

また某女優氏への評価にせよ人間誰しも『無知』な領域は多々あるとともに

別に同情共感するわけでもありませんが、

特に腑に落ちない下品な物言いとして『素人は黙っとけ!!』的発言が

そうした発信者自身に『素人』というよりも『幼稚性』が見受けられるのに

我が身を棚に上げてされていたことに怒りを覚えました。

管理人はよほどの理不尽なことなき限り

温厚そのものでありたいと常々願っておりますが、

このような発言を聞く度に毎度許し難い暴言/妄言だと感受し

大人げないことで恥ずかしい限りですが

本当に怒髪天を衝く想いに駆られてしまいます。

もし発言者に本当に自信がおありならば懇切丁寧に礼儀(『誠』)を尽くして

お教えすればよろしいのではないでしょうか?

公平かつ良心(識)ある第三者であれば

その応答作法を見聞きして

その発言内容の正解/不正解は留保しても

その言動でもってどちらの人格に信頼性があるかを判断することでしょう。

管理人も人の発言を観察する時には、

発言内容もさることながら、その意図するところや、

その背後に見え隠れする人格性をこそ情報の真偽判断に関する

ひとつの判定基準にしております。

これもまたひとつの<フェイクニュース>対策になりましょう。

ですので、管理人自身はよほどのこと(社会への害悪や人身被害など)がない限りは

こと他人の表現言論活動には寛容でありたく願っています。

そのことによってこそ『人の振り見て我が振り直せ』の格言にあるように

自己の言論活動にも自制心や厳しい倫理姿勢を保持することが叶うからです。

この点は皆さんとともに『人間死ぬまで修行中』ですわ。

この重要問題はまだまだほんの<序曲>だと感受しておりますので

管理人も丁寧に勉強しながら皆様に可能なかぎり正しくお伝え出来るように

引き続き研鑽してまいります。

ところで今回のコロナ禍とそこから誘発されてきている現在進行形の

経済不況であらためて身にしみて感受させられているのも

まさしく『体こそ何よりの自然資本』だということに尽きましょう。

ということで、コロナ禍による感染率上昇が招く死(ないしは傷害)と

経済不況による生活困窮度上昇が招く死(ないしは各種犯罪などの

社会的暴力被害)といった<トレードオフ>関係のくびきから脱するための視点を

どこに求めていくべきかが切実に要求されている最中だからこそ

今の時期に最適の題材本だということで

今回は本書を取り上げさせて頂くことにいたしました。

ここでも先に触れさせて頂きました種『子』法と種『苗』法の関係性同様に

二者択一ではなく<ワンセット>設定が要請されるということで

コロナ禍における現象に置き換えますれば『自粛(休業)要請出すなら

補償と<ワンセット>でお願いね!!』ということになります。

本書ではそのように『経済政策』か『公衆衛生防疫政策』かの二者択一で

一部分にしか配慮していない不十分な国家政策を採用していけば、

『いずれとも成り立たず!!』の最悪事態を招き寄せますよと

警告する内容の書籍であります。

このような『非常事態』に遭遇したからこそ

これを好機と捉えて今後とも世代を通じて読み語り継いでいきたい

書籍だと評価いたしましたので

あらたな書評課題本に加えながら

前回に引き続いてあらためて現代経済学の適切かつ有効な活用方法を

皆さんとご一緒に学んでいきましょう。

公衆衛生防疫対策と経済活動再開対策の両立は可能だ!!~その条件について~

それでは本書の要約ご紹介へと移らせて頂くことにしましょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・<まえがき>

本書の最終目標

『経済政策は経済成長や財政赤字のみならず、

文字どおり国民の生死にかかわるものだということ』(本書13頁)

悟ることに尽きます。

そして『社会科学』分野において創造されたモデルを実社会での政策として

採択実施する場合にその効果が果たして有効なのかどうかを計る

<実験>は難しいために論者らは本書での検証事例材料として

以下に引用する手法でもって比較評価することになります。

次章以下からはこの手法でもって検討批評考察が加えられていくことに

なります。

『医療の世界では、薬や治療の効果を評価するために大規模な

ランダム化比較試験〈対象をランダムに選び、治療などの施策を行う

グループと行わないグループに分け、結果を比較する〉が行われている。

だが社会経済政策となると、そのような実験を行うのは不可能とは

言わないまでも、現実的ではない。

そこでわたしたちはいわゆる「自然実験」(natural experiment)を利用した。

これは研究対象にしたい状況に極めて似た状況を過去の歴史のなかから

探してくる方法で、わたしたちの研究で言えば、同じ不況に巻き込まれた

地域で、異なる為政者が異なる政策を実施した事例がこれに当たる。

その選択がそれぞれどのような結果を生んだかについて、

現実のデータを分析することで、社会経済政策の健康への影響を

知ろうとする試みである。』(本書15~16頁)

・<序文>

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<第1部 過去の「自然実験」に学ぶ>

①『第1章 ニューディールは人々の命を救ったか』

※本章では20世紀初頭の世界大恐慌期における米国での

ニューディール政策における不況対策とそれによる公衆衛生政策への

影響効果をそれぞれの時期毎に厳密な区分を設定しながら

比較分析する手法でもって観察批評していくことになります。

このような時期毎の比較分析評価手法を加えることで

『俗論』に数多く見られるようなニューディール政策に対する過大な肯定的評価が

妥当だったのかどうかについても相対的に判定することが出来る点が

本書の類書にはない優れた特徴であります。

本書においてはルーズベルト政権下においてニューディール政策が

積極採用されていった時期においても以下で触れさせて頂きますように

『緊縮派(本書では<保守>派知事)』と

『反緊縮派(本書では<リベラル>派知事)』を擁する州や地域によって

大きな差異反応が見られたとの知見が提出されています。

なお、本書での<保守>と<リベラル>の使い分けですが、

厳密にはここでは経済的観点から評価した場合の

『緊縮派=保守』と『反緊縮派=リベラル』という意味合いの方が

強く出ていると感受されますが、

政治的観点からの『保守/リベラル』の区別と

経済的観点からの『保守/リベラル』の区別において

完全一致しているのか、それとは必ずしも一致せずに

政治面と経済面でのいわゆる<ねじれ現象>が生じていた州も

あったのかどうかまでは本書からは読み取れないために

個人的には少し物足りない感がありました。

現在と近未来の日本国内における中央政府および各地方自治政府を

構成する政治諸勢力の動向変動次第によって

景気回復や公衆衛生を含む各種社会保障政策がさらに縮小していくのか

拡充されていくかが注目されているだけに

このあたりにまで調査分析の及んだデータ資料こそ知りたかったからです。

また先に同じルーズベルト政権下においても州の対応状況とは異なり

中央政府自身の対応としても時期毎に細かいところでの

変動が実際にはいかなるあり様だったのという点も

わずかしか言及がされていませんでした。

本書からは選挙時におけるフーバーとルーズベルトとの対決状況の下で

支持者の賛同を取り付けるうえで後のニューディール政策の『原型』へと

少しずつ接近していったかのように読み取れますが、

最初から『反緊縮』志向だったのかが不明瞭で

当時の民主党も一枚岩ではなかったようにも感受されたからです。

あくまでも社会党との政治力学関係次第で労働組合などの支持票を

さらに取り付ける必要があったればこそ

『反緊縮』型経済/社会保障政策を公約に導入せざるを得なかったようだ・・・とも

読み取れたからです。(詳細は本書48~50頁<財政政策を巡る論争>)

そこで管理人同様の問題意識を共有されていて

本書でもこの点の追跡調査探究作業が不十分なのではと感受された読者様向けには

『緊縮策という病~「危険な思想」の歴史~』

(マーク・ブライス著、若田部昌澄監訳・田村勝省訳、NTT出版、2015年)

所収論考文<第6章 緊縮の自然史(1914~2012年)

米国における政策としての緊縮(1921~37年)252~255頁>あたりも

ご紹介しておきますね。

ここでの分析評価も踏まえつつ全体としてのニューディール政策に限らない

ルーズベルト政権による経済/社会保障(公衆衛生含む)政策のあり方も見なければ

より公平な論評もなし得ないように感受されたからですね。

このような視点を持つことで学術的批評分析方法とは

イデオロギー的選別批評形式とはまったく異なるという感覚も体感して頂けることでしょう。

左派リベラル派と一般には評価されるルーズベルト政権下において

実施されたニューディール政策への批判も

近年はいわゆる政治的保守派からの厳しい疑義追及によって

一般世間でも教科書どおりの<公式史観>だけでは

その実情や全貌を把握することが出来なくなってきているようだと

次第に認識されるようになってきましたが、

このような政治批評的視点だけでは公平に欠けてしまうために

どうしても説得力が薄れてしまうことになりかねません。

そこで篤実な経済学者の炯眼力でもって

このニューディール政策の効果検証と評価がなされるとすれば

いかなる診断になるのでしょうか?

ということで以下の専門書もご紹介しておきますね。

前回も<ご参考文献>欄にてご登場願いました

名著『「大恐慌型」不況』(講談社、1998年第3刷←こちらは

一般向けの簡略版啓蒙書になります。初学者用の『入門書』としては

こちらをオススメいたします。)の著者であられる侘美光彦先生による

「大」著『世界大恐慌~1929年恐慌の過程と原因~』

(御茶の水書房、1994年第1版第1刷)所収論考文

<第9章 アメリカの1937年恐慌 743~853頁>

余裕のある読者様には是非一度はご一読して頂きたく願います。

この時期はまだアメリカも金本位制離脱や銀行制度の再編改革中の

真っ只中であるとともに経験年数も浅かったこともあったのか

通貨と物価との連動性に関する全貌も十二分には把捉出来ていなかったがために

具体的政策もいわゆる『古典派』経済学観に圧倒されて

処方箋をたびたび誤用していたようで副作用が大きかった時期だといいます。

そのために数多くの犠牲事例が多発していたのでした。

そのために皮肉にも人道に即した『民需』型ニューディール政策よりも

人道に反した『軍需』型拡張ニューディール政策によって

最終的なアメリカの不況対策は終焉に向かっていったという

見解も出される羽目に・・・。

後年これまた皮肉なことですが、

『古典派』に属さない新しい経済学観を世界に提供したという

ケインズ理論を軍需面に転用させた『軍事』ケインズ主義なる有り難くない学派も

形成されてしまう一つの要因になってしまったのでした。

ケインズ自身の戦時期における英米両国への提言方法も

緊張感高まる一方の当時では刺激的要素が強すぎて

誤解を招く原因にもなったのですが、

ケインズ学派に属するお弟子さん筋による

『軍事』ケインズ主義なる後世に貼り付けられた<俗論レッテル>への

批判も展開されたことも忘れてはなりません。

(例:ジョーン・ロビンソン女史など)

この『軍事』ケインズ主義に対する評価も多種多様あるでしょうが、

管理人が評価するところでは、この分野の研究をすることを通じて

いかに『供給能力』の毀損効果が莫大な犠牲と浪費を招き入れ、

それこそ将来における制御困難(不可能とまでは言いませんが)な

ハイパーインフレ現象事態へと陥っていくのかを

歴史の教訓として学べるという点で参考になります。

なお、管理人自身は国防(安全保障一般を含む)充実は

国民の生命・自由・財産を保持するためにも必要不可欠だと評価していますが、

それも程度の問題であって可能なかぎり『民需』優先型経済政策を

実行していくのが理想的だということです。

国家経済全体についてのバランス(整合性)に常に目配せした

<リスク分散型>の経済計画を立案することを通じて

特定業種に対する『供給能力』の一極集中路線による

国民経済全般への逼迫感の超過圧力(将来のインフレ懸念)の回避策にも

なり得るからです。

戦後の特定業種への<傾斜生産方式>が

後の高度経済成長をもたらした成功方程式と評価されていますが

この評価も今となっては正しい見立てだったのかどうか、

戦後産業史全体を再分析することで

あらたな盲点も出て来るかもしれません。

特に業種転換に伴う一般の末端労働者への一時失業などのしわ寄せは

甘く見積もられているような感が強くいたします。

こうした末端労働者に質の高い再教育(雇用)の機会は

十二分に提供されていたのでしょうか?

現在の「失われた○○年」下で今も呻吟し続けている

身近にいる末端労働者の惨憺たる有り様を見聞きするにつけ、

また管理人自身も日々体験するにつれて

教科書(マスコミ/政治権力)式<公式史観>の恐ろしさを

まざまざと見せつけられているからです。

そのようにきわめて現代的要素も絡む重要論点だからこそ

再検討の余地があるということです。

大東亜(アジア太平洋)戦争の勝敗も

結局は<物量作戦>と<物流拠点確保>において優位に立ったものが

制するわけですから

特に資源『小国』であり物流における輸出入ルートに

脆弱さを抱えている我が国においてはくれぐれも無理な

経済「戦争」を推進していくべきではありません。

それこそ『亡国への道』でありますから・・・。

その意味でも<平和学>に偏らない<戦争学>も含めた

総合的安全保障学をリベラルアーツ(一般教養)の一つとして

皆さんにもご興味ご関心をお持ち頂きたいのです。

そうすれば「戦争」という言葉を聞くだけで拒絶反応を引き起こし

思考停止になることなくその真相に迫ることが叶い

より一層の強い人類協和の理念と現実的ロードマップを

皆さんにも描けるようになることでしょう。

いずれにしましても、いかなる政治哲学に基づく政権にせよ

その時期における適切な経済政策観が共有されていませんと

私たち一般民衆にとりましては残酷な影響を受けることになるわけですから、

私たちとしても正しい経済観を相互学習して

政治への影響を及ぼす努力をし続けるほかありません。

それが本書の隠れたもう一つの主題でもある

民主政治に基づく政府への信認/不信認という問題とも重なるということです。

今回は経済政策そのものよりも

それが公衆衛生に与える影響を重点的に見ていこうとの問題意識ですから、

それぞれの時期における経済政策のあり方

(ここでは仮に『緊縮(消極)』型と『反緊縮(積極)』型としておきます。)

によって具体的にいかなる結果がもたらされていったのかが

主題となります。

米国のこの時期における公衆衛生学上の知見として

禁酒法施行時と廃止後におけるアルコール関連の疾病事例と死亡率問題

②同時期におけるフーバー政権時と(フランクリン)ルーズベルト政権時における

財政政策の相違による公衆衛生関連への影響具合

を中心に比較考察されていくことになります。

前者(①)についてはその効果が容易に推測がつくかと思います。

単純にもちろん禁酒法廃止時の方が悪影響が出て来るだろうと・・・。

しかもその廃止理由は皮肉にもルーズベルト政権による

経済活性化対策の一環としての酒税収上昇をあてにした結果であったのです。

『財源は<税収>に出来るだけ制約したい・・・』といった

『緊縮』志向型誘惑が強くなればなるほど

いわゆるバッズ(悪)税にすら依存せざるを得ないという

悪循環も生み出され、

本来の政策意図であったはずの健康増進効果を期待しての誘導効果も

見失われてしまうという逆説に直面することになることも

こうした教訓から読み取らなくてはなりません。

ここで着目して頂きたいのが

フーバー保守(経済『緊縮』)派=禁酒法容認(倫理的政治右派)では

アルコール関連による疾病/死亡率こそ減少したものの

経済による緊縮財政効果で全体としての公衆衛生状態は悪化していったということです。

対するルーズベルト左派リベラル(経済『反緊縮』)=

禁酒法廃止容認(倫理的政治左派)ではアルコール関連による疾病/死亡率こそ

上昇したものの全体としての公衆衛生状態は改善されていったということです。

但し、ここで注意して頂きたいのはその『反緊縮』型へと転換後の

ルーズベルト政権下においても米国では各州によって

その公衆衛生状態に大きな相違が見られたというところです。

つまり、『緊縮』州では悪化し、『反緊縮』州では改善が見られたとの

調査結果が判明してきたのです。(本書<まえがき>12頁もご参照のこと。)

米国のように州制度を含む連邦国家体制を採用する(していた)国々でも

似たような状況が頻繁に見受けられたと指摘されていきます。

ロシアの事例問題については

次章要約時にあらためて詳細に触れさせて頂くことになりますが、

急激かつ拙速な『民営化』を積極的に受け入れた地域と

受け入れなかった地域において

米国における『緊縮』州と『反緊縮』州での差異に見られたような

類似現象が確認されることになります。

このように『州(連邦国家)』制度を導入する際には

いかなる点で最も注意を払った設計をしていかなくてはならないのかという

問題意識においても

昨今の我が国における安易な『道州制』や

『地方分権推進(地方創成)という名の国家解体路線』議論を見聞きするにつけ

皆さんにおかれましても検討批評題材となりましょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

②『第2章 ソ連崩壊後の死亡率急上昇』

※本章では旧ソ連邦崩壊直後から現在ロシア連邦成立に至るまでに

数多く見受けられた急進的な<民営化>路線に伴う

経済混乱過程で公衆衛生面にいかなる事態が出現してきたのかを

主題に分析考察されていくことになります。

現代ロシア経済改革論のうえでよく批判の対象として取り上げられることの

多いジェフリー・サックス氏らを顧問に迎えて計画立案されていったとされる

<民営化>批評についても本章にてご紹介されています。

とはいえ、管理人自身はこの点に関する分析資料を

数多く持ち合わせているわけでもなく、

過去の類似書(例えばジョセフ・スティグリッツ氏による

一般啓蒙書による分析批評論考文など)でも

たびたび指摘されていたように「急進過ぎたこと」と

あらたな「利権追求型特権階層を数多く創出してしまったこと」などが

本書でも挙げられていて

肝腎なロシア経済全体の立て直し、安定した産業育成面や

一般労働者の生活保障制度面については大失敗だったということ。

そのことが現在ロシア政権による英米型政治路線への警戒にも

つながっているのだろうということまでしかわかりません。

ウクライナ問題を始めとするきな臭い政治闘争劇の背景にも

この時分における急進的「改革」諸勢力への警戒心があったとも

評価される見方もあるだけに

より公平な観点からその動向事情を適切に理解するためにも

西側メディア報道をのみ単純に鵜呑みにしていたらよいと

いうわけでもなさそうだからです。

特定国家や政治勢力が繰り出す偏向情報のみに依存していると

自国の近未来のあり方を模索実践していくうえでも

<思わぬ罠>へと嵌り込むことにもなりかねないことから

他国で採用された政策や制度を安易に自国へと転用するような

発想は厳に慎まなくてはならないということです。

その意味でも過去の歴史を謙虚に学び続ける姿勢が必要となるわけです。

なぜと言って、現代ロシア経済の姿を観察すればするほど

現代日本経済の姿とも重なる要素も多々見出されてくるからです。

ですから、決して「他人事(対岸の火事)」ではないのです。

どころか我が国にも「火事場泥棒(レントシーカー)」勢力が

一連の改革過程で数多く生み出されてきたのです。

ちなみに旧ソ連邦などではこの<レントシーカー>勢力のことを

「オリガルヒ(新興財閥)」だとか

「ノーメンクラトゥーラ(エリート特権階層)」と表現されたりします。

公衆衛生面で言えば、医療保険分野がその典型例であります。

『<民営化>と聞いただけですべて<バラ色の未来>がやってくる!!』と

イメージ操作されてしまうのが現代日本の主流論壇思潮ですが、

世界全体を眺めながら比較評価する視点を持ち合わせることが叶えば

また別の違った見方も出来るようになりましょう。

そこでこのロシア経済<民営化>路線問題への批評分析は

ひとまず本章論考に委ねさせて頂くといたしまして、

このロシア経済悪化に伴う公衆衛生面への影響を

歴史的教訓として学ぶとすればいかなる姿が見えてくるのだろうか・・・を

中心に独自要約論評を付け加えていくといたしましょう。

その前に本章の結論を引用しておきましょう。

『共産主義体制崩壊後に死亡危機が発生したのは、資本主義への

移行そのものではなく、その移行の具体的な方法に原因があったと

考えられる。方法の選択を誤ったことが、悲惨な結果を招いたと言っていい。』

(本書59頁)

つまりは、その国固有の風土に根づかない

借り物のイデオロギー的理念や観念論的改革案でもって

枝葉が接ぎ木されていくと本体の根幹そのものも腐蝕してしまい

立ち枯れてしまうことになりかねないということです。

他国での<成功事例>も所変われば

まったくの<失敗事例>にもなり得ますし、

事実としてこのロシア経済改革に先だつ

諸外国の実施事例からもほぼ<失敗>が予想されてもいたからです。

だからこそ、心ある有識者の方々は

このような「急進的」改革案には厳しい批判を

繰り返しなされてきたわけです。

それでは本章において提示された著者の批評分析を

ひとつの参考視座に据えながら独自論評へと移らせて頂きますね。

①旧ソ連邦におけるいわゆる「計画(統制)」経済体制で

創造されていた組織構造とはいかなるものだったのか?

その脆弱性論を通じて現代日本の<都市再生計画論>批判をも

再検討してみること。

例えば、今もてはやされている『スマートシティー』だとか

コンパクトシティー』だとか『○○経済(国家戦略)特区地域構想』や

道州制(過度な地方分権推進路線)』などなどです。

ここでのキーワードは<モノゴーラド>という都市設計です。

②ロシアのように政治経済面での価値観転換が

急激に行われていった場合にいかなる事態が

国民心理や生活面に現れ出てくるのだろうか論。

ここでのキーワードは<急性アノミー>(デュルケーム小室直樹修正型)という

発想にあります。

以下ではこの2つの論点を中心に見ていくことにしましょう。

まず①の事例から。

ここでは旧ソ連邦における特異な政治経済思想実践型「計画」都市設計の

あり方が国民生活への<足枷>となってしまったという事例が

紹介されています。

特に旧ソ連邦の場合には厳密にいかなる形態の

いわゆる『共産(社会)主義』体制だったのか不明瞭な点も多々ありますが、

基本的には当時のソ連支配層によって時々に<公式>採用されてきた

政治価値意識に主導された政治経済体制だったことだけは間違いありません。

そうした支配層によって採択された政治経済体制が

真に当時のソ連国民が受容することが出来たものなのかどうかは

相次ぐ<粛清劇>などを見る限りでは

安易な積極肯定評価を下すことが出来ません。

つまり、旧ロシア帝国時代から引き続く国民の伝統的生活習性が

旧ソ連体制へと引き継がれていくうえでも

その体制擁護がどこまで受認され、どこからが否認されていったのかも

同時に分析していかなければ旧ソ連体制でのロシア国民の行動姿勢の

真のあり様もにわかに判断することは出来ないということです。

厳しい情報統制が敷かれていた国家における国民の

<物言わぬ大多数(サイレントマジョリティー)>の

真の声や動静を知るにもどうしても限界が出てきてしまうからですね。

とはいえ、そのような厳しい体制下においても生き抜いて行かなくてはならぬ

一般民衆の行動姿勢としては旧ソ連に限らず

ある程度までは体制に順応していかざるを得ないわけで

どこかの時点で同化適応反応がより強固になっていくのも

一般傾向だということです。

このような心理傾向とともに当時の旧ソ連が採用していた

政治経済体制を象徴する「計画」都市に

<モノゴーラド>というものがありました。

<モノゴーラド>とは本書の定義によりますと、

ある種の企業城下町のような都市構造であって

『各都市がそれぞれ一つの企業ないし産業に特化(中略)

単一の企業・生産に依存する都市』(本書57~58頁)だとのこと。

こうした過度な単一・特定産業に依存してしまった

いわば「超」分業体制型都市国家では

一つの政治/経済基盤が崩壊していくと

波及的に<ドミノ倒し>現象が起きてきて

生活基盤が「切断」されてしまうという脆弱さを生み出してしまうと

いいます。

ちなみに、<モノゴーラド>の<モノ>とは『単一』という意味ですが、

この『単一』品目だけに過度に依存した農業政策を

モノカルチャー>農法だとか<プランテーション>農法だとか言ったりします。

こうした農法が歴史的にいかなる苛酷な結果をもたらしたのかも

冒頭導入部で農業(政)論についても触れさせて頂きましたので

この帰結とも絡めてご想像して頂くとより一層と

深刻な事態へと進展していくこともご理解頂けることでしょう。

旧ソ連の集団農場として『ソフホーズ』や『コルホーズ』というのが

皆さんも初等義務教育段階の社会科授業で学習されたことがあるかと思いますが、

現在我が国の農業改革の一環として<民営(株式会社=営利企業法人)化>路線での

大規模集団的集約型方式へと転換が促されようとしていますが、

<民営化>になったからといって<国営化>における失敗事例が

解決されていくかというとそうは問屋が卸さないことも想定されます。

重要点は農業法人へ出資する「主体」が官であるか民であるかではなく、

その組織形態や指導経営体制の<実態>こそにあるからです。

その<実態>が農業『実』稼働従事者に苛酷で収奪的なものであれば

たとえ<民営化>されたとしても改善されることなど

万に一つもないということも押さえておいて頂きたいわけです。

このように<モノゴーラド>のような

もともとの都市基盤が脆弱な経済体制であったところに

その衰退都市化現象にさらに追い討ちをかけるように

そもそも経済思想(価値観)が異なる土壌に対して

あらたな<民営化>改革思想が急激に導入されていったことが

さらにロシア経済と国民生活の極度なまでの悪化をもたらしたのだと

評価されています。

上記引用文で論者が示唆されているように

『資本主義への

移行そのものではなく、その移行の具体的な方法に原因があったと

考えられる。方法の選択を誤ったことが、悲惨な結果を招いた』

と分析評価されているものの、後半部のあらたな経済体制への移行方法

(ここでは具体的には急進的<民営化>)に問題があったとの指摘は納得し得ますが、

そもそも論として前半部の『資本主義への移行そのものではなく・・・』といった

評価につきましても評者(管理人)としては

あまりにも楽観的な見立てではなかっただろうかと

そこに少し<勇み足>を感受したために納得いかなかったのです。

というのも『資本主義』が成立するための精神基盤(ロシアに接ぎ木された

英米型のそれも特殊な『資本主義』精神)が十二分に成長していないところに

安定した『資本主義』経済体制への移行も可能だとはとても評価し得ないからです。

その本質的に重要な根本のところでも問題がなかったのかどうか

そこにも検証を及ぼさなければ不十分な分析結果になってしまうのではと

懸念されたからです。

そのあたりの論点は本書の論旨とは外れていきますので

ここではこれ以上論じませんが、

ご興味ご関心ある読者様には各自で検討課題として提出しておきますね。

要するに旧ソ連の政治経済体制を支える基盤である共同体機能すら

すでに喪失させられていたために当時のロシア国民も

何を信頼していいのか自信が持てなくなるという

<急性>を通り越した<慢性>アノミー状態に

すでに落ち込んでしまっていたのではないかという問題のことであります。

このような<慢性>アノミー状態が蔓延し出すと

すべての社会生活活動においても投げやりな態度を取ることとなって

暴飲暴食習慣などを通じて健康状態が悪化していくだろうことも

容易に推測することが出来るということです。

このような歴史的過程分析も踏まえて

もともとのロシア国民が有していた健康観や

公衆衛生事情の変遷分析評価とともに

改革後のロシア国民への公衆衛生面での影響が

いかにしてさらなる悪化を招いていったのかという点が

検証されていくことになります。

具体的な動向分析については

<死亡率、貧困率に違いは大きく表れた>(本書78~85頁)にて

詳細な解説がなされています。

本書で採用される比較考察のための分析手法としての<自然実験>が

本章ではロシア(を代表とする『ショック(急進的改革手法)療法』導入国)と

ベラルーシ(を代表とする『漸進的』改革手法導入国)を対象に

その検証結果が提示されています。

詳細は上記項目論考に委ねさせて頂くことにいたしますが、

この結果は旧東欧諸国でも

『ショック療法』採用国と『非ショック療法』採用国で

やはりそれぞれで似たような結果が判明してきたとのこと。

まとめますと、『ショック療法』採用国では公衆衛生面での

著しい悪化現象が見受けられ、『非ショック療法』採用国では

ある程度まで悪化する事態を抑制出来ていたということです。

ですから、ここでの結論は

<民営化>そのものの是非善悪を問うという視点よりも

その政策のあり方(進め方)の違いによって

公衆衛生面においても及ぼす影響力が大きく異なってくるという点に尽きます。

さて、まさに只今現在コロナ禍で厳しい局面に立たされている人類ですが、

コロナ禍収束後の生活様式の行方が世界各国で注目されています。

この新しい生活様式が適切妥当であるかどうかによって

今後の成功/失敗図式も変わってくるといいます。

このような議論がなされていく中で

最近我が国でも<スマートシティー>法案を巡る賛否両論が

少しずつ見出されてくる状況となってきています。

<スマートシティー>をいかなる都市形態のものとイメージするかは

もちろんその思想哲学などを含め論者によって大きく異なりましょうが、

<スマート>を文字どおりに持続可能な生活をもたらす

「賢い」都市基盤とそれを支える社会整備資本の充実、

それへの「積極」投資という点で捉えていくならば

成功への道もあり得るのでしょうが・・・。

一部で懸念されているのが、

これまでの我が国における公共投資事情のあり方(様)を

見ていると、特定の偏りがたびたび見受けられてきたことや

『緊縮(節約/選別型)』投資とも相まって

地域ごとに大きなバラツキ(格差)が生起してきているという点で

あります。

つまり、ここでの<スマート>は

ただただ「痩せ細っていく」ばかり・・・というイメージ図であります。

都市再生政策にせよ都市設計計画にせよ、

全体としての格差を公平に均していくためには

点と点が「分断」されずに、

仮に自然災害などによってどこかの点が「切断」に追い込まれたとしても

別のどこかの点を通じて<有機的>にその「分断」箇所に

再び到達し得る生活回路(ライフライン)を複雑に創造出来ていなくてはなりません。

この点こそ現在のインターネット思想の背景にもある

<リスク分散>発想であります。

現在の私たちはこのインターネット思想を類推モデルとしながら

いわゆるIoTモデルによる<スマートシティー>構想を練っている段階に

達しているというわけですね。

このようなモデル方式が真に適切な国家マクロ経済政策を後ろ盾として

実現することが出来たならば成功への道も見えてくるのでしょうが、

先にも触れさせて頂きましたような

昨今の『緊縮』経済思想哲学が忍び込んでくると

旧ソ連邦の<モノゴーラド>批評でも見たような

厳しい局面へと追いやられていくことにもなりかねませんから

現在審議途上にあるいわゆる<スマートシティー>法案についても

精査していく必要があるということですね。

この問題意識とともに次に②の論点を付け加えて

さらに分析考察していきましょう。

世の中がコロナ禍『前』からコロナ禍『後』へと変遷していく過程で

当然ながら<新しい生活様式>を含めて価値観の転換が

必然的に要請されていくことになるでしょう。

この過程で発生する社会心理学的知見に<アノミー>論というのが

あります。

<アノミー>とは社会学的な定義は上記リンク先のウィキ情報で

参考程度にご確認頂くといたしまして、

簡単に言いますと、

『急激な外部環境変化によって人間の内面規範(価値意識)が

パニック(=フリーズ/行動・思考停止状態)に陥ってしまい、

まったく為す術がなくなってしまう・・・』ような心理現象が

発生してしまう状態を一般に思い浮かべて頂くと

ご理解しやすくなるかと思われます。

こうした<アノミー>状態が時と場合によっては

人間を『自殺/他殺』へと追いやってしまうこともあるということを

仮説検証していった社会学者にデュルケーム氏と

その発想を日本社会の現状と日本人固有の心理を踏まえたうえで

修正モデルを創造構築された異才に故小室直樹博士がおられたのでした。

今後の<新しい生活様式>なるいわゆる人間同士の『非接触型』社会活動形態へと

移行していくにつれて

人間に特有なあらたな問題も多々発生してくることも予想されています。

というよりも、すでに発生してきております。

相手の顔がますます見えづらくなるためにストレスが募って

暴力行為が誘発されていく事例など。

『テレワークハラスメント(俗称:テレハラ)』なる新造語まで

流行語になろうとしてきています。

このような身近な事例を少し想像してみるだけでも

<新しい生活様式>が即座に『素晴らしき新世界』になるとは

とても評価することが出来ません。

この移行期における<アノミー>的人間錯乱を

いかに抑制させつつあらたな生活基盤を創造構築させていくべきかという点も

公衆衛生学上の知見とあわせて皆さんにも宿題とさせて頂きましょう。

このようなわけで本章からはロシア事情を題材に

『価値観転換』に伴う公衆衛生上の諸問題という観点からも

是非学び取って頂きたく願います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

③『第3章 アジア通貨危機を悪化させた政策』

※本章ではアジア問題から見た経済政策による

公衆衛生学上の教訓について考えていくことになります。

本章では主に1990年代末期~2000年代初期に

タイの通貨暴落に端を発するいわゆるアジア通貨危機によって

波及していった経済混乱についていかなる処方箋でもって

収束させていったのか、その過程において採用された

処方箋がその後のアジア諸国の経済回復にとって

真に適切なあり方だったのかどうかなどを見ていくことになります。

本章での結論としては、当時のIMF(国際通貨基金)が策定提示した

『緊縮』方式が激烈な副作用を伴うものだったことが浮き彫りにされます。

本書で採用する<自然実験>方式ではIMF方式に従ったタイ、インドネシア、

韓国に対する従わなかったマレーシアをその『対照群』として

比較検討しながら分析考察が進められています。

詳細は<IMFに従った国、従わなかった国>(本書92~95頁)

<自然実験の結果には明確な差が>(本書105~108頁)

特にご参照下さいませ。

それでは、この時の教訓を踏まえてIMFのような国際機関は

その思想哲学を変えていったのでしょうか?

そうした視点も含めて<第2部>からも引き続き

眺めていくことになります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<第2部 サブプライム問題による世界不況に学ぶ>

④『第4章 アイスランドの危機克服の顛末』

※本章では北欧諸国の代表事例としてアイスランドで生起した現象を

題材に経済政策による公衆衛生面への影響具合を分析考察していくことになります。

北欧諸国は一般には高福祉国家とされ社会保障面でも手厚い制度基盤にあるとされます。

そのような国でさえなぜ世界不況の影響をかくまでも深刻に受けるように

なったのだろうかという歴史的経緯の解説から開幕していくことになります。

アイスランドは近年まで目立って特徴的な産業もなかったそうで

主に漁業を中心とする貧しい国のひとつだと評価されていたようです。

この状況が大きく変化していくきっかけとなったのが

『観光業』や『金融業』といった外国からの投資促進による

経済成長を志向させた<外需>依存型経済体制への転換でありました。

ここにきわめて大きな『リスク』が潜在していたのだといいます。

<アイスランドが隆盛から凋落へといたる過程>本書114~119頁)

そのような脆弱な経済産業基盤のうえに

米国発のサブプライムローン問題などに端を発する

いわゆるリーマンショックの衝撃が押し寄せてくることになります。

この衝撃に耐えきれなくなったアイスランド政府は

ついにIMFによる緊急融資支援を受けなければならない状況にまで

追い込まれていったというわけですが・・・。

このような苛酷な状態に置かれてしまったにもかかわらず

当時のアイスランド政府とアイスランド国民が選択した

政治的意思決定により次章で分析されていくことになるギリシャとは

対照的な方向へと進んでいったというストーリーが本章での話題となります。

『では、なぜ結果としてアイスランド国民は自力で<独立>精神を発揮することを

通じてこのような厳しい局面を乗り切っていくことが叶ったのでしょうか?』

この点をご理解頂くことが本章で学ぶべき重要目標ということになります。

結論的には、当時のアイスランド政府が次章の『独自通貨』を持たないために

外国から独立した自前の財政・金融政策を採択出来なかったギリシャとは異なり

『独自通貨』を発行する権限を保持し得ていた政府であり続けていたこと。

そのうえで政府も安易な国際機関への信頼を選択せずに

自国民の政策決定判断能力(『民族自決権』)への信頼を優先させたこと。

つまり、このたびのIMFによる緊急融資支援の是非を問う国民投票という形態で

自国民の『民主主義』に最後は賭けることが出来たという

この一点に尽きるということです。

この『民主主義』に賭けるという政治選択は

<言うは易く行うは難し>にあるのが実際の厳しい政治教育風土であるのが

世の常というものです。

なぜならば意図せずに国民にとってより不利な選択をしてしまうという

『リスク』もあるからです。

それではこのような『リスク』がありながらも

『なぜ、当時のアイスランド国民は適切な判断を下し得たのでしょうか?』

それは当時のアイスランド政府が率直かつ誠実に

現在の政府が置かれている実情を国民に『正しく』説明する責任を果たしたことと

そのうえで国民に無用な不安感を与えないような安心材料(社会保障制度を始めとする

国民生活支援制度基盤の充実)を提供し続けることを『約束』するとともに

『実行』に移したからです。

それを可能にしたのが強調しても強調し過ぎになることはない

『自国通貨発行(政府信認)』を支えとする

自由な財政/金融政策の実行を決断することが出来る

通貨制度基盤が確保されていたからなのでした。

ただここで<勇み足>をして頂きたくないのですが、

『自国通貨発行』が可能だからこそ

自由な財政/金融政策が即実行可能になる・・・という

単純な話でもないということに注意が必要だということです。

それが可能となる最大条件こそ

政府への『信認』ということ。

つまり、国民による『民主主義』を担保する政治/経済基盤が

きちんと確保されるとともに政府と国民との間に

深い信頼感が生み出されている状態にあること。

繰り返しになりますが、この条件を満たせていることこそ

<成功のもと>だということですね。

この点と比較すると現在の我が国政府のあり方に

なぜ不信感が募っていくのかがご理解頂けましょう。

政府への『信認』の大前提として

『政府自身がウソをつかないこと!!』という至上命題があるからです。

同時に国民自身も自らの民主主義『決定権』を諦めて放棄しないという

もう一つの至上命題を満たすことが重要条件となるということです。

この双方を満たしてこそ我が国でも

当時の厳しい苦境にあったアイスランドと同様に

まさに『不死鳥として甦る』道が開拓されていくことになります。

ということで、私たち日本国民としては

このアイスランド政府の教訓が示唆された

本章こそ最必読論考箇所だということになります。

『インバウンド方式(過度な外需依存経済)』が

最悪期にいかなる帰結をもたらすことになったかを

よくご理解頂ける分析評価だからです。

<アイスランドから学ぶべきこと>本書136~140頁

ちなみに、本書ではあまり触れられていない補足説明を付け加えておきましょう。

本章の対象事例国であるアイ『ス』ランドとよく似た国名に

アイ『ル』ランドがあります。

両国ともに不動産バブル問題やサブプライムローン問題といった

金融機関での異常化現象から経済危機が誘発されていったにもかかわらず

なぜ後ほどの政策対応で大きく分岐していったのでしょうか?

それは『アイルランドが緊縮の思想に基づいて、支出を削減し、銀行を

救済したのに対して、アイスランドは銀行を倒産させ、通貨を切り下げ、

資本規制を導入し、福祉措置を補強した。』からに他なりません。

『緊縮策という病~「危険な思想」の歴史~』マーク・ブライス著、

第7章 314~321頁あたりご参照のこと)

この両国も<自然実験>するにふさわしい『対照群』であり、

公衆衛生政策面でも大きな「格差」が創出されてしまった背景事情を

知ることが出来るようです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑤『第5章 ギリシャの公衆衛生危機と緊縮財政』

※本章ではギリシャ事情を事例問題として見ていくことになります。

すでにギリシャの結論は前章でも簡単に触れさせて頂きましたが、

結論としては『IMF支援(緊縮方式)』を完全受容して

政府も国民も完全制圧されてしまったことで

以後も苦難な道のりを歩み続けていかざるを得ない羽目に陥ったということです。

この超『緊縮』経済政策受容過程で

より一段と国民の公衆衛生も悪化し、

さらに深刻な政情不安を招き寄せていったことに

さすがのIMFも反省課題を与えられたために

その後(2012年)にその『緊縮』方針の失敗を認めて

転換していくきっかけにもなったとされています。

<IMFも緊縮策の失敗を認める羽目に>本書166~170頁)

とはいえ、本当に完全な方針転換に至ったのかまでは

今後とも注視していかなくてはなりません。

このコロナ禍の影響を受けた世界経済悪化予防のために

過去の政策教訓を踏まえた財政/金融政策の『反』緊縮志向への

転換も促されてきているような<公式見解>も提出されているようですが

世界各国政府の指導者や一般民衆が

この国際機関が採択する政策影響に無関心であれば

今後もまた同様の悲喜劇が繰り返されるとも限りません。

そのためにも1人1人がこのような

『<雲の上>の世界のことなんか知ったことか!!

どうせ我々の生活には何の関係もないんだし、腹の足しにもならねぇや・・・』

なんて構えておられますと

『やがてあなたご自身の生活上に悪夢がやってきまっせ!!』ということに

なることだけは是非ご記憶に留め置いて頂きたく願います。

確かに1人1人は『無力』なため

すぐには大きな声となって世の中を変えることは難しい側面もありますが、

『無力感を抱いておられるのはあなた1人だけではない』ので

無力(最初は0)であったものも1人2人・・・と後に続く者が出て来れば、

必ずや世の中を動かしていく力強い勢力となっていきますので

時間はかかりますが辛抱強くご一緒にその声を届けていこうではありませんか・・・。

なお、今回のコロナ禍による感染率がきわめて高かったイタリア事情についても

ギリシャ同様の問題が潜在的に抱え込まれた状態にありますので

本章での分析知見をもとに各自で予想検討してみられると

よき復習課題となることでしょう。

『同じ世界で苦しんでいる人の姿は近未来のあなたご自身の姿なのかもしれない』

のですから、決して『他人事ではない!!』ということを再確認させて頂いたうえで

各国公衆衛生事情に関する<各論>分析要約を締めくくらせて頂きます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<第3部 不況への抵抗力となる制度>

⑥『第6章 医療制度改変の影響の大きさ』

※<第3部>は<第1部>と<第2部>の『各論』分析結果を踏まえて

導き出されてきたいわば『総論』という位置づけとなります。

本章では主に英米両国の医療/健康保険制度の比較対照研究による知見提示とともに

各国の国民保険制度比較研究からいかなる結論が見出されてきたがが

示されていくことになります。

特に英米での対照的な制度変革がその後の両国社会に

いかなる影響力を及ぼしていったかの模様を知ることが出来ます。

本章ではオバマ政権時代に創設された<オバマケア>が

社会に与える影響観測までの論考解説で止まっており

現在のトランプ政権下での米国医療/保険事情についてまでは

追跡されていませんが、近年は<保守派>政権だから『緊縮派』という

図式も成り立たたない状況にあります。

価値観の相違を反映させた社会福祉制度への修正もあり

多少は<オバマケア>への見直し領域もあったようですが、

現在進行中のコロナ禍での感染疾病者と死亡者数の比較相対的な増加傾向を受けての

学習効果も発揮されたとするならばトランプ政権下でも

<オバマケア(国民皆保険制度)>思想が容認されるとともに

より充実した方向へと転換していくきっかけとなるかもしれません。

<国民皆保険制度の国々との比較>本書182~183頁

このように国家主導型のいわば<官製>社会保険制度にも諸国様々な差異があるために

単純に<民営化>志向型社会保険制度と比較して非効率なものばかりだというわけでも

なかったことも明らかにされていくことになります。

とはいえ、もちろん非効率な側面も多々存在していたことは事実ですが、

その点は官民問わずに制度設計上の問題ということになりますから

<民営化>しさえすればずば抜けて優秀な社会保険プログラムに変化するとは

常には断言出来ないということが本章での帰結であります。

<市場原理が医療を不効率にしていた>本書179~182頁

そもそも<いのち>の存続可能性に即座に直結していく

医療・介護・社会福祉制度に経済効率性を極度に求めること自体が

矛盾しているということです。

経済効率性を考慮せずに公衆衛生や健康面での

過度の医療機関依存を招いてしまうことで

むしろ健康状態を悪化させてしまう<モラルハザード>問題も

確かにあることでしょう。

とはいえ、それは各国の国民生活習慣や医療/保険制度への

信頼(期待)観の差異など様々な見方などが複雑に絡まっているために

一部の人間による<モラルハザード>問題のみを針小棒大に捉えて

一律に『緊縮』型制度へと押し込めていくような誘導政策は

厳に慎むべきあり方だということです。

現在では<病前診療>を推奨モデルとした『予防』医学思想に基づいた

制度改革がなされてきているわけですが、

『予防』医学方針に立ったからといって

ただちに意図した経済効率(つまりは、医療/保険費の節約)が

叶うというこれまた単純きわまりなき話でもないからです。

そもそも人間とは多種多様な健康状態にある生物なわけですから

それぞれの状態に応じて自由自在に医療を受ける機会が確保されている方が

本来の『選択の自由』の発想にも馴染むというものでしょう。

それに応じて医療/保険費も個々人にあわせて千差万別に決定されていくわけですが、

現在は『高額』医療機器をフル稼働させた『高度専門』医療の時代ですから

あらかじめ利用者の方で適切な診療(察)方法を決めることも難しいでしょうし、

診療報酬体系といった医療業界内部事情に通じることも叶わない現状にあります。

しかも事前に固定(基礎)費用と変動(上乗せ分)費用についても

明朗会計であることはほぼ絶望的状況にあります。

病気の症状次第で変動費用は大きく変わってくるわけですが

その変動費用の予測などそもそも事前に出来ないからこそ、

出来たとしても上記のような医療/保険費の『高度/高額化』に伴って

ますます予測不可能な状況へと変わってきているからこそ

利用者不安を回避するためにも

また悪質な医療関係者から利用者を保護するためにも

変動費よりも固定(基礎)費用分たる

<国民皆健康保険>の意義があるわけです。

その<国民皆健康保険>費用の基準をどのあたりに設定するかで

年々増加していく一方、生活困窮者になればなるほど

利用困難な状況へと追い込まれていき、

ついには活用すら断念して泣き寝入りせざるを得ない羽目に陥るのを

回避するためという名目で『抑制』政策が採用されてきたわけです。

とはいえ、こうした医療費請求可能限度の問題と

全体的な医療/保険制度を維持するうえで不可欠な諸経費の『圧縮』化を促す

『緊縮』型制度改革による必要な病棟や病床などの削減まで

求めていくという姿勢が適切妥当なあり方だったのかどうかは

まったくもって次元の異なる問題だということです。

そうした次元の違う問題を混同して医療現場を混乱に追い込み、

利用者の利便性を逆に妨げてきたのが、

『<何でもかんでも民営化>極論者』だったというわけです。

本章ではこのような医療/保険観に関する情勢変化分析を通じて

警告がなされています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑦『第7章 失業対策は自殺やうつを減らせるか』

※本章では経済政策面から見た失業対策のあり方を検討することで

公衆衛生面での影響度数を探究していくことになります。

ここでは失業に伴う健康悪化や自殺率を低下させる試みとして

『積極的労働市場政策(ALMP)』というものが紹介されています。

詳細は本章各該当論考文をお読み頂くとしましょう。

特に本書198~206頁あたりご参照のこと)

ここでは前にもご紹介させて頂きました

『現代貨幣理論(通称:MMT)』に基づく雇用労働政策である

<就業保障プログラム(通称:JGP)>と合わせてご一読下さると

その重要性がいかに喫緊課題であるかもご理解頂けましょう。

結論的には『失業対策=公衆衛生面での改善=社会の不安定化軽減緩和/阻止』という

流れになります。

すなわち、

『ALMPで仕事への早期復帰を促すことによって、福祉への依存度上昇が

食い止められるとともに、経済への労働供給量が増え、経済回復の一助とも

なっていたのである。』(本書206頁)という改善効果が見られて

経済政策と公衆衛生/社会福祉政策が車の両輪として

うまく起動することが叶えば、いわゆる<トレードオフ(あちらを立てれば

こちらが立たずという二律背反状況)>にもならない好循環を

導き出すことも可能だということですね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑧『第8章 家を失うと何が起こるか』

※本章では住宅政策のあり方を通じて検証していく

公衆衛生面への影響度が提示されていくことになります。

人間は安定した居所(住処)を喪失するだけでも

大変な精神的ストレスに苛まれてしまうものです。

とりわけ今回のコロナ禍と関連する過去の教訓事例として

紹介されているのが、

米国におけるウェストナイルウィルス蔓延問題であります。

(ご参考資料サイトとしてこちらもご紹介しておきます。)

人間が住居を喪失して文字どおり行き場がなくなれば

ホームレス状態にしかなるほかありません。

仮にホームレス状態になったとしても支援者に恵まれれば

<仮>住所であっても住居は確保することが出来ます。

しかし確保するためには官民の財政/金融政策面での

支援がなくてはなりません。

その住宅支援(補助)予算が『縮小』されていけばいくほど

またもやホームレス化へと追いやられていってしまいます。

そのことで当人はもちろんのこと、

社会不安も増大していくことになり、

不衛生状態から疫病発生の震源地ともなってしまいかねません。

だからこそ、すべての人間には『衣食住』の3点セットが

確保されていなくてはならないわけです。

『衣食足りて礼節を知る』とはその後の次元にある話だということも

このような具体的事例を通じてこそ実感して頂けましょう。

ですから、保守派が倫理的に好むような『清貧観』だけで

経済的には<自足>すれば足り、<満足>というレベルまで

求めることは欲張りすぎるとの見解イメージ像は

常に当てはまるというわけではないということです。

ここでも個人レベルの満足度の問題と社会/国家全体での

豊かさ指標との問題を混同させた<合成の誤謬>が深く張り付いていると

見ることも出来ましょう。

この『常に成り立つとは限らない』という数理的世界観こそが

不確実さを増す現代社会にとっては問題解決のための

実用的命題になるということですね。

『常に成り立つ(セイの法則=生産したモノやサービスは

必ず消費/投資にすべてが回されて手元に残されることなどあり得ない)』を

至上命題とするいわゆる<古典派>の数理的世界観とは大いに異なるというわけです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑨『結論』

※さて、本書の最終結論部へとようやく到達しました。

まとめますと、本書全編を通じて論者らが世に問うたことはただ一点のみ。

『経済政策を誤れば(特に不況時)文字どおり人間を死傷させてしまう!!』

いうことです。

このような最悪な結末を回避するためにこそ必要とされる

最重要な政策課題を3点に集約して本書の<まとめ>とされています。

Ⅰ 有害な方法は決してとらない

Ⅱ 人々を職場に戻す

Ⅲ 公衆衛生に投資する

<不況下での政策決定はどうあるべきか>本書240~244頁

最終結語として以下を引用して本書要約論評を閉幕させて頂きましょう。

『経済を立て直す必要に迫られたとき、わたしたちは何が本当の

回復なのかを忘れがちである。本当の回復とは、持続的で人間的な回復であって、

経済成長率ではない。経済成長は目的達成のための一手段にすぎず、

それ自体は目的ではない。』(本書243頁)

言い換えますと、経済成長率向上も公衆衛生環境充実率上昇とともにあるのが

ベストな状態であり、適切な経済政策(つまり、特に不況下においては

なおのこと『反緊縮』志向であること。好況下においても

こと人間の<いのち>と<尊厳>に関わる領域である医療/保険領域は

やはり大切に護持すべき『聖域』だということです。

『聖域』をいじる必要性に迫られたとしても

よほどの見識をもった為政者でなければ残酷な結末を迎えることだけは

これまでの世界の『緊縮』経済志向態勢がもたらした現状を眺めれば

すでに十二分すぎるほどの明証材料が揃っています。)さえ打つことが叶えば、

後は結果として経済成長にも反映されていく・・・ということです。

いずれにしましても、世界各国民はまだまだコロナ禍とそこから導出されてきている

経済不況のゆくえを注視しながら決して油断することなく

コロナ禍後の世界を見据えて思慮深く過ごしていかざるを得ません。

その過程であらたな画期的な『技術革新』も創出されていくに違いありませんし、

その利益でもってこれまで『ありそうでなかった』人力(人間労働力)に

過度に依存し過ぎない経済生活のあり方も見出されてくることを

期待しましょう。

そのあたりは後ほどエッセーコーナーにて

あらためて触れつつ皆さんとともに想像考察していくことにいたしましょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・<謝辞>

・<訳者あとがき>

・〈訳者あとがき資料〉日本の自殺率と国民医療費の推移

・<研究文献一覧>

・<原注>

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『暁に祈る』(古関裕而作曲)口ずさむ管理人より皆様へ<エール>を届けます♪♪

では、<エッセーコーナー>へと転幕させて頂きますね。

あらためまして本書をご一読して頂ければ、

いかに『休業(自粛)要請は補償とワンセットで!!』という命題が

感染拡大防止のためにも最優先課題とされなくてはならないのかが

ご理解頂けるものと確信しております。

かといって、すべての人間がいつまでも<巣ごもり>し続けていたのでは

継続的な補償金をたとえ十二分に頂くことが叶ったとしても

平時の貯蓄(余剰)供給能力が枯渇していけば

やがてそれこそ悪性インフレを招き寄せる原因にもなりますし、

特に諸外国による自給体制への傾斜に起因する

食糧の輸出入が制約されていく中での

国内自給『力』の低下がより一段と強まっていけば

適正値段での食料調達も極度に難しくなるために

最悪の場合、その挙げ句の果ての結果として

餓死やそれこそありとあらゆる<阿鼻叫喚>地獄が

この世に出現してくるだろうことは子供ですら

わかる道理というものでしょう。

にもかかわらず・・・。

これまで我が国政府が進めてきた経済政策は

ことごとく国民を貧困化に追い込んでいく土壌を

延々と築き上げ続けてきたのでした。

それもすでに1970年代頃からずっとですよ。

『難しい屁理屈で国民を大人しくさせることが出来る・・・』と

高をくくっていた時代もついに終焉を迎えようとしております。

いわゆる『国の借金(財政破綻論)』の根拠が

<自国通貨発行特権>があり過度な外需依存に傾斜していかず、

適切な需給ギャップの範囲内で『内需』喚起することで

好循環を生み出す環境が整えば

『およそあり得ない』という真実も

多くの国民に浸透してきているからです。

それでも私たち一般国民が容易に有識者という専門家集団の

<認識共同体>に知性判断能力を混乱させられてしまうのは

大本の正しき情報が提供されることが少ないからなのです。

最近は一連の<フェイクニュース>対策から

『事実に基づく政策批判』への関心・認知度が高まってきておりますが

なかなかデータ分析手法や統計の創作過程や操作方法などに関する

一般教養知識が初等義務教育段階からも教えられる機会が乏しく

何か世の中の諸現象は『所与(当たり前で疑う必要なき大前提という意味)』の

事実として考えられてしまう思考癖が身に付いてしまっているがために

『世の中そんなもんなんだ、ふ~ん。』と諦めムードが形成される

土壌が出来上がってしまっています。

このような土壌から脱却することは並大抵のことではありません。

とはいえ、現在では学校での教科書による<公式>見解や

主流マスコミが提供する報道情報についても

多種多様な観点から検証することの出来る媒体である

各種メディアツールも開発されるようになったことから

少しずつ『世論』形成過程も変わってきています。

そんな流れの中で複数情報の相互確認作業が可能となるなど

長所もある反面、相変わらず<ネチケット(インターネット上での

表現活動をするうえで必要とされるエチケットを略した表現)>すら学ぶ機会なく

歪んだ活用法で人間や社会に悪影響を及ぼす輩も後を絶ちません。

最近のSNSを通じた非難中傷いじめから惨劇をもたらす原因となったと

評価されている『他者の集団生活状況を観察して喜ぶ』という番組制作志向など

単なる<覗き見>という悪趣味を助長するものでしかありません。

このような風潮の中でいかにマスメディアと付き合っていくべきか、

言論責任を持って適切な社会的コミュニケーションを図っていくべきかに

関心が払われるようになってきています。

そこにも『読解力』という問題が横たわっているわけですが、

この<知力>を身につけるのはそう簡単なことではありません。

適切な<要約(コメント)力>という知的能力は

やはり絶えず練習していかなくては身に付かないものだからです。

管理人もより精確な『読解力』には悩まされ続けている1人ですが、

むしろその能力の乏しさを厳しく自覚しているからこそ

生涯学習へのモチベーション(動機、やる気の源)も創造されていく

いうわけです。

『<読解力>とは良質な人間関係を形成するためにも、価値観の異なる

複雑多岐な人間によって構成されている社会をお互いに心地よく

過ごしていくことが叶う環境に進化させていくためにも

軽視してはならない生きていくために最重要な知力』だからですね。

この<読解力>の不備が積み重なると暴力誘発の推進力と

なってしまうからです。

最近は<書評(ビブリオ)>活動にも注目が集まり、

様々なメディア媒体などを通じて魅力的な作品が見られるようになったのは

個人的にも頼もしき限りです。

このような身近なところから創発されていく知的好奇心や

社会や人間へのより強く深い興味関心度が高まっていく『場』が

あちらこちらで立ち上がっていくことも

『民主主義』精神を育むうえで大切な養分となるわけですね。

そこから初めて真の<批評>精神のあり方や

言動責任への自覚も刷り込まれていく習慣が育まれていくからです。

このような形でいわゆる<草の根>民主主義観も養成されていくわけですが、

そこには『討論』文化も同時に根づくことがなければ

すぐにも単なる<ためにする>見かけ倒しの

『闘論』『倒論』となりゆくだけで

より説得力ある『活力』に満ち溢れた議論も

そこから導出されていく政治実践文化もついには育ち得ようがないからです。

これまでの我が国ではこうした<事なかれ主義(俗称:『長い物に巻かれろ』)>と

いった事大主義文化ばかりが強く蔓延り、

独立気概に満ち溢れた『活気』が殺がれていく一方に

文化衰退の種が蒔かれていったのです。

正しく世の中の成り立ちや仕組み、人間のあり様を知ろうと思えば

何度も繰り返してきた重要姿勢ですが、

『面倒くさい』諸事から逃げ出してはいけないのです。

『面倒くさい』付き合いでも大切にしていこうとするところに

大阪が誇る『小屋』文化も『喫茶』文化も育まれるからですね。

フランスにも大阪に似た<カフェ>文化があるとは有名な話ですが、

このような西欧風<カフェ(ちなみに戦前の大阪では

<カフェー>といったそうな。もっとも現在の価値観である喫茶文化とも

異次元な世界だったようですが、詳しくはウィキペディア

NHK朝ドラ『エール』の音ちゃん<二階堂ふみ氏>の女給さん姿をご覧下さい。

古賀政男メロディーも霧島昇メロディーも服部良一メロディーも

このような独特なカフェー文化の雰囲気もすでに

一般大衆文化の中に息づき始めていたからこそ

創作需要もあったようです。

『モダンボーイ・モダンガール』の世界か?

でも、この時代が世界大恐慌前の話だと想像すると

その後の重苦しさの前のこの底抜けの明るさ感って何だろうとも

近頃思うのですね。

幼少期に大正生まれの祖母に子守歌代わりに唱歌や童謡とともに

戦前・戦時歌謡曲やら軍歌をよく聴かせてもらっていたので

今でも口に馴染んでいるのです。

いわゆる<カフェー>文化はダンスホールやキャバレー文化とも

また異なるのかなぁ~。勉強不足なので間違っていたらごめんなさいね。

またこの世界の文化事情も勉強して世界を広げておきますね。)>文化とも異なる

独特な大阪<カフェ>文化の再興も

その土台があったればこそ<草の根>民主主義型自治観も

育っていったことを想像すればこそ絶対にその灯火を消してはならないのです。

このことは管理人がたまたま大阪人だからというのではなくして

日本人全体の生命力復活力とコロナ禍にも打ち勝てる免疫力を

高めるためにも有効な道だと確信しているからです。

このような感覚を日本人、いや世界のすべての人々が持ち続けていれば

必ずやいつの日か正しくコロナを始めとする目に見えない恐怖の正体であった

ウィルスとの共生も叶うようになることでしょう。

人類は結局、<微生物>との共存の仕方を考え続けることで

『文明』を創造開花させていき、現在の高度『文明』にまで

発達させてきたのだと斯界の研究者も示唆して下さっています。

1人1人の『意識』の源泉も

もしかしたら何らかのウィルスを媒介とする人格形成『質』が

絡んでいるのかもしれませんし、

その『意識』的差異もいかなるメカニズムによって創出されてきたものなのか

興味深いところがあります。

精密な科学的『意識』形成論とウィルス関与論の謎は

まだまだ知られざる領域にあるテーマであり、

軽はずみな見解提出や仮説設定も厳に慎むべき事柄ですが、

こうした機会だからこそ

『人間とウィルス(微生物)との共生』テーマも研究して頂くと

人生に楽しみがまたひとつ増えるかもしれませんね。

ここから逞しく想像の翼を広げていくと

細胞分裂の類推(アナロジー)も出来てきます。

『1が2、4、8・・・』と倍増(倍増だけとは限らず×3、×4・・・パターンも

あり得そうですが)自己増殖を続けていくところに

<生命力>の力強さが感じられます。

その『悠久の流れ』の中で生物は生き死にを何度も繰り返していくわけですが、

このコロナ禍の中ですでにお亡くなりになった皆様や感染疾病状態に

心ならずもなられた皆様には誠に心苦しい響きを連想させ恐縮ですが、

生物を大きな『次元』の相(=<永遠の相>)の下で眺めることを

お許し願い共有して頂くことが叶えば、

今の悲しみも苦しみもすべては明日の希望のためにこそ

必要不可欠な宇宙形成のための条件であることも次第に判明してきます。

このような見方が自然に出来てくるようになるためには

それこそ人生の酸いも甘いも体験し尽くさなければ

ついぞわかりあえない境地だと管理人も身がすくむ想いでありますが、

苦しい時、悲しい時、怒りにうち震える時・・・などなど

マイナスエネルギーに身心ともに犯されている時には

現在の心境に『同期』化するだけでは見えてこない世界もあるという

ことだけは是非知っておいて頂ければ

明日を生きる<糧>となってくれることでしょう。

我が国国歌『君が代』の歌詞にもあるように

『たとえ最初は小さな水滴(微力な個々人)であっても雨だれが積み重なっていく

(有力な集団化現象)とやがて磐をうがつことになる・・・』ということです。

私たちもこの歌詞にあるような力強い励ましを背に受けて

一致団結してコロナ禍とこれまでの政府の不作為による罪科を

『払い』除けていく姿勢だけに終始することなく、

さらなる先(世界『次元』)もあるのだと信じて、

万類共存共栄の道すじを探っていく他ありません。

そのためにも『選別(差別)』行動に誘惑される身心感覚を

勇気を持って振り払って、

これまでの人類相互の価値観の相違を乗り越えて

ともに『国民(世界万民)』意識を回復させていく

<正気>の世界観へと静かに帰っていかなくてはなりません。

『夜明け前が一番苦しい』とは古来から言いますものの

やがてうっすらと『暁(夜明け)』も必ず巡ってきますので

諦めずに小さな<声なき声>を皆さんとともに拾い集め

『覇道』権力を『王道』権力へと転換させていくよう

<叱咤激励>していきましょう。

『暁に祈る』(古関裕而作曲)やら『無情のスキャット』

(作詞・作曲『人間椅子』和嶋慎治 アルバム『新青年』より)

今日も口ずさみながら

ひとり雄叫び声を上げる管理人でした。

『相変わらずジャンルを自由自在に駆けめぐる

<威風堂々>(エルガー)な音楽時空世界観やのぉ~』

最近の週末晩は贔屓のアーティスト様による『ツイキャス』配信視聴に始まり、

ユーチューブ動画にて

昭和歌謡曲(それも相当な古風系から戦後から現在に至るフォークシンガー系)や

saya様によるカバー楽曲群で癒されております。

saya様による河島英五『酒と泪と男と女』もZARD『負けないで』なんて

選曲良すぎでしょ。

思わず倉木麻衣嬢による同曲カバーまで視聴してしまいましたよ、私は・・・。

中島みゆき『糸』なんて親戚の結婚式で相方様が姉妹でピアノ合奏とともに

歌われていた想い出ある一品。

『このような素晴らしいアーティスト様や

あまり知られざるインディーズバンド様もこの世界にはぎょうさんおるよってに

皆様にも是非厳しい生活状況に追い込まれている

音楽業界に限らず芸能活動家を応援してやってちょ。』

最後はなぜか大阪弁と名古屋弁のチャンポンになってしまいましたが、

そんな酔っぱらいの<独り言>はひとまず脇に置くとしまして

『皆様の意志あるところに道は開ける・・・』を<合い言葉>に

『禍を転じて福となす』道をともに歩んでまいりましょう。

いずれにしましても、慌てず、急がずに慎重な姿勢でもって

恐れず、怯まず、倦まず、弛まず歩んでいけば

必ず人類はこの教訓を活かせる次元へと導かれていくことでしょう。

その逆の道を進めば・・・。

そは転んで(まろびて)落ちる・・・、ということです。

『皆様方もゆめゆめ<自粛解除>ムードにご油断なさりませぬように』願います。

『さすればこのコロナ禍が収まればまた楽しい日々を落ち着いて

過ごすことも叶うでしょうから・・・』

『今はただひたすら<忍>の一文字あるのみか・・・』

また少しずつ落ち着きを取り戻し始めましたらば

ライブハウス事情もお届けさせて頂けると思いますので

それまでお待ち下さいませ。

来月1日から大阪ではライブハウスについても

徐々に営業再開への目途が立っていくのでしょうが、

これまでと違った楽しみを見出していく努力が必要だとされています。

今朝(5月30日土曜日)の産経新聞大阪版朝刊<社会25面>の記事

よりますれば、

『大阪府の感染防止ガイドライン』として

ライブハウス向けには以下の諸点に関する努力要請が出されているとのこと。

もっともこのガイドライン自体は今後の変動次第で

常時更新されていくひとつの現時点での指標ということになりますが、

当面は以下のようなスタイルでの楽しみ方が主流となるようですね。

・客は原則着席

・ステージと客席の間を2メートル以上あけるか

ビニールカーテンで遮蔽

・出演者も原則マスクを着用

・来場者と接触する演出はしない

・換気設備を設置し、定期的な換気を徹底

・出演者の出待ちは控えるよう呼びかける

などの要請項目が報道されていたので

この<大阪方式>が今後の日本全国での

理念型になるのかどうかは未知数ですが、

ライブハウス関係者やライブハウス愛好者の皆様にも是非この点を

知って頂いたうえで相互協力して頂くことで

ふたたびライブハウス悪玉(場合によっては無用)論にまで

衰退していかないことを祈るばかりです。

管理人自身はもちろん現時点では

ライブハウスの現場状況を直接見聞き出来る立場にいるわけでは

ありませんが、各ライブハウス関係者の<声>や

各アーティスト/バンド関係者様の<声>を見聞きしている限りでの

情報ではかなりの神経を使って綿密な感染症予防対策をとられている

といいます。

本当にこの数ヶ月間にわたってライブハウス関係者様も

アーティスト/バンド関係者様もこの厳しい状況での

再開を心待ちにして準備万端整えつつ、

新たな『文化』を創造していこうと様々に試行錯誤しながら

企画立案を練られていたことと存じます。

その模様はたとえば話題の『ツイキャス』配信視聴などを通じて

漏れ伝わってきております。

管理人も出来る限り<無料>ではなく<有料プレミアム>や

<通販サイト>を通じた物販購入などで

贔屓のアーティスト/バンド関係者様、ライブハウス様などを

応援させて頂いておりますが、

個人的な経済力ではどうしても限界があり無力感を

抱え込んでしまうことになります。

とはいえ・・・。

全国各地に『同志』は潜んでいるものです。

経済力ある者もなき者もそれぞれ分相応の浄財を

寄付提供することを通じて徐々に経営存続への目途もつき始めているとの

喜ばしい声もある反面、あまり有名ではない小型ライブハウスでは

相変わらず認知度も低いために(くれぐれもその『小屋(箱)』の

経営/広報努力が足りなかったというわけではありませんよ。念のため。)

厳しい局面に立たされ続けている所もあると聞きます。

有名所でもあらたな換気機構の備え付けなどにかかる諸費用が

重なり続けているために財源事情がかなり苦しいと聞きます。

上記『大阪府の感染防止ガイドライン』でも

<換気設備の設置>が呼びかけられてはいるものの

それに対する投資補助金を今後いかに無理なく融通して頂けることに

なるのかは未知数だということで日夜不安な状態にあるとも聞きます。

この<換気空調設備>の充実を要請する投資補助金問題は

ライブハウスだけに限らず全国あらゆる業種にも共通する

最重要課題なわけですから、

失業対策とも絡む緊迫した課題として

引き続き自治体や政府といったマクロ経済政策主体にこそ

その『真価』を発揮して頂きたく代弁者の1人として

切にご要望申し上げます。

いずれにしましても、今後ライブハウス利用者の視点から予想しますと、

このようなマクロ経済からの厚き資金的手当てがなければ

利用者個人への負担額が激増していくことだけは間違いありません。

ただでさえ、感染拡大予防のために

人数(出演者も含めて)制限を厳しくかけていくことになれば

入場『単価』に上記投資協力金の名目で上乗せされていく他ないのが

『経済原理』というものだからです。

とはいえ、そのような試みも限度があります。

入場『単価』が高額化すればするほど

より出演者も絞られていくことになりますし、

より高い品質保証が求められていくのも理の必然でありますから

出場機会を喪失することで

品質向上のための修業(行)の機会の場が喪失させられていくことに

なるわけです。

さらにコロナ禍による経済不況が継続することで利用者の所得も激減していくわけですから

利用者数自体が激減してしまうという悪循環に見舞われてしまうでしょうから。

コロナウィルスが<見えない>存在なだけに

これまでの各種ウィルス(インフルエンザなど)も<見えない>ものでしたが、

今回はまだ有力なワクチンも完成していない状況にあるために

いつまでこの状況が続くかも未定ですし、

経済の先行きも不透明なだけに人々の不安心理もいや増すというわけです。

ですから、通常と同じ発想では国民の共感支持を獲得出来るはずもなく

思い切った斬新な政策を創造していく必要があるということです。

この点を忘却すれば前回にも触れさせて頂きましたような

恐ろしい時代が再び『ゾンビ』のごとく甦ってくることになります。

昭和恐慌時に起きた歴史的教訓をも踏まえた

速やかな経済安定化策を立案、実施に移していかなければなりません。

『皇国史観』片山杜秀著、文春新書、2020年第1刷、

<政党内閣の終焉>139~141頁も参考になります。)

ライブハウス愛好者の視点からは、

特にインディーズ市場の場合には、

このような<荒削り>状態から場数(数々の<修羅場!!>)を経て

成長脱皮していく模様を直体験できることこそ

ライブハウスへ行く『醍醐味』なわけですから

是非このような利用者の心情もご理解して頂いたうえで

『現場経済学』の本質を有識者には認識されますよう

重ね重ねご検討願い申し上げます。

それでは最後の<まとめ>をさせて頂きましょう。

現在、感染拡大予防政策とともに経済回復軌道への目途を立てるという

『大義名分』の下で自粛要請も徐々に解除されていく方向にあります。

この視点はある意味では集団免疫論>をも加味させた政策志向だと

感受いたしますが、くれぐれも油断してはならぬことはもちろんのこと、

<リスクマネジメント>論の見地から言っても

現実的な対処法としてはこの世に『ゼロリスク』ということは

あり得ないということに尽きます。

ワクチンが出来てくるまでの時間と

「自然」感染による集団免疫力を獲得するまでの時間との

どちらが速いか遅いかのスピード勝負だというのが

有識者の見立てでもあるようですが、

ここにも多大な誤解がされる要素もありますので

是非とも誤解なきように適切な啓蒙情報が提供されますことを

政府や自治体関係者のみに限らず、

有識者の方々1人1人にも強くご要望申し上げます。

そこでこの<集団免疫論>に依拠した経済活動再開路線を

採用していくとするならば、いかなる点に注意すべきかを考えていく点で

優れた教訓がすでに出されてきているようですので

ここにあわせてご紹介しておきますね。

それは同じ北欧諸国でも<自然実験>として比較考察対象として

ふさわしく評価され得るフィンランド方式とスウェーデン方式との

具体的差異の実情であります。

両国ともに比較的緩やかな社会/経済活動の容認をしてきた地域だと

評価されていますが、

前者(フィンランド)では感染拡大の抑制に成功したとされ、

後者(スウェーデン)では失敗したと評価される

分岐点はどこにあったのでしょうか?

それは、フィンランド方式では『有事』意識が

スウェーデン以上にきわめて高く、第二次大戦の教訓を十二分に活かした

備蓄(余剰供給可能)体制かつ抗体検査の早期導入実施にあったというのです。

それに対してスウェーデンとともに他の欧州諸国では

十二分な備蓄体制になく抗体検査などの医療インフラ構築も

大幅に遅れたために感染拡大する要因になったのだと指摘されています。

令和2年5月28日木曜日付け産経新聞朝刊<国際面>7面の左下欄記事

ご参照のこと)

まとめますと、感染拡大の最大予防策とは

①十二分な生活必需品の備蓄供給能力を担保すること。

②抗体検査などの医療インフラの充実した構築態勢にあること。

③政府による正しい情報提供と国民による『信認』が維持されていること。

などなどがその必要十分条件になるということです。

このような他国における感染状況分析評価も加味しながら

正しき「3密」予防対策とともに

「集団」免疫論に基づく感染防止のための処方箋も提供されるならば

一般国民の社会的心理不安も沈静化される力強い励ましの

『助力』ともなり得るということのようです。

いずれにせよ、完全制圧出来るとの『ゼロリスク』幻想は捨てたうえで

感染拡大を最小限に抑制する態勢を

今後とも継続して充実させていくべきだということが

我が国の課題だということですね。

それでは次回またお逢いしましょうね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<ご参考文献一覧>

※記事内にてご紹介させて頂いた図書以外に

①『<新版>農業がわかると、社会のしくみが見えてくる

~高校生からの食と農の経済学入門~』

(生源寺眞一著、家の光協会、2018年第1版)

②『食の戦争~米国の罠に落ちる日本~』

(鈴木宣弘著、文春新書、2013年第1版)

③『人類はパンデミックをどう生き延びたか』

(島崎晋著、青春出版社文庫、2020年第1刷)

④『免疫力を強くする~最新科学が語るワクチンと免疫のしくみ~』

(宮坂昌之著、講談社ブルーバックス、2019年)

⑤『資本主義のための技術革新』

(小室直樹著、日経BP社、2000年第1版第1刷)

※<ソ連崩壊の原因は「資本主義の精神」の欠如>64~66頁に

その分析評価がなされています。

なお、別著によれば、スターリン批判によってソ連国民による

機能共同体への信頼基盤が喪失させられていったという

<急性アノミー論>による崩壊予想分析モデルも示唆されています。

<MMT=「現代貨幣理論」入門書>の簡約版としては

⑥『図解ポケット MMTのポイントがよくわかる本』

(中野明著、秀和システム、2020年)

⑦『MMT[現代貨幣理論]がよくわかる本』

(望月慎著、秀和システム、2020年)

の2冊がこれまで管理人が読み比べた中では

図表なども充実していたり

書評紹介本の日本国内での現時点における

『決定版』専門的啓蒙入門書に対する批判や論争点にも

触れられているという点で好著だと評価させて頂きました。

その評価への賛否両論はひとまず留保させて頂くといたしましても

現代経済の中核機能を媒介する貨幣の本質論のあらましを知るには

もはやMMT[現代貨幣理論]の知見を無視することが

出来ないのが事実だということです。

またその事実を認めない方であっても、

現代『信用』貨幣論と比較することで

かつての金本位制や金銀・・・複数本位制の問題点を

再検討するきっかけを与えてくれる入門書となりましょう。

金本位制を成立させていた『実物資産』重視の『金属主義』貨幣論と

現代『信用』貨幣論との違いは

前者が<有限>であり後者が<無限>的世界観を信頼するというのか

どちらの世界観をもって経済を考えるかで

その豊かさの実相がまったく異次元に感受し得てくるという点に

あるのでしょう。

とはいえ、MMT[現代貨幣理論]が依拠する『信用』貨幣観の

ネックはやはりその『信用』創造への歯止め問題であることは確かで

そのことはこの立場を支持する論者も考慮に入れています。

ですから、『信用』創造が膨張し過ぎることで生起してくる

バブル発生源をいかに制御管理するかといった問題は

課題として残されているわけです。

いずれにしましても、まずは賛否両論いずれの立場に立つにせよ、

MMT[現代貨幣理論]が導出した命題を正しく理解するところからしか

正しい批判的検討の道も始まらないことは論を待ちません。

この論争点も含めまして今後とも関連書籍などの書評紹介とともに

追跡探究していきますのでご安心下さいませ。

何事も現時点で正しいと感受された理論仮説も

将来さらなる修正が加えられていくことで

より精緻な「現実に使える」理論仮説体系に仕上がっていくわけですから。

前回の書評テーマは復習になりますが、

まさしくその問題についての話題だったのでした。

⑧『世界史で学べ!間違いだらけの民主主義』

(宇山卓栄著、かんき出版、2016年第1刷)

⑨『宇宙にとって人間とは何か<小松左京箴言集>』

(小松左京著、PHP新書、2011年第1版第1刷)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

最後までお読み頂きありがとうございました。

コメントを残す

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

サブコンテンツ

このページの先頭へ