本田哲郎神父さんの「釜ヶ崎と福音~神は貧しく小さくされた者と共に~」を読み、いのちの尊厳について考えよう!!

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本田哲郎神父と「釜ヶ崎と福音」

大阪市西成区釜ヶ崎地区

通称「あいりん地区」

ここに一人の神父さんがいます。

イエス・キリストの福音とは何か?

釜ヶ崎での活動を始めるまでは、

教会内でのエリート街道を邁進してきたため、

頭だけでの理解に止まっていたといいます。

「よい子症候群のわたし」だと・・・

人に寄り添うとは、いかなる意味なのか?

いのちの尊厳が侵されゆく現代社会において、

「無力感を抱える私たち」はいかに生きるべきか?

今回は、この本をご紹介しながら皆さんとともに

考えていきたいと思います。

「釜ヶ崎と福音~神は貧しく小さくされた者と共に~」    (本田哲郎著、岩波書店、2009年第11刷)

※この本は、2015年12月現在、岩波現代文庫から再出版されています。

本田哲郎神父さん(以下、著者)は、フランシスコ会に所属する

キリスト教伝道者です。

現代は、大阪市西成区にある釜ヶ崎地区にて

労働者支援などを通じて「福音活動」をされています。

釜ヶ崎で活動を開始して25年ほどが経ちます。

著者は、日雇い労働者とともに起居を共にしながら、

日々「解放と回心」のご経験をされてきたようです。

著者は、幼少時から「キリスト教一家」で、

上智大学神学部へと進み、フランシスコ会に所属。

その後、ローマ教皇庁の設立した聖書研究所へ派遣

され、やがてフランシスコ会の日本管区責任者に

推挙されていきます。

典型的なキリスト教伝道師のエリート街道を邁進

されてきたといいます。

著者は、東京の山谷や大阪の釜ヶ崎の実情を自らの

体験を通じて把握していく過程で、

一つの「解放と回心」を得ていきます。

そこに至るまで、「よい子症候群のわたし」だったといいます。

「イエス・キリストは、貧しく小さくされた者の中で生きている!!」

自らも、貧しく小さくされた労働者と起居を共にするに

つれて、「キリストの福音」に接していきます。

それまでの、「エリート的上から目線での福音解釈は間違っていた!!」

と、あらためて聖書を読み直す日々が続いていきました。

ここで、私事になって恐縮ですが

管理人と本田哲郎神父さんとの出会いについて

語らせて頂きますと・・・

今に至るまで、直接お会いしたことはないのですが、

管理人が著者の名前を知ったのは高校生の時でした。

大阪の某私立のカトリック系の進学校に通っていたの

ですが、宗教系の学校では「宗教の授業」があります。

言ってみれば「道徳・倫理の授業」だと

イメージして頂ければ、一般の方には理解しやすいかと思います。

その授業の一環で、大阪の地元ということもあり、

釜ヶ崎での炊き出しで必要な「米の供出支援」をしていました。

その時に、教えて頂いたのが著者のご活動でした。

管理人も進学校だったので、著者の「よい子症候群のわたし」という

言葉には胸にグッと突き刺さるような感覚があります。

いわば、「負い目」とでもいうべき何かが「魂の奥底」に

ひっかかるのです。

そんなこともありますが、高校生の時には「心のゆとり」や

社会に出るという「現実的な苦労」もなかったので、ずっと

そのことは忘れて生きていたのも、正直なところでした。

「まったく仕事がない」ということが、実感されるようになったのは

「失われた20年」を経験してきたことにもよります。

「人間には本来能力差などなく、あったとしても誤差の範囲内」だと

日々実感していく中で、改めて出会ったのがこの本でした。

能力があろうとなかろうと、仕事は常にある訳ではない。

お金も常に安定して稼げる訳でもない。

そんな「当たり前」のことに気付かせて頂いたのも、

皮肉なことに「失われた20年」でした。

いまこのときも、現実的に日々の生計を立てるのに

必死の思いを抱いておられる方が大半だと思われます。

そんな方と共にこの本を読みながら、「いのちの尊厳とは何か?」

考えてみたく、この本を取り上げさせて頂きました。

「地の塩」「世の光」となれ!!

この言葉は、一般の方には、ほとんどなじみがない言葉だと思います。

カトリック系の学校に通学しているか、クリスチャンとして

聖書に親しむ日々を送っておられる方ならご存知かと思います。

管理人も高校生の時に、この言葉を聞きながら育ちました。

ちなみに、管理人はクリスチャンではありません。

あえて位置づけるなら、「万教帰一論者」かな・・・

ごくごく普通の日本人として「ごちゃまぜ教徒」です。

それはともかく、この言葉から「エリート少数精鋭教育」を

受けてきました。

著者も、この本で語っていますように「カトリック教会」の影響を

受けた信者なら、この言葉をそのようなイメージで捉えられる方が

多いようです。

これは、「マタイの福音書」に出てくる「聖書の一節」です。

「福音思想とは、何か?」と一言で問われるなら、

それは「隣人愛の実践」です。

「自分がされて嫌なことは、他人にもするな!!」

「侵さず・侵されず!!」というイメージです。

もちろん、管理人の私的なイメージに止まりますが・・・

しかし、著者も管理人も「カトリック教会」による「福音思想」に

長いこと盲目にされていたようです。

著者は、教会的福音解釈から徐々に遠ざかっていきます。

「神は、どこか上の方で遠い場所におられるのではない!!」

「貧しくとも小さくされた人々の中におられる!!」と・・・

そもそも、「イエス・キリストご自身の教え」と

「ローマ・カトリック教会の教え」とは全く異なります。

この辺りは、高校生の時に「世界史」を選択していたことから、

まったく「キリスト教理解」に触れる機会がなかった方に比べると、

多少は理解しイメージしやすい部類に属する人間かもしれません。

「相手の立場に立てると思うな!!」

「無条件に愛することは絶望的に困難だ!!」

これらのことは、「理性による上から目線」では

腑に落ちる理解にまでは到達しないことを意味しています。

そもそも、イエス・キリスト自身が貧しい者で、ユダヤ教の「異端者」

でもありました。

有名な「パリサイ人」やローマ総督「ピラト」の讒言により、

絶えず差別され迫害される日々を送られました。

その生身に痛みを感じられたところから、「隣人愛」は生まれてきたのですから

当たり障りのない、通り一辺倒な理解では「共感・共苦の境地」にまでは

至らないでしょう。

「地の塩・世の光」とは、社会構造の中で「貧しく小さくされた者」と共に

生き抜く中で、共感・共苦することによって初めて「イメージ」することが

出来るようです。

その「貧しく小さくされた者」の存在から目を背けずに、自らの心の内にも

かろうじて残されている「痛み(良心の呵責)」に気付かされることに

感謝する・・・

そこから、「いのちの尊厳」は生まれてきます。

対立する者をも「大切にする」とは??

大切なことは、対立は「社会的構造」から生み出されるという

ことに気付くことです。

著者は、「隣人愛」における「愛」とは

ギリシャ語の原義では「アガペー(大切にすること)」だと解釈されています。

管理人は、「聖書の厳密な解釈」や本書で展開される「社会抗議の方法論」が

正しいものなのかどうかは正直言ってわかりません。

共感できるし、どうかなぁ?と考えてしまう点もあります。

ただ、著者も語っていますように

「対立(敵対感情)は、社会的構造によって生み出される」

という点では、一致しているようです。

社会的構造は、自然に生まれるものもあるでしょうが、大半は「政治的理由(人工的)」

によって生み出されるからです。

「政治とは、敵か味方か峻別する分岐点」(カール・シュミット

という「決断思想」です。

「決定論に立てば、運命に流され、非決定論に立てば、否応なく決断に迫られる」

ここに、問題の根深さがあるようです。

いずれにせよ、人類の歴史は「理性=言葉・数字」に

あまりにも偏ってきたようです。

それこそが、正しく「近代化・現代化という意味」だとしたら・・・

21世紀になっても、この人類の病は完全には治癒されていないようです。

「一神教的価値観=理性偏重型思考法」にも限界があるようです。

「多様性と寛容性」

口で言うのは、簡単で「美しい言葉」ですが、実現させるのは絶望的に困難な

課題でもあります。

この本には、著者の実践活動と福音解釈を拠り所に様々なヒントがあります。

いずれにせよ、「自ら感じ、自ら考えていく」姿勢こそが「生きる!!」

ことの本旨だということです。

この本や著者、管理人などの考えにも賛否両論あるかと

思いますが、皆さんも日々生き抜く中で考えてみてはいかがでしょうか?

年末から年始にかけては、寒くなり経済的にも精神的にも「貧しく小さく

されていく季節」ですが、どうかご自愛のうえ「良い年」をお迎え下さいませ。

この本で、著者は「対立解消」の方法につき「旗幟鮮明にせよ!!」と強調されて

いますが、優柔不断な管理人には「きつく感じられた」ことも確かです。

管理人に出来ることは、微力なことにすぎませんが、

少なくとも「傍観者にだけはなりたくない!!」ということはいえます。

なぜなら、「人間は誰しも完璧な存在ではなく、弱い生き物」だからです。

ですので、管理人も背伸びしすぎずに「出来る範囲」で皆さんのお手伝いを

末席ながらしていきたいと思っています。

今回は、熱く語りすぎましたが、このテーマは誰しも「重い宿題」だと思います。

ですので、皆さんにも「人生の叡智」としてお役に立つかと思い、

お薦めの1冊としてご紹介させて頂きました。

なお、著者の方法だけでなく「釜ヶ崎との関わり方」は様々あるかと思われます。

「貧富・格差問題は、政治的イデオロギーで切断してはなりません!!」

「釜ヶ崎は、わたしとあなたの心の中にも存在します!!」

管理人は、熱烈で模範的な支援者ではありませんが、

「釜ヶ崎や西成での活動」に関しては、下記の活動に関心があります。

もし、読者の方でご興味がおありでしたら一度参加してみてはいかがでしょうか?

おそらく、「西成・釜ヶ崎のイメージ」が変わることでしょう。

『NPO法人 こえとことばとこころの部屋(通称ココルーム)』

釜ヶ崎芸術大学(大学院)として、様々な「芸術活動」を通じて活動されています。

詩人の谷川俊太郎さんや有名な若手アーティストさんも参加されて

いるようですね。

もう一つ『西成ジャズ楽団』

も、ご紹介させて頂きます。

さらに、マスメディアだけでは伝わらない「貧困」について

考えてみたい方へ、

「助けてと言えない~孤立する30代~」

(NHKクローズアップ現代取材班編著、文春文庫、2013年)

『「助けて」と言える国へ~人と社会をつなぐ~』

(奥田知志、茂木健一郎共著、集英社新書、2013年)

をご紹介させて頂きます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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3 Responses to “本田哲郎神父さんの「釜ヶ崎と福音~神は貧しく小さくされた者と共に~」を読み、いのちの尊厳について考えよう!!”

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