ジョージ・A・アカロフ&ロバート・J・シラー博士『不道徳な見えざる手』現代日本に蔓延しすぎている俗流「(自由)市場批判論」にも警戒感を持つ視点を提供するとともに本来の<自由>市場の本質やその問題点を探究するヒントが満載です!!

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ジョージ・A・アカロフ&ロバート・J・シラー博士

『不道徳な見えざる手~自由市場は人間の弱みにつけ込む~』

現代日本を含め世界各国にすら一般的誤解に基づく俗流批判論に晒されてきた

「自由市場」を題材に現実に生起している諸現象を解析。

その過程で次第に判明してきた現在の「鵺」的自由資本主義「市場」に

内在する問題点を捉え直すためのヒントが提供された啓蒙書です。

今回はこの本をご紹介します。

『不道徳な見えざる手~自由市場は人間の弱みにつけ込む~』(ジョージ・A・アカロフ/ロバート・J・シラー共著、山形浩生訳、東洋経済新報社、2017年第3刷)

本書は

『Phishing for Phools:The Economics of Manipulation and Deception』

全訳とのこと。

<訳者あとがき>によれば、

『翻訳にあたっては、原書出版社から送られたゲラのPDFを使い、

その後実際に刊行された本も随時参照している。』(本書315頁)との

注意書きも添えられています。

こうした翻訳に絡む諸問題点は邦訳書を読み進めていく際には

常に留意すべき点だとはしばしば指摘されますが、

管理人も含めて語学に弱い読者層にとってはなかなか厳しい事情も

ありますので、もし複数の翻訳書がある場合でしたらば

あくまでも理想論ではありますが、

読み合わせすることもさらなる理解の促進には役立つことでしょう。

(とはいえ、そんな時間など管理人も含めて

なかなか作れないのが実状であり本音でありましょう。

贔屓する作家の<名作>や世界に影響を与え続けている

定評ある<古典>作品なら邦訳書も豊富に出版されやすく

入手しやすいわけですが、

本書のようなその時々における<流行的話題書>の場合には

文字通りの一過性出版物になりがちですので、

一般読者にとってはなおさら厳しい課題ともなりますしね・・・。)

それでは、本書の共著者のご紹介をさせて頂くことにいたします。

ジョージ・A・アカロフ博士は、米国ジョージタウン大学教授で

2001年にノーベル経済学賞を受賞された経済学者。

日本でも著名なジョセフ・E・スティグリッツ教授らとともに

主に<情報の非対称性>理論に基づく市場経済分析の研究成果によって

評価されたとのこと。

一般市場における売り手(生産者・供給者)と買い手(消費者・需要者)との

あいだにおける情報の質量に関する「格差(非対称性)」に由来する

ギャップが公正な市場を歪める根本的要因となってきたとする

物理的構造分析に基づくいわゆる<レモン(中古車)市場>研究によって

多大な成果をもたらされました。

このあたりの研究成果は、日本の主に法学部などにおいても

2000年代以降の<法と経済学>と題する学問一派の輸入とともに

比較的新しい学際分野として広く浸透するようになってきました。

管理人自身も学生時代にはこの最先端分野に触れながら経済学にも興味関心を

拡張させていくきっかけを授かった一法学徒でしたので、

現在に至るもこの分野に関して多大な興味関心を持ち続けてきており

今回もこうした領域学問分野にまたがる一般向け啓蒙書のご紹介に

至ったというわけであります。

さて、もう一方のロバート・J・シラー教授は米国イェール大学教授。

これまた2013年にノーベル経済学賞を受賞されています。

ご専門は主に金融経済学と前にもご紹介させて頂きました

従来の主流派経済学が暗黙裏に想定してきた「合理的」人間像に

異議を唱えるきっかけを与えることになった

<行動>経済学との融合を試みた「新しい」経済学志向にあります。

ここで<行動>経済学のおおざっぱなおさらいをしておきましょう。

<行動>経済学が志向する目的意識には、

人間は常に正しい判断を下し続ける「合理的理性」を宿した生物ではなく、

当然ながらたびたび間違いや失敗も犯し続ける「非合理的情動」判断を

下すこともあるといった不条理や矛盾的行動を引き起こす原因となる

心理的側面にも配慮しながら、現実の「経済(生活)」行動に

影響を与えるパターン認識を深く分析考察した結果、その心理的行動形式が

市場経済にいかなる影響を与えることになるのかを探究することにあります。

2000年代初頭の米国におけるITバブル現象が発生した際には

人々の集団的投機熱が経済市場を大混乱に陥れ、

最悪な場合には「恐慌(大不況)」にも発展しかねない

致命的大打撃を与える推進力にもなるとの批判的見通しで

警鐘を促されたことでも有名な経済学者となりました。

そのあたりの詳細事情は、

シラー博士の『投機バブル・根拠なき熱狂~アメリカ株式市場、暴落の必然』

(植草一秀・沢崎冬日共訳、ダイヤモンド社、2001年)にて

語られています。

また、このバブル現象を生み出す推進力となった投機「熱」といった

「集団心理」が市場経済全般にわたって影響を及ぼす根本要因になり得るとする

経済学的分析論考については、アカロフ博士との共著書である

訳者も翻訳作業に関与されたという

『アニマルスピリット~人間の心理がマクロ経済を動かす~』

(東洋経済新報社、2009年第3刷)もありますので、

本書とともにあわせてご紹介しておきます。

この<アニマルスピリット>という言葉が解き放つイメージも

強烈なものがあって、

一般的にも何かと誤解があるようで(管理人も本書評作業のかたわら

併読しながら考えている最中ですが・・・、イマイチよく掴めないのが

正直な感想です。)すが、どうも単なる「気概(意気)」といった

ニュアンスとも異なるようなのです。

例えば、ベンチャー企業精神だとか何だとかが持つような

イメージとも異なるようなのです。

ところでシラー博士の名前については、

米国においては住宅価格指数を表す評価基準である

通称<シラー指数>でも有名となったようですね。

この指標は米国における景気動向を査定する際において

大変重要な判断要素として活用されているともいいます。

ところで、

本書は一応このご両人による共著書という体裁ではあるのですが、

本書<謝辞>などを一瞥しながら確認してみてもどこからどこまでが

アカロフ博士とシラー博士それぞれの個性が浮き出た執筆分担箇所で

あるのかがいまいち掴めませんでしたことも申し添えておきます。

このために双方の視点の違いが門外漢の一般読者にとっては分かりづらく

さらに明確な形で説明なり解説なりを付け加えて頂きたかったという

物足りなさも残されました。

<謝辞>によりますと、この共著者を側面から支えながら

多大なる影響を受けてきた研究者との共同成果物作品ということのようで、

『本書のアイディアは、経済学者としての生涯で私たちが学んだことと、

聞いてきたことのコラージュだ。』(本書311頁)とのことです。

本書を取り上げさせて頂いた問題意識に移らせて頂きますが、

皆さんも初等義務教育段階から

「市場とは<神の見えざる手(によるかのように)>

に操作支配されている!!」(アダム・スミス

とする比喩表現イメージに触れられたことがあるかと思いますが、

この「<見えざる神>とは一体全体何ぞや?」とする疑問に対しては

一度も納得する回答についぞ触れることが叶わなかったのではないか

推察いたします。

模範的な経済学教科書や上記初等義務教育段階における社会科教材では

「(自由な)経済市場においては、生産者(供給者)と消費者(需要者)の

取引価格や条件がどこかで<自ずと>決まり、公平な水準に到達するものだ!!」

などと解説されていますが、

経済社会の取引実状を観察する限りでは

そのように「常に」公平だとは言い切れない場面に多々出くわす方が

皆さんの生活「実感」により近いのではないでしょうか?

また「そもそも論」として、

<自由(完全競争=完全公平・公正な競争条件や

価格が成立するという市場イメージ)>市場自体が

歴史的には一度も成立したことなどなかったのではないかという

当然の疑問もありましょう。

本書もまたそのようなごくごく普通の生活実感に根ざした

素朴な(自由)市場への疑問点から問題提起が始められていくことに

なります。

そんなわけで、本書の共著者も本来<あるべきはずの>自由市場主義志向

(『自由市場システムの崇拝者』本書4頁ご参照のこと。)論者ではありますが、

こうした素朴な疑問点から現在の「鵺的(欠陥的という意味)」自由市場の

問題点やその改善点について豊富な事例を列挙しながら

一般読者にもそのイメージが浮かびやすいように<カモ釣り>や

<カモ均衡>といった比喩表現を活用しながら論旨展開されていくことに

なります。

つまり、本書の共著者と一般の主流派経済学者における端的な視点の相違点

明確に示すとすれば、

そうした<カモ釣り=不公平事例一般のこと>を

「例外的」現象と見るか「一般的」現象として見るかの違いと

言い換えることが出来ます。

本書の共著者であるアカロフ博士とシラー博士は

もう推測して頂けるかと思いますが、

一般の主流派経済学者がそうした<カモ釣り>事例をあくまでも例外的現象と

見立てるところ、むしろそうした例外的現象はよくあるパターンとして

生起してくる「一般的」現象だと強調されるところに

本書の狙いがあるということに尽きます。

こうしたことから「そもそも論」として「自由」市場すら成立していないと

仮定するならば、今現在巷で大流行中の「新自由主義」や

「(自由)市場原理主義」といった概念ですら

懐疑的な視点で再検証していかなくてはならないことも

次第に見えてくることになるからですね。

(ちなみに、本記事内や本書で描かれている「自由市場」論と

「(新)自由主義的市場観に基づく自由経済市場」論とは

必ずしも同じイメージ概念で論じているわけではありませんので、

読者様の頭を混乱させてはいけないとの自戒と反省の意味を込めて

予め注意喚起を促させて頂くことをご寛恕願います。

要するにそれぞれのイメージ像が錯綜していることもあって

議論がなかなか噛み合わず本質的批判や本来目指すべき生産的議論にも

一向に進展せずにただのレッテル貼り論争に終始してはいないかとの

懸念があるということでもあります。

もちろんすべての議論が不毛な論争だと言っているわけではありませんよ、

念のため。

特に昨今の論争を観察分析していると、

単なる「空中戦」にしかすぎないのではないかという憂慮からです。

つまりは、「自由(主義)」市場批判ではなくして、

<不完全>自由市場批判こそが、その本来の議論の方向性であるべきなのに、

こうした議論の大前提となる事実認識のところですでにイメージ齟齬を来して

いるために、しばしば過剰なまでの批判ないしは

かえって本質的な議論の方向性を妨げているのではないかというのが

最近の管理人自身の違和感であり問題意識でもあるということになります。

こうした問題意識のズレが現状の<不完全>市場を

ますます放置・拡大させることにもつながっており、

そうした事態を改善させる時期をより一層遅らせてきた原因でも

あるからです。

そこで安易な「新自由(主義)市場」経済批判への違和感や警戒感も含めまして

(管理人も一般知識人同様に

生活体験実感も踏まえながらたびたび批判もしてまいりましたが・・・、

そうした本来の「自由」市場を目指した本質的議論に

混乱をまき散らしてしまった原因を一般言論界に対して

さらに増幅させてしまった責任も痛感しています。

とはいえ、このことは何も新自由主義路線へとひたすら傾斜しようとする

現在の政治経済的風潮を擁護するものではありません。

より根底からその問題点を追及批判することを通じて

本来あるべきはずの<自由>市場の理想像を模索するうえで

まずはその思想的内実や現在進行中の<不完全>市場の実態像を

明確化しておく必要性があるだろうとの問題意識です。

「そもそも論」から議論を出発することで

理想像として最終的に到達が予想される

「自由(均衡=完全競争状態)」市場の本質をも

解析し直す緊急的意義があり、その最終完成形態にすら

何らかの限界点はないのだろうかと事前に想定演習しておくことは

決して無意味な作業ではないだろうとの趣旨でもあります。

言い換えますと、『現在進行中の<不完全>市場の実態像』こそが、

新自由主義をその思想本来の意味合い<その思想的価値評価は

ひとまず留保しまして>すら超えて、市場操作を優位に

誘導展開させることで利を貪る<本書での「カモ釣り師」であったり、

「レントシーカー」と称される「暴」利追求者>人間にとって

誠に都合のいい正当化事由ともなっており、一般取引関係者にとっては

迷惑この上ない欠陥的市場システムだということになります。)、

その批判の正当性評価問題はともかく、もううんざりだという方も

当書評読者様であれば多く出現してきているのではないかとも推察します。

なぜなら、良質な議論はより多種多様な観点から捉え直すことで

深まるものと確信しているからで、読者様の方でも管理人以上に

「進化」されている方も多くおられるものと推察するからです。

ということで、今回の本書評では、

こうした巷に過剰なまでに氾濫してきた(いる)「新自由主義経済批判」は

なるべく最低限に抑制しながら、主に「自由<市場>」を成立させる諸条件や

仮に成立したとしてそれでもなお残る諸問題点などについて

本書を手がかりに探究していくことを主題とさせて頂くことにいたします。

そうした「(自由)市場論」を巡る周辺分野を本書評とともに

後ほどあわせてご紹介させて頂くご参考文献なども含めて

議論の手引きに活用させて頂きながら、

今回の主題をより深めていこうと考えています。

自由経済市場では<神の見えざる手>が働くとはいうけれど、 そもそも「自由」な経済市場自体が成立したことってあるの??

それでは今回の議論展開の方向性についても

「大枠」が決まりましたので、

ここからは本書の要約ご紹介へと移らせて頂くことにしますね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・<まえがき>『経済はごまかしに満ちている』

・<序章>『みんな操作されてしまう:釣りの経済学』

<まえがき>と<序章>においては、本書の狙いが語られます。

本書の意義は、すでに触れましたように

『なぜ、市場システムはしばしば不公正な方向へと歪曲されていくのか?』と

いう点をより「一般化」して見立てるところにあります。

繰り返しになりますが、

一般的な主流経済学者やこの分野における他の類似本でも

<市場の失敗事例(本書では<カモ釣り>事例と表現)>が

取り上げられてはいるのですが、

そうした失敗事例はあくまでも例外的現象あるいは

すでに織り込み済み問題として楽観的に解釈されてしまう傾向にあります。

しかも、その例外的現象も時間が経つにつれて

市場が自ずから解決してくれるとの半ば信仰にも近い願望仮定で

描かれることになります。

まさしく、

<神の見えざる手(によるかのように)が働く!!>というわけですが、

そんな願望にすがっていられるほど現実の経済生活が

生やさしいものでないことくらいは皆さんもご承知のとおり。

特に<労働力>すら経済取引の材料とされる

現代資本主義経済一般の底流にある発想を大前提とする限り、

先程の新自由主義的発想の根底にあるものの考え方も含め、

ただ雇用の流動化状態をつくり上げることによって

失業率を押し下げることには多少の貢献はできたにせよ、

その雇用(労働)の「質」が悪化(低下)していくばかりの

現状を改善させるには何らの抜本的解決策にはなり得ないでしょう。

つまり、生活者にとって本当に緊急を要する「短期」においては

安定した生活保障制度すら年々脆弱化されていく方向性にある

社会状況においては、致命的な問題解決策だということです。

その「短期」ですらすでに長期化する傾向(つまり、

いつまで次の就業機会を待てばよいのかという問題です。)にある中で

ただ「量(数)」としての雇用(労働)の「場」さえ確保できれば

万事結構という問題ではないのです。

生活基礎を盤石なものとする発想でなければ、

安定かつ安心できる社会基盤すら容易に崩壊してしまうでしょう。

しかもそうした経済観が想定している<均衡点>にいつ到達し得るのかも

事前に予測できるわけではありません。

言い換えますと、現実の生活困窮者にとっては

その改善ポイントとなる「期間」こそが

何よりも死活的に重要なのだという認識が

こうした現代主流経済学の発想には著しく欠けているということです。

そんなかなり「中長期」にわたる時間待ちをしている間にも

生活は日に日に逼迫し、生活好転の「予兆」すら見えなければ

絶望感に苛まれ、最悪の場合には死にも追い込まれてしまう事態も

現に日本各地で多発しているのです。

そうした極限状況でも「自己責任で乗り切れ!!」、

最終的には「(自由)市場があなたの生活を改善してくれる!!」などと

主流派経済学者やこうした観念に取り憑かれてしまっている論者による

<福音説法>をされたり、<合唱>されても何らの慰めにもならないでしょう。

ですから、このようなきわめて楽観的な市場観を

いくら好意的に評価しても切迫感に追い込まれた人間にとっては、

「短期」的には<悪夢>であります。

何らかの対策が講じられなければ、「中長期」的にもです。

こうした極限状況を打開する歴史的教訓として、

市場への政府介入が正当化されるようになったわけですね。

とはいえ、この政府介入も特に好況期においては

しばしば問題含みの点が多々出てきたことや

官僚の裁量性拡大へとつながり腐敗堕落現象が次々と多発

また、一般民衆の政府権力への依存従属度を強めるなど

様々な弊害も見られるようになってきたことから

政治的な右派も左派も20世紀末から現在にかけて

少しは政府による市場介入を抑制させた方が良いのではないかとの

風潮が強まってきたという歴史的流れがあったわけであります。

こうした政府の市場介入(ここでは<過剰>介入としておきます。)問題に

ついては、また後ほど語ることにしましょう。

このように本書でも「自由」市場があり得るとの想定の下で

論旨展開がなされているわけですが、

一方ではこの「自由」市場システムというのも

現実的にはあくまでもフィクションだということも忘れられがちな点には

本書を読み進められるうえでも十二分にご注意願います。

この手のフィクション(仮定的モデル発想)は社会科学全般に見られる

(例えば、ここでの「自由」や「平等」、「平和」や

「民主主義」などといった数多の抽象用語のことです。)わけですが、

こうした抽象的な言葉に出くわした時は、

いつもその「内実」についてさらに具体的な生活実感などを

踏まえながら文脈に応じて細かく深く掘り下げていく必要があることは

読者の皆さんも独自に探究されたり、世の中の諸現象を分析考察される

際には常に注意をもって見つめて頂きたいわけです。

面倒くさいですが、こうした「掘り下げ作業」こそが、

安易なレッテル貼りや思想的浅薄さから逃れ出る思考回路を

もたらしてくれることになるからですね。

また、自身の「無知」や「盲点」にも気付く端緒ともなります。

何事も粘り強く持続的に考え問い直し続けることなしには、

真に自身の人生にとっても血肉化されることなどあり得ません。

本書の狙いに戻ります。

こうした問題意識から本書は『特に政府が自由市場の足を

引っ張るのではなくそれを補うためにはどうしたらいいかという点について』

(本書20頁)多種多様な<カモ釣り>事例を取り上げながら

そうした<カモ釣り>から逃れるための防御策を

最終的には提案していくのが最終的意図だということになります。

さて、ここで<カモ釣り>という言葉が本書では多用されていますので、

一言しておきましょう。

本書共著者による具体的解説は

<まえがき 釣りとカモについて>(本書10~12頁)や

<序章>(本書29~46頁)にありますが、

管理人自身によるイメージ要約をさせて頂くならば、

「人間の心理的弱点に狙いを定めながら、市場における

取引条件や価格といった「情報」をうまく操作しながら

<カモ(一般消費者)>から過大なまでに不正な利潤(少なくとも

適正利潤ではないということ。)を得ようとする<釣り師(利潤設定先行者=

市場でのいわゆる「プライスリーダー」のような絶対あるいは比較優位にある

利潤獲得を狙える立場にある経済人士)>による余剰利潤をかすめ取るイメージ」が

この<カモ釣り>という言葉には込められているということです。

それでは、逆に「なぜ、一般消費者はこうした<カモ釣り>が仕掛けた罠に

簡単に引っ掛かってしまうのでしょうか?」

そこにも本共著者の問題意識があります。

つまりは、<カモ釣り師>の仕掛けた罠に引っ掛けられる側にも

何らかの弱点があるからではないかという視点が加味されているところに

一般に流布している模範的経済学教科書などが描く市場観とは

異なる本書の最大の魅力があるということになります。

この<序章>では主にそんな<カモ>にされてしまいがちな人々に

見られる「心理的」問題が扱われています。

題して、<肩の上のサル嗜好問題>であります。

まとめますと、一般に想像されているほど

私たちは常に「本心」に忠実な当初の目的意識や願望に叶った

本来的取引が実現しているわけではなく、

著者がたとえるところの<肩の上のサル嗜好>といった

あらぬ「欲望」がスルリと心理的に紛れ込むために

実際の経済取引における最終決定時になると

歪んだ判断を確実に犯してしまっているであろうという推察であります。

もっとも常に「禁欲的」かつ「厳格」な自己抑制ができる

「合理的」人間であればそのような歪んだ判断をすることなく

常に的確な判断も下せるのでしょうが、

そうした「欲望(情動反応)」の絡む認知問題とは別の点で

不正確な判断をしてしまうことは予想されるところであります。

それが「情報の非対称性(本書では<釣り師の物語>)」に

誘導された誤認行動ということになります。

そしてこの点が<序章>における一番大きな視点であり

類書にはない最大の長所ですが、

<自由市場均衡の最適性と称するもの>(本書36~38頁)において

問題提起されているのが、

たとえ完全に自由な市場が実現したとしても

「選択の自由」があるから大丈夫なのではなく、

むしろ<釣り師>にとっての「釣りの自由」もあるのだという視点であります。

まとめますと、<釣り均衡>研究を言い換えますと、

それは「情報の非対称性」研究でもあるということです。

次章以下では個々具体的な場面における<釣り均衡>研究から

得られた教訓が詳細に示されていくことになります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・<第1部>『釣り均衡を考える』

※それでは、この「<釣り均衡>とは何か?」ですが、

経済学教科書で一般的に説明される「(完全な自由競争下における)

一般均衡」や「パレート最適」といったイメージで捉えられる<均衡>

(つまりは、誰にとっても一応は公平と感じられる均衡点に達するというイメージ。

その均衡地点に達すればもはや余計な操作はするな!!。

操作するとかえって一般消費者にとってさらに不利益になろう!!

本書の表現では、『つまりある経済がいったん均衡に達したら、全員の

経済厚生を改善するのは不可能だということ』(本書36頁)

もちろん、この<均衡>というのはあくまでも「一般」的な

「最適化」でありますので、個々人にとって真の意味で

「最適」であるかどうかとは異なります。

「当該市場参加者にとって一般的に最適な水準へと最終的には

収斂(均衡)していく」というイメージでしょうか?

多分に数学的な意味が込められているイメージ像です。

正確な説明になっているかどうかは心許ないですが、

数学や経済学にお詳しい方で誰にでも一目でイメージ喚起を

呼び起こすことができる「たとえ」でもって

説明表現できる奇特な読者様がおられましたらば

ご教示願いたいところでもあります。

いつでも大歓迎です。

いずれにしましても逆から言えば、

『何かそこに横やりを入れたら、だれかの状態が悪化する。』(同頁)

いうわけです。

言い換えると、「一般的」な最適化から外れてしまえば

誰かがその分だけ損を負担しなくてはならないということでしょう。

本書で議論されていく<釣り>の均衡研究の目的とは、

『(管理人注:こうした<不完全>市場状況を)阻止しようという

勇気ある手だてを講じない限り、システムにごまかしと詐欺を

組み込んでしまう経済の力』(本書5頁)は何に由来するものなのか

という点にあります。

管理人の理解した範囲では、

<釣り師>にとっての「均衡」とは、

一般取引関係者にとっては、

このうえなく不利な状態だということでしょう。

ですので、本書を読み進められるうえでも、

同じ「均衡」という言葉が使用されていても

それが<釣り師>の立場からの解釈なのか

私たち一般取引関係者の立場による解釈なのかによって

その言葉が持つニュアンスが大いに変わってくるという

視点だけは常にお持ち下さるようご留意願います。

このあたりは何度も強調させて頂きますが、

経済学に親しみがない一般読者の方にとりましては

おそらく大混乱されるところだと思いますので

かなりくどいご説明とはなってしまいましたが、

最初に注意喚起をさせて頂くことにいたしました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

①『第1章 人生至るところ誘惑だらけ』

②『第2章 評判マイニングと金融危機』

・<第2部>『あちこちにある釣り』

①『第3章 広告業者、人の弱点を突く方法を発見』

②『第4章 自動車、住宅、クレジットカードをめぐるぼったくり』

③『第5章 政治でも見られる釣り』

④『第6章 食品、医薬品での釣り』

⑤『第7章 イノベーション:よいもの、悪いもの、醜いもの』

⑥『第8章 たばこと酒と釣り均衡』

⑦『第9章 倒産して儲けを得る』

⑧『第10章 マイケル・ミルケンがジャンクボンドを餌に釣り』

⑨『第11章 釣りと戦う英雄たち』

<第1部>と<第2部>は内容も煩瑣なので

一気に超簡約させて頂くことをお許し願いますが、

個別具体的な<カモ釣り>事例の一覧表であります。

かなりのボリュームなので管理人もそうでしたが、

読者の皆さんもあまり楽しめる箇所が少ないかもしれません。

その時は、ご自身のご興味ご関心あるテーマだけに絞って

適宜読み飛ばして頂くのが最後まで読み通すのに

途中で嫌気がさすことなく楽しめるのではないかと思います。

1つ1つの事例も面白いのですが、ここで延々と要約ご紹介しても

ただでさえ長文のところ読者の皆さんもお疲れになりましょうから、

とりあえずは管理人が特に気になった論点

示しておくにとどめておきましょう。

<ケインズの未来予想図:いわゆる未来の余暇問題>

(『見当はずれのケインズの予測』本書55~56頁)

「なぜ、現在に至るも人々は余暇の豊富さが得られず、

また実感できないのだろうか?」

ここにも本書は焦点を当てています。

それは、

『自由市場は、人々が本当にほしいものを生産するだけではない。

人々が肩の上のサルの嗜好に従って求めるものも作り出すのだ。

自由市場はまた、そうした欲求を作り出し、企業が売りたいものを

人々が買うように仕向ける。』(本書57頁)からだと。

つまり、最終的には人々の真に必要とする「需要」と

企業(生産者)側が欲する「需要」とのあいだにおける

「欲求」を巡る心理的攻防戦の問題だということになるようです。

簡潔にまとめますと、<賢い>消費者とは

そうした自己が本当に必要としていた当初の「需要」意識に

どこまでも厳しく忠実であることができる経済人ということに尽きます。

商品やサービスの「見た目」ではなくて「中身(機能性)」を

重視した消費活動意識がそうした企業側から消費者へ促される

あらたな「付加的欲求喚起」作戦に対抗し得る方策なのかも

しれませんね。

このケインズが予想した未来の余暇問題が見落としていた

<想定外>問題はこれ以上ムダかつ無意味な経済行動に追い回されないためにも

皆さんにも是非ご一緒に考えて頂きたいテーマだと思われますので

ご紹介させて頂きました。

また、

『第7章  イノベーション:よいもの、悪いもの、醜いもの』内の論考文である

<経済成長の基盤>(本書180~182頁)

ソロー残差とカモ釣り>(本書182~184頁)

<3つの発明>(本書184~190頁)中の

「どこでもランキング」のばかばかしさ問題なども

興味深く考えさせられたテーマでしたね。

最後に著者も本書で特に強調されている重要点としては、

私たちが取り巻く「社会」は何も狭い「経済」社会だけで

構成されているわけではないということがありました。

『私たちは、道徳コミュニティーは不可欠であり、

その中に個人行動の自由市場が置かれるべきだと論じたい。

その道徳コミュニティーは情報釣りに対する抵抗に成功してきた。

でも私たちはまだ、心理的釣りにはまったく対抗できない。

(中略)私たちは情報釣りなら制限できる。

心理的釣りはずっとむずかしい。』(本書262頁)と。

こうした問題意識も現代資本主義経済「社会」が

経済「外」のあらゆる「社会」を包摂せんとする激しい勢いにある流れの

中では常に意識しておきたいものでありましょう。

ですから、冒頭でも注意喚起させて頂きましたように、

特殊的経済思想であるいわゆる「新自由主義」経済思想だけを

撃ち続けておればそれで事足りるという生やさしい問題ではないということです。

そういう点ではアダム・スミスとはまた異なる視点で

こうした経済による一般社会の包摂問題を摘出してみせた

マルクスの「経済社会という<下部構造>が政治や文化一般社会という

<上部構造>を制御しつつある(すでに制圧してしまっている!!)」との

批判意識は何も左派だけではなく真摯に受け止め、

何らかの歯止め策を今後も提出し続けていく必要がありましょう。

問題はその解決策の<妥当性>ですが・・・

「暴力革命」や「戦争」といった<ショックドクトリン>では

何らの解決策にもならないことだけは特に強調しておきたいところです。

右派にも左派にも等しく。

復讐の連鎖だけが果てしなく続くだけですから・・・

いずれにせよ現下のあまりにも速すぎる激流に対抗しようとするあまり、

対抗策も「急流すべり」にならないことを祈るばかり。

皆さんの憂慮や焦りは管理人自身も強く共有しますが、

落ち着いた生活環境を取り戻すためにも何らかの「漸進的改善策」を

編み出したいものです。

そのためにこそ人類には言葉が授けられているのですから・・・

言葉というものは「対立」ではなく、

皆が共存共栄できるための「知恵」を生み出す道具だと信じたいものです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・<第3部>『自由市場の裏面』

①『結論 自由市場のすばらしい物語を見直そう』

最終章では、<第2部>第11章最末尾文が予告しているように

<カモ師>によって誤誘導操作される<情報の非対称性>問題よりも

ずっと制御が難しいとされる「心理的釣り」問題について

行動経済学が示唆してきた知見に基づき一般の主流経済学が

見落としてきたあるいは軽視してきた自由市場の背景に隠された場面に

迫ります。

ずばり本書の核心部であります。

この「心理的釣り」問題の本質は自己によって作られた

「物語(強い信念や嗜好性)」を補強する自らに有利な情報を収集するなどして

ますます思い込みが強化され間違った判断に流されてしまう

<自己偏見バイアス>にあります。

そして、近年のいわゆる<新しい経済学>派と称されてきた集団によって

主導されてきた『政府こそ問題だ』とする最大の<カモ釣り>に

よって導き出された数々の経済的厄災にどう対処すべきかが

大きく取り上げられていくことになります。

特に本書の魅力はこうした経済的厄災をもたらす諸要因のうちでも

特に「言論問題」にまで言及されていることは注目されます。

<カモ釣りを考慮しない言論の自由>(本書283~284頁)から

<言論は説得の手段でもある>(本書284~285頁)と題する

論考分は必読箇所であります。

たまたま今回取り上げさせて頂きました本書は経済問題が主題でしたが、

この「言論問題」は政治問題を含めあらゆる論争に当てはまります。

この<盲点>を抽出強調されたことだけでも

管理人自身は本書に対して投げつけられたという

陳腐だとか何だとかといった悪評・酷評とは

一線を画す好評価を与えたいのです。

共著者ご自身も謙遜されながら

本書で論じられているような諸論考点は

すでに議論が出尽くされた既知事項だとする向きが

経済学界や知識人層、さらには一般層の一部にも

十二分に浸透されているとする見解などがあるそうで、

そうした当然予想されるだろう反論意見に対しても

あらかじめ慎重な防御網を構築したうえで論考を進めてきたと

指摘されていますが、もしそのように一般経済界全体に

「十二分」に浸透しているんだとすれば、

「なぜ、未だに市場の不完全性や恣意性によって創出されていった

経済恐慌や不正(違法)取引による経済犯罪などの異常事態が

続発しているのでしょうか?」

また、「なぜ、資本主義自体に内在する不安定さや脆弱性を

克服し得ていないのでしょうか?」

このような疑問点が一般生活者の皮膚感覚であれば、

当然湧き出てくるものだと思われるのですが、

経済界一般の「常識」とやらが一般生活者にとっては

深刻な事態を既知事項だとか陳腐だとかいった評価でもって

形成され、現実の経済市場がこのように動いてきたのだとすれば

これほど皮肉なこともありません。

ノーベル経済学賞まで受賞された共著者による

こうした謙抑すぎる低姿勢や

<訳者あとがき>などで紹介されている上記各種書評などを

観察する限りでは、このような絶望的感想しか湧いてきません。

本書で警告されている諸論考が当たり前の「常識」になるまで

管理人自身は、共著者のような視点を持つ方々とともに

闘い続けることでしょう。

それでは是非とも強調して繰り返しておきたい主張を

ここであわせて提出しておきましょう。

それは、まさしく「(思想)言論問題」においても

機能(通用)するとされてきた「(思想)の(自由)市場」問題です。

この「思想の自由市場」問題とは、

一般読者の方には誠に聞き慣れない言葉だと思われますが、

法学部では知らない人間は「もぐり」だと言われるほど

著名な憲法学上の重要論点とされています。

アメリカ裁判(憲政)史上においては

きわめて重要な問題として認識されてきたといいますが、

本書の共著者によっても先に触れさせて頂きましたように

この「仮定」自体も経済市場におけると同様に

かなりの難点が含まれていると指摘されてきました。

経済界以外の「一般」社会でも、

その議論内容の当否に関わらず<わかりやすい>、

<もっともらしい>から<真偽不明>なものなど

1人ではその当否を検討することも出来ないほどに

圧倒的な情報の洪水に押し流されてしまうのが

実状であります。

また、「識者」と称する専門家ですら

バラバラな意見の寄せ集め集団で一般人にとっては

安心できる判断材料にすることすらままなりません。

つまり、「信頼」出来る情報を取捨選択するための基準を巡っても

どうしても個人的価値観といった<主観的色づけ>がなされてしまう

<自己偏見(信念)バイアス>が否が応でも混じってしまいますので

「正確」な判断に困ってしまうのです。

また、怪しげな言論の袋小路に

迷い込んでしまうことも多々あるでしょう。

(管理人もしばしば誤誘導されてしまいます。

だからこそ、出来る限り正確な情報源や

事実に近づけるように多種多様な意見に触れたり

読書会などでの対話の機会を大切にしながら学び続けています。

特に日頃の思考癖における「盲点」に気付くことが面白く

魅力的で病みつきになります。)

現実社会では、優れた「少数意見」よりも

力をもって<もっともらしく>て<わかりやすく>

大きな声でもって「説得」しようとする煽動者の意見が

どうしても浸透しやすくなってしまいます。

ここにも<情報の非対称性>難題が潜んでいるのです。

共著者はあくまで経済学者の視点から

経済市場における裏場面に潜むこの難題を世に提出されましたが、

この難題はおよそ人類社会全般に広く通用する議論であります。

ということは結局、人類に出来ることは

「近似」判断しかないということでありましょう。

それでは、近未来の人工知能とやらにありとあらゆる情報を

仕込んでやれば「正確」な判断へと人類を導いてくれるのでしょうか?

管理人はすでに絶望的に困難だと主張し続けてきました。

(もっとも本当にそうなのかどうかは今後とも各種書評を

通じて皆さんとともに考え続けていきますが・・・)

なぜなら、当たり前のように人工知能に仕込む情報を

「初期設定」する者自身が人間自身であり、

「ディープラーニング(深層学習)」と称する操作は

あくまでも二次的な作業工程にしかすぎないからです。

仮に人間による入力作業を介さずに

人工知能自らが情報収集可能になったとして

その情報の真偽がどこまで正しいかの判断基準は

どこから湧き出てくるというのでしょうか?

人工知能はそこまでの「超人」と断言出来るのでしょうか?

可能だとして人工知能によって導き出された「正解」とやらが

私たち人類の皮膚感覚や体験知に適合した代物なのかどうかも

わかりません。

とこのように考えてくると、どんな場面にも通用する首尾一貫した

「真実(正解)」なるものとの出会いは諦めるしかありません。

とはいえ、諦めきれないのも人間です。

雑多な情報を編集するやり方が人それぞれで異なるというだけで

誰にでも「通用」する「物語」などないのかもしれません。

こうした理由から皆さんにも思想面における自由市場も

本当に成り立っているのかお考え頂きたいわけです。

話題が本書の「本道」からは少し脱線してしまいましたが、

共著者らの<情報の非対称性>研究から得られてきた知見をもって

より高次な俯瞰的視点から

私たちを取り巻くこの世界を捉え直して頂くきっかけとしても

本書をご活用願えれば紹介者としても幸いであります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・<あとがき>『釣り均衡の重要性』

※いよいよ本書のまとめですが、

結局のところ、現実社会で完全に自由な経済市場など

あくまでも「仮定」にしかすぎず、仮に存在し得たとしても

私たちが住む「場」とは、そうした完全に自由な「均衡点」に

到達するまでの「途中」のどこかでしか

取引の最終決断を下すことが出来ないのではないかということに尽きます。

そもそも、経済市場における「均衡点」に至るまでの場から

資本主義的「利潤」が湧出してきているわけですから、

むしろ後ほども項目をあらためて分析考察してみますが、

「自由(完全競争)」市場が100%に近づけば近づくほど

(「(相互にとって利点となる)均衡点」により速く到達するという

取引にかかる時差がほとんど0に近づくようなイメージ、

もしくは、

あまり自分の取り分を考えずにさっさと本書で言うところの

そもそも自分が本当に欲しいと思っていた「機能的需要分」だけに着目した

取引だけを済ませてしまえばというイメージかな??を思い描いて

頂くとわかりやすいかもしれませんね。

大前提として<完全競争>状態ですから取引に必要な情報も

すべて提供されているものと仮定しています。)

その分だけ「限界費用」も0に限りなく近づいていくわけですから

「利潤」そのものが発生してこなくなり(あるいは少なくなっていく)、

あらたに投下し得る「(ここでは主に金融)資本(かつ自然資本は有限で

あることを大前提にしています。)」も生み出せなくなってきますので、

その「(金融)資本」の果てしなき自己増殖による循環変動で

展開してきた資本主義経済そのものが

存立し得なくなってしまいます。

こうした理由からも容易には「均衡点」には到達し得ないような

仕組みが内在的に現代の(高度情報金融主導型)資本主義経済市場には

組み込まれているのかもしれませんね。

とはいえ、あくまでもここで論じている資本主義イメージは

現在のような不公平なまでの極端な「格差」をもたらす経済形態を意味しており、

資本主義そのものを否定した代替的経済思想の立場から説明したものではありません。

現代資本主義がもたらすありとあらゆる余剰(「ムダ」「ムリ」「ムラ」を

誘発させる<非生産・非効率>問題あるいは過剰在庫問題など)問題の

弊害を克服する視点を提供してくれるかもしれませんので、

「ただちに資本主義そのものが死に絶えるもの(あるいは永続的には

資本主義型循環経済など成り立たないのではないか)」との推論に基づいて

否定的に資本主義を捉えて分析考察しているわけではありませんので

ご注意願います。

ひょっとすると「うまくいく」資本主義経済の別形態も

どこかに眠っているかもしれないからです。

それほど「資本」主義とは「うまく出来た」経済システムなのです。

「決して軽く見て侮るべからず!!」であります。

このあたりも面白い論点ですので、

皆さんも各自で分析考察されてみてはいかがでしょうか?

言い換えますと、完全に自由な市場とは

取引に必要な正確なすべての情報が提供されなおかつ

その情報の真偽判断も完璧になされることができるという

大前提の下でしか成り立たない「場」だということになります。

なぜなら、共著者も視点をずらすことの重要性を指摘されてきたのは

人々が「均衡点(完全に対等な取引可能地点)」があるという

「自由(完全競争)」市場に対する<共同幻想>にこだわり(縛られ)続けることで

(この<共同幻想>を強化するイメージを与え続けてきたのが

主流派経済学に当たります。そうした目論見がこの学派の真の狙いで

あったかどうかは別として・・・)、

当事者自身(ここでいう当事者とは本書で表現されるところの

<カモ釣り師>に釣られる側の<カモ>に当たります。)の

「私たちにとって本当に有益でためになる」ものを手に入れようとする

当初の「注目点」から逸らされてしまう問題点を明示することで

当事者自らの置かれた取引上の立ち位置を再確認(検討)できる効用が

あるからでした。

そして、主流派経済学では「市場の失敗」事例をあくまでも例外的現象と

捉えることで深刻な現象(例えば、市場の外部へ有害物といったマイナス分を

投げ捨てることで無関心になる傾向の強かった環境<地球資源>悪化<枯渇化>

問題などに目をつぶってきた姿勢など)から絶えず逃げ続けてきた

歴史的傾向があり、真の意味での「厚生」からも大幅に外れていった事例が

多発していたこともあります。

そのように一般人に何かと誤解されやすいイメージから

経済学が目指す真の目的意識であり役割を取り戻すためにこそ、

むしろこのような例外的現象はありふれた一般的現象だと

捉え直す視点を提供することが本書の「売り」だったということです。

そして本書には

このような主流派経済学が「外部化」問題として軽視しやすい傾向を

本書では「内部化」問題に組み替えることで、

より「道理に叶った」経済学に仕立て直そうとするうえでの着想として

「病理(免疫)学」的視点が取り上げられています。

<カモ釣りとがんの類似性>本書292~294頁ご参照のこと。)

また、従来の行動経済学では「顕示選好」視点だけに偏重されてきた

傾向があったところ、

それだけでは説明がつかない現象を解明するためには

人間のさらに深い心理的側面の研究が必要だとする視点を

提供したことも本書の「売り」だといいます。

「顕示選好」とは、

『人々は自分の厚生を最大化する選択しかしない』

もしくは、

『人々は自分たちの状態を改善するものが何かについて、

選択を通じて明らかにする』(本書301~302頁)という意味です。

しかし、このような想定を暗黙の前提とすると、

かえって人々は常に自分にとって最適化した行動パターンを

採用するとのイメージを強化し、

その「最適化(自分にとって最も望ましい振る舞いないしは

有利だと思い込む思考パターン)」から外れる現象は

あくまでも「例外的」だとのイメージも強化することに

つながりやすくなります。

現に主流派行動経済学者は、この「例外的現象(専門用語では

<アノマリー>と呼びます。)」に研究を集中させてきました。

そうしますと、現実の経済現場で起きている異常事態も

あくまでも「例外的現象」なのだから、

そんなに急いで対処しなくとも一過性のものにすぎないとの

認識が生まれることになるというわけですね。

こうした認識こそが、たとえ景気が最悪期に向かおうと

している局面においてすら早期介入してさらなる市況悪化を

防ごうとするあらゆる手だてを遅らせてきたのだという指摘も

本書では何度も強調して触れられていたのでした。

『私たちが肩の上のサルの嗜好でカモ釣りを一般均衡に

埋め込んだことは、このように(管理人注:「このように」の

具体的内容はこの引用直前の本書302~303頁7行目あたりまでで

解説されています。引用が長くなるため省略させて頂きました。)

一般均衡理論に基づいて考える人ならだれにでも自然な真実を

指摘することで、現在の行動経済学を超えるものとなっている。

その思考は釣りの不可避性に関するものだ。』

(本書303頁8~10行目)

ということで、

現在の資本主義経済市場には、

まだまだ安全かつ安心できる「自由(完全競争)」市場など

成立していないのだということを再確認したうえで

本書要約ご紹介を閉幕させて頂くことにいたします。

まずは本書で語られている市場観を幅広い共有知識としたうえでなければ

近未来におけるより望ましい経済観や経済社会も確立することなく、

これまでどおりの些末な謬見だけがひたすら積み重ねられていくだけで

私たちの経済生活も一向に楽になることはないでしょう。

<働く=傍を楽にする=相互扶助的勤労・勤勉観>こそが

本来の人類社会の原点であったはずだと

少なくとも管理人は信じていますし、

比較優位(←この言葉もその内容定義をきちんと

見定めることなく一般に流布されていけば多分に「厄災」を与える表現と

なりますし、人類に<不協和>をもたらした原因となったものとして

警戒したいものですね。)に基づく「差別」交換取引を通じて

他人よりも少しでも優位な状況を確保しようとすることで

より多くの「利潤」を得たいとする悪知恵は

あくまでも後天的に一部の人々によって徐々に推進拡大されていった

代物でしょう。

とはいえ、この「差別」交換取引を促進させる背景には

人々に内在する「嫉妬」感情を巧妙に引き立たせながら

進展していった経済指導原理がありますので

ちょっとやそっとのことでは改善される余地もないでしょう。

資本主義思想はもちろんのこと

それに代替する社会(共産)主義思想やその他もろもろの経済思想にすら

それらの潜在下にはこの「嫉妬」感情が渦巻いているわけですから

絶望的な気分になります。

人類が今後とも繁栄し続けるか衰退する一方かを予想するうえでも

この「嫉妬」感情の研究が必要不可欠にして喫緊の課題だと確信しております。

「(自由)市場」を公平な「場」として<進化>させていくためにも

この「嫉妬」感情の研究が役立つものと確信しております。

読者の皆さんにも各自で考えて頂きたい宿題として

提出しておきましょう。

「ほんに(本当に)、ほんまに(本当に)、このような革新的市場観は

まだまだ一般には十二分に浸透していないのです!!

(<革新的>と表現しましたが、この市場観こそが歴史的教訓から

獲得されてきた叡智でありますから、むしろ現代資本主義の「常識」に

なっていなくてはならないのですが・・・、そうなっていないからこそ

あえて警鐘乱打する意味でこの強い響きを持つ言葉を使用させて

頂いております。)」

「本書で描かれたような市場観の理解と浸透がなければ、

今後とも経済的厄災は多発し続けるだけで資本主義経済の発展すらも

危ぶまれることでしょう。」

本書はその意味で初等中等義務教育などで脳裏に深く刷り込まれてきた

表層的な「標準的」市場観を一変させる見方が豊富に提供された

優れた一般向け啓蒙書として、

一般的な書評観とは異なる「好著」だと評価させて頂くことにします。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・謝辞

・訳者あとがき

・注

・参考文献

・索引

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

小室直樹博士著『日本人のための経済原論』を参考に      「自由市場論」をもう少し補足分析しておきますね。

さて、以上で本書要約は一応済ませて頂くことにいたします。

今回もかなりの長文論考記事となってきましたが、

こんな長文記事にも熱心に付き合って下さっている読者様には

心底「恐れ入谷の<鬼子母神>??」で

毎回毎回本当に感謝しております。

もちろん管理人の私見には多数の誤謬や偏見も含まれていることは

重々承知しているところですが、

ご提出させて頂いている議論やその着想案などを話題に

語り合って下さっている友人知人も少数ながらいて

その心理的サポートも頂いていますから心強いご助力となっています。

「みんな、本当にありがとうね。」

当記事で議論提起させて頂いている見解に賛否両論があることは

当然あってしかるべきですし、また望ましいことです。

それでは、本題に戻りましょう。

本当に「今この時期」において

このような「(自由)市場」経済論の本質的検証がマスコミなどでは

ほとんど触れられることも少なく

ネット上でも真偽不確かなまま各種論者に対する

名誉毀損にも該当し得るような悪質なデマ記事が出回っていますし、

専門の経済学者ですら一般人にわかりやすく丁寧な現状分析を

して下さるような方はますます稀少な存在となってきています。

「なぜ、そのような状況になり果ててしまっているのか?」と

管理人が考えますところ、

「哲学的な<原理分析思考>や<メタ(俯瞰的越境網羅)思考>が

抜け落ちたただ単なる各論者に対する好悪感情に基づくだけの

表層的な批評合戦に終始してしまっているからではないか」

という点に尽きます。

つまり、「是々非々論という視点が欠けてしまっている」ということです。

「なぜ、このような言論状況が招き寄せられてきたのでしょうか?」

それは、ほとんどの人々が日々の生活に追われすぎてしまう経済環境にあるがために

自身が置かれている真の背景事情やその根底に横たわっている原理的問題について

考えを巡らすゆとりすら剥奪されてしまっているからに他なりません。

これこそが現代民主主義の危機的要因にもなっているのです。

「民主主義とは各自が社会に対して、また自己自身に対しても責任を

持とうと意識する志向によってはじめて成り立つ政治制度」だからです。

政治の定義を一言で簡約すると<自治>ということに他ならないからです。

こうした厳しい生活状況を改善させる基盤を成り立たせる条件を

真剣に分析考察する学問が本来の経済学であり、

現代資本主義経済下においては「(自由)市場」研究の

本来的役割であったはずです。

この「(自由)市場」解析を進めていく過程ではじめて

それぞれの局面における金融政策論や財政政策論の意義も

出てくるわけですね。

この視点を忘れてしまいますと経済政策論争も

単なる経済思想イデオロギー論戦に陥ってしまいますし、

問題の核心部がますます見えなくなってしまい、

挙げ句の果てにはそのような不毛な対立論争ばかりが

延々と続けられていくうちに人々の「貧困化」や

最悪の場合には「餓死社会」にまで至ってしまいます。

だからこそ、管理人もこうした論争をする際には

常に議論の大前提となる共通認識のところで齟齬が

あってはならないこと、

そして、「何のために議論するのか」という目的志向を

絶えず見失ってはいけませんよと強調し続けさせて頂いているのです。

(詳細はこちらの記事もご一読下さいませ。)

それではここからはまた長くなりますが、

「自由市場論」について語り残しておいた諸問題

この碩学にご登場願うことで<考えるヒント>としてみましょう。

その碩学とは、死後ますますその評価が高まってきている

小室直樹博士であります。

管理人と小室博士との付き合いは遺著作も含めて

10代の高校生の頃か、

いや中学生の頃から(当時父親の書棚にあった

『日本の論点』(文藝春秋社)におけるある論考文が多分初対面)

かもしれません。

すでに父親の仕事の関係が原因なのか

思想方面や法律・政治面には多大な興味関心があって、

こうした論考文にも自然と目移りしていたのかもしれませんね。

そして一回だけ直接にご対面させて頂いたこともありました。

忘れもしない大学入学後の晩秋平成10(1998)年11月25日

三島由紀夫氏のご命日に併せて追悼・回想する『第29回憂国忌』時に

おける記念講演『教科書・民族・三島由紀夫』でありました。

当時貧乏学生だったので懇親会費用も高く感じられ

また各界で著名な方々ばかりだったので一学徒にとっては

あまりにも敷居が高く感じられ緊張した面持ちで

懇親会に臨んだことをまるで昨日のように覚えています。

管理人にとっては、はじめての本格的な社会人晩餐会と

なったようです。

このときに大変お世話になった一部の方々もすでに

物故者となられていますが、

それ以後様々な研鑽を積み重ねてきた「今この時期」だからこそ

その当時よりも高く鋭い時局認識力も磨き続け出来上がってきましたから

聞きたかったテーマも続出。

もはや語り合って確認させて頂くことも叶わず誠に寂しく残念な想いで

胸がいっぱいです。

そんな緊張する懇親会の席上で小室博士にお聴きしたかった

質問事項は山ほどあったのですが、一応質問してみたのですが、

当時の理解力も浅くまたすでに大変お疲れの様子だったようで

(ご持病もお持ちだったのかもしれません)

先生もあまり深くお答えになることもなく、

恐縮しながらその場を静かに退散、

他の参列者の方々との談笑に集中することになったことも

今は良き思い出。

その懇親会にはもはや記憶も薄れましたが、

学生のような若い人間も見当たらず終始「場違い」な感覚も

味わい続けるはめにはなりましたが、

将来の相談や質問事項などに丁寧にお答え下さった方々には

今もなお感謝しております。

この場をお借りして、篤く御礼申し上げます。

さて、そんな管理人自身が見た小室博士の

今は懐かしき<面影>の一端に触れさせて頂いたところで、

今回ここで本書にあわせて下記のご著書を

皆さんにご紹介させて頂きましょう。

その1冊とは、「新版」である

『日本人のための経済原論』(東洋経済新報社、2015年)であります。

今回はこの本を手引きに語り合ってみましょう。

管理人がかつて拝読させて頂いた書庫にも眠っている「原版」は

2冊にわかれたものです。

すなわち、

『小室直樹の資本主義原論』(1997年)と

『日本人のための経済原論』(1998年)です。

ちょうど大学入試の時期でしたので

大学入学直後に読んだ記憶があります。

さらなる「簡易版」には

『経済学のエッセンス~日本経済破局の論理~』

(講談社+&文庫版、2004年第1刷)があります。

この本の「原版」自体も1992年に公刊済みなのですが、

今日の事態をまるで予言していたかのような

見事な「的中書」でありました。

1998年の橋本「緊縮」経済政策で日本経済の体質が

抜本的に変化を遂げつつある中での出版でしたし、

「大不況」が始まり、その後の「失われたウン十年」が

本格的に深まりゆく最中での予言書でしたので

今から思えばまさに「天下の炯眼書」でもありました。

お時間がない方はこの「簡易版」でもよいのですが、

本格的な理解を得たい方には、

この2冊を合冊して一体化させたこの「新版」がお得ですので

是非まだお読みでない方にはお薦めいたします。

とにかくここから議論を始めませんと、

アベノミクスの「心理的効果(先に触れさせて頂いたいわゆる

<アニマルスピリット>の喚起のこと)」も弱まっていくおそれが

ありますし、

金融政策だけでは不十分だとする「流動性の罠」問題の解決も

達成されることはあり得ないでしょう。

ここで「流動性の罠」とは何かを上掲書から引用しておきますね。

『「流動性の罠」とは、ケインズによって唱えられた説で、利子率が

余りに低くなると、人々は消費や投資への意欲を失って、

全てを貨幣で持つことを欲するようになること』(690頁)であります。

つまり、一般的なデフレ期においては金利効果が薄まり続けて

(投資しても意味がないし、賃金も下がり続けると同時に

物価も下落し続けるので、物価が下がるのを待ち続ける姿勢になり

数少ない賃金(生活資金)を手元に置く誘因ともなるということ。

言い換えれば、このデフレ期においてはたいてい賃金低下よりも

物価下落が先に進むことが多いので、将来不安に備えて

生活資金である貨幣をより手元に多く残しておけるように

一般生活者は生活防衛に走りやすくなるというイメージですね。)、

資本主義経済の成長からは遠ざかることによって

さらなる分配率(一般生活者へ回される所得利益など)も

低下し続けたりするなど一般生活者は将来不安に駆られる

要因ともなり得、その分だけ「貨幣選好愛」が高まるということですね。

金融政策の「出口問題(量的金融緩和の縮小思考)」も

この時期まだ尚早だと思われる(将来リスクを踏まえた議論は

当然あってしかるべきものですが政策<最終決断実行>時としては

もう少し慎重に見定めるべきだろうという一般生活者の実感から

です。政策担当者の方々にも難しい問題だということは重々承知は

しておりますが・・・)のですが、

いわゆるインフレ目標(ターゲティング)論者の方にも

きちんと正確にご理解して頂きたいのが

この「流動性の罠」をどう解決させていけば

市中での円滑な金融循環とその副次的効果による

景気活況回復回路へとつながるのかという最重要問題であります。

「なぜ、ただ単に大規模な量的金融緩和をしただけでは

良き経済循環構造が生み出せないのか?」

また、「一般生活者の賃金上昇力が弱く感じられるのは

なぜなのか?」など再考すべき重要課題が

上掲書にはたくさん取り上げられているからです。

学者や専門家が書かれるような難しい数式はほとんど出てきませんし、

ポジショニングトーキング(商売上の立ち位置で自分に都合のよい

角度からカメレオン的にいとも容易く変節する言説のことです。)を

頻繁に繰り返し続ける一部の「売れっ子(こういう輩の本が

一番<俗受け>して<ベスト(ロング)セラー化>しやすい!!ので

読者の皆さんも本を選ばれる際には十二分にご注意願います。)」

評論家とはまったく異なる純粋な学理的探求心と

真に民を救済しようとする

経世済民観に立った憂国の情を兼ね合わせた視点から

経済学に敷居の高さを感じられる一般読者層にも

非常にわかりやすく説かれているところが皆さんにも

比較的取っ付きやすいのではと感じられたことから

上掲書を取り上げさせて頂いたわけです。

この小室博士が特に炯眼だったと思われる点

「財政政策」の重要性を何度も繰り返し説き続けられたこと

ありました。

いわゆる「赤字」財政の中身の分析も詳細に提示されて

おられます。

「国債の種類問題」ですね。

この手の基礎知識すらなければ、

巷に徘徊する「借金亡国論」にいとも容易く頭がやられてしまうことでしょう。

小室博士も警告されていたように

「いついかなる時」においても「借金」を増やせばよいという

問題でもないのですが、

今となっては「(国の)借金」を活用せざるを得ません。

また、資本主義そのものが「借金」を必要としている側面もあります。

経済が成長するにつれて自然に負債(借金)も増えていく仕組みに

なっているともいいます。

もっとも反対側では資産(預貯金などの貯蓄額や投資額)も

何らかの障害がない限り、増殖し続けているわけですが。

そうした性質が資本主義には絶えず付きまとっているからですね。

「資本主義とは何か?」という本質的問題も

まだまだ未解明の余地が残されており、

今後とも引き続き奥深い有意義な論争が待たれるところです。

このようにむやみやたらと純粋な「借金」である国債(それも「赤字」国債)

だけを増やし続ければよいわけではありませんが、

それは民間「資産」との相関関係やそれでも足りない(間に合わない)時には

「打ち出の小槌」たる通貨発行「特権」まであります。

そしてここできわめて大切な視点は「国債」一般が悪いのではなくして、

「国債」の種類に着目しながら目的意識を持たせた

機動的な「財政政策」が必要だということです。

この2つの組み合わせ技で相殺勘定しながら

ソフトランディング(静かな安定着地)させて

目下の経済苦境からの脱却を図ろうとしているのが

現在のアベノミクスの基本的方向性だと

一般的には解釈されています。

とはいえ、その方向性や評価を巡る議論も錯綜していますから

私たち一般人にとってはその理解が難しいわけですが・・・

ただ管理人も勉強してきたことで断言出来ることは

現在のアベノミクスにおいて採用されている(きた)個々の政策が

相互に矛盾した体系になっており、

当初目論んでいたその効果が「減殺」されることで

思ったほどの効果が出てこなくなってきているのではないか

いうのが信頼できる(そうな)専門家のご意見だということです。

そんなわけで「今現状、一体全体どのような事態が発生してきているのか?」や

「与野党の国会議場での論議の進捗状況や政府部局内の路線対立や

政策論争の実状」から「今後進むべき方向性」など

管理人もたびたびご紹介させて頂いてきた内閣官房参与も務めていらっしゃる

藤井聡先生と左派の立場から従来の左派論者(この場合の「左派」とは

<政治的>左派です。ややこしいのですが昨今の経済政策論争を

一般の方々に理解して頂く際には欠かせない定義ですので、

ここで補強説明しておきますと、経済における右派・左派という勢力図は

必ずしも既存の一般的なイメージで捉えられる<政治的>勢力図とは

重なり合わないということであります。つまり、経済においては

<政治的>右派と左派が互いに共闘する余地もあるということです。

例えば、最近の諸外国の事例で比較的わかりやすかったのが

イタリア政界の組閣模様ですね。紆余曲折もあるようですが、

今後の世界動向を見定めていくうえでも注目すべきところです。

そこで肝腎な経済的左派と右派の違いですが、これは金融政策や

財政政策において「緊縮」志向を持つか「反緊縮」志向を持つかの

違いによる区分となります。ここでは右派=緊縮派/左派=反緊縮派だと

意識しておいて下さい。)が見落としてきた経済論点を

克服しようと活躍されている松尾匡先生との対談会・懇親会が

大阪の某場所で開催されるとの情報を畏友のご紹介によって得、

先月参加させて頂くことが叶いましたので

そのご報告も少し兼ねながら、

小室博士の著作で触れられていた問題点とともに

考えていくことにいたします。

さて、ここで小室博士が提出された「流動性の罠」問題と

冒頭の方で少し触れさせて頂いた<アニマルスピリット>喚起問題が

連動してくることになるわけです。

小室博士の著作にもありましたように

こうした「流動性の罠」と呼ばれる現象が出てくると

一般的な金融政策も財政政策の効果も薄れてくるといいます。

つまり、目下のアベノミクス効果が強く誰の目にも明瞭な形で

出てくるためにはただ単に金融政策においても財政政策においても

大規模出動すればそれですべて話が終わるという問題ではない

いうところが最大の重要論点だということになるわけですね。

要するに、この「流動性の罠=大胆なイメージ喚起表現ですと、

<お金をあまり使いたくない!!>」問題が

解決されないことには景気好転にはつながらないというわけです。

だからこそ、アベノミクスの「心理的」効果という問題が

大きく取り上げられるわけですね。

そこでこの「心理的」効果を高めるためには

どのような政策を採用すれば適切かが問題となります。

それが先の<アニマルスピリット>研究ともつながります。

この<アニマルスピリット>研究の一端をここで解説し始めると

さらに煩瑣な語りとなってしまいますので、

ご興味ご関心がある方にはすでに冒頭でご紹介させて頂いた

本書共著者による

『アニマルスピリット~人間の心理がマクロ経済を動かす~』

(東洋経済新報社、2009年第3刷)をご一読下さいませ。

それでは「(自由)市場」分析論と今後の進むべき

より望ましい日本経済政策の方向性の結論をまとめさせて

頂くことにいたしましょう。

小室博士によるズバリ結論とは、

『ケインズをシュンペンターの方向に補充するべきである。』

(上掲書694頁)に尽きます。

そしてその大前提条件としてまずは「(自由=完全競争状態)市場」が

成り立つ条件を厳しく探究し続ける必要があるということ。

大原則はこの「(自由=完全競争状態)市場」へと近づけていく

努力を続けていくこと。

すでに本書の本質的テーマでもありましたが、

この「(自由=完全競争状態)市場」が成り立たないことには

大原則も始まらないからです。

これがあくまでも「近代」資本主義経済市場の大前提条件だからでした。

その「完全競争(自由)市場」が成り立つために

必要不可欠な環境設定条件の1つに

本書でも取り上げられました「完全情報公開の原則」があります。

この「完全」情報公開を今後どのように保証するべきかが

次なる課題であります。

それは小室博士が執筆された当時の状況では、

より精緻なコンピュータ技術の飛躍的発展による

情報集積力の高度化だとされていましたが、

現在においては人工知能への期待ということになりましょう。

とはいえ、その情報集積回路を人工知能に担わせるに当たっても

難問は残り続けるだろうことはすでに要約記事内でも

問題提起させて頂いたところです。

おそらく人工知能がどれほど高度化しようとも

人間の「操作」がどこかの地点で加えられることは

まず間違いないところです。

なぜならば、人工知能にすべての情報収集責任を負わせていけば

人間にとって「不利」な情報すら集めてくるに違いないからです。

その人間にとって「有利」な情報と「不利」な情報を

どう<選別>していくのかはこれまた厄介な問題が潜んでいます。

「どのようにプログラミング設計するのでしょうか?」という問題や

人間の「欲望」と比較優位に立つことで利潤をより多く稼ぎ出したいという

「嫉妬感情(勘定)」処理問題などからなる

現代資本主義循環構造を存続させる原動力となる「心理的」問題の

超克など数多く課題は取り残されています。

ですから、この「(自由=完全競争状態)市場」をまずは創り上げること。

これが「近代(現代)化」の大前提であるからして、

そのような「近代(現代)化」を成り立たせるための精神(エートス)を

学ばなければならないということになります。

小室博士の見るところ、日本人は未だにこの資本主義的「精神」を

獲得し得ていないと・・・

いや、日本には二宮金次郎さんなどに見られるような

「特殊日本型」勤勉(勤労)精神哲学があるではないかと

思われる向きがあるかもしれません。

管理人も含めて大方のまだ大多数いるであろう(と信じる)

一般的日本人勤労者なら当然思い浮かぶ疑問でありましょう。

しかしながら、それはあくまでも<儒教的>エートス(エートスとは、

精神志向とか行動形態パターンのことです。)志向であり、

純粋な「近代(現代)」資本主義精神とは成り得ないのだと

言います。

それが故に日本経済はあくまでも<鵺>経済だと。

<鵺>とは、中途半端な形をした「怪鳥」のことですが、

要するに日本経済には

「近代」と「前近代(封建的残滓という意味です。)」が

混合されている紛い物だと言うわけですね。

ここには当然ながら、

地理的特殊事情に基づく独自の日本型資本主義というものが

あってもいいじゃないかとの批判が殺到するところでしょう。

しかし、このような状況では「近代(現代)」経済学(主に西欧で

作られたモデルですが・・・)の精髄が活かせる道はないのだと

小室博士は繰り返し説かれています。

とはいえ、小室博士は特殊日本的事情に適合した

日本「共同体」の再生論も考える試論をいくつも提出されていますので、

単細胞な「西欧崇拝型近代主義者」でもありません。

ここが博士の魅力でもあり日本人離れした「天才」の所以であります。

ここで1つだけ管理人が疑問に持ち続け今となっては生前の博士に

是非とも質問確認させて頂きたかった論点なのですが、

西欧的な意味で「近代(現代)化」し続けていったとして

日本の「共同体」はかえって分裂状況に陥ってしまうのではないか

「心配」問題であります。

もちろん、こうした急激な「近代(現代)化」が

日本人と日本社会にパニック症状(博士は

マックス・ヴェーバー社会学における<アノミー>という専門用語で

説明されてきました。)を引き起こすことは間違いないところです。

この「近代(現代)化」路線の一貫にある一手法として

いわゆる俗に言う(政治的定義に照らして

精密な意味では必ずしもない)「新自由主義」的思潮に

基づく経済政策体系があるのかもしれませんが、

その関連性が今の管理人には不明な点です。

こうした「新自由主義」的路線に基づく<流動化現象>が

果たして博士が理想的に思い描かれていた「近代(現代)化」と

同じ方向性を目指すニュアンスのものだったのかは遺作集を読みながら

推察する限りでは、おそらく「断固として否!!」だと

おっしゃられるかと思われます。

いずれにせよ、どのようなシミュレーションをしても

「(自由=完全競争状態)市場」を完璧に

この世に再現させることは難しいことでしょう。

ですから、何度も繰り返しますが、

それはどこまでいっても「想定(仮定)」に基づく

最理想モデルにしかすぎないということになります。

ですから、博士の視点では、

もちろん「(自由=完全競争状態)市場」が成り立てば

理想なのだけれどおそらくはそうならない。

どこまでいっても「近似」的市場モデルになるのが

現実の市場ですから、そのことを大前提に議論していく

必要があるとのお立場だと思われます。

そこで、博士の最終結論となります。

①まず何よりも理想型に一歩でも近づけていく

努力を続けていくこと。

この過程でこそ、ケインズも古典派も使えるのだと。

そしてケインズ派と古典派の視点の大きな違いとは

「短期」で見るか「長期」で見るかということになります。

(上掲書<ケインズの復活>567~568頁ご参照のこと。)

②そして経済市場が理想状態に近づけば近づくほど

「自由=完全競争状態」での取引条件が整い、

不公平感も是正されているわけですが、

たとえそのような理想的状態に近い状態ですら、

予期せぬ事態が発生してくることもあります。

それが、いわゆる「市場の失敗」ですね。

さらに雇用労働の問題でいえば時期と条件によっては

「失業問題」が絶えず生起してこざるを得ないのが

資本主義的市場の実際であります。

こうした場面ではじめて政府の出番ということになりますが・・・

ここに大きな問題が潜んでいるのです。

それが、政府の介入の仕方によっては弊害も生じるという難問ですね。

今後は「官僚の失敗」ということにしておきましょう。

つまり、そうした「市場の失敗」状況に至った時における

採用する経済政策内容が適切であるか否かの問題。

また経済政策を打ち出す官僚の頭脳の明晰さの問題。

言い換えますれば、官僚が賢人でなければ

適切な経済運営は成り立たないということであります。

これをケインズが提起した仮定で

「ハーヴェイ・ロード(イギリスの官庁街がある通りを指した呼称)の

定理」といいます。

これが博士の強調される「官僚制研究」の必要性を促しています。

③経済市場を動かす人間の心理も探究しなくてはなりません。

それが、「流動性の罠」問題解決と<アニマルスピリット>喚起政策である

経済に対して前向きになれる「心」を後押しする

マイルド(緩やかな)インフレ政策目標を活用してみようという

ススメであります。

この政策に対してはケインズ派が攻撃された1970年代の経済状況から

インフレを悪夢と見る(新)古典派による批判が絶えず付きまとっています。

しかしながら、インフレ退治問題解決手法は一応2000年代までに

何らかの形で見出すことが出来たわけですから、

今度はデフレ期における問題解決に移らなくてはなりません。

つまり、博士も強調されているように

ケインズ派も(新)古典派も両方必要なわけで、

どちらかが正しくてどちらかが間違っているという問題ではなくして、

時期においてその出番や期待される役割が違うだけだということです。

現状では、まだまだデフレ期だと見る方が適切でしょう。

最近の新刊書には「すでにデフレ期は終息した!!」なる本も

見かけられましたが、

事態はより深刻であります。

そうした論者に一番欠けている視点こそ、

「急激な国民の総貧困化」がなぜこれほどまでに

大規模に生起してきているのかというものです。

すでに国民の間では相当な「分断」も生起してきています。

この「分断」状況が人々の間における「嫉妬感情」を

さらに強める推進力ともなってきたことも見逃せません。

そうした背景事情も左右を問わずに過激な政治的言説が

飛び交う状況を生み出す要因となっています。

仮に少しデフレから脱却しかけていると好意的に評価したとしても、

諸物価上昇率に今度は賃金上昇率が追い付いていない問題もあります。

長年指摘され続けてきた「価格(ここでは賃金)の下方硬直性=

賃金は容易には下げられない」という問題も

近年の雇用<流動化>政策によってかなり解消されたと言われても

それはある意味で悪質な詭弁であります。

確かに就業率は増えて、失業そのものに対する不安は多少解消された

のかもしれませんが、労働力は「ダンピング商品化(労働者の叩き売り

=安売り競争に常に晒され続け)」され、

労働力そのものも人口構造の変化など(生産年齢人口における

若手層の継続的縮小傾向など)とも相まって

ブラック企業のようなより過酷な職場環境が増え続けています。

一向になくなる気配すらありません。

また最低賃金は多少上昇したとはいえ、

最低限の生活水準にすら達することが難しい貧困層は若者を中心に

増え続けています。

特に現役真っ盛りの本来であれば大活躍できる環境にあったはずの

30~40代(ロスジェネ世代のど真ん中に位置する階層)の

生活環境は悪化する一方です。

ために結婚したくても結婚できない。

運良く結婚できても望む子どもを授かり、

安心して成育させ得る生活基盤にない。

などなど・・・

本当に今の青壮年層の生活環境には厳しいものがあります。

こうした現状認識と近未来経済予想図から

管理人らはベーシックインカム制度に関する調査研究を

引き続き行ってきました。

こうした生活保障制度(権)の脆弱な点は

政治的左派の方が昔から割合と熱心に指摘されてこられたわけですが、

最近は意外にも日本だけにとどまらず諸外国でも一部のリベラル層が

一番冷たいことが判明してきましたし、

政治的右派の一部(特にマスコミなどで主導権を握っておられる安泰高齢者層に

属する売文屋など)にはまだその喫緊的重要性に気付かれていない方々が

おられる一方で、厳しい経済状況にある政治的右派層からも

死活的重要度が増してきたせいなのか

続々と話を熱心に聴きに来て下さる方も増えてきたようです。

有り難いことです。

ともかく政治的に延々と堂々巡りを繰り返す左右対立を回避するためには

まずは生活保障権を巡る自由闊達な議論の「場」づくりから始めなくてはなりません。

そろそろ「右も左もわが祖国」(ジョージ・オーウェル)という

共約事項が出てきてもよい頃合いではないでしょうか?

こうした「場」に参加させて頂いてきた実感では

むしろ若者層の方が真摯な想いでそのような共通感覚を

抱きつつあるようですね。

ですから、先週の芸能界を騒がせた某人気ロックバンドの事例などは

もう多くの良識ある方々もご指摘・ご批評されてこられたように

本当に「異常事態」だとしか感じられないわけです。

(もっとも歌詞などに対する各人各様の反応は

異なっても一向に構わないわけですが、念のため。)

人間とは誠に面白いもので「匿名」ではなく

「直接対面接触」ができる飲食懇親会などを続けていくと

普段の価値観が異なる者同士でも案外「話が通じる」ようになるようで

相互誤解が解けることも多々あります。

こうした「寛容と和解」につながる「場」づくりの可能性が

ベーシックインカム議論には秘められているようです。

それでも生活保障制度のあり方にまつわる議論はまだまだ

左右各派また一般諸階層問わずに十二分に浸透している状況とは

到底言えない現状でベーシックインカム制度に関しても

国民論議を巻き起こせる「入門レベル」にすら達していないのが

現状です。

書店にはこうしたベーシックインカム制度や人工知能問題に関連する

書籍は山積みにされ一部のマスコミ等でも紹介され話題になってきた割には

これがもっとも肝腎なことなのですが

国会議場における議題にされること自体まだ少ないことが寂しく

残念な限りです。

左右与野党を問わずに若手議員の間ではさかんに熱心な政策勉強会も

開催されているようなのですが、漏れ伝わってくる情報によれば

高齢ベテラン議員や各政党「執行部」などの圧力は相当凄まじいようで

「自由な言論の府」たる国会の現状も形骸化しているそうです。

このような現状が突き進めば、誰も自国や次世代、自分自身の生活に

無関心となってしまいます。

「誰の責任なのでしょうか?」

「政治家など支配層の責任だけではありません。」

「わたしやあなた方1人1人の国民の責任なのですぞ!!」

小室博士ならきっと主張されることでしょう。

一部の議員だけが「思いつきのようなバスに乗り遅れるな」方式で

言及されることもありますが、選挙対策であることが見え見え。

まともに正面から議論できるような真剣な姿勢とも思われません。

ところで右派の労働問題について、

特に管理人は学生時代から観察してきたのですが、

縁者も少なくなかなか見当たらず(旧民社党系など

ごくごく一部ではそのような問題意識を強く認識された方々も

おられるそうですが・・・、一般的な印象では

一般生活者(労働者)には冷たく感じられるのですね。

総じて右派の中でも社会上層階級に属される方の中には

まるで社会保障制度を未だに「恩典」程度にしかイメージされていない方も

おられるから「いつの時代の話や」と我が耳を疑ってしまうこともあります。

また、脳内だけでの観念的イメージだけで

「労働者=社会(共産)主義革命の支持母体層」などと

捉えておられる相当な年配者もおられるようです。

そういう方に限って、戦後社会保障制度の一番「おいしい部分」を

食べておられるわけで・・・。思考と現実の行動パターンが

まるで異なっているから余計に始末が悪いというわけです。

つまり、「今の若者はまるでなってない!!」と一喝される割には

説得力がいまいちなのです。

管理人もこうした国民の「分断」につながりかねない世代論は

あまりしたくない性格なのですが、時ここに至っては

強く社会へ向けたメッセージを発信しなくてはなりませんで

正直本当に悲しい気分になります。)

こうした若者が抱えている問題点を双方とも大学の教授でも

いらっしゃる藤井聡先生と松尾匡先生との対談会・懇親会の折に

その現状を聞いたり、

今のアベノミクスが抱えている様々な盲点や

現状認識の甘さなどについてお聞きすることが出来ました。

やはり実際に直に日頃から学生と接してきた方でなければ、

若者が置かれた経済状況を正確なイメージでもって

理解出来ないようです。

今や政府の審議会には「民間議員」と称する大学などの

教育研究機関に所属している学者も数多く存在していますが、

まったくもって「頓珍漢」な提言をされる方が大勢います。

こうした人たちは真剣に学生や若者諸君、社会の現状に

向き合っているのでしょうか?

そこには与野党問わず少数ながら議員さんもおられた

(名前は伏せておきます)のですが、

有名な現役議員さんはよく勉強しておられ話が通じたのですが、

ある野党立候補予定者の現状認識には私たち若者世代から見て

正直な感想「??」と感じさせられた方もいました。

典型的なバブル世代の発想というのか

肩書きは大変立派な方なのですが、

「大丈夫かこの人は?」と畏友とともに首をかしげさせられた

一幕もありました。

やはり今の政府中枢層や民間企業経営者中枢層には

バブル世代の方が多いせいなのか

またあまり苦労もされたことがないのか

こうした日本国「下町」の現場感覚がわからないようです。

「そりゃぁ、東京一極(中央集権)型発想になるわなぁ~」と

大阪(関西)人からの視点では思われたところでした。

この問題に関してはまだまだ面白い話題が豊富にあり

皆さんにもお伝えしたい情報が山ほどあるのですが、

長文続きなので、また別の機会に語ることにしますね。

こうした若者や現役世代層が置かれた生活環境から

いかに経済に前向きになれるか、その条件を整えるための

幅広い議論が待望されているところです。

分厚い中間層の創出と最底辺層の底上げという

「まっとうな」政策こそがもっとも待望されているのです!!

④ここが博士最晩年の未来へ向けられたメッセージと予言が見事に

表出されている名「遺言」であり、

最重要な視点を提供して下さっている着眼点ですので

そのまま引用しておきますね。

『シュンペンターは、革新の重要性を強調した。

資本主義の行き着く均衡では利潤ゼロである。

これでは資本主義は発展しない。

発展させるためには、革新(innovation)が不可欠である。

しかし、官僚程、革新を嫌う人種はいない。』(694頁)と・・・

それでは官僚諸氏をも満足させる手法とは??

管理人は今も考え続けているのですが、

1つは純粋な民間、公的機関という発想をやめて

たとえは語弊がありますが

かつての南満州鉄道株式会社のような「半官半民」のような

それこそ<鵺>的企業(事業)体という

<第3の道>もあるのではないかということです。

これはこれで「ファシズム(全体主義)」へと

つながりかねないと警戒批判される方もおられるでしょう。

そうした弊害を予防するためにも批判はあってしかるべきです。

さはさりながら、今回の「(自由=完全競争)市場論」と同じく

入口の段階で延々と批判応酬合戦をしていても仕方がないでしょうと

言いたいわけです。

このことこそが、今回ご紹介させて頂いた本書からの

教訓的メッセージでもあったからですね。

そんなわけで管理人も当書評記事を通じて

自らに「隗より始めよ」と言い聞かせながら

今後とも勉学、対話(談)研鑽しながら、

皆さんの前により「進化」したお姿を見せられるように

継続して努めて参りますので今後とも乞うご期待のほどということで

今月の本書評記事はこれにて終幕させて頂くことにいたします。

皆さん、いつもながら長々とお読み頂きありがとうございます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

※ <お詫びと予告宣伝>

今月も皆さんお待ちかね??の<エッセー項目記事>という

ご奉仕タイムにまで取りかかれそうな時間も

ほぼ絶望的になくなってきましたので、

ひとまずは書評記事を先投稿させて頂くことでご寛恕願います。

本当に生活と他のライフワーク課題(仏像彫刻修業)が積み重なり

書評にまで手が回る時間が取れなくなってきています。

大好きな読書の時間すら取れなくなってきているのが

もどかしい今日この頃。

最近は手軽に読めるしかも奥深い「詩」や「道歌」、

特に座右としてきた修養的「古典」を就寝前に少しばかり

口ずさみながら眠りにつくことが多くなりました。

人生は自分が希望するほど長くはありませんし、

いつ死期が訪れるとも限りません。

すでに人生3度も生死のはざまを経験してきたからこそ

余計に強くそう思われるのです。

少しでも「人間(霊)的」成長を遂げたいからですね。

畏友も「人生の時間の使い道を真剣に考え直したい」から

SNSをやめたとか・・・

賢明なご判断だと思われます。

意味があって何かのメッセージを「発信」する方ならまだしも

昨今はテレビなどの影響なのか何なのか意味なく

他人の言動を批難中傷する方もおられ、社会的犯罪行為にも

加担している現状を眺めていると本当に憂鬱な気持ちになります。

当書評ブログ読者の皆さんなら必ずや共感共鳴して下さるものと

確信しております。

「あ~、生活費獲得競争に追われることなく、

落ち着いて書評仕事にも励みたい(泣き)」

「そのためにも万人に十分な生活余暇が保障される

ベーシックインカム制度の早期実現を!!

(どこかの地方都市における道路整備看板に書かれているような

標語ですが・・・)」

本当にたびたびお待たせして申し訳ありません。

その代わり、対談会や読書会などで研鑽を積みながら

皆さんにもより一層楽しんで頂けるようなおもろい新鮮なネタを

今後とも仕入れて参りますのでどうかお慈悲のほどを・・・

また時間と機会があればという条件付きで保証こそ出来かねますが、

鋭意来月の書評記事までに別途<加筆修正>投稿させて頂くか

来月以降のいずれかの機会にでも必ずお届けさせて頂く予定でいますので

「乞うご期待!!」ということで楽しみにお待ち頂ければ幸いです。

今のところ一応考えているエッセーテーマ

某和風へヴィメタルバンドの新アルバム発売記念と

常に素晴らしい数々の感動的光景や楽曲たちを創作・演出して下さる

そのバンドとファン、それからスタッフの皆さんへの

日頃の感謝を込めた気持ちで謡い・舞い・綴る

<番外編:信楽・甲賀旅情編>を予定しております。

さて、その全貌はどうなることやら・・・

「あぁ、おとろしや、おとろしや・・・」

読者の皆さんへ最大限のご奉仕をさせて頂く願っていますので

もう少し準備に時間がかかりそうですが、

どうか温かく見守り続けて下さると幸いです。

こちらも乞うご期待であります。

いつも本当にありがとうございます。

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One Response to “ジョージ・A・アカロフ&ロバート・J・シラー博士『不道徳な見えざる手』現代日本に蔓延しすぎている俗流「(自由)市場批判論」にも警戒感を持つ視点を提供するとともに本来の<自由>市場の本質やその問題点を探究するヒントが満載です!!”

  1. 1729 akayama より:

     ≪「「哲学的な<原理分析思考>や<メタ(俯瞰的越境網羅)思考>が抜け落ち…」 ≫

     【数そのモノ】を<原理分析思考>で見つめるきっかけは、[区画整理の換地]における【数そのモノ】(数式)の使われ方というか、扱かわれ方だった。
     【数そのモノ】に特化し<原理分析思考>で抽象化すると、
     過去となる事象(数の空間)
    現在の事象([数式]の<原理分析思考>)
    未来のとなる事象(数の空間)
                    と
        過去事象の一次元空間を表象する[数]
        過去事象の二次元空間を表象する[数]
    過去事象の三次元空間を表象する[数]

        現在事象(思考空間)で呈示できている数式の<原理分析思考>

        未来事象の一次元空間を表象する[数]
        未来事象の二次元空間を表象する[数]
    未来事象の三次元空間を表象する[数]
                    とを、
    現在事象(設計図)で呈示できる[三態様]の<原理分析思考>と【数そのモノ】のトリセツ(取扱説明書)が万人に[普遍性であるか、ないのか]を問う[理性]と[情念]の間に、それを万人が共有できそうな糸口を探すと[数学的リテラシー]としての[量化]であることに気付いた。 

     [数学的リテラシー]とは、
     ≪「個人が世界において数学が果たす役割を認識し、建設的で積極的、思慮深い市民に必要な確固たる基礎に基づく判断と決定を下す助けとなるもの」として定義されています。≫ 
                               経済協力開発機構(OECD)より

     [量化]って何なのか分からないまま、言葉(言語)と【数そのモノ】のトリセツが見つからないというか、見当たらない・・・

         言葉(言語)の[主語]と[述語]の関係
         【数そのモノ】の[数式]」の[=]の関係
    この二者の[セマンティックス]おける[関係]を[包摂]として吟味して観た。
     
     本題の[三態様]を<メタ(俯瞰的越境網羅)思考>として前者から後者へ移行する過程が[量化]であると睨んだのだ。

     そうすると事象(数の空間)間の[量化](数学的リテラシー)には、
           全称量化子(∀)
           存在量化子(∃)
        で圏論的に<メタ思考>出来ているように観得るのだ。

     ≪ 「市場とは<神の見えざる手(によるかのように)>に操作支配されている!!」 ≫
     【数そのモノ】とは、≪ <神の見えざる手(によるかのように)>に操作支配されている!!」 ≫

     ≪神の見えざる手≫が、全称量化子(∀)・存在量化子(∃)と観得るのだ。

     [三態様]の一つは、全称量化子(∀)でトリセツできる[数式]

               存在量化子(∃)でトリセツできる[数式]には二つあり
               『離散的有理数の組み合わせによる多変数創発関数論 命題Ⅰ』
               『離散的有理数の組み合わせによる多変数創発関数論 命題Ⅱ』

               と生っていたのだ。

     【数そのモノ】を圏論的に<メタ(俯瞰的越境網羅)思考>で観ると、
    『離散的有理数の組み合わせによる多変数創発関数論 命題Ⅰ』は、リスク(確率)的に事象(数の空間)間の[量化]と観得る。

    『離散的有理数の組み合わせによる多変数創発関数論 命題Ⅱ』は、等価的な事象(数の空間)間の[量化]と観得る。

      【数そのモノ】を[群]として観ると[命題Ⅰ]はガロア群・[命題Ⅱ]はアーベル群と観得る。

     『離散的有理数の組み合わせによる多変数創発関数論 命題Ⅱ』を<メタ(俯瞰的越境網羅)思考>し『数理哲学としての観(vision[作用素(1 0 ∞)])』とから[連続性]へ導くと多次元間に【量化】出来ている【数そのモノ】を眺望できるようだ。

     余談だが、[態様]の全称量化子(∀)は、圏論的に<メタ(俯瞰的越境網羅)思考>で観ると、

     SNSに漂う言説の
     ≪ 全称限量子は随伴性(adjunction)により導入されます。この随伴性を分析すると、無意味限量(vacuous quantification)や変数水増しのようなバカげた操作が、…≫  
     ナントナク 〘的を射止めて〙 いるように観えてくる。  

     ≪アダム・スミスの 〚神の見えざる手〙≫は【数そのモノ】では事象(【数の空間]・[相空間])間の[圏論]における[関手(functor)]に生っているように観得る。

     ここにも[意識]の『数理哲学としての【[1]・[0]】』の作用素の役割を垣間観得る。

     この事に触れた、ゴミ箱の拙いエッセイを拾う・・・

        【対称性】(意識が【0】と【1】を 認知する)
     「数学する身体」は、森田真生氏により著された書物である。この書物は、数学の身体性から数学の成り立ちを解きほぐしてくれている。この解きほぐしを、私は、『身体がする数学』でなければならないと強く主張していると感ずる。
     氏の書評する「ロジコミック(ラッセルとめぐる論理哲学入門)」の人名事項解説に、
      「新しい論理学は、その根底にある数学的な本性と、数学を堅固に基礎づけるための潜在的な役割を明らかにしてみせた。・・・あらゆる数学は論理学に還元されうる、つまり言い換えれば、数学は本質的に論理学の一部門であるということだ。」
    と記している。
    私が、人生で出合っていた数式は、論理命題の数式だったのだ。これは、有限個の自然数の任意の組み合わせ(変化)から、二次元(広さ)・三次元(嵩)の【量化】(変化)を『身体がする数学』と捉えることにより認知でき二次元の【数体】の方程式・三次元の【数体】の方程式を論理命題が立ち上げていたのだ。
     そして、二次元の【数体】の方程式と三次元の【数体】の方程式が【双対】し「差異なき区別」となり、数学的【対称性】として一次元・二次元・三次元のそれぞれの【数体】を【群】とならしめている対称変換となっていたのだ。
     「差異なき区別」とは、フランク・ウィルチェック先生の「物質のすべては光(現代物理学が明かす、力と質量の起源)」の言葉にあり、
      「バランス・心地よい比例・規則性である。法律家が、同じことを違った表現をすること。」
    これが、数学的対称性である。『身体がする数学』が二次元の変化を認知しえない【0】の対応に一次元では【1】を明示している。
     論理命題は、二階述語(入れ子)論理で主語も述語も【量化】している。有限個の自然数の任意の変化前後の組み合わせの有理数(比)を変項として、方程式(離散的有限個の有理数の多変数創発関数論)を立ち上げていたのだった。
     『身体がする数学』が、数を一次元の基数【測度】として認知し、三次元の【測度】の認知をも可能ならしめるのだ。
     変化の認知より一次元・三次元の【測度】を生むのである。
     二次元は、物理次元なのでもともと単位はある。
     この論理命題は、存在量化数式で二種類あったのだ。
    存在量化数式となる一つめの論理命題は、
    『変化後の三次元の数【測度】は、変化前の三次元の数【測度】と変化による有限個の変項に対応する総ての嵩(三次元の数【測度】の増加総数)を二次元の変化を固定(無視)して変項の分子で変化後の三次元嵩(数)を想定し変化前の三次元嵩(数)との差の総ての嵩に占める個々の変項の分子(変化後)の嵩(数)で増加総数を分配するものとの和である。』
    と解釈した。  
    ここで、既知数は、
     『変項』 『変化前の二次元の数』 『変化後の二次元の総数』(範囲内で任意) 『変化前の
     三次元の数』 『想定三次元の数』 
    未知数は、
      『変化後の二次元の数』 『変化後の三次元の数』
    である。
    存在量化数式となる二つめの論理命題は、
    『変化後の三次元の数【測度】は、変化前の三次元の数【測度】と変化による有限個の変項に対応する総ての嵩(三次元の数【測度】の増加総数)を二次元の変化による広さの総減少数の変化前の三次元嵩(数)とそれに占める個々の変項の二次元の変化による広さの減少数を変項の分母(変化前)による三次元嵩(数)で増加総数を分配するものとの和である。』
    と解釈した。
    ここで、既知数は、       
    『変項』 『変化前の二次元の数』 『変化後の二次元の総数』(範囲内で任意)  
    『二次元の変化による広さの総減少数を変化前の三次元嵩(数)で表現』 (?)
    『変化前の三次元の数』 
    未知数は、
    『変化後の二次元の数』 『変化後の三次元の数』
    である。 
    これは、エドワード・フレンケル著の「数学の大統一に挑む」の稚拙な学習から、前者は、ラグランズ対応によるガロア群変換であり、後者は、新しい数体を創るアーベル変換であると推測してよいのではないか?
    何故、こんな事を書くかと言うと、「郷の掟」のもとでの実証できた順な、事実の主張・表現は、悉く、ずっと「猿を決め込む」状況であったからだ。
    実証できた事実の他者との共有も、その表現する場とレスポンスが無ければどうもこうも何も無い。
    氏のこよなく敬愛する岡潔の「数学は情緒である。」が、
    『おかきよし』
    『オカキヨシ』
    『御書きよし』          ・・・・(笑)

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