信原幸弘先生の『情動の哲学入門』本格的なAI時代に向けて人間の価値を担う<情動>の役割を考察する1冊!!
<心(意識)の哲学>の分野を研究されてこられた
信原幸弘先生による『情動の哲学入門~価値・道徳・生きる意味~』
すでに本格的な始動過程に突入しているAI時代において
人間にはどのような役割や期待価値が残されているのでしょうか?
近年このような議論が各界で繰り広げられてきました。
哲学的には身体感覚が重要な分岐点だとされ、
とりわけ<情動>に注目が集まっています。
今回はこの本をご紹介します。
『情動の哲学入門~価値・道徳・生きる意味~』 (信原幸弘著、勁草書房、2018年第1版第2刷)
信原幸弘先生(以下、著者)は、心や意識に関する認知科学を中心とした
哲学研究をなされてこられた方だといいます。
著書には、『心の現代哲学』(勁草書房、1999年)や
『意識の哲学~クオリア序説~』(岩波書店、2002年)などあり、
また、翻訳書にはパトリシア・チャーチランド著
『脳がつくる倫理~科学と哲学から道徳の起原にせまる~』
(共訳、化学同人、2013年)など多数あります。
さて、今回この本を取り上げさせて頂いた問題意識ですが、
昨今のAI(人工知能)ブームもひと頃よりは少し落ち着いてきたようで、
とりわけAIそのもの(ここでは人工知能の仕組みや技術変遷史などに限定した
領域に絞っておきましょう。)に関する一般向け啓蒙書もほぼ出尽くした感があり、
近年の議論における主舞台も
人間との対比考察から始まる哲学的志向性を強く宿したものへと
移行してきているようです。
またAIに限らずにこれまで人類が探究してきた科学史のうえでも
すでに多少の行き詰まり感が出てきているようで、
専門物理学の世界でもいわゆる「人間」原理と「宇宙」原理のあいだで
一進一退の攻防的議論が積み重ねられてきていることから
近未来の科学の行方を巡っても不信感や悲観論が続出してきているように
感受されるところです。
そこであらためて「人間」はこの宇宙(世界)を
どのように「感受」してきたのかという観点から
問い直し始める新・科学哲学論に注目が集まってきています。
AI(人工知能)やAL(人工生命)と対比した時に
私たち「人間」にとっては<こころ(心)>や<いしき(意識)>、
はたまた<たましい(魂)>というイメージ概念を想定させた
議論から探究し始める傾向にありますが、
こうした「観念的」抽象概念からのアプローチでは
どこまでも曖昧模糊とした暗闇領域へと没入してしまうだけで
終始してしまいそうです。
そこでアプローチを変えて物理的な身体感覚を中心に
上記<こころ(心)>・・・などが立ち上がってくる過程を捉え直すことで
こうした議論の袋小路から抜け出そうとする思考回路を導出していこうと
志向するのが
いわゆる「心」の哲学であったり、
現代脳科学などの知見を加味させた「認知」哲学であります。
そこでは身体感覚を通じた世界の「感受」という視点が
一つの重要なキーワードとなってきております。
とりわけ「情動」という
より世界の方へと人間の最先端過敏知覚を
肉薄させていくようなイメージがある表現でもって
分析考察していこうではないかというのが
ここ最近の研究動向であります。
それは一つには現代メディア事情においても
人間の「情動(欲)」に働きかける広告宣伝に重点投資が
なされてきていることにも見られるように
より人間の刺激的・衝動的「反応」に期待を寄せた経営・経済戦術(戦略)が
採用されてきたことへの評価問題意識との関連性もありましょう。
こうした「情動」への瞬時的働きかけが
人間における思考能力低下などの悪影響を誘発させる場合には
それへの危険性を問題提起することも意義あることです。
しかしながら、人間の「情動」が果たす役割において
悪い側面ばかりを取り上げてしまうのも一方的な見方だということを
忘れてはならないようですね。
本書は主にこの「情動」に対する肯定的側面を探究する論考文が
提示されている点で類書には見られない特徴があります。
まずは『<情動>=悪』というステレオタイプ(型にはまった)な見方を
ひとまず留保して冷静に捉え直す姿勢も
『情動<哲学>』を探究していくうえでは
非常に重要な「発見」を提供してくれることがあるという点を
ご一緒に押さえておくところから始めましょう。
ところで、こうした経済戦術(戦略)論においては、
国家においてはマクロ経済政策を成功させて再び成長軌道へと乗せることが叶えば
ミクロレベルにおける私たち個々の一般生活者の福利厚生アップにも
つながっていくことになりますから、
現在ではこうした「情動」面にアプローチする心理的経済政策論にこそ
より比重が置かれてきていることもすでに皆さんご承知だろうと思います。
そうしたマクロ経済政策論における心理的アプローチはさておき、
ミクロの民間企業レベルにおいても、
もちろん広告宣伝そのものがすべて悪いと断定することは出来ませんが、
人々にじっくりと立ち止まって再考するゆとりを与える機会が
剥奪されたり軽視される側面があることは否めません。
広告宣伝で提供されるモノやサービスを
消費者がじっくりと再考しながら吟味して「消費」や「投資」する機会が
確保されませんと、生産者側としてもより安定した
長期的にもより質の高い商品を新規開発させようとする誘因も剥奪され、
薄利多売形式に安易に走る短期的利潤獲得志向になったり、
これがために資本主義経済における最大の弱点である
不必要なまでの「余剰」問題を抱え込み、
有限な資源を枯渇させてしまうことで
経済そのものも持続可能なものとはなり得なくなってしまいます。
そうした観点からも人間の「情動」への働きかけには
慎重な姿勢が望まれるところです。
とはいえ、しっかりとした「情動」解析が叶えば、
企業の業績内容悪化が改善される余地も出てきましょうし、
コスト負担の観点からも軽減し得る領域も拡張され、
人「財」育成やより意義のある新規商品サービス開発へと振り向ける余力が
出て来るきっかけを掴むことも叶い、
本来業務へと回帰していく思考回路が誘発され、
無駄な手間暇を省く利点を得ることが叶いましょう。
そのように「情動」解析研究には
まだまだ数多くの未開拓領域が広がっています。
AI時代において人間の雇用労働環境をより良い方向で
協働進化させていくためには「実践知」を通じた
メタ認知能力(暗黙知)を共有可能とさせていく
哲学的議論も経営での企画・営業の場では
ますます必要不可欠となっていくことでしょう。
そんなわけで忙しい現場業務をこなしながらも
余暇には常に継続的な「学習」を積み重ねていきませんと
すぐにも憂慮され予見されていた
あのAIに仕事が奪われるといった悲劇的事態を迎えることにも
なりかねません。
こうした事態に即応させるためにこそ
「働き方改革」や「生産性向上」の本来的役割があるわけです。
これからのAIとの協働時代、業態にもよりますが、
ますます「少数精鋭」型の中小零細企業にも
活躍出来る「場」が拡張されていくでしょうし、
そのような傾向が出てきませんと、
魅力的な市場にも発展していきません。
このような「成長」戦略論はあくまでも今日、明日にというわけではなく、
中長期的に十二分な時間をかけたものでなくてはなりません。
つまり短期的効果を狙った現在のような主流アプローチでは
「成長」戦略<疲れ>が出てきてしまうからですね。
そういう意味で国家と民間と私たち一般国民が総力を挙げて
世界経済の中で生き残りを図るためにも
教育投資(特に生涯的社会人教育)における
国家による民間への負担軽減策も補助していかなくてはなりません。
つまり、前回ご指摘させて頂いたような悪い方向での
半アナーキーかつファシズム的志向性ではない
「半官半民」型施策の堅固な構築こそが
只今現在の喫緊的政策課題だということです。
とともに今後ますます強まるだろうと予測される
こうした「半官半民」型企業組織のあり方として
不健全な癒着構造(レントシーカー問題など)が生じないような
公平な制度設計をいかに担保すべきかという議論も
積み重なっていくことでしょう。
こうした緊急的危機意識は、
むしろいわゆる「ロスジェネ(失われたウン十年世代)」にこそ
共有されていますので、
最後のお願いとして強く世論喚起を促しておきます。
「ロスジェネ」こそ経済「敗戦」の最大の犠牲者ですし、
その「敗戦」処理へ向けた提言を申し上げる資格も権利もありましょう。
かつての本当の戦争に比べれば
「まだましだ!!」と先人方には怒られるかもしれませんが、
平時における準戦時生活(特に生活貧困者にとっては
極度の耐乏生活を強いられてきた時代)であったことは間違いありませんし、
この長いデフレ不況の中でうつ病や様々な過労に由来する精神病理や
物理的破壊によって心ならずも「いのち」を奪われた方あるいは
絶たれた方にすればまさに戦争であったわけです。
戦後の平和ボケした時代の恐ろしさとは、
まさに平和だったからこそ「いのち」の重みの実感が
持てなくなってしまったという逆説だと感じています。
正真正銘の戦争であれば、
むしろ通説的見解とは異なり、
「いのち」の重みや人間の尊厳を何度も何度も
繰り返し問い詰めることでありましょう。
様々な戦没者や戦争従事体験者の方が残された手記や
例えば最近話題になった
『不死身の特攻兵~軍神はなぜ上官に反抗したか~』
(鴻上尚史著、講談社現代新書、2018年第19刷)などを読むと、
人間であれば最期の瞬間までいかに心理的葛藤で煩悶させられていたのかと
自然と思いを馳せることになります。
当時の様子を想像していくと
自ずから緊張感や臨場感が甦ってきて
まるでその時代に自分が生きていたら
「どのように思考(行動)判断し、<決断>していただろうか?」と
考えることになります。
とはいえ、実際にその「場」に居合わせたわけではない
この「平和」な時代に生きることが叶っている身にとっては
不遜にも追体験することすら叶いません。
だからこそ「憶測」などで読んでは罰が当たります。
手記を読む時には「心」で読まなければ
字面だけで故人の人柄を偲んだり、
今の価値観を含めた不遜な「解釈」が入り交じってしまいます。
そうなると、もうその故人との「心」の奥底にある
<魂>との対話をすることも叶わなくなります。
「真情」は常に文章の行間にあることを忘れてはなりません。
故人の「想い」を真に受け継ぎ、望まれていた世のあるべき姿を
実現し保持し続けていくためにも
過去の先人との連続的つながりを意識して生きていきたいものです。
「平和」と「戦争」とはそのように
いわば<メビウスの輪>のような連続的な時空構造を織りなしており、
極限状態へと容易く至りやすい諸条件も実は間近に控えているからこそ
逆説的に「平和」のもろさや保持し続けていくことの困難さが
見えてくるという側面もあります。
ですから、通り一遍のイデオロギー的感受では
「見えるものも見えなくなり」再び悲劇を繰り返すことになります。
良心ある人間であれば誰しもが「戦争」など引き起こしたくもないはずですし、
巻き込まれたくもないでしょう。
そうであるならば、歴史を見る確かな眼にも複眼的視点が必要となります。
「国(世界)を守るとはどういうことなのでしょうか?」
「いのち(愛する人)を守るとはどういうことなのでしょうか?」
あらためて皆さんにも真摯に見つめ直す時間を
時には持って頂きたいと切に願います。
特に「元号」という日本的時間感覚に意識を馳せやすくなる
節目の時期だからこそご一緒に考えて頂きたいテーマであります。
そんなことを今月は大阪の『よみうりギャラリー』で開催されていた
特攻隊にて散華されたご英霊の方が残された恋文や遺書類を
展示した企画展に出かけた際に
あらためて「では現代に具体的におきかえて考えれば
この遺訓をいかに読みとり活かすべきだろうか?」と真摯に考えていると
このような問いが甦ってきたのでした。
「もう二度とこのような前途有望な若者(老若男女問わず)を
死地に赴かせるような環境を上は国家から下は私たち個々人に至るまで
作り出してはなりません!!」
それと同時にですが、何事も逆説を忘却してはならないわけで、
「戦う気概」を喪失させても「いのち」が生かされることもありません。
ここでいう「戦う気概」とは
何も<好戦的志向性>を意味するわけではありません。
いわば人間関係や世界との距離感をうまく保ち得る知恵
(犯さず・犯されず=摩擦・対立を最小限に抑制し得る
<間合い>の取り方感覚とでもいいましょうか)を磨き続けることで
それぞれの独立性を尊重し合う鋭敏感覚といったものを指して
表現させて頂いております。
人間とは自律(立)性と他律(立)性という2側面を生きる存在であるために
少しでも油断しているとすぐにも相互侵犯してしまいます。
とはいえ、傷つくことを恐れていても
人間は成長することが叶いません。
『仮面ライダーBLACK RX』のオープニングテーマ曲にあるような
『傷つくことを恐れたら地球は悪の手に沈む♪♪』
ほど過激な極限状態を想像しなくとも
自身の内面の弱さと向き合う姿勢そのものが
「戦う気概」を養うことになります。
自他ともの「いのち」を守るためにも
まずは自身を内省する習慣付けが大切になります。
ですから他者や世界を批判(評)する場面に遭遇しても
それは同時に自己自身を批判(評)する姿勢であることを
片時も忘れるわけにはまいりません。
管理人も一応<批評>させて頂く過程で
常に悩み続けているのも
こうした「<批評>と<批判(誹謗中傷)>の分水嶺」問題であります。
言責がある以上は常に緊張感を持たざるを得ないからです。
人は誰しもが弱さを抱え込んでいます。
人間としてこの世界で生かさせて頂く限りは
迷惑をかけない人間などどこにも存在し得ません。
まずはお互いになにがしかの迷惑をかけているということを
「意識(言語によって可視)化」する作業を
日頃の習慣に取り入れてみてはいかがでしょうか?
管理人にとっての書評とはそのような意味で
その時々の自身の課題と真摯に向き合い直すうえでの触発材料であり、
自己反省「教」材としても活用させて頂いてきました。
「本を読む<他者の声に耳を傾ける知的身体行為>ことは
<汝自身をあらためて知る>」ことでもあります。
ですから人間として自己成長を遂げる触媒役として
読書を活用しないという手はありません。
そんなわけで特に日本の先人も
<おかげさま>と<おたがいさま>の知恵を強調されてきたのでしょう。
それが日本人が世界でうまく共存共栄していくための
文化的知恵だったと思われます。
今後ますます異文化交流が増えていく過程で
様々な摩擦的事態も出て来るものと予想されます。
そんな時はたいてい<言葉>と<思い>の壁が
相互誤解を生み出す最大要因だという視点を
忘れないで頂きたく願います。
今月はこれまた今から遡ること150(厳密には151)年前の明治維新直後は
新政府体制もまだ完成されていなかった端境期に当たる混乱期に起きた
『堺事件』に関連した法要行事に知人のご紹介で
参列させて頂いてきたわけですが、
会の主催者様の司会や事件の舞台となった妙國寺の貫首様の
法話でもこのことが強調されており、
是非多くの方々にもお伝え願いたいとのことでしたので
ちょうどよい機会でもありましたから
この場で合わせて語らせて頂きました。
それほどまでにお互いの「いのちを守り合う」ことは
容易いことではないのです。
ですから、単なる感傷レベルを超え出た「魂」の奥深いところで
納得し得る言説や問いかけでなくては
いかなる「反」戦論も「非」戦論も意味を喪失させ、
むしろ再びあの惨劇を招き寄せてしまうことになります。
ですから、現在の私たちはそうした政治的イデオロギー対立の次元を超えた
「魂」の奥深いレベルでの人間的共闘・連帯意識を
共有し得るように努めていかなくてはなりません。
つまり、「傍観者」意識では<いのち>は救えないということです。
最近の痛ましい幼児虐待事件を始め、
現在の「平和」な世の中にはこの種の事例が満ち溢れています。
前回の記事で管理人が特に強調させて頂いた「いじめ」体験談でも
触れさせて頂きました。
「ブラック企業」問題を含めてすべて根源的な問題は同じです。
そうした問題意識がありましたことから
今回の「情動」哲学を日常生活で具体的に活かしていくうえで
どのような姿勢(視点)が必要となるのだろうかと
皆さんにも共有して頂けるように願って
本書を取り上げさせて頂くことに至りました。
それが道徳(倫理)面での「情動」が果たす役割を考えることに
つながります。
ということで本書導入部に至る話もうまくまとまりました。
本書でも冒頭の<はじめに>でこのような一般的に
「情動」というキーワードで語られる文脈では悪い側面だけが
突出して議論される傾向にあると紹介されていますが、
『果たして「情動」にはそのような悪い側面しかないのだろうか?』という
問題提起から本書の主題である<情動の哲学>入門が開幕されます。
そうしたことから
これまでもすでに「情動」に関する書物のご紹介をさせて頂いてきましたが、
そうした悪い側面に対する「よい」側面というと
客観論を展開していくうえでは語弊もありますので、
「積極(肯定)的」側面という表現で今回は比重を置きながら
考えていくことにいたしましょう。
そしてこうした「情動」論をざっと見渡したあとは、
昨今の雇用労働環境悪化を促進させてきた
最大要因とも評価されている
いわゆる<感情労働>問題を中心テーマに据えた
論考もしていこうと考えております。
一般的な<情動>哲学となると皆さんにおかれましても
高度に抽象的な感じを持たれ親しみ感も薄れてしまいましょうから、
管理人の想像するところ、
やはり皆さんの身近な生活問題とも直結する
雇用労働「現場」における<感情労働>問題を
中心的に取り上げる語りアプローチが
適切ではなかろうかと推察して
以下でその試みも兼ねた本書ご紹介へと
進めさせて頂くことにいたします。
このような問題意識から今回は「情動」を主題に取り上げてみました。
それでは「情動」の世界を楽しみながら皆さんとともに眺めていきましょうね。
理性は「情動」の補佐役にすぎない!?~<感情労働>問題を中心に考える~
それでは本書の要約ご紹介と触発考察を進めていくことにいたしましょう。
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・<はじめに>
※<はじめに>では本書における著者の狙いが示されています。
通俗的な『理性>情動(感情)』と評価されやすい見方に
鋭い批判の視点が入ります。
むしろ鋭敏な<身体感覚>を呼び覚ます「情動」的反応という
歯止めがあるからこそ一般的には肯定的行為評価が下されてきた
「理性」の暴走を食い止めることも可能になるのだと・・・。
そこで著者は、この「情動」と「理性」との間に働く
相互作用<力学>の動きについて探究していくことになります。
『理性は情動の補佐役にすぎない』という視点から
理性による情動能力の鍛錬的効果について見ていくことになります。
なお、本書での「情動」と「感情」という言語使用面における
使い分けに関する注意点は<はじめに>(本書XI頁)でなされています。
そのことは以下の第1章でもあらためてご紹介いたしますので
ここで<はじめに>要約を閉幕させて頂くことにいたしますね。
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・<第Ⅰ部 価値と情動>
①「第1章 立ち現れる価値的世界」
※本章では、私たちがこの世界を眺める際に用いる判断として
<事実的>性質の側面とそこに「解釈(意味づけ)」を添加させた
<価値的>性質を見出すわけですが、
それぞれの側面をどのような身体感覚として
「感受(感じる)」をしてきたのかと
あらためて分析考察し直すところから
探究が始まります。
『私たちには「感じる」という仕方で事物の性質を捉える
2種類の能力があるように思われる。感覚器官に基づく知覚の能力と、
感覚器官によらない情動の能力である。
知覚が事物の事実的性質を「感じる」という仕方で捉えるのにたいし、
情動は事物の価値的性質を「感じる」という仕方で捉えるように
思われる。』(本書4~5頁)と。
ですから、これから本書全編を通じた「情動」探究をしていくうえで
絶えず頭の片隅に置いておかなくてはならない点は、
「情動」が<感覚器官によらない>身体回路を通じた
生理的営みである以上は
同じ「感じる(感受)」という表現を用いていても
<感覚器官に基づく>知覚反応を介した「感情」よりも
より奥深く深いところで作動する身体的動作反応だということであります。
ですから先の<はじめに>における「情動」と「感情」における
定義づけ注意においても著者は
「情動」が働く領域をより拡張させて理解することを
求めておられたということになるわけですね。
そこで次に問題となるのが、
「情動」が事物の「価値的」性質を捉える身体反応回路についての
話題であります。
「脳科学」的知見といっても様々な立場がありますが、
一般的に「脳科学」的視点から
この「情動」反応について解析していくと
まず最初に外界から受けた身体的反応を
いったん脳内での「感受」として捉え直したうえで
あらためて「情動」とは<知覚>作用として受容していくのだと
見立てる「知覚」説が主要な見解としてあげられることが
多いようです。
しかしながら、この「知覚」説ではいったん脳を介した
身体的感受という形になるために<判断>という要素が
どうしても混じり込んでしまう問題点があるのだと指摘されています。
著者による先程の「情動」に関する定義づけからも
直接的な<(特定の)感覚器官によらない>という特徴を
より前面に押し出していけば
やはり「知覚」というわけにはいかないだろうとするところから
「情動」がより直接的な<身体感受>する身体作用だとして
『身体感受説』という見解を擁護されることになります。
本書では基本的にこの『身体感受説』を基底に据えた立場から
それぞれの問題点を分析考察していくことになります。
第1章を読み進めていると、
所々でこの『身体感受説』という表現にとらわれすぎて
頭が混乱してくることも多々あるかと推察しますが、
著者はあくまでも「特定の」感覚器官によらないでというところに
力点を置かれているだけであり、
<身体そのもの>を感覚器官とみなした「知覚」という視点で
先の一般的な「知覚説」をより拡張させた視点を持たれているようです。
その際における問題意識として
「<意識>を向けた感受が可能かどうか」という視点が
取り入れられることになります。
そこで、この<意識>感受の可能性に比重を置くことになれば
論理必然的に認「識」作用問題に至ることになります。
ここで<身体的感受>を通じた「情動」の
<知的認識作用>との思考回路接点とつながっていくというわけです。
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②「第2章 価値認識の究極的源泉」
※第2章では、『情動がなくても、本当に世界の価値的なあり方を知ることが
できるのかどうかを考察』(本書29頁)していくことになります。
そこでは「事実」と「価値」との接続問題を
あらためて整理し直すことになります。
ここでは「価値」は「事実」に<付随>するという視点が提供されますが、
必ずしも「価値」は「事実」に<還元>されるわけではないことも
示されることになります。
ところで、著者は言うまでもなく
これから「情動」必要説の立場から論旨展開を進められていくわけですが、
その仮説に説得力を持たせるためにも
まずは冒頭の『情動がなくても・・・』という<情動不要説>を
批判的に吟味していく過程で立ちはだかる障害に
『事実から価値を導き出すことが可能かどうか』問題を
いったん通過考慮しておかなくてはなりません。
このテーマは倫理問題でよく引き合いに出される論点でありますが、
このいわゆる「自然主義的誤謬」論に丁寧に目を通してはじめて
著者による論旨も生きてくることになりますので
本章ではこの問題を中心に据えた論考が進められていくことになります。
本章の結論:『結局のところ、価値判断には情動が不可欠である。
情動がなければ、世界の価値的なあり方を知ることはできない。
情動は私たちにとって世界の価値的なあり方への唯一の窓である。
それは価値認識の究極的な源泉なのである。』(本書50頁)
なお、本章最後の<脚注>箇所には本書における著者の立場とは
異なる視点を持つ論者による哲学見解にも触れられていますので、
この分野への探究をさらに深めていきたい読者様には
「入口」ともなり得ましょう。
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③「第3章 葛藤する心」
※本章では、<心>が「情動」によってどのように揺さぶられていくのか、
またそこから生み出されていくことになる心理的葛藤といかに対峙するかで
あらたな世界へと誘われる端緒も切り開かれるという面を
著者が紹介する物語や小説を題材に
「情動」解析とともに考察を深めていくことになります。
ここでは「価値判断」と「情動」が対立した際には、
通俗的イメージでは『情動=悪』というニュアンスが
強く付着してしまっているがゆえに
どうしても「価値判断」の方に正しさを見出してしまう傾向になりますが、
必ずしもそうではない側面もあるらしい点を
マーク・トウェイン著『ハックルベリー・フィンの冒険』を事例に
見ていくことになります。
「情動」を通じた共感覚を伴うことが叶えば、
それまで宿していた「価値観(たいていの場合は悪い評価が
ついて回るような価値意識像)」の転換もあり得ることが示されます。
それは新たな自己の「発見」にもつながります。
また人類にとっての「希望の<光>」ともなり得る元素が
「情動」にもあることが示唆されます。
つまり、「情動」には悪い要素ばかりではなく、
人間の価値意識観をより良き方向へと仕向ける
希望的側面もあるということですね。
『価値判断は整合的な体系をなしている。それにもかかわらず、
価値判断より情動のほうが正しい場合があるのは、多くの経験の
積み重ねによって情動の感受性が研ぎ澄まされ、そのような研ぎ澄まされた
感受性によって形成された情動が、ときに体系的な価値判断より
事物の価値的性質を深く精密に捉えることができるからである。
情動のほうが価値判断より正しい場合、情動は価値判断に再考を迫る。
価値判断は体系をなしているから、この再考はたんに一部の価値判断の
見直しを迫るだけではなく、価値判断の体系の全面的な見直しを迫る。
つまり、それは価値判断の体系の再編成を迫るのである。』(本書75頁)
前回でしたか、ここ最近の書評記事内でも
こうした<世界認識フレームワーク>をどのような姿勢を持てば
揺さぶり「盲点」突破し得るのだろうかとの問題意識からの
論考も進めてまいりましたが、
今回ご紹介させて頂いた本書における本章での見解提示が
まさしくそうした問いに対する応答となり得ていたからでもあります。
管理人の想像するところ、『情動=悪、理(知)性=善』なる
これまでの近現代啓蒙主義的教育(知育)観が理想としてきた
単純な図式がもはや通用しない時代に一石を投じる反証例を
提示されたところにこそ本書の意義はあるものと考えています。
『情動』を「悪」と単純に見立てるのではなくして、
むしろ『情動=身体的共感覚の作用因子』として捉えると
別段新規に奇をてらったことを示唆しているわけでもなく、
古代から人類が「情愛」感覚を通じて育んできた
いわば<他者への思いやり感情>による共存共栄の知恵のことを
論理的に再確認したものにすぎないのかもしれません。
とはいえ、今まで「情動」といえば
その言葉にはマイナスイメージが付きまとっていたところに
こうして論理的に捉え直す視点を持つだけでも
プラスイメージへと変換されていく思考回路が立ち上がっていくのだと
いう知見には魅力的なものがあります。
ところで、陽明学には『知行合一(並進)』という有名なキーワードがありますが、
これに対する解釈ほど多大な誤解がなされてきたものもないようです。
最大の通俗的誤解は『知行合一=言行一致』なる解釈があります。
有名な作家さんや学者さん、政財界、マスコミ評論家にも
数多く見られるほどの誤解であります。
そもそも陽明学ではこうした本書でいうところの
「情動(感性)」と「理性(知性)」の二元的対立観で捉えていないからです。
あくまでも修養上の工夫を通俗人にわかりやすくイメージして頂くうえでの
便宜的説明として比喩的に提示されてきたまでであります。
そもそも人間である限り、本来は「情動(感性)」と「理性(知性)」は
このように二元的に区分けできるはずもなく、
もともと連続的に一体化したものであるからです。
ただその二つの作用因子を適切に制御統合し得ることが出来るか否かに
人間の世界でのあり方が変わってくるだけであります。
このように管理人がこれまで学んできた陽明学に関する(体験)知見と
本書におけるこうした見解(理性は情動の補佐役にすぎない!!)や
本章末尾の脚注1(本書76頁ご参照)でも
補足説明されている行動心理学などが最近提示して
一般的にも流布されるようになってきた
『二重システム(処理)理論=システム1を「情動」、システム2を
「価値判断(理性)」と捉える見方』とを比較考察してみても
随分異なった世界観があるように感受されてきます。
著者を含めて大方の西洋哲学を専攻にされてこられた方は
どうしてもどこかで無意識に「二元論的世界観」に
彷徨い込んでしまうようですね。
あくまでも理屈は説明上の便宜的手段にすぎない(これでも
まだ多大な語弊点が残りますが、<実践(体験)知>を言葉で
表現する以上はどうしてもこうした限界が付きまとうことは
やむをえません。)と認識したうえで論じるならばまだしも
便宜上の「二元論的世界観」を日常実際上の「一元的世界観」へと
符号させることはどうも言葉(理性)には及ばない領域のようです。
管理人が興味関心あるのも
この言葉を「超え出た」身体的「情動」感覚そのものにこそあります。
その文字通り<言語に絶する>空白領域をどう捉え、
皆さんに<共有知>としてお伝え出来るかを願って
独自視点からの哲学探究をしているわけですが
言葉を介する以上はやはり前途多難なのでしょう。
「身体(皮膚)感覚」を別の表現に置き換えれば
「質感(クオリア)」問題ということになりますが、
ここに現代科学の最大難関があるといいます。
いずれにしましても現状ではこの「質感(クオリア)」問題に
対する明快な解答もないようですので、
こういう難問は観点を何度も変えて
粘り強く考えていくほかありません。
ということで今後とも数々の論考書とともに
続けて追跡考察していくことにいたしましょう。
読者の皆さんにも何かこの問題に対する
アイディア知見などございましたらば、
どうぞお気軽にご遠慮なくご意見をお寄せ下されば幸いです。
当書評ブログの理想は皆さんの知恵とともに
知的空間をより良き方向へと共有創造していくことにあります。
『より良き優れた知見の共有創造こそが人間を含めた世界を救うのですから・・・。』
『学術技芸(芸能含む)の質量向上こそが最大の安全保障だと信じています!!』
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・<第Ⅱ部 道徳と情動>
④「第4章 悲劇的ディレンマ」
※本章では俗に言う<悲劇的ディレンマ>に当たる事例問題を通じた
考察を通じて「道徳」と「情動」との関係性について見ていくことになります。
哲学問題としては古くからある「カルネアデスの板(緊急避難)」問題や
「トロッコ(列車)」問題に通底する話題であります。
そして同時に「自由選択」と「意思決定責任への問責可否」問題などを
考察していくことになります。
ここでのキーワードは「情動」としての<罪悪感>であります。
それではこうした<罪悪感>すらないように見える極悪人と評価し得る
人間に対してはどのような接し方があり得るのでしょうか?
この問題を掘り下げていくことを通じて
次章以下での「道徳」問題との接点考察を進めていくことになります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
⑤「第5章 道徳的修復」
※本章ではヴィーゼンタールの小説『ひまわり』や
ハンナ・アーレントによる
『イェルサレムのアイヒマン~悪の陳腐さについての報告~』などを題材に
<道徳的修復>の可能性が成り立つ余地があり得るのかどうかを
考察していくことになります。
その<道徳的修復>が起こり得ていく場面における
「情動」が果たす役割についての話題であります。
ここではほとんど赦すに価しないと思われる極悪人にも
「情動」的になお「人間」であり得ると捉え直す姿勢を持つことで
通常の道徳的感情では乗り越えがたい「壁」を突破し得るのかどうかという
問題意識が強く出てきます。
それはあらたな道徳的関係性の構築可能性の話題であります。
『私たちは悪魔的な人間をそれでもなお人間だと思い、
反省も謝罪も償いもしようとしない彼らにたいして、それでもなお
反省と謝罪と償いを求め、そしてそのうえでいかなる赦しも絶対的に拒む。
このような道徳的な意味をもつ態度をとることは、いま私たちが私たちの
判断能力で考えうるような道徳的関係を彼らと結ぶことができないとしても、
未知の新たな道徳的関係性を結ぶことができる可能性があるとすれば、
十分意味をなすことであろう。私たちが悪魔的な人間を人間でないと
思いつつも、なお人間だと思うことには、道徳の新たな可能性にかんする
非常に深い意味が存在するのである。』(本書132~133頁)
こうした問題意識は例えば過去の戦争責任などを巡る賠償問題で
ほぼ恒久的に継続し得る膠着関係状態を
いかに打開していくべきかを図るうえでも
それなりに役立つ知見を提供してくれそうです。
<未来志向>とは口で言うほど生やさしいものではありませんが、
どこかの時点で賠償請求権を相互放棄するといった「合意」が
成り立った以上(「合意」の幅に関する見解の相違はありましょうが・・・)は
それ以上過去に遡って蒸し返すことはしないとの慣習的知恵が
国際法上も尊重すべきだとする規範的教訓が
なぜ存在してきたのかをあらためて問い直すうえでも
重要な知見が含まれているように思われます。
いずれにせよ、対立相互国にとって
いつまでも感情的しこりが残り続けない賠償方法を考えていくとするならば、
過去の「合意」を遵守したうえで
別方向からの「償い」方法に切り換えていくほかありません。
「償い」の方法は多種多様なものが考えられましょう。
上は国家レベルから下は民間・個人レベルに至るまで。
そうした問題意識から考えると
「あんな国、いつまでも無視し続けておけばいい!!」などという
安易な感情的「排外」主義を表明しておれば事足りる易問ではないことは
子どもでもわかる「道理」というものではないでしょうか?
これは双方の当事国に当てはまる共通課題であります。
「いつでも<対話>の再開が出来る環境条件を整えておくこと」が
大人の知恵だと確信しております。
現状では難しい環境条件だとは管理人とて感受しておりますが、
両国の未来に生きる次世代同士の親善交流の可能性を
現役世代によって閉ざされることがあってはなりません。
そんなに現役世代とは傲慢な「悪魔」的存在なのでしょうか?
少なくとも管理人自身は今はまだ難しくとも
お互いに良識ある「人間」だと信じて
未来へ向けた両国に渡り合う「架け橋」を創造していきたい者であります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
⑥「第6章 道徳の二人称性」
※本章では他章と少し趣が異なった
かなり抽象的な議論がなされているために
本書の中では一番理解しづらい箇所かもしれませんね。
ということで著者自身による本章で問題となる話題要約について
引用しておくことにいたしましょう。
『情動は道徳的実践においてどんな役割を果たしているのだろうか。
それはじつは無用の長物であり、道徳的実践にたまたま付随しているだけ
なのだろうか。それとも、情動がなければ、道徳的実践が成立しえないような
何か本質的な役割を果たしているのであろうか。
(以下では、)道徳的実践が本質的に「二人称的」であることを確かめ、
そのような道徳的実践において情動がどのような重要な役割を果たすかについて
考察していきたい。』(本書137頁)と。
著者はすでに第2章要約箇所でも確認させて頂きましたように
情動「必要」説のお立場から論じてこられました。
そこでこの情動「必要」説を大前提に
「なぜ人間同士における道徳的実践の現場においては<二人称的>
(つまりは、<当事者>性の重視ということですね。)で
なければいけないのか?」を探究していくと、
そこにも「身体感覚」に依拠した共感覚による
『人間の尊厳を共通の焦点として形成される反応的情動』が
私たちの道徳的実践における中核基盤となっているからだということになります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・<第Ⅲ部 生きる意味と情動>
⑦「第7章 感情労働」
※本章では今後ますます高まるサービス産業社会のニーズにおいて
接客側労働者に強く要求されるいわゆる「感情」労働問題に関する
諸問題点の考察を通じて「情動」との関係性を見ていくことになります。
そもそも「感情」労働とはどのような事態を指すのかという
具体的な詳細解説については本書に委ねさせて頂くことにいたしますが、
簡約すれば『人間の尊厳を知らず知らずのうちに侵襲していくことで
自身が何者であるかがわからなくなっていく精神病理を招き寄せる
<隷属的>行為』ということになりましょう。
本書ではそもそもの「感情」労働研究のきっかけとなった
『客室乗務員の仕事にかんする調査研究』(本書166頁)を事例に
その諸問題点が分析考察されていくことになるわけですが、
日本での雇用労働環境文化が
高度に洗練されたサービス産業化(狭義の第三次産業の定義に当てはまる
<サービス>業のみに限定されませんが)を成し遂げていくにつれて
通俗的な『お客様は神様だ』(三波春夫)という発想も
次第に本来の意図を離れて過剰なまでのリップサービスなどを伴った
悪質劣化の方向へと立ち至り、
疲労や果ては徒労を覚えるほどに身心ともに追い込まれてしまう
根本原因はどこから来るのかを探究するのが
一般的にイメージしやすい「感情」労働に関する解析意義でありましょう。
管理人も敬愛する三波春夫師匠のような『お客様は神様だ』との信念は
共有しておりますが、師匠もモンスタークレーマーのような存在までを
『神様』などと形容されていたわけではないでしょう。
また自身のポリシー(人間の尊厳)を捨象してまで
そのような存在に対して奉仕することを意味したわけがありません。
そもそも自身の信念や人間性を曲げてまで<八方美人的>に対処していれば
通常の人間であればいわゆる「認知的不協和」状態へと追い込まれてしまうでしょう。
最近はそうではない方もおられるようですが・・・。
要するに、むしろ本章でいうところの「情動(感情)」を押し殺してまで
接客されてしまうと疑心暗鬼な想いにとらわれるのではないでしょうか?
そんな意味で率直に申し上げますが、
やはり管理人もそうですが芸能人や一般生産者も
自ずと客を「選ぶ」ことになるでしょう。
そしてその「選ぶ」とは何も排他的差別を意味するのではなくして
まさに「ご縁」のしからしむるところということになりますが、
そうした<奇(機)縁>こそが双方にとって心地よく
末永いお付き合いが叶う人間的あり方だと信じております。
この「感情」労働問題は近年よく心理学などの分野で使用されることの多い
いわゆる<承認欲求>問題にも通底するといいます。
(<優越性の承認欲求>本書174~177頁)
そうした「感情」労働(だけに止まりませんが)による
「情動(感情)」を抑圧させた人間関係を続けていきますと、
いくら「人当たりのいい優等生」的な振る舞いをしていても
どこかの時点でその反動が強く出て来ることになりましょう。
もっとも、こうしたこともその人の性格(気質)や
日頃からの鍛錬熟成度にもよりましょうが、
概して「情動(感情)」を押し殺すことは不健全であることは
確かなことでありましょう。
さて、これに絡めて少しだけ本章の主題であった
「感情」労働問題からは離れることをご寛恕願いますが、
大事なことですのでお付き合い願えれば有り難く思います。
(ちょうど今年は第一次世界大戦におけるパリ講和会議における
日本政府側からの<人種等差別撤廃提案>から100年目に当たる
節目の年でもあり、大手マスコミもほとんど特集していないからです。
この時の歴史的教訓こそ現在活かすべき時でありましょう。
しかも今後の「移民」問題とも絡む「排日」移民法案から
大東亜(アジア=太平洋)戦争にまで至る遠因をなした教訓だからです。
ちなみにこの時に「移民(出稼ぎ労働者)」として海外へ出て行かれた方々は
日本人であったことを忘れてはならないでしょう。
なぜか高校の世界史などでもあまり深く教えられることがありません。
外国の「移民」の方々が舐めた辛酸な事例は紹介されてもです。
さらに「保護(管理制限)」貿易自体よりも
「自由」<過当ダンピング競争>貿易こそが
最終的に過度な「保護」<主義>貿易へと直結していき
「最終解決」へと至ったのですからより事態は深刻なのです。
適切な「自由」貿易とは適切な「保護(管理制限)」貿易と
ほぼ同義のようです。
歴史を見る眼を養う際には、
こうした「時間的因果(先後)関係」の厳密な具体的確認作業こそ
不可欠であります。
ことにこれまでも日本政府はことあるごとに
世界へ向けて「自由」貿易の重要性を世論喚起してきただけに
こうした「自由」貿易の具体的内容についても
適切な認識と説明をしていかなくてはなりません。
同じ表現(ここでは「自由」と「保護」という言葉)を
使用していてもその具体的内容(定義)が違えば
未来に大きな禍根を残すことにもなりますから
本当に気を付けなくてはなりません。
加えて「翻訳」に絡む悲惨さも
我が国はすでに何度も繰り返し体験してきたはずだからです。
国民の生命・自由・財産を守るとは
これほどまでの緊張感と真剣さが必要なのです。
今こそ日本政府はこの時の歴史的教訓を世界世論に
訴求すべき時が来たったのですぞ!!
そのあたりは本書評記事最終末尾で
ケインズ卿による『平和の経済的帰結』のご紹介を兼ねた
ある炯眼書からの引用文とともに締めくくらせて頂くことにしますね。)
それは極端な形で「情動(感情)」が突出してしまった
例の「ヘイトスピーチ」に絡む批評論考のことです。
読者様によっては違和感を抱かれる方もおられましょうが、
ある意味で「ヘイトスピーチ(憎悪感情丸出し言動)」を
PC(ポリティカル・コレクトネス=政治的正しさ??)の観点から
規制・追放しようとしても決してなくなることがない最大要因も
この点にあるのだと思われます。
なぜならば、真摯に向き合いながら「なぜそのように感受してしまうのか」を
率直に話し合う機会が剥奪されることになるからですね。
人間が対等であるためには「不快」感を感じることがあったとしても
(人間なら生きていれば誰しも避けたくても避けられないことです)、
まずは相手の言い分も聞く柔軟性がなければ
最終的にはより深刻な事態へと発展しかねません。
とはいえ、単に<思想の自由市場>論(対抗言論による対等性の保障。
もっとも第一義的にはこの「対抗言論」によって対処すべきは
論を待ちませんが・・・。)だけでは回避し得ないような
「ヘイトスピーチ」に<明白かつ現在の差し迫った危険性>がある
深刻な局面においては野放しにすることが
社会防衛上も許容されないことは論を待ちません。
それが「良識」というものでしょう。
しかしながら、「表現の自由」との兼ね合いで
どこまでの規制が許容され得るのかを考えるに当たっては
それがどの程度の規模を有した権力層によるものなのかによっても
区別された詳細な議論が不可欠であります。
大は「世界政府(まだありませんが、
ここでは国際機関一般としておきましょう。)」から
「国家」、「大規模資本企業」から
小は「(弱小??)個人」に至るまで・・・。
本書における直接の論点批評考察からは少し外れますが、
<情動(感情)>哲学の派生論点でもあり、
今もっとも喫緊の課題でもありますので
合わせてこの場で検討させて頂くことご寛恕下さいませ。
というのも何度も繰り返しになるテーマでありますが、
マスメディア(それも消費増税に伴う<軽減税率>の恩恵を受ける
大手新聞社がほとんど触れたくなさそうな超重要問題ですから)も
軽視している一般出版業界への<軽減税率>適用に対して
不寛容に見られる姿勢や何を「有害」図書とするかの
線引き問題を巡って、どうも公権力との裏取引によって
矮小化されていく恐れが出てきているからですね。
こうした「表現の自由」に関する規制に対しては
法学生や法律業界関係者なら<釈迦に説法>ではございますが、
いわゆる「内容」規制と公表「手段」規制では
まったく異なった態様方法が本来採用されるべきであるにもかかわらず
世間一般ではどうも混同誤認された俗論が横行していることに
管理人も同じ創作者の端くれとして危機感を覚えるからであります。
ことは深刻な事態を迎えているようです。
一部司法団体ですらこうした危機感が希薄なようだからです。
我が国の司法制度の一翼を担う存在であるだけに
相当な知的・社会的憂慮を覚えます。
(ご参考までに母校の憲法学者でいらっしゃる市川正人教授による
公開論考文をこちらでご紹介しておきますね。
ネット上で優れた論考文が閲覧出来ることは
今さらですが学術機関から遠く離れた位置にある一般市井人にとりましても
誠に有り難いことです。感謝いたします。)
さらに例えば、国防戦術(戦略)面においても
最近はある程度までの「発散(警告)」訓練といえば
多大な語弊(解)を招き寄せるおそれがありますが、
あえて適切な事例なのかどうかは心許ないところ
取り上げさせて頂くとするならば、
そうした「発散(警告)」訓練こそが
むしろ有事へと至るリスク度を低下させ得るとの
心理的実験結果もあるようです。
行動心理学などが示唆するところの
いわゆる<回避学習>という知見です。
だからこそ<緩衝地帯(国際的中立機関による共同管理区域)>を
設定する意義もあるわけです。
また悲しいことに最近生起してしまった
某国による事前警告なしの唐突的レーダー照射事件なども
戦争を誘発させるおそれが多大にありますので
国際問題にまで発展してしまっているわけですね。
このように最初はごくごく些細な個人や民間人による<感情>問題であったものも
国家間同士での外交問題にまで進展してしまえば、
なかなか両国ともに「おいそれ」とは双方の主張を取り下げることすら
困難な事態へと追い込まれてしまうのです。
「有事」とはその名がイメージするとおり
まさに想定「外」の不確実事態ではありますが、
日常的な継続警「戒」訓練を通じて、
「有事」にまで発展してしまう深刻かつ最悪事態を
未然に抑制することも期待されるからですね。
「不確実(想定の範囲<外>)の時代」が話題になる昨今、
いかにしてある程度までの「確実(想定の範囲<内>)」へと
抑制し切ることが叶うかは
『誠実な国際平和の希求のためにも(日本国憲法<前文>趣旨)』
重要課題だからです。
そのような趣旨で<情動>絡みの派生論点としては
多少管理人自身にも疑義は残りますが、
一つのご検討参考事例としてあえて取り上げさせて頂いた次第です。
言うまでもないことですが、
これ以上に両国間での紛争が拡張しませんことを祈りますとともに
双方からのいかなる政治的煽動工作にもひっかかりませんように
心より多くの「心ある」方にご協力を求めるところであります。
そのように当然ですが、
「偶発的」事故や事変(からの本当の熱戦)へと至らない方策も
十二分に練っておかなくてはなりませんが、
その点はすでに20世紀における「冷」戦などの教訓から
ホットラインが開設されていたりするなど
様々な外交的体験知見の積み重ねもあります。
だからといって「絶対」に安心だとは断言しませんが・・・。
「人命」を可能なかぎり尊重するためにも
「核」や「生物化学」兵器という禁断の果実に依存しない
「無人化」兵器増強も要請されるとの外交関係者の
ご提案もあります。
(2月20日水曜日付け産経新聞朝刊『正論』欄
<無人兵器の開発は必須の要請だ>加藤良三元駐米大使)
言うまでもなく、人間同士を「圧殺」し合い、
地球生態系をも「衰滅」させるしか役割(能)のない<兵器>など
この世にないに越した事はありません。
しかしながら誠にもって残念ながら人間の<情動>の中に潜む
他者支配への誘惑がなくならない限り、
戦闘(暴力)行為をあらかじめ抑制させ得る何らかの手だてを
構築しておかざるを得ません。
これが悲しいですが現実なのです。
ですから、人間という生物は<性善説>だけでは安心できない
存在だということになります。
管理人自身の人間観も基本的に
『人間は天使でも悪魔(野獣)でもない』(パスカル)と信じていますが、
世の中のこれまでの動向教訓から鑑みれば
本書第5章との問題とも再び重なってきますが
「人間」ならまったく想定していなかったような
他ならぬ「人間」によって最悪な事態へと招き寄せられれば
そうやすやすとは「赦し」たくても「赦し」たくなくなるのが
人<情>でもありましょう。
それでもなお最後は「人間」として向き合うことで
<道徳的修復>へと至らざるを得ないだろう・・・との
論旨展開ではありました。
そんなわけで管理人の持論でもある
国防もハードパワーにのみ依存し過ぎない
良質な「思想」面から<相互安全保障>を確保していこうと志向する
ソフトパワー(教育)にこそ
より比重を置いていく時代へと向かっていく道を
絶えず模索していかなくてはなりません。
人類の「霊性」面での向上を願えば・・・。
そのためにこそ本書の主題である<情動>を主軸に据えた
「人間」の本質・意義探究を今後とも進めていかなくてはなりません。
その文脈で逆から考えれば、
人類にとって脅威的存在とされてきたAI(人工知能)も
反面教師として私たち人類の救済役を
務めてくれているのかもしれませんね。
こうした観点からAIを眺め直しますと
まだまだ「希望」も持てましょう。
さて、もう少しだけ<情動>面から
人間の性格を考察してみましょう。
管理人が想像するところ、日本ではまだ「平和」な状態の下で
こうして安心して暮らせることは本当に有り難いことではありますが、
むしろ日常的な
身心両面的「戦争(擬似死体験と表現してもよいのでしょうか?)」感覚が
忘却されていくにつれて、どうも<いのち>というものは
有限性を突破して無限へと立ち向かおう(つまり、<死>への誘惑感情=
タナトス<フロイト心理学で有名な概念>)とする衝動的情念が
強まっていく要素があることも
きちんと厳しく見据えておく必要がありそうです。
実際に人間を<死>へと追い込む極限状態である「熱」戦は
何としてでも回避しなくてはなりませんが、
安全な「擬似死」体験まで否定してしまえば
こうした逆説的事態へと容易く誘導されてしまうようです。
世の中の清潔かつ安全志向が強まれば強まるほど
こうした危険性がどうも高まっていくようですが、
そうした傾向性をいかに「管理」していくべきかが
近未来における人類の社会ではあらためて問い直される機会も
出て来るかと思われます。
話題が個人レベルの「感情」労働問題から
国家間レベルの外交問題にまで飛躍してしまいましたが、
ここで再確認しておきたかった趣旨は
「情動(感情)」を抑圧し過ぎても
かえって良質(好)な人間関係を形成していくうえで
何も良い結果をもたらさないだろうということです。
ロック音楽愛好者の方なら馴染みやすい比喩表現だと思いますが、
要は「腹を割って話そうぜ!!」ということですね。
そうした双方の誠実な熱い姿勢で向き合えば、
必ず人間的「情愛」感も伝わるだろうからです。
まとめますと、「感情」労働の最大の欠陥点は
人間の「本心」が抑圧されてしまうことで
『生きることの本当の意味に目覚めていくのに必要な
「自己洗練」を妨げること』(本書179頁)にあるのだといいます。
ですから、皆さんも「感情」労働問題考察を通じて、
日頃何気なく抱かれてきた違和感や嫌悪感の底流にある
<底知れぬ魔物>と向き合う孤独な時間を大切にして頂きたいのです。
そうした観点からも群れない習慣が形成されていくことになりましょう。
管理人も昨今のSNSツールを始めとする現代メディア事情が
否応なく拡散させる「フェイクニュース」や「煽動情報」に
惑わされないためにも独自の「群衆」心理に関するテーマを扱った
古典に取り組み始めています。
そうした「感情」労働がもたらす人間の尊厳への侵襲から
いかに<脱出>していくべきかの考え方(姿勢)のヒントについては
本章<脱出の道>(本書185~188頁)でも提言されていますので
そちらをご一読下さいませ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
⑧「第8章 情動価と経験機械」
※本章では前章の自然な環境世界における「情動(感情)」抑制問題が
もたらす弊害点などの考察してきたのに対して、
今度は人工的なバーチャル世界を創造することで
「本当に幸せを掴めるのだろうか?」問題、
言い換えますと、本章で取り上げられる<経験機械>の思考実験を
参照事例として情動「価」問題について論じられていくことになります。
近未来のVR(バーチャルリアリティ=仮想現実)と
AI(人工知能)を搭載した装置を携帯して暮らす
「新(超)」人類のあり方に対する予言めいた話題とも
関係していきそうなテーマ論考であります。
まず始めにこの「経験機械」の思考実験とは
米国の政治哲学者で『アナーキー・国家・ユートピア』で
リバタリアニズムを紹介することで著名になった
ロバート・ノージック氏が提唱された概念であります。
この「経験機械」とは、
『どんな経験も生み出すことができる装置だ。
知覚であれ、感覚であれ、情動であれ、思考であれ、意思であれ、
とにかくどんな経験でも生み出せる。
それゆえ、正の情動(管理人注:心地よく絶対的多幸感に浸れる情動のこと)
だけに満ちあふれた心の状態を生み出すこともできる。』機械のことです。
その「思考実験」とは、
『このような経験機械に繋がれて、正の情動だけをひたすら経験するような
人生を送ったとすれば、その人は幸せであろうか』(いずれも本書192頁)と
問う哲学的思考問題であります。
情動「価」の「価」とはこうした<評価感情基準>としての
<正>と<負>の「価」のことを指しますが、
この「価」をいかに解釈するかを巡る議論があります。
そうした議論内容につきましては本書に委ねさせて頂くことにいたしますが、
ここでは代表的なプリンツ氏によって提唱された『内的強化子説』を
さらに批判的に吟味させた『価値表象説』が
著者によって提示されていくことになります。
(<価値表象説>本書197~200頁)
この『価値表象説』を大前提に据えて
著者独自の視点から<経験機械の謎を解く>(本書214~218頁)に
対する論旨展開がなされていくことになります。
『経験機械の謎を解く鍵は、世界の価値的なあり方を表象する
情動の志向性がその充足を求める点にあると言えよう。』(本書218頁)と・・・。
問題はそのきわめて「人間的な」充足感ですが・・・。
充足感すら「満足」させずとも生きていけそうな
「至れり尽くせり」な清潔な居心地良き開放ではなく
「閉鎖」時空だと管理人には感受されるわけですが、
このような時空環境がますます整えられていくことによって
今後の人類の行く末はいかなる結末を迎えるのだろうか?
そこに興味関心を覚えるわけですね。
この問題について次世代を担う若い読者の皆さんの
ご意見を是非お聞かせ願いたいのです。
ご意見に対してはもちろん個人的な感情やイメージ観を尊重いたしますので
肯否の判断は下せませんが、
こうした世代感覚の認識的「ズレ」を可視(見える)化させておくことは
近未来へ向けた「社会」創造の参考にもなり、
歴史的記録物としての役割もありますので
是非ご協力して頂けると有り難く思います。
他の読者様(特に現在の制度・政策を主導構築してきた年輩層の方々)に
おかれましてもおそらく多大な興味関心が寄せられる
<パブリックコメント>にも資することでしょうから・・・。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
⑨「第9章 自己物語」
※「現実の過酷な環境条件においていかに自己の人生体験を
充実させた幸せなものへと昇華完結させていくべきなのか?」
この重要な問いは誰しもが共有されておられることでしょう。
本章では、そうした問いへの試みとして
「情動」を絡ませた<自己物語>化作業の必然性や重要性について
見ていくことになります。
とともにその限界点も明らかにされていくことになります。
とはいえ、そうした一定の自然的制約条件の中に置かれていても
「それでも生きていかざるを得ないのが私たち<人間>だ!!」という
あたりで静かな余韻を残しながら、
本書は閉幕されていくことになります。
『さぁ、読者の皆さんは<情動>をいかに駆使して
ご自身の人生を精一杯「充足」させたものとして
幸せな道を歩んでいきますか?』
そのような問いかけであります。
最後に本書要約を終えるに当たって
あらためて確認させて頂きたいことは、
『人生とは山(順境)あり谷(逆境)ありの連続体』だからこそ
人間の本当の意義や本質を学ぶことが叶うということです。
『楽しみって、幸せって何だっけ?』
それは裏返して言えば、
『哀(悲)しみって、苦しみって何だっけ?』を問うことでもあります。
そういった心の奥底から湧き出てくる「本心(魂)」に
忠実に生きることこそが、
その人本来の<個性>を輝かせてくれる道標(導き手)と
なってくれるのではないでしょうか?
本書の最終まとめになりましたが、
これまで<情動>にはマイナスイメージばかりが付きまとってきましたが、
それとうまく付き合う知恵を身につけることが叶えば、
人生をまた世界をプラスの方向へと転じさせることも
十二分にあり得るということでした。
その意味で本書は<情動>に関する肯定的側面に力点を置いた
論考書の1冊だと評価し得ましょう。
ということで、皆さんにも本書をきっかけに
それぞれの<情動>哲学入門してみませんか?
ご一読のほどお薦めさせて頂きます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・<あとがき>
・<参考文献>
・<索引>
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<情動(魂)>を揺さぶる創作芸術「活動」を通じた新しい形の 「仕事(社会参加)」へと転じていく動機付けについて考えてみました!?~浪速の某へヴィメタルロック祭典体験記~
皆さん、毎度ありがとうございます。
さて、ここからは力を抜いてごゆるりとおくつろぎ頂きましょう。
今回の書評では<情動(感情)>や<情念>に絡むテーマを
探究してまいりましたが、
そんな<魂>を揺さぶる音楽と言えば
皆さんにもそれぞれの思い入れがございましょうが、
管理人の場合にはやはり「ロック」音楽になります。
とりわけジャンルに拘らず幅広く渉猟堪能してきた身としては
クラシックからジャズ、民謡・演歌などなどの要素が取り入れられた
「プログレッシブロック(通称:プログレ)」志向を宿した
<へヴィメタル>系ロック音楽に激しい共鳴共感してきました。
贅沢な「ロック」だからですね。
その「入門」役を果たして下さったのが、
今月22日にリリースされた米国のプログレッシブ・メタルロックバンドである
『DREAM THEATER(ドリームシアター)』さんでありました。
この新作を聴きながら創作しているところです。
この曲が創作された経緯やコンセプトなどは
直接は日本版の伊藤政則氏などのCDアルバム向け解説集や
洋楽版『BURRN!』誌3月号のインタビュー特集記事(76~83頁)を
ご一読下さいませ。
ちなみに今月号も充実した入門者向け解説記事もあります。
特に<特別企画~基礎からのへヴィ・メタル内サブジャンル~>
(上掲書36~45頁)はお薦めですよ。
それはともかく
本新作アルバム『DISTANCE OVER TIME(まさに<時空を超えて・・・>!!)』
収録曲『Room 137』が立ち上がっていく創造の「源泉」には
管理人もすでに関連する書評記事を公開していましたから
「びつくり仰天!?」の展開でありました。
この「137」はドイツの物理学者ヴォルフガング・パウリによって
導き出された宇宙の<微細構造>をなす意味深な数字(物理定数)だそうですが、
たまたま無類の読書家であるエンジニアやドラマーのほんのちょっとした
「ジョーク」から新作へのアイディアが浮かんでいったといいます。
それはともかく物理学に絡む話題が出てきましたので
これまた宣伝めいて大変恐縮ですが、
過去に書評でもご紹介させて頂いた
松原隆彦先生の『目に見える世界は幻想か?』(光文社新書)も
本年度の大阪府立高校特別選抜試験における『国語B』にて出題されたようですね。
管理人が選ぶ書評題材本が若い読者様に役立っているかどうかは
心許なく恐れ入りますが、
このような形でもお役に立つことが叶えば有り難いことですね。
今後とも皆さんにご助力出来るよう励んでまいります。
そんなわけでいつも知的なコンセプト・アルバムを数多く手がけてこられた
『DREAM THEATER』さんの楽曲には触発されることしきりであります。
管理人の思うところ<へヴィメタル>系ロックバンドの
強みや実力を評価するうえで
個人的ファンの意見としてバンド関係者の方々には
誠に手厳しい論評になるかと思いますが、
やはりこのような知的な世界観や思想哲学が込められた
『コンセプト』アルバムを創作出来るかどうかにかかっているように
感受されます。
幅広く末永い活動歴と漸次的ファン増を
成し遂げていくためには
このような実力的素養(幅広い文化的教養裏付け)があるかどうかも
大きな「助力」となってくるようです。
<へヴィメタル>ロックファンの方には
結構な割合でいわゆるインテリ層の方もおられますから
かなりの厳しい批評感覚を持っておられることが多くあるために
他のジャンルよりもかなりの洗練度や完成度が要請されるようです。
このような厳しい選別「眼」に終始晒され続けているために
作品もより高水準なものほど残り続けていくようです。
そんな観点から対バン形式の共演奏を観察していると
また面白さもいや増します。
音楽はやはり「生」に限ります。
いまやメディアも多角化してきており、
大手メディアに紹介されたからとて
「ひと安心」というわけにはいかないくらいに厳しい業界が
音楽業界であります。
面白いのが特に国内<へヴィメタル>系ロックバンドが
いきなり海外のレコード会社と契約して「世界デビュー」した後に
日本国内に「逆輸入」されていくパターンであります。
『LOUDNESS(ラウドネス)』さんや
『BABY METAL(ベビーメタル)』さんなど
今や多数輩出されてきております。
このあたりが
いわば<超>「ジャパメタ(日本へヴィメタル)」の
魅力的なところでしょう。
そんなわけでこのあとすぐに
今月17日にとある大阪のライブハウスで観覧させて頂いた
対バン演奏者のご紹介と
そこには直接出演されていなかったのですが、
同ライブハウスの別室でイベントライブをされていた
とあるバンド関係者の方が終了後に降りてこられていて
二言・三言お話をお聴かせ頂いたこともありましたから
その方へのご声援とご支援をお願いしたくご紹介しておきますね。
先にご紹介しておきましょう。
『Xperia』のコマーシャルなどで話題となった女性ギタリストさんが
所属されている『D_Drive』さんです。
さて、そのように『コンセプト』アルバム絡みで言えば
すでにご紹介させて頂いた
ご縁とご恩ある贔屓の<京風メタル>バンド『BLACK YAK. 』さんも
すでに優れた作品を世に出されています。
宇宙や生命、愛といった人間にとって大切な要素を
「ポップでキュートな」へヴィメタルサウンドで仕上げられています。
また<メランコリック ロック>バンド『kyanos(キュアノス)』さんは
今回参加させて頂いたライブハウスには出演されていませんでしたが
(同日に『西九条ブランニュー』さんに出演されていたので)、
まだ楽曲数も少なくミニシングルしか出されていない段階ではあるようですが、
今後続々と各所からオファー頂いているそうなので
応援して頂ければ有り難いです。
このバンドの世界観も独特な味わいがあります。
いわゆる『ゴシック』系とも異なる
今の時代に寄り添うような<メランコリック>系をコンセプトテーマに
掲げられているバンドであります。
特にボーカリストの方は歌劇に親しみがあり、
「絵師」でもいらっしゃいますので、
今後は衣装デザインや作風や演奏スタイルも
「ミュージカル」風に発展していくのでしょうか?
その「進化」に興味津々な管理人であります。
多分今までにありそうでなかった日本人の気風というのか
そういった文化とも馴染ませた音楽スタイル(芸風)を
形成していかれると期待しております。
それでは、今月17日に
大阪心斎橋の『Big Twin Diner SHOVEL(通称:心斎橋ショベル)』さん方で
公演された<The Power of Equality>に出演されていた
4バンドの方々をご紹介しましょう。
①『Sighnool』さん
②『EITA(+TAKAEITA)』さん
③『愛沢絢夏』さん
④『BLACK YAK. 』さん
の4バンドの皆様であります。
贔屓の『BLACK YAK. 』さんは前にご紹介済みなので
公平な観点から新しくご縁頂いた他の3バンドの皆さんを
中心にご紹介していくことにいたしますね。
『BLACK YAK. 』バンドメンバーの皆さん、
そしてボーカリストゆうみさん、
今回はごめんなさいね。
それではご紹介始めましょう。
今月も締め切りが過ぎてしまいましたので
言葉はなるたけ節約して、
直接その音楽性や作品に触れて頂きたく思いますので
手短にその初印象のみに絞ってまとめてまいりましょう。
上記バンドの方々が出演されるライブ公演に直接足を運んで頂くのが
紹介者としてもバンドの方々にとっても一番有り難いことですが、
なかなか諸事情で足を運べない方もおられると思います。
そのような読者様はリンクさせて頂いた直接のホームページ先にある
ライブ公演紹介記事や動画などをご参考願います。
今回のライブで出演されていたバンド群の特徴は
何よりも女性陣が多かったことですね。
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その中でトップバッターの演奏者は
『Sighnool』さんでありました。
彼らだけが男性陣で固められていました。
そんな彼らは『デス』系メタル志向でしたが、
サウンドはメロディアスな要素にも包まれていましたので
いわゆる『デス』系メタルがあまりお好きでない方にとりましても
聞きやすい部類に属するバンドだと評価いたしました。
ボーカリストの方のMCは個人的感想では
まだまだ勉強不足な要素もあるようでしたが、
「掴みはOK」ということで
大阪人的にはおもろかったですよ。
特に今回のタイトルとも絡んできますが、
ボーカリストの方のお話で共感共鳴させて頂いた題材に
『普段は僕は出来ればふとんから出たくないんですが、
これ(ライブ活動)があるからこそ社会に出て来るきっかけを
掴めているのです・・・(大意)』というお話には
しんみりと考えさせられました。
確かに今の世の中の表面的な豊かさに隠れた背後では
数多くの社会不安症というのでしょうか、
そのような複雑な心理的葛藤で日々煩悶され、
しんどい精神状態にいらっしゃる方々もおられるかと推察いたします。
そんな方々にとっても彼らは応援メッセージを届けてくれているように
感受いたしました。
曲がりなりにも「社会」に出てきて働く(活動する)ことが出来ていても
なかなか人間関係に馴染めずにいたり、
仕事のあれこれで複雑なやりきれない想いを抱え込んでおられる方々も
数多くいらっしゃるでしょう。
そうした若者(年配者も含めて)が
「なぜ<社会>に馴染みにくいのだろうか?(管理人も含めて)」と
真摯に深く考えていくと「不信」感がやはり多いのだろうと推察します。
「その根本原因は何なんだろう?」と迫っていくと
冒頭部で触れさせて頂いたことと重なりますが、
やはり<言葉>と<思い>の壁による
心理的距離感に最大の原因があるのだと思います。
人間が発する<言葉>の裏側にある<想い(情念)>に
誠実さが足りないと感じたり、
些細な表現のまずさ加減などから
本当はそういうニュアンスでいったわけではないにもかかわらず
勝手な解釈を交えて自分独自に「思い込んで」しまうところから来る
相互誤解に基づく人間不信などがあるように感受いたします。
現代の文化的風潮ではなかなか「熱く」なれなかったり、
「熱しやすく冷めやすい」人間関係や社会環境になってしまう要素が
満載であることもその一つの要因でありましょう。
こうした時代「風潮」や「思潮」になると、
「ロック(熱い=人生を充実させた)」な生き様を試みようと願ってはいても、
なかなか「腹を割って話そうぜ!!」という雰囲気にはならないのも
やむを得ない心情なのかもしれませんね。
そのような時代において
『私たち「人間」はこれからどのように生きていけばいいのだろうか?』という
重い問いかけは誰しもに降りかかってくる一大難問だと思います。
その問いへの答えは各人各様にありましょうが、
そんなことをあらためて考えるきっかけを提供して下さったことに感謝いたします。
まずは彼らの「熱い」想いがこもった楽曲群に触れてみて下さい。
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次に出演されたのが、順番を忘れてしまいましたので
順不同ということでご了承願いますが、
まずは東京からお越し下さった
『EITA(+TAKAEITA)』さんであります。
管理人としては彼女EITAさんはギタリストなんですが、
今回また何かを奪われてしまったようです。
最近は女性ロックバンドやとりわけギタリストやドラマーまで
これまで男性向けと評価されていた
楽器に挑戦されている女性の方が数多く出現してきています。
そんな中でもこのEITAさんは何か独特な雰囲気を醸し出していたようです。
すでにお気づきの方もおられるかもしれませんが、
このバンド名が『EITA(+TAKAEITA)』となっているのは、
彼女によるホームページ情報によりますと、
もともとTAKAEさんという方とコンビバンドを組まれていたそうですが、
そのTAKAEさんがお亡くなりになったといいます。
そうしたEITAさんに関するこれまでのバンド活動の経緯などは
帰宅後に知ったわけですが、
どおりでどこか悲しげな様子に感受されたのも
こうした事情がおありだったからだと・・・。
とはいえ、バンド名にもあるように
彼女は常に相方さんの「御霊」とともに生きておられるようですから
きっと人間性の立派な方でしょうし、
その「想い」が作風に滲み出てきており
私たち観客の<魂>を揺さぶる何かがありました。
彼女の作品にはギターソロ(インストルメンタル=器楽)曲も
他のバンドさんと異なって数多くあるようでしたから
作業用BGMとしても適した作品を提供して頂ける
アーティストさんでありました。
管理人としては敬愛する元シャムシェイドのギタリストDAITAさんの
ソロ曲(現在ではオンラインショップ=DAITAさんの公式ホームページを通じてしか
なかなか入手困難ですが・・・)をよく使用させて頂いてきましたから、
こうしたギタリストが女性にもいたと知ることが出来て
それだけでも新たな出会いに感謝です。
初印象も女DAITAさんでありました。
しかもEITAさんとDAITAさんって
音的にも語呂合わせとして面白いですし、
ホームページによるとEITAさん自身、
管理人と同じくシャムシェイドさんや陰陽座さんを敬愛されているようで
音楽的嗜好としても共感し合えそうなアーティストさんのようですから
まさしくこれまた「奇遇」ということになります。
いつかお二方のギターソロ共演も見てみたいと
秘かに思う管理人でした。
そんなEITAさん、昔は『時空海賊SEVEN SEAS』というバンドでも
活躍されていたそうです。
管理人も帰宅後このバンドを調べてユーチューブ視聴したのですが、
特に『The Wind Of Tomorrow』が耳に心地よく
異色の出来映えに感じられました。
この曲ずっと聴き続けております。
歌詞がまたいいんでしょうね・・・。
ここでまた連想ゲームになってしまいますが、
『The WINDS OF GOD』と言えば
これまた敬愛する俳優の故今井雅之さんの演劇作品があります。
冒頭でも特攻隊の話題を語らせて頂きましたが、
私たちはこのことを絶対に記憶から忘れ去ってはなりません。
そんな熱き男であられた今井雅之さんのことを思い出すと
管理人も敬愛し、学生時代から私淑させて頂いてきた
代々木ゼミナールの英語講師ですでにご紹介済みの
西谷昇二先生のことも思い浮かびます。
思えば管理人はこのお二方に多感な10代に出会ってから
数多くのことを教えられてきたようです。
そのご恩は生涯忘れないことでしょう。
今井雅之さんとTAKAEさんの
ご冥福をあらためてお祈りいたしますとともに
西谷昇二先生の<ダンディズム(紳士道)>に学び続けます。
また来阪されること心よりお待ちしております。
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次は『愛沢絢夏』さんの出番です。
愛沢さんは東北の地から
遠路はるばると来阪されました。
第一印象は東北の相川七瀬さん。
一見すると華奢な感じがする女性ですが、
歌い出せばもうパワフルなロックシンガーです。
どこからそのパワフルな歌唱力が湧き出てくるのかと思われるほど
彼女の歌声には<魂>を奮わす何かがありました。
やはり東北大震災の現場出身者(福島県御出身)ということもあるからでしょうか
彼女の新曲『Even if the world ends today
(もしも今日世界が終わるとしても)』にせよ
『Be crazy』にしても
「人間とは有限な存在であるため
<いのち>の重みを実感して1秒1刹那を大切に生きよう!!」という
熱いメッセージ性がひしひしと<魂>の奥底に伝わってくる
楽曲で満載でした。
年間100本ほどのライブコンサートを
全国各地で展開されてこられたというだけに
その「真剣さ」には相当な気合いや気迫が感じられました。
EITAさんと愛沢絢夏さんにはかくまでも惹きつけられる何かが
ありましたので少しだけお話させて頂きましたが、
その日は持ち合わせも少なくて物販購入できず残念なことに・・・。
ですが、お二方の活動履歴やお話によれば
また何度も来阪される機会もあろうかとのことでしたから
その日を楽しみにしてお待ちしております。
メジャーデビュー前(なかにはすでにメジャーデビュー済みや
大手レコード会社との契約などをされておられるバンドも
数多くあるようですが・・・)の
このようなインディーズライブ市場といっていいのかどうか
(最近はそのインディーズ=マイナーレーベルとメジャーレーベルとの
境界線もあってないようなものですから。あまり大手メディアでの
露出度も少ない特に<へヴィメタル>市場ではなおさら。)の場合には
こうした複数のバンドが共催・共演し合う「対バン」形式が多いですから
その時に魅力を感じたバンドによる物販品を購入したくても
経済的に苦しい身としてはなかなか厳しく悲しくなる現実も
数多くあります。
とはいえ、「ご縁」は次いつ頂けるかもわかりませんから
ここのところで悩むわけですね。
「一期一会」の有り難さを感受する瞬間です。
ですから、もし皆さんもこうした「対バン」形式で公演される
ライブハウスへ観覧に行かれる際には
経済的に負担がない程度には手持ち資金をご用意されるのが
賢明なご判断だと実感いたします。
CD購入も「生」演奏を聴いてからでないと
購入すべきかどうかも悩むものです。
そんなわけで今回はまたあらたにご縁頂いたアーティスト様を
ご紹介させて頂きましたが、
ご興味ご関心ある皆さんには
今後是非ご注目して頂ければ紹介者としても有り難く幸せであります。
最後の「トリ(取り)」は贔屓の『BLACK YAK. 』さん。
やっぱり紹介しなくてはなりませんよねぇ(笑)
『BLACK YAK.』さんの最大魅力点は
前にもご紹介させて頂きましたように
J-POP系を<へヴィメタル>風にアレンジするなど
柔軟な演奏対応が出来るところにあります。
とりわけ今回のライブでも演奏された『I wish.』や
今回は演奏されませんでしたが、
ミニアルバム『Arcturus』所収曲『ALL FOR ME』など多数あることです。
バンドコンセプトにもあるように
<京風メタル>は『ポップでキュートでへヴィー』なサウンドが特徴です。
また近日中(3月30日土曜日)には『西九条ブランニュー』さん他にて
だいたいここ最近は月1の頻度で
主に大阪と京都のライブハウスを中心に活動されているということなので
是非是非その魅力を「生」で実感して頂けると
有り難いことこの上なき幸せであります。
さて最後にもう一度だけ<情動>に絡めて少しだけ
強調させて頂きたいことがございます。
それは今後のAI(人工知能)やVR(仮想現実体験型機器)、
はたまたアンドロイド型ボーカロイドが進化し続けて
楽曲創作のうえでも<創造性(クリエイティビティー)>の観点で
人間にできる領域は狭まっていくだろう・・・との識者のご意見
(井上智洋著『AI時代の新・ベーシックインカム論』
<第4章 それでも残る仕事>160~164頁、光文社新書、2018年など
多数)もあるようですが、
人間が<生>演奏に感ずる「質感(クオリア)」の壁は
AIなどをもってしてもそうそう乗り越えられるものではないと
管理人の個人的意見では想像実感しています。
音楽業界でのアーティストやレコードなどの売れ行きも
「ビッグデータ」の集積によって左右されていく・・・とは
よく指摘されますが、
結局は『音楽も人(人間性そのもの)でその評価が決まる!!』わけですから
楽曲(音)そのものにだけ興味関心があるという方は
案外少ないように感ずるからですね。
楽曲が創作されていく過程での人間的営みや
その背景にある個々の「生活」思想、
ライブコンサートなどにおける<生>でのアーティストさんや
ファンの方々などとの交流で生まれるあらたな「物語性」などなど・・・。
それはまさに『音楽を介した<出会いと別れ>の物語』であるからです。
人間であればこそ、ここにたまらない魅力を感ずるわけですね。
そんなことを具体的な会話の詳細なやりとりまでは忘れてしまいましたが、
この日の公演終了後に「降臨」(2階の別室会場から)されてきた
先にご紹介させて頂いた『D_Drive』の新ベーシストの方も
言及しておられたように記憶しております。
彼もまたなかなかの知性溢れるエネルギッシュな好青年。
ますます目が離せないご存在です。
AI時代における人間が奏でる音楽・・・。
それがどこに向かうかもすべて人間の「生き方」そのものが
決めることだけは間違いないところであります。
なぜならば、『音楽もまた<思想>だから』ですね。
およそ「人間」が介在する創作活動である限りは
<思想性>が絶えず付きまといます。
この点で特に<へヴィメタル>の魅力は
『コンセプト』アルバムを他のジャンル以上に
創造する機会が豊富にあることです。
とりわけ「ロック」とは今の<社会>や<人間>のあり方への
代替を模索提示するある種の「抵抗」音楽であるからです。
皆さんも「毒(毒と言っても良い影響力を生み出す源泉のことですが・・・。
言うまでもなく<ヘイトスピーチ(憎悪感情言語)>が満載の
文字通り<悪魔的不協和>音など論外であります。
そんな不協和音を奏でて煽動する一部パンクやデスメタルもありますから
要注意です。)」のないということは
<社会>や<人間>のあり方に問い直しを迫る<思想性>がないということですが、
そんな「毒」のない「ロック」などに魅力を感ずるでしょうか?
おそらく「NO(否)」だと推察します。
先程ご紹介させて頂きました『愛沢絢夏』さんの楽曲『Be crazy』における
歌詞が訴えかけるメッセージにもありますように
「どうでもいい○○(下品な表現になりますので
伏せ字にしておきましょう。)つまらない思想」など捨てて
己自身と真剣に向き合うきっかけをあらためて提供してくれるのが
「ロック」本来の持ち味だからです。
まわりに振り回されずと言っても、表現技法や気遣いには配慮しなくてはなりません。
そんなことは皆さんなら<釈迦に説法>でありましょうが、
そうしたことを暗黙の了解事項としたうえで、
「あなたは八方美人な優等生的姿勢で生きることに
魅力を感じますか?」という真剣なメッセージと受け止めました。
だからこそ、彼女の音楽もまた熱く<魂>に響くわけです。
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そんなわけでここ2年ほどで当書評ブログのエッセー記事コーナーでも
<紀行文>にも挑戦させて頂くなど進化の道を探ってまいりましたが、
ライブ観覧体験記も今後随時掲載させて頂こうと思いますので
音楽愛好者(とりわけロック音楽ファンの方)にも
ご愛顧して頂けるように励んでまいります。
あらためて「人間」研究(観察)は面白いことですねということで
今回はここらあたりでお開きとさせて頂きましょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<参考文献>
本文記事内でご紹介させて頂いた書物以外に
①『<改訂版>哲学的な何か,あと科学とか』
(飲茶著、二見文庫、2017年3版)
②『<改訂版>哲学的な何か,あと数学とか』
(同上、同上、2018年初版)
③『メランコリーの時代』
(平井富雄著、現代教養文庫、1991年初版第1刷)
④『デフレ不況をいかに克服するか~ケインズ1930年代評論集~』
(J・M・ケインズ著、松川周二編訳、文春学藝ライブラリー、
2013年第1刷)
※この本の編訳者である松川周二先生の公開論考文も秀逸。
ここにご紹介しておきますね。
『平和の経済的帰結』に関する簡約批評論考文になります。
なおこのケインズ論考集で特に世界が
再び極端なグローバル「開放」経済化に対する反作用(反動ではなく。
反動だとマイナスイメージが付きすぎて
ケインズの論旨意図から乖離してしまいかねないからです。)として
「閉鎖」経済化へと一見すると向かいつつあるように感受される
現在状況をいかに理解すればよいのかに当たる問題として
優れた見解が披露されていましたので、
それを最後に皆さんにも引用ご紹介させて頂くことで
いよいよ閉幕させて頂くことにいたします。
『われわれにはそれぞれ自分の夢がある。
われわれは、すでに救われたとは信じていないので、
それぞれ自らの救済策を案出することに努力したい。
それゆえわれわれは、自由放任の資本主義と呼ばれるような
理想の原則にもとづく同一の均衡を実現しようとする世界の力の
意のままにはされたくない。
依然として古い考えに固執している人々はいるが、今日、
いかなる国においても、それは重要な力とみなされてはいない。
少なくとも当分の間、そして現在の過渡的な実験的な局面が続くかぎり、
われわれは自らが主人であり、外部世界からの干渉から可能なかぎり
自由であることを望む。
この視点からみるならば、国家的自給という政策は、
それ自体が目標なのではなく、他の理想が安全かつ適切に追求できる
環境の創造をめざすものと考えるべきである。』
(上掲書204~205頁)
誠に誠に力強きお言葉ですね。
「不況」とそれがもたらす<不協和音>(戦争などの流血事態への発展)を
回避するために成し遂げなくてはならない方策を
「戦間期(第一次世界大戦から第二次世界大戦直前期)」に
本気で世界へ訴求した<いのち>がけのお言葉でした。
英国「紳士」の気概が感じられます。
その後の世界は本来の「民需」喚起型ケインズ経済政策ではなく
禁じ手の「軍需」喚起型ケインズ経済政策へと
いずこの国も走ってしまいました。
今この歴史的教訓を読む時、
「私たちは何を考えなくてはならないのでしょうか?」
ケインズは近未来経済のあり方まで「予言」していました。
『その「予言」は単なる<期待>だったのか、
それとも<本気>だったのでしょうか?』
管理人は<本気>だったと感受いたしました。
それがまさしく「文芸復興(芸術文化作興)」に基づいた
人間の「余暇」の過ごし方でありました。
そのことはすでにご紹介させて頂きました
『隷属なき道~AIとの競争に勝つベーシックインカムと
1日3時間労働』(ルトガー・ブレグマン著、野中香方子訳、
文藝春秋社、2017年)所収論考文第6章でも
詳細に触れられていますので、
まだお読みでない読者様には
是非ご一読されることをお薦めさせて頂きます。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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[…] 事前に前にもご紹介させて頂いた […]