笹原和俊著『フェイクニュースを科学する』<事実に基づく報道>という名のフィルター加工情報の信憑性の見極め方とは!?

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最近皆さんもフェイクニュースやポスト真実の時代だとかいった

言葉を頻繁に耳にされるようになったのではないでしょうか?

そのたびにそもそも事実や真実とは一体いかなる存在なのだろうかと

素朴な疑問を抱かれることも多くなってきたのではないでしょうか?

そこで今回は情報ネットワーク理論の最新版として

次第に注目されつつあるという<計算社会科学>の観点から

アプローチしていくこの本をご紹介します。

『フェイクニュースを科学する~拡散するデマ、陰謀論、プロパガンダのしくみ~』(笹原和俊著、化学同人選書、2018年第1版第1刷)

笹原和俊氏(以下、著者)は名古屋大学大学院情報学研究科講師兼

科学技術振興機構さきがけ研究者としてご活躍中の若手学者さんです。

ご専門は計算社会科学だといいます。

この計算社会科学という学問分野は一般的にも馴染みがなさそうですし、

管理人も本書を読むまではあまり知る機会もなく過ごしてきました。

とはいえ、現代の多重構造にある複雑な現象世界を解析・解明する視点を

提供してきたいわゆる<複雑系>科学の一分野である

<情報ネットワーク理論>の一翼を担う研究だということは

皆さんもおおよそ推測出来るかと思います。

20世紀後半(1990年代)から現在(2020年代)に至るまでの

およそ30年の間にインターネット(電子情報伝播網)構想が

具現化されることになり、より利便性が高まるようにと

精緻なまでに整備されてきました。

このようにインターネット黎明期に期待されていた

情報取得における利便性もさることながら、

とりわけ取得情報への正(精)確性や網羅性(といっても現在のような検索アルゴリズム

システムが主導するような恣意的な選別取捨制限機能によると

どうしても漏れ落ちてしまう検索者自身が真に知りたいと思われる情報への回路が

閉ざされてしまうといった問題が多発しています。)にこそ

大いに期待も寄せられてきたのでした。

しかしながら、この間の事態推移を現時点から振り返ってみれば・・・。

今日の事態へと至るある程度までの推測可能性こそあったものの

私たち人類はどうも機械による情報伝達媒体の利便性に目を奪われて

その技術を過度に楽観信頼するとともに

検証改善に向けた積極的努力は疎かにする傾向にあります。

インターネット技術(機械的操作システム)もAI(人工知能)も

当然のことですが、勝手に自動的に判断して機能するものではなく、

人間自身によって「創造」されたものですから、

そもそも論として「創造」した者にこそ操作主導権があるのだという視点こそ

片時も忘れ去ってはいけなかったわけです。

今後、人工知能がいかに高度に洗練化(深層学習性が強化)されていくにせよ、

最初に人間によってプログラミングセットされた際の

「初期条件」のあり方といった問題点を完全消去・克服するには

まだまだ多大な難題も立ちはだかっているからです。

この問題意識はすべての「創造」現象において

完全「無」から立ち上がることがあり得るのだろうかといった

宇宙開闢の「謎」にまで突き詰めれば接合していくことになりそうです。

「なぜ、この世界はこのようにしか成り立ち得なかったのだろうか?」と・・・。

それはともかく、今回は「いのち」を宿した生物体である人間が

なぜ「事実」を<操作解釈>して歪めていく志向性へと

傾いていくのだろうかという課題に取り組みます。

そこで、これから本書要約とあわせて

フェイクニュース>論評をするうえで

そもそも論となる主題の「事実」論について

語り深めていくに当たり、

まずは辞書的定義としての「事実」と「事実」に関して語るうえで付随してくる

言葉の意味について確認しておきましょう。

<事実>

『1.実際に有った事柄で、だれも否定することが出来ないもの。』

<真実>

『偽ったり飾ったりした所の無い本当の事。』

<本当>

『偽りや・冗談(見せかけ)ではないこと。』

<真相>

『[世間で取沙汰されたのとは違う]事件などの本当の事情。』

※<定義>

『ある事物や用語の意味・内容を、こういうものであると、

はっきり説明すること。』

<意味>

『1.その時その文脈において、その言葉が具体的に指し示す何ものか。

用法。』

(以上『新明解国語辞典 第4版』から抜き書き)

このように「事実」を表す定義や意味をざっと並べてみただけでは

同義反復となり一般的イメージや使用法としても

皆さんにとりましてはまさに<釈迦に説法>となり、

『何を今更、バカな戯言を、さっさと前に進めんかい・・・』と

厳しい読者様の視線を当然ながら管理人自身は甘受するわけですが、

物事を根本からあらためて問い直すためには

どうしてもこの手の面倒くさい知的作業を避けるわけにはいかないのです。

数学や論理(言語)学、(科学)哲学や法律学などの修練をなされた読者様であれば、

比較的このような知的作業に馴染みがあり寛容な姿勢で

その想いを汲み取って頂けるものと信じますが、

このような習慣に馴染みのない一般読者様であれば、

漠然とした「印象論」でさらっと流してしまうところです。

ですが・・・。

厳しいようですが、

そのような『漠然とした「印象論」でさらっと流してしまう』という

知的怠慢姿勢こそが今回の主題である<フェイクニュース>に

まさに身心ともにさらわれてしまう最大要因の1つとなってしまうわけですね。

ですから、<フェイクニュース>論を語ることをきっかけに

皆さんにも生産的議論や冷静な対話技法とはいかにあるべきかという問題も

同時に考えて頂きたいというのが

本書評における最終目的であります。

とはいえ、「思い込み」や「感情」を外して

まっさらな(あるがままの)心で「データ」を基に

「正しく」この世界で生起してくる

あらゆる諸現象を「見る」ことが叶うのかどうかは

およそ人間である限りはまず「不可能事」だと構えながらも

「事実」に対する多種多様な捉え方を許容する公平感覚でもって

可能なかぎり「眺める」知的身体姿勢を養おうと努めることは

人間同士が共存していくためにも不可欠となります。

本書に対する批評的結論としては、

「事実」を眺める際の<注意点>という身体技法は学び理解することが叶いますが、

各人が捉えた「事実」そのものを正しき共通認識像として受容することが

果たして可能なのかどうかという論点は別個残された課題となりそうです。

このように「事実」とは各人が第1次的に捉えたものでさえ

実のところその「認定」が難しいところへ

さらに各種<フィルター(本書を解読する際の大きなキーワードでもある)>を

通して提供される編集・加工された「付加」的事実ともなれば

なおさらそれをあるがままの<真実>といったニュアンスを色濃く帯びた

<事実>として受容することは困難を窮めることになるわけです。

そのあたりの感覚をこそ本書から「理解」して頂きさえすれば

ご紹介の目的はひとまず達したことになります。

ということで、<操作解釈>を含めない、

すなわち、「意味づけ」する前の<(裸=ナマの)事実>を

いかに「確定」させるかという問題は

実は皆さんが想像されている以上に難問だということこそ

是非知っておいて頂きたいのです。

この「事実」をこそ共有して頂ければ

あらゆる<フェイクニュース>批評に対しても

むしろ先入観なく(つまりは、これさえ理解・実践していさえすれば

大丈夫だとの過度な楽観的姿勢にとらわれてしまうこと。)、

一定の距離を置いて接していくことも出来るでしょう。

このように<フェイクニュース>問題を正しく分析考察するということは

逆説的な知的作業を伴うということですね。

つまり、<フェイクニュース>を「反面教師」としながらも

いかなる姿勢で情報ネットワーク社会(情報生態系)に臨むのが

より適切な人間行動のあり方なのだろうかと

常に問い続け悩むことが重要だということですね。

そのあたりの「勘所」を皆さんとともに共有していければと思います。

ここで再度「なぜ、人間は<事実>を<事実>として捉えにくいのか?」の問いに

戻りましょう。

それは人間には「意識」という名の「時間」も流れているために

絶えず記憶の更新がなされていくために最初に「見た」事実の

確証すら時間とともに希薄化されていくからですね。

また、「事実」とひとくちに言っても、

本書における<フェイクニュース>を批判的に検討する場合における

「事実」論と以下に事例として語らせて頂くことになる

法律的「事実」論ではその文脈的理解が大いに異なってきますし、

科学的「事実」論を問う場面でもその意味付けが変わってくることも

あまり一般には知られていないところですから、

余計に「事実」論を語ることには慎重でなくてはならないのです。

つまり、「事実」論を安易に<一般化>して汎用することは

実際の場面でも有用ではなく「取り扱いにご注意を!!」ということです。

法律訴訟実務などではこうした「事実」認定という緻密な作業を

証明能力の高い確証素材でもって補強していくわけです。

例えば、何かの「事件」が起きたとしましょう。

その「事件」の現場に複数人の<証人>がいたとしても

<証言>の食い違いという現象は頻繁に起きてきます。

ですから、誰もが共通して納得し得る強い<確証>が必要素材になるわけです。

そのような複数人による相互検証を重ね合わせていき

相互矛盾が出なくなるほどにまで最大公約数的に「集約」されていった果てに

「抽出」されてきた「再現的」事実こそが

法律実務上の文脈における「事実」ということになるわけです。

ましてや・・・。

加害者と被害者の2当事者しか存在しない

いわゆる密室での犯罪事件であればなおさら

加害者本人にしか知り得ないいわゆる「秘密の暴露」となる

証言なり、それに基づく確たる物証が得られなくては

事件そのものの<真相>を解明することすら困難な課題となってしまいます。

なぜならば、不確かな状況証拠だけでは「冤罪」が発生してしまうからです。

そこで法律実務の世界でも精緻な立証技術を磨き上げてきたわけです。

それでも人間が関わるかぎり「誤謬」から免れることは難しいのです。

ですから、法律実務における「事実」の取り扱い方を事例に取り上げてみても

必ずしも「事実=真実(<あるがままの>裸の事実)」ではなく、

人間による事後的補強証拠による立証によって

もとの「事実」を近似再現のうえ確定させていくといった

何らかの<操作的>事実ということになり、

皆さんが一般的にイメージされている

事件の「真相」だとか「真実」だとかといった印象とは

大きく異なるニュアンスを色濃く帯びた扱いということになります。

最近はあまりにも杜撰な事例も多発しておりますが、

そうした個々の事例にも様々な程度問題はあるにせよ、

事実「誤認」という事態が絶えず発生し得るという点は

皆さんにも映画やテレビドラマ、推理小説などでも比較的見聞きしやすく、

イメージしやすい事例だろうと信じまして

たまたま法律実務例を引き合いに出させて頂きました。

とはいえ、こうした事実「認定」、「認識」という知的操作自体は

何も法律実務に限った話題ではなく、

例えば歴史認識論争や政策論争に当たって共通に踏まえておかなくてはならない

事実認識の不確定や不徹底から生じてくる様々な紛争騒動にも見られる

社会現象だということです。

そのような人間特有の問題点を踏まえまして、

人間と機械との歴史的関係性においても物理的視点だけではなく、

心理的・精神的観点からも解読していく意義が出て来るというわけです。

さて、私たち人類は昨今の情報ネットワーク型社会が

ますます進展していく中で<透明性>を求める反面で

<匿名性>を確保したいという欲求も強まる一方にあります。

ここでは<透明性>というキーワードに

情報「源」の信頼性や発信情報の「精度(第一次性)」という意味合いを

<匿名性>には各人のプライバシー安全性の確保という意味合いを

込めさせて頂きました。

前者の<透明性>問題につきましては、

本書解読要約とともに追って分析考察していくことにしましょう。

まずは<匿名性>問題についてであります。

インターネットというある種の「仮想」時空間の中では

現実社会における生身の人間同士の関係性が言うまでもなく希薄化されているために

発信・受信者双方の姿が可視化されることなく、

その双方における情報発信文面や文脈、過去の発信姿勢から

おおよそのところを推測しあいながら

現実社会での人間的やりとり以上に細やかな神経が要求されてきます。

なぜならば、相手の姿(反応)が見えないだけに

真摯かつ友好的に交流しようとも

現実社会以上に相互誤解が強まるおそれが一層高まっていくからですね。

言語受発信に伴う「身体」感覚からフィードバックする確認作用が

「仮想」時空間でのやりとりのみからは健全機能してくれないからです。

そこで現実社会での<実名性>よりも

仮想社会(時空間)での<匿名性>の方が

生物としての本性面からも人間としての経験上からも

信頼度が当然ながら低下していくことになります。

さて、そのような「仮想」時空間上における<匿名性>を

大前提に据えると見えてくることとは・・・。

そこに今回ご紹介させて頂くことになります

本書の著者によって紹介解説されることになる「計算社会科学」という

学問分野によって抽出されていく知見結果に対する

信頼性如何といった問題意識とも絡んでいくことになるわけです。

本書における著者ご自身による見解は

要約箇所内で後ほど提示していくことになりますが、

まずは管理人自身がなぜ本書ご紹介とともに

このテーマ(『フェイクニュース』解析から見た人間の認知機能問題)を

今回取り上げさせて頂くに至ったかの問題意識を提出しておきました。

その問題意識とは・・・。

人間である限り、どんなに良心的知性を働かせても、

完全には<フェイクニュース>から逃れ出る道は狭いだろうという

絶望的事態であります。

とはいえ、情報への目利き力を高める努力をしたり、

相互誤解を解きほぐしていく現実社会での生身の対話姿勢などを組み合わせることで

特に「仮想」空間に散在している<フェイクニュース>被害から

多少は逃れ出ることの可能な道がひらけてくるかもしれません。

そのような誠実な感覚を有しておられる読者様であれば、

SNS発信の現場では不特定多数に対する情報「拡散」ともなれば

あまりにも危険度が高まるという自衛上のご判断から

SNSなどの「仮想」空間の場では<匿名>でもって知り合うことになった者同士でも

信頼のおける人間関係にまで深まれば、

現実社会(オフ会など)では<実名>で交流していこうといった

情報ネットワーク時代における独自の処世法として

賢く「分人的」(平野啓一郎氏)的に

受発信上の<人格>を適宜に使い分けていらっしゃる方も

多いものと推察しております。

管理人も書評活動を通じて、実際にご紹介させて頂いた

著者の方々と講演会や読書会、懇親会などでお会いした際には

出過ぎた言い回しになっていなかったか「ひやひや」することも多く、

かなりの気を遣うことにもなります。

だからこそ、愛情をもって、丁寧にご紹介出来るようにと

誠心誠意の向上心をもって努力することにもなります。

どこでどなたが管理人による書評をお読み頂いているかもしれないからです。

管理人自身が過去の書評で疑問点を提出させて頂いたり、

次回作へのアイディア点など提出させて頂いたりした時などに

実際にそれとなく示唆して回答文として取り入れて下さった時など

嬉しくなるものです。

そんなわけで管理人も<コメント欄>などを用意させて頂いておりますので、

もしも同好の読者様がいらっしゃれば「読書会」の告知欄などにも活用して頂ければ

知的生活ネットワークも広がり有り難き幸せにござりまする。

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<コーヒーブレイクを兼ねた読者の皆様方への重要なお知らせ>

ここでこれまで当書評ブログ運営を継続してきて

今まであえて静観していたのですが前々から気がかりだった問題点を

公表させて頂きます。

それはネット上の<匿名>記事と現実社会上の<実名>記事扱いの

使い分け問題の基準を管理人がいかに考えてきたかという

重要事であります。

情報ネットワーク社会の今日において

勝手に自身の発信内容が改竄されて、拡散コピーも自己増殖し続け

もはや自己制御すら難しくなっている中、

あえてネット上の「仮想」空間場では<匿名>にされている方も

数多くいらっしゃるのではと推察します。

管理人なども自身のブログを勝手に悪用されて困っています。

体験された方ならご存じでしょうが、まったく当ブログとは関係ない

変な通販サイトなどへの商用的誤誘導リンクというのですか、

そのような被害に今も遭い続けていますが、

こうした被害は個人では何とも為す術もなく嫌な思いをし続けています。

社会常識上、適切な方法でご紹介して下さる方なら大歓迎で

誠に有り難く御礼申し上げますが、このような悪質なサイトに

それも中身なき半ば犯罪サイトのようなリンクに

勝手な文章転載などされると不快になりやる気も殺がれ、

一般社会への多大なご迷惑になるのではと危惧されて

相当な神経を磨り減らし憂鬱になるからです。

「拡散」も良い文脈であれば社会のためにお役に立つことが叶いますが、

最悪な文脈で展開されていくと目も当てられません。

落ち着いて真面目にブログ創作活動を続ける意欲が阻害されるからです。

ですから、読者様におかれましても当ブログ独自公式サイトとは異なる

当ブログ文面が転載されたような悪質なニセサイトにひっかかりませぬように

十二分にご注意下さいませ。

そのことだけが心配なのです。

本来ならば、グーグル様ほかの検索アルゴリズムでもって

このような悪質誤誘導サイトをこそ駆除撲滅して頂くことこそ

まさに最善の<フェイクニュース>対策となると思うのですが・・・。

これこそ今現在、御社が社会的信頼回復措置として

世界から是正改善対策を求められていることではないのでしょうか?

ましてや著書や講演会などでもって

あらためて自己の見解を幅広く発散する機会が数多くある

社会的知名度が高い有名人であれば弁明の機会や

しかるべき対処法も取れましょうが、

一般市井で静かに潜伏生活をせざるを得ない大多数の無名人であれば

より慎重な防御対策を取ることもやむを得ない対抗措置だと考えるからです。

そうした問題意識から

当サイトではあえて<匿名>表記にさせて頂いておりますが、

当サイトのコメント欄にまで懇切丁寧にご回答頂いた方や

お問い合わせ頂いている方へは別途ルート(当コメント欄からの

返信経路とは別に)を通じて

お預かりしたメールアドレス宛まで個別に当方から<実名>にて

誠実にやりとりさせて頂いておりますのでご安心下さいませ。

本当に今の時代、特に自身や他人が映り込んだ画像写真など

ネット上で公開投稿すべきものではなくなってきております。

某芸能人の事件でも報道されていましたような

人間の瞳に映り込んだ模様からもその人の位置などが

容易に特定されて犯罪被害に遭遇することがあるからです。

ストーカー被害など各種悪質犯罪誘発の温床となってしまっているからです。

情報ネットワーク社会は便利で自由な社会創造に寄与するものと

インターネット黎明期には楽観的に期待もされていましたが、

現状ではもはや人びとの自由を剥奪する全体主義的『監視』社会の

一歩手前まで退歩してきています。

有識者の中にはもはや『デジタルレーニン主義』社会の到来だと

言及されている方もいらっしゃいます。

また、プライバシー保護問題とともに

このような時代だからこそ、階級(層)闘争を煽り立てる集団や

『国民』や『市民』の分断を図ろうとする各種諸党派にも

十二分にご警戒下さいませ。

スイス政府公刊の『民間防衛』

(原書房、1995年新装版第10刷)にも

このような世相混乱の間隙をぬって出現してくる過激派集団や組織に

注意を呼びかけています。

この本には<フェイクニュース=プロパガンダ=謀略宣伝>への

適切な対処法も紹介されています。

一家に一冊。優れた良書です。

但し、具体的訓練を受ける機会がなければ

十二分にフル活用出来そうにもありませんが・・・。

日本の「平和」教育水準では正直厳しすぎる場面が

描かれています。

学校の副読本にも推薦させて頂きたいほどです。

実践演習も含めてワンセットでの話ですが・・・。

真の「人権」学習、「平和」学習とは

このような優れた貴重な情報を教授伝達することではないでしょうか?

<いじめ>対策にも十分になり得ます。

管理人も思春期にこの本を手にしてから救済された1人ですから

自信をもってご紹介させて頂いております。

今回は<フェイクニュース>論を主題に据えて論評させて頂いております。

そのため大手プラットフォーム企業様への業務改善案や

日頃の読者様への疑義や不安解消のために

この機会に当サイト管理人からの

プライバシーポリシー(独自的事業憲章のようなもの)>も

あらためて公表しておくのが最適な時期ではないかと見計らって

ご説明させて頂きましたことご寛恕下さいませ。

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というわけで、<フェイクニュース>被害を軽減するためにも、

自ら意図せずとも「誤解」して発信してしまったがために

知らず知らずのうちに<フェイクニュース>加害者となってしまわないためにも

やはり<実名(署名記事)>の方が<匿名>に対して

信頼性のうえではいや勝ることだけは間違いありません。

この<実名(信頼)性>と<匿名(プライバシー保護)性>との兼ね合いこそ

一番の悩みの種なのですが・・・。

このような問題意識を踏まえながら本書を読み進めていきますと、

皆さんも日頃、<事実>や<真実>という定義や概念自体に抱かれてきただろう

確信性も揺らいでいくという大変由々しき「哲学的」問題にまで

進展していくだろうことも自ずと推測されるかと思います。

ですから、世間一般的な<フェイクニュース>だとか

<ポスト真実>といったテーマを掲げながらも

通常メディアではただ単に賛否論(ことに否定論がもちろん多いわけですが、

そうした評価判断にも論評者自身の

「色」<思想的傾向性など>がどうしても付着してしまっていることに

無頓着でいらっしゃる方々が多く見受けられると感受するとともに

あえて管理人自身の日頃の問題意識や論評姿勢への自戒反省点と

年末年始を過ぎ越すに当たっての今後の抱負という意味も込めまして)

終始することが多いと感受されるだけに、

そこから漏れ落ちてしまいやすい領域にまで視野を拡張して

このテーマを皆さんとともにあらためて独自に検討させて頂く題材本として

本書を取り上げさせて頂くことになりました。

<情報生態系>時空間に住まう生物としての人間には「自己保存(安全地帯)」機能が備わっているからこそ<フェイク(色)>メガネで見たいものだけ見る癖が出て来るのだろうか!?

それでは本書要約ご紹介へと移らせて頂くことにいたしましょう。

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・<はじめに>

※『フェイクニュース』を分析批評するに当たっての

本書における学術的アプローチ法がまず最初に紹介されています。

<情報>は発信者(生産者)と受信者(消費者)との間を

ネットワーク上(現実空間と仮想空間を問わずに)を経巡っていくうちに

様々な中継経路点で複雑な利害関係に絡まれて

「変化(容)」していく<有機的>な情報生態系として捉えることで

いかに「情報」が扱われていくかという問題意識の下、

その情報ネットワークの仕組みに関するイメージ喚起を促します。

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①『第1章 フェイクニュースとは何か』

※本章では、<フェイクニュース>の定義

下記の文献を引用しながら提示することから開幕します。

フェイクニュース 名詞

ニュース報道の体裁で拡散される、虚偽の、しばしば扇情的な内容の情報』

(本書13頁 『コリンズ辞書』の定義による)

これとは別に世間では<フェイクニュース>につき

様々な文脈で多様な定義がなされてきたことも示唆されています。

特に政治的文脈においては党派的に有利になるような

恣意的な自陣営に都合のいい編集情報の受発信のされ方などが

<フェイクニュース>の一例として挙げられています。

要するに、<フェイクニュース>とは昔からある表現としては

政治的宣伝=プロパガンダの一種ということになります。

そこでこの<フェイク>とは日本語で「虚偽」を意味しますが、

その虚偽内容の実態解明(種類別分析や動機、拡散経路動向)から

判明してくる知見が示唆されることになります。

最近の<フェイクニュース>史の事例紹介とともに

その真偽の見極め方などについて

膨大なデータ分析が可能になった時代を反映して

あらたに立ち上がりつつある情報「量」から<定量>的に解析していく

「計算社会科学」(本章コラム、36~37頁参照)という学術手法によって

誤情報の判定や情報の真偽を腑分けしながら

より信憑性の高い情報取得が可能となるように

現状のSNS媒体装置の改善にも役立つようなヒントが

与えられる道具として期待されています。

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②『第2章 見たいものだけ見る私たち』

※本章では情報を受容する主体側の問題点を中心に

私たち人間の認知特性や心理的クセ(偏見=バイアス)問題について

触れられています。

このあたりはすでに「行動(心理)経済学」に関する複数の関連書でも

触れさせて頂いた論点とも重なりますが、

本章のタイトル<見たいものだけ見る>とは

自己信念にとって都合の良い有利な情報のみを

集める認知心理における行動癖があることから

ますます自己「確証」バイアスを強化させていってしまうという

お馴染みの論点です。

しかしながら重要なことは・・・。

もちろん、ここから少しでも抜け出て客観的に情報を取り扱えるように

なるためにはいかなる情報との接し方が必要となり、

そのための対処法を学ぶことですね。

その処方箋は第5章で紹介されることになります。

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③『第3章 見たいものしか見えない情報環境』

※本章では前章の「主体(情報の受容者)」側の認知的問題点に代わって

環境(客体)側の問題点について

間違った方向へと拡大強化誘導されていく仕組みについて

解説されています。

<エコーチェンバー><フィルター(バブル)>という

キーワードがその問題点を解くための糸口となります。

その具体的詳細は本書解説に委ねさせて頂きます。

簡約すれば、ネットユーザーの日々の動向を

検索アルゴリズムやクッキー機能などによって追跡調査された

個人属性の分析から提供される『あなたへのお勧め』商品などのように

馴染みある世界にしか辿り付けなくなる情報制御によって

ますます狭い「箱」へと閉じ込められていく模様が示されていますが、

そこから抜け出すことの叶うあらたな仕組みの研究開発が

期待されているということですね。

なぜならば、第1接触点や印象では自分の嗜好性から外れ、

馴染みがなかったような世界観を提供する代替情報に触れることで

あらたな自己発見も得られるかもしれませんし、

他者理解も促進されて相互誤解を少しでも解きほぐすきっかけが

生まれる好機も与えられるかもしれないからです。

それは自己にとって心地よい情報環境を「増幅」させていくことになる

<エコーチェンバー>や<フィルターバブル>による

『意見の分極と社会的ネットワークの分断』(本書91~93頁)現象を

回避・軽減させていくための情報回路をつなげていくためにも

不可欠な取り組みとなります。

<用語解説>

※本書からの引用による。

『エコーチェンバー』とは・・・

<意見をSNSで発信すると、自分とそっくりな意見ばかりが返ってくる>

状況のことで、<閉じた小部屋で音が反響する物理現象にたとえている>

(本書82頁)

『フィルターバブル』とは・・・

<ユーザの個人情報を学習したアルゴリズムによって、その人にとって

興味関心がありそうな情報ばかりがやってくるような情報環境のこと>

<ユーザが情報をろ過する膜の中に閉じ込められ、みんなが孤立していく

イメージに基づく比喩>

(本書99頁)

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④『第4章 無限の情報、有限の認知』

※本章ではタイトル通りですが、

情報は無限に散在している一方で、

私たちの置かれた環境は有限であるために

認知も限定されてしまうことから

注意点が極端に狭められてしまうという人間特性から見た

情報社会との理想的接触方法のあり方について探究していくことになります。

本章での必読論考文は<2 希少資源としての注意力>(本書134~

146頁)であります。

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⑤『第5章 フェイクニュースの処方箋』

本章では、<フェイクニュース>について

その真偽を見極めるうえで必要な知的能力となる

メディアリテラシー教育の重要性や実践例について紹介されています。

それとともに<フェイク(虚偽プロパガンダ)>に異議を唱えることの叶う

社会づくりについて触れられています。

そこで重要となるキーワードが<ファクトチェック>という考えです。

<用語解説>

※本書からの引用による。

『メディアリテラシー』とは・・・

<新聞やテレビやインターネットなどのメディアから得られる情報の

読解力のこと>

<フェイクニュースの文脈でいうと、インターネットの情報を鵜呑みにせず、

嘘を見破るための自衛のスキル>

(本書148頁)

『ファクトチェック』とは・・・

<発信された情報が客観的事実に基づくものなのかを調査して、

その情報の正確さを評価し、公表すること>

<ファクトチェックの対象は、政治家や有識者などの発言やニュースや

インターネットの記事などの事実関係を含んだ言説>であり、

<意見は真偽判定ができないため、ファクトチェックの対象には

なりません>とのことです。

(本書158頁)

いずれにしましても、人間という存在は残念ながらこれまで見てきたように

自己に心地よい情報しか取得(見聞き)したくないという生物であります。

そのこと自体を悪い志向性だとまで断定して決めつけてしまうことは、

管理人自身は人間本性に反する偽善的姿勢だと感受しております。

それもまた人間の本性(別の真実面)を見聞きしたくないとの

不自然な姿勢だと強く考えるからです。

なぜならば、いかに良心的かつ誠実な知的存在であろうと願おうとも

人間にはやはり一定の受容「気質」という名の<器量>が

各人各様に異なる態様で備わっているからです。

それが要約記事タイトルにも掲げさせて頂きましたように

各人各様の「自己保存(安全地帯)」機能に由来する部分も

間違いなく存在するものと思われるからです。

人にはそれぞれに世界(情報)との心地よい接し方がありましょうし、

なかなかその「箱」から抜け出すことは難しい存在だということです。

そのような相互に世界(自己を取り巻く諸事実)を見る視点や姿勢が

違うからこそ、悪質な虚偽情報はもちろん論外だとしても、

1人の人間の知性(認知的特異点)だけでは見えてこなかった

もう1つの世界像(事実解釈)から学ぶこともあり得るわけです。

むしろ、<フェイクニュース>批評論で体認・体得したい最終目的地は

人間とは『誤謬』を帯びた存在であり、

その『誤謬』を認める<生きてく強さ>でもって

『誤謬』との正しき接し方を身につけることにあります。

というわけで、管理人も今後とも<フェイクニュース>論に関する

本書や関連書をさらに読み進めながら、

自己研鑽を努めていきたく願っていますが、

何をもって「フェイク(虚偽)」と言うかは人によって千差万別だということは

どうしても冒頭でも語らせて頂きましたように否めない

これこそ悲しいですが人間の「真実」の一端でもあります。

というわけで、明白かつ悪質な危険情報であれば

虚偽と断定することは当然のこととして、

その虚偽情報を警戒し得る仕組みは

本章最末尾でも触れられていますように

必要な法規制も一定程度は許容せざるを得ない場面も出てきましょうが、

虚偽をどのように認定するか、また、事実をいかに解釈するかは

表現の自由との絡みもありますから、

今後とも慎重に議論を積み重ねていかなくてはならないことだけは

<フェイクニュース>に悩むすべての人間にとって共有し得る

重要課題だということに尽きます。

まとめますと、<事実>に対して虚偽か真実かと評価判定するにしても

明らかな白黒から様々な重層的な灰色ゾーンもあり得るわけですから、

その強弱(情報の信憑性を巡る評価軸)を見極めることは

現実場面ではきわめて難しい知的作業となることも忘れてはいけません。

ですから、最重要かつ現実的な情報への接し方としましては、

前にも語らせて頂いたかと思いますが、

情報の相互確認(クロスチェック)を必ず取ろうということです。

1つの<事実>に対して複数の評価解釈が乱立した場合には、

本書で著者が提示されたような真偽判定基準を提供してくれる

「計算社会科学」に基づく<定量>分析による腑分け作業も

ある一定のレベルまでは役立つでしょうが、

必ずその判定基準も人間がプログラミングセットした

アルゴリズム操作による以上は、

機械任せにするだけではなく、

あらためて「原点」に立ちかえって

人間による再基準設定による選別吟味作業を繰り返すことを厭わない

<定性>分析による腑分け作業も同時並行して処理しなくては

ならないということでしょうね。

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⑥『終章 情報生態系の未来』

※本章では著者による本書における総括的まとめが

再提出されています。

『虚偽はお断り・・・事実は重要である・・・』(本書178頁参照)との

認識は民主主義の質量ともの改善のためにも

必要不可欠だとする問題認識は管理人とて共有するところです。

とはいえ、やはり本書の読後感として

<フェイクニュース>分析批評書によくある思想的傾向ですが、

政治的<フェイクニュース>を取り上げる題材としての偏り(左派寄り)にも

違和感が生じたところが正直ありました。

もっとも、第1章でも紹介されていたピザゲート事件に象徴される

昨今増殖中だとされる右派側からのいわゆる『暗黒啓蒙』による

<フェイクニュース>によって誘発されていく事件には

管理人自身も気質的に受け入れがたいものがありますし、

危険度が高いものと認容しておりますが、

左派側にも<フェイクニュース>を誘発する視点(管理人自身が

観察してきて感受した持論ですが、意外にも知性を感じさせる

左派層にこそ<陰謀論>に親和的な方々も数多く潜在的に見受けられる

事例もあるようです。)がまったくないのかどうか

最近は何から何まで『ポリティカル・コレクトネス(通称:ポリコレ=PC=

政治的に正しい??言説)』なる標語で自派に<不都合な真実>を提示する

反対的政治価値勢力(主に対保守右派層ですが)に対しての抗議姿勢でもって

威圧感を与える誠に傲岸不遜かつ嫌悪感を催すような政治風潮がありますが、

<フェイクニュース>(特に政治的言説)を検証批判する際には、

注意深く思慮深い公平な姿勢でもって双方の行き過ぎた問題行動を

指摘すべきでしょう。

ここまでの慎重な配慮をもった公平な立論批評でなければ、

むしろ著者が憂慮されてきた<フェイクニュース>増幅現象と

<意見の分極と社会的ネットワークの分断>がますます推進されていく

触媒を提供するだけで歯止めがきかなくなるだろうことも

予想して懸念材料を提出して閉幕の辞に代えさせて頂くことにいたします。

つまり、価値観の対立する場面(政治的場面に限られませんが)では

反対に相手側の態度をより硬化させるだけで

「対話」しながら『誤謬』と評価し得る領域を精密吟味する機会もなく

むしろ真相を闇に葬る口実を与えてしまうことにもなりかねないからです。

これでは<真相>や<事実>は永遠に曖昧模糊のまま「お蔵入り」となってしまいます。

とこのように

最後は著者に対する厳しい注文を付けてしまうことになってしまいましたが、

「計算社会科学」という学術分野や

「情報生態系」から見た<フェイクニュース>の拡散態様や

それへの対処法など類書にないあらたな知見をご教示頂けましたことは

篤く御礼申し上げます。

いずれにしましても、哲学的にもいわゆる『新実在論』なる見方が

話題にもなってきている今日この頃ですから、

あらたな「事実」への見方論も踏まえた

より深い<フェイクニュース>に対する解読分析にまで至る

研究を著者には是非進めて頂けるよう期待しております。

本書<あとがき>(本書183頁)でも触れられていました

前にもご紹介させて頂いた津田一郎先生との研究接点の機会も

おありだそうですし、管理人とも年齢層の近い若手研究者ですから

まだまだこれからが才能を開花させていく『時分の花』である

著者だと感受いたしましたので今後とも陰ながら応援しております。

『情報生態系』からアプローチする<フェイクニュース>解析論は

斬新な科学的視点でした。

ただ繰り返しになりますが、

個人的な違和感というか知的不満足だった点が

ご紹介頂いた「計算社会科学」による<定量的>アプローチ手法に基づく

<フェイクニュース>対策がどこまで可能なのだろうかという

素人ながらの素朴な疑問でありました。

「評価価値」を伴う言語解析からその真偽を見極めて

報道「事実」の信憑性を高めていくという問題意識までは否定しませんが、

このように『価値』の問題を取り扱わざるを得ない

社会科学研究上の姿勢としては

やはり<定量>分析のみに極度に依存することなく、

質的側面も踏まえた<定性>的分析も加味して

総合考量していく分析手法が望まれるものと感受するからです。

それと<フェイクニュース(ある意味で政治的要素が含まれる)>論を

科学的アプローチでもって問題提起しつつ検証の題材に据えるのであれば、

『情報生態系』とも絡みがありそうな

これまた最近話題の「脳科学」からアプローチしていく

認知科学の一分野だと思われるのですが、

いわゆるニューロポリティクス(神経政治学)>の現実的有効性問題にまで

進展させたお話を単著(著者のご専門はあくまでも「計算社会科学」だという

ことですので)でも

その分野に秀でた研究者との共著の形であってもよいと思いますので

またいずれの機会にでも世に問われるお仕事をなされることも

期待しております。

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・あとがき

・さらに詳しく知るために

(※参考となる文献・動画や引用文献、各章コラム欄にて

紹介されている参考URLが一覧記載されています。)

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初秋の美濃・尾張旅情紀行と陰陽座ライブツアー観覧記とともに考える徒然草~『結成20周年記念及び<越之寒梅>ブランドムービー創作 完了公開発表を祝いましょ♪♪』編~

日々次第に寒風も吹き込み増すもはや冬本番に突入せんとする<師走>。

遅ればせながらも前回お約束させて頂きました<エッセー紀行文>コーナーを

徒然と開幕させて頂きましょう。

去る9月13~16日の三連休日にかけて、

管理人はまたもや心ときめき惹かれる美濃大垣と

尾張名古屋へと巡回(徘徊!?)取材旅行をしてまいりました。

9月13日(金)の仕事終了後からの大阪出発となりましたから

大垣に着いたのは午後21時前後になりました。

大阪からJR在来線を利用するコースで行けば約3時間弱ほどになります。

大阪~京都・滋賀と経て『米原』あたりにまで到達しますと

伊吹山から吹き込む寒風で少しずつ仕事疲れの寝ぼけ眼も覚め始める

頃合いとなります。

京都駅まではまだ目が覚めていましたが、

過ぎてからの米原駅までの『近江路』沿線は

ただただ長くて夜でもあり外の景色を眺めながら過ごすことも叶いませんので

「うとうと」としてまいります。

(とはいえ、今年の9月中旬はまだ暖かい感触がありましたが・・・。)

米原駅で大垣方面(豊橋行き)に乗り換えなくてはなりませんから

半睡模様でいなくてはならずあまり熟睡することもままなりません。

米原駅を経由して『関ヶ原』あたりを通過すれば美濃国を感じ始めます。

その『関ヶ原』直前には<醒ヶ井>という

まさに<睡(ねむり)>と<醒(めざめ)>の分水嶺を越えることになります。

美濃大垣は我が国の歴史においても知られざる転換点となった

戦略的要衝地でもありました。

また昔から『中山道』街道筋でもありましたから

数多くの旅人や行商人などで盛り場としても

往時は大いなる賑わいを見せていたといいます。

『中山道』沿いであるにもかかわらずに、途中で『東海道』新幹線・在来線が

並行して走るのも面白いですね。

またひとつ地形・地理学や交通インフラ学への興味関心もそそられました。

そのような地には薫り高い文化も発達する土壌が育まれていくことになります。

『奥の細道』で知られる俳諧師:松尾芭蕉翁も

ここを旅の<終着地=むすびの地>とされました。

<むすび(結び=起承転結の『結』です)>が転じて

現在は<縁結び>の地として大垣市の観光協会は売り出し中だといいます。

『水都 大垣』・・・。

本当に憧れるいい響きですね。

管理人の住まう大阪でも『水都』で都市再生を果たさんと売り出し中ですが、

まだまだ水質や景観の改善面において『なんだかなぁ~』(故阿藤快氏)という

感じがいたします。

同じ『水都』といっても日本各地には様々な地域風情があり、

地方と都市とでもその意味合い(性格づけ)も大きく異なることがあり

それぞれの良さはもちろんあるわけですが、

『水都』を名乗るからにはやはり<美観>が必要不可欠だと感受されるからですね。

ここはどうしても譲れない一線だと思うのです。

このように管理人にも独自の『水都』大阪再生論を持ち合わせているのですが、

<喧噪狂騒型>現代人の好みには合いそうもなく悲しく

ひとり「お蔵入り」になってしまっています。

いっそのこと、さらに本格的な音楽祭典の『水都』を志向してみるのはいかがでしょうか?

大阪の街を散策してみても路上ライブ規制も厳しいようで、

どこかの一画に集中して路上ライブ「フリー区域」を設定するなど

まだまだ行政側にも意識面で改善の余地がありそうですね。

老若男女を問わず何らかの形で音楽に限らず芸術(能)創作表現活動でもって

良質な人間的「発散」が出来る物理的・精神的時空間の創設は、

現在只今の世界に暗雲として漂い続けているルサンチマン(<ヘイトスピーチ>などの

マイナスエネルギー欲動発散症候群)現象予防として

<治安対策>上も喫緊課題となってきているものと確信されるからです。

今回の連休中に訪れた

名古屋(栄地区など)での路上ライブ事情模様など視察研究してみても

強く感受されたところでした。

路地「裏」や公共「空きスペース」の有効活用法は

今や都市(地方)再生計画としても重要課題となってきています。

「暴力」犯罪軽減と景観充実とは何らかの相関関係もあるともいいます。

学生時代に『犯罪学』で学んだ知見でもありました。

もっとも今ではむしろ対立緊張感を強めてしまう

いわゆる<極端な>『割れ窓ゼロトレランス)理論』の有効性にも

実証面での疑義も提出されてきていることから

こうしたある程度の「ゆらぎ(遊び心)」を持たせた

防犯『思想理論』の創造再構築も要請されてきているからです。

この問題点につきましては、管理人もまた追って探究していく過程で

関連書評の機会が出てきましたら、

さらなる考察を深めさせて頂こうと考えております。

市井の大阪府(市)民から感受した問題提起として

大阪府・市行政当局担当者にもご要望として『建白』申し上げる次第です。

『<政治(まつりごと)>は美的感性も厳しく問われるのです。』

土木建築にも芸術・芸能にせよ、およそ人間が絡む限りは

<思想性>が何よりも重要な視点となります。

ところでまた現在は、中之島(淀屋橋や天満橋)界隈からの

大阪水上バス観光でも楽しめるようになってきており、

最近では昔の面影を復元させようと

天満橋<八軒家>の船着き場あたりから伏見中書島までの

航路開設も計画されてきたとのことですが・・・。

現在は様々な水利権などを巡る事情もあってなのか

枚方あたりまでしかクルーズ出来ないようですね。

(ちなみに、この「淀川」航路は現在のところまだ<期間限定>とのことらしいですよ。)

ご参考までに情報サイトもご紹介しておきますね。

管理人は独自に伏見の方々との交流も重ねておりますので

そうしたお話に触れる機会も多いのですが、

文化を愛する古風な人間からすれば

伏見の方々の「心」を察すると『そりゃそうだわなぁ~』と

深く同感いたします。

やはり旅人にはそれなりの「風格」というものが備わっていなくてはなりません。

そんなことをいつも松尾芭蕉翁に学び感じ取ってきました。

そんな旅のお師匠様に当たる芭蕉翁に

管理人も導かれて近年何度もこの地を訪れるようになり、

それは一面で『治水政策』を学ぶ側面もあったわけですが、

これまで訪れてきて感受したのは

伏見中書島と淀川や宇治川などと結ぶ地点にある可動堰「水門」にも見られますが、

こうした設備がしっかりと完備され、

常なる保守点検もなされてきた(ている)という一言に尽きます。

誠に悲しいことであり、

近年しきりに日本列島を侵襲し続ける風水害ですが、

かような設備に対する認識が高い地域とそうでない地域における

防災意識「格差」こそが被害のさらなる拡大をもたらしかねない

最大障壁となっているのではないかと推察いたします。

特に大阪市内はもともと海面水域の位置に当たることから

学校教科書にも取り上げられるほどの

地震連動に伴う地盤亀裂・沈下現象対策には比重を置かなくてはなりません。

また『コンクリートから人へ』などという言葉がひととき流行しましたが、

この標語も『バターか大砲か』の話題と同じく

本来なら二者択一的な選択肢ではないということも

あまり一般的には受容されていない点に

我が国の脆弱さが表出しています。

言い換えますれば、『バターか大砲か』問題はひとまず留保しましても

こと風水害対策の一環として見る場合に

上記標語『コンクリートから人へ』とは誠に摩訶不思議な<魔語>のような

響きがするのは管理人だけの感触でありましょうか?

つまりは、『自然か人間か』という二者択一的問題ではないということです。

人間が自然に対するに人力でもって支配管理しようにも

もともと限界点があることも想定したうえでの

人力支配管理という当然の事理が

皮肉なことに現代文明を過度に信頼してきた現代人には理解し難くなってきています。

要するに、これまた極端な自然崇拝も人力礼賛思想も

どちらも不自然な文明感覚だということです。

良識(心)ある為政者には江戸時代の思想家である

熊沢蕃山による『集義和書』『集義外書』(日本の名著シリーズ<中央公論社>に

その<抄>ではありますが掲載されております。)を

ご一読活用されることをお勧めいたします。

そこで今回もこの話題から少しずつ始めさせて頂くことにいたしましょう。

風水害対策としては古来からの<生活の知恵=実践知>として

風害に対しましては『防風林』や『石垣囲み造り』、

水害に対しましては『堤(土手=堤防)』を強度化させたり、

人間の居住環境空間位置を水面から高く積みましたところに

設定構築していく建築方式が採用されてきました。

要するに、『意図的に人間が無理に自然に逆らわないような』防災設備建築思想が

採用されていたということです。

このような『備えあれば憂いなし』の知恵を有していた古人であればこそ

いかに人力をもってして自然を支配管理しようと意図しても

無理な障害地点があることを大前提に

土木構築思想が形成されてきたということです。

有事(ここでは「水害」に限定しますが)においては

元々の治水建築設計段階で

このように居住空間と非居住空間とを

いわゆる<ゾーニング(区域調整)>しておいたうえで

その「非」居住空間区域へと水流誘導経路を創造するために

故意にその方面へと「決壊」させることによって

人間生活を保守・保持しようとする試みも採用されていたといいます。

その意味では居住区域を安全区域(といっても絶対安心というわけには

いきませんが、比較統計確率的なリスク管理面から)に<密集>させてしまう

設計がよいのか、むしろ<散在>させることによって

集落全面崩壊の危険性を回避する方針を採用するのがよいのかは

もちろんそれぞれの地域の地形や風土・風習、民情次第であります。

いずれにしましても、近現代型「画一設計」思想では

自然の猛威には打ち勝てないことだけは間違いありません。

そのような古人の生活実践知としての

結晶である『輪中』という治水システムは

皆さんもかつて学校教育で学習されたこともあるかと思いますが、

こうした現場感覚は教科書だけで学びきることも

身につけることも叶いません。

ですから、もし機会に恵まれましたらば、

美濃大垣だけには限りませんが、

岐阜県には揖斐川・長良川・木曽川の三本ラインが重なる

海津町付近にもこうした現場に立ったうえでしか身に付かない

皮膚感覚が学べる教育研究施設が点在しておりますので

是非訪れて頂きたく思います。

そんなことを岐阜県を訪れればいつも感じ、考えながら散策することになります。

さて、大垣に着きますと、

まずは地元の鎮守様にご挨拶しなければなりません。

呑みに行く前の「和らぎ水」調達も兼ねて

大垣八幡神社に参拝にいきます。

その後は必ず立ち寄ることにしている知る人ぞ知る路地裏家庭料理店に

行くことになるわけですが、

店舗移転したために少しばかり道に迷いそうなところ、

女将様に誘導して頂き無事に目的地まで到着出来ました。

その晩も遅くまで地元の方々と銘酒を時にごちそうになりつつ

ほろ酔い教育を受けていました。

銘酒『竹雀』や『作』はうまかったですねぇ~。

ちなみに、『作』はかの伊勢志摩サミットでも

<おもてなし>酒として提供されたそうです。

鈴鹿山系の水もうまい。

ここに鎮座ましますかの松下幸之助翁も崇敬されたという

椿大神社のご祭神様にも日頃の感謝を捧げつつ、

ご馳走頂いた方とともに一献酌み交わすことになりました。

ありがたいものです。

管理人好みのあの知る人ぞ知る<珍品>銘酒は

今回は頂けませんでしたが・・・。

それでも水質が円やか(柔らかい)な地域で

創作される日本酒は飲みやすいものです。

大垣はどちらかというと伏見のような

<女酒>でありましょうか?

口当たりがよいのです。

地酒とその地域の旬の食材とともに

日頃の些末な次元を跳躍した上品な会話に花咲かせるひとときを

味わう歓びこそが<大人の舌鼓>というものでしょう。

やはりお酒が絡むとその人の人間性が隠し通そうとしても

深く滲み出てくるものです。

ですから、昔の偉い経営(人事担当)者は

さりげなく酒場に誘って面接試験をしたものです。

何事かをなさんと欲する者は十二分に注意しなくてはなりません。

管理人も10代の学生時代には失敗もありましたが、

ある先輩に薦められた一冊の座右の書に救われました。

三島由紀夫著『葉隠入門』ですね。

この名著に<酒の座の心得>という覚え書きが出てまいります。

そんなわけで<酒席>では生の<人間学>を体認・体得することが出来ます。

これが管理人が40年間生きてきて『人間』というものを観察してきて掴んだ

<人間学>であります。

その<酒席>での会話内容で

その人の日頃からの問題意識が如実にはっきりと出てまいりますから

本当に怖いのです。

とはいえ、基本的に管理人も楽しく呑むのが好きなものですから、

あまり深刻過ぎたり、憂鬱になるような会話は出来る限り避けたいわけではありますが、

その人が真剣な悩み事を抱えていらっしゃるのであれば、

真摯に向き合いながら積極的に傾聴することにしています。

そうした「深い」関係性からの付き合いが

人間としての本格的な交流進展の始まりだからです。

そこまでの「深い」情愛感覚に至る交流から逃げを打とうとする方とは

どうしても肌合いが合わずにいずれ縁が切れることになるでしょうから。

とはいえ、悩み事への対処は慎重にも慎重を重ねなくてはなりません。

なぜならば、適当な相槌や語りかけでは相談相手を危険な領域へと

誘い込んでしまうからです。

ですから、対話(傾聴)技法とは本当に難しいものなのです。

ですが、そのような修羅場から安易に逃げ去るようでは

自身の人間的成長の機会もついに掴むことが叶いません。

そうした真剣にお付き合いが叶う方との対話経験から

『心の繊細(脆弱)さとは必ずしも重苦しさと向き合うことと両立しないものでは

決してない!!』とついに発見するに至りました。

情けは人のためならず』とはこのような境地の果てに訪れる

<光明>でありましょうよ、きっと・・・。

これが<ほんまもん>の<おかげさま>と<おたがいさま>感覚でありましょう。

古来からの日本人はこうした身体感覚を大切にしていました。

「我欲」を抑制させた適切な<間合い>感覚を身につけるのは

管理人も未熟者で難しいわけですが、こうした時空的距離感に

敏感であろうとすることは相互誤解を早期に「融解」するためにも

重要な感覚視点となりましょう。

前にもご紹介させて頂きました『夜と霧』で有名なヴィクトール・フランクル博士が

炯眼にも導出されてきた知見とも重なり合います。

このような人生において真面目に懸命に生きてきた人間であるならば

必ず到達するであろう境地は<修羅場>や<トンネル(抑鬱期間など)>を

越え出た後にこそ<光明>として見出されてくるようです。

人生の厳しい局面を乗り切るには

おそらく『光(明)と影(暗)』といった二元的対立思考では

ついぞ見出せないまま不幸のどん底を繰り返して

生涯を終えてしまうのではないでしょうか?

これが近現代人の<知性>の苦しみというものでしょう。

そんなことを管理人も20~30代の厳しい局面で

夏目漱石やイッセー尾形さん、後ほどまたご紹介させて頂く

<妖怪へヴィメタルバンド>陰陽座さんなどなど・・・、

数々の優れた方々に教わり続けてまいりました。

ちなみに管理人は昔から1人で『独立型』芸能を展開されてきた

いわば<道化師>系ピン芸能人といっては語弊がありますが、

そのような面影や佇まいを醸す方が好みでした。

このような方々のおかげで思春期特有の人生においては

誰しもが一度は通過せざるを得ない社会的制裁(いじめなど)に

耐え得る力を授かることが出来たからです。

ほんまにありがとうございます。

そのおかげで人間ならば誰しもが陥らざるを得ない

ある種の精神病理状況とうまくつきあえる知恵も

まだまだ死ぬまで未熟ですが、少しずつ身に付いてきたようです。

すべての方々に感謝です。

ですから、まもなく『40にして惑わず』(孔子)の<不惑>の節目を

迎えることになる管理人であるわけですが、

管理人自身は『すべてはあるべきようは・・・』(明恵上人)といった

仏教と老荘的思想観や神道(想)観を<導き手>としつつ、

『惑っても、迷っても全然悪くない、だって人間だもの(管理人)』といった

感じで今後も何度も訪れるだろう人生の危機に対して

<軽妙洒脱さ(自然体)>で身を処していきたく願っています。

そして『力を養成しても力を<悪用>行使せず!!』を究極理念に掲げた

柳生新陰流や宮本武蔵の二天一流の<極意>などを身心に宿していた

兵法家に学び続けることでしょう。

管理人の<へヴィメタル愛>も己の弱さといった<内面性>と

真摯に向き合う志から育まれてきたものです。

そのあたりの論考考察はすでにご紹介させて頂きました

中野信子女史による『メタル脳』でも触れさせて頂きました。

『人生を誠実に生き抜くためにもやはり<欺瞞>こそが最大の敵』であると

いうことです。

『<欺瞞>とは己の弱さから逃げてすぐにも他者や社会へとルサンチマン発動を

投影させてしまうダークミステリアス心理現象』のことです。

ですから、管理人も自戒を込めて心理を整理する意味も兼ねて

これまで『心情整理日誌(書評形式ブログ)』を書き綴ってきましたが、

皆さんも心の暗部と真摯に向き合うことを通じて

自他共に多大な損害を呼び起こさないためにも

「書くこと」や「語り合うこと」を何度でも繰り返しますがご推奨いたします。

現代人はとかく<面倒くさい>奴を敬遠しがちですが、

このような姿勢感覚でいれば、いつまで経っても

信頼できる人間関係を形成することは叶わないことでしょう。

こうした問題意識は最近話題になってきている<愛着障害>病理とも

関わってくるようです。

そんな時には、『俺は人生のどこで<つまずいた>のだろうか?』と

常に問い直すことが必要な作業となってきます。

このように現代社会では<個人>と<社会>との

バランスの取れた距離感を掴むのがますます難しくなってきていますし、

無機質になっていきますことから、

常に『人間とは個体同士で結び合わされる<社会>的有機存在関係にある』という

視点や皮膚感覚を忘れないようにしたいものです。

そんなわけで、『いい顔をしている人の味わい深さ』は

平均寿命から推定して人生の折り返し地点ともなる

だいたい40代あたりで判別出来てくるようです。

だからこそ、古人も

『人間、40歳ともなれば自分の<顔(人生)>に責任と誇りを持て!!』と

教えてきたのでしょう。

いろいろと人生の「先輩」方には教わることが

まだまだたくさんあるようです。

『人間、<我以外我が師匠>、死ぬまで生涯現役学習』ですね。

そんなことを今回の旅でもまた再確認させて頂くことになりました。

今回の連休中では『アパホテル』も満室状態でしたから、

近隣の『スーパーホテル』で宿泊させて頂きました。

最後まで呑みに付き合って頂いた地元の方にホテル玄関まで

話ながら送り届けて頂きました。

ありがとうございました。

そんなわけでもはや午前0時を過ぎつつあったので、

翌日も朝食を済ませた後、すぐに出発したかったので

早めに床に就くことにいたしました。

翌日からは尾張名古屋に入り、

かねてからの念願だった<三社巡り>を果たします。

その行程は、

①<尾張一宮>真清田神社

IMGP1570

(以下すべて管理人撮影)

ちなみに、門前には知る人ぞ知る鉄道模型カフェもありました。

模型車両などの持ち合わせは何もなく、

たまたま幼少時から好きなもんで、ちょうど少し喫茶休憩でもしようかと

考えていたところにいきなり現れたのがこの店でありました。

『鉄道模型カフェ浪漫』様です。

まさしく「夢=ロマン=童心=道心」を甦らせてくれる素敵なマスターと

同好者の方とともにしばし鉄道叙情話に浸ることができました。

ありがとうございました。

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津島神社

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『素戔嗚』という名の楽曲も『陰陽座』様はすでに創作なさっています。

これから数年間『厄年』に突入する者として

<禍を転じて福となす>ためにも前向きになれるよう

『厄よけ』祈願も念入りにしておかなくてはなりません。

織田信長公、豊臣秀吉公も崇敬されたという名社であります。

『みなが<弥栄(いやさか)>でありますように・・・』

熱田神宮

『陰陽座』<名古屋>公演ときて

楽曲『青天の三日月』の歌詞にもある<草薙の剣>ともご縁があり、

しかも本年は『改元年』でもありますから

いつにも増して念入りに<弥栄>を

かつて大切な<三種の神器>が収められていたという蔵にも

是非ともご挨拶しておかなくてはなりません。

あの蔵のある裏側は早朝や夕方に行かれると

木漏れ日の美しい鎮守の森を感受し得る散策路であり、

楊貴妃にちなんだ水場もあることで有名ですね。

この日はちょうど結婚式典もされていた模様で

目に見えぬ<幸せのブーケ>を管理人も授かることが叶いました。

『どなたかは存じませぬがいついつまでもお幸せに・・・』)の

三社であります。

10月の<言乃葉>であった

『真清田の 神の心を こころにて

受けて清めよ 濁れる日々を(管理人)』

真清田神社参拝時に無心で祈った末に

敬愛する幕末の志士である橋本若狭

『水の神』様を祀る天武天皇ゆかりの

奥大和の古社に願かけた和歌を着想に据えつつ、

祈願拝受したものでした。

『川上の 神のこころを 心にて

濁れる世は 澄むとぞ思う(橋本若狭)』

天武天皇も橋本若狭もどのような想いでもって

この国の行く末を案じ、国造りの方向性を念じていらっしゃったのでしょうか?

管理人などもこの天川への入口にある古社に参詣させて頂くたびに

いつも涙がこみ上げてくるのです。

ところで、真清田神社のご祭神様は古代史に非常にお詳しい方ならご存じのように

最近評価されている尾張氏とも大変ご縁が深い

管理人が住まう地元に近い葛城山とも縁深い神様でありましたから

感謝・感激度も<ひとしお>のものがありました。

この葛城山の「水利権」を巡っても大和側と河内側とで

古来から<いのち>の水を争奪する醜い争いがあったことも勘案すれば、

今も昔も<社会的共通資本>を公平に分配する政治的差配とは

誠に難しいものだと認識させられます。

『人びとの我欲とはかくまでも恐ろしいものなのです。』

またこうした「水利権」史を研究することで

なぜ「(南<今売り出し中の『奥』ではなく>)河内(大阪府)」側にではなく、

「大和(奈良県)」側に良質な酒蔵(酒造会社)が点在するのだろうかと

考えるきっかけにもなって面白いのです。

ちなみに、『奥』河内には『天野酒蔵元 西條合資会社』様という

かの太閤秀吉も贔屓にしたという『天野酒』を現在に蘇生させんと欲する

志高い有名な酒蔵もあります。

「水利権」と「酒造」の関連史はここまででさておくとしまして、

いわゆる「河内」王朝説もどの程度信憑性があるものなのか存じませんが、

「河内」と「尾張」また「飛騨」、「北越」から

「丹波・但馬・丹後」・・・と絡んでいく古代史における王朝変遷・合従連衡史も

まだ研究され尽くしていない裏面史であるそうですから、

古代史ファンにとっても魅力的な話題の宝庫であります。

管理人などは稀代の古代史作家でもいらっしゃった黒岩重吾氏が

それとなく示唆されたような着想にも心惹かれながら

古代史に想いを馳せることになります。

いわゆる『日本』の<原型>が

いかにして形成されていったのだろうかと問うことは

我が国の民族形成史を知るうえでも

真の建国理念を掴み取るためにもきわめて現在的な問題なのです。

その掴み取り方の違いで

『日本』の興亡が決まるといっても過言ではないからです。

『歴史を真摯に振り返ろうとしない人間は<野蛮>である』

いうことです。

それを探究することは同時に

当時の国際性と国粋性の<せめぎあい>の緊張感を知ることにも

つながりますし、まさにこのような摩擦対立関係を

「超克」する問題意識が極度に煮詰まっていったうえで

『日本(大和)』が形成されていったと考えられている(きた)からです。

ですから、聖徳太子の『和をもって尊しとなす』も

天武・聖武天皇などが理念として<当初(その後、歪められていくからです。)>に

掲げていた本来の『日本型』律令体制が志向した思想の背景にあるものを

掴み取ることとも関係してくるわけですね。

世界に緊張感が高まる時代だからこそ、建国の「原点」にまで立ちかえって

想像して頂きたいのです。

ここに近代以後における西洋由来の左右両翼思想の害毒に晒されていなかった時代の

<中庸(道)>志向を胚胎させていた『日本(大和)』の<雛形>が

あったものと信ずるからです。

古代大和人はいかに外国の方々と交流を図ってき(い)たのだろうかと推察することも

国際「親善」のためにも有益な視点となるのではありますまいか?

そうした異質な者同士における人間交際の<知恵>も探りたいものです。

なお、先に触れさせて頂きました橋本若狭とともに

文久3(1863)年にいわゆる『天忠組の変』に参加した

藤本鉄石は備前岡山出身の志士で

「晴れの国」の温かさを感じる文人画を描かれたことでも

美術骨董書画界ではかねてより評価が高い人物であるといいます。

武市瑞山(半平太)ほかの幕末の志士には

このような書画をも嗜む深い教養も備わっていたのでした。

そのような美意識から生み出されていく『大和魂』と

昨今の自称「保守」系論者とはまったく政治感覚が異なるのも

このような芸術(能)愛好者としての側面があったこととも

関係してくるように感受されるのです。

この時代の志士が尊皇攘夷思想という名に一括りされるような

過激な排他的思想を掲げていたとして

現在でも否定的評価だけが下されるのが専らですが、

確かにそのような否定的問題点を含んでいたにせよ、

当時の日本人「志士」には様々な感性でもって

冷酷無比な政治活動を乗り越えていきたいと念願されていた方々も

一面では確かに存在していたということです。

そうした「心」が美術作品から推察されます。

このように残された美術作品を鑑賞していると、

何が人間の「心」を狂わせるのかといつも考えさせられることになります。

こうした近代以前(江戸期)と近代以後(明治期)における

我が国「絵画」史の流れを観察していても

人間観の大きな転換によって絵画でもって描こうとする世界観すら

激変してきている模様も読み取れます。

やはりそこには大きな経済観の転換も背景にはあるのでしょう。

『文化(作品)とはただ単なる「商品」にあらず、

人間の「心(魂)」の結晶体であるからして、

本来ならばそうやすやすと<切り売り>できないはず・・・。』

現在の政府が主導するいわゆる『クールジャパン』の<さもしさ>というのか

<気持ち悪さ(危うさ)>という問題も最近某インターネット討論番組で

『クールジャパンの空虚と日本文化の現在』を主題に議論されていましたが、

現代サブカルチャー文化とも絡めて

きちんと歴史的文脈の流れに位置づけて

再度「整理・整頓」すべき時期に当たりましょう。

管理人などは、そうした「すき間(ニッチ)」にこそ、

日本国内の商業ベースでは採算も取れず四苦八苦していますが、

世界的に日本文化を理解し、親しもうとされている方々には通じてきたとされる

『ジャパメタ(ジャパニーズへヴィメタル)』文化の可能性も

あるのではないかと感受しております。

上記番組の中でもあるコメンテーターが

今の音楽業界におけるミュージシャンの<ストイックぶり>について言及されていました。

景気の悪い時代が長引くと大きな失敗も許されないために

より厳しい環境になればなるほど、

より品質の高い作品を生み出さなければ

生き残りを図れないというよい意味での誘因もあるのでしょうが、

例えば独立系レーベル(いわゆるインディーズ系市場)では

個々の作品制作にあまり時間と費用をかけることも出来ないために

どうしても小粒になったり、似たもの同士の乱立が起きるといった

弊害も出て来るようです。

それに上記番組でも強調されていましたが、

良質な文化が育ち上がり、末永く愛好されていくためには

ある程度の経済的・政治的・社会的<ゆとり>が不可欠だということです。

管理人のライブハウス観察でも優れたアーティスト/バンド様の場合には

やはりそれなりの手間暇(時間と費用と労力)をかけることが

可能になるように活動条件を満たそうと努力されている方々が多く見受けられますし、

良質な観客からの批評や問題提起(業務改善案)を積極的に採用されるなど

演奏者と観客が一体となって

あらたな作品や世界観を創作していっているように感受いたします。

そのようなアーティスト/バンド様であれば

たとえ観客が少数でも1人でもまったくの0人であっても

めげずに一切文句も言わずに一生懸命に

歌を通じて心込めたメッセージが伝わってきます。

また今の自分に何が足りなかったのだろうかと

反省に反省を重ねて次回へとつなげておられることでしょう。

最悪なのは、管理人が実際に見聞きしてしまった話で

誠に不快な気分にさせられたのですが(これだからアルコールを

提供するライブハウスは怖いのです。先に触れさせて頂いたように

酒席では人間性が明確に出てしまう問題とも絡みます。)、

観客がそばにいるところで

その日のバンド売上収入の話をしていた場面に遭遇したことです。

このように語ると管理人も嫌な奴になってしまいますが、

あえて他の心ある観客の方々の声にならない声を代弁して

あまりにも不快だったので

一体全体どんな神経をしている人間(バンド)なんだろうかと

次回の参考として記憶しておくためにも人相をよく観察しておきました。

そしたら・・・。

やはりダメな人間の人相ってさもしく見えるのですね。

しかもやはり「音」も「歌詞」も粗雑で下品なのです。

敬愛する若手ベーシスト様もおっしゃっていたように

優れた作品を継続的に安定して世に放出することが出来る

一流ミュージシャンになればなるほど

『音もまた人なり』ということが如実に現れ出てくるようです。

これじゃ、へヴィメタルに不可欠な

『様式美』も『哲学(音と歌詞で表現する音楽的世界観)』も

何もあったものじゃありません。

見るに耐えないのです。

管理人がこれまでご紹介させて頂いてきた

アーティスト/バンド様とは比較にもならず無惨なまでの態度です。

少なくともお金を頂いている以上は、

それぞれのアーティスト/バンド様がいかなる環境条件にあろうとも

インディーズ市場であれ何であれ、

『プロはプロ』でありましょうということを

自覚して頂きたいと思うのです。

管理人のライブハウス巡りもただ単に趣味娯楽として

貴重な人生の時間を費消しているわけではなく、

日々の仕事や生活にも活かせるように勉強の場としても

参加させて頂いているのです。

そのように観客の中にも

刹那刹那を真剣に観覧されている方もおられるはずです。

皆、貴重な時間と経済的苦労の中で

万障繰り合わせて捻出して来ておられるはずですから・・・。

中には病気や失業、

引きこもり中で人前に勇気を振り絞って外出してきておられる方や

今日明日にでも

ひょっとすればお亡くなりになるかもしれぬと予感して

この世の最期の楽しき見納めとして涙目で見つめていらっしゃる方も

おられるかもしれないのです。

ですから、絶対にいかなる条件であろうとも

手抜きはして頂きたくないのです。

ですから、先に見られたような態度を示されれば、

観客だけではなく、他の対バン様やスタッフ様にも失礼に当たります。

そのような俗次元の話は観客のいない

別の場所でじっくりと反省でも愚痴でも言い合ったらよいでしょう。

前向きな反省ではなく、

後ろ向きの「愚痴」ばかりしか出ない人間であれば

いずれ業界からも自然淘汰されるでしょうけれど・・・。

そのようなわけで厳しく観察批評させて頂きましたが、

こちらが誠意と真剣な眼差しで

それぞれのアーティスト/バンド様と接触させて頂くと、

あちら様からも真剣に返答して頂けます。

このように厳しい批評提言をさせて頂いたのも

すべては愛情をもってする

<バンド向上委員会(『We  Rock』誌)>的視点からなのです。

こうした小さなコミュニケーションの積み重ねが

信頼感や好感度アップにつながり、

「好運」と「時」と「所」を得ることが叶えば、

やがて<成功>していけるものと確信しております。

これは何も『メジャー(有名)』デビューを果たすとか

『インディーズ(無名)』のまま終わるとか

そのような低次元での話ではありません。

いずれにせよ、このような時代ですから、

それぞれに本音の面では

『経済的に音楽だけ(業界)で食っていくのは非常に厳しい!!』と

感受される方々のほうがむしろ多いでしょう。

ですが、短期的には厳しくても、

やはり<仕事>として継続的に活動されている方を観察していると

どの業界でも共通することですが、

中長期計画をしっかりと立案したうえで

着実に実行進展していっているはずです。

そのためには観客側でも短期的な視野で見るのではなく、

中長期的な視野で温かく見守っていかなくてはなりません。

そんな良質な観客が育たなければ、

良きアーティスト/バンドも育とうはずもありません。

こうした問題は何も芸能界に限らず、

今の日本、いや、世界中で日常茶飯事に起きてきている現象です。

つまり、『人をお互いに育て合おうとしない』無関心さ、冷酷さ、

非情さ・・・であります。

これが「緊縮」経済の真の恐ろしさだということです。

また、音楽業界から題材を転じますが、

『京アニ(京都アニメーション)』などが創作志向していた世界観なども

優れた作品になればなるほど日本文化がこれまで築き上げてきた

歴史感覚が反映されているように思われます。

例えば最近のヒット作品を観察していても

どこかに<懐かしさ>や<既視感>、<思想性>を強く感受させるものほど

持続的な人気を博す傾向にあるようですね。

『君の名は。』などなど・・・。

ちなみに、先に触れた大垣市にある松尾芭蕉翁や郷土偉人を紹介している

『奥の細道むすびの地記念館』には<京アニ>募金箱も設置されていましたので

いくらか<献金>してまいりました。

京都アニメーションが創作したアニメ映画『聲の形』の舞台が

大垣だとされているからだそうです。

これも何かの<ご縁>でありましょう。

話題は少しずれますが、管理人の最近のお気に入りは

やはり音楽系アニメですね。

『けいおん』『Angel  Beats!』なんて<推し>ですね。

それはともかくといたしまして、

幕末の大垣藩にも優れた思想家や政治家がいました。

先に語り落としましたが、

後ほどの主題とも絡む話題として是非とも外せませんので、

このような偉人もかつて日本にはおられたということで

ご紹介しておきますね。

それが小原鉄心翁のご存在であります。

藤本「鉄」石といい、

小原「鉄」心という当時の志士や優れた為政者には

『鋼鉄』のような力強い<決意>を誓う人物が

数多く存在していたようです。

確かにこの時代には『鉄』のつく名前を自身の本名や屋号にする人物が

多かったようです。

『新撰組』には、若き俊才である市村「鉄」之助もいましたし・・・。

山岡「鉄」舟もいます。

実は彼も美濃大垣藩士の子として生まれ、大垣でお亡くなりになったといいますから

本当に不思議な<ご縁>というものです。

「鉄」絡みで少し本題から逸れましたが、

ここでの主人公はそうでした、

小原鉄心翁様のことでした。

幕末の地方藩政では

いずこも<佐幕(幕府体制擁護派)>か<倒幕(維新体制恭順派)>かで

揺れ動く過程で血なまぐさい「粛清劇」もあったわけですが、

ここ大垣藩では翁の機転でその流血沙汰を最小限に抑えることになったのです。

それでも幕府との「開戦」を急ぐ薩長主導型維新政府軍とのあいだでの

交渉も難儀したために結局「交戦」に及んでしまったわけですが・・・。

この時の翁の交渉に望む心を鍛え、決心させたのが

彦根のある禅師だったのでした。

こうした時には<大義名分>論に徹底してこだわり続けて

より一層の悲喜劇をもたらす儒教的視点よりも

やはり円滑・円満な解決を志向する仏教的視点にこそ

局面打開策があるようです。

『いかにすれば後腐れのない政治的解決が叶うのか』を

考え抜いたうえで「決断」を下すのかは

今も昔も優れた為政者なら考えねばならぬことです。

そんな鉄心翁は

「酒」と「梅」を愛した文人肌の政治家でもあったのでした。

それが本タイトル『越乃寒梅』ともつながるというわけですね。

遅ればせながら、

『<妖怪へヴィメタルバンド>『陰陽座』様と

<越乃寒梅>醸造会社『石本酒造株式会社』様とのコラボレーション

おめでとうございます。』

管理人も「梅」が好みです。

「椿」もですが・・・。

楽曲の第一印象はまるで演歌歌手の坂本冬美さんによってカバーされた

ビリーバンバンさんが作詞作曲された『また君に恋してる』のような

上品にして力強い『艶』歌を連想させられました。

あちらは「焼酎」で、こちらは「日本酒」ですが・・・。

「日本酒」などのCMイメージにはどうしても純和風味がする演歌と相性が良いために

なかなかロック音楽が使用されることはなかったようです(あるのかもしれません)が、

純和風×異文化=<妖怪へヴィメタル>『陰陽座』様の起用は

これからの国際化と国風化をよい塩梅に調和・融合させた

「日本酒」輸出販売戦略としては時代に叶った「道」なのかもしれませんね。

先程ご紹介させて頂いた伊勢志摩サミットで提供された銘酒も

そのような一品だったのでしょう。

曲調としては超マニアックな曲になりますが、

『揺籠(ゆりかご)の木』のような音色調を感受いたしました。

落ち着いたそこはかとない<しっとり感>とでもいうのか、

透き通った透明感がする趣ある

そんな北国<越後の国>を思わせる一曲に仕上がっています。

『一輪一滴』というコンセプトテーマも<梅花(香)>を愛でながら、

一献を味わい傾ける安らかなひとときを感じさせるところに

この<ブランドムービー>の魅力もあるようです。

北越もまた有名な酒所で酒蔵も数多く点在していますが、

皆さんもこの楽曲を<肴>に年末年始をお過ごしになってみるのも

改元年『令和』(ちなみにこれまた酒好きの大伴旅人の和歌ともご縁があります。)を

過ぎ越すにふさわしい『祝い酒』のひと銘柄酒になるのかもしれません。

ちなみに、大伴旅人の子である家持は北越(越中国)ともご縁があります。

さて、そんな魅力あふれる『陰陽座』様の結成20周年全国ライブツアー

<名古屋>公演に先だって参加させて頂くことになりました。

そのライブツアー前日には名古屋の友人とも再会を無事果たすとともに

知人のバンドギタリスト兼ベーシストでもいらっしゃる方が

マスターも務められているライブバーに少しばかりご挨拶に窺うなど

名古屋の夜を変な誘惑にも引っ掛からずに(笑)、

無事に楽しく過ぎ越すことが叶いました。

その日からの連日は栄にある某カプセルホテル&サウナに

宿泊させて頂きました。

そんな第一日目から第二日目にかけての翌朝早朝に目が覚めてひと風呂浴びてから

大須観音様にお礼参りを兼ねつつ酔い覚ましにもなろうかと

一旦外出して頑張って移動したのですが・・・。

無事にお礼参り自体を済ませることは叶ったものの・・・。

栄に戻ってからは飲み過ぎのためか少し体調が悪くなったようで

このままでは何のために名古屋まで来たのかわけわからなくなってしまいますので、

ライブ開始時間までに体調気分を落ち着かせるために

再びホテルに戻って少し「熟睡」してしまう一幕もありました。

酔った時は大量の和らぎ水と陀羅尼助の服用と睡眠するのが効果抜群ですね。

起きると何とライブ前の大切な「物販」開始時刻の3時間ほど前。

昼飯もまだ食べておらず、

鶴舞公園まで歩いて散策しようと考えていたので焦りましたが、

前日に初めて行くライブ会場である『ダイアモンドホール』を

下見しておりましたから準備万端・用意周到で

余裕もあって「物販」開始時刻よりも何と1時間も早く並ぶことで

最初の方に入ることが叶い、

「即買」後に皆に笑われつつダッシュで下に駆け下りていく

「好運」に恵まれました。

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メチャクチャ恥ずかしかったですが、

時間と経済的に余裕なき管理人にとっては、

せっかくの名古屋観光時間も1秒たりとも疎かにすることが出来ません。

なぜならば、「またいつか行けるさ」と考えていても

その「いつか」は人生にはあり得ないものと心得てきたからです。

(初めて行った名古屋の『ダイアモンドホール』の入口に向かう

階段通路って、行かれたことがある読者様ならご存じのように

急な段差でとても繁華街にあるライブ会場とは思えないような

建築構造になっているからです。大阪の『なんばHatch』などと

同じような感覚で乗り込むと痛い目?にあいそうですから

行かれる機会がございましたらば、

皆さんもくれぐれもご用心されながら上下降願います。)

ただ今現在も来年初まで全国をツアーで経巡っておられますので

まだ観覧されていない方へのお楽しみを奪ってはなりませんから

詳細なライブ模様報告記は差し控えさせて頂きますが、

名古屋では『鬼』尽くし攻勢でよろめいてしまいました。

『鬼もまろびて(転んで)落ちる!?』感覚で

役行者様を慕う管理人としては、

『鬼も内なんだけどなぁ~』なんて思いつつ、

『鬼』にも「心(五分の魂)」ありということで

ともに結成20周年を祝ってきました。

それとやはり管理人にとっても思い入れが深く

リーダー瞬火氏におかれましてもMCでもその「心」をしみじみと語られていましたが、

『累(かさね)』には自ずと涙があふれ出てくるのでした。

前の大阪ライブツアー時におけるMCでもその「心」を強調されていましたから、

これこそが『陰陽座』が人びとに真に訴えかけたい「想い」なんだなぁ~と

つくづく納得させられました。

管理人も常々この「心」を片時も忘れずに大切にしていきたいと

念願しています。

だからこそ管理人も安心かつ納得して追いかけることの出来る

バンド/アーティスト様だということです。

『<人間>とはどういう存在なのだろうか?』

その本質像を『陰陽座』様の場合には

たまたま<妖怪(怪異現象)>に仮託して歌い舞い語り続けてこられたわけですが、

何度でも人間の「心(魂)」が社会における機縁でもって

危うくさせられる恐ろしさや緊張感をもって

生きねばならぬと再確認させて頂ける

そのような稀有な芸能活動家であります。

そうしたライブ開始時刻までの貴重な2時間ほどの間に

やや小走りで知人のアーティスト様ともご縁があるという

『鶴舞公園』を是非一度訪れてみたくて散策してきました。

とはいえ、

「行って、少しだけ写真撮影して、すぐにとんぼ返りするだけ!!」の

走り込み運動みたいな感じになったわけですが・・・。

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翌日はもう帰阪日。

名古屋駅前にある天神様にご挨拶して、

お土産購入(名古屋物産店がなかなか見当たらず、あちこちを巡回するはめに)した後には

昼食を買い込んで近鉄アーバンライナーに乗車して帰阪となります。

3連休はこのようにあちこちと移動して多忙スケジュールでしたが、

様々な良き人びとにまた出会うことが叶う充実した日々を過ごすことが出来ました。

最後に松尾芭蕉翁と小原鉄心翁のこの言葉をご紹介して

閉幕させて頂くことにいたします。

『蛤のふたみに別れ行く秋ぞ』(松尾芭蕉翁)

※松尾芭蕉翁はこの後も伊勢の『二見浦 夫婦岩』??などに

途中立ち寄りながら故郷伊賀を経て、

一旦『上方』へと向かい滞在したといいます。

そして芭蕉翁は大阪でお亡くなりになり、

かねてから敬愛されていたという木曽義仲公の眠る墓所のそばで

永眠の床へと就かれることになります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『治要在理財 宜寛不宜苛

厳乎官貨法 其無如之何

偶言 鐵心小原寛(『論政十二首』の中の一首<治要在理財>より)』

(訳)政治で最も重要なのは財政である。

税金の取り立ては寛大であるべきで、苛酷であってはならない。

公金の貸付を厳しく取り立てれば、民は苦しんでどうしようもなくなる。

※小原鉄心翁はその後明治維新後にも政府の会計事務掛に

由利公正(三岡八郎)らとともに出仕して財政基盤確立に尽力されたと

伝わります。

幕末にはまだケインズ経済学のような洞察知見も

日本には伝わってきておらず、江戸期の三大「緊縮」財政改革も

失敗に終わるなどする中で優れた「積極」財政論に基づく

経済運営・活性化政策がなかったように紹介されることも多い中、

このように自らの地方藩政での実践的(プラグマティック)政策体験を

七転八倒・試行錯誤する中で編み出してきた賢者も存在していたのです。

そのような意味でもっと幕末の『理財論』思想実践家にも

スポットライトが当てられてもいいのではないでしょうか?

マスコミや学校ではあまり教わることもない大変貴重な歴史的資料を

「発見」いたしましたので皆様にもご披露させて頂きました。

この時代の為政者はかなりの長期計画でもって

無理のない経済安定政策の立案・実行をなされていたということですね。

とともに社会資本整備の充実も同時に図っていたのでした。

「志士」や「賢者」とは国家(世界=宇内)100年と言わず

永遠の「大計」を図る者。

「夢」を見るだけで終わらせずに、その「夢」を確実に実現軌道へと

乗せていく道を開拓する勇者かつ智者こそが「志士」や「賢者」というものです。

現在の世の中も乱れに乱れていますが、

何事も他人任せにせず、1人1人が出来るところから

良き知恵を出し合って協力していかなくてはなりません。

政治を始め世の乱れ・濁りを嘆くのは簡単ですが、

その乱れ・濁りを正していくのも

現代民主制下では私たち一般国民の<民度(世に処する問題意識の高さ)>

次第だということです。

そのように知性と気骨に優れた奇特な情愛感満ち溢れたる人びとと

横に縦に相互連携しながら確実に支えていくことこそが

心ある「国民」の責務だと確信しております。

もはや低次元な些末な論争で互いに足を引っ張りあっている場合では

ありません。

今や「祖国」は危急存亡の秋(とき)であり、

次世代にかなりの致命傷を与えかねない極限状況にまで立ち至っているからです。

その物理的・精神心理的圧迫感はすでに<ロスジェネ>世代が

身をもって実証済みです。

だからこそ、特に<ロスジェネ>世代は自らの実体験を踏まえつつ、

あらゆる世代に状況の厳しさと健全な方向へと

これからの世が導かれていくための『建白』提言を

積極的にさせて頂くわけです。

ですから、ただ単にこれまでの失政責任を厳しく問い詰める

ルサンチマン欲動だけで動くわけにはいかないのです。

そのような暇な時間はもはやとっくの昔に過ぎ去っています。

このままマイナスエネルギーだけが積もり積もって、

何らの改善もなく放置されていけば

その犠牲になるのはいつの時代も次世代だと決まっています。

特にお子様をお持ちの方なら、あるいはお持ちでなくとも

人間としての心がまだ残っている方ならば皮膚感覚でご理解頂けるはずです。

『衆議』が『衆愚』に陥っていないだろうか?

『教育』も究極的には「自己」教育(独学と対話と輪読による相互循環学習こそが

基本であり、他人任せや社会的評価ばかりを気にしていては身に付くものも

ついには身に付きません。

それが証拠に高学歴者ほど

なぜに我が国では「無能力者」になっていくのでしょうか?

それは「学問」ではなく「勉強」として

いやいや仕方がないからやっているにすぎない

社会的な<見栄>としか考えていない人間があまりにも多すぎるからでしょう。

あるいは、単なる自分さえよければいいの<俗流>立身出世手段であったり、

<趣味娯楽(知的ディレッタント=好事・道楽家)>程度にしか

考えていないからではないでしょうか?)こそが

人間教育の<本道>でありましょう。

家庭では『教育』を学校や社会任せ。

このような受動的教育姿勢では独立の「気概」が養成されることなど

万が一にもあり得ないでしょう。

その間にもその<スキ>を虎視眈々と狙っている国々や多国籍企業や

悪徳企業家、詐欺集団がいるのですぞ。

そのような心なき非人間集団に「夢」を奪われないためにも

心ある人間同士、互いに声をかけ合って助け合っていかなくてはなりません。

それが『温故知新』というものです。

「夢」社会を実現するためにも

今どんな<仕込み>をしていかなくてはならないのか、

もうあまり時間は残されていませんが、

1人1人が胸に手を当てて考え、実践行動していくほかありません。

今後とも心ある皆様とともに次世代に「夢」をしかと描ける社会実現に至る

道筋を開拓準備していこうではありませんか?

まずは<論より証拠>、<率先垂範>、<隗より始めよ>ということで

管理人も<書評>活動などを通じて

今後とも随時時間の許す限り、残りの「いのち」を燃やしていきましょう。

そんなことを大垣の『三輪酒造』様で直接購入させて頂いた

銘酒『男爵 鉄心(バロン テッシン)』を片手にあらためて誓いを立てました。

この銘酒もまた『士(志)魂』を養うに相応しい<一輪一滴>哉(かな)

あります。

「日本酒」は<米>と<水>と<杜氏の腕>の三本セットと

古来から言われてきましたが、最後はやはり現下の日本では

もはや年々歳々貴重な存在となってきている「職人(杜氏)」さんの腕に

かかっています。

『<職人>文化を守り育てていくことこそ、

<文化防衛>の要』であります。

あまり特定の造り酒屋様だけを贔屓しすぎるのも公平ではありませんので

今回はお世話になった感謝を込めてということでご紹介させて頂きました。

是非直接大垣の蔵元へと足をお運び頂き「お試しあれ」・・・でございます。

管理人も『陰陽座』様×『石本酒造』様の情熱的コラボレーションに触発されて

岐阜県大垣市にある『三輪酒造』様を<推し>させて頂きました。

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本年も当書評サイトをご愛顧頂きまして誠に篤く御礼申し上げます。

『令和』改元年の1年。

今年も激動時代真っ只中で人類への試練が続く出来事が

立て続けに生起してきました。

悲しい出来事もある反面、深い歓びにも満ち溢れた瞬間を

味わうことが叶うのも「人間」の魅力であります。

個人的にも身内が亡くなるなど悲しい一幕もありましたが、

「人間」とはその死に立ち会うことで

あらためて「生」の貴重さや

「性(いのちを生み出す母胎=源泉)」の神秘さに感じ入るものです。

『人はどこから来て、いずこへ立ち去る(戻っていく)のだろうか?』は

人間ならば誰しもが問い続ける永遠の謎ですが、

この謎解きこそが人間の一生なのかもしれませんね。

その謎解きを深く味わいながら楽しく人生旅情をともに過ごすことが

読者の皆さんにも叶いますようにご多幸をお祈り申し上げます。

<いのち>がこの世に創造されてくるとは

一体全体いかなる現象であり事態なのだろうか?

管理人も今後とも最期の日まで

読者の皆さんとともに書評を通じて考え、語り合っていければ

これほど幸せなことはございません。

『この世に<味方>は誰か1人くらいは必ずいる!!』

この言葉ほど力強く愛と勇気を得られる生命エネルギーに

漲った言霊はありません。

『すべての者が<生まれてきてよかった>と思える』ためにも・・・。

『我も汝も人生の<闘い>はまだまだ続いている!!』ということを

合い言葉に本年の締めの言葉とさせて頂きます。

また来年お会いしましょうね。

『良いお年を』でございます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<参考/推薦文献>

※本文内にてご紹介させて頂いた書籍以外で・・・。

①『ブラックマーケティング~賢い人でも、脳は簡単にだまされる~』

(中野信子×鳥山正博共著、KADOKAWA、2019年)

②『「ひとりぼっち」こそが最強の生存戦略である』

(名越康文著、夜間飛行、2017年第2刷)

③『ネットカルマ~邪悪なバーチャル世界からの脱出~』

(佐々木閑著、角川新書、2018年)

④『ニック・ランドと新反動主義~現代世界を覆う<ダーク>な思想~』

(木澤佐登志著、星海社新書、2019年第2刷)の4冊を

ご紹介しておきますね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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