番外編:映画『関ヶ原』に触発されて巡る鎮魂祈願の旅と地方経済フィールドワーク報告文

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皆さん、いつも応援して頂き誠にありがとうございます。

辛抱強く楽しみにお待ち頂いている読者さんには

毎回申し訳なく思います。

今回は書評<番外編>のコラム形式で

映画『関ヶ原』を素材に皆さんとともに

「愛」をテーマに語り合っていきたく思います。

次回書評記事までの

しばしの<コーヒーブレイク>としてお楽しみ頂ければと思います。

なお、前回の記事末尾分のお知らせ記事で

書評記事への加筆修正分の位置づけで

エッセー項目記事枠としての<紀行文>を予定しておりましたが、

今だからこそ是非皆さんにお伝えしたい深いテーマが

書き綴っているうちに相当なボリューム

(つまりは、通例の一記事相当分)に盛り上がってきましたので

別立て記事として編集投稿させて頂くことにいたしました。

それでは、満を持して皆さんの前にご披露させて頂きます。

「養老」と「天下泰平」祈願詣での美濃・尾張旅情紀行~織田信長公のお膝元で経済活性化論を考えてみた!!~

それでは、皆さんお待ちかねの紀行文編へと移らせて頂きましょう。

<平成29(2017)年12月30日>

①この日もまた6時前の始発電車で出発。

大和八木駅経由で近鉄アーバンライナー乗車。

桜井駅経過途上、左手の三輪山を遙拝するなどして桑名まで車窓を楽しみながらも

読書に耽っているうちに途中下車する桑名駅に到着。

前回も訪れたことがある「日本三大聖天」で

有名な真言宗「大福田寺」(通称:桑名聖天さん)へ参拝します。

ここは聖徳太子様ご開基とされる数多くの天皇・皇族方によるご臨幸や

有力大名の庇護があった由緒ある御寺です。

「三面大黒天」にもお会いできます。

前回訪れた際は、「浪々の身」だったところ

「三面大黒天」様のおかげで無事あらたな「道開き」が叶ったことの

お礼参りがしたかったのです。

随分と時間をかけたお礼参りだったような気もしたのですが、

時計を見るとまだ10時前。

②次に向かう先は、多度大社。

桑名駅から養老鉄道に乗り換えて多度駅へ向かいます。

昨年夏のお盆休暇中に多賀大社へお詣りさせて頂いたことは

前にも語らせて頂いたところですが、

「多賀大社~多度大社~伊勢神宮~朝熊山ルート」は

昔からの「お伊勢詣り」の定番コースだとされています。

今回は時間と経済上の都合から「お伊勢さん」詣では叶いませんでしたが、

心中での「遙拝」祈願ということで、「お多度さん」へ代理参拝。

「お多度さん」も前回お詣りさせて頂いたことがありましたので、

すぐに参詣ルートはわかりました。

とはいえ、初めての参拝者の方であれば駅から

ちょっとした距離がありますので、

足に自信がない方の場合ですと、かなりきつく感じられるかもしれませんね。

参詣ルートは駅から途中の橋があるところまで歩くと

どん詰まりの道に突き当たります(駅を出て真正面の道を右手沿いに

まっすぐ歩いていきますとものの5分程度で橋を隔てた道路に出ますが、

その分岐点を境に右手側が治水神社方面、左手側が多度大社方面となります。)。

ちなみに前回訪れた時は、

薩摩藩士による「宝暦治水」工事で有名な治水神社もお詣りさせて頂きました。

水害が続くのは今も昔も同じであり、

いくら治水技術が向上したとはいえ自然の威力を

決して侮ることは出来ません。

現代人はついつい科学技術力に頼りすぎてしまう傾向にありますが、

昔の人の知恵もお借りすべきだと思います。

堤防に松並木などを植林することで

地中深くに力強い根を張らせることになりますが、

このことで堤防の決壊をかなりの程度遅らせることが出来るといいます。

現代の科学技術力をも加味させつつも、

公共工事も今や「景観利益」に配慮すべき時代でありますから、

単なるコンクリート護岸工事さえ完了すれば「一件落着!!」とは

いかないのです。

『昔の人はほんとうに偉かった!!』

さて、管理人はだいたい時間の許す限りは節約のため周辺散策と

体力・精神増強トレーニングを兼ねた長距離歩行を活用することが多いのですが、

駅から多度大社まで歩きますとけっこうな時間がかかります。

およそ30~40分くらいだったような気がします。

途中で「いにしえの散策コース」の標識がある脇道から少し山間の道を

登り歩いていくと愛宕神社に出ます。

京都の愛宕山参詣にもいずれ訪れたいと思っていた矢先の

思わぬ「愛宕さん」との巡り会いですから、不思議な縁を感じます。

やはり何らかの「目に見えない糸」は確実に存在しているようですね。

その愛宕神社でお詣りして「小休憩」。

そこから道なりに下っていきますと多度観音様のおられる場所に出ます。

そこからがすでに多度大社の境内地になります。

お稲荷様もおられます。

明治の廃仏毀釈以前は、神社仏閣が同居していたことは

珍しくも何ともありませんでした。

いわゆる「神宮寺」と言います。

多度観音は、説明案内文によると「伊勢西国三十三所」の第33番所に

当たるそうです。

ところで、畏れ多くも管理人が実感した印象では、

「大社」というほどには、

「お伊勢さん」や「お多賀さん」に比べれば

かなり小規模なお社に思われますが、

霊験あらたかなパワースポットであることには変わりありません。

さて、すでにお昼前になっています。

門前の老舗食堂で小学校の家族旅行以来、

人生2度目の「鯉料理」に挑戦。

桑名や多度大社近辺は蛤料理や川魚料理が多いようですね。

この地の名産だといいます。

鯉はかなりクセの強い魚ですので、人によっては好き嫌いが

はっきりと別れる部類の食魚だと思います。

小骨も多いですしね。

多少の値はしましたが、

まぁたまにはこういった贅沢もしてみたいものです。

子供の頃にはこんなに値が張る料理だとは思いもよりませんでしたが・・・

熱燗代も込め、締めて約1,500円ほど。

この位の金額でも管理人には厳しいものがあります。

「旅道中には、財布の紐をついついゆるめさせる魔物が潜んでいますから

気を付けないといけません。」

とはいえ、こういった滅多に味わえない

たまの楽しみを得るためにこそ

普段は超緊縮ムードで頑張ってきたわけですから、

一年の締めくくりの祝言の意味も込めながら

自分にご褒美をあげるのも許されるでしょう。

経済的に管理人が社会に貢献できる程度はこれくらいしかありませんが、

地域の活性化のためには十分な「生きたカネ」になるものと確信して

今日もありがとうの心で気持ちよく払います。

「ごちそうさまでした。」

すると、会計時のおばあさまもにっこりと送り出して下さいました。

このような気持ちで支払うと、本当に面白いもので

「金運」とやらも巡ってくるようですね。

楽しいのでいつもやってみます。

③さて、昼食を済ませれば「お多度」さんを出発。

次の目的地は「養老」の滝です。

ちょうど昨年は養老改元1300年とかで

そのイベントもあったそうです。

『養老改元フェスタ』

次の「元号」がどうなるかは現時点では未公表でありますが、

今回の旅のテーマも「天下泰平」を祈願するものでしたので、

日本らしく「和」にちなむものであってほしいものですね。

「元号」制定の権は今も昔も畏れ多くも「天子」様にありますので、

どこの馬の骨とも知らぬ管理人などが云々することは厳に慎むべき事柄ですが、

人類全体が今や「天道」から大きく外れた生活をしており

様々な惨害が地球規模で生起してきたために、

「天道」により忠実であるべく祈るような趣旨を持つ字でありたいものです。

「天正」はすでに織田信長公時代に使用されていますのであり得ないと思いますし、

意外にも「平安」や「平成」といった「平」という字を用いた時代は

あまり世の動きも穏やかでなかったとも

さる由緒ある御寺のご住職もおっしゃっていたこともありました。

奈良の陰陽道にちなむ有名な御寺での説法でのことでしたが・・・

「元号」は「暦」とも密接な関係がありますので、

しかるべき「道」を知った方のご意見を受ける必要がありそうです。

つまり、単なる東洋学に精通した大学教授レベルでは

話にならないだろうということです。

「元号」の出典は長らく漢籍が慣例だったそうですが、

巷間にひそひそと伝えられるところによると、

和籍からの出典も可能性としてあるだろう・・・とか。

管理人は知るよしもありませんが・・・

それはともかく「養老」の滝へのご案内でしたね。

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(すべて管理人撮影、以下同様。)

ここは「不老不死」ならぬ「不老長寿」を願う

孝子伝説で古来より有名な「物語」が残されている景勝地です。

謡曲『養老』もこの地の伝説を下敷きに創作されています。

IMGP0909

たまたま2月に大阪の大槻能楽堂でも

珍しく古式で公演されることもあって、

事前研修の意味も込めて今回の旅行スケジュールに

組み込んでみました。

(先々週末の2月3日土曜日、すでに上演済みです。)

謡曲『白髭』とも似た長寿繁栄祈願の曲目であります。

また周辺を散策していると幕末期に活躍した梁川星巖など著名人の漢詩を

表記した掲示板があるなど古よりの行楽地であったことも

窺えます。

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管理人にとっては、こうした今はなき古の文人墨客の「心」と

触れ合いながら歩き旅をするのが毎度の楽しみとなっています。

現代人はあまりにも忙しすぎて、

<観光>の意味を今ひとつ捉え損なっているように感じる瞬間がたびたびありますが、

ただ日常感覚と同じ時空意識でせわしなく名所を移動・巡回するだけでは

何も思い出として「心」に残るものなどないのではないでしょうか?

管理人自身は、このようなゆっくり旅が出来る贅沢な機会は

そうそう訪れるものでもなく

「一日一生」の感覚で生きていますから、

昔から紀行文日記のようなものをつけています。

皆さんご自身も独自の紀行文を綴ってみませんか?

本の形で出版されるもよし、こうした個人ブログ形式で

ボランティア的??に公開投稿されるもよし、

きっと人それぞれの独自視点から

今までに公開(市販)されてきた観光ガイドブックとは異なる視点を参考に

今後の旅行計画を立てられている方への

お手伝いになるかと思いますので、一定の需要も見込めるものと

確信しております。

さて、鈴鹿山系あたりから伊吹山系あたりへかけては

厳しい降雪地帯ともなりますので、

徐々に残雪が見られ始めます。

この日は非常に寒い日でもあり、

かなりの残雪にも遭遇しましたが、

家族連れやカップルもちらほら見受けられ、

それほど寂しくはない景色だったので

ほっとひと安心でした。

帰路途上の茶店でよもぎ餅とほうじ茶を少し頂き「小休憩」。

瓢箪のキーホルダーをおみやげに購入。

たまたまその瓢箪の表面には

『天御中主神(宇宙根源神)』という文字が刻まれていたことに

管理人が最近生きる原動力の中心に据える「心」として

シンクロ(共感共鳴)していることもあって、

お守りとしても最適、他にあまり見当たらない商品だったようなので

即購入決定に・・・

④すでに時間も16時前。

その日に事前予約しておいた前回も訪れたママさんの店に遅れると

ご迷惑と心配をおかけすることになりますので、

早めに目的地である大垣駅へ向かいます。

⑤いと恋しく懐かしき大垣へ17時過ぎ到着。

大垣市は「恋愛成就・縁結び」をテーマに松尾芭蕉ゆかりの事跡とともに

町おこしをしています。

前にも語らせて頂きましたが、大垣は「水の町」でもあります。

市内至る箇所に水汲み場があります。

とはいえ言うまでもないことですが、

社会的マナーとしてあまりにも大量の水を汲みすぎることなきよう

節水へのご協力と他の方へのご配慮をお願い申し上げます。

最近はどこもかしこも社会常識を著しく失した振る舞いに出られる

心ない方が続出中とのこと、ために「水源」や「水質」も

かなり枯渇したり悪化し続けているからです。

「水場」は公共の憩いの場であり相互扶助の場でもありますから

是非この点をご配慮下さいませ。

「地球資源は今も昔も有限です!!」

(ちなみに、大垣市内の湧き水場マップはこちらのサイト

ご参考になるかと思います。)

それはそうと、地元の方には大変失礼な表現になってしまいますが、

大阪人のような都会暮らしの人間から見れば

一見すると寂れたように感じられる地方都市にも、

インバウンド効果なのか

某国系の旅人がぎょうさんおられましたよ。

とはいえ、悪意からの表現ではなく、

地方創成(活性化策)も今や海外志向が必要不可欠だという点を

ご指摘したまでであり、岐阜県はなかなか成功している部類に入る

地方都市なのではないでしょうか?

地元観光関連組織団体による宣伝広告効果も

どうやらうまくいっているように見受けられました。

大阪などではインバウンド効果をさらに増強させるために

カジノ施設の増設まで持ち出しており、

おそらく今日本でも観光業界では話題になっている著書を

お書きになっている外国出身の著名人の助言なども参考に

されておられるのでしょうが、

こうした地方都市における外国人観光客の増加を観察していると、

必ずしもカジノを始めとする娯楽遊興施設のさらなる増設が

必要だとは感じられないのです。

確かにホテルが少ないという問題などは改善される余地もあるでしょうが、

どれくらいの集客数を見込めるかはその時期によって未知数ですし、

また民泊も最近では防犯面でかなりの問題も出てきているとも

言われますから、ただ経済収支面だけで「観光立国」を目指すというのは

了見が狭いようにも思われるのです。

管理人なども上記著名人のご著書をある程度の冊数読ませて頂き

勉強はさせて頂いていますが、肝腎な日本人の視点から

子細に再検討してみると、ところどころで「??」と首をかしげる

ご提案もあるように感じられました。

いずれにせよ、観光業を始めとする「内需」経済の活性化問題は

今後も日本人自らが独自に試行錯誤しながらでも

あらたな一手を生み出していくほかないことだけは確かなようですね。

管理人の経済実感ですが、

国外からの投資を呼び込ぶのはもちろん構いませんが、

もっと日本国内の日本人1人当たりの賃上げ上昇に

つながる経済政策に本腰を入れて頂かないと「内需拡大」には

一定の限界が必ずやがてやってくることでしょう。

また、国内投資家の余剰資本が「文化」資本(旅行や教育・娯楽など)に

廻る好循環が生み出されませんと先行きたいへんに険しいものがあります。

その意味では、あまりホテル税ほかのいわゆる「観光税」などは

好ましくないように思われるのですが・・・

管理人は一般庶民労働者にしか過ぎませんが、

もっと大多数の方々が昔日の好景気だった時代のように

気軽に「国内」旅行が楽しめる経済環境を整えて頂きたいものです。

先週からのニュースでも余所の国が生み出した余剰資本に

日本経済が依存しすぎた結果、

株価が相当下落してきた途端に右往左往する有り様になっています。

マスコミ情報では連日ほとんどの記事で「株安・円高」傾向に対する

超悲観的な観測ばかりが報道連載されているように見受けられますが、

むしろ今こそ「内需」主導型経済へ転換し得るチャンスなのかもしれないのです。

それは、すでにこの「失われた20年」前のバブル期からバブル崩壊期にかけた

時期に少数ながら炯眼を持ったエコノミストも提言されたことのある

経済打開策でもありました。

結果として、当時の政策当局者や民間主力経済人が主導していった

現代に至るまでの経済処方箋は「デフレ」促進を加速させたにすぎませんでしたし、

その過程で一般家計にさらなる打撃を与えるものでしかありませんでしたが、

それは、当時「インフレ」経済学しか語られず、

来るべき「デフレ」経済期へ向けられた「正しい」経済政策が

深く論じられるまでもなく、実験するにも事例数が少なく(戦前には

ありましたが、当時は高度国防国家志向で今以上に極端な「インフレ」をも

招きかねない非常に危うい国内状況での経済再建策でありました。

高橋是清などが提案実施された経済処方箋もついにその本意・本質が

理解されず悲劇的な結末を迎えたことは周知の事実であります。)、

戦後この方「右肩上がり」できたものですから、

「打ち方止め、他の道へ回れ!!」との思考回路もうまく働かずに

見事なまでに忘れ去られてしまっていたのでしょう。

それが、この「失われた20年」時代の歴史的教訓であります。

とはいえ、公平を期す視点からすると、

確かにこの「失われた20年」時代に大きな犠牲と代償を払いながらも

獲得されてきた知見が積み上がってきたのも事実です。

つまり、「実需」に連動させながら金融面・財政面における経済政策を

機動的に運営させなければ、ただ単に「バブル」を招くだけだという教訓です。

「では、どうすれば<バブル>とその崩壊を招かずに

<管理された>景気循環対応型経済政策が実施出来るのか?」

その問いこそが、今日本ならずとも世界中で厳しく問われている命題なのです。

この命題を「正しく」解くことで、

戦争回避策にも移民・難民政策へのより望ましい処方箋を描くことにも

つながります。

そういう意味では、「インフレ(経済過熱)」期と「デフレ(経済冷却)」期とでは

正反対の<双対>経済学の知恵が必要となります。

この<双対>経済学を数理経済学的視点から解き明かし、

政策提言もされてこられた経済学者に木下栄蔵先生がいます。

いわゆるバブル崩壊期から大不況突入期にちょっとした話題になった

宮崎義一博士による「複合不況」論よりも

シンプルでわかりやすいご提案ではないかと思います。

ご参考までに、『資本主義の限界』(扶桑社、2016年)

ここであわせてご紹介しておきますね。

どうやら、<バブル>崩壊に至る過程にも「正」の局面から入る場合と

「負」の局面から入る場合があるそうで、それぞれの場面展開によって

その後(バブル崩壊後)の処方箋(特に大切な視点は国民経済へ与える衝撃波が

より軽減されやすい方向への誘導論策ですね。)が大きく異なってくるとの

ご指摘は秀逸であります。

いわゆる日銀金融政策の「出口」戦略を日夜懸命に探っておられる

憂国の経済官僚の方には是非この本で示されたアイディアなども

ご参考にされながら、より良き路線を導いて頂きたく願います。

まさしく、今月から春先にかけてが「正念場」であるからです。

その意味でもプライマリーバランス(基礎的財政収支=均衡)論が

柔軟に軌道修正される方向にあることは

望ましく思いますし、是非もう一度ご検討願いたいのは

再増税の凍結(真の意味でデフレが脱却し、経済が超過熱化して増税しても

大丈夫だと思われる地点まで)も加味させた視点を

ご採用・ご決断されることであります。

この一手は憲法改正にも増して喫緊の検討課題であります。

「経済安定化策こそ最大の戦争回避策!!」だと確信しております。

そのためにも、『財務の<外>に立て!!(短期・制度会計的な損得勘定の

<内>側に立つのではなく、中長期的視野をもった未来・管理会計志向型の

<外>に立った経済財政政策を志向する政治姿勢のことを指す。)』との

視点がきわめて重要であります。

江戸幕末期は備中松山藩が生み出した賢人:山田方谷翁の

献策でもあります。

いい加減に「バブル依存症」から脱却して、

日本経済の質的転換を果たすべき時期でしょう。

「失われた20(数年)」を懸命に生き抜いてきた管理人のような

30代世代から眺めると、

今の日本経済を主導されている方々の意識が

「バブル時代」のイメージそのままに思えてきて見苦しいところが

あるのです。

また、「真に質的に高度な好循環型経済体制を回復させるには、

<撤退戦>の研究も必要です!!」

<撤退>とはいっても、将来の骨太な安定成長のためですから、

悲観的にも消極的にもなる必要などありません。

生産性上昇には、基礎研究・教育投資が欠かせません。

また、生活面での安心感を取り戻すより強力な制度的補完も必要でありましょう。

高等教育無償化や奨学金負担軽減の議論ももちろん有意義ではありますが、

すでに人工知能時代と生産年齢人口の減少を見越した

何度も強調ご提案させて頂いてきたベーシックインカム(最低限所得保障)制度の

試験的導入に関する本格的政策立案の検討に入って頂きたいものです。

もっとも上記制度導入を巡っては、従来からの勤勉・勤労観が

大激変することで招来される弊害論もかなり根強くあります

(「保守的」な気質傾向を持つ管理人の場合には強く信じてきましたし、

勉強会に通いながらも、なお独自視点で「心」の内面では悩んでおりますが、

古今東西の歴史的視点も加味して考察してくると、

必ずしも現実の社会・共産主義国家におけるような弊害が突出するような

悪事例ばかりでもなさそうです。とはいえ、

20世紀の想像を絶する過酷な思想的経済実験が

実際の史実にもたらした歴史的教訓を十二分に踏まえたうえで

導入に踏み切る必要がありますが・・・

このあたりは事例研究も含めて独自研究中ですので、

いずれ関連本ご紹介の機会などで再検討してみようと予定しています。)が、

そうした制度(基本的プラットフォーム)が構築・導入されたとしても

各人各様の経済(勤勉・勤労)「観」といった価値観は

もともと各人の気質に由来するものでありましょうから

あまり大きく揺れ動くことも考えられないでしょうし、

心配されるほどには甚大な悪影響を社会に与えるとも思われません。

制度導入前の現状を観察していても、

「怠ける人間はいくらでもいるだろうし、

真面目に勤勉・勤労に取り組む人間もいるだろうし、

働きアリがいなくなれば必然的にそれまでサボリ気味だったアリも

働き始めることになるという有名な<働きアリの法則>なんていうのも

あるようです!!」から、

管理人自身はこの点に関しては比較的「楽観論者」なのです。

皆さんのご意見はもちろん多種多様でしょうし、

尊重いたしますが・・・

この制度に関する皆さんのご意見をお寄せ頂ければ幸いですし、

大歓迎いたします。

それを叩き台により深く多種多様な方々のご意見に配慮した

実践的かつ有意義な議論を展開することが可能となりますし、

より政治的イデオロギーにとらわれ(過ぎること)ない

制度「案」を世にご提案することが叶いますし、

「公開型」討論・講演会などの企画実施へ向けたご参考資料と

することも叶いますので、

どうかお気軽に皆さんのお声と知恵を拝借願えれば幸いです。

関西では、前にもご紹介させて頂いた団体が

この制度に関する積極的な企画制作・運営をされていますので

お問い合わせ頂ければと思います。

もちろん当ブログ内に設けられたコメント欄をご活用して頂いても

構いません。

ただし、すべてのコメントにお応えさせて頂くことは叶いませんし、

悪質な荒らし予防や公序良俗を配慮した志向で当ブログを

運営させて頂いておりますので、

あくまでコメントは<承認制>という形態にさせて頂いています。

この点は何卒ご了承願います。

また実際のところ、ベーシックインカム制度で提供されるところの

毎月の最低限所得金額にもよりますが、

ここの微調整(もちろん、景気変動を機動的に調整し得る<変動型>を

採用させた場合です。<固定型>試案もありますが、

詳細は前にもご紹介させて頂きました

井上智洋先生のご著書が明快ですのでご推奨します。)次第で

なんとでもなることでしょう。

こればかりは、実際に導入した後の追跡調査も必要ですし、

あくまで楽観的な推測にしかすぎませんが・・・

大切なことは、明らかに弊害(失敗)策と思われる政策案でない限りは、

とりあえず実施前から悲観的になりすぎて、

大胆な制度導入とその後の柔軟な軌道修正ができ得る機会(余地)を

逃してしまわない視点が必要だということです。

現在はすでに永遠のベータ版思考(試作品(案)をとりあえず公開しながら

ともにより良き方向へと改善させながら協働していく未来経済型志向)の時代で

あり、そのような方向で社会は進化し続けています。

また、先程の憲法改正「案」について一言もの申すことをお許し願えれば、

柔軟な経済運営と景気調整への可能性を剥奪する「緊縮条項」の設定だけは

お取り下げ願いたいということであります。

現代「保守」政権はどうもこの「緊縮型」に拘りすぎるようです。

その意義を問い、その行く末を占う点では

すでに江戸期の尾張名古屋に時の政権が採用した経済政策への

反証事例もあるようですね。

徳川宗春公による経済政策の実例であります。

現政権が憲法改正にこだわれるのでしたらば、

まだ「国民投票」にまで時間がありますので、

最終「案」に至るまでに与党でも政府関連部局内でも

十二分な政策論争をして頂きたくお願いいたします。

もちろん、野党さんも言葉尻を捉えた足の引っ張り合いに

終始することなく、きちんと勉強して下さい。

そうでなければ、憲法改正「案」のいの一番に

国会議員のリコール制度の導入こそ国民から激しく突き上げられることでしょう。

そのような観点も含めて、

管理人自身は、アベノミクスが最終的に目指すところへ到達するための

諸政策のことごとくを否定するものではありませんが、

何せ誰が見ても(特に「持たざる」一般庶民層から見て)

「あまりにも時間がかかりすぎるのです!!」

「その間にも若者(現役生産=労働可能世代)の潜在能力が活用される機会が

刻一刻と失われていくからです!!」という視点は

是非お忘れ頂きたくない検討事項だということを強調させて頂くことにします。

そんな地方経済(人)の観点から分析された現行のアベノミクスの行方や

地方経済活性策(案)=地方創成の将来性なども年末最後のテーマに

地元経営者も数多く集まる某料理屋さんで

皆さんとともに大いに語り合っていました。

さすが、経営者さん。

皆さん本当に熱心で問題の本質を捉えられておられ、

さらによく勉強されています。

岐阜県・愛知県の方々は本当に優秀です。

今の「成長戦略」とやらでは、「地方創成」という割には、

大阪などの都会への集中投資路線が本音のところで、

力強く持続的な地方活性化にはほど遠いように思われます。

特に、ここ岐阜県は古来から「天下を制するところ」。

経済面でも要衝の地でありましたし、

優れた賢人を数多く輩出してきた地域だけに

この地域に住まう方々のご意見には脱帽するばかりです。

尾張・名古屋にも経済に精通された方々が多く見受けられましたが・・・

ということで、あまり遅くまで長居すると深酔いに嵌り込み、

皆さんにもご迷惑をおかけしますし、後の予定もありますので

名残惜しいですが、

「またのお越しを・・・」

「よいお年を・・・」

皆さんに温かく見守られながら早々と退散することになりました。

特に、阪神タイガースファンのおっちゃんへ

この場で一言重ね重ね御礼を。

「おおきに・・・」

中部地方にもタイガースファンが結構な割合で

潜んでいたとは・・・

「ドラゴンズファンの皆さん、ごめんね・・・」

さて、ゆとりある食事時間を取りたかったので、

先に大垣駅についた際にホテルへチェックインしておきました。

大垣駅前のアパホテルさんです。

駅前でアクセスがよく、値段もリーズナブル。

アパ会員でネット予約だとさらにお得になります。

ちょうど「アパカレーのプレゼントキャンペーン期間中!!」でしたから、

連泊分頂戴いたしました。

ここのアパホテルは、浴場も売りです。

朝食もバイキング形式でおいしく、

連泊かつ部屋掃除節約に強力すると

ここでもミネラルワター1本プレゼントされました。

「ありがたや、ありがたや・・・」

ライバルの「ロハス(地球環境に優しい生活)志向」が

売りのスーパーホテルさんにも似たようなサービスがありましたが、

今回はアパホテルさん贔屓になっていますが、

スーパーホテルさんも大垣駅前にありますから、

アパホテルさんが万が一「満員御礼」の時もひと安心できます。

他にも皆さんお好みの宿泊先があるかと思いますが・・・

この日は明日の長期歩行と雨(雪)模様が心配されたので、

早めに就寝することになりました。

<平成27(2017)年12月31日>

①早朝4時過ぎ起床。

かなり呑んで興奮も冷めやらず、日頃の仕事疲れが残っているにもかかわらず、

この日は早朝4時過ぎに目が覚め、酔い覚ましと朝食をうまくするために

朝風呂を済ませます。

少しは酔いは醒めましたが、

この日の一番の心配事はお天道様のご機嫌という次第。

朝から雨まじりの雪がちらつき始めていたからです。

このあたりの天候は古来から激変しやすいとは知っていましたし、

伊吹山・関ヶ原地方の積雪の多さは有名ですしね。

この日のメインイベントは、前にもご紹介させて頂いた

昨年10月の関ヶ原イベントでは

十二分に歩ききれなかった領域を散策する予定であり、

旧中山道から旧垂井宿(現JR垂井駅)周辺の南宮大社まで

長期歩行するコース予定を組んでいたからです。

朝食を済ませ8時過ぎに出発。

まずは、JRで関ヶ原駅まで。

9時ちょっと前か過ぎ頃に到着。

関ヶ原全体の散策コースは、「東海自然歩道」の一部コース区間も

含まれているようです。

(ご参考までにこちらのサイトをご紹介しておきますね。)

さて、JRではおよそ20~30分以内程度の区間ですが、

後ほど語らせて頂きますが、

この区間を歩くとなるとかなりの距離感と時間がかかりました。

関ヶ原散策コース案につきましては、昨年のイベント時における

駅前の観光案内所を兼ね備えた関ヶ原駅前観光交流館」が

年末年始は休館日だと教えて頂いていましたので、

この時にすべての関連パンフレット類を持ち帰っておいたことが

役立ちました。

ちなみに、ここには『関ヶ原7武将ウォーキングガイドマップ』

揃っております。

・徳川家康

・黒田長政

・福島正則

・小早川秀秋

・石田三成

・大谷吉継

・島津義弘

で「7武将」です。

ちなみに、かの剣豪宮本武蔵君は関ヶ原合戦当時は、

東軍に属した黒田長政に仕えていたそうですが、

数多くのドラマや映画などで活写されているように

武蔵君自身が関ヶ原の最前線真っ只中にいたのかどうかは

諸説あるようですが、あまり確実なことはわからないようですね。

あくまで管理人が調べた範囲でのことですが・・・

もし、いたことを仮定してのことですが、

管理人もこの最前線激戦地から島津義弘公の敵中突破感とともに

この武蔵君の逃亡ルートを想像(妄想??)しながら歩いてはみたのですが、

逃避行ルートがどこからだったのかも問題にはなりますが、

まっすぐに旧中山道ルートへ出ようとしても

島津氏同様に敵・味方大混戦のさ中ですし、

かなりの確率で逃げ切ることは困難でしょう。

ドラマや映画では、その辺の草むらなどに死んだふりをして

隠れ潜んでいたかのような描写が主流ですが、

「う~ん、なんだかなぁ・・・」というところが

正直な実感でありました。

何せ、数が多すぎるのですよ。

そのよく分からぬ状況の下で、

そのスキを突いて抜け出るにせよ、

安心出来るルートなどおよそ考えられないような

厳しい状況が実際の戦場における実態でありましょう。

武蔵君の場合は、あくまで「兵法家」の道をその後辿ったことを

考えると、もしかすると、何らかの「忍び役」として

この窮地を脱したのかもしれませんが・・・

「やはり謎だらけ」です。

話題を転じます。

ところで、やはり行き当たりばったりの旅も楽しいですが、

すでに次回の旅テーマが出来ている時には

念入りな事前準備も大切ですね。

休館日には、外のパンフレット類が備え付けられている棚からも

パンフレット類が撤去されていたので、

「次回来た時にでも休館日とはいえ、

外のどこかに備え付けられているやろうから、

今日は荷物になるし、持ち帰らんでもええやろ・・・」という

甘い観測をその時点で打ち消しておいたことは

見事な「正解」であったようです。

もっとも、この交流館以外でもどこかの施設や地元の方が

パンフレット類が置かれている場所を教えて下さるかもしれませんが、

極力、<観光者>という「諸国一見の僧(ワキ)」ならぬ

<よそ者>が地元の方にご迷惑をおかけするわけにはまいりません。

これも旅人のエチケットでしょう。

ということで、前回は東軍最終陣地跡から石田三成・島左近陣地あたりしか

歩き回ることが叶わず(何と言っても前にも触れましたように

同行者の方の手前もありましたし、講演会イベントもありましたので、

時間と経済上の理由から十二分に巡れなかったのです。)、

昼過ぎにはすぐにも大垣方面へ向かいましたが、

今回はたっぷりと1人の時間を組み込んでいます。

個人的には旅先で「同好者」とご一緒に様々なことを語り合いながら、

楽しく旅回りをすることもいいのですが、

紀行文の素材探しが今回の主題でもありましたから、

今回は独り身を貫き通します。(意地でも、笑。)

歴女さんとの出会いの誘惑も完全に振り切ります。(笑)

さて、今回は昨年のイベントにおけるメインテーマが

島津義弘公であり、今年のNHK大河ドラマが『西郷どん』だからと

いうわけではないのですが、どうも最近この島津氏の由来や

経済観、信仰観などに多大な興味関心があるわけです。

そんなわけでまずは島津義弘公の陣地跡へ向かいます。

すると、そこには「神明神社」という名のお社が鎮座しているのですが、

ちょうど年末年始にかけての大晦日・初詣向けの事前準備のためか

地元の方が忙しく立ち回っておられ、

お邪魔することも憚りがありましたのでそのまま通り過ぎ、

裏側にある小西行長陣地跡から宇喜多秀家陣地跡を通り抜け、

大谷吉継陣地跡とお墓詣りに伺おうと事前には予定していたのですが、

どうもこの頃雨まじりの雪もいっそう激しくなり行く手を拒まれているようで、

「まだ来るには早いぞ、おぬしは!!」と言われているようで

今回は断念することに。

ということで、小早川秀秋陣地跡のある松尾山を目指すことに。

「壬申の乱」に関する史跡巡りも兼ねていたのですが、

不破の関跡周辺巡りは後回しにします。

何せ雨や雪は少しおさまりつつあり、

太陽も少し照り出し始めましたが、雲行きは相変わらず怪しいですし、

山の天候は変わりやすいですから・・・

先を急いで、JRが下を走る歩道橋と道路を渡りながら

「松尾」の標識ある交差点に出ます。

そこから少し右向きの小道を行くと旧中山道に出て、

「不破の関」跡地へ出ますが、

先を急いでいますので、そのまま道をまっすぐに進みます。

途中、福島正則陣地跡のある春日神社の横に出ますが、そのまま新幹線高架下を

目指して、まっしぐらに進みます。

と、新幹線高架下に立ち至ると誘惑が・・・

急スピードで駆け抜けてゆく新幹線の先頭・後尾を

きちんと正確に写真におさめられるかという

子供(遊び)心が急に湧いてきたのでした。

何度かは失敗を重ねましたが、

意外にも新幹線の上下線ともの走行時間間隔が短く

(およそ10~15分くらいの間隔だったような気がします。)

何とかばっちりと撮影することが叶いました。

IMGP0933 IMGP0942

その高架下を抜けると、すぐ右手に「井上神社」

天武天皇ゆかりの神社です。

拝殿撮影は畏れ多いですので、碑文をどうぞ。

IMGP0944

ここも準備中でしたが、先程の「神明神社」ほどの

せわしさはなかったため、じっくりと旅の「道中祈願」をしつつ、

「天下泰平」も祈願しておきました。

そのまままっすぐ歩くと名神高速と川が見えてきます。

この川は夏場は蛍が飛び交う絶景スポットのようですよ。

もしかしたら、新幹線を背景に蛍が飛び交うシーンを

撮影出来るかもしれません。

かなり高度な技法と技が問われそうですが・・・

IMGP0946

名神高速も間近に見えています。

IMGP0945

ちなみに、高架下をくぐり抜けた直後の反対側から撮影した新幹線が

こちらの写真です。

個人的にはこちらの方が伊吹山を背景としているために好きですね。

IMGP0954 IMGP0950

ここまで来ると、もう目の前に松尾山の登山口が見えてきます。

そのまま登山口から上っていくと、

登山道は「東海自然歩道」も兼ねているためか

かなり整備はされていますが、

曲がりくねった道なりが目指す山頂(陣地跡)まで続きます。

途中から積雪量も増えてきており、道も滑りやすくなってきましたので、

慎重に歩を進めることにします。

道中、1人だけ男性に出会ったくらいで他には誰もいません。

山頂に近づくにつれて積雪量もさらに増し、

標識は明確でも道ははっきりしません。

先の男性か他の方のかは知りませんが、

かなりの足跡がついており

はっきりと目指すべき方向性が刻みつけられていましたので、

それを信じて前進します。

するとおよそ1時間程度で山頂に着きました。

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IMGP0966

ちょうどお昼になったところなので、

少しだけ軽食をとることに。

ここから見る伊吹山系と眼下真正面に翻る石田三成陣地跡方面は

絶景でしたが、ふとこの時あることに気付きます。

小早川勢が鉄砲や大砲類を大量に浴びせかけられて、

山を馬で駆け下りたというのが

よくある時代劇でのシーンですが、

はたしてそんなことが出来たのかという謎です。

山を陣地とする場合には、

馬乗り場は確かに山麓の登山口間近にあったものと推測されますが、

陣地からその場所まで駆け下りるにせよ、

いくら百戦錬磨の将兵といえども歩いても

およそ1時間くらいの距離ですから、相当な時間がかかったでしょう。

むしろ、そうした地の利を活かしながら時間を稼ぐことで

絶対安全圏に身を置き決戦の行く末を見守っていた様子も

リアルに見えてきます。

さて、ちょっとした軽食休憩もつかの間、

トイレ休憩も済ませると(ちなみにこの松尾山も「東海自然歩道」の

一部コース区間の途上にあり、このトイレ脇の背後から

その道が続いているようでした。)、この絶景とも名残惜しくもお別れの時が来ます。

深い積雪量に覆い被された登山道(とはいえ、先客の足跡で助かりました!!)を

足を滑らさないよう注意しながら、少しずつ下山を開始。

途中の『山の神』様が鎮座まします祠に道中祈願と日頃の感謝の御礼も済ませつつ、

さらに高度を下げていくと、やがて登山口に到着します。

(とはいえ、この『山の神』様にお詣りする前の分岐点でちょっとしたハプニングに

襲われます。標識は明確だったにもかかわらず、深い積雪量のためか

少し道を外れてしまい危うく迷い込むところもありました。

やはり、このような標識と足跡が明確に残されているような比較的「低山」に

分類される山でも冬山は怖いものです。特に1人の時はなおさら用心に

用心を重ねるに越したことはありません。皆さんも「低山徘徊」だからといって

油断されなきよう十二分にご注意下さいませ。

②午後13時頃。

もと来た道を名神高速道高架下~井上神社~新幹線高架下を抜け、

まっすぐに旧中山道の分岐地点まで戻り左側へ入っていきます。

途中の新幹線高架下を抜けてもう少し先へ行った旧中山道へ抜けるまでの

道中から眺めた松尾山方面の写真がこちら。

IMGP0967

やがて突き当たりの分岐点から旧中山道を「関西」側へ歩いていくと

先に取り残しておいた「不破の関」跡地へ到着します。

分岐点から「不破の関」跡地まではおよそ10分ほど。

裏側から説明案内文のある庭園に入ることも出来ます。

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この時にちょうど太陽が大きく光を差し込む光景に遭遇。

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まるで、黒岩重吾氏の小説『天の川の太陽』に

ぴったしの光景が展開されたかのようです。

もっとも管理人などは、かの高貴な方(大海人皇子=天武天皇)とは

まったく身分も異なる下賤の身であり、

誠に畏れ多きことではありますが・・・。

ただ、謡曲『国栖』における漁師のように

高貴な方をお迎えする感覚で日輪を仰いでいただけなのです。

ちなみに黒岩氏は、この小説で吉川英治文学賞を受賞されたのですね。

管理人は、母方の祖父の影響なのか

長谷川伸吉川英治山岡荘八氏の歴史文学系譜に

特に好意を寄せてきました。

この系譜には、先人に対する深い愛着と鎮魂観を感じるからです。

まさに『我以外みな我が師』(吉川英治氏)にも通ずる

過酷な歴史を生きた先人に対する謙虚さが見られるからですね。

それはさておき、この『不破の関』跡地から少し上がった台地に

トイレ休憩施設と『不破関資料館』が併設されているのですが、

もちろん年末年始とあってここも休館中。

ところで、『関ヶ原』古戦場跡地と言えば、

一般的には昨年公開された映画『関ヶ原』における

戦史実だけがよく知られていますが、

実は『壬申の乱』や『青野ヶ原決戦』を始めとした

数多くの事跡もこの地には残されていることは

あまり知られていないようです。

管理人自身は、かなりマニアックな歴史愛好者でもありますから、

むしろもう一つの『関ヶ原』を考えてきました。

また特に最近は戦争遺跡や霊場巡りなどをしきりにしているためか、

その地に深く染み込んだ慟哭の声に耳を傾けることで

鎮魂巡礼の旅をライフワークとしても続けています。

そうした取り組みを積極的にしてくると、

戦争とは本当に過酷なものであり、

何ら良い結果を招くものではない無駄な公共事業の最たる事例だと

いうことも見えてきます。

人と人の「輪(和)」や「間」を引き裂き、

愛するもの同士でさえ、互いに身が引き裂かれることになります。

また、敵対関係に入った由来を探っても

もとはと言えば、

ごくごく些細なボタンの掛け違いや誤解から始まることが

ほとんどです。

誤解をとくための「対話」というのも本当に難しい作業です。

人間の感情の起伏とは天気のようにコロコロ変わるもので

「昨日の味方は今日の敵(逆もまたしかり)」ということが

生きていると頻りに起きてきます。

管理人自身に対する戒めでもありますが、

普段の日常生活では自分はあたかも常に「善人」であるかのように

振る舞っていますが、内心の奥深いところを深く内省(観)していくと、

そこには黒々と渦巻く漆黒の闇の領域に立ち至ります。

何を言いたいかと申しますと、

普段は、この無意識の領域に巣くっている悪感情を誘発させる

暗黒エネルギーに気付くことがほとんどなきに等しく、

気付いてもそれを意識的に抑制する知恵と工夫が足りないという

この一点に皆さんにも是非自らに問うて頂くきっかけとして

今回は「戦争の爪痕から人間の本質・根幹の心を考える」ことも

主題に語らせて頂いているということです。

そこで、こうした「敵・味方」の関係を生み出す原理を

いかに超克していくか、そして後々にまでその時に生み出された

悪感情を清算していくか、言葉では簡単に言い尽くすこともできず、

実際場面でもきわめて困難な道のりではありますが、

そんな時にこそ、次の言葉を是非記憶の奥底に留め置いて頂きたいのです。

『怨親平等』です。

またの名を『恩讐の彼方』と言います。

こちらがそんな大切なことに気付かせてくれる掲示板です。

IMGP0929

今現在も世界中で争いの要因が至るところに蔓延っていますが、

こうした人間の心に深く閉ざされた悪感情は

むしろ普段「善人」だと深く信じ思い込んでいる人にこそ、

何かの拍子に「爆発」してくるものなのです。

管理人自身が陽明学を学んでいる趣旨も

自分自身の内面にも巣くうこうした「悪」感情と

冷静に対峙する習慣を深く体認・体得していくことで

己の人間的弱さときちんと向き合いたいと思うからです。

今世間でも大流行中の

「アンガー・マネジメント(怒りの抑制管理法)」としても

陽明学的手法に限りませんが、こうした内省・内観技法は

学んでおいて損はないでしょう。

我が師匠も「そもそも自分自身が<善人>だと深く信じ思い込んでいるようであれば、

陽明学であろうと仏教を始めとする数々の修身修養だろうと

そうした教えの中から知恵と工夫を学び取ろうとする強い動機付けも

出会いのきっかけをつかむこともないだろう・・・(大意)」と

強く強調されていたのが印象的でした。

そんな『怨親平等』思想を深く体認・体得する重要性を

あらためて気付かせてくれたのが、

ここに掲げてあった看板でした。

③それでは、重たい話題からいったん離れましょう。

この「不破の関」跡地に沿って走る旧中山道から再び「松尾」の交差点に出て、

国道21号線沿いを「関ヶ原駅」方面へまっすぐ進んでいきます。

このあたりまでですでに14時過ぎになっていました。

本来は事前に予定していたいわゆる「島津の退き口」ルートで

最短コースの島津豊久公の奮戦地である「烏頭坂」あたりまでは

歩いてみたいと思って、途中に関ヶ原マーブルクラフトさんにも

立ち寄りながら、大理石彫刻などを眺めながらしばし「一服」をしようとも

考えていたのですが、そこまで至って「本日休館」の掲示板に遭遇。

また雨まじりの雪も降り出しつつあり、

その日の行動予定では旧中山道を途中の「南宮大社」参詣も含めて

JR垂井駅まで歩く計画でしたのでとりあえず断念することになりました。

この時すでに14時半すぎ。

このペースで途中の名所をじっくりと散策しながら

歩いていくとなると16時~16時半頃にはJR垂井駅に辿り着くはず・・・

国道21号線の交差点分岐地点まで戻り、そこからずっと道なりに進みます。

途中、徳川家康の最初本陣地でもあり壬申の乱における史跡でもある

「桃配山」を通り抜けていくうちに腹がへってきました。

そこからもう少し行った先に「うどん・そば」という暖簾が掛かった

定食屋を発見。

店の名前は、やまびこ路

車も少し止まっていたので「ここはいけそうかな・・・」と

思いながらも節約はしたかったのですが、

「腹がへっては戦も出来ぬ!!」という体の虫の声に負けて

暖簾をくぐります。

鍋焼きうどん定食を注文。

ここで面白いことに注文時におばさんが、

「出汁は関西風にされますか?、それとも関東風にされますか?」

聞かれましたが、

もちろん、「関西風でお願いします!!」の一言。

「そうだ、関ヶ原とは<関西と関東のはざま(関所)>だった!!」と

うなずく管理人でした。

この時すでに時間も15時すぎ。

「大丈夫かいな・・・」と雨模様の外の様子も眺めながら

少し心配にもなってきました。

(もちろん雨具は持参していましたが、傘やカッパを着て

歩くのも面倒くさいですしね。)

さて、食事を済ませると、

そのまま国道21号線をまっすぐに歩き続けます。

途中、壬申の乱史跡である「野上行宮」跡地や

謡曲『班女』でも有名な「班女の観音堂」などにも立ち寄りつつ、

ひたすら「南宮大社」へ向けて少し小走りに駆け抜けます。

その途中の「班女の観音堂」がこちら。

IMGP0968 IMGP0969

この時はすでに雨も止みつつあったのですが・・・

雲行きはいぜん怪しいままでした。

ついに16時過ぎ頃、「南宮大社」へ到着。

この「南宮大社」まで辿り着くのが結構な時間がかかったことと

距離感があったことから振り返って考えると

関ヶ原合戦において毛利一族が陣を敷いたとされる南宮山は

かなり広大な領域にわたる面積だったようで、

最前線からの距離感で言うと、

ほとんど戦場離脱とまで言える位置からすると、

毛利氏はもはやまったく参戦する気がなかったように思われます。

長曽我部氏に至ると、ほとんどの歴史作家が認めるように

ほぼ確実だったのではないかと思われてきます。

とはいえ、実際の戦場における「傍観・日和見」戦術・戦略が

間違っているというわけでもなく、

長曽我部氏ほかの名誉を毀損する趣旨で言及しているわけではありません。

ご子孫の方々の名誉もあって、念のために言い添えておきます。

ある意味で「局外中立」という不戦の意思を強く示すことも

武人としては賢く正しい作戦だからです。

兵法三十六計にも「逃げるに如かず!!」とありますから・・・

問題は、今も昔も「面子(大義名分)」の壁であります。

管理人がしばしば非(避)戦論(「反」戦論ではない。なぜなら、

「反」戦論の立場に強く立てば立つほど、物理学的な作用・反作用の法則が

強く働くために、かえって戦を誘発してしまうものと考えるからです。

あるいは「宥和」政策の弊害も招き寄せることにもつながりかねません。)を

強く唱えさせて頂いている本旨もこのあたりの問題意識にあります。

管理人が推察するところでは、

この「傍観・日和見・局外中立」戦術・戦略とは決して「非武装中立」ではなく、

「武装中立」の立場に立つということでもあります。

少なくとも相手に武力攻撃の口実を決して与えないという

重要な意味がこうした戦術・戦略には込められていたのではないかと

推測する次第です。

各大名の「本心」は知るよしもありませんが・・・

いずれにせよ、戦を回避するに越したことはありません。

そんなことを思索しつつ、この「関ヶ原」の地を巡回していると

従来の戦争観や平和観に対する認識像をあらためて再考させてくれた

気づきの旅となり得たようです。

また1つ体感的知恵が獲得されました。

やはり実際に戦場となった場所などに行ってみないと

実感できないことも多いということです。

昨今は、ブラタモリなどの地形学習も人気があるそうですから、

皆さんも旅行に行かれる際には、

ご自身の旅テーマを事前に決められたうえで

お出かけされることをお薦めいたします。

これこそがまさしく「生きた<生涯>学習」であります。

その「南宮山」をご神体に据えてきた「南宮大社」をご参拝したら、

時間はもうすでに17時前にもなろうとしていたので、

JR垂井駅へ直行します。

垂井町あたりも多くの外国人観光客で賑わっていましたよ。

ちなみに、『垂井町観光協会』のサイトはこちらをご参照下さいませ。

④17時過ぎ。JR垂井駅到着。

とりあえずこの日は長距離歩き、

さらに晩から翌日にかけて雨もしくは雪模様になるとも聞いており、

翌日へ向けた余力も残しておこうと早めに宿泊地である大垣へ

戻ることにします。

この日は節約のため「外食禁止」令を自身に布告。

ホテルに着いてすぐにベッドへ潜り込み、少し仮眠をとります。

起きたらすぐに風呂へ直行。

部屋に戻り、一服がてらテレビのチャンネルを回していると、

なんとテレビドラマ『五稜郭』が放映されているではありませんか。

この映画自体は、過去にも何度か見たことがあるのですが、

やはり「万国公法(今で言うところの国際法)」の遵守の重要性が

明確に描き出されていたことと

個人的に「自国の政体のあり方は自国民の独力で決める!!」とする

いわゆる<民族自決権>の重要性が力強く描き出されていたことに

管理人自身がそこそこの高い評価が与えられる作品に

仕上げられているのではないかと査定いたしました。

また、国内戦(国内における民心分裂)が諸外国の干渉を

招き寄せる原因となりかねないことと

前途有望な特に若者たちが犠牲にされることによって、

国力も疲弊し、その後の発展も遅れることなど

様々な弊害が戦乱によって生み出されることなどの

教訓を学び取ることが出来ます。

また、伊庭八郎氏かほかの誰かのセリフだったか

近現代戦になると、科学技術と兵器の高度化によって

「もはやこれからの戦は人間の戦ではない!!」ということも

強く印象深いセリフとして心に残りました。

私たち現代日本人の戦争観は未だに第二次世界大戦時のイメージ像が

根強く印象づけられてしまっていますが、

もはや先の大戦以前であれ以後であれ、

私たちはこのような急速な戦争の現代(高度)化の中で

日々過ごしていることは案外忘却、見過ごされているように思われます。

特に若くして湾岸戦争などをテレビなどで見た世代だと

その実感がより鮮明にわかろうはずなのに、

イマイチその実感に乏しくかえって不必要な争いを誘発させる

言動などが頻りに巷を飛び交っているのも気にかかるところです。

これも真の意味で学校教育の現場で客観的・公平中立な視点で

相互の立場をバランスよく批評しあうような形での

「戦争と平和」論が語られてこなかったからではないか。

また、昨今の巧妙なオンラインゲームなどにおける戦争ゲームの

情動洗脳効果も侮れません。

やはり映像だけに依存し過ぎると

「もの」を次第に考えられなくさせられるようです。

その意味では、近未来の視聴覚教材を駆使したデジタル教育における

教育的配慮も深く再考し直すべき時期なのかもしれませんね。

⑤24時過ぎ。

映画も終わり、年越しの映像が出始めたので、

管理人も地元の神社詣でをしながら酔い覚ましと現地フィールドワークへ

再び出発。

昨日、地元の方に教えて頂いていた貴船神社や八幡神社、

大垣城公園内に鎮座する常磐神社の三箇所巡り。

特に常磐神社のボランティアガイドの方には

地元の経済・産業史を詳しくご教示頂きました。

この地域はかつて紡績業などが盛んでかなりの賑やかさがあったと

いいます。

(こちらが、ご参考サイトです。)

そのためか今でもそうした地域にゆかりの

各種遊興施設(飲屋街など)が当時の面影を残しているようです。

また当初は美濃赤坂方面にも行く予定だったのですが、

時間と電車の本数があまりにも少ないということで断念。

この地域には大理石などの鉱山・採取場が今も現役稼働中。

「金生山」と名づけられた山もあり

いかにも鉱石がごろごろ出てきそうです。

調べた範囲でのイメージ像では、京都洛北の鞍馬寺の背景をなす

山々の地質と似通っていそうです。

この鞍馬山にも「金星」伝説がありますしね。

連想・類推ゲームは面白いものです。

この山の近くには、虚空蔵詣りで有名な『金生山 明星輪寺』もあります。

(ちなみに、こちらのサイトが参考になります。)

東海自然歩道」もこの近くを垂井方面から続いているようで、

青墓方面など歴史愛好者などには垂涎の的である散策コースもあります。

レンタサイクルも借りられるようですよ。

謡曲『朝長』にゆかりのある場所であります。

ともあれ、この日も「天下泰平」祈願。

「万国の同朋がみな無事息災で幸せでありますようにとともに

日頃の感謝と本年もどうか安心して楽しく過ごせますように・・・」と。

ガイドの方と談笑しているうちにもすでに26時前。

翌日は岐阜城(金華山)登城が控えています。

ホテルにかえって直ちに就寝。

<平成30(2018)年1月1日(元旦)>

①7時半過ぎに起床。

前日はかなりの距離を歩き巡ったので若干程度疲れ気味でしたが、

朝食の時間もありますので早めに目が覚めました。

朝食を済ますとすでに9時前。

すみやかにチェックアウトを済ませます。

JR大垣駅はすぐそばですし、過去にも訪れたことがある地なので

時刻表と観光案内のパンフレット類などはすでに事前完備済み。

ですから、それほど不慣れな場所でもなくスムーズに出発することが

叶いました。

本日は岐阜とともに熱田~名古屋方面へのスケジュール予定。

JR岐阜駅まではおよそ2~3駅ほどであり、

30分内外で十分に到達できる距離感です。

9時40分過ぎ頃、JR岐阜駅に到着。

駅に到着すると、外には黄金の織田信長公の像が立っているのが見えます。

IMGP0970

はるかに金華山上にそびえ立つ岐阜城の天守閣も見えています。

3年ほど前に訪れた際には岐阜駅はただ通り過ぎるだけの旅程でしたし、

町中にもちらほらと雪が舞い散っていた様子でしたが、

今回は朝から晴天でした。

管理人はまず知らない土地に降り立った際に

まず最初に行く場所があります。

観光案内所です。

岐阜市観光案内所は改札口を降りてすぐ見渡せる領域にありますので

すぐにわかりました。

本日手始めの行き先はもちろん金華山岐阜城です。

駅前からバスが出ており、およそ15分ほどで到着します。

たいていの観光施設、城跡なども年末年始はお休みが多いところが

普通ですが、ここ岐阜城だけは別世界。

幼い頃から城跡巡りが好きだった管理人ですが、

さすがに元旦に登城するのはこれが初めての体験でした。

さすがは織田信長公のお膝元です。

楽市・楽座の精神にはお休みがなく商売熱心ですね。

元旦気分のためか平常時のルンルン気分よりも少し緊張気味。

とはいえ、この地域を直接歩き回るのは初体験とはいうものの

昨年度末にたまたま『ブラタモリ』さんもこの地域をロケされており

岐阜城周辺をかなり詳細に探索調査されていた様子を見ていたことも

あってひとまずひと安心。

バスで岐阜城前に到着すると、すでに人だかりのご様子。

IMGP0971

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(金華山山頂に孤高の姿でそびえ立つ岐阜城天守閣を

真下から見上げながら撮影した写真ですが、

あまりにも小さくて見えづらいですね。スミマセン。

ほんの点のようなお姿になっていますが、

よく目を凝らして眺めて頂けるとおわかり頂けるかと・・・)

途中の通過地点にある井奈波神社も大変な数の参拝客で賑わっていたようです。

さて、これから岐阜城に登城するわけですが、ロープーウェイコースと

登山散策ルートを辿るコースがあります。

ちなみに、ロープーウェイは往復でかなりの高額料金

あくまでこの日の管理人のお財布状況ですが・・・

「この料金を節約した分、あとで地元名産の旨いものを食らおう・・・」

その目的意識がこれからはるか山頂にそびえたつ岐阜城へ登城していく

徒労感を圧倒し鼓舞してくれたようです。

この日も節約ムードでしたし、元旦から登山も乙な興趣が味わえますから

迷わず登山口へまっしぐらに向かいます。

ふとここであるものが目に入りました。

登山口へ向かう途中の織田信長公居館跡地前あたりに

ある方の像がこちらを見つめていたので思わず「はっ」として

「いちおうご挨拶しとかねば・・・」ということで近づけば、

何とそこには板垣退助さんがおられるではありませんか。

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『板垣死すとも自由は死せず』

明治の薩長藩閥政府主導の「有司」専制政治に物申した

自由民権運動の指導者である土佐人です。

今年はちょうど明治150年。

とはいえ、世間で賑わっている歴史観は

あいかわらず薩長藩閥政府寄りの見方が主流であります。

そこで皆さんにも「もう1つの明治150年」を知って頂きたく

ここでご紹介させて頂きました。

上記の名言やエピソードはどうやら後から創作された要素も

あるそうですが、見習いたいのは彼の「心意気」でありましょう。

それでは、なぜこの地に彼の像が建立されたのかでありますが、

ここ現岐阜公園内にあった演説会場からの帰り際に暴漢に襲われた

いわゆる岐阜事件の舞台地だったからですね。

今、時代は急速に幕末から新しい「ご一新」を目指した明治維新政府へと

移行していった時のような内外状況に酷似してきています。

そうした厳しい情勢の時にはどうしても「強い」政府が求められる

傾向となります。

そうした志向性自体は国民・国家を確実に守りきり、

皆が安心して暮らしていける理想社会を創り上げるための

「求心力」としては必要不可欠なものでもあります。

とはいえ、拙速な政府主導型で進められていくと、

あの明治期のように国民への過大な重圧感が生み出されてしまいます。

「もともと独立を守るということはそのようなことを意味するのだ!!」と

「有司(エリート階層)」に属される方なら当然のごとく思われるのでしょうが、

国民不在のままで政府内のそれも特殊な政策集団の意見だけで突っ走っていくと

やがて「破滅」的事態を迎えることにもなりましょう。

憲法改正がこれから大きな政治的課題となっていく中で、

やがて国民投票の機会も訪れることでしょう。

そうした流れの中で憲法改正に賛成するも反対するも

もう一度明治「近代」国家が最終的にもたらした歴史的帰結と教訓とともに

日本型民主主義の原点となる発想とは何だったのかについても

国民各層での自由闊達な議論を巻き起こしていく時期に当たります。

公議政体論も公議「輿(世<せ>ではない)<よ>」論も

実にここにこそその本質があるわけです。

そうした文脈の流れからする意義・位置づけとして

この「岐阜事件」が当時の世間(世相)へ投げかけた呼びかけも

理解する必要があります。

先に日本型民主主義の原点と語りましたが、

日本国憲法を単に「押しつけ」論の領域だけに偏って考えるばかりではなく、

古代は聖徳太子の『十七条憲法』の精神、天武天皇が「律令」体制を

整備されていかれる過程で問いかけられた「原点」にある

政治思想・理念(のちに藤原氏などによって

その本来のご精神の中核像が著しく歪められていったのが

現実の日本史でしたが・・・

この時に根強い土着勢力が残存していたならば、その後の日本史も

大幅に変わっていたでしょうし、日本型民主主義ももっと早くに

成熟し得たことでしょう。「西欧」型以外の「公議」政体として・・・)や

『五ヵ条のご誓文』などで国民へ向けられた<進取の精神>や

<独立心>を養おうとする気概を促す「心」こそ

今私たちによる民主主義を成熟させていく意思を強く持つうえでも

是非とも共有しておかなくてはならない<歴史的視点>でありましょう。

そのような系譜上に現代「民本」思想の源流ともつながる

江戸期(特に幕末期)に活躍した数多くの思想家や政治活動家が

編み出してきた「草莽」思想も位置づけ直さなくてはならないでしょう。

この「草莽(草の根・いわば雑草魂)」とは

俗に解釈されるような極端なテロ行為などを促す思想とは

まったく異なります。

あくまでその説かれるところの「心」を深く読み解かなくては

江戸幕末期における志士の本当の「心意気」を深く実感も出来ませんし、

理解も進みません。

かなり誤解されている思想で残念に思われます。

ところで、そうした視点を共有することは同時に

現代における特定の政治文脈的価値観に偏向することなく、

古代から連綿と続いてきた

私たちのご先祖様が心の底から願っていた理想像へと接近するような

形態での社会(昔の人は<社稷>と表現)再生像でもあります。

それはまた同時に「日本」という国が

どのように形成されていったかを探究することでもあります。

古代日本は、世界各地から渡り来たった方々と

もともとこの地に住み着いていた原住民との激しい攻防の中で

雑種混合しながら建国されていったことが実際の史実だったことも

今こそ想起しなければなりません。

ある意味で聖徳太子『十七条憲法』の第1条『和をもって尊しとなす』は

このような当時の大混乱があったことを大前提に成立した思想だからです。

最初から「和」あるいは「大和」と誰もが言祝げる状況にはなかったのです。

そういう観点で現行の日本国憲法の位置づけを考えると、

世界規模での「大和」を目指すきわめて崇高な理念を志向したものと

読み取ることも決して「戯言」とまでは申せないのではないでしょうか?

管理人は、どちらかというとこれまで「改憲」論の立場に偏向した見方に

数多く触れる機会が数多くあり、「護憲」論に立つ方でさえ、

戦後(明治維新政府後も含めた)の

特殊な「閉ざされた言語空間」的思考法に誘導されてきたことも

独力で学んできた過程で知ることが出来ました。

つまり、現在の改憲論・護憲論双方ともに

「こりゃ、ダメだ!!、まったく話が通じないなぁ~」という地点へと

やっとこさ辿り着きました。

「改憲論に立つ保守の論客もまったく『大和』の建国理念が

体認・体得出来ていないのではないか・・・」

最近はかなり絶望感・徒労感に襲われるのです。

そうした哲学的思考の軌跡上で

『大和』を創り上げる主体は日本人のみならず世界中のすべての人々の

相互協力が必要不可欠だとの悟りに達しました。

確かに現状を放置(軽視・無視)したままで、

現行憲法をあくまで表面上「金科玉条(不磨の大典)」として

擁護し続ける姿勢だけでは「壮大な欺瞞の体系」を保持し続ける弊害もあり

次世代や未来に禍根を残すことにもつながりかねません。

とはいえ、この憲法の本旨は実は「国際協調の精神」にこそある

最近は理解が深められてきているようでもあります。

少なくとも良心的な国際法学者や国際政治学者の到達地点ではありますが・・・

むしろ国内の憲法学者の硬直した姿勢の方が大いに問題があるそうです。

私たちはもはや近現代的特殊な時空間の流れの中で

政治的に形成されてきた左右イデオロギー的対立軸思考から

脱却しなくてはなりません。

そんなことを悟らせて頂いた優れた作家の1人に今週お亡くなりになられた

前にもご紹介させて頂きました石牟礼道子さんがおられます。

この場をお借りして、感謝の御礼とご冥福をお祈り申し上げます。

さて、板垣退助さんの「魂」が乗り移ったのか

それに触発されて長々と紀行文の本題から離脱してしまいましたが、

本来の「旅行」とは、こうしたその土地その土地の地霊や人霊に

「魂」の次元で触れ合うことを通じて、

日常の自分自身のあり方を見つめなおす作業を伴うものです。

そうした過程で、単なる知識にとどまらない

その人自身の見識や胆識も磨き上げられていくのでしょう。

幕末の志士に限らず、古代から多くの旅人は

こうした魂レベルでの霊的対話の機会を「旅行(道行き)」に

探ってきたのだと思います。

ですから、何度も強調させて頂きますが、

「旅行」とはただ単なる「観光(娯楽遊興=暇つぶし)」ではないのです。

皆さんにとっても日々の人生行程は貴重なものでしょう。

日常生活でのせわしなさの中ではなかなか感受・実感できない

次元での「本来の自分(良知=良心)」に目覚めるのも

旅の意義であります。

管理人は書評だけでは読者の皆さんも退屈でしょうから、

少し面白い要素を加味させようと

もともと幼い頃から興味あった「紀行文」も導入させて頂くことに

なりました。

その他にもあらたな書評論壇のあり方を巡って、

研究・試行錯誤の段階であります。

「進化し続けようと欲する書評」を目指しています。

ただでさえ本が売れない「出版不況」の時代で、

また「情報洪水」の時代でもありますが、

このような時代だからこそ、立ち止まって考える機会を

与えてくれるのも読書の醍醐味であります。

「読書する人にしか入手され得ない宝物が本にはたくさん詰まっている!!」

ともある読書通の方が強調されてもいました。

その本の内容(情報)を伝える媒体こそ、

今後さらに多様化(進化)していきましょうが、

「原点」となる本が持つ性質(格)だけは変わらず残り続けるものと

確信しております。

つまり、「本とは人間の<心>を伝える共通の贈り物(互恵作品)」

だということです。

面白いかどうかのご判断・ご評価はもちろん読者さまにあるわけですが、

世間一般によくあるような「紀行文」とはちょっと違った角度から

今後とも皆さんに考えて頂けるヒントとなるような視点を

「紀行文」の中でご提供していこうと考えています。

最近はすっかり「吉田類さん化(酒場放浪記で有名な詩人)」してきた

おじさん世代に突入してきた30代後半、

まもなくアラフォー(40代)に差しかかろうとしている管理人でもあります。

1人でぶらりと地元の酒場に入り浸っては、

その土地の人々との交流・対話を楽しみつつ、

あらたな課題を発見させられることに魅力を感じています。

板垣さんには悪いですが、これ以上かかわっているわけにはいきません。

「ほな、さいなら・・・」

登山口に辿り着くと、すでに家族連れやカップルほか多種多様な方々が

正月元旦にもかかわらずに陸続と登ってくるではないですか。

覚悟を決めてやっとこさ登山道を登り始めた管理人ですが、

次第に高度を上げていくうちに

この「金華山」を甘くみていたことに気づき始めます。

ここの地形も『ブラタモリ』をご覧になられた方なら

すでにご存じのことと思いますが、

特殊な岩石によって形成されてきたことがわかります。

IMGP0976

皆さんも一度登られてみるとその様子が実感されることと思いますが、

まるで鞍馬山のようなつづら折り上の山道となっており、

谷も深い場所があり、とても城塞(特に一段とそびえ立つ「天守閣」)を

築くに適した山ではないことにお気づきになられることでしょう。

「ようこんなところに城塞(小さな砦群や建造物も含めて)を築けたなぁ~」

「不安定な地盤やのに・・・」などと考えながら少しずつ登り疲れては

景色を眺めることができる絶景のビューポイントで小休憩を

何度もとりながら、まるで「螺旋階段」上になった登山道(ちなみに

語り忘れていましたが、管理人が登った道は<瞑想の道>です。)を

登ること小1時間ほどでついに山頂の天守閣へ到着しました。

以下が途中の休憩場所で撮影した風景写真です。

IMGP0977 IMGP0979

IMGP0978

山頂に鎮座まします小さな祠にご挨拶して、

しばしのトイレ休憩を済ませれば、天守閣登城です。

先客は多くてなかなか最上階の窓からは四方八方が見渡せません。

景色を見学できる巡回路も著しく狭くて、

一度に大人数が外に出ることが可能な環境ではなかったからです。

写真撮影も遠慮しながら、あまり皆さんにご迷惑にならない程度に

効率よく東西南北のシャッターを切っていきます。

それが、以下の写真です。

IMGP0980 IMGP0981

IMGP0982 IMGP0983

IMGP0984 IMGP0985

IMGP0986

さて、このような洪水といっては失礼な表現になってしまいますが、

大人数が続々と押し寄せてくるような状況でしたので、

天守閣内にある説明案内文などは

さっさと読み飛ばしていきながら降下。

天守閣を出てすぐそばにある資料館に入りますと、

写真コンテストがありましたので、入館。

「皆さん、写真撮影される際の構図取りが実にうまいなぁ~」などと

感心しきりでした。

管理人の腕前は素人以下ですが、

このような素晴らしい撮影写真をじっくりと眺め観察・研究していますと、

「いつの日か管理人もこのようなコンテストに応募出来ればなぁ~」などと

またしても欲望が湧いてくるのでした。

下山の時刻になりました。

②すでに12時半過ぎ。

意外にも速いペースで登り切ることが出来たことに感謝しながら、

帰りは一気に下山していきます。

とはいえ、険しくて歩きにくい岩盤がせり出している箇所も

ところどころにありますので、

怪我をしないように慎重に少しずつ加速しながら降りていきます。

遠心力を利用しつつ・・・

まるで「天狗」のようですね。

幕末の志士で天忠組にも加わった土佐脱藩浪人:那須信吾

なったかのような気分を味わうことに。

ちなみに、「天忠組」事件もまた

「もう一つの明治150年」に当たります。

主流史から外された地下水脈史を辿ることも

歴史批評眼を磨く上で重要な視点となります。

下山するともう13時です。

ここでお待ちかねの昼食です。

「味噌田楽定食」と「熱燗」を注文します。

食べ終わるとすでに14時前となっていましたから、

あまり長居もできません。

他のお客様にもご迷惑をおかけしますから・・・

③14時過ぎ。

バスに乗車してJR岐阜駅へ急行します。

14時半頃の電車に飛び乗れば、向かう先は「熱田の杜」です。

正月は熱田神宮参拝客も多いからか

熱田駅に臨時停車する快速急行があるようです。

まるで桶狭間に向かう将兵気分。

「目指すは<熱田の杜>じゃぁ~」(織田信長公)

「えいえいおー」(管理人)

熱田駅に到着するとすでに15時前後の頃よい時間帯に。

元旦の熱田神宮参拝客がかなりの人数で賑やかなのは有名ですが、

警備の方のほど良い先導で快適に本殿へと進み出ることが叶いました。

もちろん、節約ムード再突入ですから、屋台には目も向けません。

正式昇殿参拝の手続きを済ませ、係の方の指示に従いながら

静かに昇殿の時を待ちます。

参拝を済ませますと、正式昇殿参拝の手続きまで済ませた客には

お抹茶の接待と宝物館入館がセットになった特別優遇券がついてきます。

すでに時間が時間ですので、前回参拝した際には

宝物館も本殿背後から巡回できる有名なパワースポットである

楊貴妃伝説のあるご神域にも立ち寄らせて頂いたのですが、

今回は時間の都合上、「またの機会」にすることにします。

お抹茶を頂いたあとは、すみやかに熱田明神に感謝しながら

退散します。

帰りは熱田駅からJRで名古屋まで向かいます。

前回は少し時間に余裕がありましたので、

大須観音へ向かうために地下鉄に乗車して

名古屋へ出るルートをとりました。

(その時分は雪模様で大須観音参拝客も商店街にまで

並び立っていましたので結局は断念しつつも、

その門前の古書店で店員さんと談笑しつつ不思議なご縁に巡り会えないかと

本を物色しただけで帰ることになりました。)

JR熱田駅を出ますと名古屋駅まではそないに時間もかかりません。

近鉄特急で大阪方面に帰る最短・最安コースを採用していたので

少し時間に余裕もありましたので、お土産を探します。

④この時すでに17時過ぎ。

順調です。

今回は夜食も節約のためちょっとした軽食だけ購入してから

17時20分過ぎ頃のアーバンライナーに乗車して帰宅します。

そう言えば、このアーバンライナーも

あと少しの年数で乗車出来る機会もうんと減ることになるかもしれません。

近鉄さんが先だって「富裕層向け」ビジネスの一環なのか

「インバウンド効果」を狙った投資戦略なのかは知りませんが、

新装車両が導入されるそうです。

その予想構想は、近鉄さんのこちらの公開ニュースでご確認頂けます。

帰りは、名古屋~津~大和八木~地元へとスムーズに乗り継ぐことが

叶いました。

⑤20時40分頃、無事帰宅。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ざっと今年の年末年始はこのような感じの充実した旅生活になりましたが、

あらためての抱負として、

もっと<良知=良心=私利私欲度数を下げていくこと>に徹して、

己の心の弱さに向き合い、どんな逆境においても

微笑むことのできる「安心立命」の境地を切り開くことによって、

微力ながらも世の模範となるような生き方(死に方)が出来るように

成長していきたいという想いが日増しに強まってきています。

「人生いつお迎えの日が訪れるかわからない」からこそ、

「この世では些細なことで争ってはいけないのです。」

死に際に強い悪念が残ると自他ともに修羅の道を歩み続けることになってしまいます。

「地獄をつくるも天国をつくるもすべてはわたしとあなたの

<心>次第・・・」

近未来といってもあと数十年ですが、本格的な人工知能の時代が到来します。

そのような時代が近づいてきますと、

ますます「人間の本質(役割)とは何か?」という問いが

私たちに重くのしかかってきます。

そんな移行期であるからこそ、

良心的な科学者も今や「意識」を科学する時代に至っているようです。

「分離から統合の時代への幕開け」へ向けて

「さぁ、あなたならどのような生き方(死に方)をされますか?」

そんなことを前にもご紹介させて頂いた敬愛する西部邁先生も

生前強く強調されておられました。

遅くなりましたが、西部先生へも感謝の気持ちと

慎んでのご冥福をお祈り申し上げます。

西部先生は己の言説を絶えず吟味しつつ、

言葉の持つ重さを認識されてこられた数少ない

我が国を代表する無責任な評論家ではなく「実践行動型」批評を

最期まで貫き通された良心的「批評家」のお一人であられました。

管理人の「批評道」も険しい道のりが予想されますが、

「批評とは、単なる評論と異なり、その言説そのものが

その人自身の生きる姿勢を映し出す<真澄の鏡>であり、

そのまま後世に残る<遺訓>ともなり得る

標(しるべ)となる<ものさし>ですから、

常に緊張感がなくてはなりません。」

そういうわけで、優れた批評家は「知行合一並進」の道を

歩み続けなくてはなりません。

俗に言うように「知行合一=単なる言行(動)一致にあらず!!」とは

我が師匠のお言葉ですが、

もともとの<心>の本体が1つなのですから、

表に現れ出てくる段階での知と行の分離・分裂があれば、

そこに何かもやもやとした気持ちの悪い念が出てくるはずです。

言い換えますと、自然か不自然(作為的)かの分水嶺を

示す<心>が持つ知覚反応により敏感になることが大切だということです。

そのような心がけを意識的にしていく訓練(習慣)を

日々持つことで運気もよくなりますし、実際に「人相」などの

諸相・諸運・諸縁も大きく変わっていきます。

「ようです」ではなく、本当に「そうなる」のです。

管理人も本格的に心を磨き続けるための道標として

日本陽明学の祖である中江藤樹先生の教えを学び始めましたが、

実際にそのように「なる」のです。

ちなみに、この連休中の第1日目には久方ぶりにといっても

昨年のお盆以来ですが、当書評ブログから実際のご縁を頂くことが

叶うようになりました中江藤樹先生「在野」研究家の講演会があるということで

近江高島市安曇川町に再訪問させて頂きました。

町の人皆さんご親切な方ばかりで、

現在でさえなお、藤樹先生の「心」が受け継がれているようですね。

「安曇川町<藤樹の里>に来るとなぜかほっとする・・・」

そんな日本が本来有していた原風景が今でも息づいています。

この安曇川町にある「道の駅」も日本有数の人気ある施設だそうで、

残雪がかなり残っている模様にもかかわらず遠方からの

自動車ナンバーが並んでいたようです。

その研究者が最近出版された書物も併せてご紹介しておきますね。

2018年現在のところ我が国で公刊済み最新版である

中江藤樹先生に関する一般向け啓蒙書です。

『評伝 中江藤樹~日本精神の源流・日本陽明学の祖~』

(林田明大著、三五館、2017年初版)

でございます。

懇親会にも参加させて頂き、再会が叶ったメンバーや

あらたにご縁を頂くことが叶った同志にも出会えました。

その中でもとりわけ管理人の「心」に強く印象深く残ったのが

日本国内で某会社を経営していらっしゃる中国人の方です。

陽明学関連の本も日本経由で現代中国人のあいだに

少しずつ再評価の動きがあるそうですね。

陽明学関連本もその中国人経営者の方によるお話によれば

近々「中国版」としても公刊されるそうです。

詳細をメモに控えてくることなく、

具体的な情報を皆さんにお伝えすることが出来ないことが

残念ですが、あくまで現時点では「予定」段階とのことで

どなたかご存じの方があれば当書評ブログ宛まで

お知らせ願えれば幸いであります。

国際交流の場ともなりましょうから・・・

世界平和の具体的構築は、

「民間」の「草の根」から創造されていくのです。

林田先生の『真説「陽明学」入門』

最新増補改訂版は昨年2017年第2版8刷として

ひそかにベストセラー化しているようですね。)も

先だっての2015年に英語版も刊行済み。

中国人のあいだで陽明学が再評価されている

ひとつの背景要因には京セラの稲盛社長の

これまでの多大な貢献もあるそうですが、

中国の心ある経済人の間でも少しずつ「拝金主義」的傾向に

対する反省の兆しがあることから

「心学」としての側面から見た王陽明哲学に注目されていると

いいます。

このような傾向は心強いばかりで、

実際に中国の方ともお会いしてお話を伺ったりすると、

日本国内だけで通用しているような

「反日」「嫌中」本が流布させているようなイメージ像とは

大幅に異なる様子も窺えます。

つまり、日本人であろうが中国人であろうが

はたまた韓国・朝鮮の方、その他いずこの国に属される方であれ、

「心」があり「志」が高い方であれば、

人類みなに共通する<共通善>志向を確かにお持ちであるということです。

こうしたことは現在の日本マスコミ業界・出版業界では

意図的に無視もしくは軽視される状況にありますので、

この場でこうした現実もありますよということを

お伝えしておきます。

ところで、先に語らせて頂いた「なる」についてですが、

この「なる」という思想的営みこそ、

「する」という思想的営みを中心に据えてきた

諸外国の思想哲学と日本の思想哲学が到達した地点を比較考察した際に

現れ出てくる相違点のようです。

諸外国にも優れた聖人・賢者がいますし、

優れた知見が多々見受けられますので、

このような日本人の立場だけから見た独断的断定は

慎まなくてはなりませんが、

この「なる」というのも

ただ単に「なるようになるさ・・・」といった消極的な認識ではなくして、

「為せば成る」といったようなより積極的な強い想念に比重があるように

考えられます。

いずれ、このような「日本語」が内包している言語構造を基に

日本語に根ざした哲学も探究考察してみたく予定していますが、

それは管理人の今後の課題としておきます。

「愛する・愛されるとは一体全体どういう事態を意味するのか?」

今回は古来より数多くの修羅場(文字通りの生死のはざま)を生み出してきた

「あいだ」である「関所」が存在する「関ヶ原」を始めとした霊場を

中心に鎮魂巡礼の旅を続ける過程で「愛」の本質も考えてきました。

人間関係において「愛」はその距離感が近ければ近いほど

かえって執着・偏執に結びつきます。

こうした『愛』という感情が持つ志向性は、

(被)支配欲と結びつくと執(邪)念を

しばしばもたらす恐れがあることも肝に据えておかなくてはなりません。

ですから、日本国憲法前文にあるように

「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して・・・」といっても

距離が近ければ近いほど「近親憎悪」感情が高まることがあるわけです。

昨今は家庭内暴力や社内いじめなど数多くの「狭い閉ざされた」空間内での

悲劇的事件が立て続けに起きてきており、

そうした話題もたびたびニュースになりますが、

結局は「近代」人における時空間認識が

あまりにも理性的に捉えられすぎる嫌いがあるためなのか

(つまり、「情」が著しく薄れてきているということ。)

潜在意識下に押さえ込まれることが強くなりすぎて、

意識的よりも「無意識的」にふとしたきっかけで

(それもごくごく些細な痴話喧嘩程度から)抑圧されてきた

悪感情が暴発することが多くなるようです。

これは決して他人事ではなく、

管理人自身への戒めでもあります。

人間であれば誰しも持つ感情だからこそ、

よほど「心」の揺れ動きに思慮を働かせる習慣を

体認・体得する知恵と工夫が要請されるのです。

特に普段から生真面目すぎて、社会活動に熱心すぎる人間ほど

他人への至らなさを責める(裏返せば<自責願望>も強すぎるということ)

傾向や姿勢も一段と高まってきます。

何度も強調させて頂きますが、これは他人事ではありません。

こうした「心」の揺れ動きに悩まされ続けるのが

生身の人間だということです。

ロボットや人工知能の場合は、彼ら・彼女らにも

何らかの意識が芽生え、人間とは違った意味での「心」と

それに由来する「感情」が生み出されていけば別でしょうが、

現時点の常識的見方では、こうした悩みもないに等しいことでしょう。

そこがやはり人間と機械(これから続々と輩出されてくるだろう

<不老不死>志向型人造人間も含む)との分岐点です。

国家間にせよ個人間にせよ何らかのトラブルはつきものです。

しかし、ただ諦めるのみでは人間的向上はあり得ません。

そんな時こそ、後戻りが出来ないほどの傷がつく前に

次の言葉を思い出して頂きたく願います。

『過ちては改めるに憚ることなかれ』(論語)

また、『己の欲せざるところを人に施すことなかれ』と。

そんな<愛の形而上学>を今回の旅のテーマに掲げながら、

天下を睥睨してきた一大霊場地である美濃から尾張へかけて

駆けめぐってきました。

やはり『関ヶ原』を歩いているとそこに相応しい鎮魂歌が

頭の中にしきりに流れてきます。

管理人の場合は、水樹奈々さんの『ヒメムラサキ』であり

ちょうど旅に出かける直前に新曲PV(プロモーションビデオ)で

流れ始めていた陰陽座さんの『桜花忍法帖』です。

特に後者は、これからの春先にかけて皆さんにもお勧めいたします。

この歌詞・楽曲も多種多様に解釈可能ですが、

現代人がすっかり忘れかけていた「死生観」の底流に流れる

<もののあはれ>を見事に表現されていると思われます。

「忍びの道は本当にもの哀しい世界ですなぁ~」

水樹さん、陰陽座さん、重ね重ねいつも考えるヒント、

より良く生きる(死ぬる)ための課題をご提供頂きありがとうございます。

今後とも応援してまいります。

それでは最後に「明治150年」の節目でもあり、

また少し先には「元号」も変わる大変革期だからこそ、

あらためて短い人生を賢く生きる知恵として

次の<遺訓>をご紹介させて頂きながら、

このたびのご報告を閉幕させて頂くことにします。

『人の一生は重荷を負て 遠き道を行くが如し

いそぐべからず

不自由を常とおもへば 不足なし

こころに望みおこらば

困窮したる時を思い出すべし

堪忍は無事長久の基 いかりは敵とおもへ

勝事ばかり知て まくる事をしらざれば

害 其身にいたる

おのれを責て 人をせむるな

及ばざるは 過たるよりまされり

慶長8年正月15日 家康』

(『東照大権現家康公遺訓』から)

Nature1  Nature2

長時間のお目通しを頂き本当に心からありがとうございます。

皆さんのお目もお疲れムードでありましょうからお詫びの意も込めまして、

目の保養に朝日と富士山の写真を<特典サービス>として

皆さんへお届けさせて頂きます。

そう言えば、最近の管理人は静岡県在住の方ともご縁を頂くことが

多くなったような。

有り難いことですね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

最後に映画『関ヶ原』をより楽しむためのガイド本

今後の日本経済を考える際のご参考文献を掲げておきます。

『経済で謎を解く 関ヶ原の戦い』

(武田知弘著、青春新書、2018年第1刷)

『壬申の乱と関ヶ原の戦い~なぜ同じ場所で戦われたのか~』

(本郷和人著、祥伝社新書、2018年初版第1刷)

『織田信長のマネー革命~経済戦争としての戦国時代~』

(武田知弘著、ソフトバンク新書、2011年初版第1刷)

3冊を差し当たりご紹介しておきましょう。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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One Response to “番外編:映画『関ヶ原』に触発されて巡る鎮魂祈願の旅と地方経済フィールドワーク報告文”

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