立岩真也先生の「自閉症連続体の時代」「障害」と「非障害」の境界線上で悩むすべての方へお届けします!!

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「自閉症連続体の時代」

現代社会における様々な分野における

「境界上の難問」を積極的に研究されてこられた

立岩真也先生が、「生きづらい」世の中における

処世術について考察されています。

「自閉症スペクトラム(連続体)」

昨今、「障害」と「非障害」の境界線上で

苦しみ悩まされておられる方が、

増加し続けています。

「社会が悪いの?」「私が悪いの?」

現実には、このように厳密な「境界線」など引けません。

今回は、この本をご紹介します。

「自閉症連続体の時代」                 (立岩真也著、みすず書房、2014年)

立岩真也先生(以下、著者)は、社会学がご専門で

現在、立命館大学院先端総合学術研究科教授をされておられます。

著者は、『私的所有論 第2版』(生活書院、2013年)や

ALS-不動の身体と息する機械』(医学書院、2004年)など、

現代社会において、見捨てられてきた様々な分野における

「境界線上の難問」について、「身体感覚」などを

重視しながら、研究されてこられました。

さて、現代社会は、複雑になればなるほど

人間の身体感覚に不適応な事態が生じてきているようです。

このような時代においては、多くの方々が「境界線上」で

もがき苦しみ、生存していくのが「やっと」の状況に

簡単に放り込まれてしまいます。

現代社会は、言うまでもなく、「貨幣経済」を大前提に

各種制度が堅固に構築されてきており、「生計手段」も

必然的に「貨幣獲得の仕事」が、中心になってきます。

そのため、生まれつき「貨幣獲得手段」に長けるような

気質を有していないと、なかなか世の中をうまく渡りながら

生存していくことが、困難になります。

それでも、誠に悲しくつらいことですが、本人が

「障害」という「公的な認定」を早くから受けることが

かなえば、多少は「生きやすく」なるのかもしれませんが、

そこにも、別の難題が降りかかってきます。

「障害」という「スティグマ(お墨付き・烙印・レッテル貼り)」が

なされることで、様々な「差別」などを受け、謂われなき苦しみを

一生涯背負っていかざるを得ません。

しかも、この「障害認定」が厄介なことに、明確な「知的障害」や

「身体障害」があるなど、社会生活に「現に」支障困難をきたしており、

早期にサポートを得られるような環境におられる方ならまだしも、

現実的には、圧倒的大多数の「潜在的障害者(予備軍)」が

放置されてしまっているようです。

いわゆる、「申請主義の厚い嘆きの壁」に阻まれて・・・

生き苦しく感じてきた本人も、大人になり、社会に出る頃に

やっと本人や周りの反応に気付き始め、診断を受けるというケースも

後を絶たないそうです。

最近の流行言語にもなっている、見過ごされてきた「大人の発達障害」です。

それでも、「早期発見」で救われた方や性格的に比較的「障害認定」を

受け入れやすい方なら、助かりやすいのかもしれません。

ただ、その陰には、性格的に「不器用」や「要領不良」であったり、

情報取得の機会や支援者のサポートを受けられなかったりする

「サイレントマジョリティー(物言わ(え)ぬ大多数の人々)もいます。

そのような方のケースでは、どのような「処世術」が適しているのでしょうか?

また、本文でも語っていきますが、様々な社会的理由を原因に、

あえて「障害認定」を受けない方もおられます。

「世間に迷惑をかけてしまうのではないか・・・」

「自分の努力が足りないだけではないのか・・・」などなど。

さらに、ここが一番重要なことですが、「普通(健常者)」と

「異常(障害者)」の「区別」って、本当につけることが可能なのかどうか?

そんなこともあり、「境界上(ボーダーライン)」あるいは、

「虹の光彩(色の幅)」に例えて「スペクトル(連続体)」という

イメージ(言葉)で、説明されたりもします。

そんなこんなで、現実社会には、圧倒的に「スペクトル傾向」に

おられる方々が、社会の発達度合に伴って「不適応状態」に陥り、

放置されてきています。

その中には、「ニート」や「引きこもり」の方も、

「一部」含まれているかもしれません。

現代社会では、「無知」のため、あるいは、「他人の感覚を代受苦不能」の

ためか、相当激しい「社会的バッシング」を受けてしまうようです。

もっとも、一番「恐ろしい事態」は、「無視(無関心)による放置」です。

それでも、本人の「生き方」に関する希望は、最大限尊重・配慮

されなければなりませんが、少なくとも

「誰しも幸せに生きる権利(資格)はある!!」と管理人は深く信じています。

「決して、他者による謂われなき批難中傷や差別により、

社会から抹殺されてはならない」と、思います。

以下の記事は、決して「興味本位」で「障害者」の方に対する

差別や偏見を助長する目的で、ご紹介させて頂いている訳では

ありません。

ここで、責任として管理人の立場を確認させて頂きますが、

いわゆる「障害者」の立場ではありません。

著者も本書の内容やプロフィールから推測する限りでは、

「障害者」の方ではないようです。

ただ、双方に共通している認識は、何とかしてすべての方々のために、

「生きやすい社会」が実現されるような積極的な問題提起とともに、

皆さんとともに「前向き」に考えていこうとの願いにあります。

「障害者」にも、「非障害者」にも「幸ある生きやすい社会」とは・・・

現実的には、「道遠く苦難の連続」ではありますが、

ご一緒に考察して頂ければ幸いです。

ということで、今回は「非障害者」の立場で、この本を取り上げさせて

頂きながら、考察を深めていきたいと思います。

なお、「(自閉症)障害者」ご本人がお書きになった書籍も、

後日ご紹介させて頂く予定ですので、いましばらくお待ち頂ければ

幸いであります。

境界線上の「スペクトラム(連続体)」

ところで、なぜ管理人がこの「難問」に興味関心があるのかについて

触れておくことにします。

この「自閉症スペクトラム(連続体)」という「症状概念」は、

実はここ数十年のまだまだ「未開拓の分野」だそうです。

最近になって、従来の「自閉症」とも異なるとの「啓蒙活動」も

普及し出したのか、一般の方々にも知られるようになってきたようです。

管理人が、小学生・中学生だった頃には、「自閉症」についての

イメージは、テレビドラマの影響などもあり、「何か暗く狭く

自分の内面の世界という<殻>に閉じこもっている」ような感じでした。

また、冒頭でも触れましたが、近いうちにご紹介させて頂く予定の

実際の「自閉症経験者」であるドナ・ウィリアムズさんの本などでも、

現時点では未読なので、正確なことは語れないのですが、

そのようなイメージが、一般的には形成されていく原因に

なっているのかもしれません。

何度も断っておきますが、管理人は直接の「自閉症」障害の認定を受けて

いる訳ではありませんので、このイメージには「偏見や誤解」も

含まれているかもしれません。

その点は、決して「悪意」を持って語っている訳ではないので、

ご寛恕下さいませ。

ただ、ここ数年、管理人の「性格」にも思い当たる傾向がありましたので、

決して「他人事」とは思えなかったことです。

その管理人自身の経験とともに、「自閉症」ではないですが、

躁鬱病(双極性)障害」を患い、実際に「障害認定」を受け「障害年金」で

暮らしている管理人の学生時代からの「恩人師匠」とのお付き合いもあり、

プライバシーもあるので、細かいことには触れることが出来ませんが、

現実体験談に触れる機会も、読者の方に比べて多少あるかと思われますので、

ご参考になるかどうかはわかりませんが、折に触れて

本書の内容の紹介とともに触れさせて頂こうと思います。

さて、語っていくうえで、大前提となる「自閉症スペクトラム」について、

簡単に補足説明させて頂きます。(詳細は、記事末紹介文献をご一読願います。)

ここでは紙数の関係上「自閉症スペクトラム」だけに絞らせて頂きます。

狭義の「自閉症」については、後日ドナ・ウィリアムズさんの

本の紹介記事の箇所で、ご説明させて頂く予定でいます。

まず、「自閉症スペクトラム」と言っても、すべての方々に当てはまることなど

もとよりありませんが、一般的に共通して見られる心理的・行動的な特徴には、

以下の点があるとされています。

「臨機応変な対人関係が苦手で、自分の関心、やり方、ペースの維持を

最優先させたいという本能的志向が強いこと」

(本田秀夫著、『自閉症スペクトラム』13頁より)

このイメージ「定義」だけから推察すると、結構な人間に当てはまるようです。

すべての調査は不明ですが、本田医師によると、「人口の10%は存在する」

(前掲書15頁)そうです。

また、最近導入された新しい診断基準であるアメリカ精神医学界による

『精神障害の診断・統計マニュアル』(DSM-5、2013年5月)により、

それまでの「広汎性発達障害」という名称が廃止されて、

①「自閉症」②「高機能自閉症」③「アスペルガー症候群」などの仲間の

総称として、新たに「自閉症スペクトラム障害」と名称変更されました。

もっとも、当ブログ記事では、狭義の「障害認定」を受けている

「自閉症スペクトラム障害」のみに限って、考察している訳ではありません。

著者の問題意識をも踏まえて、「非障害者」も含めたもっと広範な概念として

語らせて頂いています。

再度、本田医師の「定義」に戻りますと、共通する特徴として、

特に挙げられているのが、①「臨機応変な対人関係が苦手」、

②「<こだわり>が強い」、その他③「感覚の異常」

④「具体的で明確な情報への強い志向性」⑤「運動が不器用」

⑥「いったん覚えたことをなかなか忘れない(記憶力が相対的に強い)」、

⑦「相対的な関係を理解することが難しい」などが見られるようです。

それに伴い、当然「社会生活」に困難を感じることが多くなりますので、

「躁鬱傾向」や「神経症」、「不安症」、「潔癖症」、「強迫観念」、

「精神的トラウマ(異常な<心の壁>)」が生じたり、「知的障害」や

「学習障害(LD)」、「注意欠如/多動性障害(ADHD)」、

「睡眠障害」や「てんかん」なども併存しやすい傾向にあると言われています。

また、著者による「自閉症スペクトラム障害の診断基準」は、

①社会性の障害②言語コミュニケーションの障害③想像力の障害

の3点に集約されるようです。

このように、本田医師の説明をお借りして語らせて頂いているうちに、

管理人にもかなりの傾向が含まれていることに気付かされました。

いわゆる「知的障害」、「学習障害」や「てんかん」はなくとも、

その他の「傾向性」は多少持ち合わせているようです。

ここで、具体的に本書の内容に入っていくにあたり、

多少管理人の「身辺整理」もさせて頂きますので、

時間に余裕がおありの方は、お付き合いして頂ければ幸いです。

(ご面倒なら、本書の説明に関連する記事だけ「飛ばし読み」して頂いても

構いません。)

管理人も、幼い頃から、かなり激しく動き回る

「やんちゃくれ(関西弁で、いたずら坊主?)」であったり、

「喧嘩速い性格」であったり、「不器用で不要領」であったり、

よくいじめられたり、いじめたりした「悪い子」でした。

そのため、なかなか周囲にとけ込めずに「人間関係」に

苦労したことを覚えています。

一方で、大人顔負けの「異常に難解な言葉遣い」を好んだり、

百科事典類を諳んじたりして、

学校の先生などにも、「博士」呼ばわりされて「揶揄」されたものです。

そのため、「学校の勉強」に関しては、特に苦労することもなく、

ある種の周りに波風を立てないための「処世術」として、

「仮面優等生」を演じてきました。

そのこともあり、「学級長」や「生徒委員長」などの役割も負わされ、

当時は「得意げ」になっていましたが、後から冷静になって考えると、

単なる「パシリ<使いっ走りの略語(若者特有の乱暴言葉)>」、

つまり「みんなの便利屋」だったことに気付いたのです。

もちろん、この時期における「リーダー役」の練習が、社会人になってからも

役には立ったのですが、

これがまた、職場の「人間トラブル」を誘発させるなど

問題も生じさせたのです。

要するに、本田医師の上記定義によると、

⑦「相対的な関係を理解することが難しい」

ということに該当するようです。

「役割分担が下手」というか、「暗黙知(メタ認知機能)が弱い」というのか、

この重要な「社会場面」で、苦労した経験があったのですね。

また、それがこのブログでの表現にも出ているのかもしれませんが、

「過剰敬語」になったりして、本人も自覚はありましたが、

人前では異常に緊張したりしたのでした。

あるいは、「営業が苦手」だとか「電話応対が苦手」だとか・・・

ところで、学生時代には「学校の勉強」で紛らわせる方法もあり、

「隠れ場所」も許されましたが、社会ではそんな甘い世界はありません。

そのため、幼い頃からの「神経質」な気質も高じて、「抑鬱状態」が続き

「さすがに、これ以上はみんなに迷惑もかけるし・・・」と考え、

後のことは、あまり深く考えることは出来ませんでしたが、というよりも、

「抑鬱状態だと、思考停止」になってしまいますので、

3月末で「自主退職」させて頂くことになったのでした。

それから、まもなく2年経つのですが、その間に同じ「抑鬱状態」に苦しみ、

実際に「障害認定」も受けておられ、管理人の人生の中でも、

「この方なら信じられる命の恩人」である「師匠」に相談することが続いています。

そこで、実際にお聞きした範囲では「障害者」と「非障害者」における

「境界」など、あまり大きな「差異」などないのかもしれないと

認識させられたことです。

もちろん、その方は現実に「社会生活」が著しく困難なために、

「障害認定」を受けられ「障害年金暮らし」をされている訳ですが、

ご本人もおっしゃっていましたように、「健常者(非障害者)の目線」から見ると、

「傍から見て、障害者かどうかわからんやろ・・・」とのことでした。

確かに、車の運転やちょっとしたくらいの「日常生活」は出来るらしいのですが、

仕事などの「社会生活」になると、一気に「敷居(社会参加能力レベル)」も

高くなり、厳しくなる「生活状況」が続いておられるようです。

たまたま、その方は、ご結婚もされており、昔の教え子の伝手(つて)もあり、

医師の推薦状もあったことや、他にも持病の診療経験が長くあったことなど、

担当医師の良き理解も得られ、一般人なら

かなりハードルの高すぎる「障害認定」を受けることに

たどり着くことが可能だったそうです。

ですので、読者の皆さんにも、現実に「境界上」で悩まれておられる場合には、

「良き理解者(医師や有識者)」の相談を仰いでみて下さい。

決して、どの精神科医でも良い訳ではなさそうです。

その「人脈との出会い」が、実際には「難」なのですが・・・

最近は、「儲け話一辺倒」(本人は、狡猾で処世術がうまいため、

素人には見分けもつかず、そのため始末に負えない存在なのですが・・・)

そのような「タレント的精神科医(臨床心理士)」なども、

数多く世間には潜んでいるようです。

ですから、読者の皆さんにも強くお願いしたいのですが、自らのいのちを

守れるのは、「あなたご自身だけ!!」ですので、十二分にご注意願います。

さて、管理人の私事で恐縮ですが、本書の内容に移らせて頂く前に

肝心な箇所なので、もう少し語らせて頂きますことご寛恕願います。

ところで、ここからが重要な「分かれ目」でもあり、本書とのテーマにも

本格的につながっていくところなのですが、やはり一番の処世上における

ネックが、この「スティグマ(レッテル貼り、ラベル化)」に対する

本能的な「嫌悪感(違和感)」なんですね。

それと、管理人は「自力型」の性格でもあり、今手がけている

このブログなどの「仕事」が出来なくなってしまう恐怖もあるのです。

おそらく、インターネット革命前なら、今よりもっと「生計」を立てていくのが

困難だったでしょうし、現状でも「テクノロジー」だけに頼るのにも

「限界」があります。

このあたりは、現実に「長期失業体験者」から「ニート」「引きこもり」の

方など、経験者の方なら共感して頂けるのではないでしょうか?

ということで、長くなりましたが、著者も本書で強調されている点が、

「処世術」のことです。

まとめますと、「自閉症スペクトラム(連続体)」とは、かなり

幅広いテーマを含んでいますので、「障害者」のみならず、

「非障害者」の方に至るまで、数多くの方々にご一緒に考えて頂きたく、

縷々「私事」も含めて、語らせて頂きました。

「免責」されても、なお残ってしまう「難関」

さて、やっと本書の内容のご紹介に移らせて頂きます。

長い文章にお付き合い頂きまして、本当に感謝申し上げます。

著者も、本書で長々と考察されており、著者自らも「過剰説明」に

対して、読者の便宜も図っておられるようですが、結局のところ、

本書の主眼は、仮に「障害認定」を受けて、ある程度の「社会免責」が

なされるにせよ、それでも残ってしまう「難関」が、現代社会には

至る所にあるので、具体的にどのような「処世術」の方向性があるのか

考えていこうとの趣旨でもあります。

それは、本書では省かれていますが、別著でも考察されている

ベーシックインカム制度」の導入へ向けての「試論」も一部

なされています。

なぜ、「自閉症スペクトラム(連続体)の時代」なのか?

それこそ、現代社会における「経済生活」の困難さや、近代社会が

「暗黙の前提」としていた「責任範囲」の拡大化などから、

「共同体形成の困難さ(無縁社会の増加)」、「安易な医療化」など

様々な複合要因も積み重なってきていること。

また、数多くの「生活困難者」がここ数十年、毎年のように

増加傾向にもあり、テクノロジーの進展とともに、「恩恵」もある反面、

従来型の「雇用喪失」も招いてきたこと。

それにより、「潜在的精神障害者」が見逃されてきたのではないか

との問題意識にもあったようです。

今回は、詳しくは触れませんが、本書でも若干触れられている

現代刑法体系でも「責任概念」が、日々揺れ動いてきたようです。

現実に、「専門家」自身も「責任認定」に困難を来しているために、

日本でも「裁判員制度」が導入されたことは、周知のところです。

著者の問題意識もそこにあるようです。

本書における巻末「補章 争いと償いについて」でも考察されている

水俣病などの公害における被害者補償の場面における「認定問題」です。

実際に、因果関係の確定も困難であり、にもかかわらず「判決結果」とは

別に、被害者の「生活救済」はしていかなくてはなりません。

少なくとも、近現代の「法秩序・人権感覚」を大前提とする限り、

「責任範囲」については、いかなる「自己責任論」であれ、真面目に

考察し、国家などによる「社会責任」という観点からも、

「個人一人だけでは背負いきれない責任」に関しては、

ある程度「免除」せざるを得ないでしょう。

あくまで、「理論上(法の建前)」ではありますが・・・

そこで、このような「近現代法秩序」を

今後とも維持していく方向ならば、

一部評論家などが主張しているような、

安易な刑法39条削除論には、著者は本書において、

明確に解答されてはいませんが、問題もありそうです。

つまり、2000年代初頭から始まった

「ノーマライゼーション化(障害者・非障害者問わずに

一律に扱う考えのことです。)」にも、その行き過ぎた運用には

私たちの方からも、厳しくチェックを入れていく必要も

あるようです。

ところが、現実社会では、「責任の範囲」について、

必ずしもそのような「明確な仕切り」があるという訳ではありませんね。

しばしば、自らの責任範囲を超えて「越境」してくることがあります。

さらに、昨今の社会傾向として、誠に残念ではありますが、

無責任な「自己責任論」の安易な拡大とともに、国家秩序を支配する層に

おける「国家(社会)責任の免責傾向」にも原因があるようです。

もっとも、公平を期して、ハンセン氏病原爆症認定問題など、一定の前進も

見られたようですが、ためにする「運動家」の批判は論外としても、

少なくとも「被害当事者自身」や「当初からの熱心な支援者」にとっては、

遅きに失した判断だったとのことです。

このように、「自閉症スペクトラム(連続体)問題」を検討していく際にも、

この「免責」されても、なお残る現実生活上における「難関」という

厄介な存在があるために、容易には乗り越えられない「壁」があることも

考慮に入れておかなくてはなりません。

それでも、「障害者」であれ、「非障害者」であれ、実際のところ

社会の現状がどのように構築されているのかを知っておくことは

大切なところです。

(とはいえ、すべての把握などおよそ不可能ですが・・・)

ところで、著者も強調されてきたところですが、

現実に、社会に大きな問題があるにせよ、単純な「社会批判」だけで、

決着がつくような問題でもないところが、さらに困難を強いられる点でも

あります。

では、「個人レベル」ならどうか?

著者も引用する数々の障害者の事例のうち、ドナ・ウィリアムズさんのような、

初期の頃に著書で紹介されていたような「家族原因論(母原論)」というのは、

啓蒙活動などの影響もあり、少なくなってきたようですが、障害者自らの視点では、

「脳障害由来説」という「自己責任論」にも転嫁されてきたようです。

そのことで、当事者本人が「納得」出来れば良いのかもしれませんが、

「障害者認定」という「社会的ラベル効果」は、決して、当事者本人を

あらゆる面で「免責」してくれる訳でもありません。

もちろん、そのことは「境界上」にいる「非障害者」であれ、

仮に「普通(本当は、この定義ほど手垢にまみれ、誤解を招く言葉も

ないのですが・・・)」という状態があるとするなら、

そのことは、「健常者」にも十二分に通用するテーマであります。

もっとも、「程度の問題」はありますが。

だからこそ、「スペクトラム(連続体)」が問題になっているのです。

まとめますと、「個人」も「社会に組み込まれた存在」ですので、

一カ所(部分)を取り出して、批判すれば「コト足れり」でもありませんし、

「全体を部分に押しつける」ことも、極論であります。

その意味でも、「スペクトラム(連続体)」は、厄介な難問を

抱えています。

いずれにせよ、こうした難問には、「唯一の正解」などありませんが、

具体的な「生存権」をいかに確実にしていくかは、誰しも回避出来ない

大切な課題であります。

そろそろ、このあたりで筆を擱かせて頂こうと思いますが、

「自力志向が強すぎる(これも、異常な<こだわり>かもしれませんが・・・)」

管理人にとっても、個人的な価値観としては、前にも語りましたように

「保守的リバタリアン」でも良いのかもしれませんが、社会全体として

真面目に考察するならば、この考えを強制することは、

決して許されることではありません。

その点で言えば、「リベラルであり、共同体主義者」をも許容していますし、

「リバタリアン」の定義からしても、個人に必要以上の責任を負わせることは

出来ません。

つまり、「みんな」という言葉を軽々しく定義付けることは不可能にしろ、

「最大多数の最大幸福」を追究していくためには、どうしても一定の

「社会的コスト」が必要になってきます。

このあたりの「許容量」は、個別の「税額負担」などもあり、容易には

政治的に解決困難な課題でもありますが、そのことも含めて、

本書をご参考に皆さんにも考えて頂ければ幸いです。

「すべては、一人一人が生きやすい社会創造のために」なのですから。

なお、「自閉症スペクトラム」については、

本文でもご紹介させて頂いた

『自閉症スペクトラム~10人に1人が抱える「生きづらさ」の正体~』

(本田秀夫著、ソフトバンク新書、2013年初版第2刷)

※こちらは、精神科医の著作。

『自閉症スペクトラムとは何か~ひとの「関わり」の謎に挑む~』

(千住淳著、ちくま新書、2014年)

※こちらは、「発達社会神経科学」という「脳科学」の

一分野の研究者です。

両者とも、それぞれ、独自の観点から考察されていますので、

「自閉症スペクトラム」他、多様な精神障害を網羅するものでは

ありませんし、心当たりがおありの方は、

必ず「個別の専門医」にご相談されることをお勧め致します。

また、本文でも触れました「私事の事例」に関しては、相談者の

プライバシーもありますので、個別のご相談につき責任をもって

乗らせて頂くことは出来ませんので、読者の良識を信頼させて頂き、

ご寛恕願います。

さらに、著者の「ベーシックインカム論」については、

「ベーシックインカム~分配する最小国家の可能性~」

(齋藤拓氏との共著、青土社、2010年)

「所有と国家のゆくえ」

(稲葉振一郎氏との共著、NHKブックス、2006年)

をご紹介しておきます。

※この両書は、管理人とは経済に関する考えが若干異なることも

ありますが、真面目に現代経済や国家の仕組みを考察されたい方には

ご一読して頂ければ、大いに学ぶべき点があるかと思います。

「ベーシックインカム論」は、「新自由主義」が深まれば深まるほど、

むしろ、「新自由主義者」の一部の方でさえ、容認される論者もいますし、

管理人は、いわゆる「新自由主義者」ではないですが、

「可能な限りでの自力脱出主義者(保守的リバタリアン)」の立場に近いので、

「社会コスト負担」の「幅」については含むところもあります。

それでも特に、何が何でも「リバタリアン原理主義者」でもなく、

自分にも他人にも出来るだけ「わかりやすいレッテル貼り」を回避したいので、

この「ベーシックインカム論」には、今後より一層の生産的議論が高まることを

期待しております。

最終結論:「ラベリング効果は、わかりやすいだけに悪用厳禁!!」であります。

そのことも、教えてくれたのが本書のポイントでした。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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