本山美彦先生の「人工知能と21世紀の資本主義~サイバー空間と新自由主義」人工知能は、果たしてバラ色の未来を約束するか??

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「人工知能と21世紀の資本主義~サイバー空間と新自由主義~」

世界経済論がご専門の本山美彦先生が、

「21世紀の資本主義」を人工知能をキーワードに、

多種多様な「技術信仰主義」と極端な「利己主義」志向の

「新自由主義」を批判的に分析考察した論考集です。

「果たして、人工知能は、人類にバラ色の未来を

約束することが可能なのか??」

現状のまま推移するならば・・・

今回は、この本をご紹介します。

「人工知能と21世紀の資本主義~サイバー空間と新自由主義~」(本山美彦著、明石書店、2015年)

本山美彦先生(以下、著者)は、「世界経済論」がご専門で、

主に「金融モラル(道徳・倫理)の確立」を研究テーマと

されてこられました。

一般向けのビジネス書形式での著書には、

『売られ続ける日本、買い漁るアメリカ』(ビジネス社、2006年)

『姿なき占領』(ビジネス社、2007年)などがあります。

また、やや学術的な形態での一般向け「新書」には、

『金融権力』(岩波新書、2008年 )あります。

ビジネス書のタイトルには、扇情的かつナショナリズム(国粋主義??)的な

響きが多分に含まれていますが、両書では、

この「失われた20年(20年だけではないですが・・・)」を導いた

日米の政治経済「格差」を観点とした

日本国内の諸制度改革推移に関する分析考察や

今後の進むべき道すじの「理念」が提案されています。

両書に底流する思想には、「働く者の尊厳を取り戻し、共同社会(著者の表現では、

<アソシエ(相互扶助)社会>を、皆さんとともに再生させよう!!」という

思いが込められています。

この<アソシエ(相互扶助)社会>については、

前にもご紹介させて頂いた松尾匡先生の諸著作も

是非ご一読下さると、より理解も深まることと思われます。

著者は、「金融主導型」資本主義経済が必然的にもたらした

「産業<実需>」資本主義に対する優越的地位から来る

「モラルハザード(道徳・倫理の危機)」に対する厳しい批判的視点を

持つことで、「働くことの意義」を回復しようと呼びかけられています。

「働く」ことは、人間にとって、「尊厳そのもの」であります。

この「尊厳」が、過剰なまでの「金融主導型」あるいは

「大手独占(寡占)企業型」資本主義経済の進展推移とともに、

剥奪されてきました。

そのことが、老若男女を問わずに、「働くことの意義=価値意識」を

沮喪させるなど、今日のニート・引きこもり現象などを招来してきた

一因とも思われます。

ここで一言お断りさせて頂きますが、

管理人は、一口に、「ニート・引きこもり現象」と言っても、

各人各様の心理的問題意識が複雑に絡み合っていると考えていますので、

先だってのどこぞの某マスメディアのような扇情的・画一的バッシング番組や

興味本位の批難中傷論には、距離を置きながら分析考察しています。

そのような番組では、定型的な情動反応しか提供されず、

あまり有益かつ生産的な議論を期待し得ないと、

常々考えてきたからでもあります。

あくまで、自分も同様な心理(生活)状況に落ち込む条件が重なり合えば、

「自分ならどのように振る舞うだろうか?」を、

日々、想像しながら考えていますので、

こうした深刻な心理的問題をとても「他人事」とは思えないのです。

というのも、自分自身の心理(生活)状況が、世の中の状況次第で、

いかに激変するかも、この「失われた20年」で経験してきた世代だからです。

ですから、あくまで責任と経験ある立場で、上記のような心理的環境で

長らく苦しんでこられた方の心中もお察し申し上げながら、

日々、様々な角度から有意義な情報も発信出来ればと願いながら、

微力ではありますが、少しずつ少しずつ、

読者の皆さんの心に寄り添いながら、

語り続けて参りました。

ということで、前置きはこのあたりで止めさせて頂くことにしますが、

本書を読み解きながら、「人工知能と人類の協働社会は果たして可能か?」を

主テーマにしながら同時に、「働く者の尊厳」を皆さんとともに

考えていく素材として、この本を取り上げさせて頂きました。

このような趣旨ですから、著者は、「人工知能(テクノロジー一般)」に

対する過度な楽観論には、批判的なお立場であります。

その点では、「悲観論者」に当たると言えましょう。

まずは、本書をご紹介させて頂く大前提として、

著者のお立場を確認させて頂きました。

なお、今後とも、人工知能など「技術革命」に対しては、

「悲観論」「楽観論」ともに多種多様な観点から

ご紹介させて頂く予定でいますが、

著者と対比する形で、「楽観論者」の思想的立場を

さらに詳しく知りたい方には、

こちらの記事もご一読頂くとお役に立つことでしょう。

記事①記事②

「新自由主義」のような<教条的イデオロギー>とテクノロジー<アルゴリズム>の親和性

著者の経済学者の原点には、

本書<はしがき>によると、

身近に優秀な「職人」を感じながら生育された

生活環境があったと言います。

そこから、一般的には、「アナーキスト(無政府社会主義者)」として

知られるプルードンの思想に影響を受けつつ、

「労働の尊厳」を探究する道へと導かれたそうです。

また、江戸時代の実践的思想家である安藤昌益の「労働=感(はたらく)」

を志向する「自然直耕道」にも親愛の念を抱かれ、

「実践」倫理の面でも敬虔だったドイツの啓蒙哲学者カントの理念をも

復権させたいと願っておられます。

これらの思想家の共通点には、

「実践生活の重要視」と「モラリスト(道徳家・倫理家)」であったことが

とりわけ注目されます。

そこで、考えておきたい点があります。

現在(現在だけではなく、特に、<近代>以後)の思想家には、

政治的に左右の立場を問わず、

真剣な倫理的求道感覚が恐ろしく欠如していた

のではないかということであります。

また、こうした政治的言説には、<わかりやすさ>を極端化して

一般大衆を指導してやろうとする「上から目線」があるためか、

結局のところ、社会に「階層格差」をより強くさせる原因になってしまったようです。

いわゆる「権威」を基盤とする「保守的」立場(もっとも、管理人は、いつも思うのですが、

言葉というものは、<紋切り型>思考を生み出すため、それぞれの定義・意味・意義を

説明するのに難儀していますが・・・)はともかくとして、

一般的な印象で語らせて頂くことをお許し頂けるなら、

「左翼リベラル派」の本来の目的は、「下から目線」の水平志向から

こうした既存の階層秩序から<共通善>を奪還し、再構築し直すことで、

各階層にかかわらず、より良き「居心地」のいい生活空間を再生させようとの

願いがあったものと信じています。

そこで、比較的「保守的」立場に属する管理人も、

最近は、謙虚になって、思想的価値意識に色づけされる前の

「童心」を有していた頃の原点に立ち返ろうと、

様々な観点から、この世の中の「価値意識」を再検証すべく、

優れた「左翼」思想家の古典も紐解きながら、

比較研究考察しているのですが、

意外にも、「無神論者」ではない「左翼」(的)思想家もおられるようです。

(ちなみに、近年<偽装>右翼(保守)や<偽装>左翼なる言葉を

安易に使用される方もおられるようですが、

そのような硬直的な見方だと、論者自身の本意から離れて、

結果として、最も嫌悪感を抱かれるはずの「<わかりやすさ>の罠」に

嵌り込んでおられるように見受けられるのは、傍から観察していて

心悲しい限りであります。

ですので、賢明な読者様には、<釈迦に説法>だとは思いますが、

管理人の立場について、<偽装>○○などと突っ込まないで頂きたく

お願い申し上げます。当ブログのポリシーは、あくまでも、

「学問的探究と知的道楽の歓びをともに味わおう!!」を

志向する時事批評を兼ね備えた書評を通じた教育的ブログが

「本街道」であります。)

また、最終的には、「無神論」に近い思想的立場に導かれた

アナーキスト(社会・共産主義者)の中にも、

若い頃には、(あるいは、表だっては<政治的立場>に追い込まれるなど

<大人の事情>から公言出来ずとも、個人的ポリシーとしては、

終生に渡り)隠れた敬虔な信仰者もいたようです。

そのような傾向にある思想家には、「モラリスト」が多いようです。

今回は、本題から外れますので、これ以上あまり深入りはしませんが、

こうした「モラリスト」的政治意識の復権が、

左右を問わず、著者ならずとも、復権が望まれる昨今であることは

間違いないところでありましょう。

こうした著者の問題意識とも共通するところから、

管理人自身は、このところ、

前にもご紹介させて頂いたラスキンウィリアム・モリス

古典を読み進めながら、考察しているところであります。

そうした管理人自身の閑話はともかくとしまして、

著者は、近年、何かと大きな話題となってきた

「人工知能(を始めとする<技術主導型>文明社会)」と

世に席巻してきた「新自由主義(この思想自体も多種多様ですが・・・)」の

教条的イデオロギー化現象に警鐘を鳴らされています。

その視点から、「サイバー空間と新自由主義」をテーマに、

最先端の社会動向情報を詳細に提供されつつ、

その問題点について、批判的考察を加えられているのが

本書の特徴であります。

ということで、ここから、本書の内容構成を要約しておきますね。

<第Ⅰ部 サイバー空間の現在-オンデマンド経済と労働の破壊>

<オンデマンド経済>とは、

『スマホなどの新しい通信手段を駆使して、消費者の時々のニーズに

IT企業が応えるべく、該当者を消費者に引き合わせるという体制』

(本書25頁)という意味で、ある種の「斡旋(周旋)」経済の

ことだと解説されています。

まあ、簡単に要約すると、テクノロジー(カタカナ語もあまり好みでは

ありませんが・・・)といった「機械工学的技術」を「媒介」とした

「仲介」経済のことを意味するようです。

①「第1章 フリーランス(独立した)労働者」

※本章では、昨今の労働環境の激変である、

とりわけ、経済効率化・経営合理化路線から必然的に導かれていった

「正社員」から「非正社員」への流れの過程で、

労働者の<安売り競争>が激しく展開されていった様子が語られています。

例えば、便利なアプリケーションソフトウェア(俗称:アプリ)の出現が、

皮肉にも、人間の雇用現場を過当競争に追い込んでいたりする実態など、

大手マスメディアでは報道されることのない「裏話」が、

タクシー会社などの事例を挙げながら説明されています。

また、労働規制緩和と技術革新のセットで、

最近注目されている「アウトソーシングビジネス」の

過酷な現場事情なども、ITプログラマーなどの事例で

説明されています。

これらが示す現象から、フリーランサー(独立事業主)の

「形骸化」されていく実態が浮き彫りにされています。

総じて、<労働破壊>ではないかと語られています。

②「第2章 コンピュータリゼーション(労働の破壊)」

※本章も、前章での問題点を引き継ぎつつ、

コンピュータリゼーション(つまり、社会の機械的効率化現象のことで、

著者の表現によれば、『コンピュータによる生きた労働の置き換え』本書6頁)

によって、人間の仕事が細分化されていく様子や、

安定した「中間層」のメルトダウン(熔解現象)から、

次々と「消滅」させられていく思わず背筋が寒くなる現状が描かれています。

また、本章の面白い点は、イギリスを主震源地とした近代産業革命の

流れの中で、ラダイト(機械打ち壊し)運動の詳細な進展史が

丁寧に追跡解説されているところにあります。(本書44~51頁)

このラダイト(機械打ち壊し)運動とは、世界史を学ばれた方なら

ご存じかと思われますが、

それは同時に、

人間の「囲い込み(エンクロージャー)」をも意味していました。

ここから、近代以前の本来の家内制手工業のような<独立事業主>による

経済活動の生息範囲が、徐々に狭められていく様子が窺えます。

この近代の特異な労働形態や労働観の変化については、

近日中に、別著のご紹介を通じて、

さらに諸考察を深めていく予定でいますので、

いましばらく楽しみにしてお待ち下さいませ。

③「第3章 使い捨てられるIT技術者」

※本章では、第1・2章の中でも紹介された、

主に「IT技術者」の厳しい現状が紹介されています。

この章を読み進めていくにつれて、

大学時代のSE(システムエンジニア)志望だった友人知人の

悲しみが想像されて痛ましく感じられたのも、本心でした。

IT業界では、あまりにも変化の素速い世界であることから、

「早期退職(陣)」へと追い込まれる時間感覚を指して、

「ドッグイヤー」などと形容されることも多いようですが、

そうした状況が、本章では、赤裸々に描写されています。

④「第4章 SNSと刹那型社会の増幅」

※本章では、最近話題になった「忘れられる権利」などの論点でも

注目されることの多いプライバシー保護問題。

ビッグデータ」などの量が多いだけで、質が貧弱なだけの

<大きな情報>だけが拡散されていくIT文化の中で、

日々ただただ「消耗」されゆく「刹那型社会」が増幅されてゆく現状に

ついて、分析考察されています。

特に、本章でのお薦め記事は、

福沢諭吉の楽観論とマーシャル・マクルーハンの悲観論』

(本書102~107頁)であります。

福沢諭吉に対するイメージ像は、

1万円札に代表される実利的人物像ですが、

実際は、そのような矮小化された人物ではなかったことは

あまり知られていない模様です。

彼は、日本において「討論(演説)」の重要性を説いた教育者で

あったのです。

その論説は、現代日本でも、

未「成熟」であるコミュニケーション技法を考える際には

きわめて大切な視点を提供してくれています。

彼の『学問のすすめ』は、管理人もお薦めの1冊ですが、

「学問」し続ける心は、<より良き>コミュニケーション作法を

磨き続ける意識とも共通します。

そのことから、彼は、情報社会に対して「楽観」的だったとされる

評価が、ネット世論などでは高いのだと、著者は指摘されるのですが、

「現実」空間とは著しく異なる「仮想(バーチャル)」空間である

ネット社会の「影」の側面を分析考察する点では、

そうした認識は「甘すぎる!!」のではないかと批評されています。

一方で、現代マスコミ理論にも多大な影響力を及ぼした

メディア理論の大家と目されるマーシャル・マクルーハンですが、

彼の場合は、すでに、情報化社会の負の側面にも照射しながら

悲観的に論じられていたことも忘れられているようです。

本書では、「ビッグブラザー」(ジョージ・オーウェル)による

悪質な情報操作を批判的に考察した論者として解説されていますが、

現代のネット文化が未発達だった20世紀の冷戦期から末期にかけての

時期に、このような時代が到来するだろう予測をされていたことは、

慧眼でありました。

いずれにせよ、現代ネット文化に親しむ私たちにとっては、

とりわけ「SNS疲れ」なる社会現象には敏感になる世代であります。

「プライバシー」の尊重は、

もちろん、「現実」言論空間においても重要ですが、

「仮想(バーチャル)」言論空間では、

さらに慎重な知的思慮が要求されることは言うまでもありません。

管理人も日々、より良き言論空間を創造すべく努力していますが、

「ネチケット(ネット上におけるエチケット)」は相互に尊重しながら、

賢くIT技術を活用したいものです。

<第Ⅱ部 サイバー空間の神学-新自由主義のイデオロギー>

⑤「第5章 サイバー・リバタリアンの新自由主義」

本章からは、本稿のタイトルとも関連性の高い

テクノロジー、とりわけ、サイバー空間を形成する

情報テクノロジーと『新自由主義(定義は様々ですが、

一般的イメージでは、過度に「利己的」な価値観を擁護する

<自由>思想と目されています。

何が、「新」かと言えば、これも政治経済倫理の教科書などで

各自ご確認して頂くことをお薦めしますが、

18~19世紀頃に進展していった英米の「古典」的自由主義に

対する「革新(現代)版」であるということです。

とはいえ、当時の<自由主義>思想家は、

道徳・倫理にも視野を拡張した価値観を有していたのですが、

現代の「新」<自由主義>者の大半は、この倫理的側面を軽視する

論者が目立つということが、大きく異なる特徴であるようです。)』の

親和性について論じられています。

ここに、過度な「利己的個人主義」を追求する「リバタリアン」が

デジタル・ネット・サイバー空間と結びつく「サイバー・リバタリアン」なる

一群の特異な集団が登場します。

⑥「第6章 ジョージ・ギルダーの新自由主義神学」

※本章では、その現代「新」自由主義思想家の中でも

とりわけ、サイバー空間に「ユートピア」を見る論者として、

ギルダーの法則>で知られるジョージ・ギルダーという

人物が取り上げられています。

この人物を主軸に据えながら、

「サイバー・リバタリアン」の群像について語られています。

この「サイバー・リバタリアン」については、

前章120~126頁でも詳細に描かれています。

⑦「第7章 ハーバート・サイモンと人工知能開発」

※いよいよ「人工知能」の出番ですが、

経営学者であるハーバート・サイモンが、

『世界初の人工知能プログラムと言われる「ロジック・セオリスト」の

デモンストレーションを行った』(本書161頁)人物として

紹介されています。

ここから、確率・統計理論に基づくビッグデータと人工知能との

結びつきに話題がつながっていくことになるのですが、

そのことは、ある意味、人間の「思考空間」を独占し、

「画一的な<情動反応>」だけで支配されていく恐ろしい未来像をも

招きかねない傾向に歯止めがきかない点に、

著者は、憂慮の念をもって警鐘されています。

<第Ⅲ部 サイバー空間と情報闘争-新たなフロンティアの覇権の行方>

⑧「第8章 企業科学とグローバルな共同利用地の行方」

※本章では、さらに、その人間の「思考空間」の争奪戦とも言うべき

「情報戦」、「思想戦」、「心理戦」の模様が詳細に解説されています。

いまや、「行動(心理・神経)」経済学とも合体した「サイバー経済学」が

広く世間を席巻していますが、そのような時代において、

人間の「自由」な「思考力」や「想像力(創造力)」を

いかに確保していくかが課題として一人ひとりに問われています。

もはや、『科学はアカデミズムではなくなった』(本書206頁)

著者も激しく憂慮されていますが、

このような人びとの「低次欲求(欲望)」に焦点が当てられた社会では、

「厳密」な「問い」を立て、時間をかけて試行錯誤しながら「検証」していく

過程を尊重しながら、「社会的妥当性」という「道徳・倫理」をも

兼ね備えた「モラル・サイエンス」も「遠くなりにけり!!」の時代に

突入してしまったかのようです。

だからこそ、賢明な読者の皆さんには、

どうか世間の軽佻浮薄な傾向に棹を差して、「ちょっと待った!!」と

「待ちの<大きな>声」を上げて頂きたいのです。

本章では、そうした観点から、「ビッグデータの罠」(本書186~191頁)にも

力点を置いた考察がなされています。

⑨「第9章 証券市場の超高速取引(HFT)」

本章では、そんな「ビッグデータ」などを組み込んだ

コンピュータプログラムを駆使した、

昨今の証券市場を不安定化させている「フラッシュ・オーダー」と

「フラッシュ・クラッシュ」の問題点について論じられています。

「フラッシュ」とはその名の通り、「超」高速の「瞬間」を意味しますが、

その「瞬間」取引が、機械任せであり、すでに、「人知の限り」を

超えてしまっている現状が描写されています。

現代経済は、「金融」が「実体産業」経済を制御してしまっている現状に

ありますが、もう一度、「経済」を人間の手に取り戻すためには、

現在の「金融」仲介機能を再設定し直す必要がありましょう。

そのことを、著者も、本書冒頭でも触れられているプルードンの

「人民銀行」の考えが紹介されてもいますが、

私たち一人ひとりも、本来の「地の声」から湧き起こる

「民間に出来ることは民間に・・・」をモットーに

各種「地域通貨」などの積極的普及活動によって、

経済の「民主化」を実現していきたいものです。

その具体的アイディアなどは、今後ともご紹介していく予定でいます。

⑩「第10章 サイバー空間と情報戦」

※本章は、国家機密を監視しながら、「内部告発」を

主たる目的活動とするウィキリークスによる

機密情報流出問題でも世界的に話題になったエドワード・スノーデン

よる「スノーデン・ショック」(本書233~240頁)などが

詳細に紹介されるとともに、世界規模で激しく展開される「情報戦」の

実態に絞った考察がなされています。

タックスヘイブン(無税天国)へと「租税回避」されていく様子を

世界に公表した「パナマ文書」も、

本年の伊勢志摩サミット直前期に話題になったところですが、

まさに、現在は、「持てる者」と「持たざる者」との間における

「新」冷戦が生起してきている現状にあります。

この流れが、世界の現状を改善していく方向に向かうのか、

それとも、激しい「階層(級)闘争」が復活して、

またぞろ、20世紀のような「悪夢」が甦ってくるのかは、

私たち一人ひとりの問題意識に未来が掛かっていますが、

そのあたりも、「ショック」を与える論考ではありますが、

冷静に判断して頂く題材として読者各人の宿題とさせて頂きます。

⑪「第11章 ビットコインの可能性」

本章では、「金融(貨幣)」資本主義経済社会の

「民主化」に向けられた試みとして、

ビットコイン(仮想通貨の一種)」の可能性が説かれています。

「ビットコイン」については、前にもご紹介させて頂きましたが、

まだ一般的普及には時間がかかるようです。

つい最近には、某大手都市銀行も、こうした「仮想通貨」を

積極的に導入するなどの話題もありましたが、

「公的」金融機関であり「民間」金融機関の「総元締め」たる

日本銀行と各「民間」金融機関における「貨幣」意識のズレも

少しずつ見えつつあるようですので、

今後どのような展開がなされていくのか、業界関係者ならずとも、

興味深いところであります。

なぜなら、これまでの「お金」に対する「常識」が

激変していく先駆け的出来事であるからです。

⑫「終章 スタートアップ企業に見る株式資本主義の変質」

本章では、

昨今、一部で普及しつつある「クラウド・ファンディング」などに

よる「資金調達行為」などの解説とともに、

ベンチャーキャピタル(ベンチャー企業に対する資金面における創業支援活動)の

「裏話」について、分析考察されています。

「なぜ、企業はM&A(企業買収などによる再編的リストラ)によって、

絶えず、不安定に晒されるようになったのか??」

そのあたりに比重を置きながら、

「株価至上主義」という名の「株主対策」が、

企業の長期的安定経営基盤を動揺させてきた様子について

詳細な批評的考察が加えられています。

もちろん、「株主」や「持てる者」といっても、多種多様な「顔」を

持つだけに、画一定型的な論評は控えるべきですが、

最近の「株主」の価値観などを見つめ直す一素材としては、

考えさせられるテーマであります。

このように、本書は、全章10章にもわたる密度の濃い論考に

なっていますが、「人工知能」と昨今の「新自由主義」的経済価値観の

親和性を批判的に分析考察する文献としては、貴重な資料であります。

また、本書は、再度、「インターネット(WWW)の理念思想」を

問い直す上でも優れた問題提起の書であります。

元々、「インターネット」そのものが、安全保障上の要請から

生み出されてきた「怪物」ですが、同時に、「情報戦」の舞台装置でも

あったことから、各人各様の思想的思惑や価値観が

激しくせめぎ合いながら、発展してきました。

「規制」から「解放」、「解放」から「(再)規制」へと

循環しながら進展してきたのが、

「インターネット」世界の特徴でもあります。

管理人は、大学で「法律学」を専攻しながら、

「商法」という「法と経済学」の分野や、

「法哲学(倫理)」などに興味関心を持って、

社会に出てからも、問題意識を持ちながら、

研究考察してきましたが、

「サイバー法学」の分野は、当時は「盲点」でした。

そこで、最近は、「サイバー法学」の大家である

ローレンス・レッシグ博士の諸著作にも触れながら、

「学び直し」をしようかとも考えている今日この頃であります。

本書における著者は、相対的に「左派リベラル」の視点から

「新自由主義」を批評されていますが、

「保守」的な視点からも、この「新自由主義」には

「人間性を剥奪する危険性がある!!」という観点から、

十二分に批判的考察を加える余地はあります。

「<価値観>を巡る闘争」なる「不毛な論争」に紛れ込んでしまうと、

どうしても、<わかりやすい>言説が求められがちであります。

「言葉」は、長年、特定の「文脈」で乱用または濫用されすぎると、

手垢にまみれ、画一的なイメージ像に「固定」されてしまうようです。

そんなこともあって、「社会科学」における言語使用法は、

「自然科学」以上に、「価値観」がどうしても混入してしまうため、

厳密な定義づけが難しくなってしまうようです。

そのあたりの事情も十分に斟酌されながら、

本書を解読して頂くと、

普段、読者各人各様の<価値意識>において

見落とされていた「再発見」もあるかもしれません。

いずれにせよ、本項目の論旨をまとめさせて頂きますと、

「新自由主義」であれ、「共産(社会・資本)主義」であれ、

限定された文脈を離れた<わかりやすさ>に収斂された

「抽象的一般化言語表現(=硬直化した教条的イデオロギー)」は、

このようなコンピュータテクノロジー<アルゴリズム>に親和性があると

いうことです

<アルゴリズム>は、一般的には、「0」か「1」という

暗号情報化された「ビット」言語により系統づけられ、

画一的な解へと導きます。

つまり、「ファジー(あいまいさ)言語」を回避するわけです。

確かに、日常言語表現としては、時に、「あいまい表現」は、

誤解も生み出し、不適切な状況を招きます。

とはいえ、このような「ファジー言語」を活用することで、

過剰な社会的摩擦や極端な利害衝突を回避する知恵にもつながります。

そのあたりの使い分けには、一長一短もありますが、

ここから得られる教訓は、「<わかりやすさ>もほどほどに・・・」と

いうことですね。

「言語論」に関して語り始めると、本書の主題からは外れてしまいますが、

皆さんもともに考察して頂ければ、もっと有意義な日常生活を

過ごせるのではないでしょうか?

ここに、「人工知能」と「人間」の最大の相違点が存在しており、

この「言語表現」の工夫と知恵こそが、

今後の人工知能と人類の協働社会実現へ向けた

ヒントがあるのではないかと推察しています。

人工知能と人類の協働社会実現を目指すに当たって、「労働観=働く者の尊厳」を問い直そう!!

さて、このような感じで、今回は長々とご紹介させて頂く流れと

なってしまいましたが、今もっとも「旬」であり、

今後の人類の未来像に大きく影響するだけに、

管理人も力が入っています。

そこで、いつもながらのスタイルで、当ブログを立ち上げてから、

まもなく1年が立ちますが、

大体の記事の流れの「目安」も出来つつありますが、

当ブログ記事の内容構成も日によって多少の変動はありますが、

大体が、「4部構成」で、

「第1部」が、検索用見出し記事。

「第2部」が、著者プロフィールなどのご紹介と

管理人自身のご紹介に当たっての「問題意識」などを加えた

導入部分。

「第3部」が、主に、著書の内容構成に関する超<簡約!?>。

「第4部」が、管理人自身の実体験も踏まえた若干の諸考察と

関連本のご紹介など。

で、一記事の「完結」という流れになっています。

皆さんに「わかりやすく」お伝えする文筆活動は、

難しい「仕事」ではありますが、

この「わかりやすく」というのが、先程も語りましたように、

別段、「言い訳」というわけではありませんが、

どうしても、「言語」の「限界」を抱えてしまい

難しい仕事だと身に染みた初年度でありました。

実際に、書き続ける仕事をしてみて、

「作家」さんの苦労が身体感覚で実感出来るようになりました。

そうした実際体験を経てきた過程で、

以前にも増して、各著者の「仕事」と書籍という「作品」に対する

「愛着」が強まりました。

本というものは、面白いもので、メインの「記事」だけでなく、

「装丁」や「編集」、「校閲」作業など「総合的」な手が加わって、

実際の「書籍」づくりの現場では、幾人もの人びとが

「協働」して完成していく「職人的手作業」であります。

ここに、すべての「本づくり(だけではなく、<物づくり>)」に

携わる「職人」的仕事観を共有しておられる方々に、

篤く御礼申し上げます。

今回は、管理人なりの「労働観」も語らせて頂こうと予定していましたが、

本書のご紹介に熱意を入れすぎたために、

すでに1万字に到達してしまいましたので、

次回、本文内でも触れさせて頂いた別著のご紹介とともに

続きを語らせて頂くことにします。

今後とも、この「手作り」ブログ創作を通じて、

皆さんとともに、「仕事」する喜怒哀楽をお伝えさせて頂くとともに、

「労働観=働く者の尊厳」と「人間らしさ」を主テーマに

多種多様な角度から考察していきますので、

どうかご愛顧のほど宜しくお願い申し上げます。

とともに、貴重な時間をお割き頂いて、

「コメント」や「リンク」をして頂いている読者諸賢の皆様方には、

「直接対面」の形で、感謝の気持ちを申し上げることが叶わず、

もどかしい思いで、心が苦しみますが、

いずれ、どこかで、

「読書会」などの「催事」などがあれば、

相互交流を深められる機会もあれば・・・とも念願しています。

ここに「ご提案」がありますが、

読者の方の中に、特に、「書評ブログ」をお持ちの方や

「書籍業界」や「図書館」などにお勤めの方、

「学術(教育)関係者」や「読書会」などのイベントを

企画されている方の「コメント」や「宣伝告知内容」などがございましたら、

「ネチケット」と当ブログの趣旨に沿った内容であれば、

「大歓迎!!」ですので、

時間の関係上、すべての「コメント」に対するご返答のご期待には

沿いかねる場合もありますが、どうぞ、当書評ブログの「場」を

「読書人」の共有地としてご活用下さいませ。

「読書人は、<同志>であります!!」

ということで、今回は、ここまでとさせて頂きますが、

本書は、「サイバー空間と新自由主義的経済価値観」を

<批判的>に考察する素材として好著だと思われましたので、

皆さんにもご一読されることをお薦めさせて頂きます。

なお、「新自由主義」の脅威については、

「新自由主義の自滅~日本・アメリカ・韓国~」

菊池英博著、文春新書、2015年)

「新自由主義の帰結~なぜ世界経済は停滞するのか~」

服部茂幸著、岩波新書、2013年)

が、「新書」形式で読みやすいかと思いますので、

差し当たってご紹介しておきます。

また、「人工知能」に関しては、

前にもご紹介させて頂いたわが国の人工知能研究の

第一人者である松尾豊先生の

「人工知能は人間を超えるか~ディープラーニングの先にあるもの~」

(角川EPUB選書、2016年第13刷)も

ご紹介しておきます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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One Response to “本山美彦先生の「人工知能と21世紀の資本主義~サイバー空間と新自由主義」人工知能は、果たしてバラ色の未来を約束するか??”

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