リチャード・セネット氏の『クラフツマン~作ることは考えることである』物質との対話で獲得される技術知に学ぶ仕事哲学!!
『クラフツマン~作ることは考えることである~』
現代プラグマティズムを推進する米国の社会学者
リチャード・セネット氏による大著です。
高度に組織労働化された現代資本主義経済社会では
個々の仕事が分業化されているため全体像が
見えにくくなっています。
仕事を通じて個人の腕を磨き上げ
人格陶冶にも資する機会すら剥奪される一方です。
仕事に希望を見出すことは可能か?
今回はこの本をご紹介します。
『クラフツマン~作ることは考えることである~』 (リチャード・セネット著、高橋勇夫訳、筑摩書房、2016年初版第1刷)
リチャード・セネット氏(以下、著者)は、現代プラグマティズムを体現する
気鋭の米国の社会学者兼文筆家として活躍されている研究者です。
シカゴ生まれで幼少時に父親と離別し、母子家庭の貧しい生活の中にも
母親の音楽生活環境がきっかけでチェロを学び始め、
10歳頃までにはその才能がすでに開花されるまでに至っていたため
将来が嘱望されていたという特異な生い立ちを持つ社会学者です。
訳者解説によれば、父親との離別原因は
父親が政治活動に深入りし過ぎたことが要因のようですが、
貧困生活ながらも元来が知識人家庭だったことから
知的環境には恵まれていたことで現代のユニークな社会学者へと
成長していったようです。
著者はロシア移民二世であり、両親がともに人民戦線の一員として
スペイン内戦に参加するなど「筋金入りのコミュニスト(共産主義者)」だったことから
著者の政治志向も左派リベラル寄りへと誘導されていったようです。
シカゴに生まれ育ったことで、その都市文化にも馴染み、
シカゴ交響楽団の主席チェロ奏者の指導まで受けるようになり、
当時(1960年代)に全米各地で激しく燃えさかっていたヴェトナム反戦活動の
政治風潮の流れの中で、徴兵回避のため一旦はシカゴ大学へ入学するも
その後、音楽への情熱がやみがたくニューヨークの名門ジュリアード音楽院へと
進学されます。
しかし、著者の願望・意図通りには人生進路における「筋書き」はうまく運ばず、
徴兵通知を受けたことから再び徴兵猶予のためシカゴ大学へと復学。
こうしたジグザグ学歴の過程でも、著者はその変転きわまりない生活環境にも
めげずに、自身の音楽家としての「腕」を磨き続けていたのですが・・・
運命とは過酷な判断を下すものです。
その熱心過ぎるチョロ奏者としての日々の訓練から手首管症候群という
障害を得てしまうことになります。
そこから著者の音楽家人生の夢も絶たれ、最終的には諦めざるを得なくなった
時分に出会ったのが「救世主」デイヴィッド・リースマンだったといいます。
やがて、ハーバード大学へと移籍進学し、
ここから「社会学者」としての道へと歩み始めることになりました。
そんな芸術に造詣深く、手首に重い後遺障害を負ってしまったことから
本書でも「手工業」に深い思いが込められた論考が満載です。
そうしたご経歴を持つ著者ですから、当然ですが現代資本主義経済社会における
労働批判へと論考は進められていきます。
とはいえ、著者は硬直した教条的なマルクス主義者でもありません。
マルクス主義の限界も踏まえたうえでの従来の左派リベラル知識人が有していた
表面的な「唯物論」とは一線を画されています。
もちろん、著者の本書での立場は、
『考えるクラフツマン-物質との対話』(本書28~31頁)という論考で
明らかにされていますが、もっと活力ある文化「唯物」論(つまり、モノそのものに
もっと没入せよ!!とでも表現すればよいのでしょうか・・・)を主軸に
本書での論旨が展開されていきます。
著者はこのような観点で現代労働批判の本質へと筆を進めていくことになるわけですが、
本書の原型となった着想の核心部には、
著者が学生時代に師事を受けていたハンナ・アレントの
<労働する動物>と<工作人>として1人の人格を分離することによって
「仕事人」を区分してしまうような典型的な西洋「哲学者」流儀(思考法)に
不満足感を覚えたことに触発されたことが直接のきっかけだったといいます。
(本書26~28頁)
つまり、従来の西洋哲学の安易な<精神と物質>というような「二分思考」にも
マルクス主義の物質のみに拘泥し過ぎたために矛盾に陥ってしまった
「唯物論」にも迷い込まないような「モノ(事象)そのものへ!!」を
提唱する新たな文化「唯物」論を救い出す道を模索されているのが
著者の本旨であります。
著者は、本書で現代「職能人(クラフツマン)」を救い出すための
道筋を創出していくために必要となる論考を提出されていきますが、
それは同時に現代の「頭」と「体」と「心」(言い換えれば、心技体)が
分離せざるを得なくなるまでに高度に進展する一方の「分業」資本主義経済に
対するアンチテーゼ(反論)であります。
著者による『日本語版のための序言』で、
本書出版の意図が下記のように宣言されています。
『人間がどのようにしてクラフト的技術を発達させるのかを検討することは、
文化的差異を超越するさまざまな実践について詳しく語ることであると。
私の考えでは、これらの技術こそは、人間として成長することが
いかなる意味を持っているかということの、核心なのである。』(本書16頁)だと。
このように現代資本主義経済社会において、
知らず知らずのうちに浸透させられてきた仕事(労働)観に違和感を持たれている方は、
何も左派リベラル知識人ではなくとも
年々歳々増加の一途を辿り続けているようにも実感されるところです。
そんな傾向にある中で、日常の忙しすぎて身動きも取れない仕事環境から
少しだけ離れて根本からあらためてご自身の日頃抱いてきた仕事観を
熟考・再考する機会を持ちたいと、かねてより思われてこられた方にとっては、
新鮮な息吹を与えてくれる読み応えある1冊になるのではないかと思います。
ということで、今回は私事の都合上で当ブログのお休み期間が長引いてしまったことの
お詫びも込めまして、4月は新入社員にとっても新たな門出ということもあって、
今後の近未来経済社会へと向けられた「仕事観」をあらためて新鮮な気持ちで
著者の論考を題材に皆さんとともに考えていこうとの趣旨で
本書を取り上げさせて頂くことにしました。
高度「分業」化資本主義経済時代に「手技」から獲得される知恵と仕事能力を蘇生させることは可能なのだろうか?
本書の内容ご紹介に入らせて頂く前座をもう少しだけお許し願います。
本書の原著は、
『The Craftsman(New Haven & London: Yale University Press,2008)』であり
本邦訳書はその全訳といいます。
上記のとおり米国での原著出版から8年後の邦訳書ということになるようですね。
本書は、約550頁もあるちょっとした「大著」でもあり
現代プラグマティズム思想哲学に関する若干程度の知識がなければ
読み解くのに難しい場面もあるかもしれませんが、
そこはご安心下さいませ。
著者の結論部である『哲学の作業場』(本書485~502頁)とともに
訳者の丁寧な解説部(本書531~544頁)にて
現代プラグマティズム思想哲学に関する簡潔な要約紹介が施されています。
プラグマティズム思想哲学の一端につきましては、
前にもご紹介させて頂きました記事や本記事末尾のご参考文献も
後ほどあわせてご紹介しておきますので、ご興味関心ある方には
まずはそうした「入門書」から進まれることをお薦めします。
とはいえ、プラグマティズム思想哲学の本質は他の「観念論」哲学や
意味不明瞭な「形而上(直接体験確認し難い領域を取り扱う)」哲学とは
相反する異議を申し立てるところから始まった実用哲学ですので、
比較的わかりやすい思想哲学だと思います。
イメージ的には、「経験論」を大前提に据えた
「実践的(まさに<プラグマティック>)」な側面に力点を置いた
思想哲学だと思って頂くとよいでしょう。
本書では、著者の上記チェリストや文筆家としての体験から
「手」を通じて体感されてきたことを素材に熟考されてきた著者独自の
プラグマティズム哲学が垣間見える作品となっています。
本書は、著者が畢生をかけた3部作の第1作目だといいます。
現段階では未邦訳ですが、第2作目『戦士と僧』(訳者解説では、
『連携-協調の儀式、快楽、政治』2012年としてすでに結実しており
米国では刊行済みとのことです。)と第3作目『よそ者』として
それぞれが独自の作品となるようにする予定だと
本書31~33頁にて披露されています。
いずれも、現代資本主義(だけに限らないようですが・・・)経済の中で
続々と生み出されていく技術(テクノロジー)そのものが
発しかねない危険性(著者は、<パンドラの箱>のイメージで表現)や
『自分の仕事の意味を理解できない』現代の専門家に特徴的に見られる諸問題と
このような過酷な経済生活環境の中においてでさえ、
どうにかこうにか自分の仕事の意味を理解しようと『悩めるクラフツマン(職人)』に
寄り添う感覚での問題提起が豊富な事例とともに検討されていく作品に
仕上がっているようです。
未邦訳作品については期待ということで、また邦訳される機会があれば
その時にでもご紹介しながら、管理人も再び考察に挑戦していきたいと願っています。
本書は、全体で3部構成となっています。
なにせ約550頁もの「大著」ですので、時間のない読者様にとりましては
なかなか取り組むにも難儀なものがあるかと思われます。
また、豊富な事例紹介に触発される形で
著者の問題意識と絡め合いながら諸論考が進められていきますので、
イマイチ内容が掴めなくなったり、
まわりくどく感じられることも多々あるかもしれません。
そのような時には、折に触れて『序論~自分自身の製作者としての人間』
(本書17~42頁)や各部に散りばめられた『まとめ』記事や
すでに語らせて頂きました『結論~哲学の作業場』(本書485~502頁)、
訳者解説部(本書531~544頁)などをご参考に適宜読み返して頂くと
少しずつ著者の論旨が浮かび上がってくるでしょう。
導入部の「前座」はこれまでといたしまして、
それではお待たせしました。
本書の内容構成に関する要約ご紹介へと進めさせて頂くことにしましょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・謝辞
・日本語版のための序言
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・『序論 自分自身の製作者としての人間』
※本書の導入部は、1960年代キューバ危機などの冷戦構造下の緊迫時に
著者と師匠であったハンナ・アレントとの出会いから語られ始めます。
彼女の問題意識と著者のそれへの疑問提起についてはすでに語り済みですので
ここでは省略します。
ここでは著者と彼女とが共有する問題意識についてまとめておきます。
冒頭では、このような冷戦下でしたので現実的な核戦争の危機が
迫りつつあったところ、その核兵器などに象徴される現代科学技術が
ギリシア神話以来その<暴走>を暗喩させる「パンドラの箱」となりかねないこと、
またしばしばそのように成り果てたことに対する危機意識から
人類が自ら創出したモノ=道具をいかにして制御し得るか及び
人類自らがなしてきた仕事が有する意味に真正面から向き合うべきとの
視点へと読者を誘います。
具体的には人類史上初の核兵器製造開発に関与した科学者たちを引き合いに
現代の専門家集団が自ら携わっている仕事が誘発させ得る帰結について
あまりにも無理解・無関心に過ぎるのではないかとの批判から
技術(モノ=道具=機械など)との接触のあり方について探究していこうとの
問題提示から論考は開始されます。
このことは何も「専門家」に限定された問題ではないとのことが
本書を通じての強調論点であります。
モノ=道具を創出することによって生き抜いてこざるを得なかった
すべての人類に当てはまる重要問題だからです。
著者が本書全編を通じて最大限繰り返し強調されてきたことも
日々の仕事の具体的「過程(実践=練習=習慣を通じての進化経験)」に
より着目しながら、その「過程」から獲得される「技能としての経験」に
より忠実に対峙しながら学習向上すべき姿勢を養い整えていくことの
(それこそまさに「作ることは考えること」の核心です。)重要性にあります。
そうした日々の仕事を通じて獲得される成長経験が
人類に「物質と精神との共存」へと向き合わせる心構えを準備するためです。
とはいえ、著者は文化「唯物」論的観点から問題提起されていますが、
その主旨そのものは、ハンナ・アレントを始めとする数多くの西洋哲学者が、
安易に「精神そのもの」へと還元していく姿勢や
従来の教条的マルクス主義者のような「唯」物的姿勢に偏り過ぎる
思考形態に限界を見出されたことにあります。
誤解を恐れずに簡潔なイメージ化をしておきますと、
「モノ<とともに=に没入することによって>考える人間」とでも
なりましょうか?
そのような取り組み方を必然的に要請・招来するように促されるのが
著者の基本的思想立場であります。
それが著者が本論考での道具として活用される現代プラグマティズムの
考え方の本質でもあるようです。
このプラグマティズムの考え方は本書を読み解かれる際の重要キーワードとも
なりますので、ここで再度著者の言葉を引用しながらおさらいしておきましょう。
『プラグマティズムの顕著な特徴は、日常生活に埋め込まれている哲学的問題を
探し出すことなのである。』(本書40頁)
『哲学としてのプラグマティズムは、よい仕事をするためには手段-目的関係
からの自由が必要である、ということを主張してきた。』(本書488頁)
とはいえ、プラグマティズム哲学が完全に手段-目的関係からの離脱を
要請するかと言えばそうでもなく、いわば『手段と目的のつながり』を
再構成し直すことによって、現場作業(仕事や生活・社会体験)への
積極的参加を促すことを通じて倫理的姿勢を回復させ得る視点を提供することに
本質的役割があるということです。
著者によれば、従来の倫理的問題解決法は<事後的>検証方法だった点に
限界があったところを『プラグマティズムは、仕事が進行している最中に
倫理的問題を問うことの価値を強調したいと考えている。』(本書501頁)
ところに主眼があるのだとプラグマティズム哲学の効用を
簡潔に要約されています。
さて、プラグマティズム哲学の概要説明と著者の序言を受けたところで
次に課題となるのが、技能(クラフト)と技法(テクニック)の研究だとして
次の扉が開かれます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<第1部 クラフツマンたち>
・『第1章 悩めるクラフツマン』
・『第2章 作業場』
・『第3章 機械』
・『第4章 物質への意識』
※第1部では、中世ギルド職人文化などの多種多様な事例を紹介しながら、
その細部で生起してきた「職能人(クラフツマンたち)」の苦悩に迫ります。
ここで注意が惹かれる問題は、時代が現代へと至るにつれて、
徐々に『技術と共同体の乖離』(本書48~60頁)を招来していったという
事実であります。
こうした問題点は、只今現在でもIT職人の中でもしばしば課題として
取り上げられる『Linuxのオープンソース』論としても紹介解説されています。
言い換えると、「制御と自由の絶妙なバランス」をいかに保持し、
ユーザーなどにとって高品質な作品を送り届けることが叶うかという問題でも
あります。
本書ではさらに詳細な考察は省かれていますが、
現代知的財産法における理念を巡った思想的対立軸も
このような問題意識によって分かたれているのが現状だということを
捕捉しておきます。
そして、現代の産業構造下における仕事意欲に対する動機付けの限界にも
触れられていきます。
著者によると、「共同体のために」立派に仕事を仕遂げようと誘う道徳的規範も
競争心を引き立て促すことによって個人的報酬を与える形態での動機付けの
いずれもすでに限界に達しているとの見立てが提示されます。
また、旧ソ連での労働者事情の視察体験などの具体的考察を通じて
『マルクス主義の破産』(本書62~64頁)や
『日本の成功』(本書64~67頁)例などの検討もなされています。
現代日本の「モノ」づくりの現場はすでに過酷な有り様で、
日本を代表するような有名メーカーなども続々と経営難に陥っていることは
誰しもご存じだと思います。
本書でも、管理人もここではそのことについては触れませんが、
1つだけ確かなことは、現場仕事におけるいわば「共有」知が希薄になってきていることや
著者はしばしば「暗黙知」(マイケル・ポランニー)に言及されますが(なお、
本書の訳者は、彼の『暗黙知の次元』(ちくま学芸文庫、2003年)の訳者でも
あります。この本は「暗黙知」考察する際には外せない古典的名著ですので、
この分野にご興味関心がおありの方には是非ご一読をお薦めさせて頂きます。)、
次世代(後継者)への技術伝達の難しさとも相まって、
なかなか容易な教育方法論も見つからないという難問が
随所に横たわっているということです。
管理人自身も、こうした「暗黙知」レベルのこと(例えば、どうしたら営業がうまくなり
お客様の増加に直結するかなどの自身の仕事成果に直結するような知恵)について
かつて昔の上司に相談させて頂いたことがあった際に
困惑した顔をされた苦い経験も懐かしい思い出として残っています。
「そりゃ、わしも日々苦労しとるがな・・・
結局は、日々の試行錯誤の汗と涙の積み重ねの中で築き上げていくしかないやろな・・・」
などとうまく話を逸らされたこともあったっけ・・・
それでも、誠意と信頼を積み重ねることを通じて、より良き仕事成果を
お客様に還元するために日々苦労されているすべての社会人の皆さんのことを
想像しながらこうして仕事をさせて頂いていると有り難い感謝の気持ちに
満ち溢れてきます。
おそらく仕事に対する動機付けについては、
皆さんも様々な持論をお持ちのことと思いますが、
目先の利益だけで自己評価を下し続けていると、
脱落してしまうことだけは確かでありましょう。
そうならないための知恵も今後とも当ブログ創作活動を通じて
皆さんとともに考えていきたいと思います。
管理人の頼み(精神的支え)の綱言葉は、
『継続は力なり!!』であります。
(皆さんも有益なコミュニティー「場」として、お差し支え無ければ
どうぞコメント欄を通じて有益な「対話」を交わして頂ければと思います。
ネガティブ言論でない限り、いつでも大歓迎です。
ただ忙しすぎて管理人自身も一々のコメントは出来かねることだけは
ご了承下さいませ。皆さんもお忙しいでしょうし、無理強いなどはしませんが・・・
とはいえ、たまには遊びに来てね(笑))
閑話休題。
いずれにせよ、著者はあらゆる「勝利主義」(本書66頁脚注によると、
『ある特定の教義、文化、社会制度が他のいかなるものよりも絶対的に
優れており、勝利するはずだとする態度もしくは信念。』と説明されています。)に
警戒感を抱きながら、より良き仕事への志向性を疎外してきた
現代経済特有の諸問題について、「手作業(この表現自体は比喩ですが・・・)」の復権。
言い換えれば、『身体性(=物質性)の欠如』(本書84~87頁)論や
『社会的に分断される頭と手』(本書87~88頁)論などを展開されています。
こうした論考を勃興しつつあった近代啓蒙主義の最初期の理念形成史や
近代産業革命がもたらした圧倒的な機械(技術革新)による人間の「手」仕事への
制圧過程とその反動現象などを『クラフツマンの闘い』(本書191~211頁)で
主に夢見る「ロマンティスト」ジョン・ラスキンの反撃などを紹介考察しながら
著者も「手」作業(何度も注意を喚起させて頂きますが、
この言葉は象徴的比喩表現であり、「心を込めた」仕事のイメージだと
ご想像下さい。)の復権を探究する知的営みを試みていかれます。
ご一読下さると幸いです。)
さて、第1部のまとめです。
第1部における著者の主論は、『第4章 物質<への>意識』(本書212~
253頁)にあります。
著者の文化的「唯物」論的観点からの主張がよく示されている章です。
第1部の著者自身の簡約も<第1部の梗概>(本書253~255頁)に
結実しています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<第2部 クラフト>
・『第5章 手』
・『第6章 表現力の豊かな指示』
・『第7章 道具を目覚めさせる』
・『第8章 抵抗と曖昧』
※第2部では、第1部がいわば仕事の「主体」であった人間(クラフツマン)を
対象とした論考とするならば、ここでは仕事を進行させる具体的なパーツである
人間の身体感覚(特に、著者は「手」にどこまでもこだわります。)から
獲得される身体知や道具といった「客体」から逆に示唆される技術知について
考察が深められます。
著者自身による第2部の要約は、<第2部の梗概>(本書403~405頁)で
まとめられています。
著者自身の音楽家体験を通じて獲得された技術知に関する知見の一端は
特に『第5章 手』に窺えます。
こうした身体知や技術知から獲得される感覚については、
後に項目をあらためてこの4月から管理人自身が取り組み始めた体験談とともに
少しだけエッセー調にして語らせて頂くことにしましょう。
とりあえず、要約を急ぎます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<第3部 クラフツマンシップ>
・『第9章 品質にこだわる作業』
・『第10章 能力』
・『結論 哲学の作業場』
※ようやく本書最結論部へと達しましたが、
第3部では「クラフツマンシップ(技能職人精神)」の観点から
仕事成果の「品質」に過度にこだわりすぎることの弊害事例についても
冷静に批評が加えられていきます。
言うまでもなく、より良き仕事を成し遂げてお客様に喜んで頂くことを
目標に据えること自体は、良き職(仕事)人を志向する人間にとっては
決して悪いことではないものと確信しております。
とはいえ、個々の仕事成果に過度に執着し過ぎると、
かえって『仕事それ自体を歪ませるかもしれないのだ。』(本書34頁)と
著者も警鐘を鳴らしておられます。
また、『第10章 能力』では近代啓蒙主義(特に、初期の理念)を
楽観・好意的に評価しながらも、「才能」と「動機付け」の大きな相違点に
着目するよう読者に注意を呼びかけられます。
現代経済論理では、「才能」に最大限の評価軸が置かれており、
そのために才能レベルでの「差異」の強調化志向へと
人々を急き立て、駆り立てることになります。
しかし、このことがかえって落ち着きのない人間に高評価を与え、
いわゆる「目立った」業績を上げた人間に思わぬ落とし穴へと誘導するような
逆説的現象事例もまま見聞きするところであります。
あるいは、「才能」の「差異」をことさら強調・過大視してしまいがちな
生真面目もしくは不器用な性格を有するビジネスマンに対しては、
過労死などに追い込むような悲惨な事例も後を絶ちません。
このような逆説的現象事例から著者の表現をお借りすれば、
強迫観念を沈静化させ得る知恵がふたたび必要とされています。
著者の論旨は、「才能」が足りないことが問題なのではなく、
「強迫観念の自己管理」こそきちんとできていないがために、
クラフツマンとしては失敗する可能性が高まる(本書34頁)と
いうところにあります。
つまり、「いかにして」だけではなく「なぜ、どうして」をも
同時に問い続けながら仕事(モノ=仕事の対象物)に向き合うことで
技術(機械)とのより良き「付き合い方」を学び直そうとする姿勢が、
冒頭での問題意識にあった現代経済思潮が誘発させかねない「パンドラの箱」に
対処し得る1つの道筋ではないかと提言されています。
そこに活用される1つの知的道具立てとして、
「作業場」から常にフィードバックされる知識・知恵を汲み出すものとして
現代プラグマティズムの効用が紹介されているところに
本書の狙いがあります。
まとめますと、表題の『作ることは考えることである』とは、
このような一連の身体知的体験を通じた哲学的営み(生活実践知)とでも
名づけ得る意識的作業だとも申せましょう。
本書に触発されながら最近の<働き方改革>の一連の流れを観察していると、
制度的歯止め策ももちろん大切ですが、個々の自発的歯止め策(つまり、働き過ぎて
もはや生産的な明日への労働余力すら残されていないという現状を
改善する個々的努力も不可欠だということです。)の工夫こそが
より大切になってきている時期なのではないかと思われます。
先日、たまたま新聞広告欄を見ていると、
某週刊誌の扇情的記事内容が目に入ってしまい
いつもながらの不快な気分が湧き起こりましたが、
「<働き方改革>は、働かない人間を増やす!?(<働かない改革>??)」などとの
違和感ある表現のタイトルに思わず見入ってしまいました。
上記週刊誌記事こそ未読なため公平な観点からの論評は差し控えますが、
このようなあまり個々の人間の物理的・心理的事情を十二分に考慮しない
一般受けしそうな印象記事こそが、
ブラック企業体質を形成・助長していく一要因となっていった
のではないかとも憂慮しています。
管理人自身もこの当世大流行の<ブラック企業>なる言葉を安易に持ち出すべき
ではないことくらい重々承知していますが、
この標語自体が問題提起した現代日本における労働(仕事)観批評に関しては、
十二分に一考する価値があるものと確信しております。
要は、だらだら仕事や人件費抑制などのしわ寄せに由来する
本来なら不要な残業体質などといった<生産性改善>へと向けられた提言だと
理解しています。
なぜなら、先にも触れましたように明日への労働<力>再生産すら
不可能となってきている現状を鑑みれば、資本主義そのものが危機に瀕しているとも
言えるからですね。
<拡大>再生産構造経済の崩壊です。
また、生産面や消費面だけに特化したような労働(仕事)観も
すでに限界に達してきているのではないかと思量します。
この件につきましても項目をあらためて人工知能問題と絡めて
論評してみようと思います。
いずれにせよ、一般受けしそうなタイトルに代表される
わかりやすく扇情的なだけのステレオタイプな(型にはまった思考癖ある)議論には
つくづく巻き込まれたくないものです。
多角的観点から検証する深く突っ込んだ有益な批評をともに
練り上げていきたいものですね。
それが、民主主義社会の成熟度を高めるものだと信ずるからです。
当書評での思索もブログというある程度の速報性や簡易性が要求される
媒体という性格上、あまり偉そうなことは言えませんが、
常にそのような心構えで皆さんの前に立ち臨みたいと
恭倹己を持したいものだと念願しています。
(このあたりも<ブログ>ベースでの言論活動の限界のように思われます。
難しいですね・・・)
こうした初心に立ち帰るきっかけも
本書『作ることは考えることである』によって
あらためて反省・自覚させられました。
おそらく「良識と心ある」読者の皆さんであれば、
共感して頂けるものと信じています。
「やはり、面倒でもきちんと真正面から真面目に考え、語り合いましょうよ・・・」
このように現代プラグマティズム哲学思想は、
こうした現代民主主義の問題点をも打開する視点を提供してくれるようですね。
と同時に本書を読み進めながら、
終局的には、<より良き>仕事を目指すといっても
「自己満足」だけに過ぎない結果に終わってしまうことが多いのだろうか、
それとも、適度なレベルで打ち切ることが仕事と趣味の分水嶺なのか、
としても、己(おの)が仕事の倫理観をどこまでも高く設定することを
志向することを通じて、将来の「顧客満足度」を高めていくための
日々のスキルアップにつながっていくのだとしたら・・・など
様々な問いが思い浮かんできましたが、皆さんはいかが思われますか?
いずれにせよ、現代労働環境における仕事の<生産性>という言葉が
何か歪な物理的・精神的荒廃をもたらしてきたように思われるのは
「なぜなのでしょうか?」と本書は問いかけているようです。
そもそも<生産性>とはどのような質や量のことを意味しており、
一般的にも理解されているのだろうか?
このように日頃の仕事に取り組む際に気づかないでしまっている
様々な「盲点」について触発してくれる優れた1冊です。
「大著」ではありますが、ご一読される価値は十二分にあるものと
信じてご紹介させて頂きました。
日本の通俗的「社会学」関連書に不満足感を覚えられている方には
特にお薦めだと思いますよ・・・
(言うまでもなく、評価は読者さん次第ですが・・・)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・原注
・訳者解説
・事項索引
・人名索引
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
来るべき「人工知能」時代へ向けた人間の仕事の<余地>を残す道筋をともに探りましょう!!
さて、ここからは話題を転換しましょう。
本書<第2部 クラフト>によって触発された論点と絡めて
先程予告させて頂きましたこの4月からお世話になることになった
<モノづくり=仏像彫刻>教室での個人的受講体験記から
<モノづくり>を始めとした人類の仕事が
来るべき「人工知能」時代に至っても剥奪されない<余地>は
残されているのだろうかという重大問題であります。
いまさら<モノづくり>など古くさくて流行らないから
あらたな産業構造の転換に即応した転職を考えた方が賢いなどという
反論もあろうかと思いますが、
そのような表層的な議論をここで展開したいわけではありません。
本書に即して、その趣旨を語らせて頂くならば、
現代労働(仕事)観における
「頭(知的作業)」と「手(に代表される身体作業。著者は<手>にこだわりながら
論考されていますので、敬意を表してあえて<手>と表記させて頂くことにします。)」
の分離傾向から私たちは何を見失ってしまったのかなどを
皆さんとともに再考してみようということです。
また、そうした分離傾向を厳しく見定めることで、
近代産業革命以来のいわゆる<ブルーカラー(肉体労働者)>と
<ホワイトカラー(知的労働者)>との間における
決定的分離・差別(偏見)感情に対する批判(反省)材料となり得る
視点をもたらしてくれる論点だとも確信するからであります。
本書第2部に関する要約は紙数の関係上、すでにその一端だけは
先に触れさせて頂きましたので、節約させて頂きます。
ここで語りたい最重要論点とは、
近現代労働(仕事)観では、全身全霊をかけた心の通い合った
労働(仕事)を通じての本質的コミュニケーションが成り立つ<余地>が
著しく狭められてきたという1点にほぼ集約されます。
ここでは、個々の組織集団や労働者間における
日常的な業務連絡程度(いわゆる<ホウ・レン・ソウ=報告・連絡・相談>
レベル)のコミュニケーションのことを語りたいわけではありません。
もっと仕事を通じて相互交流し得るような高次元での
人間的なコミュニケーションのことを指しています。
そのレベルでのコミュニケーションが成り立つ大前提条件には
仕事に対する情熱・意欲といった個々の深い思い入れ(質感)を
正確に踏まえたうえでの明示知と暗黙知の「共有」をいかに
掬い上げながら、単なる業務効率の改善に止まるだけではなく、
相互の人間的成長にまで達し得るかを考慮に入れた身体的感覚と
精神的感覚を融合させた「体感」知が是非とも必要不可欠だと思われます。
昨今は、そこまで生計を立てるためだけの手段である「組織(社会)」的
労働に意を注ぎ過ぎることの弊害や
『仕事を生きがいなどにするな!!』なる著書も
売れ続ける傾向にあるなど、
ここまでの高い仕事観が忌避・敬遠される風潮にあるようですが、
「社会人」であれば、日常生活の大半を占める「生きた」時間を
仕事に捧げるわけですから、やはり自覚的に考えておきたいテーマで
あることには変わりないことでありましょう。
「仕事」のレベルをどこに設定するか、またどのように定義づけするかは
個々人によってもちろん多少の差異はありましょう。
とはいえ、「人間」として生きているからには程度の違いこそあれ、
広い意味での「仕事」には何らかの形で従事されていることでしょう。
管理人はこれまでも「仕事、仕事・・・」と連呼してきましたが、
管理人自身の定義では、その対価として何も<金銭=経済的稼ぎ>だけに
狭く限定したものとして捉えてきたわけではありません。
広い意味での社会奉仕から隣人間でのささやかな助け合いに至るまで
およそ「人間」同士の心ある<生命活動>を指して言及させて頂いてきました。
そうであるならば、現役か退役か休職中かの差異に
過度にこだわり偏見を助長することに何ほどの意味がありましょうか?
このように考えているわけであります。
なぜならば、「人間」動けなくなると、
急に「生命力」が落ち込んでいくように感じられ、
深い抑鬱状況に嵌り込み、そこからの脱却を何としてでも試みようと
もがこうとする(つまり、再び動き出そうとする)意欲が湧き出てくるものと
思われるからです。
現代社会(特に、日本のような比較的恵まれた先進国社会)では、
生物界本来のそこまでの過酷な試練に直面せずとも
逃げ場所はいくらでもあるかもしれませんが、
人生における困難から回避しようとすればするほど
「生命力」がさらに枯渇していくように
どうやら生物である「人間」の性質はなっているようです。
管理人自身は、このことを抑鬱体験で思い知らされることになりましたが、
とはいえ、只今現在も「引きこもり」や「ニート」状態に
陥ってしまった(ている)方にとっては切実なきわめて荷の重い悩みとなって
日々襲いかかっているのではないかと推測します。
(何も、脅しや嫌がらせの意図で言っているわけではないですよ。
管理人自身もそのような「モラトリアム(猶予)」期間も体験してきただけに
微力ながらも、そうした時期における<心の壁>や<殻>を打ち破れるような
ヒントとなるような知恵を提供することを通じて、同じような苦しみを乗り越えて、
再びその人本来の役割を果たして頂きたいと願っているからです。
その人本来の「使命(役割)」が何かわからないからこそ悩んでおられるのでしょうし、
「使命(役割)」など突如「天」から降ってくるわけでもなし、他人から与えられるもの
でもないでしょう。自分で試行錯誤しながら手探りしていく他ない性格のものでしょう。
その意味では、広い意味での「仕事(生命活動)」を通じてでしか
ご自身の「使命(役割)」は発見されることはないのではないかと思います。)
「手」作業の復権とは、
そのような人生「再」発見の「手」がかりになるものでもあろうと思われます。
著者も、『手は精神に開いた窓である』(本書259)との
カントの格言を援用しながら示唆されています。
さて、久しぶりの更新で皆さんにお届けしたいメッセージは山積みに
なっていますが、本題を私事体験談へと移らせて頂くことにします。
「手」仕事と言えば、当書評ブログ(未公表の原稿作成ネタ合わせなど=
文章修業や精確さなどの追求からいつ公刊し得るかも未定ですが・・・)を
含めた「文筆業」だけではなく、「彫刻」にも挑戦し始めました。
子供の頃から、「だんじり文化」に触れて育った環境なので、
「だんじり」などの木彫りや寺社建築、宗教芸術に強い憧れがあったのです。
そんなこともあってか小学生の頃、未だ図画工作の授業で彫刻刀の使用法も
習っていないにもかかわらず、好奇心が祟りすぎて、その彫刻刀で
大きな怪我をしてしまい、最初期の「落命」の危機に陥った経験もありました。
(どうやら管理人は落ち着きのない性分のようです・・・)
その時のトラウマから長らく彫刻への憧れはあっても、
彫刻刀に触れる機会もなかったのです。
おまけに、幼少期には、彫刻で身を立てたいなどとの強い願望もあったのです。
要するに、彫刻だけではなく、「手(身体的)」仕事に強いこだわりを
持ち続けていたのでした。
おそらく、理髪業によって「手」に職を身につけながら
厳しい少女時代から生き抜いてきた父方の祖母の影響が大きかったのでしょう。
昔のこと(祖母は大正世代、しかも女性の社会進出(単なる出稼ぎ労働レベルではなく)が
きわめて厳しかった時代に丁稚奉公しながらの徒弟修業を経たうえでの独立ですから
すさまじく大変だったものと思われます。)ですから、
まだ丁稚奉公・徒弟修業の時代です。
この大正期は、すでに近代産業革命も頂点に達していたことから、
中世のようなギルド社会は終焉へと向かいつつあった時期に当たりますが、
松下幸之助氏や大阪・船場商人のような丁稚奉公・徒弟修業によって
官学エリートだけの道に閉じられない「立身出世」の余地が数多く
開かれていたようです。貧しい生活環境下においても、志高ければ
理解ある親方・師匠に出会うことさえ叶えば、世に出て自身の「腕」を
試す機会もたくさんあったようです。
そんなこともあって、祖母の口癖は、
「末は博士か、大臣か(でも大臣はなぁ、この頃の大臣はあれやからな・・・、
つまり、祖母ながらの政治家にはならん方が身のためよとの忠告だった)」でした。
今ならさしずめ、「博士もなぁ・・・」と生きていたなら会話も交わしたでしょうが。
ともあれ、管理人自身の幼少期(昭和晩年期)には、まだ「博士(研究者)」は
人気職業だったような感じもします。
ですから、管理人も「博士」を一時は目指そうとしたのでしたが、
経済力とすでに「オーバードクター問題」が世間を賑わせ始めていた頃に
大学を出たもの、せっかく「法学士」を得たのだから普通にサラリーマン生活を
送るよりかは、今までの学業を活かした「手」に職をと考えて法律職関係の
資格も獲得し、本格的に師匠について修業し始めたのでしたが・・・
時期が悪すぎました。リーマンショックで、不動産業や金融業は死に体です。
ここになかなか普通の人のように馴染めなかった社会人生活の様々なストレスも
襲いかかり、深刻な抑鬱期を迎えることになりました。
それでも苦労の末に「手」に職をつけ、将来の独立・結婚資金なども
貯め込んでいたのでしたが、この深刻な抑鬱期から脱却するために
相当な長期休暇(およそ2年ほど)をその貯金取り崩し生活で凌いできたために
資金が底をつき始めた頃に、必死に次の打開策を模索していた時期に
現在のブログ創作に出会い(士業時代のITに詳しい友人の紹介による。
ちなみに友人は副業としてのゲームブログでも成功。
やはり管理人とは<商才>感覚が大きく異なるようですね、とほほ。
今も時々お世話になる畏友です。)、続けさせて頂いていますが、
副業だけでは当然生計費の稼ぎとしては不足するため
世の多くの方々同様に主たる生活費を稼ぐべく日中は他業に従事しています。
その抑鬱期に再び出会ったのが、もう一つの憧れ「彫刻」でした。
この時に独学で始めて彫ったのが仏像で持仏となった観音様でした。
こうして「文筆業」と「彫刻」という「手」仕事(いずれもそれだけでは生計を
立てられる段階には至っていませんが・・・)によって、徐々に抑鬱期からも
脱却、そして「好きなこと」を通じて人とも積極的に出会うようになって
外出も多くなり始め、ようやくささやかながらでも通常の「社会人」生活に
戻ることが叶いました。こうしたこともあって、今回は「手」仕事を通じた
仕事哲学に関する本書のご紹介をさせて頂きました。
「で、本書<第2部 クラフト>に触発された論考はどないなったのよ??」と
皆さんに突っ込まれそうですが、さらに語り続けますと長くなりますので、
またの機会に少しずつその「作業場(仏像彫刻教室)」から学び得た知見などを
面白おかしくご披露させて頂こうと思います。
1つだけ印象に残る師匠とある芸術専門学科高校に通うイケメン(男が言うのも
何ですが・・・)若者との対話があります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
師匠:「○○君は、プロとして彫刻家を目指すのか?」
若者:「芸大へ進学するかどうか迷っているのですが・・・
(どうやら父君が芸大の教授で学費も節約されるらしい)」
師匠:「今日日、芸大出たかて、使いもんにならん奴ぎょうさんおるでって、
わしの友人(デザイン会社の経営者)が言うとったで・・・」
若者:「・・・・(そりゃそうでしょうよ、師匠その言葉は夢見る
高校生にはきつすぎるんとちゃうやろか←管理人の心の声)」
師匠:「今日日、<好きなことして飯食いたい>っていう若者は
ぎょうさんおるけど、ほんまにこの道は厳しいで・・・
いつになったら、この道を本業として食えるようになるか
わからんからな(仏像なんて滅多に売れへんし、友人の一刀彫や
赤膚焼を始め奈良の伝統工芸士は皆一様に苦労しとるからな。
今は日本人自体に美意識も、のう(なく)なってるし、
生活に潤いを入れようとするだけの経済的・精神的余力もないからね。
爆買い連中だけが頼みの綱やけど、あまり気乗りせんなぁ~(笑)
連中も大阪・京都には金落としても、奈良は通過するだけやからね。
奈良の伝統産業で儲かってるのは、酒造業くらいちゃうかなぁ~)」
師匠:「高校生やったら、そろそろ重要な人生の岐路に立つ時やから、
あえて厳しく言い過ぎたかもしれんけど、
プロの彫刻家になるのんか、アマ(趣味)として彫刻しながら、生業は別業で
生計を立てていくのんかはよ決めとかなあかんで・・・。
その覚悟の方向性によって、わしも君への教え方を変えなあかんからねぇ~」
若者:「・・・・」
(あとは、意気消沈してしまった若者を励ます会に・・・
何はともあれ、管理人はこの若き芸術家の卵を心から応援したい気持ちに
なった1日でした。)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
この時に図らずも思い出したのが、約3年前の今頃に見た
大阪松竹座にて襲名後初となる市川猿之助さんの
『スーパー歌舞伎Ⅱ 空ヲ刻ム者-若き仏師の物語-』を
観劇して感じたことでした。
「現在の<イケメン>若き仏師(になるかどうかわからんけど)よ、
大空へ飛び立つがよろし!!今がその時、今でしょ!!」と。
(生の佐々木蔵之介さん、ほんとかっこよかったなぁ~)
まぁ、こんな感じで今回はここまでにしておきますが、
最後に「人工知能」問題だけにあと少し触れて筆を擱かせて頂くことにします。
それは、「人間」には「心」が存在するということ。
「人工知能」・・・
今や、プロの将棋士などを打ち負かすまでに成長したとか言うとりますが、
そりゃ、「技術」や「知識量」については勝るかもしれませんが、
相手との本格的な「心」の読み合いまでには至らないことでしょう。
この「心」の読み合いこそ、
人間同士のゲームの醍醐味なのに・・・
勝敗の「結果」だけに囚われたのでは、
ゲーム自体おもろないん(面白くない)とちゃうやろか・・・
そんなことも実感させられる今日この頃ですが、
これはまだ「ゲーム」だとわかっているからいいのです。
プロの将棋士などもそんなこと分かり切ったことですし、
観客自体も、そんな「人工知能」ロボット君の力量には
興味関心もないことと思います。
やはり、「人間」同士の「心」の読み合いだからこそ、
私たち観客も予想の付かない展開を期待するからこそ、
ワクワク・ドキドキするのです。
ただ、これが、一般的な「人間」の労働(仕事)原理=現場にまで
拡張応用されていったとしたら、その先には何が起きるのか?
このあたりに皆さんにも想像力をひろげて頂きたいのです。
「面倒くさいことは、人工知能(機械)に・・・」の
思わぬ落とし穴が待ち受けているかもしれないからです。
とは、管理人の日々の商品入出庫(作業)などをしていて感じるところです。
ピッキング業務とは始めての体験ですが、不思議な感覚ですね。
『「人工知能」君に
もし「心」が芽生えたら、どう思いはるやろか??』
こんなことを時たま思い出しつつ、
一見して機械的・無味乾燥に思えてしまう(←あまりにも高度な知的教育や
知的労働を習慣にし過ぎてきた者の悲しい性ですが・・・、こうした体験を経ると
これまで無意識のうちに、<ブルーカラー(肉体労働者)>を軽蔑してしまっていた
自分の性格にイヤらしさを感じてしまいます。戦後日本の教育体系もあまりにも
<ホワイトカラー(知的労働者)>向けに偏り過ぎていたことも原因でしょうが・・・
管理人自身の体験や先に触れた「専門学科」の高校生君と身近に親しくさせて頂く
機会を得たこともまた管理人の「頭」をよい意味でほぐしてくれたようです。)仕事も
意外に面白く感じられてくるから不思議です。
やはり、著者が強調されるように
「手」仕事(つまり、身体運動)を通じた肉体労働も
「才能」よりも「動機づけ」の問題なのではないかと
生活実感からも共感すること頻りにあります。
まだまだ語り合いたいことはありますが、
そろそろ2万字にも達しようかというところで、
皆さんの貴重なお時間をお割き頂くことも遠慮しなければなりませんので、
今回はここまでとしておきます。
まとめますと、来るべき「人工知能」時代にいかに「人間」の
仕事の<余地>を残すことが叶うかを皆さんにも考えて頂く課題として
恐れながら宿題とさせて頂きましょう。
ということで、本書は、「物質(仕事の対象物)」との「対話」を通じて
考えることの出来る一風変わった「哲学書」ですので、
かなりの「大著」ですが、
春先の「春闘」もしくは5月の連休にかけての「メーデー」に向けて、
政治的立場にこだわらずに柔軟な姿勢で取り組み頂ける著書として
ご一読されることをお薦めさせて頂きます。
特に、保守的傾向のある読者さん(管理人もですが・・・)には、
こんなユニークな「唯物論」的思考法もあるんだと新鮮な感覚を
味わうことが叶うのではないかと思いご紹介させて頂きました。
いつも強調させて頂いていますが、
日頃の自分が意識的・無意識的に抱いている(きた)価値観を
揺さぶってくれる書物こそ、もっとも人生を豊かにしてくれるということで、
今後とも管理人自身の好みにこだわらず、幅広い視野から
政治的立場にかかわらずにご紹介していこうと精進していく所存です。
今回は、「言い訳」めいて大変恐縮ですが、
私事の都合上、3月決算時期から4月のかなりの繁忙期が重なりましたことから、
更新も遅れ、楽しみにしてお待ち頂いた読者さんへのお詫びの気持ちも込めて
長々とサービスさせて頂きました。
今後とも「不定期」更新になりますが、「腕」に縒(よ)りをかけて
書物のフルコースをお出ししていこうと思いますので、
どうか末永くご愛顧のほど宜しくお願い申し上げます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
なお、「現代プラグマティズム」入門書として、
前にもご紹介させて頂いた伊藤邦武先生の
①『プラグマティズム入門』(ちくま新書、2016年)
②『プラグマティズム入門講義』
(仲正昌樹著、作品社、2015年)
③『希望の思想 プラグマティズム入門』
(大賀祐樹著、筑摩選書、2015年)
また、日本人哲学者による「手技」文化を考察したものとして、
前にもご紹介させて頂きました
・『独学の精神』(前田英樹著、ちくま新書、2009年第2刷)
も本書とあわせてご紹介しておきます。
最後までお読み頂きありがとうございました。
sponsored link
[…] 前にもご紹介させて頂いたような<手>仕事に直接体験付けられた […]