木村敏先生の「からだ・こころ・生命」精神医学から臨床哲学へ!!「人間」は、関係ー境界線上に生きる有機体!?

Pocket

「からだ・こころ・生命」

精神医学者として活躍されている木村敏先生の

思索遍歴の集大成が短編に集約された魅惑の論考集です。

「精神医学から臨床哲学へ」をモットーに、

日本の精神医学業界の閉ざされた世界観や人間観に

一石を投じられました。

「人間」は、「いのち」を有した「生きもの」ですので、

動態的考察が必要です。

ですが、現代精神医学は、「死体学」のような現状。

今回は、この本をご紹介します。

「からだ・こころ・生命」(木村敏著、講談社学術文庫、2015年)

木村敏先生(以下、著者)は、現場臨床経験も豊富な精神医学者です。

詳しい「自伝」については、著者の生涯を通じて発信されてこられた

メッセージでもある『精神医学から臨床哲学へ』

(木村敏著、ミネルヴァ書房、2010年)という別著がありますので、

そちらをご一読されることをお薦めさせて頂きます。

その他にも『時間と自己』(中公新書、1982年)や

『あいだ』(弘文堂、1988年)などの著作があります。

このように、「自伝」を、すでに出版されておられるとはいえ、

2016年現在、まだまだ現役活躍中であります。

現在は、大学受験予備校として有名な『河合塾』の付属研究機関である

河合文化教育研究所の主任研究員を務められています。

上記研究所は、これまでもご紹介させて頂いたことのある

渡辺京二さんなど、優れた「在野研究者」をも擁してきた民間教育研究所で

あります。(記事①記事②

本書は、わずか120頁ほどの薄い「小冊子」の論考集ですが、

これまでの「木村生命論」の集大成を学ぶことができる高密度な内容で

満ち溢れています。

本書の原型は、上記の河合文化教育研究所が主催して開催された

国際シンポジウム『生命論』をテーマにして、

1996年10月26日と11月2日に発表されたものであります。

著者の精神医学人生における方向性を決定づけていくのに影響を受けたとされる

ドイツのヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼカーを共通の師匠とする下記の2人を

招いて、著者とともに、講演された内容とのことです。

①ドイツの「現象学的精神病理学者」ヴォルフガング・ブランケンブルク氏。

②ベルギーの「精神分析学者」ジャック・スコット氏。

の2人であります。

そこで、この「現象学」という言葉が、本書を読み解く際の

大きなキーワードになるのですが、ドイツの哲学者フッサール

ハイデガーなど、現代哲学における世界観や人間観を、

それまでの西欧哲学の視点(特に、「認識的方法論」)に関して、

大きく方向転換させていった哲学学派の学問的方法論の名称のことであります。

(ちなみに、本書と関連する「現象学」の系譜は、こちらの記事

お読み頂くと幸いです。メルロ=ポンティの「間身体性」というキーワードも

本書24~30頁の「間主観性」というテーマで出てきますので・・・

少しは、お役に立つかもしれません。)

「現象」とあるだけに、世の中の諸現象を分析考察(まさに、認識!?)していく

ことになるのですが、それまでの認識哲学が、知性にあまりにも偏りすぎた

「思弁(形而上)哲学」だったため、「有機的生命体」である「人間」を

考察対象とする哲学の本来の趣旨から、ますます乖離していく現状への反省から

現出されてきた「<生命>哲学」の一種であります。

後ほど、本文内でも、著者の論考をご紹介させて頂く過程で、解説していく予定ですが、

まずは、「現象学=生命哲学=実存哲学=<人間>哲学」だといったイメージ像

つかんで頂ければ幸いであります。

そうした「現象学」から得られた知見を、精神医学などの「自然科学」にも

応用していこうとの問題意識が、著者の思想土台を創り上げていったといいます。

そこから見えてきたものこそ、「人間」の「人格」の複雑さ(多様性の存在)で

ありました。

冒頭でも触れさせて頂いた現状の「精神医学(心理学なども)」が、

生きた「人間」を対象とした学問から乖離するなど、「死体学」に退化してしまっている

猛省から、著者の「対話」を重んじる「臨床哲学」へと進展していったようです。

本書は、現在の成熟した「木村生命論」に至るまでの思索の軌跡を、

短編集の形で、読み進めることができる「ぜいたくな一品」であります。

ということで、従来の精神医学業界に不信感を抱かれている方や、

これから「木村敏哲学」を読み進めながら、あらたな知見を学んでみたいが、

難しそうで、「逡巡」しておられる方向けの「入門書」としても

最適ではないかと思われましたので、この本を取り上げさせて頂きました。

境界線上の「あいだ」で関係性を取り持つ「人間」

管理人も、本書が、著者との始めての出会いでありますので、

この短いブログ空間で、全体像をご紹介・解説させて頂くなど、

他記事同様に、「おこがましいにも程がある!!」ということは、

いつも念頭に置きながら、語らせて頂いているのですが、

まずは、本書をご紹介させて頂くに至った問題意識を整理しておきます。

それは、「人間」が持つ「人格」の複雑性に、管理人自体も

日々悩まされ続けてきたことがあります。

この点は、およそ「社会」で生き抜かざるを得ない「人間」であれば、

どなたでも共通する難題だと思われます。

その意味で、「人間」の「不思議」さを考えていくヒントの書としても、

この「生命論」としての「木村敏哲学」には、親しんで頂けるものと思っています。

今、「不思議」と書きましたが、「<思議>すべからず!!」が、

本来の必死に「生きている」過程における「人間」の実相であります。

実は、この「思議=思考<言葉>の罠」こそ、個々の「個体」が

絡め取られてしまう「自我」を創出させてしまっているのではないかとの疑問から

普段、私たちが、十二分には分析考察出来ていない「人間」と「世界」の

関係性の「盲点」を、いま一度、丁寧に捉え直してみようと、

「人生」を「生き抜く」ための「再出発地点」にしようとの観点から、

「木村生命論」の問題意識も始まっているようです。

それが、「あいだ」といった関係性に焦点を当てた「木村敏哲学」の特徴であります。

「現象学」の表現をお借りすれば、「間主観性」仮説を土台に、

「人間」の身体感覚を主軸に据え直して、再構成された「精神心理科学」であります。

ここで、本書の内容構成を挿入させて頂きます。

「第1部 身心相関と間主観性」

①「身心二元論を超えて」

②「主観と主体」

③「公共的間主観性と私的間主観性」

④『ヴァイツゼカーの「主観/主体」』

⑤「境界はどこか-個体と集団」

⑥「主体的身体」

「第2部 人間学的医学における生と死」

①『「生きている」というアクチュアリティー』

②『環境との「相即」-生きることの本質』

③「二重の境界を生きる」

④『「死」の人称的差異』

⑤『「医学への主体の導入」-二人称の関係の共有』

(解説 生と死のアクチュアリティー 野家啓一氏)

という2部構成で、「木村生命論」の「超訳」がなされています。

短いご紹介記事の中で、とてもとても詳細な解説など叶いませんので、

「木村生命論」の基礎は、本書をご一読して頂くことに委ねさせて頂きます。

とはいえ、それでは不親切ですので、

本書で学び得た限りの要点に触れながら、

管理人の日頃の問題意識とも絡ませながら、

以下、触れていくことにしましょう。

上記の「目次」をご覧になると、おわかり頂けるかと思いますが、

これまでの西洋近代哲学においては、デカルトの「身心二元論」に

代表されるような「主客二分論」など、「人間」と「世界」との関係性について、

どうしても、「切断・分離」するような姿勢で、私たちは、「この世界」に

挑んでしまう傾向にあります。

「近代」は、「理性(知性)」が極度に重視されますから、

「理屈」で、「自分」以外の世界を「対象化=つまり、安易な決めつけ!!」を

してしまう悪い思考クセが付いてしまっています。

管理人も、この「理性の力」の短所には、日々悩まされているところです。

この点、『学を絶てば、憂いなし!!』(老子)という言葉に

いつも説教される羽目に陥るのですが・・・

どうも、「(高等??)教育」を受け、「上昇志向」を持ち、

何とか、「自力脱出」を図ろうと、もがけばもがくほど、

苦しくなるようですね。

これは、管理人だけではなく、「近現代教育」を受けさせられ、

「近現代思考」に馴染ませられてきた「近現代人」へと変容させられて

いく過程で、大半の方々も経験されてこられた苦しみではないでしょうか?

こうした「教育」過程で、「自我」が拡大強化されるとともに、

「欲望」を大前提に動いてきた現代社会の中で、1人ひとりが「分断」されて

いく元凶になっています。

本当に、「自我(自己、自分、個我など)」が、「確固」とした「もの」として

存在するのでしょうか?

ここに、「人間」と「世界」の実相を解き明かす鍵があるようです。

著者も、「自分」を取り巻く外界が、絶えず変化に富んでいることから、

各「人間」に内在する「自分」も「あいだ」を生きている「二重の存在」として、

各「個体」の志向性と「集団(類)全体」の志向性の

「重ね合わされた場(あいだ)」を生きている存在が、

「人間」の実相だと見立てられています。

つまり、境界線上の「あいだ」そのものが、「主体的身体」だということです。

そのため、こうした「境界線上の場」や「関係性の接点」など、

「断崖絶壁」の先鋭部分の「場」を生きていることに無自覚であると、

常に外界の動向に振り回されてしまうといった「致命傷」を負いかねません。

数々の「精神病理現象」も、この「無自覚」が、

比較的軽度な時分には、「幻想(影)」で済んだものが、大きく成長し、

「傷口」を押し広げていく過程で、「実体化」という重症へと至ったのかも

しれません。

そこを、理解せずに、安易な「対症療法」で「治療」させられると、

それこそ、後戻りはできないほど、「傷口」を深めてしまいます。

そうした悪循環に嵌り込まないためにも、

ご自身の「心理状況」を、「あたま」ではなく、

「からだ」と「こころ」で、つかみ感じ取る生活に戻る知恵が必要になってきます。

著者の主張されるように、「人間」は、「あいだ」という「二重性」を

生きているのだと「わかれば」、回復への取っ掛かりにもなることでしょう。

「あいだ=境界線(関係性)」ですから、常に揺れ動きます。

そこから、「視点」を「固定」させずに、「移動」させながら、

日々の「人間関係」など、「自分」を取り巻く環境世界を整理整頓していくと、

こだわらない強靱な「からだ」も「こころ」も形成されていくのではないかと、

そのヒントを著者から授かりました。

その「視点」を皆さんにも共有して頂こうとの思いで、

少しはお役に立てるのではないかとも考え、

「木村生命論」をご紹介させて頂いています。

「生きる<もの>」と「生きる<こと>」の関係性も、

本来は、このように簡単な「割り切り」など出来ない仕組みになっています。

そこを、「近現代人」は、「わかりやすく」「切断・分離」させて、

「あたま」で理解しようとするからこそ、「つまづく」ようですね。

生命の実相は、この「もの」と「こと」をも超越したところで、

「いのち」は流れていることに気付くことが大切であります。

つまり、「生命は、論理の世界を飛び越え出る!!」という視点を持つこと。

すなわち、「全身全霊で、世界に接触すること!!」であります。

西洋哲学(近現代教育)の「理屈」では、「自我」の「確立」から

人生を始めさせられる傾向にありますが、

実際には、そのような簡単な「自他弁別」など難しいのが真実のようです。

この「自他弁別」も、言葉を介した「理屈」で思考していくから、

説明がややこしくもなるのですが、逆の視点、例えば東洋哲学(仏教など)から

「この世界」を眺めると、本来は、「自他弁別」機能を働かせないように

「自我の計らい」を微調整していくのが、

「理想の境地(三昧)」であるともいいます。

管理人も、まだまだ「未熟者」で、死ぬまで「修行(業)の身」でありますが、

「生きてある<こと>」は、「理屈ではないんだ!!」ということだけは、

常に自覚しながら生きていきたい<もの>であります。

このように、「木村生命論」で出てくる専門用語自体は、難しいですが、

虚心坦懐に読み進めていくと、語られている内容自体は、

「言われてみれば、当たり前!!」な世界観であります。

私たち「人間」は、常に「環境世界」と接しながら、「あいだ」を生きていると。

ただ、私たち「近現代人」は、幼少期から「近現代的<理屈病>」に

犯されているために、忘却してしまっているだけであります。

そんな「忘却」から目を覚まさせてくれるのも、「木村生命論」であります。

「リアリティ(リア充??)」より、確かな「現実的臨場感覚(アクチュアリティー)」を取り戻そう!!

本書で、著者は、従来型の「死体学」に堕落してしまった

「精神医学」の現状から、何とか「生きた人間性」を取り戻す試みを

提案されています。

それが、「医学への主体の導入」という視点であります。

すでに触れさせて頂きましたように、近現代の「人間観」や「世界観」を

構築していった諸学問の方向性は、「対象化=つまり、「人間」を「世界」から

切り離していく思考プロセス」にありました。

そのため、「人間」同士が、互いに比較競争したりするなど、

本来の「あいだ」で、「人間」が「相互協力」して、「共生」していくという

姿勢が見失われてしまいました。

「ひきこもり」、「ニート」などの各種の現代病理現象(<病理>とは、

通常の大多数の「社会」通念から見た解釈のことですが・・・)も

「人間不信感」に由来する「二分型思考法」に原因の一端があります。

管理人の見解では、「唯一」の「社会」といった見方が、

現代人の苦しみを倍加させてきた原因でもあり、

安易に「精神病名(新型うつ病や適応障害など)」を増加させてきた

元凶だとも考えていますので、「レッテル貼り」は可能な限り

慎むべきだとの意見を持っています。

著者も強調されているように、生物の特殊的「個体性」よりも、

生物一般に先天的に備わっている「集団的主体性」をもっと重視した見方を

持つべきだと。

『(生命を論じる場合、)特殊人間的な先入見に左右された

人間中心主義的な見方は、なによりもまず排除しなくてはならない』

(本書50頁)

この点で、「ひきこもり」や「ニート」さえバッシングしておけばいいんだとか、

逆に、上記タイトルのような「社会生活」を充実させている

「社会人」への嫉妬心から生まれ出た

「リア充(ネット用語で、現実(リアル)生活充実者のこと)」なる

生命感覚の薄れた言葉も「同罪」であります。

「リアル(現実)」か「バーチャル(仮想現実)」かといった感覚も、

「存在論的差異」にしか過ぎないと感じられるからです。

どのような「世界」に住んでいようと、「人間」であることをやめないかぎりは、

どちらも、「社会」に共存する「社会人」に他なりません。

ただ、「あいだ(間合い)」の取り方に、「異変」が生じているだけでしょう

管理人は、「情報産業革命」も成熟期に入っていこうとする時期において、

『そろそろ、そのような「不毛な論争」は「打ち止め」にしませんか?』と

静かに呼びかけるものであります。

「社会」も決して「一つ」の「静止画像」ではないからです。

「社会」が、唯一の「静止画像」でないとすれば、

「人間」も同じです。

さらに、「自分自身」の「内部心理環境」も同じでしょう。

結局は、各人各様の「差異」と「共通点」の「あいだ(結び目)」を

微調整することに尽きるようです。

ことに、「個体」の個別的差異を超越した、それぞれの「生命」の

「共通地盤」である「現実的臨場感(アクチュアリティー)」を

どこまで掘り下げ探究していくかが、最重要点であります。

「生命存在」の「確固たる根拠」・・・

それは、「安全地帯」の確保であります。

普段の「個別的人間観」では、見逃しがちの「盲点」でありますし、

現代社会自体の変化・変容も一見スピーディーに実感されますので、

「集団」の底流にある「安全地帯」など、

「そもそも、確信不可能!!」という思いが強いのも、

「現代人」一般の特徴であります。

管理人も、日々の暮らしで、「不安定感」を頻繁に味わってきただけに

その気持ちは十二分に理解出来るつもりです。

それは、「人間」のえさ場が、「唯一」の「社会」といった「生活場」にしか

許容されてこなかった(もしくは、その領域が著しく縮減されてきた歴史的事実)

ことにもあります。

「知性」をもった「人間」なら、もっと「豊かな世界」を創造出来るだろうに・・・

とはいえ、終局的には、「個体」と「集団」の「あいだ」で

「安全地帯」を何としてでも確保し得るのだとする「確信」がなければ、

現状を変化・変容させることも叶いません。

でも、「不安定感」があっても、賢明な皆さんなら、きっと大丈夫ですとも・・・

「木村生命論」が、そのヒントを示唆してくれています。

「独断と偏見(一人称)」でも「対象化(三人称)」でもない

「われわれ(二人称)」の「身体感覚」を呼び覚ますこと。

それは、「人間」を相互交換(つまり、道具扱い)しないことでもあります

「人間」同士の「あいだ」には、「内部」も「外部」も、「元来ない!!」のだ

と気付く視点(これを、難しい専門用語で「オートポイエシス」と言うようですが・・・

本書64~70頁ご参照のこと。)が、私たちの複雑にもつれ合った「人間関係」の

「結び目」を解きほぐしてくれることでしょう。

ちなみに、管理人は、前にもライプニッツをご紹介させて頂いた際には、

消化不良だった「モナド論(=モナドは相互独立していて、窓をもたない)」という

意味も、この箇所における解説で疑問が解消されました。

「モナドそれ自体が窓である(世界との境界かつ窓である)」なら、

それ以上の「窓」を持つこともないからだと。

「人間」の「生命<場>」としての多様(多層)な時空を再設定し直す論考は、

「生命論」としては貴重な論考です。

とはいえ、本書とは少し離れますが、最近の「生活問題」の筆頭として、

「人間」の「えさ場問題(ベーシックインカム論)」に関するテーマは、

今一度「ご再考」願えないものかと、

スイスの国民投票結果を観察していても実感させられました。

(もっとも、スイスの物価が高いのかもしれませんが、

最低所得保障金額が高すぎたのではとも感じられたのですが・・・)

この「ベーシックインカム論」も、本書の「精神病理学」の

症例分析から考察していった「生命論」とも

まったく無縁ということはないでしょう。

というのは、現代精神病理の多くが、親から子へと引き継がれてきた

「衣食住」などの「安全地帯」に対する「欠乏感」を遠因とする

「愛着障害問題」にもあるのではないかと考えられるからです。

(あくまで、管理人の素人ながらの臆見にしか過ぎませんが・・・)

この「えさ場問題」も、おそらく近未来の日本でも取り上げられる機会が

訪れるかもしれませんので、皆さんも目下のところ、興味関心あるテーマだと

思われますので、みんなの「宿題」とさせて頂きます。

管理人も、今後とも引き続き「調査研究」しておくことにします。

ということで、その他にも、貴重な論考が多々あり、

皆さんにとっても、「この世界」を「生き生きと」生き抜く勇気が出てくる

生命エネルギーが得られると思われますので、

本書をご一読されることをお薦めさせて頂きます。

最重要点は、「環世界への没入」であります。

どれだけ、「現実的臨場感(アクチュアリティー)」をもって、

「この世界」に触れることが出来るかということであります。

それによって、皆さんの人生の「充実度」も、

「深く・濃く」高まっていくことでしょう。

最後までお読み頂きありがとうございました。

sponsored link




 

One Response to “木村敏先生の「からだ・こころ・生命」精神医学から臨床哲学へ!!「人間」は、関係ー境界線上に生きる有機体!?”

コメントを残す

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

サブコンテンツ

このページの先頭へ

Copy Protected by Chetan's WP-Copyprotect.