竹村牧男先生の「華厳とは何か」「おかげさま」と「ありがとう」から始める華厳経入門書!?
「華厳とは何か」
東洋大学学長の竹村牧男先生が、
「華厳経のこころ」を解説されています。
「華厳経」といえば、奈良東大寺の大仏さんの教え
として知られていますが、その内容は難しいこともあり
敬遠されています。
混迷を窮め、生命が軽視されていく現代社会だからこそ、
今もっとも学びたい仏教の教えが、「華厳経」です。
「おかげさま」と「ありがとう」をキーワードに、
今回は、この本をご紹介します。
「華厳とは何か」(竹村牧男著、春秋社、2004年)
一般向けにもわかりやすく仏教を伝えてこられた仏教哲学者です。
著者の仏道における師匠は、秋月龍珉老師だそうで(本書134頁)、
学者として、その「学理的探究」に携わってこられました。
その「わかりやすい」仏教哲理の解説には、定評があり、
NHKテレビ・こころの時代(2002年4月~2003年3月)にて、
「華厳思想」について講義されたテキストを基に刊行された単行本が、
本書であります。
「華厳経」については、一般向けの「わかりやすい」解説書も
少ないだけに、本書は貴重な教材であります。
さて、今回「華厳経」をテーマにさせて頂いたのは、
言うまでもなく、現代社会では、効率化が図られていく反面、
ますます「非人間扱い」されるような悲しい事件・事象が
立て続けに増加しているように見受けられるからです。
5月末には、伊勢志摩サミットもあり、
世界の諸問題について討議される予定であります。
2014年にはインド首相を招かれた京都東寺の大日如来の
御前からのように
いずれは、奈良東大寺の毘盧舎那仏(大仏さん)の御前からも
各国首脳を招きつつ、「平和メッセージ」を発信して頂きたい・・・
東大寺は、シルクロードの終着点でもあるように、
東西交流の大きな架け橋となる中継地点でもあります。
そして、日本仏教はインド・中国・朝鮮半島を経由しながら、
日本社会の原型を形作っていった先人の真摯な思いを汲み取り、
本来の東アジアの安定から世界平和へと進展させていく視点を
「華厳経のこころ」から学び取りながら祈り続けることは、
この混迷窮まる現代社会では、大変意義深いことでもあります。
そうしたこともあり、是非とも「太陽と水の国」日本から
世界へ向けた積極的な「いのちの尊厳」について発信して
頂きたいとの大願も込めて、本書を皆さんにご一読して
頂きたく、この本を取り上げさせて頂きました。
「善財童子」の素直な道心(童心)とともに学ぶ「華厳経」
本書では、善財童子の「自分探しの旅」などをテーマに
比較的わかりやすく「華厳経のこころ」が説かれています。
善財童子と言えば、獅子に乗った文殊菩薩や象に乗った普賢菩薩など、
55(あるいは、53)もの人々から、「華厳経の教え」を
学び取っていった物語で知られています。
まさに、その物語の典拠が、この「華厳経」にはあります。
詳細は、本書にゆだねさせて頂きますが、
「華厳経のこころ」を難しい仏教用語抜きで語るとするなら、
「おかげさま」と「ありがとう」であります。
「華厳経」のわかりやすい解説は、前にも当ブログで、
ご一読下さると幸いであります。
本書の解説から、仏教用語を借りるなら、
「一即一切・一切即一」
「一即多・多即一」
「一入一切・一切入一」
「重々無尽」などなど、
「多元・多層の量子重ね合わせ的世界観」であります。
この「量子重ね合わせ的世界観」は、現代物理学から
導き出されてきた「宇宙論」ですが、
そのイメージをさらに、いのちのリズムを乗せた
「網の目模様」として有機的生命体へと発展させた世界観が、
この「華厳経のこころ」にはあります。
「世界と自己」を分離してイメージするのではなく、
一体的関係性をもった実相として見る・・・
管理人の力量不足は否めませんが、こんな感じでしょうか?
もちろん、仏教であり、なかんずく、「華厳経」は
インドの大乗仏教の流れを汲む世界観とされるため、
「実相」という表現すら不適切かもしれません。
ただ、国語教科書的に、「実相=生滅変化する万物の奥にある、
真実の相」(新明解国語辞典第4版)とするなら、
森羅万象の底流を流れる「生命=意識の流れ」が、
「実相」の真実の姿なのでしょう。
とはいえ、「幻想」だとか、
「多世界解釈」を好む量子物理学者がしばしば言及する「ホログラム」とも
異なるような感じがします。
量子物理学者は、あくまで「科学者」的視点から、
世界を「物理的=機械(無機)的」に取り扱う傾向にあるので、
そこには、「生命の輝き」が、もう一つ感じ取れないからです。
(もっとも、科学者にも、多種多様な方がいますが・・・)
この「華厳経の教え」を世界的に展開すると、
物理学者のデヴィッド・ボームが表現するような
「暗在系(陰)と明在系(陽)」のような見立ての世界観とも
共通する要素が含まれているように感じられます。
とはいえ、「物理学者」の彼の場合には、
「唯物論」的な見方とも評されるだけに、
微妙なズレがあるようにも感じられます。
ただ、大乗仏教哲学では、「空観」「中観」「仮観」などの
抽象的解説が、多くの解説書でなされていますが
こちらの仏教的世界観では、「非実在論」とする見方が主流であります。
(2017年3月6日追記:以前この場で「非実在論」で共通すると断定的表現を
してしまいましたが、その後の学習過程でどうやら「非決定的」もしくは
「非局所的(つまり、遍在的世界観のこと??)」というところまでは理解が
進みましたが、大方の論者の見立てでは、「実在論」の一種とされているようです。
いずれにしましても、彼自身最期まで思索の跡に混乱の様子が見られたところもあって、
量子論におけるいわゆる「ボーム解釈」には現在でも数多くの論争が
繰り広げられ、依然として課題が残されているようですね。)
そこで、今「唯物論」と出ましたので、それに対して、
「唯心論」が、仏教でよく話題にされる「唯識論」ということに
当たるのではないかと思われますので触れておきます。
本書でも、「華厳経」を「唯識論」の角度から光を当てた解説が
なされていますので、詳細はそちらにゆだねさせて頂きますが、
管理人の感じたことを率直に語らせて頂きます。
これまで、個人的に学ばせて頂いた限りでは、
必ずしも「唯識=唯心」ではないようですね。
(詳細は、こちらの記事もご参照下さいませ。)
「自我(自己、私??)」の奥底に流れる「生命の認識作用」を
心理学的に分析考察されたのが、「唯識論」であります。
「唯だ識がある」のではなく、「唯だ識るというはたらきがあるのみ」
といった「認識作用」に力点を置いた考察です。
ここで、「心」と「識」の違いを解説しておきますと、
「心=肉体的イメージを伴った残像を写し取る働き」に対して、
「識=あるがままに見る働き」と一応は分けることが出来ます。
ただ、実際には、この「識」が、様々な「層(次元)」により、
曇らされてしまいますので、私たちが、
この世界を「そのまま、あるがままに」識別することは、ほぼ絶望的です。
なぜなら、そこには、「自我の計らい=執着など」が絶えず付きまとうからです。
仏教とは、言うまでもなく、そうした「自我の計らい」を乗り越えた
「無我の境地」を深く味わい尽くすことの叶う「悟り」を目指す
方法論を提供してくれる教えです。
仏道成就とは、「悟りの完成」のことですが、
なかなか現世では、管理人を含め難しい難題であります。
むしろ、「悟った!!」などと称して「自己啓発セミナー」などで
客集めしている人間がいるとするなら、疑ってみて下さい。
余程の高僧や仙人??であれ、「肉体」をもった現世では、
まず難しいと言われることでしょう。
だからこそ、「わしは、修行中なのじゃよ、ホッホッホッ!!」と
良心的な修行者なら答えてくれることでしょう。
残念ながら、現代社会では、簡単に「詐欺被害」が後を絶たないようです。
それはともかく、皆さんも気を付けて下さいね。
話を「悟り」に戻しますが、現世において「悟り」を
無理に開こうとする必要もないようです。
(出来れば、素晴らしい!!ですが・・・)
本書でも、「華厳経の教え」に影響を受けたとされる道元禅師のことが
触れられていますが、「学び続ける過程こそが、悟りへの道」である
とのことです。(ちなみに、道元禅師については、こちらの記事ご参照)
そこで、「自我(自己、私??)」を滅却して「無我」を目指すのですが、
この時に注意を払わなければならないのは、
「<自我の滅却>を意識してはいけない!!」ということです。
なぜなら、その「自意識」こそが、「自我」を強化させてしまうからです。
「無心」に「無我夢中」に真剣な生き方を心がけていれば、その「道中」が
そのまま「悟り」として現成してくるようです。
そこで、本書で解説されていますが、「唯識論」における修行時間は、
相当な時間がかかるように描かれていますが、「華厳経」では、
まさしく、善財童子のような素直な心で求道に励む毎日を送ることが
出来れば、短時日での「悟りへの道」が開けるようです。
「悟りそのもの」ではなく、「悟りへの道」ですが・・・
しかも、「唯識論」のような理知的難解さも含まれていません。
「華厳経」をそのまま読み込んだ訳でもなく、専門家ではないので、
本書から学ばせて頂いた点を自分なりに咀嚼しながら
解説させて頂いていますが、
ズバリ、「華厳経の肝は??」と聞かれれば、
この「善財童子の求道物語」だとお答えさせて頂きましょう。
専門家の解説や「華厳宗」のお坊さんに確認しても、
大体はそのような答えが得られるのではないでしょうか?
この「善財童子の求道物語」を、どなたか才能ある方に
「説教節」や「和讃」のような
リズムで再現して頂くと面白いのですが・・・
「講談・講釈」や「落語」、「文楽」「能楽・狂言」「歌舞伎」
はたまた、「へヴィメタルロック!?」などなど、
どのような表現形態でも構いませんが・・・
あくまで、希望だけ述べさせて頂くことにしておきますね。
「小我→大我→真我」へと「華」を開かせていく教えが、「華厳経」!?
さて、このように語ってきました「華厳経の教え」ですが、
「なかなかどうして汲めども汲めども尽きない教え」であります。
仏教は、もちろん、どのような「語り口」から入っていっても、
「汲めども汲めども尽きない教え」なのですが、
この「華厳経」のような大乗仏教では、「方便品」と言われるように、
こうした「たとえ話」が多いようですね。
こうした物語を読むのが、また辛気くさく小難しい理屈をこねた解説よりも
一般人にとっては、数段楽しいものです。
(著者を批判している訳ではないですよ、念のため)
昨今は、こうした「説法」も少なくなってきたのが、残念なことです。
管理人も、生涯のライフワークとして、上記のような「物語」の試みを
いつか、どこかで実現出来れば良いとは思っているのですが・・・
なかなか、実現への道のりは険しく、「今は、勉強中!!」です。
叶えば、管理人の敬愛するイッセー尾形さんのような
「紙芝居」形式が良いですね。
ここまで、本格的な巡業だと、「本業」になってしまいますが・・・
何よりも、「絵」の勉強も、しなければなりませんからね。
「唯識論」は、一般人(管理人も含めて)にとって、
正直難しく、しんどいテーマでもあります。
やはり、芥川龍之介氏の『蜘蛛の糸』のような仏教説話がいいですね。
ちなみに、「仏教説話集」集め(研究)は、個人的趣味でもありますが・・・
いずれにせよ、この「華厳経の教え」は、「無我(悟り)への道行き」を
善財童子の求道物語を通じて、語らせています。
「小我→大我→真我→無我・・・」へと続いていくのが、
「悟りへの道」であります。
「無我」すら「空じていく」のが、仏道であります。
「自我(自己、私??)」をどこまでも空じながら薄めていく。
ここに、仏教の極意が集約されているようです。
その先には、
「<無私>としての<光>、さらには<時空そのもの>との一体化」も
イメージされているようです。
このテーマは、また後日、別著のご紹介で考察させて頂く予定でいます。
乞う、ご期待でございます。
ところで、一般人にとって、有り難いことに、
善財童子の求道物語でもおわかり頂けるように、どのような通路からでも
入っていける「融通無碍」なところが、仏教の自由なところです。
とはいえ、仏教を国教としながら、政治に取り入れてきた国は、
誠に残念ですが、ほとんどの国々が厳しい状況へと追い込まれてきたようです。
そのことは、お釈迦様自身の人生でもあります。
日本でも、仏教導入により、国造りが本格化していったのですが、
結局は、難しかったようです。
聖徳太子も聖武天皇も政争に巻き込まれてしまいました。
その代わりに、日本では、「儒教なるもの」が幅をきかせることになりました。
ここから、仏教が目指す「無差別平等心」「大慈大悲心」「怨親平等観」といった
「円いこころの教えなり」(山田法胤老師)が消滅していくことになりました。
昔から、仏教に「救い」を求めてきた人間は、上下貴賤問わず多かったように
思われますが、現実的な「世俗的欲望」の前で潰えてきたようです。
一方で、仏教界から世俗界へのアプローチの仕方も
工夫していかなくてはならないようです。
ただし、現在の情勢を観察していると、
憲法の「政教分離論」を持ち出すまでもなく、
別な意味で、癒着問題もあるようですが・・・
つくづく、現代日本に行基さんや弘法大師のような社会的勧進僧が
少ないことに、残念な思いで一杯です。
世俗とはまた違った「無縁所」のような「安全地帯」が待望されるところです。
こうした難題を、今後「人類」はどのような道のりで乗り越えていくことが
出来るのでしょうか?
今こそ、「人類」の叡智が試されている時代もありません。
今回は、ここまでとさせて頂きますが「華厳経の教え」は、
生命が軽視されていく現代社会にあって、是非とも多くの方々に
学び取って頂きたいテーマであります。
「学問の本旨は、<心学=道徳・倫理>にあり!!」とは、
江戸時代には、当然の庶民的教養でもあったのですが・・・
後は、「心ある」読者の皆さんに、
今後とも無理のない程度のお力をお借りするしかありません。
是非、皆さんの出来る範囲で、この「華厳経の教え」を
普及させていって頂きたいと願います。
ということで、本書をご一読されることをお薦めさせて頂きます。
なお、「華厳経」については、
「華厳経入門」
(木村清孝著、角川ソフィア文庫、2015年)
※こちらも、かつてNHKラジオ第二放送「宗教の時間」で
講義されたテキストを再構成した「文庫本」です。
『華厳経をよむ』(NHKライブラリー、1997年)を
改題して再出版された本です。
「華厳経入門」
(清水公照著、春秋社、1991年)
※こちらは、東大寺別当、華厳宗管長も務められた「僧侶」の
説法的解読書であります。
エッセー風で、読みやすかったので、学者本が苦手な方には、
お薦めです。
また、「唯識的生き方」については、
『新装版「唯識」という生き方~自分を変える仏教の心理学~』
(横山紘一著、大法輪閣、2014年)
※前にご紹介させて頂いた新書か、この本が、
比較的「唯識論入門書」としては最適のようです。
をご紹介しておきます。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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